はてなキーワード: 試験とは
東大文一に落ちて早稲田大学法学部に進学した息子が司法試験の勉強をしている。
私は努めて平静を装い、母として「頑張ってね」と声をかける。
でも心では思う。
どうしてもっと10歳から12歳、16歳から18歳という人生で最も重要な6年間に今の頑張りと結果を出してくれなかったんだろう、と。
その6年間にかけたお金と手間を思い出し虚しくなる。
第一、仮に予備試験と司法試験に合格したとして早稲田大学法学部から裁判官や検察官になって何の意味があるのだろう。
判事ならその大半を最高裁事務総局付や最高裁判官調査官として、検事ならその大半を法務官僚として過ごす。
そしてその先に高裁長官、最高裁判官、最高裁長官、法務次官、東京高検検事長、検事総長という職務が待っている。
それが一流だ。
法廷に立って犯罪者を裁く判事、送検された被疑者を取り調べて被告人にして法廷で責め立てる検事は現場で働く現業職であり二流なのだ。
なせわそれに気が付かない。
だからお前は二流なんだ。
そんな言葉を飲み込み、頑張ってねと声をかける。
女優じゃなくて竿役。はげて、肌は油で光っているけれども、痩せて弱そうなおじいちゃん。
まあ、よくみたら他人の空似だったんだけれども...
ただ、なんか萎えてしまって、体も重くてベッドから起き上がれないから、布団の中でぼーっと先生のことを思い出していた。
数学を教えていたその先生は、生徒からも教師陣からも評判が良くなかった。教え方は下手だし、何よりやる気がなかった。
しかし、数学の試験で何度も落第していた私は、成績についての面談で少し仲良くなっていた。面談で先生は怒らず、雑談ばかりした。
職員室の隅に席を持つ先生は、教室の隅にいるような生徒にやさしかった。
「どんなことでも、6年間、毎日続けてやったら、モノになるよ。君のガラなら、将棋とかだな。今日からやるんだぞ。」「じゃあ、先生はやったことあるんですか」「うるせえ、それができたら、教師なんかもうやめてるからな」
それからもう7年たつ。
結局私はほとんど何もしなかった。
運動は下手だからとやらなかった。本は多少読んだが、集中力が続かず、完読したものは少なかった。将棋は、せっかちな私にまるで向かなく思えた。
何事もやるなら一番になりたかったが、そのためには、どんなことも今更やるには遅く思えた。
ただ一つ、続けていたことがある。
部活にも入らず、趣味も持たず、親にゲームやテレビを禁じられていた私は、自宅に帰ると自慰に励んだ。想像でも十分だし、時代小説のサービスシーンも役に立った。
同級生が部活帰りにみんなで眺める夕日を、私は賢者タイムの中一人で見ていた。行為後の散歩で眺める地元の景色は美しかったが、役に立ちはしなかった。
残ったのは、伸びたチン皮だけ。しっかり剥けはするけど、本当に情けないその見た目が恥ずかしく、銭湯も温泉も行けたものでない。快楽と怠惰に逃げ続けた私にふさわしい成果だ。
何度、行為後に自分を情けなくなったろう。助けてくれと思ったろう。でも、それも今日までだ。明日からは、無理なら明後日から。こんなことはやめて、何かをやろう。勉強をしよう。人と話そう。勇気をもって銭湯に行こう。そう思いながらもチン皮をくちゃくちゃ揉んでいる私を、思い出の中からよみがえった先生が「どうせ今回も同じだよ。お前はそういうやつだからな」とケタケタ笑っている。
高校生のときはなんとかなっていたが、大学生になってから症状が悪化した。
入学時はまだコロナ禍でほとんどの授業がオンデマンドで行われた。先延ばし人間とオンデマンドは相性が合わない。「期限までに見ればいい」が、だんだん「期限までに録画してみればいい」になる。それが「試験までに見ればいい」に、変わる。当然、試験直前に一教科20時間のビデオなんて見るわけがなく単位を落としまくる。
2年になると対面授業がぼちぼち増えてきた。生活習慣が終わっていたので、授業が始まったらスマホで録音を開始して、あとは寝ていた。当然、視覚情報のない授業なんて聞いてられるわけがなく、また単位を落としまくる。
3年になる。なぜか授業中眠くなることがなくなる。そのおかげか大体の授業はある程度聴くようになった。いつも通り試験対策は直前に5時間ほどやるだけだったが(集中もしていない)、1回でも授業を聴いてるとレジュメの内容をなんとなく理解できるようになり、結果単位もほとんど落とさずに済んだ。
3年秋。就活が始まる。自分はESに書けるようなことはしていないからもっと早く始めるべきだったのに、また先延ばしをしてしまっていた。いや、一応5月くらいに就活サービスみたいなのに登録はしていたが、登録してから毎日電話は5回、メールは20通は来るから嫌になって遠ざけていた。
業界も職種もなんも絞っていないけど、とりあえず面白そうなところにESを書くことにした。猶予はかなりあった。1か月以上前には締め切りを知っていたはず。
なのに、なのに、間に合わなかった。あと10分あれば出せたのに。あのときYouTubeなんか見てなければ。あのときベッドでゴロゴロしていなければ。
毎回あと10分足りない。2時間足りないとかだったらあきらめもつくけど、本当にあと10分だけ足りない。なぜか。
多分あと10分あれば作れたものは、自分が作るもののなかの最低ラインなんだと思う。本来そのクオリティのものはもっと前の時点で作っておいて、そこから何回も何回も推敲してようやくいいものができる。
なのに自分は1発でなんとかしようとしている。この2時間で終わらせるぞ。この半日で終わらせるぞ。
そうじゃないんだよ。提出物って普通一回寝かせるもんなんだよ。
多分あと10分あれば作れたものを最初から目指していれば、2時間で終わらせることもできたはず。でも、毎回最低ラインのものをつくるために必要な時間しか残っていないのに、最高のものをつくろうとしている。残り15分になってようやく「最低ラインのものをいったんつくらないとダメだろ」ということを思い出す。
いま雑に文を書いてみて分かった。1回目はまず気楽に書く。いいか悪いかはさておきで。とりあえず字数だけ埋める。カスでもいいから全部完成したうえで、修正を加えていく。それが正しい。最初から完璧にしない。
先に延ばす前にいったん埋めるだけで、次書き直すの気持ちがだいぶ楽になるはず。できたらいいけど、
よくある話だか、同じ進級の仕方をしてた友達と初めて差がついてしまった
仕方ないと受け止められるところもあるが「なんであの子が受かってうちの子が落ちるんだろう」って気持ちが消えない
試験の頻度は半年に1回、その間、歯を食いしばらなければならない
悔しい気持ちでいっぱいだが、夫は「前より良くなってるから良いじゃないか」って感じだ
そう思えるのがいい親なんだと思う。
私みたいに、他人とすぐ比較するやつは、自ら生きづらくしてて、きっとそのまま\(^o^)/するんだろうな
なんでこうなっちゃったんだろうか
最近こんなふうに、仕事の悔しさで夜中目が覚めて寝られないことが多い
趣味にも手を出す気にならない
それでいっぱいになってしまっている
疲れたなぁ
もうおばさんと言われる年齢だ。職場で働いている中で悩みがある。将来のことだ。このままずっと、これでいいのか不安でしょうがない。
十年くらい、関西にある地元の市役所で臨時職員(※今は会計年度任用職員)として採用されて、働き続けてきた。
部署の異動は一度だけ。最初は水道の庶務の仕事だった。今の部署はさすがに言えない。ごめん。
会計年度任用職員、略称としては会任なんだけど、それになってからは異動がない。臨時職員がアルバイト・パートだとすると、会任は契約社員の位置づけである。
ずっと同じ部署にいても、民間みたいに正社員転換しないといけないルールはないらしい。長い人だと、地籍調査とか用地取得の部署で、正規じゃないのに15年以上働いてる人もいる。
私の人生の何がつらいのか、書き綴ろうとしたけどまとまらない。何がどう辛いのか、自分でわからないところがある。しいていうと、恋愛とか、結婚だろうか。世の中の一般の女性にとって大事なことだ。
私は女らしくないし、あまり可愛くもないし、なんならハムスターとか、チンチラに生まれたかった。あの子達の世界にもブサイクはいるのかもしれないけど、人間目線だとみんなカワイイ。
不安はたくさんあるけど、ここでは一つだけに絞って話をする。
不安の全体だと、恋愛や結婚もそうだし、生活のこともあるし、やや遠くで暮らしてる親のこととか、相続とか、自分の健康のこともある。
けど、一番は恋愛とか、結婚のことだ。アラフォーになったばかりだけど、正直結婚は難しいと思う。本当にそう思う。
私と同期で、約十年前に入庁した臨時職員の子達は、全員が自分の道を見つけている。適当な男性とくっついて離職した子もいれば、普通に転職した子もいれば、市役所から直接スカウトを受けて、コネ採用みたいな恰好で、公開競争試験じゃなくて個別試験をセッティングしてもらって、裏口のような形で正規職員になった子もいる。みんな、ちゃんとした理由があった。
入庁当時の私は、25才だった。美容の専門学校を卒業したけど、リーマンショックの関係で職が少なくて、フリーターを転々として、生活が貧しくて毎日泣きそうで、そんな私を最後に拾ってくれたのが生まれ故郷の市役所だった。
月給は額面13万円+残業代で、ボーナスは当然ゼロ。病気・傷病休暇もない。有給は年に5日だけ。私も皆も、風邪・インフルエンザでも普通に出勤していた。こんな私が働けるのはここしかなかった。
数年前に会任制度がスタートしてからは、ボーナスが年間二か月分出るようになって、まともに貯金ができるようになった。今でもこの職場に感謝してる。
話がまとまらなくなる前に、恋愛とか結婚の不安のことを話したい。わかりにくいところがあったらコメントとかで教えてほしい。できるだけ答えるので。
20代後半の頃は、結婚できるのかなって勝手に思っていた。男性の人が話しかけてくれるし、アプローチがあったし、同じ職場の人にデートに誘われたこともある。交際経験もあるけど、そんなには続かなかった。
しだいに焦ってはきたけど、私が三十路になる年のことだった。水道の部署から現在の部署に移ったばかりのことだ。この職場に、いいなって思える男の人(A君)がいた。私と同い年で、小学校・中学校が一緒だった。
当時の私は、残業や休日出勤が多い部署で、毎日地道に仕事をがんばっていた。イベントで使う資機材をまとめたり、パンフレットを作ったり、式典会場の準備をしたり、てんてこ舞いの日々だった。
私は当時、その男の人A君と一緒のペアになって仕事をしていた。心の距離が段々近づいていって、仕事帰りにラーメンをおごってもらったり、イベント帰りに家に送ってもらったり、辛い時に慰めてくれたりした。優しい人だった。
以上を一年目とすると、二年目にそれは起こった。
新卒で入庁してきた子がいた。大卒の子だった。おそらく22才のはずだ。この地域にある名門企業の代表者と同じ苗字だった。この子はSさん。年代は違うけど、私やA君と同じ焼酎学校の出身だった。
直属の上司である係長(※蛇足だけど係長も学校が同じ。Sさんとは出身高校も一緒)からは、「Sさんは大学出たばかりで、最初は全然慣れないだろうからフォローしてあげて」と言われていた。そうしてあげるのが先輩としての正しい道だと思ってたけど、後日別の意味で否定された。
Sさんは、仕事ができる子だった。難しい言葉を使うと、利発な子だった。都会じゃなくて、地元にある大学出身の子。別に、京都大学とか大阪大学とか、そういうレベルの大学出じゃない。
けど、頭の回転とか、コミュニケーションとか、気遣いとか、嫌いな相手とも表面上仲良くするとか、そういうのができる子だった。
あれは今でも覚えてる。私とペアになってたA君だけど、Sさんを目で追ってるのがわかった。
関係ある仕事でも、関係ない仕事でも一緒に話をしようとするし、Sさんと話してる最中は、私の時と比べて笑顔だった。
反面、私と一緒にいることは少なくなった。一緒にご飯を食べることはなくなったし、一緒の車に乗せてくれることもなくなった。同じ仕事をして、彼を補助する仕事は変わらなかったけど。
Sさんは人懐っこいとか、そこまでではないけど、皆とよく一緒に話していた記憶がある。若い子らしくて、さわやかな印象だった。よく笑っていた。ブサイクな方ではないと思う。
結局、A君はみんなが見てる時でも、Sさんに対して恋愛的にがっつく……は言い過ぎだけど、熱烈に会話をするようになってた。「あれはひどい、やばい」という次元だった。
上司である係長に「あれはよくないです!」と進言したこともあった。けど、係長も、そんな2人をむしろほほえましい感じで、ノホホンとした眼差しを送っていた。「増田ちゃん。あんなのイチイチ止めてたら、日本の少子化待ったなしだよ~」だって……。
その係長だって、Sさんには甘々だった。この部署の中では、Sさんは新卒とは思えないほどスキルがあったとは思うよ?私なんかとは別格の。係長は、そんなSさんを散々利用していた。
本来はベテラン職員がやる仕事まで、入庁一年目であるSさんに割り振っていた。イベントだって、ほとんど休みなくSさんを休日出勤させていた。
「こんなのおかしい。職場って恋愛する場所じゃないよ」、て言いたかった。なんでそんなに、Sさんばっかり使い倒すの。私だっているじゃん。私の給料、Sさんと同じくらいなの知ってるよね。私に休日出勤の仕事を割り振ってよ、残業代欲しいよと思っていた。そんなもやもやが一年以上、ずっと続いた。
※Sさんのことたくさん書いてるけど、彼女はもう職場にいない。A君も。
在籍中だったら、公共の場所にこんなことは書けないし、書かない。
さらに、その次の年度だった。
季節は春を過ぎたくらい。Sさんが朝礼の時、皆の前に出てきて、「私。今月結婚します。仕事にはもちろん支障ないので、これからもよろしく~」と皆の前で告げた。
A君の顔を見ると、茫然としていた。生気が抜けた表情だった。残念、みたいな表情を通り越した顔( ;∀;)だった。
ざまあみろ、ていう薄汚い感情が自分の中にあった。でも、ここは職場だから。そういう思いを出す場ではないから、と自分に言い聞かせた。
Sさんの結婚相手は、やっぱりというか、地元の名士の苗字だった。京都~和歌山の人なら、聞いたことがあるかもしれない。CLAMPの漫画に出てくるような、鳥系の氏だ。
入庁して二年目で、結婚かぁ……私が入庁して二年目の頃は、そんなこと考える余裕はなかった。恋愛のアプローチがあっても、応えるだけの生活の余裕がなかった。貧しかった。
月給13万円台で、京都市内での一人暮らしは不可能に近かった。実家を頼ろうにも、父母にそんな余力がないのは明らか。私は学生向けのボロアパートに住んでいた。
私が好きな少年漫画で、「ドン詰まり」という表現が出てきたのを思い出した。本当にこのドン詰まり、という状況だった。若い頃の私は。
でも、Sさんは違う。私と違って余裕がある。実家は太いし、皆から人気はあるし、私みたいな隠キャラとはわけが違った。生まれた瞬間からして違う。
それから今に至るまでの私は、ずっと同じような縮小再生産だった。
[仕事]…一般事務と、イベントのお手伝いの仕事。正規職員登用の声がかかる気配なし
[生活]…近所のスーパーで夜に割引食材を買う。奇跡が起こると、6.6割引になってることがある
[趣味]…たまにアニメ漫画・小説を読むくらい。作品イベントに行けるだけの余力なし
最後にSさんと会ったのは、同じ年だった。Sさんが妊娠後、もうすぐ育児休業で職場からいなくなるタイミング。
うちの部署のイベント大成功のお祝いで、みんなで夏にバーベキューをすることになった。係長が、お手頃な値段でたくさん食べられるというお店(というか山の中……畜産農家の圃場内だった)を紹介してくれた。私の少ない給料でも全然参加できる料金だった。そこにSさんも参加していた。
バーベキューだけど、みんなイベントの疲れを癒すというか、ねぎらうというか、和やかな雰囲気だった。広い車庫ガレージの中での立食形式のBBQだった。
私はやっぱり隠キャラで、食べたり飲んだりはしてたけど、会場の設営とか片付けとか、飲み物の氷の準備とか、お肉を焼いたりしていた。誰かが焼酎の水割りとかハイボールで使う氷を取りに来る時、その人の背後に付いて、「氷入れますよ」という案内をしていた。※「増田ちゃん、暗殺者かよ~」とツッコまれた
あとは、ほかの人のところを巡って、コップが空いてたら飲み物を注いだりした。そこまで飲み食いはしなかった。お肉とオニギリは本当においしかった。本物の食肉卸だった。限られたお客さんにだけBBQパーティのサービスをしてるとのこと。
その日も、Sさんはみんなに人気があった。焼肉と野菜を食べてお酒を飲みながら、ガレージ内でおしゃべりをしていた。ずっと。そんな時に私は、Sさん~~職場友達の話に聞き耳を立てることがあった。
こんなことを、話していた。
(早く結婚できてよかったねと言われて)
「えー。運がよかったんです。親の紹介で、京都御所の建物の中まで入れる限定の行事があって、そこで知り合って」
(仕事ができるねと言われて)
(育児休業どれくらいするの、と聞かれて)
「係長からは上限の3年まで取っとけって言われたけど、自分は1年半で十分です」
(Sさんが羨ましいと言われて)
「幸運があったので。ありがたく、この環境はもらっておきたいですけど、でも別に、ここまで恵まれてなくても、私は幸せになれるように頑張ったんじゃないかな」
嫌な感情が湧いた。
彼女は、Sさんは、私にはないもの、絶対に手に入れることができないものを持っていて、それが才能とか、環境とか、そういうのじゃないって、自分の力だって。絶対にそう思っている。
そういうのがムカつくって、あの時の自分は思った。ガレージの中で涙が出そうになった。焼肉の煙が目に入ったのもあるけど。自分はこんなに苦しいのに、Sさんは自分が恵まれた環境にいることに気が付いてるフリをして、実際には気が付いてない。
Sさんと自分との間には埋められない溝がある。でも、この時、こんなに人生で初めて、悔しい思い、誰かを憎んだのは初めてだった。
Sさんとその友達の空いたコップを見つけた時、「Sさん、何飲んでるの?」と聞いてみた。
すると、「あ~、じゃあ。私は焼酎の水割りにします。あそこの奥にあるやつで、焼酎少なめがいいです」とのこと。Sさんの職場友達は、「ありがとう。私はカルピスでいいです。お願いします!」と言った。
あそこの奥にあるやつ……その焼酎は、ガレージの奥のテーブルにあった。卓上の保冷ケースの陰に隠れていた。獺祭の高いやつだ。私も焼酎が好きだけど、こんなに高いのは飲んだことがない。
保冷ケースの裏で、私は焼酎を少し注いでから、テーブルの真下にあった開封済の農薬袋を見つけた。右手で、農薬の粉瘤を二掴み手に取って、Sさんが飲むはずの焼酎のコップにそれを入れた。
水じゃなくて炭酸水を入れて、攪拌用の割りばしでかき混ぜて、ニオイを嗅いでみると、何も感じなかった。味見した感想も焼酎のソーダ割りだった。カルピスは急いで作った。
「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」
何度、心の中で叫んだかわからない。気持ちを止めることができなかった。
あなたはだって、ここまでずっと人生幸せだったじゃん。不幸もないと、おかしいよ。
「人生には不幸があった方が幸せになれるよって、そっちの方がいいよ」って、この時思っていた。
2人のところに飲み物を持って行って、「暑いし氷溶けるし、早く飲んだ方がいいよ」と伝えた。
2人とも会釈だけして、Sさんが獺祭のソーダ割りを飲んでいた。こんな会話が聞こえた。
「え~、これ炭酸割じゃん!」
10分くらい経って、Sさんが別の男性に「獺祭おいしい、おかわりほしいです~」とねだっているのが見えた。
翌週、Sさんが職場にこなくなった。「体調不良です」と係長が上司に報告していた。
産休予定だったので、早めに開始することになった。それからまた日常が戻った。私の仕事内容は、今後もずっと変わることはないと思う。定年までずっと、いやきっとそうなんだと思う。
昇給だって、年に三千円だけ。しかも一定のところまで行ったら頭打ち。「こんなのっておかしい」と思うけど、ルールだから従うしかない。正規職員と違って身分保障がないのに、今までクビになってないだけ「ありがたい」と思わなきゃいけない。
今年に入って、育児休業中のSさんがベビーカーに子どもを乗せて職場に来た。みんな、生まれたばかりの赤ちゃんを間近で見ようと寄っていた。私もそうだった。
後ろの方には係長も来ていた。Sさんがいなくなったせいか、仕事量の負担が大きくて元気がなさそう。
Sさんに、ほかの皆と一緒に「元気に生まれてよかったね!」と伝えると、Sさんは幸せそうだった。でも、なにか違う気がした。
この、赤ちゃんを職場に連れてくるシチュエーションは、私が子どもの時も、学生の時も、社会人になってからも、何度もあった。その時、新しいお母さんは、みんな誇らしげな表情をしていた。安心がまざったような。
でも、Sさんの表情は悲しそうだった。もしかして辛いことがあったのかな。だったら、それでよかったのかもしれない。無事出産できたのはいいことだけど、人生にはつらさも必要だと思うから。
同じ職場の仲間として、Sさんが職場復帰する時が来たら、これまでと同じように一緒に仕事ができたらと思う。私は貧しい生活だけど、それを受け入れることができている。ここまで達観できるようになった。これも成長だ。これから人生どうなるかもわからないし、不安もあるけど。
リストの中には、村上春樹『海辺のカフカ』、真島ヒロ『FAIRY TAIL』、ジョージ・R・R・マーティン『ゲーム・オブ・スローンズ』なども含まれ、ホラー作家のスティーブン・キングの著作にいたっては70冊近くが入っている。
日本でも東京都の「不健全図書」指定問題でも保守が推進、リベラルが反対というフロリダ州と同じ構図であったが、ここまで過激ではなかった。ただ指定された書籍をAmazonが自主規制対象とし、文字通りの禁書扱いとなってしまったことで表現の自由の観点から少し違った展開となっているのはご存知の通り。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
この1週間のオープンチャットでは、多岐にわたる話題が活発に議論されました。以下に主なトピックのまとめを示します。
各地の天候や気温、特にソウル・東京・釜山などの都市の気候差についての報告がありました。また、兵庫県知事選の結果や名古屋の観光計画など地域特有の話題も多く見られ、選挙や地震、減税の話題も含まれました。
名古屋での食事(牡蠣鍋やうどん)や「から好し」の唐揚げなど、特定の料理についての熱心なやりとりが見られました。コンビニスイーツの値上げに対する不満、韓国料理の価格高騰に対する意見、そして特定の飲食店や商品の味に関する感想なども話題に上りました。
音楽や映画、アニメについての会話が多く、特に『ニューシネマパラダイス』のサウンドトラックやイタリアのバンドについての感想が共有されました。また、VTuberや仮面ライダーに関する夢の話などもありました。
名古屋や韓国旅行、チケット購入ミスに関する話、公共交通機関の話題(近鉄南大阪線の運休など)も登場し、観光と移動に関する関心が示されました。
AIのデータロギングやウォーターマークについての議論、そしてSNSやデジタルプラットフォームの使い方やユーザーデータの扱いについての考察が行われました。
ビットコインやイーサなどの仮想通貨の価格動向が話題に上り、さらに最低賃金引き上げの影響に対する懸念、資産管理や税収の問題についても意見が交わされました。
特定の車や飲酒の話題、湯たんぽや家賃、教育や保育園の選択肢、インフルエンザワクチン接種に関する会話も多く見られ、参加者の関心が幅広く反映されました。
総じて、この1週間の会話は地域のニュース、食や旅行の話題、趣味や日常生活のトピックなど、参加者の多様な関心を反映したものとなっていました。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
まぁ、合意するというか、属性による個人選別が差別って一般論には同意だが
しかし試験を実際に組み込むとすると、今回問題になってる連中の想定は普通にパスじゃねーの
パワハラで部下を死に追いやるとかは事前の試験では分からなくね
厄介だぜ?
特に土木電機あたりの技術職は結構辞めちゃうと思うしここら辺はどこも人材がいないから穴埋めするのも無理だし、派遣でその場を凌ぐのもキツイ
その他の職種も公務員間の転職ならかなり容易になってるので、若手や中堅男性もごっそりやめる可能性あるし、この手の人材は新卒で待遇で買い負けてしまうから補充も無理だと思う
公務員試験はセンター試験で偏差値50ちょっと出せるレベルで通る簡単な試験です。
面接のレベルはもっと低くて、面接の試験があったら偏差値40でも通れる程度だと思います。
ハッキリ言えば、ニッコマに入れるレベルの人なら200時間も勉強すればまず通れるでしょう。
面接の練習も大卒者が一般企業に浮かれるレベルを想定すれば簡単です。
総合職の場合は一回り難しくなりますが、それでも士業に比べればありえないほど簡単です。
高卒の場合は言うまでもなく、普通にニッコマに受かるのと同じぐらいの難易度でしかないです。
基本的に旧帝大クラスの人が来たら「あの人マジで勉強できるらしいぜ。勿体な」と話題になります。
誰それが京大卒だとかいった話も研修などではあっという間に広がっていきます。
もしも公務員が高学歴ならその程度のことで話題になったりはしないはずですよね?
公務員なんかやっても単にブルシット・ジョブを延々と処理するだけでしかないことは志望者の間では知れ渡っています。
その上で受けに来る人達の中に本気で日本を良くしたい人なんていません。
世の中に不満があってなにか行動を起こしたいと思っている人は、不満のあるものを変える技術に携われる民間企業や、活動に関われるNPOに行きます。
お金を稼いでそういった人達を支援するという方向を目指す人達もいます。
彼らの「世の中を良くしたい」という情熱に比べたら公務員の「まあなんとなく世の中の役には立ってるんじゃないの?」という消極的な態度はカスみたいなもんです。
新しく入ってきた人が3年持つかどうかは普通に注目されるポイントですね。
若い子は第二新卒カードがあるからアッサリ消えますし、他の公務員試験を受け直したりも普通にあります。
ベテランの人が家族の都合などで辞めることも少なくありません。
それもこれも何とか中央値程度な給与でありながらサビ残や休日呼び出しが当たり前のように存在する待遇の悪さに起因しています。
「親の介護が必要なので実家の近くでしか働けない」と言っても、容赦なく特に飛ばされることが決まったりするから「自分の人生を考えたら辞めるしか無くなった人」がちょこちょこ生まれますね。
全国転勤になりがちな国家公務員は特にその傾向が強いと思います。
都心部以外ではこの傾向が強いです。
わざわざマイナスイメージを口にすることは少ないので、ググったりした場合は都心の「デジタル化したぜ!」という自慢話ばかり出てくるかもしれません。
・年功序列が基本
・血や空気の入れ替わりが少ない
この2つの要素がバッチリ聞いてくるせいでザ・JTCといった空気です。階級社会的な要素が非常に強く、どんな人でも偉くなるに従ってボス猿みたいな態度で働くようになります。
お金や時間を上手く使うという感覚は、民間の感覚から見れば皆無と言ってもいいレベルだと思います。
決められたルールと予算の中に縦割りな業務を上手く収めることしか考えてません。
自分の狭い観測範囲内での効率化は考えられますが、それが広い視野で見たら逆効果になるような状況について脳がバグって「そんなことはない!俺の見えてる範囲では確かに効率化されているんだ!俺は正しいんだ!」と知能崩壊を起こすことが非常に多いです。
経済的な本能が壊れきった社会主義的な生き物しかいない組織ばかりなので、資本主義的な観点から見れば役立たずばかりと断じてもいいまであります。
私が知ってる範囲だとこんな感じですかね。
公務員はクソみたいな仕事ですが、給料は安定しているし、公文書偽造っぽいことに巻き込まれてもなんだかんだ庇いあう空気がるから民間で横領案件の巻き添えを食うよりはマシだと思ってます。
世の中を良くする気なんて全くないくせに半端なプライドだけは高くて「俺の仕事が社会において一切価値のないような仕事になるのだけは嫌だ。押し売り営業をしたり売れない商品を開発したりの人生だけはゴメンだ。トイレ掃除や缶詰工場みたいなあまりにもみみっちい仕事も嫌だ」と感がてしまっているような真面目系クズと極めて相性の良い仕事だと思います。
まあ、人間なんて9割は自己中心的なゴミクズなわけですから、そんな中で自分を社会に組み込まなければ生き残れないという状況になれば、こんな仕事でもやりたいと思う人間が出てくるわけですよね。
自動車学校で働いている。
気が狂いそうだ。というか気が狂って精神科のお世話になっている。
「向いてると思ったことはないけど、やるしかないからやっている」と言った先輩もいて、
自分がただのワガママで打たれ弱い怠惰な人間なのかも知れないが、
人と話すのが得意ではない人は、当たり前に絶対にやめたほうがいい仕事だと思った。
どんな性格か、どんな思考をしているのか、どういった生活をしているのか、何も分からない人間と、1時間。
聞けばいいと思うかも知れないけど、生徒の個人情報を聞くのはタブーである。
「教習に関係ない話をされて不快だった」という声がたまに出る。
免許をとりにきているのだから当たり前だ。試験に合格すること以外はどうだっていいのだ。
私にはそれが苦痛だった。
運転が下手くそな人は、言うことがいっぱいあるからこうしろ、ああしろと言ってる間に1時間なんかとっくに終わる。
ただ、そういった人はコミュニケーションが取れないことが多い。
こちらの問いかけに対して何も答えないのである。アクションがあるとしても頷くだけとか。
一度も声を聞いたことがない人だって何人かいる。3単語以上喋らない人とか。
何が難しいのか聞いても分からないみたいな顔をするし、こういう時はどうするんだっけ?と聞いてもまた首を傾げる。
会話にならないことがとてもストレスだ。
反対に要領がよくて運転がまあまあできる人でも、何も言うことがないので困る。
隣でじっとしていたって良いわけだが、密室で何も喋らずに無言の時間を過ごすというのはとても窮屈だ。
もちろん何も思わない人もいる。
喋らないほうがいい人だっているし、無言だってなにも気にしない人もいる。
ただ、「私が気にしてしまう」という話で。
この空間を盛り上げないといけない、でも相手が不快にならない話題で、と思うとなにも言葉が出てこない。
こんなの私のコミュニケーションスキルが低すぎるだけの話なんだろうけど。
てかいつどこで何やるか全然把握できんくて、教科書もどこ行ったかわかんないし、プリントとか秒でどっかいっちゃうし。
気づいたら試験終わってて単位落としてたんだけど、萎えすぎて大学行くのやめたよね。
てか私ADHDだからマジしょうがないじゃん?もう大学とかいいやーってなって、今ニート。オフパコ相手の家に住んでる。
でもね、最近やりたいこと見つけたんだよね。ADHDの人たちが集まれるカフェやりたくない?みんなで忘れ物とか遅刻とかの話で共感しあってさ。
ADHDでもアイドルできるって証明したいし、みんなを元気にしたい。
当方、齢37である。来月末に引っ越しをする。大学卒業から約15年、暮らしてきた実家近くのアパートを離れるのである。
社会人としての稼ぎが少なすぎて、実家の手を借りなければ生きられない。よくメシを食べに行っていた。情けない社会人だった。それは結婚しても変わらなかった……幸い、子どもはいない。
妻は、いいやつだ。こんな貧乏暮らしの人間と結婚してくれた。見栄っ張りなのが玉にキズである。親戚や近所同士の集まりでも、コモンカード(MTGで言うと「モグの狂信者」 わかったぞ! わかったぞ! わか……)に等しい私を、高年収の正規サラリマンとして紹介することがあった。
よくできた妻だと思う。私にはもったいないくらいの。悪態をつくことはあるけど、裏切ったりしない。近所の実家にお米や野菜をたかりに行く時も、一緒に付いてきてくれた。
もし、この世界がエロ漫画の世界で、あらくれ氏が描くみたいなオッサンに妻が寝取られてしまったとしても、私は許すと思う。私に尽くしてくれる良妻である。
大学時代、ぜんぜんダメな子だった。偏差値50台の二流以下の大学で、学生時代はアルバイトばかりやっており、部活もサークルもせずにダラダラ過ごしていた。就職活動はひどいものだった。
「Fの就職チャンネル」で就活生の動画(ex.大学4年の6月から就活始めたりする)をたまにやってると思うが、まさにあんな感じの、圧倒的ダメダメ就活生だった。
さて今回、引っ越しをするのは、晴れて正社員としての採用が決まったからである。関西の南の方に住んでるのだが、隣県での採用が決まった。大まかな括りだと機械操作オペレータである。年収+はなんと約200万円。
今まで、この田舎にある小さい製造会社で毎日毎日、機械や仕様書・図面と格闘してきた。25才の時、契約社員として雇ってもらった。それまでは近所にある町中華の店でアルバイトしていた。
正直キツかった。専門知識は一切ない私立文系人間である。マジで辛かったよ。しかも、小さい会社なのに出張まであるんだからな……だがしかし、ついに培ってきたワザが評価されたのだ!!
今年の4月になってから(妻の強い勧めで)転職サイトに登録してみたところ、私のワザというのは、意外と需要のあるスキルだったようである。(ビズリーーーーーーーーーーチッ!!)
大したことは思いつかなかったが、とりあえずやってみたことを列挙する。
・少し高級な中華料理屋で暴飲暴食
・昔の思い出グッズを漁る(MTGカード、進研ゼミ中学版、ガラケーの写真など)
・地元神社の奉納祭り役員への立候補。当日記を書き始めた頃に無事終了
あとは、里山登りかな。幼い頃、祖母に連れられてよく里山散歩をしていた。小高い山の頂上から見下ろす町並みは壮観だった。
なにぶん田舎なので、里山がたくさんある。グーグルマップで見てみると、東京の方でも端っこの方は青々とした山が広がっている。あんな標高数百メートル以内の山を、ひたすらに登っていく。
自宅の裏から繋がる山道の入口から始まって、よいしょよいしょっと里山を登っていく。私が子どもの頃は、近所の人はみんな林業してたから、開けた地形がけっこうあった。里山というよりは丘陵に樹木が生えてる感じだった。
亡き祖父の話によると、戦時中はどの里山もはげ山状態だったらしい。戦争で石油燃料が不足したため、国民単位でみんな柴刈りをやりまくったのだ。グーグルマップで言うと、あの青々とした山がほぼ肌色だったということだ。
今は林業をする人はおらず、里山は荒れ放題である。てっぺんまで行っても町の景色など見えやしない。雑木の群れが頂上を覆い隠している。
樹木が生い茂ってないところだと、町の景色が見えたりする。山の標高は低いけど、限界効用が低いとでも言えばいいのか、珍しい景色なので壮観である。汗ダラダラで意識が朦朧としてるのもある。脳がマヒしている。
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高校時代の卒業アルバムも読んだっけ。柔道部に籍を置いていた。
高校卒業式の直後、部活メンバーみんなで柔道場でお祝いをするのだが――その時の写真が出てきた。
なんと、みんなからの寄せ書きも残っていた!! 超恥ずかしいけど公開してみよう。別にいいだろ。増田にこういう投稿するの、人生最初で最後なんだからさ。
(部員一同)
増田さんは、□△高校の相川さんがロリロリで好みなんですよね!!
相川さんを是非モノにしてください
増田先輩の行動で一番驚いたのは、■▲高校の藤田さんの写真をこっそり撮って、救急箱に貼っていたことです
閉会式の時、柔道着の藤田さんが目を閉じて、優勝旗に顔を傾けているやつです
とにかく3年間お疲れ様でした。先輩にはクソお世話になりました!!
増田先輩の柔道、粘り腰で凄かったです。どんな時でもあきらめずに、ベストを尽くしてました
冬の大会で4人抜かれてから5人抜きした時はマジでびっくりしました!
増田先輩の変態エクストリームハートには緊張させられっぱなしでした。
早く警察に捕まってください!!笑
増田先輩へ
増田先輩
お疲れ様でした!!
けど、引退した後もたくさん乱取り付き合ってくれて、たくさん寝技も教えてくれて、感謝してます
いままでありがとうございました♡
増田君が入部してきた頃にはどうなることかと心配をしました。ご卒業おめでとうございます。キャプテンとしての重責、大変ご苦労様でした。柔の道は、将来どこかで役に立つ時がきます。力必達(※つとむればかならずたっす)。何事も最後まで諦めず努めてください
・先輩ご卒業おめでとうございます これからも頑張ってください
・3年間お疲れさまでした 面白い先輩でした笑
・これからも今までみたいに頑張ってください
これはひどいwwwwwwを地で行く内容である。こんなん、人に見せられるもんじゃねーだろ。
でも、いいよ。増田民へのサービスだ。いつもお世話になってるからな。
そんなこんなで先月に就職が決まってから、結局最後までできなかったことがある。大学時代の思い出の開封である。
それ以外の思い出BOXはすぐに開封できた。実家にある元自分の部屋にある段ボール箱のテープを、ビリッとやればそれでよかった。でも、大学生時代は後味が悪すぎる。就職すらできずに、逃げるようにして卒業したんだから。正直、嫌な思い出である。トラウマと言っていい。
いや、大学の卒業式は出席したのだ。謝恩会にも。問題は、マクドナルドでの思い出である。
マクドでアルバイトしてたんだけどさ、卒店式っていうのがある。文字どおり店舗からの卒業式である。毎年3月にある。
卒店式だけど、マクドナルドって経営や店舗運営が外資ルールだから、エリア内の店ごとに売上を競わせるんだよな。
それで、いい結果を出してる店舗だとそれなりの貸館施設で、いまいちな結果の店舗だと近所の公民館を無料で借りて、ジュースやお菓子をテーブルに並べて卒店式をやる。
大学時代にアルバイトをしてたマクドの店は、成績がいいところだった。京都にある四条河原町店という名門店舗である。店舗番号は100番以内、つまりマクドナルド黎明期に作られたお店のひとつだ(今でもあるのかな)。
当時の私は就職活動に失敗して、無職neatでの卒業が決まって落ち込んでいた。
そんな時、自分のひとつ年下の後輩のスウィングマネージャー(※できるアルバイトが社員の仕事をする。時給+50円)から話があった。「増田さん今までお世話になりました。卒店式、ホテルグランヴィア京都でやりますからね。店長が、すげー男を見せてくれた(※足りない分は自腹切ったらしい)んすよ!! 自分、増田先輩のために送辞読みます」とか言ってた。
でも、私は嬉しくなかった。就職活動に失敗してニート確定の自分が、そんな場で送辞を読まれたって嬉しくもなんともない。畜生というやつだ。
結局、卒店式には出ないって後輩君に伝えた。すごくガッカリしていたよ。だって、彼が初心者の頃、私がずっと付いて教えていた。彼が嫌なことあって、アルバイト中に不貞腐れてる時でも、構わずにとにかく、いろいろ教えていったよ。
この子は才能があるから、すぐにうまくなるだろうと思ったけど、やっぱりすぐに上手になった。
ただスキルがあるだけじゃなくて、なんというか、仕事の本質がわかってるというか。能でいうところの上手(うわて)みたいな感じである。世阿弥がさ、『風姿花伝』で伝えてるような、社会人技能について嵩があって丈もあって(※今でいうとT型人材)、本質的なことがわかってる子だった。
一度だけ、後輩君から催促を受けた。二度だったかもしれない。あの時のことは覚えてる。
あれは事務所だった。「卒店式出ましょうよ」というシンプルなものだった。しかし私の答えは……。
「そんな気分じゃない。早く就職しないと。すぐにできないかもしれんが」と言ったら、「増田さん。AJCCで2回も勝ったじゃないですか!! 余裕っすよ」と言ってた。
※AJCC…マクドナルドの技能大会。「2回勝った」とは、地区大会と府大会で部門別優勝したの意。関西大会では、府大会と違うメンツでオペレーションになったので、コミュ障だった私はボロボロの成績だった
その後の後輩君とのやり取りは覚えてない。最後の方だと「あのな、後輩君。どんだけ綺麗に、上手く、速く、素早く、ハンバーガー作れたってな。社会じゃ何の役にも立たねーんだよ!」と悪態をついた。
それで、後輩君は黙ってしまって、それ以来やつとは会話していない。最後の勤務日も、淡々と仕事を終わらせて――いや違う、確か女性の学生客がトイレでゲロ吐いたんだっけ――それの片付けを夜に終えて、私にとってのマクドナルドは終焉を迎えた。
帰りに、同じくマクドナルド河原町三条店(※こちらは関西最古の店舗らしい。今でもあるのかな)に寄って、チョコパイかベーコンポテトパイを買って帰った。マックポークだったかもしれない。マックチキン……( ;∀;)
しんみりしてしまった。
学生時代の思い出を開封するのは心理的にキツイ。けど、時間は限られている。いったん妻とこのアパートを出たら、帰ってくるのは十数年後になるかもしれない。妻はうちの実家嫌いなので……。
そんなのはちょっと、想像したくなかった。というわけで、アパートの自室の押し入れを開けて、学生時代の禁断に近い思い出の段ボール箱を開封した。
そしたら、いろんなものが出てきた。当時のガラケーとか、大学時代の成績表とか、学位記とか、マクドナルド辞めてから郵送で届いた卒店式の寄せ書きとか、昔の授業ノートとかだな。産業社会学部のゼミのみんなで撮った記念写真もあった。京都駅の近くで行われた社会科学の研究展示会で賞を取った時のやつだった。当時の日記も出てきた。
その日記、最後の方だけパッと読んでたんだが、どうやら学生時代の私は卒業時に108万円の貯金があったらしい。なんでそんなにあったかというと、大学1回生の時からマクドナルドで週5で働き続けていたからである。いわゆる超修行をしていた。ここまで働いてると、身体が脳をハックするようになる。
……厨房の注文画面が「ピッ」と鳴ったら、考えるよりも前に身体がハンバーガーを作り始める。考えるんじゃなくて、調理行程を『感覚』が捉えるようになる。トングとか、ソースガンとか手に取るんだけど、なんかさ、感覚がさ、一体感がすごい。トングが身体の延長というか、もはやマクドナルドというお店自体が、自分と一つになってるような、そういう感じ。
例えば、トングを握ってパティ(肉)を掴んでる時って、体のどこがそれを認識してるのだろうか。
指先だと思うかもしれない。けど、その指を支えているのは筋肉組織と関節であり、それらをさらに骨組織が支えている。物質に触れている指先というのは、入口である。
骨組織と言ったけど、トングでパティを掴んだ時の刺激って、関節の中を電気信号が走って、最後は脳に伝わる。ということは、刺激というのは、結局は指先じゃなくて『脳』が認識している。
でも、その刺激って指先が認識してると人は解釈することができるし、実際にしている。脳が認識してると捉えることもできるし、体の先っちょが認識してると捉えることもできる。
こういう解釈が成り立つということは、指先が触れてるトングそのものが、パティの感触を認識してるってことにもならないだろうか。
剣道の達人だと、竹刀が体の一部みたいになっていたりする。サッカー選手だったらボールである。そうだ、ここでの私にとっての肉体の最延長は、指先じゃなくて、トングなのだ!!
もう少し延長すると、店舗で働いている自分というのは、床に立っている。呼吸をしている。ほかの従業員やお客さんの存在を感じ取っている。ということは、其処に存在している以上は、その床を、空気を、ほかの店舗スタッフを、お客さんを、なによりマクドナルド四条河原町店という、その存在が――私という人間の延長として考えることはできないだろうか。
実際、国際赤十字とか、国連とか、国際NPOとかで働いている人、それ以外にも人類福祉のための活動してる人って、地球とか、人類社会そのものを自分の延長として捉えてるんじゃないか? そう感じざるを得ないようなニュースがたまに飛び込んできたりする。
それはさておき。108万円の貯金、結局どうしたんだっけ。
あー、そうだ。グータラだった自分は、フリーター生活とともに2年もしないうちに霧消したんだった。でも、あのお金があってよかった。あれがなければ、秋から始まる奨学金の返済に対応できなかった。
あの頃(23~25才)の私は、アルバイトではダメだと、奨学金の返済に耐えられるだけの仕事を探して、探して、探しまくって、ようやくたどり着いたのが今勤めている金型の製造工場だった。
始めは出荷場での勤務だったけど、オペレータの給料が高いというので転属を申し出たのだ。これらは当時の日記を読み返して初めてわかった。案外、人は記憶を改ざんするものである笑
ちなみに、まだ奨学金を返済できていない。普通の社会人だったら、繰り上げで30前半くらいには全額返済できていると思われる。今はその程度の稼ぐ力すらないけど、これから妻と一緒に創り上げていきたい。
2月22日 約500万人
7月6日 約600万人
9月1日 約700万人
9月2日 約750万人→7777777人報告
9月3日 約800万人
9月4日 約850万人
9月5日 8888888人報告
9月6日 約900万人
9月9日 約950万人
9月16日 約1000万人
10月17日 約1100万人→11111111人報告
10月19日 約1200万人
10月20日 12345678人報告
10月23日 約1300万人
11月8日 約1400万人
11月13日 約1500万人
政治家は省のトップの座に就いているんだから政治家はやろうと思えば自由に粛清なりが出来ただろうっていうのも軽く見過ぎで、どっちも同程度に現実を捉えていないよ。
粛清なんて書いてないよ「法律変えられる」って書いてるじゃん?
財務省が組織体として強固なのは間違いないんだし、明確な違反行為をしていない人をクビにするなどすることは政治家にとってもとてもコストが大きい。人事の結果は外から見えるから、一挙手一投足をマスコミに見られてる政治家はそんなに自由に振る舞えるものではない。
ここぞというネタに絞って(たとえば安倍首相の消費税引き上げ延期など)上にいるという立場を使うことはあっても、というかそういうところで力を使えるよう温存するため、ここぞ以外は介入せず官僚内で統治させているのが実情。すると様々な情報や権限が政治家ではなく官僚に集まるんだよ。
結局どういうこと?ここぞというときには従わせることが出来るけど、普通は従わせることができないって都合よすぎない?
財務省は権力がありすぎるので役割ごとに解体するしかない。玉木さんは不倫とはいえ比例で600万票得てるけど、財務省は民主的に選ばれたわけでもないのに権力を持ちすぎている
自分は駄目な人間だった。小学校の高学年のとき、心因性頻尿になって外に出られなくなった。
金曜の、ピアノ教室の直前だった。その日突然トイレが近くなって、結局家の周りをぐるぐる車で回った挙句に帰った。
それからの日々は地獄だった。家から出ることすらできなかった。私自身自分に何が起こったのか理解できなかった。
学校は、授業は嫌いだったけど友達は好きだった。学年みんな友達だと思っていた。みんなの名前と顔を覚えていた。
学校に行けなくなった。
学歴主義で権威主義の父は、私のことを人間じゃない何かを見る目で見ていた。
私は当時の記憶があまりない。ただ、下手くそに隠された不登校に関する解説本や、
リビングで両親が自分について語り合ってるのを察するのがつらかった。
そのあと数ヶ月してから学校に復帰したけど、結局私は中学校も不登校になって、高校も退学した。
大学受験は当然するものだと思っていたので、高校退学前に高認を取って、
中退後は勉強のやる気が出るまで少し時間をもらった。結果的には一浪という形で
MARCHの少し下くらいの大学に通うことになった。みんなが最初に受験をしていた年は、何も勉強していなかったが。
大学に行き始めて数ヶ月でやっぱり行けなくなって、2年ほど休学した。
自分は何故生きているんだろうとよく思った。死ぬ勇気は無く、事故で死なないかな、と妄想していた。
復学後は配慮申請をして、出られなかった授業のプリントを貰ったりしていた。
私の時代は不登校や発達障害は時代の最先端の社会問題で、まだ数が少なく、学校や大学側も対応に苦慮していた。
体調が悪くなりやすいので、保健室を使う許可をもらい、授業の隙間はベッドで寝るようにしていた。
大学は地獄だった。面白い授業もあったと思うが、何の目的もなく社会学を勉強し、
ヴェーバーやデュルケム、フーコー、マクルーハンなどを習った。個人的にはヴェーバーが好きだった。
大学時代、地元に帰ったときに暇で仕方なく、日経ネットワークの初心者用のTCP/IP解説本を買った。たまたま立ち読みして面白そうだったからだ。
それから何冊か自分でネットワークに関する本を読んだ。面白かったし憧れたが、
自分は文系だし人生に夢も希望もなかったので、これはただの遠い憧れだな、と思いながら過ごした。
しばらくして、最初に買った日経ネットワークの本以外ほとんど捨ててしまった。読んでも意味がないと感じていた。
大学も結局中退した。3年にやっと上がれるという冬の試験で、起き上がれなくなった。
毎日天井を見て過ごした。今日は○○の試験だったのに…と思って、泣きながら過ごした。
ここで単位を落としたことで、卒業まで想定より1年だか2年かかりそうだなと自分で計算し、心が折れた。
何度目の挫折か数えるのも嫌になっていた。
画家さんの絵の手伝いに行ったり、フォトコンに応募したりしていた。絵と写真だけが、自分が唯一続けてきたものだった。
それも当然上手くいかず、暫くして、父から障害年金と手帳をとるように言われた。父には逆らえなかった。
父に逆らえる人は家族の中で誰もいなかった。とても怖い人だったから。
父は節税になる!と喜び勇んで説明し、私は、やっぱり自分は道具なのだなと思いながら、そのまま手帳と年金を取得した。
初めて自由に使えるお金を手にした。20代後半で、初めて自分で家具を買っていいことに気づいた。
家の中を、好きだった祖父母の家を模すような感じに作り変えた。
友人が美術館のバイトを紹介してくれたので、小さな美術館で週3日のバイトをすることになった。
が、その直後にコロナ禍になって、半年ほど美術館は閉鎖することになった。
休業補償?だか何だかで、一応もらえた。その年の秋から再開した美術館のスタッフを少しやって、年末年始は地元に帰った。
両親に、戻ってくるように言われた。
父の会社が上手くいっておらず、母方の祖父母から大変な額の借金をしていた。
利益なんて10年ほど出ていなかったらしい。元々何をしているのかわからない
人に説明するのが困難な父の会社だったが、父はとにかく経営センスがなかったらしく、酷いことになっていた。
私は一度地元に戻る決意をしたが、やはり怖くて直前になって無理だと母の前で泣いた。
地元に戻っても居場所はないと感じていた。東京にもなかったけど…。
すぐに次のバイトを探したが、それも2ヶ月しか続かなかった。秋からまたバイトを始めた。
小さめの不動産会社で事務をしていた。年始にまた、今度は以前より強めに、帰ってくるよう説得された。
私はすぐに市の生活相談窓口に駆け込んで、就労移行支援やギリギリ間に合ったコロナ関連の貸付金を紹介してもらった。
非課税世帯なので、返済する必要はないから安心して、説明された。
自分の決断は、生活保護になってでも東京にい続けるというものだった。コロナの貸付金で一時的に数十万のお金が手に入ったので、
それを使い生活保護でもやっていける物件に引っ越しをした。不動産も一人で回ったし、引越しの手配も手続きも全て一人でやった。
就労移行支援は少し通ったが、この時間でバイトをした方がマシに思え、すぐに辞めてバイトを探した。
並行して勉強を進め、基本情報技術者試験に合格した。その後障害者雇用で小さなコンサル会社で資料作りのバイトをし、
その間にMOSのExcel Expertを取った。お金をかなり切り詰め、貯金を始めた。結局生活保護にはならなかった。
翌年バイトが契約終了になったので、ネットワークの仕事にチャレンジすることにした。
人生で初めてのフルタイムのバイトだった。倒れる前提で、駄目元でやってみることにした。
昔柄谷行人の『探究』で読んだ、暗闇の跳躍だか飛躍だかを思い出した。
価値は、価値がついたあとにしかその意味を読み取れない。価値がつくには暗闇を跳ばなきゃいけない。
薄給の上に業務量がえげつなくて、人がすぐに辞めていく環境だった。
ある程度初心者ができるように自動化されていたので、1ヶ月を過ぎる頃には一通りの業務を覚えていた。
毎日現地作業員と電話を繋げながら、色々な試験をし、NWを開通した。たまに撤去もあった。
障害を隠して仕事をしていたが、ある日電話中にパニック発作が出て、電話を保留にした後しばらくトイレにこもって薬を飲んで休んでいた。
ここでもこうなるのか…、とトイレの中で泣いた。結局その職場も居づらくなって辞めてしまった。
諦めきれずに、次の仕事を探した。ベンチャー企業で、またネットワークの仕事をやることになった。
今度は客先常駐。仕事に出る前に第一級陸上特殊無線技師の資格を取った。
高校数学は赤点だったので、選抜試験も養成講座も地獄だった。何年振りかの座学だった。
そのあと1時間半ほどかかる場所で夜勤をすることになり、私はすぐに壊れた。
夜勤明け、ふらふらになりながら漫喫に入ってひたすら寝続けた。またパニック発作が出て、帰ることができなくなっていた。
大手IT企業の子会社で、採用の仕事をした。面接時はいずれITの仕事を回してくれると言っていたが、
一向に果たされる気配がなく、半年で辞めた。ここまでの失敗で辞めた後に空白期間があるとメンタルに来ることはわかっていたので、次の仕事はすでに探してあった。
障害者雇用の契約社員として、またIT系企業に入った。1ヶ月の待機期間の間にCCNAを取って、
今はそこで仕事を続けている。何故かPython人員になってしまったので、毎日ツールを作っている。
ChatGPTのおかげでなんとか仕事ができている。
今の案件は年内で終了するらしい。
数週間前に正社員登用の話があり、面接を受けた。周りからは多分行けるんじゃないかと言われている。
貯金はやっと130万ほど貯まった。将来は…できれば健常者として生きていきたいが、まだ暫くは難しそうだ。
まだ何も安心できない。実家の父母は離婚問題でめちゃくちゃになっているし、
リモートだから仕事ができているのでは?という懐疑が常にあって、次の案件でどうなるかわからないと思っている。
私は障害について色々思うところがあるが、30ぐらいの時にはっきりと
「自分は才能が無いのだから、せめてコミュ力を伸ばそう。自分は一人で生きていけると思えない。
だから、人から助けてもらえる、助けようと思ってもらえる人間になろう」とずっと考えてきた。
今の時代は障害者健常者に関わらず、みんなにとってつらい時代だと思う。
何かを抱えているのはみんな同じだと思っている。そんな時代に、
マイノリティが自分を救ってくれ!と叫ぶことはとても怖いことだと思っている。
社会に余裕がなくなれば、一番最初に切り捨てられるのは自分たちじゃないだろうか。
今までたくさん人に迷惑をかけたけど、少しでもそうでない自分になりたい。生きていていい自分になりたい…。
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私は今もたくさんの問題を抱えているし、色々上手くいっていない。
人生を呪っているし、楽しくはない。たまに楽しいこともあるが。まあしかし、こうやって足掻いている人間もいるよ、と思って書いてみた。
特定されようが、もうプライドなんて無いからどうでもいいのだ。
私を見下して、自信をみんな持って欲しい。こんな見苦しくみっともなく足掻いてる人間もいるのだから。
…まあ今後どうなるかはまだわからんけど。
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思ったより反響があって驚きました。
タイトルは自分の人生を象徴するような言葉ですが、実際そういう境遇にある人間がどのように生きていくのだろう?という
素朴な疑問から読んでくださった方がいるのかなと思います。あるいは下層にいる人間の惨めな人生を期待した方もいるでしょう。
励ましの言葉やアドバイス、叱咤を下さった方、それぞれありがとうございます。全部読んでます。
わーっと書いてしまったのでちょっと読みにくかったかもしれませんね。申し訳ないです。
障害については一応ASD…ということになってます。診断が下りたのは大学生のときでした。
ご存じの方も多いと思いますが、当時はアスペルガーと呼ばれていて、空気が読めない・人の感情がわからないだとか、まあ散々なことが書いてありました。
カサンドラ症候群の話もありますし、今でもややADHDよりASDの方がイメージは悪いのかも、と思うところはあります。
高校生の頃にWAIS-Ⅲを受けた際には、言語性IQと動作性IQに結構な隔たりがありました。
当時の記録だと言語理解111、知覚統合99、作動記憶105、処理速度84。PARSの結果は幼児期が25点、思春期成人期が34点です。
一昨年だかにWAIS-Ⅳを受けたときは色々マシになっていて、言語理解119、知覚推理107、ワーキングメモリー117、処理速度111という結果でした。
今は人からは障害を持っているようには見えないとよく言われます。体力がないのは相変わらずですが…。
慢性疲労症候群の診断も下りていて、当時医師からは「あなたは将来生活保護か専業主婦でしか生きていけないと思います」という
大変メンタルに来る言葉をいただいていました。それから一気に体調が悪くなり、何も自信が持てなくなった後に
自分はそんな未来を信じないし、絶対にあの言葉を覆してやると決め、もう一度立ち上がりました。
大学でも発達障害で中退した人たちの予後が悪い、まともに働けていないという話を聞かされていたので
これについても、だったら最初の一人になってやる、と思った記憶があります。
自分は女ですが、文章が怖いと言われることもあったので、その辺も徹底的に直しました。
人を観察して、絵文字や顔文字をちゃんと使って明るく取っつきやすいイメージを持ってもらえるよう修正し、
見た目もパーマをかけたりと柔和な雰囲気を心掛けました。そういう仮面は、今は自分の皮膚のようになって
人の気持ちがわからない、共感性がないという部分については、周囲から指摘はそこまでなかったのですが
とにかくできるだけ人のことを想像するようにしました。自分を取り巻く多くの人たちや、ニュースになっているゴシップやエッセイなどからたくさんのことを学べたと思います。
お金があっても、賢くても、健康な体を持っていても、それでもみんな裏では色々あるのだな、と。つらいのは自分だけではないと言い聞かせてきました。
恵まれて見える他者が、実は苦しんでいるという話をちゃんと覚えておくようにしていました。
人生が大変だと、どうしても被害者意識が強くなってしまうものですが
そのように思う瞬間はあっても、絶対に客観性を失わないようにしようと常に思っています。
同時に、自分自身をあまり障害者として扱い過ぎないようにも心掛けました。単純に、心がすり減るので。
おめでとう、卒検に一歩近づいたね♥
卒検に関してだけど、いくつか注意しておくことがあるよ♣
1. 緊張しすぎないようにリラックスして挑むことが大事だよ♥緊張すると普段の実力が出せなくなることがあるからね♠
2. 縦列駐車と方向転換、どちらか一つだけをやるというのは本当だよ♦その場になって指示されるから、両方に備えておくといいね♥
3. 筆記試験は、効果測定と似たようなレベルだけど、しっかりと教則本を読み返しておくと安心だよ♣
4. 試験の難易度は地域ごとに少し異なるかもしれないけど、大きな差はないはずだよ♦大事なのは自分がちゃんと理解しているかどうかだから♥
しっかり準備して、自信を持って挑んでみて♦ボクも応援しているよ♥