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2018-09-20

anond:20180920125124

以下のコピペを思い出した。

顔の美醜そのものとは別に容姿雰囲気だけで何でも良い方へ解釈される、あるいは逆に何もかも悪い方へ解釈される才能というものがあるんじゃないかなあ。

134: 可愛い奥様 2013/11/05 14:18:20 ID:RQrskBi0O

子供の時からブスで、勉強運動も全く出来ず、成績も1と2しか無かったけど、なぜか周りからは「しっかり者」と言われてきて、自分でもしっかり者だと思ってた。

ただ変だと思ったのは、小学校入学してからブクブク太ってきた事。両親はガリガリで、親戚もみんな細くて、太い人は誰もいなかった事だった。身長160cm体重120kgになった。太るような事は何もしてないのに変だと思った。

高卒就職した会社では、私は先輩から仕事が出来ると評価されてた。私も自分では仕事が出来るんだと信じてた。

4年後、私が結婚した頃に、同い年のAが入社してきた。一流大学卒で美人で細かった。私と同じ身長なのに体重は私の半分も無かった。でも性格は悪かった。

仕事が遅くて覚えが悪くて何をやってもダメだった。私や先輩はAを時々叱ったりした。

入社して3年経ってもまだ出来が悪かった。

ある日Aが急に、仕事を辞める。明日から来ないと言い出した。上司は困ると言ったが、いつまでもトロイとか言われて我慢出来なくなったと言った。




135: 可愛い奥様 2013/11/05 14:19:38 ID:RQrskBi0O

私達は仕方なく、Aの仕事をみんなで分担して引き継ぐ事にしたが、Aの仕事は私や先輩が思ってたよりも難しくて量も多かった。Aはこんな大量の難しい仕事をテキパキとこなしていた。

Aは見た目が何となく頼りなさそうでしっかりしてなさそうに見えた為、私達は想像だけでAを仕事が出来ないと言っていたようだった。

Aの引き継ぎの関係で、私が今までしてた仕事を先輩がする事になった。

私の仕事があまりにも少なくて簡単だった為、先輩に「こんな少ない仕事で何で毎日あんなに残業してたの?こんな簡単仕事で何で毎日威張ってたの?よくも騙しやがったな!」と怒鳴られた。上司にも怒鳴られて殴られた。

その時に気付いたんだが、私は子供の頃からトロくて鈍臭いのに、なぜか周りからはしっかり者に見えるような素質を生まれつき持っていたらしい。Aはその逆。

私がブクブク太ったのも、しっかり者に見える事で今までずっと甘えてきた結果らしい。

Aが退職して1ヶ月経った頃、Aが私に怒鳴り込みに来た。




137: 可愛い奥様 2013/11/05 14:21:03 ID:RQrskBi0O

Aは全てを知ってしまった。私達が想像だけでAを仕事出来ないと言い続けてた事と、私は仕事が出来ないのに仕事が出来るように見せかけていた事も。

ちょっと周りから仕事が出来ると評価されてきたからって甘えんじゃねー!仕事出来ないくせに私にトロイとかグズとか言いやがって!お前なんか、ギタギタのボロボロにしてやる!」

と、Aは怒鳴りながら私を殴ってきた。Aは細いのに力が異常に強くてとても私の力じゃ勝てなかった。私は「助けて助けて」と泣きながら叫んだが、上司や先輩は冷たい目で私を見るだけだった。

時間も殴られて、顔が変形した。Aは殴るだけ殴って帰ったが、

私はその場で何時間もずっと泣いていた。上司や先輩にも「泣くなら帰れ!邪魔なんだよ!」と言われてその日は帰った。

その後私は正社員からパートに降格された。

Aを仕事出来ないと言ってた先輩もパートに降格された。

私はそれから1年後に退職した。それからずっと専業主婦だけど、最近旦那浮気してるらしい。離婚したいのに貯金が無いから出来ない。氏にたい。

anond:20180920125346

結婚子育てのいいところはイベントが多くなったり、5年後10年後について考えるきっかけが多くなることかなと思う。

結婚ならプロポーズして新居に引っ越し新婚旅行して、って流れがあるけどいつまでに幾らくらい必要だとか何が必要だとか考えるの楽しい

子育てなら出産して幼稚園保育園か行って小学校行って、、っていう大きなイベントから

子供バーベキューやったり野球やったり、ゲーム教えたりそういうのも楽しい

独身だと5年後や10年後なんてあんまり考えないじゃん?30歳から35歳になって何が変わってるかなって当時思ったし。

若いうちは色んなことがあるから気にしないかもしれないけど。

当然、責任もある。でもそれも結構楽しいよ。特に子育ては。

anond:20180920103807

そんなトコ通わなくても家庭教師だけでなんとかなるしなーw

小学校義務教育なので。

そもそも上の上しか入ってこない幼稚園学校もあるだろ…

anond:20180920101535

つの言葉を組み合わせた言葉を調べる時はばらばらにして調べる、って小学校レベルの話じゃね?

組み合わせると元の言葉とかけ離れた意味になる、ってなら別だけど、この場合はそうではないし。

「組み合わせると元の言葉とかけ離れた意味になってる」ぞ。

そもそも「消費」という概念が「財・サービス」にかかわる概念であり、「性」は含まれていないかった。

「性」を「消費」と結びつけること自体が「消費」に新しい分野を加える試みであり、当然のように受け入れられる行為ではない。

anond:20180920101256

性的消費」は辞書に載っていない。

性的」と「消費」は辞書に載ってるし、それを組み合わせただけの意味だが。

つの言葉を組み合わせた言葉を調べる時はばらばらにして調べる、って小学校レベルの話じゃね?

組み合わせると元の言葉とかけ離れた意味になる、ってなら別だけど、この場合はそうではないし。

2018-09-19

小学校の頃、興奮したこと

79年生まれ。男。

小学校低学年の頃。

ゲームボーイのSaGa2で、カイという女性キャラクターの体内に入るシーンでやたらと興奮していました。

anond:20180919111649

普段学校がやる事は軒並み何でも袋叩きにする癖に

「嫌がる子供いるかジャポニカやめました」ってのはそっちを叩くんだよな

それこそ正当な配慮範囲じゃないか

最近小学校は筆箱や鉛筆なんかもキャラもの禁止って所が多くて

売り場でもキャラ筆箱より地味な筆箱の方を多く取り扱ってたりするけど

(んで昔みたいな飛び出す仕掛けとかもないシンプルものだらけ)

そういう事も知ったら「キャラものが不当に規制されてる!」とか言って叩きそうだなあいつら

学校側としては「低学年の子供・特に入学し立ての一年生はちょっとしたことで授業への集中が妨げられるので

子供が気にするような柄や仕掛けのある勉強道具は使わせたくない」ってだけなんだが

anond:20180919103750

>ただ、「虫の写真を嫌がる子供殆ど女の子だろうし、それに苦情を出すほど子育てに関わっている大人

小学校教師以外だと殆ど父親ではなく母親だろう」と想定される

想像ものを書くなよ。虫を嫌がるのが女の子だけだとなぜ決めつけられるんだ?

男の子の中にも虫が苦手と言う子だって多いはずだろう。

それこそ、「男は虫を怖がらないが、女は虫を怖がるものだ」という性規範的な決め付けそのものではないか

エロ規制に反対しているのは、BLに飛び火することを恐れる腐女子がいることも無視するのか?

エロゾーニングが一部にやたら反発食らう本当の理由

ジャポニカ学習帳が、虫の写真を嫌がる子供いるから虫の写真を使うのを止めた、って話にも猛反発してた辺りからし

エロ規制されるのが気に食わないとか、オタク差別が気に食わないとか、そういうんじゃないよね。

自分ジャポニカ学習帳使う年齢でもなければ、その年齢の子供がいる訳でもない連中にとって

ジャポニカ学習帳の表紙なんか本来はどうでもいいし何の関心もないだろうに。

ただ、「虫の写真を嫌がる子供殆ど女の子だろうし、それに苦情を出すほど子育てに関わっている大人

小学校教師以外だと殆ど父親ではなく母親だろう」と想定される中で

とにかく「女が何かを主張するのが気に食わない」「その女の意見企業が従って何かが変わるのも気に食わない」だけだろ、あいつら。

要はミソジニーだよ。それ以外の理由なんかない。

グッチー

グーとチョキでグループする分けするやつ、俺の小学校ではもっぱら「グッチー!エッションピ!」と言っていた。あいこになったらえっしょんぴ!と言いながら繰り返す。隣の学校シンプルにグッパーっせ!(グーとパー)だった。

今日近くの公園前を通ったら子どもたちがグッチー!エッションピ!エッションピ!と言ってグループ分けしてた。なんか懐かしくなった

2018-09-18

息子だけど、親権押し付け離婚した母親について

そういえば自分の周りに親権を押しつけて離婚した母親がいたなあと、元増田を読んでいて思い出した。

もう20年近く前の話だし、元増田の元家庭とはずいぶん環境も違う。

記憶も定かでは無いけれど、「親権押しつけて離婚した母親」がどう見えたか、息子の立場の思い出で自分語りする。

母親最後に見送ったのは私と弟だった。

私の母親は、私が10歳の夏に家を出ていった。

母親の姿を私が最後に見たのは自宅の玄関

私と弟が学童保育から帰ってきて一息ついたあと、入れ替わりで母親は家を出ていって、そのまま帰ってこなくなった。

私と弟がどこにいくのか尋ねたところ、

ちょっと買い物に出かけてくる、あんたたちも来る?」と母親は応えた。留守番をしている、と返したと思う。

まだ日が落ちる前で外は暑かったし、エアコンが効いた部屋から出たくなかった。

それが母親と面と向かって話した最後の会話だった。

その日以来、母親は帰ってこない。ずいぶん長い買い物である

父親が帰ってきたのは20時ごろだったと思う。

母がいっこうに帰ってこないから、勝手レトルトカレーを食べるか迷っていたところだった。

そこから記憶あいまいで、「お母さんは買い物に出かけている」と父親に伝えたこと、その日は結局帰ってこなかったこと、

翌日の夜に「お母さんはもう戻らないんだってさ」と父親に伝えられたことは覚えている。


日経ってから改めて、「お前たちはどうする?お母さんについてくる?」と父親に聞かれた。父と母だけで子供に見えないところでやり取りをしていたんだろう。

私と弟は、間髪入れずに「父親についていく」と伝えた。

子供ながらに、「父親は家に住んでいる、母親は家を出た」「父親仕事をしている、母親パートタイムで働いている」「母親と一緒になるのは不安しかない」と思ったから。

その日からしばらくは子供部屋ではなく、父と母親の部屋で寝ることになった。

父親には「お父さんが寂しいだろうから」なんて言ったけど、たぶん怖かったんだと思う。寝ている間に父親もいなくなったら、とかたぶんそういうことを考えてたんじゃないか

家庭事情、なぜ離婚したのか

正直なところ、離婚前後夫婦関係母親の状況について、父親に聞いたことはない。父の浮気のようなわかりやす理由があったのかも分からない。

当時は、父親の機嫌を損ねたくなかったから、そんなの聞けるわけがなかった。

私も弟も父親も、母親がいなくなって、各々で新しい日々を送ろうと四苦八苦していたし、そのうちに聞くタイミングを失ってしまった。

というかよく考えたら、父と母親の馴れ初めについてすら詳しく知らない。なにしろ私がそんなものに興味を持つ前に離婚してしまたから。

父の年齢から離婚時点の年齢を考えると33~4歳前後になるから、彼らはおそらく大学を出てすぐに結婚したんだと思う。

父は普通サラリーマン帰宅20前後母親も、私が幼稚園の頃からパート勤務をしてて18時頃の帰宅が多かった。

なにしろ大学を出てすぐ私たちを生んだわけだから我が家にも給料的には余裕が無かったはずだ。

共働きということもあって、私と弟は小学校に入るとすぐに学童保育に預けられた。

周りの友人たちの母親専業主婦ばかりだったし、いま思えばマイホームを持った落ち着いた家庭が多かった。

記憶にある限りでは、私の母親PTAなどにもほとんど参加していなかったと思う。地域での友人関係というのも無かったんじゃないか

当時は家の鍵を渡されてなかったから、学童保育から帰ったあとは玄関の前に座って、母親の帰りをぼうっと待っていたのを覚えている。

食事レトルトや総菜がほとんどだった。忙しかったんだろう。

離婚の経緯に関しては唯一、母親祖父から「あの子あんたたちを育てるのを投げ出した、だから勘当をした」という趣旨の話を聞いたことがある。

そのため、母が家を出て行った理由は、私と弟の世話に嫌気がさしたからだと思っている。

実際、当時の私と弟は問題児で、小学校でも幼稚園でも喧嘩忘れ物などの問題行動をよく起こしていた。

まり詳しく覚えていないけど、家庭でも似たような状態だったのだと思う。酷く手のかかる子供だったと思う。

そんな状態である上に、私と弟は昔から比較的父になついていた。母親から見れば「男3人と自分」という対立構造に見えるときも多かったんじゃないだろうか。

上に書いたように、父と母親のどちらにつくかのやり取りもあったから、子供目線だと「母は親権押し付けて出て行った」のではなく「僕たちは自分父親を選んだ」という意識を持っていた。

でも、こうして書いていると、やはり母親私たちと居ることが耐えられなかったんだと思う。

「買い物」に出ていく際の「あんたたちも来る?」という問いは、きっとそんな耐えられない息子たちと自分関係を確かめ意味言葉だったんだろう。

ごめんね、お母さんよりも冷房を選ぶような息子たちで。あの日暑かったからなあ。

離婚のあとのこと

断片的な記憶だけど、父親離婚届を書いているところ、書類を返送する際に「こんな男と10年以上いてくれて~~~」という趣旨手紙を添えていたことを覚えている。

父は「本当にお母さんと連絡したいと思ったら、この携帯番号にかけたらいいから」といって、母の連絡先が書かれたメモ電話機のわきに残してくれた。

何度か電話をかけた記憶はあるが、そのとき何を話したかはもう覚えていない。

しばらくは祖父母が手伝いに来てくれていたこともあり、私も弟もすぐに母親がいない生活に順応した。メモはしばらく壁に貼ってあったけど、どこかにいってしまった。

その後、母親祖父から絶縁されたらしい。

もっとも、何年かに一度は連絡がある、ないしは帰ってきていたこともあるらしいので、本当のところは知らない。

私が二十歳を過ぎたころぐらいに、祖母から母親と会うつもりはないか」と聞かれたこともあった。

ただ、そのときにはもう私も大学生だったし、妙な蒸し返し方をされるのが不気味で会うのを拒んでしまった。「会わなかったぶんのお小遣いをくれるなら考えるよ」とかなんとか適当なことを言って。

小遣い自体は実際にもらった。

大学時代、祖父母の援助で車の免許を取得させてもらった。

あとから聞いた話によると、これは母から祖父母に「息子のために使ってほしい」とあずけられたお金から出されたものとのことだった。

祖父から「残りは、いつかお前たちがいい人を見つけて結婚式をするときに渡したい」と言われた。

父と母親の間で、慰謝料だか養育費だかの金銭のやりとりがあったかについては、知らない。たぶんもう知ることもないと思う。

私のその後

離婚してすぐに一家4人ですごしていた家からは引っ越すことになった。

学校が変わったことがきっかけで、無自覚問題児から自覚のある問題児に変わった。

父親との関係とは紆余曲折あったものの、大学までは出してもらった。

その間、母親がいないことで不便した記憶というのはほとんどない。保護者参観に親が来ないことにもすぐに慣れた。

中高生ときから料理をするようになったし、親が家にいないおかげでのびのびと生活していたから、むしろ恩恵のほうが大きい。

最近になって若干面倒になってきたのは、職場の同僚や知人から

「いつ結婚するのか?」と尋ねられること。

これは母親がいなくなったこととは直接関係とは思うけど、異性と生活を共にして、家庭を持つイメージがどうしても持つことができない。

おじいちゃん、お母さん、ごめんなさい。どうも僕はあのお金をもらう気にはなれません。

母親をどう思っているか

今になって思うと、ひどく気の毒に感じている。

母親が私を生んだ年齢をすぎて数年が経つ。もし今の私が、私のような子どもを持っていたとしたら、おそらく私だって投げ出すと思う。

もっとも、母親が買い物に出かけた理由が、本当に私たちだったのかは知るよしもないんだけど。

元増田について

本当にお疲れ様でした。

自分語りをしながら、もしかしたら私も元増田の書いてるような「隠し通された子供」なのかもしれないのかなあ、なんて考えてしまいました。

ただ、いずれにせよ元増田さんの体験元増田さんだけのものですし、好き放題に増田で叩かれたり、長文で自分語りする父子家庭出身者が現れても、あまり気に病まないでください。

どうにかいろいろと上手くいくようになって、元増田にとってもお子さんたちにとっても一番傷が少ない結果になるように、祈ってます

https://anond.hatelabo.jp/20180918120625

小児性愛ロリコン)だけど辛さを分かってほしい

俺は小学校中学年・高学年(3年~6年)が一番ストライクゾーンだ。女性として一番魅力的に感じる。

もちろんこれは外見的な話で、普通に話したりするなら同い年の女性が良い。

大人の女性相手にされないかロリコンになる』と信じ込んでる人もいるが、俺は逆だ。

子供とは付き合えないか20代の成人女性と付き合っている。はっきりいって妥協だ。

外見的魅力は大人の女性より女子高生が良いし、女子高生より中学生が良いし、中学生より小学生が良い。

小学生の頃、同じ学年の女の子を好きになった。中学生になっても高校生になっても小学生恋愛感情を抱き続けた。

俺はどれだけ努力しても自分の一番好みの女性を手に入れることはできないし、性欲も満たすことができない。他人に打ち明けることすらできない。

同性愛者の人権個性として保護されるのに、熟女好きも認められてるのに、小児性愛だけは病気扱いされ、なにもしてなくても犯罪者扱いされる。

俺は児童虐待は一度もしたことがない。仕事子どもと関わることは多いけど我慢している。

せいぜい、YouTube小学生YouTuberや小学生が写ってる動画を観るくらい。特にダンス陸上大会動画が好き。あとは漫画欲望を満たす。

もし漫画児童ポルノ規制対象になったら、俺はどうやって生きていけば良いのだろう。

まだ20代。あと何年、この苦しさを抱えて生きていけば良いのだろう。

人生ピークを過ぎたのではないかと感じている

めちゃめちゃ金持ちではないけれど、めちゃめちゃ貧しいわけでもない、いわゆるふつーの家庭に生まれた。

小学校時代は、多少いじめられもしたけれど、おそらく自分も誰かをいじめていた(意識としてはちょっかいを出していたんだけど、今思うといじめと言われてもしかたないと思う)。

中学高校も、それなりに勉強をし、それなりに恋愛をし、それなりに部活をがんばった。いい思い出も悪い思い出もあるけれど、今となっては楽しかった記憶の方が勝っている。

親には大学まで出してもらい、一般にはそんなに知られていないが、業界では知られているような大企業にも就職できた。

学生時代から付き合っていた彼女結婚し、子供が生まれ、その子供も先日中学生になった。

会社でも、大変な仕事をいくつかこなし、つらい時期もあったが、それが評価されてそこそこの出世を果たし、生活には困らないレベル報酬ももらえるようになった。

好きなものが楽しめて、時間も作ろうと思ったらそこそこ作れる。これから楽しい盛りなのでは?と期待していたが、年齢的な体力の衰えを如実に感じだした。

体力がないと楽しいことも完全には楽しめない。体力・財力の曲線があるとして、その合算値がmaxのところが人生ピーなのだとしたら、そこはもう超えてしまったんじゃないか不安かられている。

2018-09-17

小学生とき一番嬉しかたこ


私は運動が苦手で走るのも遅くて運動会が苦手だった。でも絵を描くことだけは自信があったから、赤組白組でそれぞれシンボルマークを生徒が描いて投票で決めるって知ったとき徹夜して絵を描いた。

私は赤組だったから「火の鳥」を描いた。図画工作で使うような簡単な絵の具しか使わなかったけど、30作品の応募があったなかで圧倒的に大差で1位を受賞した。運動会当日には体育館の外壁に私が描いた火の鳥がでっかく貼り出されていて、本当に嬉しかった。何より親や祖父母も運動会に来てくれて私が描いたシンボルマークをいっぱいいっぱい写真に撮ってくれた。100m走はビリから数えたほうがはやいくらい悪い結果だったけど、それより何より家族が私の絵を観て褒めてくれてくれたことが嬉しかった。それから運動会は私にとって楽しみなイベントになった。せっかくなら100m走でも1位になりたいと思って、走る練習もした。そしたら翌年の100m走で初めて1位をとれた。私にとって運動会は小学校で一番好きな行事になった。

少し時間が経ってからあることを知った。シンボルマークの生徒から公募提案したのは当時の図工の先生だったそうだ。なんでも「運動会で輝けない生徒達にも活躍の場を与えて行事を楽しんでほしい」という思いがあったそうだ。

私が中学に入りその後の離任式に参加したときにその図工の先生からその話を聞いて、「私に居場所をくれてありがとうありがとうございます」と号泣してしまった。

それからいくつかの絵のコンクールに応募してたまに賞を取れていたりする。私が絵を好きになれたこと、努力が報われる喜びを教えてくれたのは紛れもなく図工の先生だった。

もう定年退職しているかもしれないけど、またどこかで会えたらありがとうって伝えたいな。

2018-09-16

anond:20180916173735

障碍者や死人が出たら大川小学校教師みたいに糾弾される流れになるんでしょ

スポーツ人口が減ったのは少子化で仕方のないこと

解決策を求めるのが誤りで

すべきことは兵隊の不足を受け入れること

「気にならない」「自主性に任せるべき」

県外に旅行に行っていて、今はバスに乗って帰るところだ

目的バス停に着くまで3時間ほどかかる

疲れているのだが、後ろの席に座っている女性二人組がけっこうな声でずっと喋っている

前に座っている男性二人組も喋っている

きっと到着まで喋り続けるのだろう

しかし、俺は周囲の音が気にならないタイプなのでまったくイライラしないし寝ようと思えば余裕で寝られる

ファミレス子どもが大騒ぎしていても別に気にならない

ギョピピピピーーーー!!!!と奇声を上げながら走り回る襟足の長い子どもがいても何も思わない

自分には関係がないか


ところで俺は小学生くらいの子どもに関わる仕事をしているのだが

仕事中は子どもの話し声や物音が気になっていつもイライラしてしょうがない

どんなにうるさい子ども簡単出禁にできない以上一刻も早く真人間になっていただくしかいか

かに過ごしたいおとなしい子どもを守るためにうるさい子どもを注意しなきゃいけないか

それが仕事から

思いやりのない大人になって犯罪者にならないように今のうちに躾けなきゃいけないか

注意しないと注意しないことを上司咎められるかもしれないか

本当はこいつらの将来なんてどうでもいいから走り回って滑って転んで頭が割れたり、持っている鉛筆を通りかかった子に突き刺してしまっても別にいいんだけど

走っている子どもを注意しない近くの大人責任がーー!と言われてしまうかもしれないか

増田だって子どもの頃、大人ってうるせえなあ、ほっといてくれよ、って思っていただろう

こっちだって本当はお前らのことなんてどうでもいいんだよ

自分関係ないところでは好きにすればいい

でも自分関係あるから必死に叱るんだよ

から買い与えられたスマホ10の子どもがハードAV見たりpixivのR18-Gタグ特殊性エロ見てたってどうでもいいし好きにすればいい

小学生とは思えないムッチムチの体型でシャツビリビリに破れて腹と下乳見えててスカートめくれてパンツ見えそうで縦笛とランドセル持った女の子が表紙のラノベだって自分の小遣いで買って自分の家の本棚に並べるなら構わん

ただ、それを公費で買って小学生向けの本として棚に置けるわけがないだろう

バカなのか?

若い職員自分で読む分にはいいんじゃねーって思ってても

公共図書館児童書コーナー、小中学校図書室、児童館本棚小児科の待合室に

置ける!わけが!ないだろう!

小学校1年生の子どもやその親や還暦間際のジジババ職員萌えエロ絵が並ぶ棚を見せていいと思ってるのか?

クレームが来た時糾弾されるのは誰だと思ってるんだ

本を読む自由、読みたい本を選ぶ自由はあります純文学だってエロ描写あるのにそれが許されてラノベNGおかしい!ドスケベ表紙のラノベ小学生に届けるために職を失おうとも戦います

そんな奴の方がよっぽど頭おかしいだろ


子どもに任せて放っておくべき、自由にさせるべき、なんていうのは

お前らが子どもになーんにも関係ないところにいるからだろ

自分子どもを叱ろうなんて一切思わない、子どもに優しくできる、かつての自分みたいな根暗そうな子に優しくしてやるんだ、自由にさせてあげよう、抑圧された子どもたちに救いを、なんて考えてる奴

そういう奴ほどいざ子どもと関わったら俺みたいになるから

死と骨と

私が最初に「死」を知ったのは、たぶん3〜4歳のとき

家族長野県にある小林一茶記念館で、親から小林一茶は死んでいる」ことを聞かされた時だった。なぜかその時のわたし小林一茶に親しみを感じており、かの一茶が既に「死んでいる」ことに大きな衝撃を受けたのだ。死ぬことがどういうことかよくわかっていなかったと思うが、自分の興味・親しみの対象がこの世から無くなってしまうことがあるのだと理解した(幼い子供は、あらゆる意味においてものごとが未分化状態にある。死という自分対象を引き裂く現象は鮮烈だったのかもしれない)。

その後も、私にとって死との遭遇は特異なものであり続け、不思議と私の興味をそそった。

5歳くらいの頃、家族高原ドライブに行ったときに、死に出くわすことがあった。

車を運転していた父が「あそこに死にそうな牛がいる」と、突然言い出したのだ。

父は路肩に車を停め、数百メートル先の牧場の牛舎を指し、ほらあそこに倒れている、という。私はどこどこ、と後部座席から乗り出してその牛を探した。

結局私は父がどれを指しているのかわからなかったが、家族4人で数分間じっとその牛のいる方向を見つめていたときわたしは何か畏れ多いものに触れるような感覚を覚えていた。

ドライブの帰り道も、帰宅した後も、あの牛はどうなってしまったんだろう、なんで死んでしまうんだろう、と想いを馳せていた。生き物の死に、ぼんやりとした悲しさと寂しさを感じていた。

また、こんなこともあった。小学校低学年の頃だったか実家敷地には昔、古い木造倉庫があった。祖父が細々と農業をしていたため、中には農耕具が雑然と積まれホコリとタールのにおいがしていた。その倉庫家族で片付けたときに、中に積まれていた段ボールの中で野良猫が息絶えていたのを、父親発見したのである

私は猫好きだったこともあり、死骸を見てしまたことにショックを受けた。と同時に、私は生き物の死に対してかすかな好奇心が湧き立っていたことに気づいていた。

当時の私は化石好きで、そこから派生してどういうわけか生き物の「骨」に異常な興味を持つようになっていた。道端に転がっていた骨らしきものを家に持ち帰り、これはなんの骨だと父に詰め寄ったこともあった。家の庭の土を掘っては、何か骨が出てこないかしたこともあった。

父達が猫の死骸を見つけ、枯れ木と共に段ボールごと燃やすという話を聞いたとき、実を言うと私は燃やした後の猫の亡骸がどうなるか知りたいという強い気持ちに駆られていた。もっと言えば、あの猫の「骨」がどうしても見たくなった。

時間後私はこっそり家を抜け出し、ことの始末を見に行った。枝で白い灰を探ると、何本も細い骨が出てきた。私はそのうちの1本を取り出し、家に持ち帰った。

骨は思った異常に軽く、脆く、青白かった。

自分の期待していた骨はこんなんじゃない、という落胆と、こんな形で容易く骨を手に入れてしまった自分に、ひどく失望した。それに耐えきれなくなった私は、結局その骨を元の場所に戻した。

それ以来、骨の蒐集への熱はパタリと止んだ。


しかし、骨は呪いのように私につきまとっていたようだ。

小学校高学年のとき、あるきっかけで小学生が書いた文集を読むことがあった。その中には身近な人を亡くした子どもたちの体験記が綴られていた。自分と同年代の子供が自分祖父母や親の死に直面し、火葬に立ち会う場面が幾度となく描写されており、当時の私に大きな衝撃を与えた。自分と歳も変わらないのに、そんな究極な場面に遭遇する子どもがいるのかと。

見事に骨への興味が再燃した私は、その頃普及しつつあったインターネットで、火葬場の仕組みや火葬場の写真検索した。調べれば調べるほど、人間の骨をこの目で見たくなった。

ちょうどその時期に父親が突然亡くなり、火葬の場面に立ち会うことになるとは、本当に皮肉なことだった。

40歳前半で死んだ父の骨は痛々しいほどそのままの形をとどめていた。金属の焼けたような鋭い匂いは、大人になった今でもあの記憶と共にかすかに鼻腔に甦ることがある。その場面は、11歳の私にとってあまり凄惨光景であった。頭蓋骨の2つの眼窩ポッカリ空いているの見た私は、もういい、許して、と心の中で叫び、浅はかな興味を持った自分を呪った。



あれから15年以上経った。今、比較的人の死に身近な仕事をしており(葬儀関係者ではない)、時には身寄りのない人の遺骨を扱うことも少なくない。

この前、つい好奇心に駆られ、事務所で保管している骨壷の蓋を開け、こっそりその中身を見てしまった。

やっぱり自分は変わらないな、と苦笑するしかなかった。

こわい、でも、みたいしりたい。自分の中で死と骨は密接に絡み合い、私を捉えて離さない。

[] #62-1「アノニマン」

住んでいる町の治安はいいか

観光客っぽい人に、一度そう尋ねられたことがある。

その時、俺はどちらともとれる表現で返した。

治安が悪いから、そんな反応で濁したわけじゃない。

本当にどちらともいえるし、どちらともいえないからだ。

この町では、色んな自治体自警団がある。

警察だけじゃ手が回らないから……ってのが一応の理由だとか。

実際はそれらが幅を利かせているせいで、警察に何もさせていないって方が正解だと思うけど。

俺が生まれ大分からそんな感じだったらしい。

からなのか、俺たちの町ではシケイ行為ってのにとてもユルいんだ。

ちょっとした犯罪揉め事くらいなら、住人たちで勝手解決しようとする。

自治体自警団だけじゃなくて、一人で取り締まっている奴までいるんだ。

かくいう俺もこの町で生まれ育ったわけだから、そんな風景を当たり前だと思ってる。

しろ、そういう状況を楽しむ余裕すらあるくらい。


「やっぱり『魔法少女』が人気ではトップクラスかなあ」

今日もミミセン、タオナケ、シロクロ、ドッペルという、いつものメンバーでシケイキャラ談義に花を咲かせていた。

私、女だけど魔法少女』より『サイボーグ少女』とかのほうがカッコよくて好きだわ」

タオナケ、それはちょっと古くないかなあ? 『サイボーグ少女』が活躍していた頃、僕たちはまだ生まれてないだろ。なあ、マスダ?」

「昔のなんて知らねえよ」

俺はぶっきらぼうに答える。

タオナケの言っていた『サイボーグ少女』ってのは、たぶん母さんの若い頃の呼び名だ。

俺は思春期真っ盛り。

ケイキャラの話で盛り上がりたいのに、身内の話なんて広げられたらたまったもんじゃない。

「確かに昔だけど、最近のなんて語り尽くしているんだもの。今回は趣向を変えてみてもいいんじゃない?」

ノスタルジー!」

シロクロはそう言って、手を大きく振り上げた。

タオナケの提案に賛成ってことらしい。

「んー、それもいいか

ミミセンもそれに乗った。

ドッペルは何も言わないが、聞き専なのでどっちにしろ関係ない。

まずいな。

このままでは『サイボーグ少女』の話になってしまうかも。

俺はそうさせないよう、真っ先に話を切り出した。

「じゃあ、俺から話す……みんな『アノニマン』って知ってる?」

みんな首を傾げる。

「やっぱり知らないか……」

色んな人に『アノニマン』について話したことがあるけど、大体みんな同じ反応だった。

そこまで有名じゃなかったんだろう。

でも俺にとっては、間違いなく最高のヒーローだ。

アノニマンに出会ったのは、俺が小学校に行き始めた頃……」

(#62-2へ続く)

数学勉強を今も続けている理由は何でしょうか。

 

単純に面白いから、というとそれまでですが、「この世とは何か」という、世界秘密を知りたいという欲求からです。例えば、「時間空間とは何か」という問いに、僕はすごく興味があります。「ひも理論」のような現代理論物理学の話などを専門書で理解するのは無理なので、一般向けの本などで読むわけです。しかし、数学が分からなければ、一般向けの解説本すら内容がよく分からない。かといって、子どもだましの比喩説明では満足できない。そのため、数学勉強して、物理学者が捉えている世界イメージ自分の頭でも理解たかったというのが一番の理由です。そして、数学は難しい。この世にはさまざまな不思議がありますが、僕のように50歳にもなれば大抵のことは分かった気になってしまう。でも数学は、分かった気になることすらも難しい。数学こそが、人生最後に残ったどうしても分からない謎なんですよ。

数学重要性を感じたのはいつですか。

決定的に必要だと感じたのはAI人工知能)の研究です。2014年に「ドワンゴ人工知能研究所」を設立しましたが、AIエンジニアたちとの会話で、数学力不足を痛感しました。

 僕自身プログラミング素養はありますので、これまでエンジニアとの議論についていけないことはほとんどなかった。ところが、ディープラーニング説明されても、数学的なところが分からない。現代数学教養がなければ、ディープラーニングの仕組みや可能性が理解できないなと実感したのです。

 また、エンジニアは最新の技術動向をカバーするために、膨大な知識継続的に覚え続けることが必要ですが、数学は量より質なのです。部下のエンジニアは忙しいので、数学真剣勉強する時間なんてない。だから数学勉強して、現代数学用語を会話にちりばめると、エンジニアに対して精神的に優位に立てる。「マウントを取れる」ということです(笑)

個人的家庭教師をつけているとも聞きました。


 2016年正月数学の「群論」に関する本を読んでいて、「そういえば、10年くらい同じ本を読んでいるな」と気づきました(笑)。これは誰かに教えてもらわないと、一生かかっても数学はたいして理解できないと感じてツイッター家庭教師募集し、3人にお願いしました。

 そのうちの1人は社会人向けの数学塾の講師で、企業相手にもよく教えているそうです。なので、社内から一緒に勉強する希望者を募集して、ゼミ形式線形代数から教えてもらっています

社内での勉強会は、仕事にも役立つのでしょうか。


 いいえ。そもそも会社の経費ではなく、僕のポケットマネーで開催しているので、業務ではなく、趣味部活のようなものです。ですから確率機械学習など仕事にすぐに役に立ちそうな実用的なテーマ禁止し、勉強会は「純粋数学」だけに限定するというルール最初に決めました。

数学を学び、視野が広がったと感じることはありますか。


 世界がどのように成り立っているのかを考える時に、数学は極めて論理的思考方法を与えてくれます。「現代数学は専門的で役に立たない」という人がよくいますが、大間違いですよ。

 数学進化して、あらゆるもの抽象化してきました。一見世間から遠ざかっていくように見えますが、逆です。抽象化が極限まで進むことで、世の中で数学対象にできないものは、ほとんどなくなっていると感じます実用的に何か計算できるかどうかは別ですが、数学で扱えない現実世界問題なんてものは、ほぼないのです。

数学専攻の学生の獲得競争は、米国では激しいもの日本ではあまり重用されていません。

 

今後、数学勉強した人の価値は上がりますよ。今の日本は、数学社会が隔絶しすぎです。AIディープラーニングを学ぶ新卒学生1000万円出す企業はあるのに、現代数学専攻の学生にそれだけの額を提示する企業がないのはおかしい。日本社会数学科の出身者をもっと尊敬し、待遇を上げなければいけません。一方、数学を専攻した学生側も、実社会にもう少し関心を持ってほしいですね。

「誰もが微積分を学ぶべき」と社内で発言したと聞きました。

 

記憶にないです。わざわざ発言する理由もないぐらいに当たり前のことですね。もし言ったとするならば、学ぶべきという趣旨ではなく、「微積分の考え方は、文系の人でも普通に使っている」という意味でしょう。

 例えば、売り上げ増を評価する時に変化率を調べ、ぐんと増えているのか、微増なのかをチェックすることは微分ですし、将来の売上高の試算は、積分的な考え方を使っていますよね。微積分は要る要らないを議論するまでもなく、必要なことは自明でしょう。僕が主張するのだとすれば、今の大学学部数学科で教える程度の内容は、全ての人が基礎教養として学ぶべきだということです。

数学が苦手な社会人は、まだまだ多いですよ。

 

世界秘密を知りたいという欲求を持っているならば、数学を諦めることは人生を諦めることと同じだと思いますけどね。

 今後、ディープラーニングは間違いなく人類歴史を変えるでしょう。だから今、数学をやらない選択肢はありえない。なぜなら、現在ディープラーニング実験科学的な手法に偏って発達していますしかし、理論的に正しい設計というものもあるはずです。その理論を見つけるためには数学的な素養必要でしょう。

AIは、もっと理論的に突き詰めることができる、と。

 

ええ、僕は人間の脳も現在ディープラーニング技術の延長として、数理モデル説明できるようになると考えています最近ディープラーニング数学解釈するという論文が出始めています東京工業大学加藤文元教授ドワンゴAIチームで、そうした論文をいっしょに読む勉強会を、今年から始めました。1年以内に、僕らでも何か1本、論文を出そうという意気込みです。

数学で学びたいことのゴールはあるのでしょうか。

 

ただ知りたいだけなんです。分かったら、別の分からないことが生まれて、関心はどんどん移っていく。今の興味は「保型形式」ですね。

 僕は、仕事をすることが退屈で仕方がない。結果が分かっているのに、結果が出るまでには半年かかったりして、かったるくてやっていられない。それを数学勉強することで、何とかごまかして毎日を過ごしているのです(笑)

 小学校で習った最大公約数とか、二度と後の人生勉強することはないと思うでしょう。ところが、現代数学では基礎的な算数が形を変えて登場する。例えば、約数とかの話は「イデアル」として再登場して、「可換環論」へとつながる。ああ、小学校算数はこれを学ぶためのサンプルで、たんなる伏線だったんだなと感動します。

 高校までの数学は、プロローグに過ぎません。大学以降の数学を学べば、それまでの数学はこのためにあったのだと分かる。その感動をぜひ多くの人に知ってほしい。

 現代数学は、これから人類絶対必要な最低限の教養です。人間の知性が到達できる限界点を教えてくれるものでもある。そして残念ながら、僕も含め、ほとんどの人が身につけていない。でも挑戦するに値するものだし、たまたま現代に“生”を受けた僕らにとっては挑戦しなければ、あまりももったいないと思うの

2018-09-15

anond:20180915220547

おなじく疑問に思う。

いまひとつ思い出せないのは、小学校だか中学校だかの性教育マスターベーションを初めて習ったとき、どんなものオカズにするものだと教わったかクラスメイトの裸などを思い浮かべてするもの、というのは明らかにおかしい。

単に性器を擦れば精液が出るものといわれたわけではないはずだが…

anond:20180915193321

ボンボンがあった時代の話でいいのだろーか

ちゃおは低学年からりぼんなかよし中学からターゲットだと思うが読者層に対立は少なかったと思う

中学進学を期に一部は別マ少コミに移行するが、基本ファッション誌などを購読したまに人気のコミックスを借りたり、に落ち着いた傾向

花とゆめ少年漫画BLに手を出し始めるのが小学校高学年陰キャ

経験上この3つのファン恋愛少女漫画を叩く傾向に走る(全員ではない)

花ゆめ読者は3大誌よりも絵が美麗で話も深い、と思っている

少女漫画が嫌いなだけでBL好きと一緒にされたくない少年漫画ファンもおり、コミックス派が多い

BL中学あたりから同人に手出し始める子も多く、当然少年漫画兼任も多数

人の名前に対する記憶力が秀でてる

自分は多分人の名前に対する記憶力が秀でてる。

小学校の時の級友、中学校の時の級友、高校の時の級友もとい先生などなど。

ありとあらゆる人々の名前と顔が、同じ空間にいた時、話した時の景色が出てくる。

もっと言えばフルネーム漢字も出てくる。

サヴァン症候群?のように綿密に実際に描写できればいいのだけれど、あるのはリアル景色記憶のみ。

本などは一度読んでも覚えられないしましてや理解できない。

まぁそんな名前と顔とかに対する記憶の良さがあっても人間関係の構築はてんでダメでそれを活かせた局面はない。

中高は無難に過ごしたものの、小学校の時はイジメられていた。

よく世間は狭いというけれど、それを痛感させるがごとくFacebookというツールはなかなか憎らしい。

友達を辿れば意外といるものである

イジメ&無難に目立たずに過ごしていた故に、自分だけ一方的に覚えていて相手からは忘れ去られてしまっているという局面に直面する。

これは意外に心にくる。

いっそのこと知らない人として流せれば、自分記憶から抹消できれば全く問題ないのに。。

2018-09-14

小学校低学年くらいで強い性的魅力を感じたのは、

きまぐれオレンジロード鮎川下着姿とかだな。

ブルマのお風呂シーンはどうだっただろう。

小学校後半くらいでZZガンダムプラモのバウの箱の

キャラスーンの絵に性的魅力を感じた記憶がある。

バウじゃなくてRジャジャだった。

今はキャラの絵には性的魅力はほとんど感じないし、

鮎川もそこまでではない。

ブルマは美しすぎる女体って感じ。

物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。

物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。

死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。

母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。

後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。

とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。

幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。

周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園先生からこっぴどく怒られた覚えがある。

書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。

小学校に上がってから記憶ほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。

唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。

うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。

和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」

当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。

けっこう対立してる組織だったのね。

対立組織に属する夫婦、すごい。

私は熱心で信仰深かったかというと、それの真逆だった。

親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。

当然親からは殴られた。それでも反抗した。

そして家族の中で一番信仰深かったのは母だった。

父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。

三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。

でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。

「お前が信心深くないから家庭が上手くいかない。」

「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」

父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。

言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。

母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。

その伝言を父に伝えても、特に私に当たったりなどは無かった。

そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁飛び降りコンボを使って未遂を起こした。

ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。

首にあてがった包丁感覚は今でも覚えている。

その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。

私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。

母は号泣していた。

この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。

あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」

いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。

そういう事件中学に上がるまでに二回ほどあった。

ショックを受けた母はどんどん宗教にのめり込んだ。

中学に上がってから記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。

唯一携帯電話を持っている友人が私の家族電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。

寒い寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。

両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教集会に行っていたらしい。

私の状態さらに悪くなっていて、意識が途切れ途切れだった。

そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。

翌日、小児科医師が私の様子を見に来た。

蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いねハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」

思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。

あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。

「目の下のクマもすごいね、週にどれくらい寝てるの?」

「…二時間くらい。」

「何とかしたいと思う?」

私は静かにうなずいた。

その日から私の精神疾患に対して、具体的な治療が始まった。

私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。

治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。

治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。

鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。

精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。

そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試指定校推薦を受けることが出来た。

ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。

高校合格した時、母の言葉を未だに覚えている。

「お母さんの信心が届いたおかげよ。」

この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。

不思議なことに落胆はしなかった。

あきらめていたんだと思う。

高校楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。

高2の春休みが終わる頃に、自転車日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。

夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。

国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。

東の空が明るくなった。

夜明けだ。

夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?

そう思って反対側を見るとまだ夜だった。

月と太陽が同時に見えた。

その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。

けっこうな時間泣いて、家に帰った。

この時は特に家族から怒られることは無かった。

そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休み最後に、小児神経科主治医判断により治療がひと段落した。

不眠は改善し、リストカット癖も消えていたからだ。

希死念慮だけは消えてなかった。

主治医見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。

実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。

大学入試指定校推薦理系私立短大を受けて、合格した。

大学はかなり白熱した環境だったので研究学業にのめり込んだ。

2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社就職した。

仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。

そして、就職してから数か月後に精神疾患を再発した。

今度の病名は統合失調症

そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。

統失治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。

しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。

そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境引越しをした。

その日から今日までの1年の間に色々なことがあった。

引っ越した月に友達付き合いが続いていた元恋人自死

病名が統合失調症から統合失調感情障害になった。

そこから半年後に父が癌で余命半年の宣告を受け。

自分自身も体調がすぐれないので、実家に戻ってきた。

そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人自死

私が実家引っ越しから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤放射線治療、本人努力甲斐があって腫瘍が消えた。

これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。

あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。

そして現在に至る。

今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。

しかしたら時系列おかしくなっているかもしれない。

疲れてめんどくさいので、推敲はしないでアップします。

人生いろいろあるよねってお話でした。

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます

お互い、人生を良い旅にしていきましょう。

クラスでウェイってるけど実はうつ病なんだわ

アイドルマスターしか趣味ない

元々陰キャなんだけど、高校楽しすぎて好き放題してたらクラスのアホ代表みたいになってた

小学校とか中学一緒だったやつと地元で会って「顔変わりすぎ、整形した?w」とか言われて熱出たわ

メガネ外して化粧しただけなのだが…

心療内科通ってるけどこのまま大学生なっていいのか

電車に乗ると死にたくなるので最近引きこもりだわ

友達からラインが溜まってる

暇だから返信したいけど心労がすごい…

本当にamazarashiアイドルマスターしか魂の救済ないわ…

人間辞めたい

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