はてなキーワード: 宗教観とは
昨日、スポーツバーで海外サッカーの話で初対面の男と意気投合して、近くのホテルで寝た。高校まで強豪校のサッカー部でレギュラーだったという男の身体は引き締まっていて、魅力的だった。
ただ、その男は夜風呂派だった。夜、寝る前に風呂に入り、普段なら風呂上がりにパンツを履き替え、翌朝は髭を剃り、髪を整える程度だと言う。私は朝風呂派で、夜はメイクを落とす程度、翌朝に風呂に入り、パンツを履き替え、真新しい気持ちで朝日を浴びる。この違いは大きい。見解の相違、埋めがたい溝、いわば宗教観の違い。
眠りというのは、死である。意識の電源を落とし、完全に無防備な状態で、魂の抜けた肉体を横たえて翌日生まれ変わるための力を回復する。死と復活の儀式。太陽が沈み、また登るように、肉体は眠りという死を経て復活する。この儀式をどう捉えるか。ここに夜風呂派と朝風呂派の意識の違いが現れる。
眠りという死を重視し、身体を清めて布団に入るのが夜風呂派である。新しいパンツを履き、神妙な面持ちでパジャマという正装に着替え、神聖なる死の床に就く。対して朝風呂派は、死は復活の儀式の一環であり、朝の目覚め、そして復活の後の清めを重視する。何よりその日の生を祝福するために、身を清めて一日を迎えいれる。
とにかく私としとは、夜風呂派と長く一緒にいることはできない。眠る前には気持ちがすっかり冷めていて、おかげで熟睡することができた。朝、まだ眠る夜風呂の男を起こさないように、静かに身支度をし、さっさと電車に乗った。
「薬草=神への供物」説には、いろいろ疑問点があるが、最大の疑問は「薬草のどのような要素が神への供物として(神に)認識されるのか? 供物として捧げられた薬草はどうなるか?」が一番大きいかな。
たとえば、ホイミ等を「MPというある種の生命エネルギーを捧げることでHPエネルギーを神から授かる呪文」だと考えるとすると、薬草はMPに相当する生命エネルギーをもったものということになるし、使用後はそのエネルギーを喪失すると考えるのが妥当だろう。だが、薬草はいったん刈り取られて商品として販売されている。絵などを見ても、おおむね単なる葉っぱ扱いであって、普通に考えればただの死骸だ。生命エネルギーを捧げる行為は、収穫した時点で終わってしまっているのではないだろうか?
次に、神道における榊のような、いわば神職の手を経て加工されることである種の「依り代」としての役割をもたされた聖なる存在である、という観点から考えてみよう。なるほどそれなら植物自体は単に象徴としての供物であって、神は「捧げる」という行為の完遂をもって願いをかなえているのだと考えることはできる。榊を捧げて心が安らかになるのと同様に、薬草を捧げてHPを回復するということだ。だが、そうなると「薬草」を生成するのは神職がもっともふさわしいということにならないだろうか。なぜ薬草は「道具屋」で売られているのか。神殿や教会は、初級の神官に薬草生成の労働をさせて道具屋に卸しているのか? 復活の呪文を唱えたりといった商行為を普通に行っているのに、どうして薬草だけは道具屋におろすのか? 直売すればいいのではないか?…等々を考えるとやはりおかしい。薬草の生成に神殿が関与している可能性は低そうに思われる。
何より、異世界語との翻訳の問題もあるかもしれないが、上記の2点に相当するようなものを我々は普通「薬」とは呼ばない。「薬」と称されるものは、何らかの方法で体内に取り込むことによって、その成分から何かしらの身体的作用を得るようなもののことを言う。それならば、「薬草」を「使用」するとは、端的に言えば(まさに空腹をも5%回復する不思議のダンジョン的に考えれば)それを「食う」行為なわけであり、その場合、「何かを食う」ことが「何かを神に捧げる」こととイコールであるという宗教観・世界観が設定的に必要になると思われるが、そういう設定が「薬草」以外にも表れているような作品を私は寡聞にして知らない。また、元増田が完全に見落としているのが、これも多くの作品に登場する「ポーション」の存在である。一般に薬草のやや上の効力をもつように設定されているポーションであるが、明らかに人間の手が介在するこのアイテムを、また「神への捧げもの」と考えるのにはかなり無理がある。
だとすれば、「薬草」の体力回復作用は、単純にそれを摂取することで生じる薬効成分の作用だと考えるのがもっとも妥当であり、ポーションはその成分を何らかの方法で抽出したものと考えるのがもっとも妥当であろう。もちろん、そこに魔法的な意味合いの薬効が存在すること自体は不思議でないとしても、神を介在させることには特に妥当性がないと考えられる。中毒したり副作用が生じたりしないのも、まあ、突き詰めれば魔法だからだよ。な。
強姦罪は同意のないセックスに成立するのが基本だが、公然わいせつ等は同意の有無に関わらず成立する。
これを公然と裸になった程度では周りの同意の有無に関わらず犯罪として成立しないように法改正するべきではないか。
当事者の同意の有無に関わらず成立する犯罪の多くは公序良俗に対する罪だというが、この場合の公序良俗の根拠は「性器を見せたり見られたりすると羞恥心や不快感を抱く人たちが相当数いる」ということにあると思う。
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宗教観に反して今で言う公然わいせつに相当するふるまいをする人間を恥ずかしい行いと謗る
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恥ずかしい行いと言われるから(公衆の面前で笑われるから)恥ずかしいと思う層が出て来る
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そいつの家庭で育った子はこのようなことに関して恥ずかしいことと言い聞かされて育つのでネイティブに性に関する層を恥ずかしいと思う層が誕生する
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5匹の猿の完成し、列強の圧力として日本にも波及。そしてこの層が今も多数現存していることがわいせつ関連の法律の改正を難しくしている
こういう法律があるからそういう層が再生産され続ける面がある。
また再生産されている層がこのような法律の改正に歯止めをかける働きをしている面がある。
この相互作用を解くには、裸でほっつきあるいるという程度の人間に対する不快感を法律で特別扱いするのをやめることだ。
こんなものは「テレビに出てると嫌な芸人がいる」程度の不快感と本質的に差などない。数多くの不快感を感じる一例に過ぎない。
逆に同意なく性器を顔に近づけるとか、それ以上の域に達するものに関しては必要に応じて厳罰化すればよい。
性そのもの、性に関するあらゆることが悪いのではなく、峻別をつけるべきだと法の改正をもって大衆にわからせるべきである。
そもそもああいう為政者がいなければ単なる露出ごとき公序良俗の侵害とみなす価値観自体存在しなかったはずというわけである。
テレビで入浴映像で性器にわざわざモザイクを掛けさせる手間を強いる法律なんてなくてよろしい。
そんなだから性を過剰に禁忌とみなす層が出て来る。俺もその一人だった。
思春期になってむらむらが加速度的に高まっても心安くオナニーできる場所などなかった。
性に関わることに自分を巻き込むことは大変な悪だと考えてしまっていた。親には絶対にばれないように自分ではしているつもりでいた。
が、ばれないような状況になることなんて滅多にないので実質的には禁欲生活を強いられているようなものである。
刑務所では陰部摩擦罪とその我慢を強いることが刑罰として成立するぐらいだ。罪も犯していない人間がそれぐらいのつらさに耐える状況が大人になってもしばらく経っても続いたのだった。
もっとも後日談として親に聞いたらなかなか性に興味を持たないそぶりの私を異常に思っていたようである。
しかしそのような人物を演じさせたのはほかならぬ家庭であり社会であると私は思っている。
隠しているようなことは、してはらならないものなんだと、単純な子供の思考なら、考えてしまうものではないか!
このような勘違いによる悲劇をこれ以上生まないためにも、私は法律の改正を提唱する。
悪いのは性そのものではなく、性「行為等」の強要なのだから。全てひっくるめて隠してしまうから子供はそれらに触れることに妙な後ろめたさを持つようになるのだ。
法律と潔癖な層は相互に分かちがたく結びついているおかげで、公的な場で政治的意見としてこのようなことを言うことすら難しい。
ただ裸になっただけで露出狂だ。窃盗犯以上に人間扱いされない。こんな認識は明らかに合理的ではない。
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18歳以上になった人へ「【親展】成人向けとされているものについて」と手紙を送るようにするのも一案だ。
私のような勘違いを犯した人が自分でその勘違いに気付けるとは限らない。
そこで親展で講座の受講へ仕向けるのである。内容は、性行為自体には実はなんらの後ろめたさもないこと、後ろめたさを植え付ける社会になっているのは未成年への方便であること等、徹底的に誤解の洗脳を解いてやるのだ。
まあそもそも子供にセックスを見せるのは面前DVとかいうけれど、無条件でそうなるような定義がまず間違っている気がするね。
PTSDになるかは確率論の問題だろう。それと、性行為を見せなかったせいで俺のように思春期を刑罰を課されたような状態で過ごすことになる確率と、どっちが高いのか。
というか性行為を見せたら悪影響があるものであってほしい、という清く正しく育った層が政治の実権を握っていることによる、価値観の押しつけが定義に反映されているだけな気さえする。
動物がいちいち子供に性行為を見せない配慮をしてるだろうか。人間というだけで性行為を見せると悪影響が出るというんだろうか?
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そういうわけで言葉を選ばざるをえない、無意識に選んでいる面がある。
世の中なんだかんだいって理屈と同じぐらい、言葉の持つ熱量みたいなもんが重要なのだ。
簡単な話、無機質でニュートラルな性器という言葉を使うより、ちんこまんこと書いた方が説得力を持つ文脈だってあるというわけだ。
どこからそんな鯉憎しみたいな感情が湧いて出てるのか知らないけど、テレビのせいだとしたら本当に恐ろしい
すでに鯉のいる川に鯉を放流することが生態系に何の影響があろうか、というのは考える間もなくわかるだろう
そして安易な放流による問題は、外来種だからどうとか言う話とはまた違う話だろう
遺伝子汚染や病気の拡散もあるし、それそのものに問題点が存在するのは間違いない
しかし、放流や自然への介入というのは人間に利益があるからやってるんだよ
自然をそのまま自然のままにしておくべき、というのは宗教観であって科学や工学ではない
放流がダメだとか遺伝子汚染だとか生態系がとかそういう話をすれば、すべての栽培漁業もダメだし、一度捕まえたカブトムシは再び放せないし、農業だってできやしないわけで、それを厳密にしたいという主張なら別にそれはそれで否定しないけどさ
畑も林業もそうだし、田んぼのサイクルだってそれ込みで生きている生物はたくさんいるし、人の営みと生物の営みは結構相互作用しあってるものなのだけど、人は一切自然環境に影響を与えるべきでないかのような主張はかなり引く
何も鯉もおらず護岸も昔ながらのような川に放したという話じゃない
馬瀬川のコンクリート護岸の農業用水路のような状況を知ってて言ってんなら、それはもう宗教というか思想家やなあと
生態系を破壊しきって絶滅種が発生するようならそれは人類からするとマイナスだか、そうならずコントロールできる範囲で人が自然に働きかけるのは当然のことでしょう
そこに宗教心で憎しみをぶちまけるのはなんか怖いよ
キリスト教圏ホラーでセックスしたら死ぬのは宗教観の関係らしいけど、キリスト教の神様は人間に産めよ増やせよ地に満ちよ言ってるのに何でセックスが悪なんや。
ホラー視聴者が非リア陰キャだからってのはあるかもだけど、日本のホラーは呪われた家に住んでしまったとか、リア充無関係に遅い来るやん。
あえて日本ホラーの傾向を言うなら被害者女が多めかなぁくらいで。
そういやドラキュラくらいの時代は、洋物ホラーもパリピとか関係なく、被害者女が多かったなぁ。
何かしらの時代の流れで、何処からか知らないけどリア充が被害に合うようになったんだろうか。
そう言えば最近は日本ホラーもユーチューバーが被害に合う率がとても上がってる、彼等は無意味にホラースポットに近づいてくれるから使い勝手がいいのもあろうが、日本ホラーもやがては被害者ほぼパリピになるんだろうか。
世界的に見て離婚率が高いのはモルドバの4.0で、日本の2倍以上です。
離婚大国といわれるアメリカ合衆国は2.5で、日本の約1.5倍にとどまります。
アジア地域では、韓国2.1、シンガポール1.8となっており、アジアの中でも日本は高い方ではありません。
ただし、世界各国と日本の離婚率については、婚姻及び離婚の制度や、法律婚同様に社会的に夫婦と認められる制度の有無、宗教観などにより左右されるため、単純に「高い、低い」と比較できるものではありません。
参考:世界の統計2021 2-17 婚姻率・離婚率|総務省統計局
「結婚した3組に1組が離婚する」などといわれることもありますが、それはその年の婚姻件数と離婚件数を単純に比較し、婚姻件数の3分の1程度の離婚件数があったことを根拠にしていると考えられます。
例えば、2019年の婚姻件数は59万9007組で、離婚件数は20万8496組ですので、単純比較すると、34.8%の夫婦が離婚していることになります。
日本では、長期的にみると、人口減少などの理由により婚姻件数が減少傾向にあるため、このような計算方法で離婚率を考えると、離婚率が上昇しているような印象になります。https://www.adire.jp/lega-life-lab/divorce-rate324/
殺してしまったら上から下まで総スカンやで。天皇自体に権威があった (古来からの儀式とかの継承者) からというのはそうだけど、洋の東西を問わず権力掌握のために主君殺すってなかなかない気が...「主君すら簡単に殺す奴が他の勢力ならもっと簡単に潰しに来る」みたいに思わるので相当な根回しが必要やと思う。
臣下に殺されたっていうので思いつくのは三国魏の高貴郷公やけど、これは高貴郷公自らが兵を率いて司馬昭を始末しに行って逆襲されて殺されたから 、後白河が直接平家にぶつかれば殺されるかも?高貴郷公の件は名ばかり皇帝に落ちぶれた東晋の皇帝がこのことを知ったときにそら(皇帝殺して皇帝になったら)そう(権威なんてなくなって名ばかりになる)よ...orz ってなってたので、主君殺すってなかなかできないんちゃうか。
あと、後白河と平家が決定的にこじれたのって鹿ケ谷の陰謀のさらに後の重盛の死後処理で後白河がやらかしたからで、その先は後白河がいようがいまいが戦乱になってたんちゃうか?源平合戦に火をつけたのは後白河じゃなくて八条院周辺だし。後白河にしても平家にしても自分ところの利益だけを場当たり的に追及するところがあって、それがgdgdの源泉だと思う。
なんで天皇がここまで尊くなったかは不明なんだけどやる夫スレでよければ やる夫が大海皇子になるそうです というのを読むといいかも。長いけど。この作者の前作が やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです でちょうどこの時代やな。こっちも長いけど。
以仁王のことか?そりゃ天皇でもなければ自分で反乱起こして戦場に出ちゃったからね。後白河も後鳥羽も戦場に兵を率いて出てはいないのに注意。どちらも合戦は部下に戦わせて自分のところまで敵が来たら素直に従っている (法住寺合戦、承久の乱等)。ここで抵抗したらなにかのはずみで殺されていても不思議ではない、が天皇とはそういうものではない。また当然ながら尊さにも位があって 天皇・上皇 >> 皇太子 >> 親王 >> ただの王 で、天皇家に連なっていても親王宣下されなきゃたいしてえらくはないで。
このころの上皇とか法皇とかは事実上の最高権力者やで。平安中期は摂関家が自分の甥である天皇の後見をすることで権力を握ったが、平安後期では天皇の直系尊属である上皇、法皇が天皇家の家父長権でもって天皇の後見をすることで権力を握った。最高の権門である天皇家の家長として荘園も集積しているので財産も持っている。まあ後白河は中継ぎって見られてたから前任の白河とか鳥羽とかみたいな盤石の権力ってないけど。ついでに父の鳥羽から財産を受け継いでないし。
頼朝は蔵人を務めていた上西門院(統子内親王・後白河の姉にして准母)と母親の実家である熱田大神宮家が助命に動いて助命されたんやで。これらの貴人達の反対を押し切って殺すのは政治コストが高すぎる。そもそも平治の乱時点での清盛は財力武力はあっても正四位大宰大弐にすぎないわけで政権の中枢にいたわけでもないし、反乱鎮圧の立役者ではあっても処刑にどこまで関与できたというと疑問な気がする。平家政権ができあがるのはこのあと後白河法皇と二条天皇の間を上手に泳ぎ回った(平時の乱もその上手に泳ぎ回ったの一部だが)上で1165ごろに二条天皇と政界の大物複数名が相次いで死んだ結果なので、このときの清盛に平家政権全盛期の公卿殿上人数多という未来を言っても信じなかったんではないか?
そもそも天皇家は神道の権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。
昔は仏教と神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。
仏が神より高い位置にいたとか?
日本古来の伝統がたった150年ほどで忘れさられるとは嘆かわしい。明治政府のなんと罪深いことよ。仏教は日本に受け入れられる際に神道を取り込んでこのころには不可分になってるで。そのあたりの理屈をつけたのが本地垂迹説やな。出家すると神道の儀式を主催するのは不適切という概念はあったらしいので、神道の儀式は現役の天皇にまかせて退位したら出家して仏教の儀式に専念する、というのはありかもしれない。神道も仏教もどちらも国を護るには重要やしな。
平家物語の海外の反応で、平家はなぜ後白河法皇を殺さないのかと言うのがあり、なんで殺さんのだろうと考えた。
でも反乱を起こした高倉上皇の兄弟は殺していたから、天皇家を殺すのは場合によってはいいんだよな。
見ててどうしてもヒヤヒヤするとこだから、源頼朝を殺さないとこから謎すぎるし、まとめて殺してしまったほうがいいのでは?ってどうしても思ってしまうけど、多分なにか都合悪いんだよね。
後白河法皇殺したらどうなるんだろう、逆賊平家うつべしって日本全国の武士が反乱起こすのだろうか?
でも天皇でもないのに後白河法皇の死にそこまでの重さはあるのだろうか。
そもそも天皇家は神道の権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。
昔は仏教と神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。
仏が神より高い位置にいたとか?
本気でわからん。
めちゃくちゃ朧気だったけど、ここまで日本史わかってないとは思わなかった。
こちらの話
その人が「自分の気持の中だけで」好きだという感情を昂ぶらせたりするのを「推してる」と呼ぶような
言葉そのものが元々持っていた意味としては確かにより能動的、実際になにか行動したり金を使ったりという意味合いが強まりそうだけど
あえてその元々ある言葉の意味を当てはめることで強い思いを表すという形なのだと思う
以前はなにか素晴らしいものを表現する時に「神」という言葉を持ち出すことは過剰すぎて
ちょっと使い方を間違うと聞いてるほうを引かせてしまうほど引き合いに出すには意味が大きすぎた
そこには場合によっては宗教観とかやや重い意味さえ乗っかってしまいそうなので割と避けがちな表現だったと思う
しかしある時期から中高生などの若い子が「すごいじゃん」と同じくらい軽い感覚で「神ってる」と言い出した
これにより一気に一般的なレベルにまで「神」が引き下げられたのだ
その後「神ってる」は言われなくなったがなんでもかんでも「神」とする表現は定着して
ちょっと美味しいスイーツがあれば「これマジで神」と言ったり「~のリップマジ神だから」など
以前はサッカーの神様とか映画の神様とかごく一部の選ばれし人にしか使われなかった「神」はついに命のないものにも気軽に使われるようになった
この現象自体は古より「八百万神」あらゆるものに神が宿るという日本的な概念ととても親和性が高く
しかし言葉本来の意味を考えれば神というのはいわば最上級の褒め言葉なので、大人達はふと思うのだ
「それが神だとしたらもっといいものが出てきてしまったらもう言葉がなくなるのでは」
昨日の神と今日出会った神は仲良しでありまったく問題なく並列できるのだ
ちょっと話がズレた気がするが要はより過剰な言葉を当てはめることで表現の強度を強くする
「推し」という言葉についても、そもそもは実際のヲタ活動における散財や行動と相性が良いから使われ始めたのかもしれない
ただ今となっては「ファンです」と同じ意味合いで「推しです」という言葉は使われるようになった
「~さんは私にとっての神です」という比較的ガチなトーンから「今日のご飯マジ神」という軽い神にまで神の存在が近くなったかのように
「推している」という言葉の意味も今では「好き・・・」くらいの意味合いになっているように感じます
それは「日本大好き外国人」による「他国人が日本の着物を着る行為への批判」みたいなものだ。他文化の人間がそれを指摘する立場にはない。
また、アラビアンナイトに限って言えばイスラム教に侵略される前の時代の地域の物語なのでイスラムとは関係のない場合が多い。
つまりアラビアン~と形容しているからと言ってイスラムと直接関係のある概念だと指摘するのは無理。
日本だって、多くの地域の信仰は最初から「神道」によるものではなかった。
侵略(統一)のために神道として塗りつぶした部分があるわけで。「神道としてタブーな価値観」も、塗りつぶされる前はタブーではなかった可能性もあるんだ。むしろ、塗りつぶされたということは神道には都合が悪かった価値観である可能性が大きい。
宗教の○○主義、的な価値観に染まると、そういった歴史的事実や宗教価値観に反する文化が見えなくなってしまう危険がある。宗教を学問として学ぶ前にはその手の注意を先達から受けると思う。この人は個人の趣味でイスラムを学び始めたのだろうな。一面的な宗教観を振りかざすことに躊躇がない。