はてなキーワード: 包摂とは
フョードル・ドストエフスキーは「愚かさ」を人間の実体として見定めていたことに相違ない。
「理性」「理論」といったものが文明を成立させた所以であるとし、それらを人間の本質として見る科学的合理主義やヘーゲル的弁証法に対するドストエフスキーの不信感は明白である。ドストエフスキーからすれば、理論や理性は人間の本質などでは決してなく、人間の本質たる愚かさに対する偶発的な付属物であるにすぎない。
ことによれば「A=A」「A≠notA」レベルの単純な論理的判断すら、多くの人間には難しいと言える。日常生活においては「A≠A」ないし「A=notA」が往々にして罷り通る。同一率や矛盾率といった論理における大原則ですら日常生活においては無視され得ることから、ましてそれらを包摂する包括的な論理体系が人間の本質であろうはずがないのである。それらはむしろ、人間の生活からは遠く離れた場所にある。
それは愚かさである。非理性である。非論理である。理などというものをかつて人間が生活の中心に据えたことなどあっただろうか。断じて無いのである。
『カラマーゾフの兄弟』において、主人公であるアリョーシャ・フョードロウィチ・カラマーゾフは東方正教を信奉する信者の一人であるけれども、彼はあくまで生活レベルにおける宗教を信用しているに過ぎない。つまり、「神を信じた方が幸せになれる」からアリョーシャは神を信じているのである。仮に宗教や信仰が幸福をもたらさないとすれば、恐らくアリョーシャは東方正教をそもそも信奉することなどなかったであろう。
これは、ドストエフスキーの「人間は愚かである」という率直な表明である。つまり、人間は――少なくとも、一般的な人間は――神のごとき素朴な事柄以上のものを理解することなどできないとドストエフスキーは述べているのである。現実を変革させ生活に変化をもたらすレベルで科学理論を使いこなせる人間は一握りしかおらず、また、それらの理論の本質は大多数の人間に理解されることなどないのである。そうだとすれば、その他大多数の愚かな人間は「宗教でも信奉している方がよっぽど幸せになれるよ」とドストエフスキーは吐き捨てているのである。
人間の作り出した神を信じることが人間の限界なのであり、それ以上の物質の本質やこの世の理(ことわり)について理解することは明確に人間の手に余る、とドストエフスキーは吐き捨てている。
この “私は違う考えを持っている。” を書いた増田だが、ふむ…
こうした考え方を奇異に感じる人もいるかもしれないので追記しておく。
社会が負うべきコストについて、あなた方は実はすでに一部は受け入れているんですよ。
プロジェクトが炎上中のときに「生理休暇」を取得した女性社員がいるとする。会社には有給と違って「時季変更権」がないからもちろん拒否できない。そしてその分の負担があなたに降りかかってきた。
あらかじめ準備しておかなかった会社側の問題です。これが仕方なく受け入れるべきコスト。
憎むぞ! っていう方は… 厳しい言い方になるが、あなたは『消極的な植松』だ。
やまゆり事件で彼の視点からみて、社会に“不要な”存在を消し去ることは正義だった。
——だが真実は当然、違う。要不要などは一方的で傲慢な評価に過ぎない。私たちは社会の歯車である以前に独立した自分自身を持つ人間だ。それぞれに異なる生きる意味があって、違う夢をみて、違うメシを食って生きているんだよ。
個人を尊重し、多様性を求めることには副次的なメリットもある。すなわち、あんまりイライラしなくなるってこと。包摂を基本的なスタンスにするのは QoL も高いからオススメだよ。
日本じゃ仏教が神道(それも上級国民向けのやつ)と習合してケガレを嫌う性質を内包しちゃったのが間違いの元じゃないかな。
宗教なんて弱者救済してナンボ。弱者だぞ、エンガチョに決まっている。
精神・知的、犯罪、ナチ・アカ、そらなるよ弱けりゃ。そんなの包摂していたら自分もエンガチョまみれになるし、組織に不正も犯罪も差別もはびこるわ。勝手なローカルルールだってウジャウジャ作られるわ。
「悪いことはいけません」って言って、昨日助けた奴が犯罪犯して誰かが泣いても、また犯罪者予備軍を助ける。
ナチがいたって、フェミがいたって、全部抱えて、そういう奴等に心の平穏が訪れるよう祈るんだよ。だからキリスト教もイスラム教も汚くて偉大なんだよ。
ただ、正直最近世の中がナチ・ファシズムに冷たすぎる気がする。
自民党は立憲民主党などとの比較で保守政党とされるが、実態としては保守であり革新なんだよ
例えばアメリカでは、共和党と民主党とで定期的に政権交代しているが、自民党は共和党的立場と民主党的立場の両方を実質的に包摂してしまっている
自民党タカ派が政権を持っているときと、ハト派が政権を担っているときがあり、それが日本の政治における「左右の振れ」になっている。
実質的な話はともかくとして、形式的に、民主主義的選挙制度がありながら一党が政権の座に居座り続けているという状況の実例を知りたいなら、Wikipediaで「一党優位政党制」の記事を見れば、実例が記載されている。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
例え入り口が男性嫌悪でも、そこからフェミニズムを学んでいける人を拒む思想ではないし、フェミニズムの目指す地点は男女平等である以上、最終的にそこに合意できればいい。
とすると、男性版でも同様の思想的体系が整っていれば、女性嫌悪を男女平等思想へと昇華できる機会が増えるので、それに越したことはないと思う。
自分の認識の限りでは、女性嫌悪を包摂する思想やコミュニティはナンパ界隈や弱者男性論など、女性嫌悪を包摂こそすれ修正する内容のものではないと考えている。
男性学というフェミニズムを基盤に発展した思想もあるけど、こちらは成員がフェミニズムと重なっているので、その入り口において女性嫌悪を包摂することはできないと思う。
またマスキュリズムについてだが、こちらは先ほどの男性学とは違い完全に男性によって形成、発展されてきた男性差別撤廃思想らしく、内容に関してはかなり期待は持てるものの、日本においては殆ど全く息をしていないことが難点か。
現状においてはマスキュリズムの普及に尽力するのが最短経路となるのだろうか。
乳がでかいというか、デブ寄りなので乳もあるといったほうが正しい。
比較的不美人でデブで乳もある状態だと、人と比較しがちな思春期の頃などは乳があることに自分のアイデンティティを置いてしまっていた。それがルッキズムに包摂された結果だとか、後知恵の指摘はいくらでもできるが、とにかく自信のなかった思春期前後はデブだろうと乳があり、それが他者から求められることもあるという事実を嬉しく思っていた。
また、根暗陰キャなので美少女のイラストも好きだった。乳のでかいカワイイ女が描いてあると嬉しい。素朴にそういう気持ちがあった。
幸い、今は自分が生きる上で積み重ねたものによって、乳以外にも自分を大切にできるポイントがある。だから昔ほど乳をアイデンティティの置所としてはいないが、宇崎ちゃん前後に始まりたわわに至る巨乳イラストのバッシングは自分の気持ちとして少々苦しいと感じている。題材や文脈に対する不適切性を指摘されるのは仕方ないと感じるし現実にまなざしを受けるこれからの世代への配慮という論理は理解もできるが、まさに現実にあるまなざしによって救われた自己肯定感があると私は知っている。もちろん、乳がでかいことによって不快な思いもした。しかし私にとって、それは足し合わせて得点を出すものではなく、両方とも存在したのだ。そんな自己肯定感はまやかしだというのもわかる。ただ、自分を大事にするために、自分の足で歩いていくために自分が最初に握っていた自己肯定感は「乳がでかい」ことだけだった。
連呼したが、別に乳がでかかったことが重要なのではない。万人に対して正しいわけではないものに自分は救われた、救われてしまった、というような経験は、誰しもあるのではないかと思う。この気持ちの置きどころがなくて、ウロウロしている。
という言葉を河瀨直美監督の東大入学式の祝辞を読んで思い出した。ナチスの将校にも、大日本帝国の兵士にも、自分たちの行為を正当化する「内在的論理」があった。
だからこそ、それを悪魔化して切り捨てることなく、真摯に分析して、過ちを繰り返さないために再び社会に包摂していくというプロセスが必要になる。
ロシアという国もいずれは国際社会に復帰し、そのようにして再統合される日が来るだろう。
しかし、彼らの主張を他の正義と同じ水準に並べることには慎重でなければならない。なぜならそれは彼らの蛮行を正当化する主張に力を与える行為に他ならないからだ。
河瀨監督の真意はともかく、その語りの重心が「悪魔化された対象の包摂」よりも「ロシアの蛮行の不用意な相対化」に傾いていることは否定しがたい。
ひとりの宗教家の「あれらの国の名前を言わへんようにしとんや」という遠回しな言葉を引用するとき、「ロシア」「ウクライナ」という具体的な国名があえて補われている。
そして「その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら」と相対化を試み、「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」とダメ押しが加えられている。
が、「ものの本質」が何なのかという具体的な説明はなされないまま、語りは「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです」という一般論的な自省へと流れていく。
ここで分かるのは、「ロシア」と「ウクライナ」は一見するとまったく具体的な固有名詞のようだが、このテキストでは単に「同じ水準で対立する2つの正義」という抽象化されたアイコンにすぎないということだ。そしてそのような使われ方によって、両者の「正義」の対立が同水準であることが暗示されてしまっている。
また、ロシア悪玉論を揺さぶるオルタナティブな視座として提示されているらしい「それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」という問いかけは、実のところは開戦当初から繰り返しメディアに登場してきたものだ。
これもまた「ロシアを悪とする議論はこのような基本的な問いかけすら踏まえていない」という誤った矮小化を導きかねないものだと思う。
河瀨監督がミスリーディングを意図したとは思わない。だが、このウクライナ問題の扱われ方は、同じ祝辞の中で語られる「たった一つの窓から見える光景を深く考察すれば、世界に通用する真理に到達できる」という世界観の限界をまざまざと示している。
> はてぶが「弱者男性」を実在しているかのように語っているのが謎
https://anond.hatelabo.jp/20220319181840
トイアンナ氏が語った言説がよかったので、議論の下敷きとして、リンクを貼る。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83163?
ざっくりいうと、男性自身も家父長制度の枠組みの中で求められる役割を達成できないことが、自虐だったり自信のなさ、社会での居場所のなさの原因であり、弱者男性のあり方もフェミニズムが解決すべき課題のひとつだと認識している。
異存はない。ただし、この論説の通りに社会が動いたとしても、今の弱者男性が救われるかどうかは別物だというところが問題として残ってしまう。
弱者男性の問題の原因を紐解いた時に、自己責任論で片付けれる問題はほぼない。社会のせいだ!〇〇のせいだ!と言いたい気持ちの方がよく分かる。努力できることも才能だと思うし、むしろ努力すれば報われる環境があったとは到底思えない。昭和の頃は何をやっても成功体験に結びついていたような時代とは全く違うのだから。
弱者男性が存在する理由は、まず100%本人に責任はない。というところからスタートしなければ、彼らを私達の分身として包摂することはできない。私達が私達として、存在している理由になんらかの責任はない。
彼らは私がそうなり得た一つの答えであり、さまざまな成長過程を経てたどり着いてしまった、もうひとりの自分なのである。お互いにそのことを理解できない限り、社会問題の解決にはつながらない。認識しておかなければならない最初の立ち位置だと思う。
トイアンナ氏の提案は未来に向けた一つの提言だと思うし、都市部では歓迎されるだろう言説だと思う。ただそれで生きづらい人の方が多く出るだろう、今の日本で理想主義を体現しながら生活できるのは、ごく一部の恵まれた人だけである。ただし、そのモデルが広まっていけば、数十年をかけて世の中が変わっていく可能性は十分にあるだろう。この30年で町中に痰が落ちてない世の中に変わったように。
ただ、団塊ジュニア世代を見殺しにして新しい世界に進むという未来でもあるし、そうなるしかない諦念も強い。
自分は団塊ジュニア世代の一回り下だが、団塊ジュニアのいとこらやその友人もいて、その苦労をけっこう見聞きしている。
収入は少ないが、人柄が悪いわけでも、能力がないわけでもない。ただ時代が悪かったとしか言えないし、そのせいでいろいろな経験が省かれているようにも見えたりする。
弱者男性問題が世代間対立の問題として見られやすいのは、上記のとおり団塊ジュニア世代が受けた社会情勢に影響された、努力と収入(社会的地位)のミスマッチの結果なのだろうと思っている。(資料なし)
少子化問題・年金問題・所得低下・国力低下・世代間対立・ナショナリズムの台頭、これらはすべて弱者男性に関連するテーマではある。国家運営という目線に立って一つづつ解決を目指さないと、日本が
ただ、男性弱者の問題に関して、この視点は一切いらない。これまでの結果がすべて社会のせいだったとしても、弱者男性はこれからどうすれば幸せになれるのだろうか?
その一点に絞るべきだろう。社会が成長すれば全ては解決するのは正しい、ただ十年で解決できる問題ではない。アベノミクスで盛り上がったのに、収入は増えなかった。十年でも解決出来なかった。それが事実だ。
男性の生涯未婚率は、このままいけば20%は超えるだろう。1000万人の団塊ジュニア世代の200万人が結婚しないという計算になる。
https://nayami-sodan.net/dokushin-mikon-ritsu-20-30-40-50/
KKOの母集団を200万人と置いた時(もちろん母集団には、金が有るけど結婚しない人も、KKだけど楽しんで生活している人もいる。)
見つめるべきは、200万人が幸せになれそうな未来を描くための、即効性のある解決策はすでにない。という残念な事実しか残っていない。
社会がなんとかしてくれる・景気が良くなれば雇用が増えて、とかいうレベルで自然と解決することも、諦めるしかない。
200万人分が、家族を養えるだけの高収入な仕事につくウルトラCな法案があるか?社会運動が作れるか?できねーよ。
ただ、考えてみてほしい。日本が戦後あれだけの惨禍から復活したのは、日本政府がすごかったからか?それとも、民間企業が頑張ったからか?どちらも違うだろう。
民間企業ですらなかった人も含めて、個々人がそれぞれレベルでなんとかしようとした人がたくさん居たからだと思っている。
もう一つは、戦争でたくさんの人が亡くなり、既存の仕組みにスキマがたくさんできたからなのだと思う。
これから色んな所に、社会のほころびが出てくる。町内会が動かなかったり、
これから増えていく社会のスキマを埋める人がいれば、必ず重宝される。その懐の深さは、社会の多様性さが生み出すのだろう。まだそれだけの懐の深さは日本社会も持っていると思っている。
人間なんて、だいたい腐ってるんだから、8割腐ってるなら、残りの2割のまともなところでうまいこと行くようにやろうぜ。
◯ーチンだって、まともそうな顔して、あんなことしちゃうんだから。
あれに比べたら弱者男性の言説ぐらい、読める文章を書いてるだけ凄いじゃん。
分断ではなく、共感を。
支援ではなく、協力を。
ちゃんと生きてたら、おはようございます。って声かける。それが社会的包摂じゃないの。
そういう日常の繰り返しをちゃんとすることでしか、救いはないんじゃないか。と思ったり、思わなかったり。
まぁ都会に住んでたら難しいっていう気持ちはめっちゃ分かる。人間扱いされないし。だから田舎もいいよ。珍獣扱いされるけど。上京2世だったら、帰郷するのも一つの手だというのをオススメしたい。偏見のある田舎もあるけど、結構悪くない所も多い。もちろんIターンも。リスクもあるけど、人間というだけで歓迎されるところも多い。ってか地方だとそういう社会的包摂を意識した活動を知ている人は、ちゃんといるし、地方にいるとそういう人ほど目立つから情報も見つけやすかったりする。大学時代の友人が「だれでも来れる畑」というのをやり始めて、交流の場としてまずまずうまく行ってるらしい。人手さえあれば、何かしらの生産活動ができるのが地方の良いところ。
と書いていて、お前はどうなんだと聞かれたら、KKOだけど楽しく暮らしている友人のFBにいいね!するぐらいしか出来ないし。
一軒家の向かいに住んでるひきこもりのにいちゃんにちゃんと挨拶して、なんかあったらちゃんと声掛けようと心積もりをしておく。ぐらいしか出来ないのだが。
> はてぶが「弱者男性」を実在しているかのように語っているのが謎
https://anond.hatelabo.jp/20220319181840
トイアンナ氏が語った言説がよかったので、議論の下敷きとして、リンクを貼る。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83163?
ざっくりいうと、男性自身も家父長制度の枠組みの中で求められる役割を達成できないことが、自虐だったり自信のなさ、社会での居場所のなさの原因であり、弱者男性のあり方もフェミニズムが解決すべき課題のひとつだと認識している。
異存はない。ただし、この論説の通りに社会が動いたとしても、今の弱者男性が救われるかどうかは別物だというところが問題として残ってしまう。
弱者男性の問題の原因を紐解いた時に、自己責任論で片付けれる問題はほぼない。社会のせいだ!〇〇のせいだ!と言いたい気持ちの方がよく分かる。努力できることも才能だと思うし、むしろ努力すれば報われる環境があったとは到底思えない。昭和の頃は何をやっても成功体験に結びついていたような時代とは全く違うのだから。
弱者男性が存在する理由は、まず100%本人に責任はない。というところからスタートしなければ、彼らを私達の分身として包摂することはできない。私達が私達として、存在している理由になんらかの責任はない。
彼らは私がそうなり得た一つの答えであり、さまざまな成長過程を経てたどり着いてしまった、もうひとりの自分なのである。お互いにそのことを理解できない限り、社会問題の解決にはつながらない。認識しておかなければならない最初の立ち位置だと思う。
トイアンナ氏の提案は未来に向けた一つの提言だと思うし、都市部では歓迎されるだろう言説だと思う。ただそれで生きづらい人の方が多く出るだろう、今の日本で理想主義を体現しながら生活できるのは、ごく一部の恵まれた人だけである。ただし、そのモデルが広まっていけば、数十年をかけて世の中が変わっていく可能性は十分にあるだろう。この30年で町中に痰が落ちてない世の中に変わったように。
ただ、団塊ジュニア世代を見殺しにして新しい世界に進むという未来でもあるし、そうなるしかない諦念も強い。
自分は団塊ジュニア世代の一回り下だが、団塊ジュニアのいとこらやその友人もいて、その苦労をけっこう見聞きしている。
収入は少ないが、人柄が悪いわけでも、能力がないわけでもない。ただ時代が悪かったとしか言えないし、そのせいでいろいろな経験が省かれているようにも見えたりする。
弱者男性問題が世代間対立の問題として見られやすいのは、上記のとおり団塊ジュニア世代が受けた社会情勢に影響された、努力と収入(社会的地位)のミスマッチの結果なのだろうと思っている。(資料なし)
少子化問題・年金問題・所得低下・国力低下・世代間対立・ナショナリズムの台頭、これらはすべて弱者男性に関連するテーマではある。国家運営という目線に立って一つづつ解決を目指さないと、日本が
ただ、男性弱者の問題に関して、この視点は一切いらない。これまでの結果がすべて社会のせいだったとしても、弱者男性はこれからどうすれば幸せになれるのだろうか?
その一点に絞るべきだろう。社会が成長すれば全ては解決するのは正しい、ただ十年で解決できる問題ではない。アベノミクスで盛り上がったのに、収入は増えなかった。十年でも解決出来なかった。それが事実だ。
男性の生涯未婚率は、このままいけば20%は超えるだろう。1000万人の団塊ジュニア世代の200万人が結婚しないという計算になる。
https://nayami-sodan.net/dokushin-mikon-ritsu-20-30-40-50/
KKOの母集団を200万人と置いた時(もちろん母集団には、金が有るけど結婚しない人も、KKだけど楽しんで生活している人もいる。)
見つめるべきは、200万人が幸せになれそうな未来を描くための、即効性のある解決策はすでにない。という残念な事実しか残っていない。
社会がなんとかしてくれる・景気が良くなれば雇用が増えて、とかいうレベルで自然と解決することも、諦めるしかない。
200万人分が、家族を養えるだけの高収入な仕事につくウルトラCな法案があるか?社会運動が作れるか?できねーよ。
ただ、考えてみてほしい。日本が戦後あれだけの惨禍から復活したのは、日本政府がすごかったからか?それとも、民間企業が頑張ったからか?どちらも違うだろう。
民間企業ですらなかった人も含めて、個々人がそれぞれレベルでなんとかしようとした人がたくさん居たからだと思っている。
もう一つは、戦争でたくさんの人が亡くなり、既存の仕組みにスキマがたくさんできたからなのだと思う。
これから色んな所に、社会のほころびが出てくる。町内会が動かなかったり、
これから増えていく社会のスキマを埋める人がいれば、必ず重宝される。その懐の深さは、社会の多様性さが生み出すのだろう。まだそれだけの懐の深さは日本社会も持っていると思っている。
人間なんて、だいたい腐ってるんだから、8割腐ってるなら、残りの2割のまともなところでうまいこと行くようにやろうぜ。
◯ーチンだって、まともそうな顔して、あんなことしちゃうんだから。
あれに比べたら弱者男性の言説ぐらい、読める文章を書いてるだけ凄いじゃん。
分断ではなく、共感を。
支援ではなく、協力を。
ちゃんと生きてたら、おはようございます。って声かける。それが社会的包摂じゃないの。
そういう日常の繰り返しをちゃんとすることでしか、救いはないんじゃないか。と思ったり、思わなかったり。
まぁ都会に住んでたら難しいっていう気持ちはめっちゃ分かる。人間扱いされないし。だから田舎もいいよ。珍獣扱いされるけど。上京2世だったら、帰郷するのも一つの手だというのをオススメしたい。偏見のある田舎もあるけど、結構悪くない所も多い。もちろんIターンも。リスクもあるけど、人間というだけで歓迎されるところも多い。ってか地方だとそういう社会的包摂を意識した活動を知ている人は、ちゃんといるし、地方にいるとそういう人ほど目立つから情報も見つけやすかったりする。大学時代の友人が「だれでも来れる畑」というのをやり始めて、交流の場としてまずまずうまく行ってるらしい。人手さえあれば、何かしらの生産活動ができるのが地方の良いところ。
と書いていて、お前はどうなんだと聞かれたら、KKOだけど楽しく暮らしている友人のFBにいいね!するぐらいしか出来ないし。
一軒家の向かいに住んでるひきこもりのにいちゃんにちゃんと挨拶して、なんかあったらちゃんと声掛けようと心積もりをしておく。ぐらいしか出来ないのだが。
twitterで数年間つながりがあった人が「自称アニメオタクの人が結婚していているけど俺は恵まれない」みたいなことを書いた。
とはいえアニメ・ゲーム・ラノベ・Vtuberなどの文化やコミュニティに包摂されている人間は恵まれている。
自分はそういう文化にすら包摂されず排除され根無し草のように漂流している。
そういうことをリプしたら「何言っているの?(アニメとかで)救いを感じられないんだったら早く死んだら(※特定防止のため文言を変えてあります)」と返信がきた。
自分は中高時代創作系の部活に所属していたためまわりにアニメ・ゲーム・ラノベなどのオタクが多かった。自分も興味があった。
しかし親から「家で民放のバラエティやドラマを見ていることは家の名誉に傷をつけるから絶対に口外するな」と厳命されていた。
加えて『脳内汚染』を読んだことでメディアの悪影響について考えるようになった。このことから、オタク的なコンテンツには触れてはいけないと思うようになった。
もし図書室にあるライトノベルを読んだら高校や家の名誉に傷をつける。そう考えると自分の欲求のためにオタク的コンテンツに触れるのは悪であった。
大学のころ深夜アニメをちょっと見たことをきっかけにオタクになろうと頑張ってみた。
しかしアニメの内容というか面白ポイントがわからずに「なんで自分はこういうコンテンツに包摂されないんだろう」と不安と焦りに苛まれるようになった。
そして某アニメのイベントの前を通りかかったときに「自分は結局オタクになれなかった出来損ないだ」と思ってしまい号泣、翌日電車に飛び込みかけて会社はクビになった。
でも自分はオタクのふりをしたかった。twitterでオタクのふりをして数年、最初はオタク気分を手軽に味わえた。
しかしオタクが提示するアニメを見ても面白さを感じず、ラノベは内容が高度すぎて理解できず、ソシャゲもルールすら理解できずに投げだした。
結局オタクはある種の知的特権階級であり、自分のような愚劣な人間はオタクにすらなれないのだ。
おりしも親からは勘当され、医者からもモンスターペイシェントとして見放された(課題として出されたスキーマ療法のワークブックをやろうとしても強烈な不安感情に襲われて一切できないことを伝えたことが原因)。
友人は誰もいない。地元の人間は自分を集団でいじめて笑っていた人間だ。
そういう自分がオタクコンテンツからも包摂されないとなると、本当に「自死」という選択肢が現実味を帯びてくる。
ここ3か月ほど、なんでオタクになれないんだろうかということをずっと考えては息苦しくなる感覚があった。
警察に相談しようかとも思ったが、最悪精神病院に措置入院されて10年以上出られない可能性もある。
もとより自分は零細自営(貿易商に近い)である。仕事に穴が開けばほかの人に大迷惑がかかる。
名著だよね。
ただハマータウン〜は今見ると、「階級」という切り口に振り切った作品だと思う(社会学では念仏のように「階級・ジェンダー・エスニシティ」と、その切り口の多様性を訴えてるでしょ)。
それがいいとか悪いとかではなく、そこにハマータウン〜の特徴と限界があるし、
またむしろ今見えにくくなっているものを炙り出してくれるものでもある。
割と最近でも、(通俗的な言い方をすれば)白人エリート女性社会学者が黒人コミュニティに対して行った参与観察で、むしろ参与観察に入れ込みすぎた結果、キャンセルカルチャーの餌食となった例がある。
→"アカデミズムのサラブレッド"で新進気鋭の社会学者だったアリス・ゴッフマンは、なぜ「キャンセル」されたのか?【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/296647
ゴッフマンの事例もまた是非を置くとしても、ともかく現代社会は「階級・ジェンダー・エスニシティ」のどの切り口も無視することが出来なくなっていることを示す事例ではある。
ここで増田のエントリがタイトルで誤解されてそうなのが気になるんだが、ポールウイリスはマルクス主義者だから、その「野郎ども」が二重の意味での自由を手にして「Learnlng to labour」してしまうアイロニーを指摘しているだけであって、「底辺右翼」みたいに蔑視している訳じゃないと思うんだよね。
そしてハマータウン〜は「持たざる者」がどのような文化戦略を取るかについて、「階級」の切り口の重要さを伝えてくれるものでもある。
むしろ当時のポールウイリスの暖かい目線は、今ならエスニシティやジェンダーで殴られているラストベルトのトランプ支持者なんかを包摂する可能性の方に向けられるものな気がするんだよね。
「資本主義社会の再生産」という点においては、「ジェンダー」の切り口すなわちフェミニズムも、そこに加担するケースがままある。
高所得カップルが移民シッターや代理母を利用することを肯定的に捉えれば、当然「階級」や「エスニシティ」の面から批判される。
「階級・ジェンダー・エスニシティ」の切り口から全くイノセントな存在でいることはかなり困難だ。
ただし、当たり前のことだが人はその立ち位置を選んで生まれてくる訳ではないので、そこから先は個人の「倫理」の問題になるかと思う。
翻って日本の場合について私見を述べれば、男女の家事負担のようなジェンダー不平等の問題にしても、コロナ禍での医療体制の問題にしても、
日本における『労働』の過重性という問題が、あまりに軽視されすぎている。
日本では「階級・ジェンダー・エスニシティ」を問わず、それらを串刺しにする一億総「Learnlng to labour」のような状況があることを、議論の前提としてもらいたい。
私は出生前診断を受けた。
当時はNITPを実施している医療機関が少なかったので、クアトロテストを受けて、結果が1/86の陽性だった。
生まれた子は今レロレロ舌を回しながらプリキュアのフレーズをサビだけエンドレスリピートしている。ひょうきんなお調子者である。好奇心旺盛すぎて、医師が慎重に子宮内の胎児のいない場所を選んでいるというのに、羊水検査用の針に関心を示し触ろうとしていた(こういう子は珍しくないらしい)。
このクアトロテスト陽性から羊水検査の陰性確定までは、光の無い生活で、空気が重油のようだった。息を吸うのも吐くのも辛かった。今まで嫌なことは色々あったけれど、トップクラスで辛い毎日だった。
夫婦だけで、陽性なら堕ろす、と決めた。親には相談しなかった。親はおそらく、「絶対に産むな、私が許さない」と言うだろうというのが夫婦の共通の見解だった。親という生き物はとにかく我が子が可愛い。孫よりずっと子供が可愛い。人殺しの罪を自分が負ってでも子供の心を守ろうとするのだ。そう分かっているので、相談しなかった。
その際比較したのは、障害のある子を産むか、産まないか、の二択ではなかった。
その場にあった2択は、障害のある子を産んで育てるか、今回は諦めて別の健常児である可能性の高い子を産んで育てるか、だった。
そのようにして私は、命を選択しようとした。2人目であったので、上の子をきょうだい児にするという選択肢は我々には無かった。
ただ、自分が産み育てるか?と、現在生きている障害者に冷たくするか?とは違う問題に感じる。
私はボランティア等で障害のある人と接する機会が多いが、とても楽しい。
幸せになってほしいと願っている。
福祉事業所で作った作品もよく買うし、クッキーやケーキも買って食べている。カフェも行く。
私の内面に差別心はあると思う(特にパーソナリティ障害傾向の人にはどうしても優しくできない)が、命の選抜を行おうとすることと、今生きている障害者にどう接するかは違う問題だろう。
障害のある人は決して少なくない。
・50人に1人は必ず知的障害者が生まれる(知能検査の標準偏差で区分されるので必ず、である)
・旧境界知能(知的ボーダー、グレーゾーン)は35人クラスに5人いる
これらのほとんどは現在の出生前診断では分からない。出生前診断で判明するのはごく一部の障害でしかない。
また、私のように、出生前診断が保険適用外であっても、診断を希望する人は自費で検査をする。
日本と同じように出生前診断が保険適用外であるフランスにおいても、自費で検査をするため、ダウン症の出生数は減っているらしい。
よって、出生前診断の保険適用の効果はおそらく限定的であろう。
前述した通り、大半の障害は出生前診断では分からないし、生きにくさのある人はとても多い。そしていつ私達自身が障害を負うかも分からない。