はてなキーワード: ダビとは
というよりか、学歴も職歴も資格も、手に職もないままに、年齢だけ重ねてしまった、社会不適合者の虚無感が、マジでやば過ぎて恐ろしい。
この僕にしても、ちょっと油断しただけで、虹の橋が見えてきて、生きた心地がしなくなる。
だからこそ最近は、自宅でひとりきりの時も、シャドーボクシングならぬ、シャドートーキングとして、目の前にドッペルゲンガーの僕がいると想定し、ひっきりなしに喋るようにしている。
もしくは、僕の作業部屋――、後ろでいつも見守ってくれている、グッドガイ人形のチャッキーに、「おめめパッチリで可愛いな」「おまえのクレイジーさを見習うぜ」などと話し掛けて、心を上向かせてゆく。
要するに、『セルフトーク(心の声)』の狂気版であり、なるべくアホでポジティブな話題を、たった1人の時にもばら撒いて、頭を前向きにバグらせる……という寸法。
ではなぜ、これらの事を全力でやるのかと言えば、いつだって鬱々しさのスタートは、『自分の視線が脳に向かう感覚』『意識が内側に閉じこもる感覚』から始まるゆえ、思いつきの言葉を物理世界に投げ込むことで、悩ましさから脱出するのだ。
それだけじゃなく、なるべく貧乏揺すりをしたり、部屋の中でも歩き回ったり、横になる時間を減らしたりして、自動的な思考を止めるようにしている。
正直な話、なんの安定感もない暮らしの為、横断歩道を渡っているとき、4トントラックで跳ねられたくなったり、交番の前を通っているとき、発狂した警察官に射殺されたくなったりと、「そろそろ魂を休ませたいな」と、しょっちゅう願ってしまう。
これってのは、鬱症状だとか、考え過ぎだとか、そうした個人の問題ではなく、社会病理――是正されない格差の問題だ。
たとえばアメリカでは、学歴の格差、経済の格差により、尊敬されたり、感謝されたり、愛し愛されたりする機会を損失し、やり甲斐をなくして不健康になり、そのままぶっ倒れてしまう事を、『絶望死』と呼んでいるらしい。
よくよく思い返してみれば、そんな別大陸の話をせずとも、僕たちが住む日本――『氷河期世代』以降の人々はとくに、薄給の非正規がゴロゴロといて、ストレスだらけで暴飲暴食し、孤独な日々で自暴自棄になり、身も心もズタボロであるから、「続々と早死にするのではないか?」と言われている。
稼ぎを得る体力/知力/精神力も……技術も人脈も資金力もないとなれば、年々、生命力が衰えるごとに、より不安定で貧窮した暮らしになりやすい。
こうした現実を直視すると、「不幸のどん底に堕ちる前に、若年性のぴんぴんころりで、さくっと全てが終わったら良いな」と、巨大なる虚無感に襲われる。
だからこそ、頭のネジを外して問題を起こしまくるか、死んだ魚の目でぼけ~っと過ごすか……そうやって自分の心を守る為に、極端に生きがちになる。
よく世間では、『中庸こそが幸せの秘訣』と叫ばれる――「何かに偏らずに、真ん中の道をゆっくりと進もう!」という教えだが、そんな悠長な事は言っていられない。
統計的に見ても、経済的に困窮した弱者は、健康を害しやすく、孤独を来しやすく、早死にしやすいからだ。
――そうは言いながらも、闇雲に生き急いでしまうと、ちっちゃなミスを連発し、コツコツと修行できなくなり、周囲の人間をないがしろにし……などなど、より一層、ピンチを招きやすくなる。
だからこそ僕は、カオス型の幸福論――『矛盾を愛する、混沌を愛する、狂気を愛する』、そんな姿勢を磨き上げて、ぐちゃぐちゃな日々に突入しても、それを全てネタにして物を書き、腹の底から喚き散らして、己が生きている全時間を、無条件で肯定してゆきたい。
ちなみに、僕がハマっているお笑い芸人、ヘッドライトの町田(50歳/男性/独身)は、寝る間を惜しんで、バラエティ番組を片っ端から録画し、DVDの整理整頓をし続けている。
しかも、バイトとダビング作業で忙しいゆえ、録るだけ録っておきながら、ろくに視聴していないらしい。
もはや録画の為の録画であり、ただの惰性というか、「きっと将来に役立つんだ」「大事な物なんだ」と固く信じて、心の安定を得る為の、儀式みたいなモンなのだろう。
こうやって頭をバカにせねば、売れていない現状で目が痛い……
年齢的な厳しさ――など、
現在劇場公開中のガンダムSEEDFREEDOMを当時土6にテレビに張り付いていた人達にこそ見て欲しい。
何故なら心が若返るからだ。
不満な点はいっぱいあるし、ストーリーも他の人が言うほど最高!とは思っていない。
カガリの声優交代やキャラデザに対する不満の声を聞き「見終わった後、こんなのだったら映画なんて作ってくれない方が良かったと思ったらどうしよう……」と楽しみよりも不安を抱え劇場に行った。
そして上映中はただただひたすらに懐かしかった。
そして思い出した。
制服を着ていたあの頃を……
学校の廊下でキラ派の私とシン派の友人でケンカしてたあの頃を……
リアタイ視聴後に二つ折り携帯でメールの文字数が足りず二通三通と分割して長文メールを送りあっていたあの頃を……
ガンダムシリーズは再放送も多いし、DVDもある。今時サブスク配信でいくらでも見れる。
だけどそれらの方法で過去作を視聴した時には得られなかった何かが劇場にはあった。
消えこそしていないが、酷く弱々しく、今にも儚く消えてしまいそうだった「ガンダムSEEDが好き」という心の火に薪をくべられた。
呪怨とか、何か気味の悪い人が立ってるとか、バーン!とショックを与えるような映像に頼ってる作品は、
小説のホラーの怖いやつって、よくよく考えると怖いというか、視覚に頼らない、考えると怖い恐怖であって、
視覚、映像頼みの恐怖は小説では表現しづらいというか、相性悪いよなぁと思ったり
リングも貞子の存在とか生い立ち、ラヴクラフトのダンウィッチの怪とかローズマリーの赤ちゃんとか、
神との間に生まれたイエスではなくて、邪神とか悪魔との間に生まれた子供なんじゃないか?みたいな考えもよぎるし、
ビデオをダビングしただの他人に見せただの云々も、どっちかというと知的な恐怖であって、
もちろん、映画化したことで、ホラー小説はより説得性を増すと思うのだけど、
ホラーに限らず、そもそも小説というのは読者の創造にかなり頼っているところがあるわけで、
それを補助するために挿絵なんてものがあったりするわけだけど、
そっちの方面は、掲示板(個人サイト)、ブログ、SNSと流れていく
ブログなら相互リンクから一歩進んで、互いに言及し合うことで客を融通しあって繋がってた
それまでは「ポータルサイト」とかのお世話になることになる
相互リンクからサイトを辿って、掲示板で挨拶から入って、即売会で訪問してオフ会ってな感じ
結構狭い世界だったけど、それまでの雑誌の読者コーナーとかで繋がるよりかは遥かに広くて
mixi発足当時は、招待制により荒れない場として注目され、ログインできることがステータスの時期もあったりした
コンテンツとしての充実は、ネット回線の拡幅とサーバー容量の増大を待つ必要があった
それまではテキストサイトが主流で
Pとか提督とかではなく、普通にボクが話をするってパターンが多かった
思い出すとベッドを転がりたい御仁も多かろう
正直、あの当時のログとか残ってなくて本当に良かったと思う
テキストサイトの延長という訳では無いが
ケータイ小説などで一時期注目もされた
スマホじゃなくケータイでよく書いたよなって今にすると思うけど
インターネットの話をする時に、imodeのことはスコーンって抜ける人いるよね
携帯(imode)で活動してる人と、PCで活動してる人のインターネット観は全然別物なんじゃなかろかって思うんだよな
私はあんまし携帯で活動してないからモバゲタウンとかの内情をしらないんだよね
毛色の違うところでは
番頭ビデオとか、アレ間違いなく中の人の仕業だよなって思う編集だけど
デジタルでないアナログでよくぞあそこまでって出来だったよ(当時は)
ツールがデジタル化されて、ニコニコとかで気楽に(違法)コンテンツがやり取りされるようになって
そこからだよね
ボカロによって、それまでmidi文化に閉じこもっていた音楽界隈が表に出てきて
動画制作が楽になってMAD職人が特別な機材なしに誕生できるようになった
これらは、マネタイズがどうとかそういうことじゃなくて
それは元増田がうだうだ並べてるようなことじゃなくて
単に「新規性がなくなった」だけの話よね
上記の条件のうち、いくつかを満たしているものを作家ごとに紹介する。
作品のオチには触れないつもりだが、途中に何が出てくるかとかそういったレベルでは作品の内容に触れる。
思い入れが多い。ただ、近年のイーガンの長編は自然科学の素養が無いと何を言っているかまったくわからない作品が多いので(高校どころかひどいのになると大学院レベル)、短篇集から入るのがオススメ。人類の寿命が実質無限大なので、天文観測のために2人きりで宇宙に出て平気で数万年かけて工事するなんてエピソードもあったりするんだけど、わかりやすい宇宙人ヤバい系だったら「ワンの絨毯」かな。この長編版の「ディアスポラ」は未読。イーガン大好きなんだけど、たまに作者の顔がちょっと透けちゃう。
「火星の人」はなぜか「オデッセイ」の邦題で公開された映画の原作で、火星にたった一人取り残された男が持ち前のオプティミズムで生き延びていく話だ。不足する酸素を作り出し、糞便からジャガイモを育て、何とか地球とコンタクトを取り、必死で地球への帰還を目指す。コンタクトを取れた瞬間に希望が開けていく様子が素晴らしい。
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、基本的にネタバレなしで読んでほしい。冒頭は記憶喪失の人物が意識を取り戻したところから始まり、振り子の周期から重力加速度を割り出すことで自分は地球にいないことを悟る。そして、ご地球外のミッションに送り出された理由を思い出す(ブクマの指摘でネタバレ削除)。
仲間の二人が死んでミイラ化しているという絶望的な状況からスタート。この作品も、サイエンスに対する信頼が読んでいて楽しい。
近未来、スーパープルームで海面上昇と地殻変動が起こり、人口が減少した世界。日本列島もさらに小さな島嶼の群れになっている。この世界には現生人類に似た陸の民と、魚のような生き物と双子として生まれ、その魚を肉親・パートナーとして暮らす海の民がいる。短編も長編もあり、海の民と交渉する陸の民の物語もあれば、やがて次の訪れるであろう、人類滅亡クラスのさらに大きなスーパープルームから人類を何とか生き残らせようと健闘する人びとが主役の話もある。なんとか宇宙に進出するとか、人類を海に適応した海生生物にしてしまうとか、核融合炉で地下都市を建設するとか、その絶望的で悲痛な努力が胸を打つ。作品によっては「異形コレクション」にも収められている。ある意味では「日本沈没」の精神的な続編でもある。
「最後の宇宙飛行士」は後述の「宇宙のランデブー」にプロットが似ていて、太陽系に未知の物体が侵入してくるんだけど、オウムアムアの正体に対する考察にもなっていて面白い。また、主役がどうしても宇宙に出たいんだけど、ミスで同僚を死なせてしまったがゆえに長らく宇宙とは無縁の生活を強いられているところからスタートする。挫折したヒーロー、いい意味で映画的で、リーダビリティが高い。ややホラー寄り。
古典のはずなんだけど児童書をのぞいて意外と読めていないなって作家。なんだけど、自分は「タイム・マシン」という小説で「複数の種に分岐してしまう人類」「知性を失った人類の子孫」「太陽が死んで滅亡に瀕する地球」という趣味を開花させてしまった。そういう意味では自分の読書傾向に決定的な影響を与えたと言っていい。
言語や数学をモチーフにした幾分難解な作品が多いのだが、最初の作品の1つである「Self Reference Engine」は少し肩の力を抜いて読める。舞台は現実改変能力を手に入れてしまったAIの発生により、無数のパラレルワールドに分裂してしまった宇宙で、AI同士が互いの存在を物理法則もろとも演算して書き換えようと争っている。壮大な世界観だが、22の断章の中ではシリアスありユーモアあり小噺あり抒情的短編ありと、何でもありだ。とにかく翻弄される人類がおかしい。
この人は「天冥の標」で有名なんだけど、長すぎるし自分も未読だ。「老ヴォールの惑星」とか「フリーランチの時代」とか、短篇集も面白いのが多くて、特に「老ヴォールの惑星」はエイリアンの生態ものでは特に面白かった。上記の条件を満たす作品じゃないけど好き。
この人はどちらかと言えば「筺底のエルピス」で有名かもしれないけど、僕が好きなのは短編の連作集「What We Want」「平林君と魚の裔」「止まり木の暖簾」だ。これは銀河系が巨大な通商連盟に支配されているという設定で、アメリカは大統領の契約違反で国民ごとエイリアンに売り飛ばされている。主人公は必死になって地球に帰還した関西弁の日系アメリカ人。特に面白かったのが2作目の「平林君と魚の裔」で、この通商連盟の究極の目的が明らかになる。
問題なのは、この短篇集があちこちのアンソロジーでバラバラに収録されていることかな。せっかくなのでそれぞれ購入したうえで他の作品も読んで、お気に入りの作家を増やしてほしい。僕も河出書房の「NOVA」とか東京創元社の年間傑作選とかでお気に入りの日本人作家を増やした。後者は新人賞作品も載ってるしお得だよ。
「幼年期の終わり」については一度ここに書いたけど、人間が進化していって人間の形を失っていく未来が好きだ。それでも残る人間らしさとは何だろうか。共感だろうか、知識だろうか、はたまた血縁だろうか。
「2001年宇宙の旅」はキューブリックの映画で有名で、「ツァラトゥストラかく語りき」のパロディが笑えるほど量産されているんだけど、これもまた人類の進化を扱った作品なのでオススメというか、進化ものでは避けて通れない作品。悪役である人工知能HAL9000がなぜ狂ったのかは「2010年」で明かされるんだけど、理由がわかるとちょっとかわいそうになる。「3001年」は「ぼくのかんがえた最強の未来社会」っぽくてそういう楽しみがある。
あえて注意することとしたら、解説で紹介されているキューブリックの映画に関するブラッドベリとクラークの発言に現代の価値観では不穏当な個所があることかな。
あとは「宇宙のランデブー」。太陽系に侵入してきた物体を探査するという一直線のプロットなんだけど、とかく未知のものに触れる驚きがいい。人物描写が浅いと批判されるのもわかるんだけど、人類が訳の分からないものに触れて戸惑うのが好きなんだからしょうがない。
意外とクラークを読んでいないことに気づく。
「果てしなき流れの果に」については前に書いたね。基本的の小松左京の作品の傾向は宇宙と人類と日本人の運命がテーマらしいので、「三体」が好きだった相性がよさそう。実は残念ながら長篇は「日本沈没」しか読めていない。と言うか三体は宇宙と人類と中国人の運命がテーマだよね。
やっぱり当時からは聴いてなかった人か
…レコード盤って以外と脆くてな、例えば再生している音響機器の近くで飛んだり跳ねたりしただけで物理的に飛び上がった針先が盤面に着地する際に傷を刻んでしまう、そうなるとそこはもう二度と再生できない(針先が接触できないからトレースしない)
そんな程度にデリケートな再生方式なんで、ゴミやホコリが乗ってても撥ね飛ばすなんてことはなくて、パチッとかの雑音がするのよ、だからそれが嫌なひとは盤を腫れ物レベルで大事に扱ったし、丁寧にホコリやゴミを取ってから再生してた
あとはLPレコードの前世代の盤の材質が違うSPレコードっていうのもあって、これは単に保存してるだけでも割れる!という非常に脆いメディアで、それの扱いからの伝統もあっただろうし
そうそれから、ミニコンポの、CD登場直前から直後の時代になると、やっぱり取り扱いが面倒なのでレコードは買ってすぐの盤面がキレイなうちにカセットテープにダビング(とは言わなかったが)して、普段使いはラジカセやウォークマンで聴く、というのも流行った、もちろんカセットテープでも同じタイトルを販売してたけど、メディアの材質自体はテープよりもレコード盤のほうが劣化しづらいので、なんとなくテープのほうが販売ソフトとしては音質や格も下のイメージだった、CD?アレの当初のハードとソフトの価格がどんだけバカ高かったか、説明してもわかんねーだろーなー…
とにかく、セコセコ丁寧にクリーニングする理由は十分にあった、という話やで(ちな実際の効果は当時の市販品と知識ではほぼ意味無かったです)
ワイは書字障害/書字表出障害があって、母国語ですらギリだけど、特別に困ったことは無いで。それはPCであらゆることを行う時代に生まれたからやね
(増田だって、みんな手書きで書いちゃいないし、書けない漢字も使ってるでしょ)
強いて言えば、学生時代はノートを取ること・提出することを放棄していて、ワイはめっちゃ顰蹙を買ってたで
ワイの時代にはノートを取って提出しないと、3の評価をつけるアレな教師とかもおったので内申死んでたで
もし、子どもが、書くスピードが極端に遅くて、ノートを取れていないなら、黒板の写真を撮ったり、PCやタブレットを使ってノートを取ることを学校に申請してあげると良いかもね
ワイは、外資にいた(いる)・グローバル対応するのに全然出来んやで。音とスペルが違うからぜんぜん単語が覚えられん
基本的に仕事では下々の者は話すことよりも書くことが主だし、学校でも英語でレポートを書かないといけないこともある
だから、書字障害/書字表出障害用の英語(特に単語)の対策をしてあげると仕事や学校でだいぶ楽になると思うで
英語に対応できる人がいない時はDeepLに頼って返答するけど、やっぱ片言だと伝わるか双方で不安になる
それにいくらネイティブじゃないと言っても限度はあると思う(無能なのに日本人ってだけで何カ国もできる通貨の弱い国の人よりも給与を貰ってすまンゴ)
あと、今時の若者はみんな英語ができるので、どんな仕事に就こうとも、マジで英語は必須。ワイもいつまで仕事あるのやらって思うし、
ここでいう言語化能力は、ライティングの技術ではなく、モヤっとした抽象的な感情や思いを不恰好でも自分の言葉で表現すること
自分が何を考えていて、何に困っていて、具体的にどんな助けが必要なのか?それを不恰好でもいいから、言葉で相手に伝えることができるようになることが、
自分の困りごとを言葉で表現できないと、調べ物もできないし、誰か(行政/医者/身近な人)に助けを求めることもできないんだね
これは運に恵まれていないと致命傷になるかもよ
とりあえず、言葉で感情や考えを表現するには、ある程度の単語力は必要そう。視聴覚障害者は単語を覚えることが難しく、それに伴って言語化が得意でないケースがあるので
ただ、この能力はライティング技術や話術とは別個のスキルなので、読書家である必要はない(例えば、出光の創業者は弱視で本を読まなかったそうだし)
あと、なにより重要なことは、専門家である言語聴覚士などに相談することだよね(専門家に相談する選択肢が元増田ない時点で雑釣りなんだね)
美術系の大学に通ってるんだけど、サブカル系の講義で諸星大二郎が絶賛されていた。世界的評価が高く、今の漫画やアニメに多大な影響を与えていると。
名前も聞いたことがなかったので、大学の友達と一緒に『マッドメン』やら『暗黒神話』やら『妖怪ハンター』やら読んでみた。
オカルトや文化人類学、SF要素があって、内容的には面白そうというか、好きなタイプの話だ。五十嵐大介は好きだし、文化人類学の書籍を趣味で読んだりもするし。
でも、なんか乗れない。
読み進めていくほどの力が感じられない。
自分がわからないだけかと思って、他の友達にも聞いてみたが、皆いまいちな反応。
アイデアが面白い話はあるけれど、それを活かしきれてないというか…。
こういうこと言ったら失礼かもしれないけど、諸星大二郎って絵があまり上手くない。昔はこれぐらいの漫画家が標準だったのかもしれないけど、今、巨匠という意識で読むにはちょっとしんどい。線が多くて、悪夢性というか独特な凄みはあるんだけど、リーダビリティが低くて、読んでて疲れてしまう。先へ進んでいけない。
絵の密度が高くても水木しげるは圧倒的に上手いと思うし、上手くなくても手塚治虫はリーダビリティが非常に高いと思う。重厚長大な火の鳥とかでも、どんどん読み進めていけるし。
ストーリーテリングの部分でも、あまり上手いとは言えないというか、昔の漫画家でももっと上手い人たくさんいるのでは…?と思う。
描かれるイメージも、シュルレアリスムのアウトサイダーによる再生産(車輪の再発明的な?)みたいに感じてしまうし。
諸星大二郎、宮崎駿とか庵野秀明とか大御所が影響を受けた超大御所って感じなのに、何がいいのかわからなくて辛い。自分に才能がなくて分からないんじゃないかという不安がぬぐえない。
こういうのって、結構辛くないですか。
読みました。
こちらは1読者の素人なので、何か意見するのもおこがましいと思うんだけど、何万分の1のただの感想として聞き流してください。
そこに全く不満はないです。
毎日欠かさず開いているジャンプラにこのマンガが連載されていれば、必ず欠かさず読んだことでしょう。
他の方の感想も、大体が面白いと言っているので、そこに自信は持って欲しいです。
やはり大富豪じゃないので、よほど欲しくないと買えないのです。
ごめんなさい。
じゃあなぜ買いたいと思わないのか?となると、ふたつ理由を感じている。
ひとつは継続的に読みたいと思わせる謎、伏線、というか、読者を引き込む流れがない。
現代人の我々は動脈と静脈の違いは知っているし、きれいな切断面の腕は上手く縫合すれば繋がることを知っている。
ブラックジャックみたいな、詳細な医学的知識がなければ謎やストーリーを見通せないマンガであれば、先がどうなるのかわからないから気になるんだけど、
でも今回描かれている範囲では、その治療法が正しくないことも、腕がつながることも、ダビンチが万能の天才であることも、我々は知っている。
史実というのは推理ものの犯人やトリックみたいなもので、知らない人なら楽しめても知っていると楽しめないことがある。
でも本当に上質なものなら犯人を知ってても何回でも読めるわけだし、シンプルに全体の質を上げれば克服できる可能性はあると思う。
変に無駄な謎と伏線だけで引っ張ろうとするとキムタクの教場のドラマみたいになっちゃうもんなあ。
回ごとではなく、マンガ通してのゴール設定みたいなのがあればその辺は少しクリアされる?
コナンも黒ずくめが出てきた回が面白く感じるのは、通してのストーリーラインが動くのを感じるからだよね。
そういうのを早めに提示されていれば良かったのかも。
もうひとつは、ワクワクするような魅力のあるキャラがいないこと。
単行本てファングッズでもあるので、それを持ちたいと思わせるだけの魅力的な絵がないといけない気がする。
絵そのものの上手い下手ということではなく、なんというか、性的な魅力なんだよ。
性的な絵というわけでもなくて、なんだろう、難しいな。
あかね噺のあかねは性的に描かれてはいないけど、ああいう快活なキャラクターは異性として好きという気持ちが芽生える。
アウターゾーンも決して絵が上手い漫画ではないけど、それでもあれは持っておきたいと思わせる魅力があった。
それはやはりミザリィのエロさではなく、登場する女の子がちょいちょい可愛いんだよね。
女性が読めばこの漫画のキャラにも魅力を感じてくれるかもしれないけど、男なので、本を持ちたいと思わせる魅力を感じはしなかったのが正直なところです。
たぶん「チェーザレ」が好きで「チ」に影響された。あるいは「チ」っぽいのを作れと編集に言われたのか、とりあえず似てると思う。
それは悪いことじゃないんだけど、チェーザレとチという最高の教材があるのにそれをちゃんと参考にできていない。
2話まで読んで思うのは話がのっぺりしてるということ。
まずトトがなんで物凄い人を救いたくて人体のことを知りたいのか?という動機がない。
苦しんでる人を助けたいというのは分かるが虐められて親から罵倒されてそれでもやりたい!というエピソードがないから読んでて??となる。
あとのっぺりしてる理由はダビンチが動かないからだと思う。作中でダビンチはトトに「語る」だけで何もしていない。
例えば、腕をつなぎ合わせる場面でダビンチの見せ場を作ってそこでトトに「何者だこの人は!?」と思わせればトトがダビンチに惹かれる理由も描けるしダビンチの凄さも伝わる。
なんでモノローグで終わらせたのか。
とにかく他にあれもこれも気になる。全部言わないけど、要するに見せ方が下手なのだ。
俺なら1話冒頭で死体を掘り起こしていたんだから、半分腐った死体を解剖するシーンから話を始める。ほかの人も言ってるが読者はグロテスクで汚いものも見たいのだ。
死体を解剖しながらトトの恐怖・後悔・好奇心いろいろ混ざった表情を読者に見せる。
ダビンチは余裕の表情でトトを軽くいたぶりながら博覧強記の知識でトトを圧倒する…みたいな。
二人は腐った心臓や肺を愛おしそうに眺める。読者からするとただのホラーな場面なんだけど登場人物たちには貴重な観察の機会だ。
こうやって読者とキャラの心情にわざと距離を作って引き込ませる。
結論としては題材は良い。話も丁寧。だけど工夫が足りない過ぎるという感想になるだろうか。
読者があなたの作品を読んでくれるのは当たり前 なんて思ってはいけないのである。1ページ、1コマでも読者を分かりやすく楽しませる工夫が必要でそれがなければ読んでくれる人はいなくなる。