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はてなキーワード: 東浩紀とは

2022-05-20

俺は保守だけど、

東浩紀トイアンナみたいな昔はいろいろ放言してた人が

年取って責任ある立場になって保守アンチリベラルアンチフェミ的な意見言うようになると内容には賛同しつつなんかモヤモヤする

どんな人もおっさん、おばさん化からは逃れられないのを直視させられる感じがする

2022-04-17

anond:20220416154005

「この問題って何か名前がついているのだろうか?」と言っているけど、結局何が問題に思っているのだ?

「旧ボディ側の視点では死の恐怖を免れてないよなぁ」が問題なのか?旧ボディが死の恐怖を抱かなければOKなのか?

だとすれば、こういのはどうだ?死んでいく(ことにする)旧ボディに向かって「お前の意識は薄れていくが、次に目が覚めたときはお前の意識は新ボディに移っている。お前は新しい命を得る」と言い、それを信じ込ませられる、とするのである

この方法に対して違和感を持つとすると、それは死んでいく旧ボディの不安を取り除くだけであって、旧ボディが死んでしまうことに変わりはない、という感じだろうか。

しかし、ここでむしろ、「死とは何か?」という疑問を持ってもらいたい、と思う。旧ボディと新ボディなんて持ち出さなくても、次のように考えてみることはできるのではなかろうか?

寝て起きる前の自分と起きた後の自分は同じだろうか?眠る、というのは意識を失うということであり、寝る瞬間にそのときまでの自分死に、起きた時に新しい自分が生まれているのである、と。

もっというと眠る前と後でなくてもいい。午前の自分と午後の自分は同じだろうか?さらにいうと5秒前の自分は既に死んでいて、今いるのは記憶をもっているだけの新しい自分ではないのか?

自分毎日死んでしまうかもしれないのにもかかわらず安心して眠ってしまうのは、単に次の日を同じ自分として迎えられる、という信念を持っているからだけではないか

このように考えてくると、死とは何か、ということを考えようとすると、自分同一性とは何か?ということを考えたくなってないだろうか(こなかったらすまん)?

筆者も専門家じゃないし、哲学科にすらいったことはないけど、同一性ということについて近年(デリダあたりから)は次のように考えているような気がする。

自分同一性、というものは個々の瞬間の自分をつなぎとめる「自分規定」というものがあって、それによって担保されている、と考えられてきたが、実はそうではない、差延という考えがあって、すべての個々の瞬間の自分をつなぎとめる規定なんてものをどれだけ作ったところで、常に瞬間瞬間の自分はそこから微妙にずれていってしまう、という考え方である。この自分がどんどんずれていってしまうことを郵便的というモデルを使って東浩紀表現したし、郡司ペギオ幸夫は「規定」と「個々の瞬間の自分」以外に第三項があるのだ、それがずれを生んでしまうが同時になるべくつなぎとめているのだ、ということを理論化してそこからまれ創造性を説いた。

まあだからなんだ、ということかもしれんけど、しゃべりたくなったので書いた。以上。

2022-04-14

核戦争回避するためには独裁者不条理暴力に屈しなければならないのか

東浩紀の以下の連投について自分として明確にNOと示さなければ収まらないと思いつらつら書き散らす

https://twitter.com/hazuma/status/1513977232557219841?s=20&t=64eiys3xHqslprM6Vb_90Q

現在進行形独裁者による非合理で不条理暴力なすすべがないことを見せつけられしんどくなっている中で民主主義危険性を訴えておりうーんと頭が痛くなるような言説をツイートしてらしてげんなりとさせられる。

明確にしなければならないのはウクライナ現在起きている戦争ロシア独裁政権による不合理な判断がすべての原因であるということ、民主主義国家による瑕疵ではないということである

現実戦時でとても恐ろしく愚かな判断を下しているのはロシア独裁者プーチンであり、またそういったことは私たちの国でも前世紀の戦争経験したことを忘れてはならない。

現状民主主義国家連帯して自体エスカレートしないように理性的対処しており、日本淡々ウクライナへの支援ロシア非難を行っている。

さらに核攻撃をちらつかせているのはロシアである西側諸国のどの国も核攻撃示唆はしていない、おぞましい例えではあるが、ロシアが先制核攻撃をした場合、すべての責任ロシアにある、ウクライナにも西側諸国にも責任はない。

ロシアが不合理な判断をしていいる以上我々は核攻撃危険に常にさらされているがその中でウクライナ支援することやロシア非難することが全面核戦争までエスカレートさせる可能性があるのでやめようといった言説には全く賛成

できない。東浩紀ツイートでは全面核戦争回避するか、ウクライナへの支援ロシア非難を続けるかの二択しかないように簡略化しているが、現実の世情はそんな二択ではない、我々は冷静にウクライナへの支援ロシアへの制裁を続けつつも停戦への努力を続けながら、全面核戦争への抑止もできる。私は東浩紀ツイートには全く同意できない。

2022-04-13

東浩紀の連投について、思ったこ

以下の東浩紀の連投について思ったとこを書き散らす。


ウクライナが今回の戦争西欧諸国やを巻き込みたいのは当然の考えでなぜならウクライナの国力のみでは

ロシアとの戦争に勝てるわけがなく、西欧支援を引き出したいかウクライナが同情を引くようなプロパガンダ宣伝をするのは当然のことだろう。

また宣伝プロパガンダ以前にこの戦争ウクライナ国内ではロシア軍によって多くの一般市民暴力犠牲となっているがロシア国内国民

ウクライナ西欧諸国から制裁の影響は出ているもの外国から暴力さらされているわけではないといった事実は記しておきたい。

この連投の書き方だとまるでロシア世界各国に向けてプロパガンダ戦を仕掛けてないような書きぶりだが、現実ロシア世界各国のフェイクニュース勢力をつかい

巧みに情報戦サイバー戦を仕掛けている。日本でも反ワクチンなどの発信を行っていた陰謀論を垂れ流す勢力ロシアプロパガンダを垂れ流しているという指摘もある。

▼開戦以降のロシアプロパガンダニュースサイバー攻撃の例

トヨタ被害サイバー戦争激化! 国際ハッカー集団から露へのハッキング

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2203/01/news175.html

ロシア情報戦に「Qアノン・反ワクチン」が接近…人が自らフェイクを求める理由とは?社会への不信の行き先

https://news.yahoo.co.jp/articles/4ace954403d39b36588ad92520a9f457b3ec2cff


東浩紀ウクライナ情報に流されず民衆を落ち着かせ全面核戦争回避停戦を望むとまるでウクライナ停戦拒否

世界中を巻き込む全面核戦争を望んでいるかのような語りっぷりではあるが実際は違う、ウクライナロシアとの停戦協議を何度も行っているし

何度も和平に向けた提案を行っている。この手の人達ロシア側の提案をのみ一刻も早く停戦しろとと言わんばかりで甚だ現実的ではない

言説も見受けられるが、なぜロシアウクライナ側の停戦案を飲めと言わないのだろうか?全く不思議である

日本はこれからも早期終結を望みつつも西欧諸国との協調し、日本淡々ロシア国際法違反指摘やウクライナへの支援難民の受け入れを続けていく国際協調路線をとるべきだろう。

2022-03-11

公式勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

最近二次元に魂を奪われ二次創作萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。

歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである構造主義の話はしません)。

すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。

さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石作品批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石意図」に接近しようとした。

これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。

聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である

これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者あなたが「八百屋さんの隣にあるポスト手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。

これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァ世界公式に起きたこと」にアニメ劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダム関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

聖書漱石研究など、ソシュール以前は「世界言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンル議論酷使されすぎだと思う)。

それに対して、「言葉世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回であるソシュールが言ったのはあくま言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまり革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてから文学理論最近半世紀である

それまでの哲学世界観と言ってもよい)においては、言語研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたまのものいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?

よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。

これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しか言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかソシュールいわく言語対象の結びつきは「たまたまである。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。

冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。

もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。

二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズエラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。

しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたし感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。

上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこ言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作アニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観いか正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。

しかしそうした努力にもかかわらず、論理学数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデル不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。

かくして文学研究者らはそうした論理的数学理論縦横無尽闊達自在引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。

しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに自分場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。

から、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情想像力こそ、人間発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから

 

最後

これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探していますPythonとかほんの少しできますよろしくお願いいたします。

2022-02-10

善悪を越えた人文学

世界はいろんなひとがいる。いいやつも悪いやつもいる。愛も暴力もある。それを知るのが文学を読むとか映画を見るとかい経験で、それが人文知なるものの原点だと思っていたぼくからすれば、世界善悪で分けることに忙しい最近人文学はもはやまったく人文的に見えません。

https://twitter.com/hazuma/status/1491313061130817539

なるほどお。東浩紀さんがかつて「しおちゃんレイプ寸前w」などというツイートをなぜしたのか、これで腑に落ちましたよ。

娘の貞操を守ろうとする父でもなく、また娘を性的とりひきの材料とする父でもなく、ただ善悪を越えて、年端もゆかぬ自分の娘が知り合いの成人男性から股を広げられているさまを、敢えて「レイプ寸前w」と笑ってみせることで、古典的パターナリズムから脱した新たな父親像を示そうとされたわけですね。

「しおちゃんレイプ寸前w」ツイートは当時かなり炎上し、東さんもやむを得ず消してしまいましたが、今こそ評価されるべきものだと思います

善悪を越え、わが娘の「痴態」さえも笑って見せ、なおかつ世界に発信する――これこそが人文学精神なのでしょう。ゲンロンの未来は明るい。

2022-02-07

12年前の東浩紀

https://togetter.com/li/76569

今でいう「表現の自由戦士」をクソミソに批判してる。驚いた。

伊藤剛はあまり今とノリが変わらない。ダニエル兼光も。

人に歴史ありだな。

2022-02-06

東浩紀は偉い

からは「ネトウヨ」、「冷笑系」と揶揄され、右からは「西さん」、「ブタミマン」と揶揄されてきた東浩紀がこれまで彼等に対して削除請求訴訟も起こしてこなかったことは批評家言論人として偉い

彼ほど右からも左からも大量に誹謗中傷されてきた批評家って平成を通して今日に至るまで類を見ない

東浩紀と言う名前を挙げることに二の足を踏む人はまずいないだろう

批評言論生業とする人が、他人自身名前を挙げて言葉を紡ぐことに二の足を踏ませる様なリスク付与したら、それは批評家言論人としては終わりだ

それはただの言いっ放しの無敵の人

anond:20220205131201

いやいや、まず共有されるべきは白饅頭界隈のアンチフェミ言説(男性の苦境を個々の女性責任にしてバッシングする議論)に対する怒りであって、そこはほとんど無関心でスルーしているのに、オープンレターの不備や瑕疵にはやたらに噛み付くようなことをやっていたら、「こいつはフェミリベラルを叩きたいだけなんだな」と思われても当然でしょうよ。「ダブルスタンダード」というのも、「あくまでお前の基準ではな」としか言いようがない。

東浩紀20年前は人文左派の憧れだったのに、いまは三浦瑠麗とべったりで、「コロナただの風邪」論をまきちらして、本当に地に堕ちた。

追記

なんかバズってます・・・

ちなみにオープンレターには個人的には、よほど親しい信頼できる人からまれない限り署名はしないと思う。これが「呉座氏を学術から永久追放する」という効果をもたないわけがない、と考えるからだ。「学術から永久追放」を事実上是認しているのに、その自覚ほとんどないということに危険性を感じる。

そもそも元々の呉座氏の言説も「女性差別」「ミソジニー」と単純に切り捨てられるもではなく、呉座氏ほどの実績のある研究者でもテニュアではないことへのルサンチマンという社会的な背景を無視するべきではなく、その点でオープンレター呼びかけ人の人たちとは思想を異にする。

2022-01-24

ここ数日の雁琳

うろたえて弱者男性の話をし始めたけど

昔のど直球な女性差別ツイートを掘り返されて

東浩紀に「これはちょっと…」と絶句されて

「白饅頭という人のnoteを読んでくれればわかります」とか言い始めて

池内恵に「白饅頭がどうこうじゃなくて、

そう主張してる貴方が書いて世に問え」と一喝されるという流れ、

びっくりするぐらい小物で笑ってしまった

大多数の弱者男性論者はこんなこと言ってねえし

雁林と仲間にされたら迷惑だと思う

今日あたりは、もはや自分で何を書いてもボロが出る状態から

自分擁護してくれる、自分が敵視している相手批判してくれるtweet

ひたすらリツイートするだけの機械になっている

無残だ

2022-01-22

anond:20220122092343

雁琳に限らず、文書が届きまくってるのは東浩紀や白饅頭ツイートからも明らかだからねぇ

自由議論の対極にあるよね、このオープンレターとやらは

2022-01-21

anond:20220121171141

トップエントリの平弁護士東浩紀氏が述べているとおり、発起人側が運営責任果たしていないことだけは大多数の合意がとれているので、一旦はその範囲言及すればいいんじゃない

それ以上は誰も信じられない。

オープンレターフェミ界隈の動きが怖い

https://mobile.twitter.com/hazuma/status/1454693885511233536?t=iQJMHOyTHZobNIB6kdd1Jg&s=19

東浩紀「呉座氏の知人や擁護側というだけで他の学術機関にも「おまえのところのなんちゃらは問題あるから見解出せ」と文書を出しており」

https://mobile.twitter.com/BlauerSeelowe/status/1484211335151820800?t=PfnjRNhTMP8JsQI2pdWMKg&s=19

青識亜論「私も某氏からぶっこまれましたけど、弁護士通して文書送り付けて黙らせようとするムーブ

https://twitter.com/terrakei07/status/1484166570087948292?t=gMBvZGE2uCCvQQ_ex4I8Wg&s=19

饅頭自分出版社経由でそういう「文書」を受け取ったからですね。」

2022-01-20

オープンレターの件だけど、火消しのためには署名活動運営面での瑕疵を認め謝罪する必要がある(大抵の企業は真っ先にそうする)けど、良くも悪くも能力主義内面化しがちなアカデミズムフェミニズム(能力が同一でも待遇が違う、という主張が多いので)を掲げる人たちにとって自分たち無能運営って認めがたいものなのかもと思った。

その点でいうと東浩紀氏とか組織抱えている人間組織防衛のためには頭下げるからな(実業家としては当然のスキル)。

anond:20220120101721

先生付けること自体違和感ないんだけど、学者としての評価も挙げられている二者より高いであろう東浩紀氏は「さん」、ってのが党派性感じるよね。

anond:20220120000307

賠償責任はないけど、倫理的責任はあるという立場かな。東浩紀氏と同様だと思う。

一般常識として適切な対応(責任者が出てきて謝罪したり調査約束したりする)をとっていないなら炎上しても仕方がない事案だと思う。

2021-12-11

老害」大好きハテブさん

批評家評論家という人々やはてブブックマーカーのような「批評」したがる人、コメンテーターになりたがる人というのは、「老害」が大好きである

若手や流行否定的見解発言する年配者を見つけると、もう涎ダラダラで喜びまくる。正当性のための論理も修辞も薄くとも、こちらには若手の勢い、流行の力がある。マーケットで勝っているというパワーさえあれば、年配者の見解など一掃できる。ネット民死語だって味方に付いてくる。「老害」などSNS炎上させてしまえばいいのだ。

批評家でいうと、90年代ゼロ年代東浩紀という人は上の世代と戦うにあたって、当時流行していた小説の一部(※)、ネット美少女ゲーム(の一部のノベルゲー)、ライトノベルなどのパワーを利用していた。

<※自分はJ文学批判しつつ、J文学批判してくる上の世代相手には阿部和重等を持ちだして擁護するという二重戦略を取っていた。>

批評空間」や文芸誌は、今の流行文化的価値のわからない「老害」だ、と批判しまくっていたのだ(東は自ら「老害」というワードを使わないが)。

しかし、10年も経つと東浩紀が、自分の下で働いていた藤田直哉飯田一史などに「老害」扱いで叩かれるようになり、自分がかつて武器としていた世代論に復讐される現状に、「やれやれ」気分で「老害や反時代的で何が悪い」と開き直っていたりする。

それで、今回の書評家の「老害発言だ!!

豊崎由美氏「TikTokみたいな、そんな杜撰な紹介で本が売れたからってだからどうした」「書評書けるんですか?」~それへの反響

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1814617

書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20211211-00272115

けんごの「TikTok投稿をお休みさせていただきます投稿が[午後8:49/2021年12月10日]。

飯田一史のYahooニュース投稿・公開が翌日8時37分。

twitterじゃねえんだから早ぇよ!!

もうけんごの投稿に即反応したとしか思えないよ。

「けんごが活動休止することでこの流れが途絶え、ほかの本紹介TikTokerも萎縮するなど負の影響が及んだとすると、今年プラスで発生した読書量が再び失われることになりかねない。」(飯田一史)

おいおい、豊崎はどれほどの権力者なのか。twitter投稿1つで本紹介TikTokerたちからそんなに畏怖されるような存在かよ。

書評家を「老害」、本紹介TikTokerを「若手」「流行」として世代論に持ち込み炎上を煽る。(現にtwitterヤフコメ等で豊崎はこの上なく燃えている。)

今後も、年配者が流行疑問視するたびに、「待ってました」としか言いようがないムーブ批評家ライター同調するはてブの連中がガソリンをまき、炎上を煽るのだった。

いやあ、「老害」大好き!!

2021-12-10

俺の歯が6本ない話や、男性特権性の話とか

現実で口に出すには惨めすぎる話なのでここで吐きます。長くなるし普通の話だけど。

俺は30代も後半に差し掛かる中卒男性で、低賃金でせこせこ働いてる。職業は伏せるがまあ正直あんまり胸張れる感じじゃない。

俺は歯が6本ない。奥の方が5本と前歯が一本ない(正確に言うと最近やっと前歯だけ最低限治せた。分割払いだ。このままなんとか他も治したい。)

なんでそんなことになってしまたかと言うと、もちろん自分が悪いよなってのはそうなんだが、環境の影響もデカイ。なんと両親も歯がないのである(!)

なかなかの貧乏かつ常識や学がなく、あと高齢出産ってのもあって、ある程度物心つく頃にはもう父親全然歯がなかったし、母親ボロボロだった。今思うと両親の歯をみがく間隔がおかしかった。なんか2週に1回くらいサーッとみがいてペッで終わり。なんと歯みがきを教えられた記憶もない。ブラシ自体はあったんだけど、やはりとくに毎日やることもなく。自分も同じようなペースで磨いてた。

もちろん学校で教わってはいたんだけど、家の環境がこうだと、なんか大丈夫なんじゃって、というか歳とったら普通なくなるもんなんでしょみたいな、今考えるとマズイことを本気で思ってた。

思春期真っ盛りの間だけ口臭が気になりだしてある程度磨いてたけど、誰にも会わない連休なんかはすぐサボってたし、社会に出て毎日ヘトヘト状態になってからはまた以前の習慣に戻り、ボロボロになってしまった。

これは若干まずい言い方だとも思うが、会社女性が1人もいなく(拒否してた訳じゃないんだけど、いわゆる3K仕事なのもあってか求人出しても女性から応募がこない)のでモテたい的な欲望が消えてしまったのもデカイ。

歯の話がムダに長くなってしまった。他の話もしよう。まだまだ惨めな(でもありふれてるかも)話が続くよ。

俺は、中卒っていうとなんかヤンキーっぽいけど実は逆のおとなしいやつで、しかもすごくガリガリで低身長で、顔も悲しいことに残念なやつで、運動神経も悪く、友達がいなかった訳ではないけど子供の頃からずっとイジられたりバカにされたり、それをやや踏み越えたようなこともされる側だった。あまりにも弱そうだったからか、男性だけでなく女性から暴力(本人は暴力と思ってなかったかもしれないが)を振るわれたり「男なんだから耐えろ」「男のくせになよなよしてて情けない」みたいなことを言われたりもした。

殴り返したことはない。というか度胸がなかった。上記経験からミソジニー的な考えを持った時期もあったが、他人に吐き出したりはしなかった。これまた度胸がなかった。今となっては、SNSでまずい言説をばらまくようなことをしなくて良かったなと思っているが。

でもある程度大人になってからも、たまに話すたびにイジられるのが苦痛になってその頃の人間関係全部切ってしまった。少し後悔してる。我慢するか、もっと上手くやればよかったのかもしれない。

学歴就職の話も手短にしよう。上に書いたように、うちはなかなか貧乏だった。父親転職を繰り返した末に職人に落ち着いた人で学がなかった。母親も似たような感じ。勉強社会の仕組みやお金のことを教えてもらったことは一度もない。

一応ショボい高校ならいける程度の学力は当時あったのだが(今思うと先生が立派だったのだろう)

両親から「金がないのでできれば高校に行かないで欲しい」と申し訳なさそうに言われた。

「仕方ないし、授業料免除とかして貰える学力がない自分も悪い。」と思って就職した。今思うとバイトしまくったりしてでも根性で行きゃよかったかな〜とも思う。

1回転職したんだけど、やっぱり「高卒以上」が大量に目に入るのは絶望感が凄かった。あとなんかやっぱみんな楽しそうだったから。まあここら辺は実際どの判断が正しかったのかよく分からない。

ながながと身の上話をしてしまった。申し訳ない。

こっから先が本題、いや本題というよりは苦しみを吐き出したいというだけなんだけど。

簡単に言えば、Twitterに流れてくる

男性特権性」にまつわる言説の一部(あくまで一部だってことは強調したい)を見るのがキツい。

正確には

男性として産まれ育った時点で下駄を履かされており、その特権性を自覚して解消に向けてコミットせよ」という言説がキツい。

無視する時点で加担しているということであり、それはよくない」という言説がキツい。

もちろん「男性として生まれ育った時点で履かされる下駄」という格差は確実にあることは否定しようがない。

同じ学歴なら女性の方が賃金低いとか、なんなら高卒男性より大卒女性の方が賃金低いとか、社会立場が偉い人が男性ばっかだとか、いろんな暴力やを受けるリスク女性の方が高いよねとか、性的視線に晒されやすいって話とか、他にも色々まあ普段様々に指摘されている通り(この話の時点で反発する男性もいることは分かるが、俺は彼らの味方ではない)

しかし同時に自分のような立場からすると、男女の問題が確実にありそれが深刻であるのと同時に、他にも、金やら容姿やら生まれ場所やら、無数の格差が、「○○として産まれた時点で履かされる下駄」があるように見える。同じように深刻に。

そして個々の人生の様々なケースの重なりで下駄の長さなんて簡単にひっくり返るじゃないかと思ってしまう。

男女問わず、様々な特権性を俺より享受してる人ばかりじゃないかと思ってしまう。

俺は「男性として産まれた時点で履かされる下駄」は確かに持っているのかもしれない。でも中卒っていう別の重りがのしかかってるし、他には笑えるくらい何もない。

高校学費を出してくれる」

バカにされないくらいの容姿身体の強さで生まれる」

歯みがきの世話をよくしてくれる」

程度の下駄すらない。

この状態で、全て俺より持ってるような人(女性なら「男性として」の下駄以外の全てを俺より持っているような人)から

特権性を自覚せよ。無視するのは加担だ。」と言われて、疲れた脳みそを回して、そうです私は特権をもっていますと表明するのは単純に辛すぎる。惨めすぎる。

もちろんそれが問題に加担しているというのは事実かもしれない。でもこの世界にはあらゆる格差差別問題があり、「無視するのは加担」と言っている人含めそれら全てに対応できている人なんていない以上

「みんなそれぞれ色んなことを無視しつつ加担しつつ再生産しつつ、自分の興味のあることについてできる範囲で関わったり抗議したりする」

ということしかできないんじゃないか。それしかありえないし、みんながやってることも実際はこれじゃんと思ってる。

混同されそうだから言うけど、フェミは男のことにも声を上げないのか!的なクソな話ではない。男性のつらさみたいな話でもない。俺がした話は男性特有の話ではない。

繰り返しになるが

みんな多かれ少なかれ、ある自分属性で損して苦しんだり、逆に自分属性で得した上で無視したり加担したり再生産したりしている中で、そしてそれら全てに対応できている人なんていない中で、ある問題コミットしていない人を批判できるのか、あるいは批判するとしてもかなり慎重に、少なくとも一斉掃射は成り立たないのではという話。

それとも

「私は全ての差別格差に反対します。」的な文言をどこかで使ったりさえすれば、それで全て対応したことになりそれぞれの持つ様々な特権から免罪されるのかな。

それで同じふるまいをしない人を怒れるようになるのかな?

分からん

書いててぐったりしてきた。どんどん乱文になっていてすまない。もう終わる。

ずっとやられる側しか経験してない。損する側しか経験してないし、人を傷つけたこともたぶんあんまりない。たぶん俺の人生はこの先、きっと我ながら気の毒な終わり方をする。

この状況で責められるのかって、やっぱ思ってしまう。「男性」以外、あるいは「男性」含め全てで俺より高い下駄履いてるような人らに。

今行ってる会社に俺みたいなやついっぱいいる。お互いこんな話しないけど。俺も周りの人も普段はみんな「自分が悪い」って思ってる。でもたまにはこういう気持ちも吐きだしたかった。見てくれた人ありがとうございます最後駆け足だけどもうしんどいので、さようなら(なんか死にそうな感じになっちゃったけど普通に生きます。)

追記

文章のお褒めの言葉と中卒への疑いが何個か来てるので説明しますが、俺ももう30歳代後半なので働き出してからの方が人生長いです。

要するに、だいぶ大人になってからですが、なんとなく背伸びして少しだけちゃんとした本とかを読むようになって、多少それっぽい言葉を使えるようになったというだけの話なのです。ここまで長いのは初めて書きましたが。

あと、東浩紀さんのゲンロンの放送(本もですが)なんかはたまに見ていて、もし俺の文がある程度成立してるように見えたなら、彼やゲンロンに登壇した学者さん作家さん達の話し言葉の影響が大きいかもです。はてなじゃ評判悪いし、Twitterで言ってることとかも含め全てに同意してる訳じゃないですけど、本だけだとなかなか理解しきれない俺みたいな奴にある程度難しい話を届かせてるのは凄いと思います最近だと人類学小川さやかさんが登壇した回が良くて……

話が脇道にそれましたが、まあこういう大人になってから色々知って、でもなかなか間に合わないってのもこれまたありふれた話というか。結構そういう人はいると思います。そっから大逆転したような人しかなかなか表に出てこないと思うので、変に見えるかもしれませんが。

※一個だけさら追記

小説挑戦はもちろん無理ですが、ヒルビリーエレジーってのは読んでみようと思います

2021-11-17

アニメオタクアニメに何も貢献していない。むしろ害悪だ。

自分の中でのアニメオタク特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。

すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。

アニメオタクは何もアニメに貢献していない!

今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。

まず、オタクオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。

名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメ現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダール敬愛していてたまたまタツノコプロ求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。

「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫オタク地位向上のためにでっち上げものだ。本人も後にそれを認めており、外から圧力に弱い日本オタク市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫苦肉の策電通村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。

それは今まで世界的な評価を得てきた作品を見ていけばわかる。

まずは、宮崎駿アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風アニメ界ではむしろ異端であるスタジオジブリ的なもの宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本はいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインク制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。

宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界評価を得た、これは非常に重要ポイントだ。

押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき原作者ファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者ファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。

他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップだってそうだ。

オタク監督だと言われるウォシャウスキータランティーノだってウォシャウスキーSFの人で決してオタク想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノ高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。

エヴァンゲリオン無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァオタクオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク想像力勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタク偏狭さに嫌気がなして反オタク改宗した。その事実オタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。

このようにオタクオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてもの全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク想像力オタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛新房昭之の姿だ)。

しろオタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。

オタクオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアートアプローチからまれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコード平積みされ、オタク想像力は一瞬で敗れ去った。

それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間駆逐されており、鶴巻は反オタク急先鋒である)。

そして、それは明らかにアニメ進化を阻害している。その理由を書こう。

まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるもの萌えから距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニー萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。

しかし、アニメオタク萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。

例えば近年稀に見る傑作である鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。

そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクアニメーションのことがわかっていない。だからスタジオジブリ的なものピクサーに取られ、アニメーションの快感マイケル・アリアスに取られてしまうのだ。

もう一度言おう。オタク想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考アニメ進化を阻害している。

アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。

2021-11-03

僕が考える立憲民主党の最強の敗因と参院選で復活する理由

ニコニコ選挙特番東浩紀も言ってたけど、今回の選挙では”自民にお灸をすえたい”けれど”立憲民主党政権を担って欲しくない”人が維新に投じたのだろう。

そんな風に考える無党派層がそれなりにいるのであれば、立場上「衆院選政権選択選挙だ!」と言わなきゃいけない野党第一党立憲民主党はどうしても不利になってしまう。

一方で維新はよく自民の補完勢力などと呼ばれるけど、「与党入りしない」、「与党入りするメリットがない」と日頃から話している。

与党入りした社会党崩壊、今では公明党が反対する選挙日程を組むこともあり公明党でさえ影響力を落としていることを考えると、自民与党入りをちらつかせても維新は与さないだろう。

そんな維新が、懐かしさすら感じる連立与党から距離を取り”確かな野党”として票を集めたと考えると、政権を目指した野党共闘は政権選択選挙である衆院選には向いていなかった。

候補者一本化程度で絶対安定多数を切り崩すとか適当なことを言っておけばよかった。

仮に野党に入れたいけど政権を担って欲しくない票が一定のマスを形成しているとしても、次の国政選挙は間違いなく参院選でそれは政権選択選挙じゃないか野党共闘でもそれなりの結果を残せるだろう。

立憲民主党の息の根を止めるなら来年に衆参同時選挙もあるかもしれないけれど、さすがにないよね。

2021-10-20

村上隆「なんかボコボコにしたら精神薬飲んでるけどヨシ!」

東浩紀村上隆が良いって言うんだら工作本(観光客哲学出版してヨシ!」

浅田彰アンド岡崎乾二郎「なんか面白そうだからヨシ!」

 

美術大学アンド教授「偉い人がヨシって言ってるからヨシ!」

ギャラリー「これは全部茶番で実は村上隆さん達の弟子になってるらしいからヨシ!」

 

マスコミ「上からお達しがあったかいじめてヨシ!」

タレント「上からお達しがあったかry

政治家やばいけどとりあえずヨシ!」

 

外国人「なんか日本で何か起こってるけどとりあえずヨシ!」

ハリウッド「上が良いって言ってるからとりあえず被害者いじる映画作ってヨシ!」

教会「金儲けの気配がするからヨシ!」

 

 

 

 

地球人「なんかよく分からいからヨシ!」

2021-10-03

anond:20211003001543

昔、人工知能のことを考えていたブログ

浅田彰とか磯崎新とか東浩紀やらのインタビューとか対談の文章コピペして引用して載せてたのよ

tumblrでやってたか違法なのか微妙だけど

それを冗談めかしてずーっと叩かれてる

八年ぐらい

8年ってちょっと異常かな?

おかしくなってきちゃうなぁ

2021-09-29

ラーメン評論家 VS エロ漫画ソムリエ

ごめん。

文章を読むのがこんなにつらいと思ったの久々。

おかしいとかじゃなくてものすごく文章が下手。

フードジャーナリスト早稲田卒?

50代でこの文章力ってどんな水増し人生送ってきたんや…ってぐらい下手

新橋九段くんとか、せの喜代さんの文章も相当酷かったけど…それを超越してる。

悪いんだけど、こんな文章書いて許されるのFラン大学生ぐらいだと思う。

大の大人が書いていい文章じゃない。

いや、書くのは自由だけど、無能だと思われても文句言えない

文章バカほど長い僕が言うのもアレだが…文章長いやつは頭の良し悪し以前に性格がめんどくさいと思います

僕だろうと、東浩紀クラス哲学者だろうとめんどくさいと思います

でも、中身スカスカ文章で長いのは…もう最低です。

性格も知性も最低だと思う。擁護できない

文章が長い→性格がネジ曲がってる

文章スカスカ頭が悪い論理構築能力構成力も語彙力もない。

どっちかなら人としてまだ伸びしろある。

でも、どっちもの人は…残念だけど、伸びしろもないし、擁護もできない

俺が人生出会った文章で一番下手くそで、読んでも読んでも内容が頭に入ってこないすごい文章だった。

そして、酒でトラブルを起こしたのに、問題を起こしたことを認めながら酒のんで書いた文章謝罪言葉もない人間として最低な文章唖然としてる。

けがわからん

文章って食べ物飲み物と一緒。

本当にダメものを読むと頭痛がする。

話せばわかるなんて嘘です。

しろダメな人って話せば話すほど嫌いになる要素が増えていくからダメです。

なにか言葉を話すならまず相手のことを考えるか、自分を磨かないと

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