はてなキーワード: 宗教観とは
珍しい珍しくないで言ったら、ドーキンスが『わかる』になってしまうワイの方が珍しい・おかしいと思うやで
ワイは八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っていて、今も現役でスピってるからな
ワイは八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っているスピ増田(今もそう)だけど、
増田とトランス界隈のあれこれ見て、ドーキンスの気持ちわかるわってなったぞ
『あらゆる宗教は人類の進歩にとって有害なもの。全ての宗教と神秘主義に批判的になることこそ科学』ってな
つか、宗教・ジェンダーを否定する科学ネタのリプ欄と、物理ネタのリプ欄では、キレ散らかす人が一定数いる
それも公立校の先生やその研究してたバックグラウンドの人とかがやってたり
あとはこんなんとか(昔見たヤツで最近のではない)↓
アメリカの「進化論を事実として教えることを支持しない」という教育委員
http://www.flascience.org/?p=3494
※追記あり
吐き出せる場所がなかったので、ここに書き記させてほしい。何かの肯定も否定もするつもりはない。ただの愚痴だと思って、暇つぶしにでも読んで頂けたら幸いである。
付き合っておおよそ2ヶ月程度だが、長々隠し続けるのもよろしくないと思い、酒の力を借りて(これに関しては良くなかったと思っている)震えも怯えも誤魔化し、宗教3世であることをカミングアウトした。恋人は、その場では多少驚いて見せたが、変わらない様子でその後も過ごしてくれた。そんな恋人を見て、受け入れてくれたのだなと脳天気に考えていた。
しかしその翌日、自分の宗教観、信仰心の程度、両親とも信仰をしているのか、何か金のかかることをしているのか、等を仔細に尋ねられた。
全てに素直に答えた。自分に信仰心はないし、両親に信仰心はあるが、より強かった母は既に逝去しており、父は母に言われて入信したにすぎず、母の死をきっかけに多少強まったとはいえやはりそこまでではない。金が出ていった形跡もない(母の医療費でそれどころではなかった)。これらのことを丁寧に伝えた。そして、自分は布教をする気はないし、宗教的な儀礼にも参加していないし、あなたに危害を加えるつもりは一切ないということを何度も何度も必死に伝えた。
それでも恋人の不安は止まらず、信頼(どころか崇拝の域だとは本人談である)している友達に相談したらしい。同じ宗教を信仰している知り合いがいたそうで、大金を叩いて大変なことになっていたらしいというエピソードや、信仰心がないと自称しているがそれは周りに信心深い人が多いからそう思っているにすぎないのでは?といった意見を聞いたそうだ。
そして自分で調べてみたら、拝金主義のヤバい宗教である、カルトそのものだ、2世や3世は人生を壊されている、などといった記事が次々と目に飛び込んできたらしい。
言わせてもらえば、インターネットなんてそんなものだろう。センセーショナルなものほど目立つ。たとえばある人について、懸命なボランティア活動を行っていたという報道よりも、その裏でセクハラをしていたという報道の方がよっぽど目を引くだろう。ましてやテーマは宗教だ。大きな事件もあったことだし(自分の属している宗教のものではないが)、大衆の関心は高い。面白おかしく取り上げるにはうってつけの題材だろう。
大金を叩いて大変なことになるかもしれないというのも、先述の通り我が家ではそんなことはなかったし、自分自身だって宗教的なものに金を使うつもりはない。使えと言われても断れる自信がある。信仰心がないからだ。
恋人は「安定した生活を共に送れるパートナー」を求めていたらしい。宗教3世なんて肩書きのある者はそれに値しないとのことだった。やはりお金を宗教に使うリスクや、世間からどう見られるかといったことが気に掛かって仕方がないらしい。早く辞めてほしいと涙ながらに懇願された。
そもそも同性カップルである時点で世間から一切後ろ指をさされないとはいえないのではないか(もちろんそうならない世界に一刻も早くなってほしいが)。残酷なようだが、100%安定したパートナーを求めるのはハナから厳しい話なのではないか。
仮に同性カップルであることの誹りならば耐えうるというのなら、パートナーが自分の意思とは関係なく宗教に入信させられた(自分は出生した時点で入信させられたらしい)特に信仰心のない3世だという誹りも耐えられないのだろうか。同性愛よりも宗教への風当たりが強いという現実は否めないが、そこに差異を感じる理由が自分にはあまり理解できない。そもそも隠し通すことだってできるはずだ。自分だって今までそうしてきた。
ましてや自分はそれなりに安定した身分だ(身バレを防ぎたいのでぼかさせてもらう)。恋人が何もできなくなったとしても支えることはできる。これはまごうことなき安定した生活の保証ではないのか。こんな生まれついたもので、打ち消されてしまう程度のものなのだろうか。
生まれついて選択権のなかったものという点では性指向も宗教3世も同じなのではないかと思う。恋人は「宗教に関しては自分の意思で辞められるだろう」と言い返していたが、それなら、これはあまりにも暴力的な理屈だが、同性愛者であっても異性と性交渉をすることは精神的にはともかく物理的には可能じゃないか。自分だって本当にこんなことを言いたくはないが。世間の目線を気にし、自分の意思で無理矢理異性と結婚した同性愛者だって少なくないはずだ。恋人はこのような人達の存在も当然の行いをしたまでだと判断するのだろうか。
実際さっさと脱会したらいいのでは?という意見はよく目にするが、これもなかなか難しい話なのである。信仰心がないからといって即座に脱会!というわけにはいかない。宗教の人達からどういう目で見られるのかと考えるとやはり恐ろしい。宗教のみを理由にして優しくしてくれていたのだとしたら、その事実を目の当たりにするのがどうしても怖い。それこそ信仰心がないからだ(信仰心があれば、宗教の人たちとの繋がりが切れることへのシンプルな寂しさしか抱かなかったであろう。信仰心のない自分が抱いているのはただただ恐怖のそれだ)。それまでの縁であったと割り切ることはきっとできると思う。しかしそれには大きな傷が伴うし、時間もかかるだろう。私は母が病死した際に、宗教に基づく儀礼等に従った方式でなくただただお線香を上げに来て下さった宗教のひとびとが、信仰心に基づいてそれを行ったとは思えなかったのだ。
ましてや父に勘当だってされるかもしれない。そこまでいかずとも、大きく傷つけてしまうかもしれない。今の父は、さきほど述べた通り、母の大事にしていたものを大事にしたいという心境から、信仰心が少しだけ強くなっている。そんな風に抱きしめているものを、突然唯一の子供から強く否定(に近い行動を)されたら、父はどう思うのであろうか。
そして、これはもしかしたら当事者にしかわからない感覚の話かもしれないが、信仰心とはパラレルに、やはりそこにアイデンティティが存在する。同じ括りにしていいのかはわからないが、出身地のようなものだ。地元愛があるかどうかは別として(自分はない側である)、その地の出身であることは人生の一部に他ならない。もしくはタグか何かだろうか。生まれついたものであり、見せびらかす人もいれば、隠したがる人もいて、いずれも外せはしない。
それでも恋人は、今後の自分の発言や行動を「宗教の人」のものとして認識してしまうと泣いていた。散々長々書いたが、結局この人のためにいつか脱会しないといけないなと思っている。この辺りの時期かな、となんとなく目処も立てている。まだ踏み切る覚悟はできていないが。
そしてここからは宗教3世とは話題が離れるが、この話の流れでついでに吐露されたことがある。
まず、自分は鬱病を患っている。原因は母の病死と父の精神状態の悪化だ。通院をしており、現在闘病中である。今でも「お前らがストレスを与えるせいで私の病気は悪化して死ぬんだ」との母の昔の発言を引きずり、自分はどれだけ母の寿命を削ってのうのうと生きているんだろうという罪悪感を抱きしめ、病床の母や咽び泣く父の姿がフラッシュバックし、毎晩母を想って「〇〇ちゃん(母の愛称)、どこ行っちゃったんだよ」と泣く父の声を聞き、それにしんどさを覚える自分にまた罪悪感を抱き、それら全てをないまぜにした希死念慮と喧嘩している。それでもやっぱり死にたくはない。どうにか寛解を前向きに目指している。
このことについて、恋人は「鬱病だっていつ治るかわかったもんじゃない、精神疾患を抱えてるパートナーがいるってことも世間からどんな目で見られると思ってるんだ、ずっとずっと不安で仕方がない」と涙ながらに吐き出した。
「絶対にいつか治るよ、少しずつ良くなってるから、安心して」としか返せなかった。自分だって自分の鬱がどうなるかなんてわからないが、絶対に治す意思はある。一生鬱をやっていくつもりはない。そして、これだってなりたくてなったわけではない。
自分の意思でない肩書きのせいで泣く恋人に、世間の目が怖いと震える同性の恋人に、これ以上何ができたのだろうか。自分が「こう」でなければよかったという自責の念が止まらない。やはり生きていることへの罪悪感が、止まらない。生まれてくるべきではなかったのかもしれない。大好きな恋人をこんなにも悩ませ、泣かせてしまった。末永く付き合って、幸せにさせてほしいと思っていたのに。それも生まれのせいで叶わないのかもしれない。自分だって可能なら無宗教として生まれたかった。消えてしまいたい。
拙文で申し訳がない。繰り返すようだが、この世の何かの肯定も否定もするつもりはない。ただの愚痴に顔も名前も知らないあなたを付き合わせてしまい、申し訳がない。
追記:
ただのチラ裏愚痴のつもりだったため、想像以上の反響にただただ驚いております。どのような感想を抱いたにしろ、読んで頂いた方々にあらためて感謝させて頂きたいです。
気になる(負の感情ではありません)コメントがいくつかあったため、自身の見解を述べさせて頂きます。
信仰心があるようにしか見えないというご意見をいくつか拝読いたしました。あくまで自分視点での話にはなってしまいますが、本当にないつもりです。宗教3世であるというアイデンティティはあれど、何も信じていないし、教祖的な存在への批判もすんなりと受け入れます。母がいよいよという時にも、宗教には決して縋りませんでした。信じていないからです。
宗教コミュニティに依存していること自体が信仰と関係なく怖いのでは?というご意見も頂きました。脱会してその人達からの扱いが露骨に変わってしまったら傷つくなあという不安イコール依存ではないのではないかなと感じます。ありがたいことに、コミュニティ外の友人も沢山いるので(依存してるとしたらこっちの方かと思います)そこまで依存はしていないつもりです。一度経験しなければならないであろう傷つきが怖い、それだけのことです。縁が切れたらそれまでとも思っております。
脱会すればいいとのご意見も頂きましたが、本当になかなか厳しいのです。どうしても当事者にしかわからない事情で歯がゆいのですが、簡単にできることではないということだけ知って頂けたら幸いです。
なかなか知り得ない世界のことですし、そう思われて当然だと思っているため、どんな意見も(たとえ対面であれば言わないであろうものであれど)ありがたく受け止めさせて頂いております。3世当事者である以上、視野には限界があると思っているため、なるほどこういう考え方もあるのかと勉強させて頂いております。
自分への心配や慰めの言葉をかけて下さった方、親身になって怒って下さった方も、大変にありがとうございます。泣いてしまいました。どこの誰とも知れぬ自分にこんなにも優しくして頂けて、感謝の思いでいっぱいです。
自分は恋人のことが本当に大好きです。これからどうにか妥協点を見つけていけたらいいなと模索中です。いくらなかなか簡単にはいかないこととはいえ、先述の通り脱会も前向きに考えております。鬱もせめて心配をかけない程度には寛解を目指すつもりです。
フィフィ「それを望まない女性が多いから」日本のジェンダーギャップ指数118位うけ私見
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ac351b11600c187874b52679528037be254d0f5
「ジェンダーギャップの是正と女性の幸福は比例しない。ジェンダーギャップを計測する指標は男性的な価値観での社会的成功を基準にしてしまっているから。」
「欧米的な基準がジェンダーギャップ指数ですからね。宗教観や風土から気付いてきた風習もあるので、一概にジェンダーギャップと幸福感は違いますよね。」
「そもそも女性の議員や管理職の多さをジェンダーギャップの指標にすることが正しいのか疑問である。」
などなど
ジェンダーギャップ指数が高くても無意味だよねという価値観が広まっている。
それはそれでいいことだと思うのだけど、
つまり日本でのジェンダーギャップ指数って「女さんも男と同じぐらい頑張ってますよ指数」なわけじゃん。
これが低いことを日本の女さんは恥じるべきだと思うんだよね。
女ももっと頑張ってジェンダーギャップ指数を上昇させよう!!!という活動をしていきたい。
日本のジェンダーギャップ指数は女がサボってるからということがみんなにも理解されてきたのだから
ホモソーシャルとは、女性及び同性愛を排除することによって成立する、男性間の緊密な結びつきや関係性を意味する社会学の用語。
フェミニズムの議論でよく話題になる「ホモソ」なる概念だが、むしろ男性を排除した女性同士の結びつきの方がよっぽど周りの人に害をなしてない?っていつも疑問に思っている
最近職場で女性版ホモソ集団のせいで色々と不愉快な思いさせられたので、ストレス解消に女性版ホモソ仕草と害悪のあるあるネタをここに羅列していこうと思う
女性は自身の彼氏や旦那の惚気話や愚痴を吐きあうことで連帯感を強めることをよくする
このとき彼氏や旦那のプライベートな情報を躊躇なく暴露する女が多すぎる
特に最悪なのはセックスの上手下手、セックスレスの不満などのシモに関する話のとき
男性同士ならば自身のパートナーの性事情なんて一切口にしないだろうが(相手への配慮もあるし自分のパートナーへの独占欲もある)、女性同士だとためらいもなく口にする
あるある1にも共通するが、女性のホモソ社会はとにかく人の噂話が好きすぎる
人のプライバシーに関わることを仲間内で拡散しまくってあれこれ感想を言い合うことで連帯を強めるっていう醜悪としか言いようのないホモソ仕草をみんな当然のように行っている
しかも大抵グループの中で出てくる話題は自分が嫌っている人の傷を晒すような代物ばかり
それでいて当の本人に不平を訴えることはせず非生産的な仲間内での愚痴の言い合いに終止するから手に負えない
女友達の多い男は普通に同性からも好かれている場合が多いと思うけど、男友達の多い女は100%同性からは嫌われている
男のホモソの特徴は女性蔑視と同性愛嫌悪とのことだけど、女版ホモソの方がこの病理は根深いと思う
男友達が数人いるだけでビッチ認定して誰も友達にはなりたがらない
そのくせ恋愛ごとについては異様に興味関心があってグループないで誰か彼氏ができたりしたら「おめでとー」なんて盛り上がってみせる
一体どういう宗教観してんだろあれ
女のホモソはグループ内の意に沿わない人間に対する攻撃性が極端に高い
これはよく学校で起こりがちなことだしみんなも普通に経験していることだと思う
とあるグループのリーダー格の女の子(A子)がある男子を好きになって、グループ皆でその子の恋愛を応援していた
その男子は恋愛に興味ないって言ってA子を振ったんだけど、そのことにグループの女の子みんなが大激怒
女のホモソはとにかく自他境界がガバガバすぎるうえに感情的に喚き散らすことに躊躇いもないから人様に迷惑をかけまくることになる
なにも悪いことをしていない人も「私たちの気分を害した」という理由で吊し上げるし、醜悪なことに本人たちはそれが正義だと思い込んでいる
お局様がいる職場で、かつそのお局が上長から腫れ物を触るようにあつかわれているときに起こりがちな女版ホモソ
システム改修でこれまでやってた手続きのやり方が変更になるよーといった事態のときにとにかく女は徒党を組んで反抗しまくる
業務命令なんだから大人しく受け入れるしかないのにいい歳して「〇〇さんもそうだよね!?」「ねー!絶対嫌だよね!」みたいな連帯をして意見しまくる
特にその命令を下したのが男だったりすると職場内いじめをしかけて疲弊させようとしてくる(実話)
職場の女ホモソグループは社会人として当たり前に備わっているべき社会性が欠落している上に感情で動くし女だからって理由で詰められることもない
女のホモソに苦しめられている人って世の中にはもっとたくさんいるはず
正直自分は男のグループより女のグループに不愉快にさせられることのほうが多かった
例が雑ゥ!
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
仮にインドの会社に日本人が就職したなら、インドの流儀に日本人が合わせて当たり前では???
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
何で??? インドの会社に就職したんだから、インドの流儀に合わせるのは当たり前でしょ???
中国人が大勢日本で就職してるから、従来の日本の会社組織を破壊する! ってなったらおかしいでしょ??? 中国人が日本の流儀に合わせるべきでしょ???
アファーマティヴ・アクションがある程度正当化されるのは、
場合に限られるべきだろう。
アメリカで黒人がアファーマティヴ・アクションの対象になるのはわかる。彼らは、望んでアメリカに来たのではなく、無理やりアメリカに連れてこられた(かつ、奴隷化された)人々の子孫であるからだ(逆に言えば、オバマのような、望んでアメリカに来たケニヤ移民の子供は、一切、そのような優遇措置の対象になるべきではない。彼らには「差別されない権利」があれば十分だ)。
仮に日本でやるとして、アイヌ民族へのアファーマティヴ・アクションは賛成できる。彼らは軍事力によって無理やり日本の一部にされた側なのだから、特別な配慮を享受する資格がある。
あるいは女性のアファーマティヴ・アクションもいいだろう。女性は元からこの社会にいるのだから、、特別な配慮を要求してもよいかもしれない。
しかし、例として挙げられた「インド系企業での日本人のアファーマティヴ・アクション」なんてありえない。インドにおいて日本人は先住民でも何でもないんだから、日本人がインドに合わせて当然だ。それは、日本に来たインド人が日本のやり方に合わせるべきなのと同じだ。
歴史的に男性の方が当選しやすい環境があらゆるレベルで作られてるから、そこを男女同数にするには積極的是正措置に頼らざるを得ない
という話
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
あらゆる制度もインド人向けだし宗教観もインド人を想定してるし評価もインド向け
偉い人はほとんどがインド人か、インドに同化しまくった少数の日本人にしかなりえない
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
一人で山奥で野垂れ死ぬとかでない限り、それは決して一人では完結しないものだ
一人で山奥で野垂れ死ぬ場合でも、発見されたら大騒ぎになるのでやはり一人では完結しない
人間とは本当に面倒なもので、死を死として受け止める為に何かしら儀式を必要とする
石器時代でも儀式をしてたくらいだ、現代の人間がそこから逃れることはできないだろう
俺は無宗教だし無神論に近い思想を持っているので、焼いて埋めれば衛生的にそれでいんじゃねと思うのだが周りがそれを許さない
日本人に限らず死というものに直面した時の対応はどこの国でも宗教観がモロに出る所ではないだろうか
自分がそうやって見送られたいから儀式をするという面はあるだろうが、人は人の生に意味があると思いたいのだ
意味という概念は人が作ったものであり、この世界の存在からして意味はないのにな
自ら作り出した概念に囚われる悲しき生き物だ
夜ふかしをして以下の動画をみた。
収穫があったと思うのは、まず自由意志というものがあるなら、それはランダム性とは関係がなく、また生きていく上で便利なものであろうということ。
例えば大統領演説の原稿を書くという作業があるとき、自由意志が使われるなら的を射たものであるはずだ。
自由意志に関係がありそうなものとして「意識的努力」と「自動操縦」について話しているが、
意志力が強いと言われる人の多くは習慣化能力が高く、それは自動操縦的であり、意志力が高いわけではない可能性があるという。
では意志力を要する「意識的努力」がどこで使われるかというと、例えば「計画」という作業には意識的努力が必要だが、これは将来的に行われるであろうタスクのエネルギーを減らすために行われることが多いという。
一部の科学者は人々に対して「自由意志は存在しない」ことを説得しようとしているが、実用的に見るとこれは逆効果だという。
どういうことかというと、自由意志が存在すると信じていれば悪さをする可能性が減るわけである。
自由意志が無いと考えれば「コントロールできない、なら悪さもしょうがない」と考えてしまうわけである。
「自我の枯渇」という点は興味深い話だが、要するにタスクをこなせばこなすほど消耗し、自制心は減っていくということだ。
このため、意識的努力をするためには、十分なエネルギーを残している必要がある。
「自制心」と「知性」は基本的に向上させればさせるほどよく、マイナス面が無いという。
つまり意識とは存在する意味の一つであり、意識を持った主体がこの世に存在しなければ宇宙の存在も無意味である。
そして自由意志は、意識の持つ機能の一つである。予め決められた通りの人生を決定論的に歩むなら、それもまた存在の意義を失わせるに違いない。
人の畏れが神を産み出す
信仰を集めるほどに神は強大になり
忘れ去られた神は力を失いやがて消滅する
などがある。
日本人にとっては常識(?)なためか、作品内でこれらの設定が言葉ではっきり解説されていないこともある。それが一部の海外の人にとってはわかり辛い場合があるようだ。
先日、*eddit (*はR) で漫画アニメ系サブレを徘徊していた時にとある議論スレを見つけた
ちょうど上記の設定の話をしていたので「それで合っているよ。それは日本人の宗教観なんだ」とコメントしたところ、すごい反応をもらった
とリプライされて困ってしまった。どう返信しようか悩んでいるうちに
それからコメントせずにずっと悩んでいるんだけれど、たぶん神道ではないよなぁ・・・?
少なくとも古事記や日本書紀を読んでもそんなことは書いていないだろう。ニンジャスレイヤーじゃあるまいし。
でもコロナ禍でコロナ神が誕生し、妖怪だったアマビエが神になっていく様は確かに見たんだ。
畏れが神を生み、信仰が神を強大にするという設定は私の実感に近い。
これらの宗教観の元ネタとなる聖典、宗教的記述はどこかにあるのだろうか?
それとも日本人が無意識に共有しているアミニズム的世界観なのだろうか
https://anond.hatelabo.jp/20240214185555
↑ この増田。信仰があれば死ぬの怖く無いは同意できないが。中世でも現代でも、割と宗教関係者は生き汚かったり死ぬの怖いって言ってるので、信仰というよりも洗脳の類いであろう
まず、大前提としてワイは神を信じている
と言っても、3大宗教の信徒でも、教典のある宗教を信仰しているわけでもなく、八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っている
「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
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Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど