はてなキーワード: お茶会とは
特有ではなく傾向でいい
ひょんなことから就職面接の話になり、そこから各それぞれの面接担当の悪口合戦になったのだが
それはまあ、置きまして気になりましたのが全員就職の際に面接で趣味を偽装していたことである
私はパッチワーク
友人Aはレザー
友人Bはペーパークラフト
Bにいたっては、絵が学生の頃にぶきっちょで絵がかけないことを自慢していたレベルなのだが
何故偽ったのだろう。
その日の夜、夫に聞いたのだが半分呆れ顔の苦笑いをされて、「オタク趣味を隠すのはまた違うの?」と言われた
私的にはたぶん違う。隠すのと偽るのは個人的には結構な差がある。 私が思うにこの2つの差とは「自分の好きなモノを隠している」のか「自分が好きなモノを偽っている」のかの違いだと思う。
前者なら、そもそも隠してないよね!というツッコミが来るし後者なら、好きでもないのにそんなことするなんて不誠実だと言われそうだ。
さて、私の場合だが、これは両方なんじゃないだろうか。隠しているというのは、例えば昔書いたポエムとか恥ずかしいエピソードとかそういう類のものであって、好きではない。
でも、今は好きだから書くのだ。そして、偽りの趣味は時々思い出したように聞かれるときがあるので
こんな文章をかくぐらいなら
自分の結婚直前、お互い好きだったという確認だけはできたが、不倫や不貞行為に至ることなくお互い違う人と結婚した。
お互い会社を退職して居住地が離れてからも今に至るまで交流があって、うっすらした恋心と下心を抱きつつ、さりとて健全に、年に数回の頻度で飲んだりランチしたり散歩したりコロナ禍ではZoomお茶会などをしていた。
自分の性欲の減衰とともに好きな気持ちも薄れてきて、恋心の正体ってやっぱり性欲なんだな……と思いながら、次に会う予定についてのLINEのやり取りをしていると、数か月後子供が生まれるという旨のLINEを貰った。
取り乱したり泣いたりするかなと思ったけど特にそういうこともなく、当たり障りのない祝福メッセージを送って、何かから卒業したような気分になった。
先日半年ぶりくらいに会って、散歩してランチして、昔の出産関連の本が面白いだとか、新築の家の話とか引っ越しの話とか、とりとめのない話を3時間くらいして解散した。出産祝いというわけではないけどいつもよりちょっといいお土産を渡したら向こうも普段より少しだけよいお土産をくれた。もしかしたら、あの日が今生の別れかもしれない。私たち夫婦は子宝に恵まれなかったので、うらやましく、ねたましい。まあでも、とにかくおめでとう。
※前書き
分かる人にはすぐ分かる元贔屓ですが誰か分かってもそっとしておいて下さい。
◾︎本文
(下書きににして出せないまま8年も経ってしまったのだけど、区切りをつけるため投稿します。)
なぜ贔屓が元贔屓になったのか?
っていうか元贔屓のことを私はちゃんと好きだったのか?
贔屓が退団してからその答えに至るまで様々な葛藤がありました。
最初に言っておきたいのが元贔屓と今の贔屓を二人を天秤に掛けて元贔屓以上に贔屓が好きになって乗り換えたという訳ではない。
この二人はすごく似ているのだけれど(私見でね)現役時代の二人を比べたことなど一度もなかった。
元贔屓のことは某大作ミュージカルで好きになり組替えをきっかけにファン活動にのめりこんだんだけど、私のファンのピークは2番手時代~2作目あたりでした。
元贔屓の2番手時代はその当時2番手になるのではないかと言われていた上級生を抜かして組替えしたことが原因であまり組ファンに受け入れてもらっていないような雰囲気がありファンでも胃が痛くなる状況だった。
入出でもダントツで遅く入って早く出ていく日々。
ファンの間では、楽屋に居づらいのではないか、辛い思いをしているんじゃないかと憶測が飛び交ったり。
ファンが増えなかったのは色々原因あるとは思うけれど、会に入ったり入出をするメリットを感じられなかったからではないかと思います。
今だから思うけど、元贔屓はギャラリーするだけで十分だったかもとファンですら思う。
平日の入りなんて私含め数人くらいしかいなかった時もあり、元贔屓はギャラリーが死ぬほど嫌いだったので手紙を奪うようにとると一瞬で楽屋に入っていった。
その時は元贔屓が可哀そうで可哀そうで、私は学生だったのもあって結構な頻度で入出に行っていました。
2番手時代の元贔屓は少ないファンが「私たちが守って(応援して)あげなきゃ」と使命感を感じさせるような何かがあった。
追い打ちがトップになる前の大量の組替え、それがまるで元贔屓がトップになる為の体制を整える為のようで組ファンからの批判は凄かった。
本当のことは分からないけれど、あまりに衝撃的でそのすべての批判が元贔屓に行っているような感じがあった。
発表された翌日はどうしても自分の思いを伝えたくて『何があってもあなたについていきます』という内容の手紙を渡すため用事を全部キャンセルして入り待ちに向かった。
紆余曲折を経てトップ就任が発表され、その時のスケジュール帳にはしっかりとトップ就任発表日が記されている。
幸運なことに前トップのサヨナラショー前楽も観れて本来出演してなかったショーナンバーを踊る元贔屓も観れた。
お披露目初日もムラまで行って開演アナウンスやトップ羽を背負った元贔屓にぐっと胸が熱くなった。
お披露目公演観劇数は途中から数えなくなるほど観たし、客降りした元贔屓が本来お客さんとはハイタッチしかしないのに自分だけ手を握ってもらったことがめちゃくちゃ嬉しかったり。
トップになって初のショー、当たり前だけどどの場面でもセンターに元贔屓が居て楽しかったし何より芝居が良作だった。
自分が好きで行っていた入出も途中から自分の意志など関係なくいかなければいけないという義務に変わっていき、渡したかった手紙も何を書いていいのか分からなくなっていった。
観劇回数が大幅に減ったのはトップ中盤〜後半の地方の長期公演からだった。
大劇場と東宝は行きやすいしごまかして行ってたけど地方の長期を通うにはモチベーションが足りなかった。
そして私は上演作品が嫌いだった。
トップ前半期はとてもいい公演をしていたのに個人的にあまり好きでない再演公演を当てられまくった後半の暗黒期を私は未だに許せない。
「これが退団公演か……」
「こんな駄作をあと何十回も観なきゃいけないのか」
と思ったに違いない。
ショーがなかったら絶対に救いようがなかった。
良い公演に当たらなかったというのは贔屓が元贔屓になった要因ではない。
観劇回数は減ったけれどそれでも観ればやっぱり好きだなぁと思ってしまうのだ。
やはり一番の要因は退団発表に関する色々だった。
退団発表より前に発表されたショータイトルが退団仕様だったため
『次回公演で元贔屓は退団するに違いない』
と言われていたのだが、私はどうしてもそれが信じられなかった。
元贔屓は至る媒体で100周年のことについて聞かれ、その度に「本当に大切なのは101年目から」と口にしていた。
だがそれが現実に発表され、寂しさとか惜しむ気持ちより先に来たのは落胆だった。
「あれだけ101周年目が大事とか言ってたのに自分は辞めるんかい……」
そのうえで決定的だったのは退団公演集合日で同期の人が元贔屓と一緒にやめることが発表された時。
「やっぱりな」と思うとともに心が急速にさめていった。
「この人この組でトップになる意味あったのかな?元いた組にずっといればよかったんじゃないの?」
「結局は自分が、二人がよければ組の事はどうでもいいのかな?」
一度思い始めると良くないことしか考えられなくなっていった。
しかも無駄にファン歴が長いと友人伝いに知りたくないことも耳に入ってくる。
会に入った当初仲良くしていた子も一人、また一人と辞めていって結局退団公演まで残ったのは私一人だけだった。
「宝塚にいるの、辛かったのかな」
「ガードの事、ただのギャラリー除けにしか思ってなかったのかな」
「仮初めでも演じてもいいから舞台上で位トップコンビを演じて欲しかった」
そう考えていくともう何もかもがどうでもよくなっていった。
ファンならその人のすべてを受け入れるべき、受け入れられないのはファンじゃない!!という人もいると思うけれど、私はそんなご立派なファンにはなれないし、なるつもりもない。
何よりこれ以上この人のファンを続けていたら、私はこの人を嫌いになってしまうと思った。
言い方は悪いが、私は悩み、苦しんでいる元贔屓が好きだった。
元贔屓はトップとして、スターとして完璧な人ではなかったと思う。歌も、ダンスも、人間としても。
2番手の元贔屓には自分の欠けたものをよく分かっていて、それを埋めようともがき、苦しみ、ただひた向きに舞台に向かっているように私は感じていた。
それがトップになってから宛てられるのは、当たり前だけれど全てが元贔屓のために作られる公演で、もちろん元贔屓は日々上を目指して進化していったのだけれど、その進化のかたちは2番手やトップ初期の頃とは少し違っていた。
目指すものがなくなり、ただ作品にすべてをかけられる充実期というんだろうか。
そう思った時に気づいてしまった。
結局私は元贔屓自身について行きたかったのではなく、自分の理想通りになるであろうと仮定した元贔屓に着いていきたかったのだ。
退団公演は正直義務感とただ「既に払ったチケット代がもったいない」という2つに支えられて観劇に行っていた。
それでもモチベーションを保てなくて、入出待ちには中々行けなくなってしまった。
周りの空気も私にはつらかった。退団に向かい元贔屓を送り出そうとする姿勢や、1公演を惜しみ涙する人たち。
あと少ししかないのに、元贔屓の男役はもう見れないのに、どうして自分はその人たちのように熱くなれないんだろう。素直に応援できないんだろう。
観劇では泣けないのに、終わった後どうしようもなく虚しくなって泣いて帰ったこともある。
結局私は退団公演を結構な回数観て、サヨナラショー付きの回は全部観れたし、千秋楽の入りも出もフェアウェルにだって参加した。
もうそれは好きだから、ファンだからというよりもはや意地のようなものだった。
ずっと(といっても新公主演後からだけれど)見ていた元贔屓の最後を見届ける。それだけに固執していた。
終わった時は実感も寂しさもなく、「あ、終わったんだ」とあっけなかったことを覚えてる。
退団後しばらくは私はいつから元贔屓のことを応援するのが好きからでなく義務になっていたのだろうと考えるようになった。
パッと気持ちが離れたのは退団公演集合日の発表だったけれど、実際はもっと昔からな気がする。
それとももしかしたら最初から好きじゃなかったんじゃないかとすら思ってしまう。
でもやっぱり昔のDVDを観たりするとそこには私が好きだった元贔屓がいて、自分でもよく分からなくなってしまった。
元贔屓が悪い訳でも、辞めた同期の人が悪い訳でもない。
ただ着いていけなかった私が悪い。と自分を責めることもあった。
退団公演が終わってしばらくはとても無気力で、宝塚を観る気にもなれなかった私を奮い立たせてくれたのは
見たかった宝塚を観るためにお金を貯めて異国の地へ、好きな人の退団を思って涙している。
私はそれにとてつもなく感動した!!この出演者の人たちに昔純粋なファンだった自分自身を重ねていたのかもしれない。
この番組を見て、気になっていた今の贔屓を観にムラに行こうと決心した。
その後は宝塚でのもやもやは同じく宝塚で晴らす!というようなハマり具合。
正直今後私がずっ現贔屓を応援できるのかというととても微妙だと思う。
(だって私昔は元贔屓に退団しても一生着いていくと思ってたし)
私はもう二度と好きなのか、義務だったのかなんて悩みたくないし、楽しくて宝塚を見ているのにつらい思いはしたくない。
贔屓のファンになって、前と比べるとずっと緩くだがファン活動も再開した。
今、楽しくてしょうがない。
お芝居でもショーでもオペラ無くてもどこにいるかわかるし、1人だけをオペラで追ってしまって他の人を見る余裕なんてない。
感想のお手紙を書いてると楽しいし、入出で姿を見るだけで満足、お手紙を渡せて幸せ。
お茶会でお話をしてるのを見るのも幸せだし、近くに来ると嬉しい。
文字びっしりの便箋6枚にわたる手紙を寝ずに書いても全然眠くない。
そのたびに私は『前にもおんなじことを思ったことがあるな』とデジャヴを感じていた。
そうだ、元贔屓を応援していた時だ。
私は元贔屓のことを忘れて現贔屓を新たな気持ちで応援していると思っていたのに、現贔屓を応援していることで、元贔屓のことを好きだったのはけして嘘ではなかったのだと思えた。
そう思うと、生で観て泣けなかった退団公演のショーが今になって泣けて泣けてしょうがないのだ。
元贔屓は確かに私の贔屓だった。
私は確かにあの人のことが好きだった。
誰かを好きでい続けるのは幸せなことだけれど、同時にとてもエネルギーを使う。
長く応援していると色々としがらみが増えていく、自由だと思っていたことが不自由になってその時好きだったことを否定したりしまったりする。
「ずっと好きです」
元贔屓に送った言葉は今では嘘になってしまったけれどその時の私は確かにずっと、いつまでもという感情を贔屓に持っていたし感じさせてくれた。
それは嘘じゃないと思う。
名古屋在住だよ
・名古屋飯コスパがよくカジュアルなのに味がよいはわかる(マウンテンをひくまでもなくコメダのバゲットサラダセットで昼食は十分だ)
・お茶文化があるのも知ってる(子供会でお茶会=正座をしておうすをのむをやってるの名古屋にきてはじめてみた)
・でもみょうこうえんしらなかったし、最初大須の南側の真ん中あたりの角、盆栽のとなりくらいでお茶煎じてるアレかとおもった
・個人の事情になるがそもそもお茶を煎じるにおいがあまり魅力的とは感じないしにおいがすきな紅茶も飲むと眠れないので体に合わない
最近お気に入りの名古屋飯は名駅アニメイト裏あたりにあるラジャラニのケバブ丼だよ 950円
そしてもっと最高なのはチーズナンや鳥皮フライが食べ放題のカレー店の豊田みょう宝店 特に名は秘す
あとララポートにある日本で2つ3店舗(2023年現在)しかないケンタッキーの食べ放題も好きだけど元が取れないのではすむかいのシェーキーズでタベホしたあと買って帰って夜チキンにする
今年が終わる前に厄落としを兼ねて、いわゆるファン友に泥をぶちまけられた話を書いておこうと思う
今年、入団した当初から応援していた中堅生徒さんの卒業を見送った
入団から卒業まで見届けることができて本当に良かったと思っている
昨年友人から、当該生徒に最近ハマりどうしても彼女のチケットで公演を見たいという方を紹介された
その方は元々卒業済路線上級生のファンの方で、上級生のファンは生徒と同じく格好良くて素敵な人が多いと仰っており、本人も自分格好いい感を醸し出していた
なんでそんなに格好いい人がいるのに、どちらかというと可愛い系の生徒さんに落ちたのか分からなかったが、公演の都度チケットを取り次いでいた
東京公演の土日のチケットばかり欲しがったが、昔からの会員のよしみでその方へもほぼ行き渡っていた
非公式のFCもあるのになぜ入らないのかと聞いてみたところ、元々路線上級生のおばさまのツテで見ていたのでおたくでつるむのは嫌だとのこと
友人枠でチケットを取り次ぐ日々は続いていたが、退団の発表があり、彼女は私に泣きついてきた
退団公演を思う存分見られないと
知らんがなと思ったが、今からでもいいからFCに入ればいいと助言をし、彼女は遅ればせながら入会した
退団発表前に東京公演の取次の締切は終わっていたので、私経由で申し込んだもので彼女は観劇していた
私自身はFCができた当初からの会員だが、公演の都度そこそこ貢献していたようで、自分でもいい席で見させてもらえたし、彼女も何度か前方席で観劇して夢見心地でTwitterに感想をあげていた
東京の千秋楽も2階席の上の方だったが、彼女も観劇できて良かったと思っていた
真ん中の最前列というとても見やすい場所に座り、会場で流された映像で彼女が贈ったアクセサリーを身につける生徒さんの姿を見てこれわたしがあげたものと言った
その生徒さんは割とファンから贈られたアクセサリーなどを身につけてくださるが、路線のファンだったからそれは初めてのことだったようだ
お見送りの際にもそのことを話していて、それについても良かったなと思っていた
私も入出待ちやお茶会があった時以来直接本人に会えたので、お久しぶりです〜と互いに手をとって喜びあった
それを見た彼女は「顔なじみだとそういう反応になるんだ……」と顔を曇らせた
別のアカウントからも彼女のつぶやきは見られるので恐る恐る見てみると、千秋楽まで推していた生徒さんとそのファンたちをディスる言葉であふれていた
下界に降りた際、在団時のスター格が出るのだそうで
知らんがな
こんな人に延々チケットを取り次いでいた自分がアホらしくなってしまい、虚無感に苛まれている
次は更に同じ組の下級生に移動するようなので、界隈の方は気をつけてください
変な人と縁が切れて良かった
人の日記にコメントを寄せるブクマカをみて、彼らは人のふりをした動物未満の存在だと常々感じている
せっかくネット環境とハテナIDがあるのに自身から何かを発信することはなく、ただただ他人の意見や日記に寄生して無意味なコメントを残すものたちを人間と扱っていいのだろうか?
アマゾンレビューに対してすら良し悪しをつけることが可能なのに、ブクマはそれすら叶わず瞬間的かつ無限に押せるスター数と建設的コメントという名ばかりのシステムによって支えられている
対話らしきものはなく、常に上位からの上から目線の書き方でしか成り立たないという掲示板でもSNSでもない存在
それでも時々人らしき片鱗をみせて励ましや応援や共感のコメントを見かけるが、実際の所彼らは目立つためにそういうことをしているに過ぎないのでbotと変わらないと思っている
ブログの一般的なコメントシステムだと仲間意識によるお茶会的なノリのコメントが散見されるが、あちらのほうがよほど人間らしい
それが気持ち悪くない文脈もあるにはある。「教養としてのワイン」なら分かる。「あーワインの味よりも歴史を知りたい人向けだなー。ワインのうんちくとかも書いてあるんだろうなー」とか想像できる。
でも「教養としてのデータサイエンス」は気持ち悪い。「なんかそれっぽい単語を使ってドヤりたいだけ(と本音では思っているけど自覚がない)人向けで、そんなの売れるの?」とか思ってしまう。
教養に価値がないとは言わない。でも「教養としての...」という冠には、「これはあくまで教養としての本であって、読んでも役に立ちません。それを理解してお買い上げください。」というエクスキューズと、「あなたはこのテーマをよく知らないせいでコンプレックスを感じていますね?この本を読んでもそれを理解して使いこなせるようにはなりませんが、知ったつもりになれるし、あなたが今感じてるコンプレックスは解消できます。なんならドヤれますよ」という下世話なオファーが透けて見える。
「世界のビジネスエリートが知っている 教養としての茶道」は、そういう意味でも意味不明。目次を見たら
とか書いてあるけど、それが教養なのか?エクスキューズと下世話なオファーに加えて、そうであったらいいなーという願望が混ざっていて、歪みまくっている。複雑骨折してる。
数年前に妻がだまし討ちのような宗教勧誘に遭ったのを思い出したので書いてみる。
子が1歳前後の頃、嫁と子が近所を歩いているときに人の良さそうなおばさんに声を掛けられた。
曰く、近所の区民センターで子育てママ向けのお茶会というかレクリエーション的な催しが行われるので都合が合えばどうか、と。
これだけ書くと酷く怪しげに感じるかもしれないけど、子連れで歩いていると年配の方などから「かわいいねぇ」と好意的に声を掛けていただくことは驚くほど多いし、また子育てママ向けの息抜きやママ同士の交流を目的とした催しはたくさん行われていて(生協さんやアクティブなママさんや保育施設や行政?が主催してる)この件もそれらのうちのひとつと錯覚してしまった。
区民センターで行われるというのもなんだか安心なような気がしたが、後になって思えば区民センターのスペースをレンタルするだけなら誰でも出来るし、行政の公認みたいな意味合いは一切なかった。
で当日、区民センターに出かけると会場の部屋の前にプレイマットがひかれた簡易キッズスペースが設営されててそこに子を預けて部屋に入れと。
子を守る親としてそこに預けるのは迂闊ではないか。という手厳しい意見もあるだろうけど、自分もどちらかといえばNOと言えない日本人的な気質が強いので…
部屋に入ると長机が並べられていて、年配のジジババが大勢居て、後ろの方の席に二人だけママさんらしき若い女性がいてその時点で聞いてた話とだいぶ違うなと。
で、講師風のおじいさんが登壇してセミナーぽいのが始まりそのおじいさんが身分と名前を名乗ると、明らかに某教団の関連大学の先生かなにかで嫁さんが「やられた!!」となり、慌てて「用事があるのを失念さてました!帰ります!」と慌てて退出し子供を受け取って帰った。というのが事の経緯(引き止めはなかったらしい)。
なので、厳密にいうと勧誘を受ける前に逃げ出せた。
けども「教団名 勧誘」で、検索すると子連れママを狙った似たような事例がたくさんヒットするので、あの場に留まっていればそのうち勧誘が始まっていたものと思われる。
この一件を妻が友人に細部をボカして話すと意外にも少なくない人数がこういう事例がある事を知っていた。けれども、宗教というデリケートな話題でもあり友人同士でも気軽に注意喚起するのもちょっと…と情報共有され辛い状況らしかった。
この体験談が誰かの役に立つかもと思い書いてみた。
2017年に使用期限が切れているパブロンを部屋の中から発掘し、適当に飲んで誤魔化してみる
総合感冒薬なので発熱以外にも咳や鼻水などを抑える副作用がある。
副作用というと語弊がある。パブロンとしては風邪薬なんだから主要な薬効を発揮しているだけに過ぎ無い。
横着して新しく解熱剤を買わなかったのは私本人である。自業自得であり、この程度の副作用ははなから受け入れるつもりでいた。
しかし発熱くらいどうにかなるという楽観的な予想に反して、発熱は38度台をキープし続ける。
発熱によって体力を消耗するのは悪手である、本来ワクチン摂取後の休みの期間の大半は寝て過ごすことを前提に考えていたのだが、純粋に睡眠欲求が感じられ無い。
全ての症状が睡眠をするべきだという主張を叫んでいるが、脳内のホルモンバランスはこれらに相反して、睡眠は不要であると切り捨てる。
私は寝る前に軽く空想をして楽しむ趣味がある。趣味というよりは日課。日課というよりは習性とか性質といった類のものである。
一つの妄想にはメインヒロインと、それを取り巻く空想世界、多くの場合は異世界などが含まれる。
昨日は各ヒロインをティーパーティーの空間に拉致して、合わせてみようという試みの妄想を展開した。
女の子は三人、異世界転生で獲得した剣術を使い、幼い頃から剣の手解きをした女騎士。お兄ちゃんである私のことが大好きなアイドルの妹、悪魔をレイプして産ませた、羊のツノを持つ娘(12歳)。
彼女らを話し合わせ、その背後に私という男がいることを認識させて、私たちおんなじ人のことが好きなんだ…といった情景をニヨニヨしながら愛でるといった、趣味の悪い妄想である。
ちなみに、女剣士とアイドルちゃんは物語世界で私と死別をしている。
このお茶会で、私という男との関係を語るには、私との死別した経験を語らなければなら無い。
彼女たちとの交流や死別の仕方は、いくらでもディテールを掘り下げて語る事ができるが、長くなるのでここでは割愛する。
そしたら、もう彼女たちはボロボロ泣いちゃって、本当に愛おしいんだよね。
最悪の別れ方、殺され方、死に方をしているから、心に傷を負ってしまってるんだよ。
そこに颯爽と死んだはずの私が登場して、彼女たちの心労を労うわけ、顔をグシャグチャにして強く抱きついてくる反応は、本当に心のちんこに響く。
彼女ら本当にいい子なんだよ。そんな子にこれほどの悲痛な経験をさせてしまったこととかを考えると、私も布団の中で嗚咽を噛み殺して泣いていました。
心優しい青年だったわたくしは、お茶会とダンスパーティーによって歪められてしまいましたわ。今なら声を大にして言えますわ。パンが無ければとんかつを食べればいいじゃない
こっちも婚約者奪われてるんだから別にいいと思う。あわよくば消えていただきたい。
むしろなんか避けられてる
楽しいって、何? なんでそんなヘラヘラできるわけ。パパやママに人の痛みを知りなさいって教わらなかった?
毎日自由な時間が8時間以上あるのが許せない。むろん貴族を辞める勇気はない。
他人がいいと言ったものを追いかける方が楽だ。どう見ても俺らよりプペル100回見てるやつの方が幸せそうだろ?ストレスなく生きるコツは正しい判断をすることじゃない。「自分は今正しい判断をしている」と心の底から思い込むことだ。
相対的に自分の価値が上がったように感じる!俺の失敗を目立たなくしてくれてありがとう!
なんですぐ会えないん?
露骨に不機嫌になる人が許せなかった。他人を不快にさせるのが趣味なのかと思っていた。でもある日露骨に不機嫌になってみて気づいた。気持ちいい。それからはもう辞められない。