はてなキーワード: 宗教観とは
「虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められています。しかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります。日本語の表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手の家族やファンに配慮する意味で、もっと一般的な表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。
ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ちも理解できます。
「虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります。哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります。
こうした表現の適切性は、文化や個人の感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族の感情、そしてコミュニティの文化的背景を考慮することが重要です。
芸能人の訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。
由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペットが虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます。
広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に、家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福を祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります。
故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。
親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちがストレートに伝わる。
一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。
芸能人という公の立場の人物であるため、よりフォーマルな表現が求められる場合もある。
故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。
故人の宗教観や家族の意向: 故人や家族が宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観に配慮した表現を選ぶべきです。
発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります。
周囲の反応: 自分の言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。
まとめ
「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。
もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現も検討できます。
安らかに眠ってください。
「虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。
補足
⇨
全く保守的ではないです。
宗教観みたいなもので、今のままがいいと思って同性婚にも別姓にも反対してる人は、特に年寄りには多いだろうね
⇨反対してるのは戸籍制度を日本伝統と思ってる保守派が多いが、お前は宗教観で保守的に考えてるレアケースなの?
お前がそう思うのは自由だけど、現状レアケースだし不都合は結婚制度を変えなくても求めていけるもので、結婚制度を変えることを目的にしてるようにしか見えない
⇨何回もいうが、日本のために税金もたくさん払い生産性あげたい少数かもしれない。しかし、それで婚姻制度を変えたいと訴えて何が悪い?
(もっと少数な人はマイクロソフトの代表などやったりして、不便も感じないだろう。そう考えると私は中間層である)
自分の都合に社会制度の方が合わせろってのは傲慢な態度だと思うよ
⇨それをいうなら、あなたの都合は、社会制度と相反せず、また、合わせてもらうことも金輪際ないということですね。
何のための選挙制度?
俺の嫌いな人種を一言で表現すれば「自分の中にある謎の基準をもって、他者の基本的人権を足切りしてもいいと考えている奴」だったんだと思う。
勉強のできるスポーツマンで人当たりも良い、出木杉英才型の人間。
通信簿は5が並ぶものであり4があったら調子が悪かった証拠みたいな人種。
本物の出木杉英才との違いは「平均点を取るのって苦手分野だと大変だよね。だって平均点だもん」という感覚が欠落していること(むしろこの感覚を小学生で持ち合わせてそうなアイツはなんなんだ……)。
上司自身も「得意分野と比べれば結果が出にくい分野」はあるようだけど、それでも「頑張れば平均点ぐらいは簡単に超える」という程度らしく、「凡人にとっての苦手分野とは平均点を取るのでさえ半端じゃない努力をもってなお不可能でさえある」という感覚が理解できないらしい。
その上、上司自身は今の仕事と相性が結構いいらしく、上司の中にある「ちゃんとやってればこのぐらい」のラインはかなり高い所にある。
つまり、大部分の人間が上司から見れば「ちゃんとやってないから結果が出てないゴミカス」として扱われてしまっている。
上司は自分が認めた一部の片腕のみを味方として扱い、その他大勢の部下は「余計な仕事を増やす敵」とさえ思っているであろうことが、日夜上司の前で誰かしらが説教を浴びているのを見る限りは間違いなかろう。
上司は何でも卒なくこなす能力により「令和の時代において許されるラインの説教」を見極め、許される程度のレベルで説教をしているから私を始めクソ雑魚部下集団も訴えようという気持ちにはなっていない。
だが、そこに明らかな見下しがあり、「もしも時代が時代なら、もっと容赦ない勢いで「敵への攻撃」が行われ、我々はメンタルを壊していただろう」という感覚を持っている。
このタイプ、人類全体で見ればそこそこ利用価値はあるんだろうが、個人的にはかなり「ナシ」な部類だ。
だって相手に対して「同じ人間」とか思って無さそうなんだもの。
単に「法律で決まっている」とか「テレビでやってた」とか「今はパワハラって駄目らしい」とか言うのを知識として持っているだけで、我々のような下級人間に対しては「人権」や「人格」なんてものは本心では認めていないことは日々の言動から容易に垣間見える。
自分の中にある「これぐらいのことも出来ない奴は、カスだから人間とみなさなくていい」という線引きによって相手の人格を「法的に許されるラインまで」は切り捨てていいと勝手に決めつけてくるのである。
特定のタイプの人を悪く言うのではなく、ちょっとやそっとのスキや何らかのトレードオフの結果さえもひたすら「コレが駄目」「アレが駄目」と否定しまくる連中だ。
アナウンサーのちょっとした間違えに対しての揚げ足取りを何分も続けたり、高校球児のエラーに対してまるで馬券が外れたあとのウマカスのようにあれやこれやとなじり続けたりするタイプだ。
こういったタイプの連中はどこにでもいるし、特にXや5chなんかはそういった連中がエコーチェンバーを形成して恒◯教のような物さえ形成している。
彼らはすぐに人を叩いていい認定してはネチネチと粘着を繰り返すが、その認定基準はあまりにも粗雑だ。
ただ、そこに薄っすらと見えるのは「何らかの部分に落ち度があった」というある種の実力主義に近しいものだ。
「ワクチンを打つ奴らは情報収集能力に落ち度がある」とか「オリンピックで結果を出せない奴は愛国心に落ち度がある」とか、その場その場の基準によって何らかの「合格ライン」のようなものを設定して、それを下回った相手を叩いていいと認定してくる。
上司のような完璧人間と、井戸端おばちゃんの如き悪口人間、タイプとしては結構な違いがあるんだが、俺は本当にどちらもを嫌っている。
この両者に共通しているのは「俺(達)の頭の中にある基準によれば、お前は基準を下回っている → だからお前の人権は制限を受けても仕方がないのだ」という俺(達)ルールがあるということだ。
俺は「現代人はみんな人権を持っていて、最大多数の最大人権が阻害されない限りは制限を受けていいはずがない」という価値観を持っている。
その理由は単に俺が自分を無能だと思っているからどんな無能でも人権が認められるこの宗教観を有り難く感じているというだけなんだが、それに長く浸かりすぎてそれを害する異教徒に強い敵意を持ってしまうのだ。
つまり、俺にとっては上であげた二つのタイプのような「俺俺ルールで人権制限」という連中は許し難き敵対分子なのである。
この共通点に気づいた今、俺は迷いを捨てて上司のような「俺ルールで他人を見下して法律で許される範囲で人権制限をかけてくる出木杉の偽物」のようなタイプを嫌うことが出来る。
悪口野郎が嫌いなのは前々から気づいていたが、見下し出木杉については「5人以上の集団ではブリリアントジャークはマイナスみたいな話は聞くけど、ゆーてパっと見だとこういうタイプいた方が仕事は進んでる気がするんだよな」という思いがありどこかで嫌いきることを躊躇していた。
でも今は違う。
俺が敵意を持っている人種であるということがハッキリしたので堂々と嫌ってしまうことにした。
だってここで無理すると心の中にある根底の世界観がバグってしまうからだ。
まあ嫌うというだけで向こうの人権を俺ルールで制限したりはしないけどな。だって俺は人権意識がちゃんとあるちゃんとした現代人だもの。
最近、増田で話題になっているマチアプを私もやってみた。女性なのでいいねをたくさん貰えて、その中から数人、気になる人が出てきた。
2人は年上、1人は年下で、年上達からはしっかりと好かれている感じがする。一方で年下からは楽しいお話相手として見られているのは間違いないものの、恋愛対象として見てもらえているかどうかは少し疑問だ。
男も女も若い奴が強い。恋愛は早抜け式のマッチングなので当然で、私もこの年下の相手が一番好き。
しかし私は適齢期も適齢期であり、もはや失敗は許されない瀬戸際にある。年上に愛され、追われるべきなのか、年下を追って愛するべきなのか。
趣味が合うからこそ宗教観が合わない、という相手も1人いる。先ほどの3人とは別で、つい最近仲良くなり、通って来た趣味が似ていることが分かった。この人と友達になれたら楽しいな〜と思う反面、付き合うにあたって一つだけ懸念がある。趣味に対する宗教観が合わないのだ。つまり、似ているけど本質の違う2つの流派があり、その対立した流派に私たちはそれぞれ属している。それは似ているからこそ見過ごせない対立で、この溝を埋められるのかどうか心配だ。
年上の2人の話に戻る。彼らは年上なので私に対して甘く、言ってしまえばデレデレしているのが伝わってくる。これがちょっと、実は直視しにくい。まだ付き合ってないから、もう付き合っているかのような甘い空気を出されるとちょっと引いてしまう。が、年上2人ともそんな感じなので年上特有の病理なのかもしれない。
すると私が現状で一番好きな年下に対してもこの病理が発動していないか不安になる。ここで年上の気持ちも分かってくる。ただでさえ若ければ可愛い、いわんや話の楽しさをや。若いというだけで甘くなるし、話して楽しければ更に近づきたくなるのが人情というもの。しかしそれは年下から見るとちょっとネバネバしている。
ああ、恋の綱渡り。進むも恐ろし、引くも恐ろし、さりとて動かなければ来た甲斐なし。
どうか私が年上の病理を発動していませんように!
珍しい珍しくないで言ったら、ドーキンスが『わかる』になってしまうワイの方が珍しい・おかしいと思うやで
ワイは八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っていて、今も現役でスピってるからな
ワイは八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っているスピ増田(今もそう)だけど、
増田とトランス界隈のあれこれ見て、ドーキンスの気持ちわかるわってなったぞ
『あらゆる宗教は人類の進歩にとって有害なもの。全ての宗教と神秘主義に批判的になることこそ科学』ってな
つか、宗教・ジェンダーを否定する科学ネタのリプ欄と、物理ネタのリプ欄では、キレ散らかす人が一定数いる
それも公立校の先生やその研究してたバックグラウンドの人とかがやってたり
あとはこんなんとか(昔見たヤツで最近のではない)↓
アメリカの「進化論を事実として教えることを支持しない」という教育委員
http://www.flascience.org/?p=3494
※追記あり
吐き出せる場所がなかったので、ここに書き記させてほしい。何かの肯定も否定もするつもりはない。ただの愚痴だと思って、暇つぶしにでも読んで頂けたら幸いである。
付き合っておおよそ2ヶ月程度だが、長々隠し続けるのもよろしくないと思い、酒の力を借りて(これに関しては良くなかったと思っている)震えも怯えも誤魔化し、宗教3世であることをカミングアウトした。恋人は、その場では多少驚いて見せたが、変わらない様子でその後も過ごしてくれた。そんな恋人を見て、受け入れてくれたのだなと脳天気に考えていた。
しかしその翌日、自分の宗教観、信仰心の程度、両親とも信仰をしているのか、何か金のかかることをしているのか、等を仔細に尋ねられた。
全てに素直に答えた。自分に信仰心はないし、両親に信仰心はあるが、より強かった母は既に逝去しており、父は母に言われて入信したにすぎず、母の死をきっかけに多少強まったとはいえやはりそこまでではない。金が出ていった形跡もない(母の医療費でそれどころではなかった)。これらのことを丁寧に伝えた。そして、自分は布教をする気はないし、宗教的な儀礼にも参加していないし、あなたに危害を加えるつもりは一切ないということを何度も何度も必死に伝えた。
それでも恋人の不安は止まらず、信頼(どころか崇拝の域だとは本人談である)している友達に相談したらしい。同じ宗教を信仰している知り合いがいたそうで、大金を叩いて大変なことになっていたらしいというエピソードや、信仰心がないと自称しているがそれは周りに信心深い人が多いからそう思っているにすぎないのでは?といった意見を聞いたそうだ。
そして自分で調べてみたら、拝金主義のヤバい宗教である、カルトそのものだ、2世や3世は人生を壊されている、などといった記事が次々と目に飛び込んできたらしい。
言わせてもらえば、インターネットなんてそんなものだろう。センセーショナルなものほど目立つ。たとえばある人について、懸命なボランティア活動を行っていたという報道よりも、その裏でセクハラをしていたという報道の方がよっぽど目を引くだろう。ましてやテーマは宗教だ。大きな事件もあったことだし(自分の属している宗教のものではないが)、大衆の関心は高い。面白おかしく取り上げるにはうってつけの題材だろう。
大金を叩いて大変なことになるかもしれないというのも、先述の通り我が家ではそんなことはなかったし、自分自身だって宗教的なものに金を使うつもりはない。使えと言われても断れる自信がある。信仰心がないからだ。
恋人は「安定した生活を共に送れるパートナー」を求めていたらしい。宗教3世なんて肩書きのある者はそれに値しないとのことだった。やはりお金を宗教に使うリスクや、世間からどう見られるかといったことが気に掛かって仕方がないらしい。早く辞めてほしいと涙ながらに懇願された。
そもそも同性カップルである時点で世間から一切後ろ指をさされないとはいえないのではないか(もちろんそうならない世界に一刻も早くなってほしいが)。残酷なようだが、100%安定したパートナーを求めるのはハナから厳しい話なのではないか。
仮に同性カップルであることの誹りならば耐えうるというのなら、パートナーが自分の意思とは関係なく宗教に入信させられた(自分は出生した時点で入信させられたらしい)特に信仰心のない3世だという誹りも耐えられないのだろうか。同性愛よりも宗教への風当たりが強いという現実は否めないが、そこに差異を感じる理由が自分にはあまり理解できない。そもそも隠し通すことだってできるはずだ。自分だって今までそうしてきた。
ましてや自分はそれなりに安定した身分だ(身バレを防ぎたいのでぼかさせてもらう)。恋人が何もできなくなったとしても支えることはできる。これはまごうことなき安定した生活の保証ではないのか。こんな生まれついたもので、打ち消されてしまう程度のものなのだろうか。
生まれついて選択権のなかったものという点では性指向も宗教3世も同じなのではないかと思う。恋人は「宗教に関しては自分の意思で辞められるだろう」と言い返していたが、それなら、これはあまりにも暴力的な理屈だが、同性愛者であっても異性と性交渉をすることは精神的にはともかく物理的には可能じゃないか。自分だって本当にこんなことを言いたくはないが。世間の目線を気にし、自分の意思で無理矢理異性と結婚した同性愛者だって少なくないはずだ。恋人はこのような人達の存在も当然の行いをしたまでだと判断するのだろうか。
実際さっさと脱会したらいいのでは?という意見はよく目にするが、これもなかなか難しい話なのである。信仰心がないからといって即座に脱会!というわけにはいかない。宗教の人達からどういう目で見られるのかと考えるとやはり恐ろしい。宗教のみを理由にして優しくしてくれていたのだとしたら、その事実を目の当たりにするのがどうしても怖い。それこそ信仰心がないからだ(信仰心があれば、宗教の人たちとの繋がりが切れることへのシンプルな寂しさしか抱かなかったであろう。信仰心のない自分が抱いているのはただただ恐怖のそれだ)。それまでの縁であったと割り切ることはきっとできると思う。しかしそれには大きな傷が伴うし、時間もかかるだろう。私は母が病死した際に、宗教に基づく儀礼等に従った方式でなくただただお線香を上げに来て下さった宗教のひとびとが、信仰心に基づいてそれを行ったとは思えなかったのだ。
ましてや父に勘当だってされるかもしれない。そこまでいかずとも、大きく傷つけてしまうかもしれない。今の父は、さきほど述べた通り、母の大事にしていたものを大事にしたいという心境から、信仰心が少しだけ強くなっている。そんな風に抱きしめているものを、突然唯一の子供から強く否定(に近い行動を)されたら、父はどう思うのであろうか。
そして、これはもしかしたら当事者にしかわからない感覚の話かもしれないが、信仰心とはパラレルに、やはりそこにアイデンティティが存在する。同じ括りにしていいのかはわからないが、出身地のようなものだ。地元愛があるかどうかは別として(自分はない側である)、その地の出身であることは人生の一部に他ならない。もしくはタグか何かだろうか。生まれついたものであり、見せびらかす人もいれば、隠したがる人もいて、いずれも外せはしない。
それでも恋人は、今後の自分の発言や行動を「宗教の人」のものとして認識してしまうと泣いていた。散々長々書いたが、結局この人のためにいつか脱会しないといけないなと思っている。この辺りの時期かな、となんとなく目処も立てている。まだ踏み切る覚悟はできていないが。
そしてここからは宗教3世とは話題が離れるが、この話の流れでついでに吐露されたことがある。
まず、自分は鬱病を患っている。原因は母の病死と父の精神状態の悪化だ。通院をしており、現在闘病中である。今でも「お前らがストレスを与えるせいで私の病気は悪化して死ぬんだ」との母の昔の発言を引きずり、自分はどれだけ母の寿命を削ってのうのうと生きているんだろうという罪悪感を抱きしめ、病床の母や咽び泣く父の姿がフラッシュバックし、毎晩母を想って「〇〇ちゃん(母の愛称)、どこ行っちゃったんだよ」と泣く父の声を聞き、それにしんどさを覚える自分にまた罪悪感を抱き、それら全てをないまぜにした希死念慮と喧嘩している。それでもやっぱり死にたくはない。どうにか寛解を前向きに目指している。
このことについて、恋人は「鬱病だっていつ治るかわかったもんじゃない、精神疾患を抱えてるパートナーがいるってことも世間からどんな目で見られると思ってるんだ、ずっとずっと不安で仕方がない」と涙ながらに吐き出した。
「絶対にいつか治るよ、少しずつ良くなってるから、安心して」としか返せなかった。自分だって自分の鬱がどうなるかなんてわからないが、絶対に治す意思はある。一生鬱をやっていくつもりはない。そして、これだってなりたくてなったわけではない。
自分の意思でない肩書きのせいで泣く恋人に、世間の目が怖いと震える同性の恋人に、これ以上何ができたのだろうか。自分が「こう」でなければよかったという自責の念が止まらない。やはり生きていることへの罪悪感が、止まらない。生まれてくるべきではなかったのかもしれない。大好きな恋人をこんなにも悩ませ、泣かせてしまった。末永く付き合って、幸せにさせてほしいと思っていたのに。それも生まれのせいで叶わないのかもしれない。自分だって可能なら無宗教として生まれたかった。消えてしまいたい。
拙文で申し訳がない。繰り返すようだが、この世の何かの肯定も否定もするつもりはない。ただの愚痴に顔も名前も知らないあなたを付き合わせてしまい、申し訳がない。
追記:
ただのチラ裏愚痴のつもりだったため、想像以上の反響にただただ驚いております。どのような感想を抱いたにしろ、読んで頂いた方々にあらためて感謝させて頂きたいです。
気になる(負の感情ではありません)コメントがいくつかあったため、自身の見解を述べさせて頂きます。
信仰心があるようにしか見えないというご意見をいくつか拝読いたしました。あくまで自分視点での話にはなってしまいますが、本当にないつもりです。宗教3世であるというアイデンティティはあれど、何も信じていないし、教祖的な存在への批判もすんなりと受け入れます。母がいよいよという時にも、宗教には決して縋りませんでした。信じていないからです。
宗教コミュニティに依存していること自体が信仰と関係なく怖いのでは?というご意見も頂きました。脱会してその人達からの扱いが露骨に変わってしまったら傷つくなあという不安イコール依存ではないのではないかなと感じます。ありがたいことに、コミュニティ外の友人も沢山いるので(依存してるとしたらこっちの方かと思います)そこまで依存はしていないつもりです。一度経験しなければならないであろう傷つきが怖い、それだけのことです。縁が切れたらそれまでとも思っております。
脱会すればいいとのご意見も頂きましたが、本当になかなか厳しいのです。どうしても当事者にしかわからない事情で歯がゆいのですが、簡単にできることではないということだけ知って頂けたら幸いです。
なかなか知り得ない世界のことですし、そう思われて当然だと思っているため、どんな意見も(たとえ対面であれば言わないであろうものであれど)ありがたく受け止めさせて頂いております。3世当事者である以上、視野には限界があると思っているため、なるほどこういう考え方もあるのかと勉強させて頂いております。
自分への心配や慰めの言葉をかけて下さった方、親身になって怒って下さった方も、大変にありがとうございます。泣いてしまいました。どこの誰とも知れぬ自分にこんなにも優しくして頂けて、感謝の思いでいっぱいです。
自分は恋人のことが本当に大好きです。これからどうにか妥協点を見つけていけたらいいなと模索中です。いくらなかなか簡単にはいかないこととはいえ、先述の通り脱会も前向きに考えております。鬱もせめて心配をかけない程度には寛解を目指すつもりです。
フィフィ「それを望まない女性が多いから」日本のジェンダーギャップ指数118位うけ私見
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ac351b11600c187874b52679528037be254d0f5
「ジェンダーギャップの是正と女性の幸福は比例しない。ジェンダーギャップを計測する指標は男性的な価値観での社会的成功を基準にしてしまっているから。」
「欧米的な基準がジェンダーギャップ指数ですからね。宗教観や風土から気付いてきた風習もあるので、一概にジェンダーギャップと幸福感は違いますよね。」
「そもそも女性の議員や管理職の多さをジェンダーギャップの指標にすることが正しいのか疑問である。」
などなど
ジェンダーギャップ指数が高くても無意味だよねという価値観が広まっている。
それはそれでいいことだと思うのだけど、
つまり日本でのジェンダーギャップ指数って「女さんも男と同じぐらい頑張ってますよ指数」なわけじゃん。
これが低いことを日本の女さんは恥じるべきだと思うんだよね。
女ももっと頑張ってジェンダーギャップ指数を上昇させよう!!!という活動をしていきたい。
日本のジェンダーギャップ指数は女がサボってるからということがみんなにも理解されてきたのだから
ホモソーシャルとは、女性及び同性愛を排除することによって成立する、男性間の緊密な結びつきや関係性を意味する社会学の用語。
フェミニズムの議論でよく話題になる「ホモソ」なる概念だが、むしろ男性を排除した女性同士の結びつきの方がよっぽど周りの人に害をなしてない?っていつも疑問に思っている
最近職場で女性版ホモソ集団のせいで色々と不愉快な思いさせられたので、ストレス解消に女性版ホモソ仕草と害悪のあるあるネタをここに羅列していこうと思う
女性は自身の彼氏や旦那の惚気話や愚痴を吐きあうことで連帯感を強めることをよくする
このとき彼氏や旦那のプライベートな情報を躊躇なく暴露する女が多すぎる
特に最悪なのはセックスの上手下手、セックスレスの不満などのシモに関する話のとき
男性同士ならば自身のパートナーの性事情なんて一切口にしないだろうが(相手への配慮もあるし自分のパートナーへの独占欲もある)、女性同士だとためらいもなく口にする
あるある1にも共通するが、女性のホモソ社会はとにかく人の噂話が好きすぎる
人のプライバシーに関わることを仲間内で拡散しまくってあれこれ感想を言い合うことで連帯を強めるっていう醜悪としか言いようのないホモソ仕草をみんな当然のように行っている
しかも大抵グループの中で出てくる話題は自分が嫌っている人の傷を晒すような代物ばかり
それでいて当の本人に不平を訴えることはせず非生産的な仲間内での愚痴の言い合いに終止するから手に負えない
女友達の多い男は普通に同性からも好かれている場合が多いと思うけど、男友達の多い女は100%同性からは嫌われている
男のホモソの特徴は女性蔑視と同性愛嫌悪とのことだけど、女版ホモソの方がこの病理は根深いと思う
男友達が数人いるだけでビッチ認定して誰も友達にはなりたがらない
そのくせ恋愛ごとについては異様に興味関心があってグループないで誰か彼氏ができたりしたら「おめでとー」なんて盛り上がってみせる
一体どういう宗教観してんだろあれ
女のホモソはグループ内の意に沿わない人間に対する攻撃性が極端に高い
これはよく学校で起こりがちなことだしみんなも普通に経験していることだと思う
とあるグループのリーダー格の女の子(A子)がある男子を好きになって、グループ皆でその子の恋愛を応援していた
その男子は恋愛に興味ないって言ってA子を振ったんだけど、そのことにグループの女の子みんなが大激怒
女のホモソはとにかく自他境界がガバガバすぎるうえに感情的に喚き散らすことに躊躇いもないから人様に迷惑をかけまくることになる
なにも悪いことをしていない人も「私たちの気分を害した」という理由で吊し上げるし、醜悪なことに本人たちはそれが正義だと思い込んでいる
お局様がいる職場で、かつそのお局が上長から腫れ物を触るようにあつかわれているときに起こりがちな女版ホモソ
システム改修でこれまでやってた手続きのやり方が変更になるよーといった事態のときにとにかく女は徒党を組んで反抗しまくる
業務命令なんだから大人しく受け入れるしかないのにいい歳して「〇〇さんもそうだよね!?」「ねー!絶対嫌だよね!」みたいな連帯をして意見しまくる
特にその命令を下したのが男だったりすると職場内いじめをしかけて疲弊させようとしてくる(実話)
職場の女ホモソグループは社会人として当たり前に備わっているべき社会性が欠落している上に感情で動くし女だからって理由で詰められることもない
女のホモソに苦しめられている人って世の中にはもっとたくさんいるはず
正直自分は男のグループより女のグループに不愉快にさせられることのほうが多かった
例が雑ゥ!
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
仮にインドの会社に日本人が就職したなら、インドの流儀に日本人が合わせて当たり前では???
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
何で??? インドの会社に就職したんだから、インドの流儀に合わせるのは当たり前でしょ???
中国人が大勢日本で就職してるから、従来の日本の会社組織を破壊する! ってなったらおかしいでしょ??? 中国人が日本の流儀に合わせるべきでしょ???
アファーマティヴ・アクションがある程度正当化されるのは、
場合に限られるべきだろう。
アメリカで黒人がアファーマティヴ・アクションの対象になるのはわかる。彼らは、望んでアメリカに来たのではなく、無理やりアメリカに連れてこられた(かつ、奴隷化された)人々の子孫であるからだ(逆に言えば、オバマのような、望んでアメリカに来たケニヤ移民の子供は、一切、そのような優遇措置の対象になるべきではない。彼らには「差別されない権利」があれば十分だ)。
仮に日本でやるとして、アイヌ民族へのアファーマティヴ・アクションは賛成できる。彼らは軍事力によって無理やり日本の一部にされた側なのだから、特別な配慮を享受する資格がある。
あるいは女性のアファーマティヴ・アクションもいいだろう。女性は元からこの社会にいるのだから、、特別な配慮を要求してもよいかもしれない。
しかし、例として挙げられた「インド系企業での日本人のアファーマティヴ・アクション」なんてありえない。インドにおいて日本人は先住民でも何でもないんだから、日本人がインドに合わせて当然だ。それは、日本に来たインド人が日本のやり方に合わせるべきなのと同じだ。
歴史的に男性の方が当選しやすい環境があらゆるレベルで作られてるから、そこを男女同数にするには積極的是正措置に頼らざるを得ない
という話
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
あらゆる制度もインド人向けだし宗教観もインド人を想定してるし評価もインド向け
偉い人はほとんどがインド人か、インドに同化しまくった少数の日本人にしかなりえない
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
一人で山奥で野垂れ死ぬとかでない限り、それは決して一人では完結しないものだ
一人で山奥で野垂れ死ぬ場合でも、発見されたら大騒ぎになるのでやはり一人では完結しない
人間とは本当に面倒なもので、死を死として受け止める為に何かしら儀式を必要とする
石器時代でも儀式をしてたくらいだ、現代の人間がそこから逃れることはできないだろう
俺は無宗教だし無神論に近い思想を持っているので、焼いて埋めれば衛生的にそれでいんじゃねと思うのだが周りがそれを許さない
日本人に限らず死というものに直面した時の対応はどこの国でも宗教観がモロに出る所ではないだろうか
自分がそうやって見送られたいから儀式をするという面はあるだろうが、人は人の生に意味があると思いたいのだ
意味という概念は人が作ったものであり、この世界の存在からして意味はないのにな
自ら作り出した概念に囚われる悲しき生き物だ