はてなキーワード: 新世紀エヴァンゲリオンとは
1990年代後半の日本は、バブル崩壊の影響で日本経済が低迷し、社会全体に暗い影を落とした時期でした。この時期には、失業率の上昇や貧困の増加など、さまざまな社会問題が起こりました。また、地下鉄サリン事件やオウム真理教事件などのテロ事件も発生し、人々の不安感を高めました。
このような社会情勢の中で、アニメやゲームなどのエンターテインメントにも、暗い雰囲気の作品が多く登場しました。たとえば、1995年に放送されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、人類と使徒との戦いを描いた作品で、その暗い世界観が多くの若者の共感を呼びました。また、1997年に発売されたゲーム「ファイナルファンタジーVII」は、環境破壊や戦争などの社会問題をテーマにした作品で、当時の社会情勢を反映した作品として高い評価を得ました。
1990年代後半の「暗さ」は、バブル崩壊の影響によるものですが、それだけではありません。冷戦の終結や阪神・淡路大震災などの大きな出来事も、この時期の社会情勢に影響を与えました。これらの出来事によって、人々は将来への希望を見失い、社会全体に暗い影を落としたのです。
ここでは、1990年代後半の日本社会の暗さを象徴する作品をいくつか挙げてみたいと思います。
これらの作品は、いずれもバブル崩壊後の社会の暗さを反映した作品です。登場人物たちは、失業や貧困、孤独などの問題に直面し、苦悩しています。しかし、これらの作品は、ただ暗いだけではありません。登場人物たちは、困難に立ち向かいながら、希望を見出そうとしています。
1990年代後半の日本社会は、暗い時代でした。しかし、この時代は、人々が希望を見出そうと努力した時代でもありました。これらの作品は、その時代を生きる人々の姿を映し出しています。
・ありがちな男性主人公をケアしてあげる都合よく親身な女性キャラはこの作品にはひとりもでてきません
・『ドラえもん』ではロボットのドラえもんがのび太に秘密道具を与えるばかりでケアをするという要素はあまりない
・自傷的な男を主に女性のケアで救うというのも、いい加減そこから完全に脱却した話にしてもいい
一方で男のケアに次のように断言している。
「『イニシェリン島の精霊』は男同士はケアできないという事実を無慈悲に描いています。」
・女の子たちを題材にした日本のアニメは、表象として理想化がいきすぎなことがままあり、“女の子”化」による消費がおおい。
・AIやロボットのジェンダーバイアスが問題視されておりこの女性差別がことさら酷い日本でも頻繁に批判が起きている
・日本のアニメ界隈の女子高校生依存は早急に大いに反省すべき点
・宮崎駿もふくめて日本の中高年男性クリエイターにありがちな記号的な描写にとどまり、問題意識のアップデートもなされていな
・中国や日本など東アジア圏のアニメ・ゲーム系コンテンツは白人至上主義
・「普通の家族こそあるべき姿である」という、なかなかに保守的な家庭理想論の強化になっている
・『新世紀エヴァンゲリオン』も映画版『進撃の巨人』も正直あまり好きじゃないとのこと
・日本のアニメ文化の問題点を踏まえてもっと自己批判的な要素は入れるべき
・「親は子どもを幸せにできるんだ」といい、保守的な家庭観がこぼれでている
・多様なシルエットを持つ男性キャラと比べて、女性キャラは単調な丸みのデザインばかり
・世間で人気の女性アンドロイド系の作品とそのファン層へのチクリとした居心地悪さを与える
・暗黒の軍団を従属させる元メイドの魔女…ってなんか日本のアニメにありそうな設定盛り盛
・昨今の日本作品は「公安」などを社会治安を守る人間としてカッコよく描く傾向がチラホラ見られる
・「公安」がやたらとかっこよく描かれがちで作り手の無頓着な権力美化がある
・日本だったら「どっちもどっち」「双方とも過激なことはダメだよ~」といういかにも知ったかぶりな中立風情の論調
・中立なんて言ってられない。だからといって今の政権のように増税してまでも防衛費をやたらと増やしまくりたいという姿勢を支持できるわけでもない
・「右も左も関係ない」とか「レッテルを貼られてもいい」とか、そんな聞こえのいい中立的言動を得意げに振りかざしている者はいないか。私もあなたもみんな差別主義者には簡単になれるのですから。
・「自分は中立だ」などという冷笑主義が加わるともう手が付けられない
・地球環境問題に対して否定派の人たちの主軸にあるのは「論破カルチャー」であり、完全な「冷笑主義」
・「リベラル・中立を気取る人」が無意識的にやってしまいがちな「偏見・差別」
・「女性は王子様を見つけて救われる」というシンデレラ・ストーリーの呪い
なぜか無視されがち
「ベスト・アニメ100」は、2017年に日本でアニメが初めて公開されてから100周年を迎えることを記念したNHKの企画「ニッポンアニメ100」の一環として実施。特設サイトで1910~2010年代の約1万作の中から一日3作品(同一作品は無効)投票でき、3月31日に投票を締め切り、約60万票以上が集まった。上位にランクインした作品は、NHK・BSプレミアムで放送される。
1位「TIGER & BUNNY」▽2位「劇場版 TIGER&BUNNY The Rising」▽3位「魔法少女まどか☆マギカ」▽4位「ラブライブ!(第1期)」▽5位「ラブライブ!(第2期)」▽6位「劇場版 TIGER&BUNNY The Beginning」▽7位「コードギアス 反逆のルルーシュ」▽8位「カードキャプターさくら」▽9位「ラブライブ!The School Idol Movie」▽10位「おそ松さん」
11位「銀魂」▽12位「ジョーカー・ゲーム」▽13位「銀河英雄伝説」▽14位「新世紀エヴァンゲリオン」▽15位「コードギアス 反逆のルルーシュR2」▽16位「ご注文はうさぎですか?」▽17位「機動戦士ガンダム」▽18位「デジモンアドベンチャー」▽19位「PSYCHO-PASS サイコパス」▽20位「ソードアート・オンライン」
https://mantan-web.jp/amp/article/20170503dog00m200038000c.html
第1期(2011)の終盤の展開の時点で云々みたいなコメントがあるけど、
NHKの投票企画(2017)ではタイバニがトップなんだよな。つまりこの時期まではまだファンダムが熱を持っていた
1位「TIGER & BUNNY」▽2位「劇場版 TIGER&BUNNY The Rising」▽3位「魔法少女まどか☆マギカ」▽4位「ラブライブ!(第1期)」▽5位「ラブライブ!(第2期)」▽6位「劇場版 TIGER&BUNNY The Beginning」▽7位「コードギアス 反逆のルルーシュ」▽8位「カードキャプターさくら」▽9位「ラブライブ!The School Idol Movie」▽10位「おそ松さん」
11位「銀魂」▽12位「ジョーカー・ゲーム」▽13位「銀河英雄伝説」▽14位「新世紀エヴァンゲリオン」▽15位「コードギアス 反逆のルルーシュR2」▽16位「ご注文はうさぎですか?」▽17位「機動戦士ガンダム」▽18位「デジモンアドベンチャー」▽19位「PSYCHO-PASS サイコパス」▽20位「ソードアート・オンライン」
まず「社会現象になったオリジナルアニメ」が何かを決めよう。Pixerとかの海外の作品は対象外。このあたりは文句なくはいるだろう。
「鉄腕アトム」「魔法使いサリー」「銀河鉄道999」「タッチ」「ちびまる子ちゃん」「セーラームーン」「ポケットモンスター」「鬼滅の刃」などは、社会現象化は文句ないのだが、原作つきのため除いた。で、次点でこのあたりが並ぶ感じか。上であげてないジブリ作品は、これらに匹敵する影響はあったのだが、きりがないので省いた。
追加があれば。
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
本気で選ぶセガサターンミニ収録タイトル予想2022夏 - 分析編2
『BEEP! メガドライブ』の後継誌『セガサターンマガジン』にも読者レースは引き継がれた。採点の出典は『サターンのゲームは世界いちぃぃぃ! サタマガ読者レース全記録』。
メガドラ時代に較べて全体的に採点がインフレ傾向にあることもあってかソフトの数がとにかく多い。
さきごろ第2弾の発売も発表されたメガドライブミニ。メガドラと来たら次はサターンだろうという期待も高まるのは無理からぬこと。
というわけで今回はセガサターンミニが実現すれば入るであろうソフト、入ってほしいソフトをセレクトしてみた。
まず便宜的にセガがパブリッシャーのゲームを20本、セガ以外のゲームの20本とする。メガドラミニよりはややサードパーティーの比率が増えることになる。
さらに以下の縛りを設ける。
『レイアース』はキャラゲーながら、SSの初期において最も評判の良かったRPGのひとつである。キャラゲーも収録できることはメガドラミニで証明されているため、今回のリストに加えた。『ばくばくアニマル』は落ち物パズル枠。サターン互換基板のST-Vで動いていたアーケードからの移植作。『バーチャ2』はSSのローンチタイトルである『バーチャ1』と迷ったが、セガ初の国内ミリオンセラー樹立という記念碑的なタイトルであり、1995年の年末商戦におけるSSのひとときの勝利を牽引した存在でもある。『クロックワークナイト』は既発売の上下分作をまとめたもの。収録されている『クロックワークナイト ~ペパルーチョの大冒険・上巻~』はローンチではないもののハード発売から2週間後に発売されたというハード初期に強い印象を残したタイトル。『ガーディアンヒーローズ』はトレジャー枠。Xbox 360でHD版が配信されたが、プレイできる環境はさほど多くない。『NiGHTS』はソニックチームが開発したSSを代表する新規IP。でもこれ入れるならコントローラーはマルコン必須になるね。『デカスリート』は気楽に遊べるゲーム枠。アーケード版はST-V基板。コンビニ専売だった『MR.BONES』は洋ゲー枠。『ファイターズメガミックス』は移植作ではないSS独自の格闘ゲームということでリストアップ。『デイトナUSA CE』は出来のよろしくなかった無印版とは違い、SS版『セガラリー・チャンピオンシップ』のスタッフが手掛けた再移植+追加要素版。権利関係が問題ない場合『セガラリー』でも良い。『ダイナマイト刑事』はこちらもアーケード版はST-V基板。『ソニックR』はSSでは貴重なソニック枠であり、洋ゲー枠でもある。『AZEL』は既に『ツヴァイ』もリストアップしてるパンツァードラグーンシリーズの一作だが、ジャンルが違うから入れてもいいだろう……と判断。これまで移植もされておらず、サターンミニを出すならまず入るでしょ。『バーニングレンジャー』はソニックチーム開発の3Dアクション。この時期の3Dアクションは正直現在やると相当厳しいと思うが、このタイトルをプレイする手段はSS以外にない。『せがた三四郎 真剣遊戯』はハードのシンボル的存在であるせがた三四郎のゲームであり、また気楽にプレイできるミニゲーム集でもあり、さらにエコール開発という微妙にデス様成分もある。
『ヴァンパイアハンター』はヴァンパイアシリーズの2作目。本作と近い時期にPSでは前作『ヴァンパイア』が移植されたのだが、その出来は散々なものであり、当時SSユーザーはそれらを較べてSSの優位性をこれでもかと誇っていたのだった。『ダークセイバー』はメガドラミニにも収録された『レディストーカー』の精神的続編。『ポリスノーツ』はPSなどでも発売されたタイトルだが、最後に発売されたSS版は追加要素を加えた完全版である。『ネクロノミコン』は、高品質なデジタルピンボールでSSにおいて存在感を見せたKAZeの代表作のひとつ。『エネミー・ゼロ』は『リアルサウンド ~風のリグレット~』と迷った。ゲームとしての評価は分かれるが、飯野賢治は当時のSSユーザー、メディアのとってのアイドルだった。『月下の夜想曲』はPS版より後に発売されたため追加要素が加えられている。『心霊呪殺師 太郎丸』はカルト的な人気があるプレミアソフト。『グルーヴ・オン・ファイト』は豪血寺一族シリーズの中の一作。最近、表現上の理由によりシリーズの復刻が断念されたが、問題(とされる)シリーズキャラは本作には登場していない。ついでにアトラス枠。『バルクスラッシュ』は元テクノソフトのスタッフが手掛ける3D箱庭アクションシューティングでマイナーだがSSユーザーからの評価は高い。『七ツ風の島物語』はエニックスのSS参入第一弾。こだわり抜いた世界観とグラフィックが特徴のアドベンチャーだが、現在までSS以外に遊ぶ手段がない。『グランディア』はPSにも移植されているものの、やはりSSのRPGのと言えばこれだろうことで選出。『ソロ・クライシス』は同じクインテットの『アクトレイザー』のシミュレーションパートを膨らませたようなゲーム。ミニにはこういうマイナーゲーが一つくらい入ると予想。『センチメンタルグラフティ』は発売前に一大旋風を巻き起こした恋愛アドベンチャー。SSの一大勢力だったギャルゲーが不足気味なのでここで補充したい。『リンダキューブ 完全版』はPS版より後発だったおかげで完全版として発売された。『レイディアントシルバーガン』はトレジャーの傑作シューティングだが、実機以外では『ガーディアンヒーローズ』と同じくXBLAでの配信にとどまる。
『街』、『クロス探偵物語』、『カルドセプト』、『ソウルハッカーズ』、『サンダーフォースV』、『シルエットミラージュ』はPS版にバージョンアップ(諸説あり)を含む移植版が発売されたため優先度が大幅に低くなる。
だいたいは権利関係で面倒くさそうなやつ。『セガラリー・チャンピオンシップ』はセガ公式サイトに掲載されているアーケード版のプレイ画像でCastrolロゴにボカシがかけられている。 → https://sega.jp/history/arcade/uploads/2019-01-03_ss01_segarally-1-1.jpg 。でもPS2には移植されてる。
レジ接客中のなんでもないやり取りの中、ふと顔を上げてお客様と目が合ったらお客様がビクッと後ずさったのでこちらもびびった。目力無駄に強くてごめんなさいね……。本部の指導だとお客様の目を見てフレンドリーに接客をということだけど、目を見る時点で全然フレンドリーにならないのが私クオリティなのでは? という疑問が。本当に目を合わせるよりはネクタイの結び目辺りを見るといいともいうが。
この地方に越して来て以来ずっと思ってるのだが、実家とこの辺りはそんなに遠く離れている訳でもないのに、目を見るということに関する文化が違いすぎると思う。全体的な日本人の傾向として、じっと人の目を見て話すことがあまり出来ないというけれど、そんな日本人の中でも私の出身地方の人達は目を合わせる事への耐性が強い方なのかもしれない。
今住んでいる地方に越して来てしばらく、知らない人や顔見知りだが別に親しいってほどではない人から気軽に話しかけて来る辺りは故郷と同じで田舎だなあという感じなのに、相手から話しかけて来たくせに人の目を見ないどころか顔を背けたまま独り言のようにべらべら一方的に捲し立て、自分が言いたいことを言いきると前触れもなく踵を返して去る人ばかりなのが、不思議だった。私と話しているはずなのに、身体ごと真横を向いたまま話す。その癖、嫌みとか暴言はしっかり真正面から見据えて言ってくるので、この地方の人にとっては、目や顔をじっと見て話すということは、よほどの異常事態というか喧嘩を売ってるようなもんなんだろうなと思う。
大昔、『新世紀エヴァンゲリオン』を観た
ら、ミサトとリツコがそれぞれ別の方向へ顔を向けたまま会話をするシーンがあって、この人達器用だなとか本当は仲悪そうだなと思ったが、その私の感想は私の故郷特有の文化習慣のたまものだったりするのだろうか。私の故郷の人達は、例えば身長差のある二人が雨の日に傘をさしつつ横並びで歩きながらしゃべる際など、わざわざ傘を傾げてまで相手の顔を覗き込んで話す。私は背が低い方なので、相手がわざわざ腰を屈めてまで視線の高さをあわせてくれることが多く、でもいつもの事なのでそれに申し訳なさを感じたことがなかった。私は私で、何とも思わずに相手を見上げてしゃべるのだし。
先日は異様に来客数が多くて大変だった。レジを離れる暇もないなんて久しぶりだ。ピークは19時少し前だったので、コロナ禍以前の状態に戻ったのかなと思う。しかし、雨が降っていたにしては多かったような。
お客様がカフェマシンを使っている最中にマシンのアラームが鳴ったので、駆けつけたらマシンの不具合だった。すぐに直せたけど、お客様が、
「だ、大丈夫ですか……?」
とやたらびくびくおどおどしておられる。お客様は自分のマシンの操作が悪かったせいでマシンが壊れたと思ったらしい。私は、メンテナンス不良によるマシンの不具合なのでお客様のせいではないことを説明し、ご迷惑おかけして申し訳ございませんと謝罪。
お客様が淹れていたのはアイスカフェラテだった。アイスカフェラテを淹れる最中にマシンが不具合を起こして停まると、ミルクかコーヒーのどちらかかその両方が出ないなどのトラブルが起こりがちなのだが、お客様がいうにはカフェマシンがおかしくなったのは抽出後だということなので、製品の交換や返金の必要はなかった。
カフェマシンのメンテをたぶん前日の担当者がサボったせいでトラブルが起きたので、いち早くマシンのメンテ作業に入りたい。そんな時ほど沢山の来客があっててんてこ舞いなのだが、そんな時に限って、なんか急ぎでもない風情のお客様に呼び止められる。
「何でもいいから、スポーツドリンクをケースで二つ欲しいんだけど、ケースでも売ってくれる?」
まさかのコンビニでドリンクケース買い希望! 別に、ケースで売る事は差し支えないのだが、お客様的には損しかしないのだけれども。当店では商品のケース買いを想定していないので、ケースのバーコードはレジに登録されていない。ということは、バラの商品の値段×入り数で計算する。これが地味に揉めるポイントで、嫌。
なぜ揉めるのかというと、ケース売りの場合、レジで商品をスキャンする際にケース表面のバーコードをスキャンすることが出来ない(レジに商品のケースのバーコードが登録されていないからだ。ホムセンやスーパーだとケース売りに対応しているため、ケースのバーコードをレジで読み取ることができる)ので、売り場からそれと同じ商品を持って来てスキャンし、ケースの入り数を掛けて代金を請求する。もしも売り場にバラの商品がなかったら、お客様に断りを入れてケースを開封して中から一つ取り出してスキャンし、入り数を掛ける。
この時、お客様の中には、売り場から持って来てスキャンした商品も貰えると思って持ち帰ろうとしたり、ケースを開封されるのはどうしても嫌だと言う人がいるので、揉めるという訳だ。ケースで買っても値引きがないことを知って、こんなに買ったんだからサービスしろと言って譲らない人もいる(そんな人がよく、スキャンするのに使った単品の商品を寄越せと言ったり無理矢理持って帰ろうとする)。
内心、面倒な客が来ちゃったなと思いつつ、ホムセンやスーパーがまだ閉店していない時間帯にあえてコンビニでドリンクをケース買いしようとする奴にろくな人間はいないので、大人しくウォークイン冷蔵庫の中に在庫を探しに行った。庫内を見ると、こんな時に限ってポカリは在庫がなく、アクエリは在庫はあったが、何故か1ケースぶん以上もストック棚にバラで押し込められている。売り場側に陳列されているのを足しても2ケースには届かなさそうだ。
それをお客様に説明したところ、お客様はどうしても今スポドリを2ケース必要なのだという。
「人数分欲しいから2ケースでないとダメ。……で、1ケース何本入ってるんだっけ?」
「24本です」
「じゃあやっぱり2ケース要るな。でもバラじゃあ全部いちいち袋に入れて持って歩かないといけないんだろ? それは嫌だな。やっぱり箱に入ってなきゃ」
するとお客様は、ふとレジ前に置かれていたアクエリのかというと、900mlボトルのケースに目を留めた。
「これは売ってくれないのかい?」
それももちろん売り物だが冷えてはいない。しかも、レジ前に置かれてはいても、値引き商品ではない。
「売れますが、サイズが違いますのでケースの入り数が少ないです」
と答えたところ、お客様はそれでいいと言った。大サイズのアクエリをの入り数を数えたら、12本だったか……。2ケースでもお客様の希望の本数には全然届かない。だが、
「じゃあこれでいいや。これ2ケースちょうだい。上のは段ボールの蓋開いてるから、下の二つもらうね」
いいんだ!? まあお客様がいいって言うんだからいいかと思って、2ケース売った。
ピークがまだ過ぎない頃、カフェラテを淹れた直後にマシンがエラー停止したことに怯えていたお客さまが来店。
「実は、普通のコーヒーを買ったのに間違えてカフェラテを淹れてしまい、それでマシンが壊れたのかと思って……」
とお客様は震え声で言った。差額を払わせてくれという。忙しいさなかだったので、こちらもマシンの不具合でお客様にご迷惑をおかけしたので、今回は差額は結構ですと自己判断で断ろうとしたのだけど、是非とも払わせてくれというので、払っていただいた。
ピークを過ぎたあと、品出しをしていたら、レジを担当していたAさんがフロアに出て来て床掃除を始めた。何があったんだか気になったが、こちらはこちらで品出し作業が押しているので、聞いている場合じゃない。
後でAさんに聞いたところ、お客様が冷酒の瓶を落として割り、お酒があちこちにぶちまけられたという。
あちこちとは。
お客様は来店した時点で泥酔しておられたらしく、つまみと冷酒を買って精算後にレジの前で冷酒をレジ袋ごと落とした。酒瓶が落ちた時、パリンじゃなくてグシャッという完全に逝った音がしたという。お客様は袋を取り上げると、
「これどうしたらいいっすかね! どうしたらいいっすかね!」
と言いながら、振り回し始めた。Aさんがその時のお客様の様子をふりつきで説明してくれたのだが、
「バシャバシャと酒が漏れているというより溢れてる状態でですよ、どうしたらいいっすかね! って言いながらこう、じょうろで水を撒くかのようにしながらですね」
「待ってそれ。『あつ森』の金のジョウロじゃん。お花9マス潤いますね」
「ええ、お花9マス潤いますよ。だから俺、『それもうそこ置いて帰っていいですよ』って言いました。したら奴は袋を床に投げ捨てて、酒のつまみだけしっかり手に握りしめたまま、ウォークインまで行って新たに冷酒を一本持って来やがりましたよ」
とのことだった。
おはようございます。小学生の頃に公園の隅で野ションしているおばさんを見てしまい怖くて泣いたことがありますが、最近は金払って見ることもある者です。
山岡士郎って強いですよね。
以下、あらゆる創作物に介入する山岡士郎です。怪獣8号は読んでません。サイボーグ008はピュンマです。
煮込みしかないクジラ屋を鯨料理の店だと思うジェフを山岡士郎が振る舞う鯨料理で叩きのめす。
パチンコ、あやなみが山岡士郎の振る舞うポカポカした食事で可愛くなる。
アストラギウス銀河を二分するギルガメスとバララントの陣営は互いに軍を形成し、
もはや開戦の理由など誰もわからなくなった銀河規模の戦争を100年間継続していた。
その“百年戦争”の末期、ギルガメス軍の一兵士だった主人公「キリコ・キュービィー」は、味方の基地を強襲するという不可解な作戦に参加させられる。
作戦中、キリコは「素体」と呼ばれるギルガメス軍最高機密を目にしたため軍から追われる身となり、町から町へ、星から星へと幾多の「戦場」を放浪する。
その逃走と戦いの中で、陰謀の闇を突きとめ、やがては自身の出生に関わる更なる謎の核心に迫っていく。
山岡士郎が振る舞う百合根料理で僕の飾らない心で飾らない私では楽しくて嬉しくてでもまだ足りません。(ここ素敵ななにかの歌詞ではと思ったブックマーカー諸君は黙って笹森花梨の好きなシーンをブコメしよう。僕はるー子ルートの花梨です)
追記:
wikipediaだと参考になる画像がなくてだるいので以下でやる
https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=10978
例
作品名(2020冬) | 美少女 | 美男子 |
---|---|---|
異種族レビュアーズ | 〇 | |
異世界かるてっと2 | 〇 | 〇 |
痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。 | 〇 | |
ID:INVADED イド:インヴェイデッド | 〇 | 〇 |
インフィニット・デンドログラム | 〇 | 〇 |
うちタマ?! ~うちのタマ知りませんか?~ | 〇 | 〇 |
映像研には手を出すな! | ||
ARP Backstage Pass | 〇 | |
A3! SEASON SPRING & SUMMER | 〇 | |
おーばーふろぉ | 〇 | |
推しが武道館いってくれたら死ぬ | 〇 | |
織田シナモン信長 | ||
虚構推理 | 〇 | |
空挺ドラゴンズ | ||
ケンガンアシュラ | ||
恋する小惑星 | 〇 | |
斉木楠雄のΨ難 Ψ始動編 | ||
地縛少年花子くん | 〇 | |
SHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!! | 〇 | |
新世紀エヴァンゲリオン | 〇 | 〇 |
7SEEDS | ||
ソマリと森の神様 | 〇 | |
ダーウィンズゲーム | 〇 | 〇 |
とある科学の超電磁砲T | 〇 | |
ドロヘドロ | 〇 | |
なつなぐ! | 〇 | |
22/7 | 〇 | |
number24 | 〇 | |
ネコぱら | 〇 | |
ハイキュー!! TO THE TOP | 〇 | |
はてな☆イリュージョン | 〇 | |
BanG Dream! 3rd Season | 〇 | |
ヒーリングっど♥プリキュア | ||
プランダラ | 〇 | 〇 |
ブレーカーズ | ||
pet | 〇 | |
へやキャン△ | 〇 | |
へんたつ | 〇 | |
宝石商リチャード氏の謎鑑定 | 〇 | |
ぼくのとなりに暗黒破壊神がいます。 | 〇 | |
マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 | 〇 | |
魔術士オーフェンはぐれ旅 | 〇 | 〇 |
群れなせ!シートン学園 | 〇 | |
八十亀ちゃんかんさつにっき 2さつめ | 〇 | |
妖怪ウォッチJam 妖怪学園Y ~Nとの遭遇~ | ||
ランウェイで笑って | 〇 | 〇 |
理系が恋に落ちたので証明してみた。 | 〇 | 〇 |
りばあす | 〇 | |
美少女率 | 美男子率 | |
割合 | 61% | 38% |
十数年前と比べたら深夜アニメの割合がだいぶ増えたしこんなもんじゃないかね
4月、10月開始の子供向けアニメとかもあるだろうからそれを考えるともう少し減るとおもうし
ここ最近の通年で考えると大きく差は開かないと思う。
適応障害と診断され、回復するまでに取った行動や参考になった本、動画などを紹介していく。
周囲との接し方なども書いていくので、自分自身が今病気で悩んでいる人、身近な人が病気になってしまった場合の参考になると嬉しい。
あくまで個人の体験、感想であり、全ての人に効果を保証するものではない。
とにかく無理をすること、やりたくないことをやることは徹底的に避けて、療養に専念するのが良いと思う。
身近な人が適応障害になってしまった時の言動についてまとめる。
じゃあどうすればいいんだと思われると思うので、自分がしてもらって嬉しかったことをまとめる。
長々書いてしまったが以上。
パチンコ:175.9万台
パチスロ:54.4万台
合計:230.3万台
仮に1台1万円だと230億円、5000円だと115億円の収入
新世紀エヴァンゲリオン | 2005年9月 | (2.3万台) |
新世紀エヴァンゲリオン まごころを、君に | 2007年7月 | (9.9万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 約束の時 | 2008年9月 | (9.0万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 魂の軌跡 | 2010年3月 | (8.4万台) |
ヱヴァンゲリヲン 真実の翼 | 2011年3月 | (7.7万台) |
ヱヴァンゲリヲン 生命の鼓動 | 2012年2月 | (4.6万台) |
EVANGELION | 2013年2月 | (5.7万台) |
ヱヴァンゲリヲン 決意の刻 | 2014年2月 | (1.3万台) |
ヱヴァンゲリヲン 希望の槍 | 2015年6月 | (2.6万台) |
ヱヴァンゲリヲン 魂を繋ぐもの | 2015年12月 | (1.5万台) |
ヱヴァンゲリヲン 勝利への願い | 2017年2月 | - |
新世紀エヴァンゲリオン ~まごころを、君に~2 | 2018年2月 | - |
EVANGELION 30ΦMODEL | 2018年1月 | - |
パチスロ ヱヴァンゲリヲン AT777 | 2019年2月 | (1.4万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 暴走400 | 2019年3月 | - |
エヴァンゲリオン フェスティバル | 2020年3月 | - |
※フィールズ株式会社の財務・企業関連データ 2021年3月期 第1四半期
https://www.fields.biz/ir/j/files/press/2020/press_20200806d.pdf
氷山に気づいて避けようとするあたり
少なくとも30代より上の人は自覚を持とう
今の若い人たち、新劇場版はめちゃめちゃみてるけど、新世紀エヴァンゲリオン見てないって人、普通にいる
新劇場版だけで、キャラ愛やストーリーや世界設定や映像技術を読み解いて、それで熱狂してる
シンエヴァ自体も、そういうふうに旧作との切断が可能なように表現されてたでしょ?(そうじゃなかっただろと思うおじさん、画面や台詞の読み込みと咀嚼が足りてないか、思い出バイアスが強すぎるぞ)
そういう若い人たちの解釈が的を外しているかというと全然そんなことなくて、むしろ旧作のイメージに引きずられてない分、まっすぐ新劇場版の物語や設定や映像技術に向き合えてるのよ
もちろん映画としてよかった部分も悪かった部分のどちらもについてね
若い人との交流がないと、このアニメを見てるのは自分たちだけで、懐かしアニメの新作という文脈で語りがちなのはわかる
でも新劇場版のメインのファン層ってぶっちゃけもう移ってて、おじさんたちはなんか文脈の外の情報を変に接続して的を外したこと言ってんな〜っていうのが新劇場版まわりの状況なんよ
おじさん語り自体は別に悪いことじゃないと思うので、現状をしっかり把握したうえで自覚的にやってほしい
おじさんたちに届け〜