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2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

2017-06-24

東浩紀BBQがしたい

東浩紀バーベキューがしたい。ただそれだけ。

はてなというかネットでは東浩紀嫌われてるけど、私はかなり好き。

東浩紀が彼の娘のために始めた「ゲンロンこども教室」という教室がある。こども教室悪名高きカオスラウンジ代表黒瀬陽平や他カオスラのメンバー講師となって子供がいろんなものを作ったりする教室。私は大人だけどこども教室に参加したい。子どもに混じって工作したい。

今日公園BBQやりながら今まで作ったものを燃やすだって。あぁ楽しそう楽しそう。羨ましい。

子どもができたら参加したいと思っているが今のところそんな予定はない。東浩紀は彼の娘の汐音ちゃんのために採算度外視子ども教室をしてるらしいけれど、汐音ちゃんもも小学6年生で来年中学生。汐音ちゃんが中学生になっても成人してもゲンロンこども教室は続けてくれるかな…。

今日東浩紀バーベキューできる人が羨ましい。

2017-06-19

誰も指摘しないけどさ、そこそこ知名度のあるアイドルって男ぐらい普通に警戒すると思うわけ。

それで、今回ばかりでなく今までを見ても普通に泊りに行ったりするわけじゃない?

ってことは、男に対する警戒心が希薄になるくらい日常的に男とお付き合いするっていうことが、普通にある環境ってことじゃない。接待だろうが打ち上げだろうが、打ち合わせだろうが。

それで恋愛禁止とかね、もういい加減信じてる奴馬鹿かと。

学校で考えてみ?体育会系部活マネージャーとかのレベルでこそこそ付き合ってるって。顧問先生に見つからないように。

あと、東浩紀だよ。やってる事はそりゃ立派かも知んないけど、ツイッター世間を知ったような口聞くな、と。みんな頭の中はめちゃくちゃな事考えてるかもしんないけど、普段は真面目に気使って生きてんだよ。

日本人を頭の中だけで考えるとおかし人達だよな。そりゃ多分100年前ぐらいかおかし人達って言われてんだよ。でもな、だからってそんな捨てたもんじゃないって。お前が一人で悲劇ヒーローになってるほど、悪くないよ。望めばキリないのはわかるよ。でもね、君が考える世界にもあんまり希望がない気がするよ。

頭の中とは別の居心地の良い世界があるんだよ。これからはわかんないけどね。

いつだってからないんだけど、日本人の良さは頭で考えてもよくわかんないと思うな。頭は大事だよ。でもそれは道具なの。大事な事は心で決めるんだよ。それが日本人の知性だと思う。君の知性は、正しいよ。正しいけど、嫌いだよ。安いペシミズムに見えてしまうよ。

あとな、太り過ぎだよ。死んじまうぞ?長生きしてくれよな。

みんなさ、なんで一記事に一つの話題なわけ?別に色んな話題があっても良いと思うな。

2017-05-28

http://desktop2ch.net/sf/1429839713/

5 :名無しは無慈悲な夜の女王:2015/04/10(金) 12:29:02.09

922 :名無しは無慈悲な夜の女王:2015/04/08(水) 13:57:37.33

1月からFBアーティスト元カノ誹謗中傷しつつtwitterでは素知らぬ顔。

共著者から元カノ名前を抹消。311で追悼行為発狂してdisる

2ch元カノに非があったという工作しつつ女性センターなどで講演。

アカデミックポスト(和光大学二松学舎大学)が得られたので、通報されないように痕跡を消しつつ、

2chで「ホント藤田が悪いのか?」「このスレの住人はリンチしてるんじゃないか」と工作

自分が新著を出す度に炎上狙いでディスる記事を上げていたが、

それを忘れて「アイヌ問題」で炎上する東浩紀に「正義暴走」とすり寄る。

今度は2chオカルトネタ元カノ誹謗中傷を始める

DV疑惑などが浮上

自分からふっかけた「営業妨害」で炎上しかける。

にかさんを「嘘つき」とtwitterで断言し、関わった人らに謝罪要求するDMを送るも無視される

(とされるが客観的証拠はない。)


2

名無しは無慈悲な夜の女王[] 投稿日:2015/04/24 10:43:13

問答テンプレ1

藤田が何したの?

ストーカー行為

私的公的パートナーであったアーティスト破局したあと、出版物の共著者から抹消、

FB限定ページで誹謗中傷、参加する美術展への出没などのストーカー行為を行った。

一部行為については元から通報藤田に対し、公権力による介入があったことが仄めかされている。

その他

ストーカー行為と直接・間接的な関わりを持つ、各種の「やらかし」を行う。

2017-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20170517093041

東浩紀郵便的云々ではないが、そもそも通じたかどうかは発信者も受信者確認できない。

東と言いう人がどういう文脈でそう言ったのか知らんが

現実に会話や文章のやり取りで自分要望通り他者が動くことがある(逆もある)のに確認できないと言い張るのは強弁じゃないの?

>「言語化できたかどうか」の基準は、本人がそう感じたかどうかでしかあり得ないものなんだ。

東という人のマイルールではそうなだけで他の人がそんな勝手ルールに従う必然性はないように思うが

http://anond.hatelabo.jp/20170516235954

言語化できたかどうかは、通じたかどうかではない。東浩紀郵便的云々ではないが、そもそも通じたかどうかは発信者も受信者確認できない。

言語化できたかどうか」の基準は、本人がそう感じたかどうかでしかあり得ないものなんだ。

2017-03-31

東浩紀が好き

去年の都知事選の言いたいことを言うニコ生を見て以来東浩紀がめちゃくちゃ好き。彼の本は一冊も読んだことないけど。

都知事選の時に鳥越投票した津田大介のことをボロクソになじってて超好きになった。政治の話でバカみたいな冗談言ってる姿ってあんまり見たことないから新鮮でよかった。

先週の証人喚問を受けてのニコ生茂木が嫌いだから最初はクソつまんなかったけど、茂木が帰ってから津田大介と二人でインターネット昔話とか男子校やばいって言ってる姿がよかった。40代インターネットで嫌われてるおじさん二人の童貞卒業の話きもくて良い。

東浩紀が言ってることはズレてるとか何も分かってないって言う人たくさんいるし、その人達が言ってることも分かるけどそれでも話が面白くて好き。エンターテイメント批評家とか哲学者とか思うからこいつ何言ってんだってなるけど、ちょっと政治の話好きなおじさんと思うと可愛くて仕方ない。

一昨日も自分の著書のサインを2000冊くらい延々とサインするニコ生見てたら、最後の方はなぜかサーバルちゃんの絵を描かせられてたり、火がついた紙飛行機を描かせられてたりしてバカバカしくてよかった。本人は見てないかインターネット検索して必死に描いてたwあと自分の髪が薄くなったことに対して嘆いてたり。見た目がきたないってみんな言うけどそこ含めて超良いよな。東大出てるのに「左翼白髪右翼ハゲから俺は頭髪的には右翼のはずなのに!」とか言っててさ。

あーバカバカしい!ほんと超チャーミングw

2017-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20170314235057

東浩紀の「クォンタムファミリー」は

初っ端に主人公について書かれたウィキペディアが出てくる

糞つまんないから読むことは薦めないけど

2017-02-07

大きい声では言えないけど、実は嫌いじゃない人

東浩紀

2016-12-09

ゲンロン4

東浩紀がまだはてないたころやっていた波状言論面白かった記憶があるのでなんとなく買ってみた

目次を見たときの予想は30代貧困層自分にとって杉田俊介あたりは共感できるし読めるけど

浅田彰インタビューとかきっとよくわからなくておもしろくないんだろうなって感じだったけど

実際に読んでみると浅田彰インタビューが生い立ちについて詳しく語られていて一番面白くていい意味で予想を裏切られた

自分物心ついた90年代以降の思想評論はどこか世の中の動きとは無関係に動いていたという感がどうしてもあるけれど

浅田彰の語る高度経済成長期は思想が人を動かし人が世の中を動かしていたという強い結びつきを感じてそれが濃密さを生み出しているように思える

いっぽうで別の座談会では古市憲寿の台頭についてマスメディア需要に応えているから勝っているという身も蓋もない分析がされていたりして

金、ビッグデータポピュリズムなどが力を持ち思想勝利する前の時代としてしまった後の時代対照的空気がはっきりとわかるような本だなと

さらっと読んでみてそんな感想を抱いた

2016-11-06

ネットにおける平日昼間民主主義危険性について

インターネットやばい

はてなしろ2chしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトゲスさは無かった。

2ch便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴンオマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。

今はそうではない。

陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識助け合い相互承認)はほぼなくなった。

2chで「氏ね」ではなく普通に死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。

2chはてブコメント辛辣になっている。

ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞他者へのアピール」でありふれている。

中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。

なんでこんなになっちゃったんだろう?

被害者ぶる気はない。僕も加害者の一人だからこそよくわかる。

平日昼間の言論空間ネット平和破壊したのだ。

ネットは真昼に炎上する。

00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民ほとんどがネット参加者になった。

社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。

平日昼間のネット支配しているのは、無職ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである

もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。

そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。

火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・

彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上目的化する。

また、中には承認の場をネットに求める人も出てくる。

ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生DQNのほうが受けやすい。

はじめしゃちょーヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。

これはネット言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間承認されやすい。

何かを褒めている人間承認されることはほとんどない。

熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。

まり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブ言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。

問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネット常識」とされて一般層へ輸出され、ネット文化となり、新たな放火魔教育してしまうことだ。

本来ただの過激派愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。

現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。

誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか

ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争なのだネットはそちらに向かいつつある。

東浩紀ネットルソー社会を求めたが、あんもの絵空事である

言葉を聞かない悪意の力の前に理想は役に立たない。

悪意は急速に感染し、ネット支配する。

「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。

自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。

シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。

こんな空間に、子どもたちを晒すことが出来るだろうか? 

大人たちが壊れてしま空間なのに、子供リテラシーかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?

ネット治安を維持するための善意言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。

それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題ネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。

ネット現実リンクしており、ネット日本未来実験である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。

2016-09-14

新海誠川村元気RADWIMPSについての勘違い

および、君の名は。が導くポエム評論というライター楽園

http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251

この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライター仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。

まあネット巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか

で、内容は

東浩紀渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気天才的なんだと。ううん?

ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。

>こういう風にお互いに共通する世界観作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサー仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。

中略

高木正勝山口一郎野田洋次郎中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さら主題歌劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気プロデューサーとしての天才性だと思う。



おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい

なんか知ってるなあ。こういう物語音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌タイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名同人誌タイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。

はい。そういうことなんですよ。

結局川村元気においての映画音楽なんてのはこういうことを東宝プロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。

本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生ポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツ君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌歌詞考察アニメ映画評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章ブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本アニメシーンで最高峰人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。

チャーリーポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。

こういう奴ら明日全員ウンコ踏んでほしい。


君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。

ニコニコ動画2006年に開始

初音ミク2007年

そして新海誠が作った山崎まさよしPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。

まりアニメ文化PV映像センス親和性消費者リテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空世界二次元キャラアニ世界に没入させる技術が今の1020代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。

そしてさらカゲロウプロジェクト告白実行委員会ボカロ小説といった、若者向け物語文化さらにそういうPV的な音楽物語需要さら拍車をかけた。

はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。カゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春キド胸キュンストーリーだし。

震災をダシにしつつ実際は自分恋愛成就しか興味がないウスラバカのための映画子供背伸びにもピッタリ。




というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影キラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものスピリチュアルスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムちゃう連中。

田中将賀パンピ向けデザイン安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム作画青春キド胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸物語センス新海誠凡庸音楽仕掛け人であるところの川村元気センス大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当見解でしょうよ。

からポエムはもうやめろ、お前ら。きもいだけだから




ブクマとかトラバ読んだよ。

物語コンテンツ需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝大衆向けの物語でやったか川村がすごいんだと単細胞意見でつっかかってるんだね。ガンダムマクロスをたとえに出して、君の名は。カゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリ文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。

君の名は。バカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気他所の畑で実った果実自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない

こっちはライターがフェアな関係であるべき対象天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。

文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。

なぜヒットしたのか? 天才プロデューサー仕事からでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライタープロデューサー褒めそやしてバカ素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。

このライターの人も君の名は。RADWIMPS音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。

2016-09-11

僕がシン・ゴジラについて「はいはい庵野庵野」と言ったのは、庵野秀明作品の中ではあからさまな様式美の詰め合わせでかつ、他作品でやったことのやきうつしだったからだし、そこに熱狂する人はオタクとして強度が… / “東浩紀氏「シン・ゴジ…”

典型的学者気取りのオタクが書いた、わっかりにくい日本語と、エビデンスで取り繕ったクソみたいな文章の好例。こういう文章自己満足でつくることを評論だ、批評だと言う人が嫌いで俺は評論同人への寄稿をやめた / “『君の名は。』の大ヒ…”

アニメについての評論批評を見ても作品面白くなる解釈ができるようになるわけでもなきゃ、アニメの見どころや作画的な技術論がわかるわけでもないことに気づいた途端に急に冷めてしまったのです。あー僕がやりたいのは作品紹介や楽しく見るために抑えておきたい情報であって評論じゃないな~と

オタク文化リア充色や社会派色を帯びて一般化して、オタク時代は終わった」とか言ってる東浩紀に心底言いたいのは「今の20代子どもの頃に押井守アニメエヴァみたいな要素を含んだ冒頭からスタートするミュウツーの逆襲からアニメを見始めてそれがおとなになっただけ」ってことさ!!

支援ブクマ。いいぞ~ころしあえ~ / “「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか - 赤目無冠のぶろぐ” (2

オタク論」は学者ごっこでしかなくて、実際にコンテンツ好きな人コンテンツの話をするためにやってることではないからなぁ~。「評論ごっこ」「論文的なエビデンス漫才ごっこ」であって、もしこれを人文系学問というならこんなもんに国がカネ出してる方が異常。憧れて同人作るのも狂気

オタクという自意識を持たない人をリア充だというならそれってどうなんだろうって感じはあるし、ジブリアニメで育った世代オタクじゃなくてもあんなこじらせたもの国民的娯楽だと言って幼いうちから見せられてるんだからオタクじゃなくてもその基礎的な土台はオタクなんだと思うぜ?


@tm2501 いやだからその事実自体が「オタク時代は終わった」なのでは

@kimiterary だったら、それは20年前(もののけ姫や、ミュウツー邦画歴代ランキングで上位に食い込んで、アニメ映画オタク以外が見に行く時代になった時)に約束された話だから、今それを言うこと自体が遅すぎない?…とは思う。

まぁ、その辺は記事にしたので夜に出すけど.それはね、多分「表面上の言葉でこの言い方をしたら絶対に誤解されるから、俺なら絶対こんな言い方をしないわ」っていうレトリック問題であり、ある種の(正直言って、納得行かないけど)同族嫌悪なんだと解釈してるよ…うん

@tm2501 確かにもののけ姫ミュウツーに「オタク特有グダグダした心理」の描写はないんだけど、その二十年分の変化の集大成として、節目の年と感じてるって話じゃないのこれ。その二十年前にいるのがまさにエヴァなわけでさ。

@kimiterary 東浩紀文脈オタク定義動ポモで扱ったものやそれを論じたゼロ年代ゲンロンとした上で)あるものエヴァでありエロゲなんだろうと思うけど、世の中の人ターニングポイントが本当にエヴァだったのかと言われるとそこにはとても疑問を感じるかなぁ…数字問題として

というか、うちのブログやそのスタンス自体が、「哲学者批評家の言ってることを噛み砕いて、アカデミック言葉を使わないで書く」という部分(本人すらアカデミックでそれをもっとシンプルに言い表した言葉があったことを知らずに書くことは多い)があるからねぇ~うん。

@tm2501 「誰しも土台にオタク的部分がある」のは普遍的にそう。ただ、それを突き詰めても「だからみんなオタクであり同時にオタクではない」みたいなところに帰結するだけで、そこからこぼれ落ちる人間、こぼれ落ちる想像力は確実にあって、で、それらはもはや力を持てないって話なんかなと。

@tm2501 世の中のターニングポイントエヴァだったのかが問題なのではなくてシンゴジラ監督庵野であることがこの文脈では問題なのでは?

@kimiterary あー…直感的には理解したけど、いいアクションを持ち合わせない部分がある話やなぁ~。

@kimiterary あー…うん。(概ね納得)

だとするとすげー個人的な話を主語がでかいままネットに書き込んだ系のことやなぁ~。「お前はそうかもしらんが、一般的分岐はそこじゃないだろ」的なモヤモヤ個人的な話である時点ですでに意味を持たないというかその人の手を離れるわな…

@tm2501 つまりアニメマンガ文化愛好者」としてのオタクと「少数派としてのグダグダメンタリティ所有者」としてのオタク問題。前者がもはやメインストリームに取り込まれた(皆オタクであり非オタ世界)として、後者想像力が表出してくる余地果たしてあるのか、でしょ。

@tm2501 そもそもアレ個人の感想だけどな?

@kimiterary それな(盛り上がってるから真夜中にがんばって記事を書いたけど、結局東浩紀との対立というよりも、EXILEまでオタク的になったという話までの道のりを自分ポケモンとかジブリを使って補填するようなすごく説明的な記事からいいんだけどさ…)

@kimiterary 「後者はそもそもオタクなのか」とはてなブログにいるとすげー思うけどなぁ~。結局、何を議題にしてもグダグダにグズグズに揉めてる印象があるからオタク論争だけでなく、人間関係でも、サイトブログアルゴリズムテクニカルな話でも

@tm2501 ちなみにこんなこと言っておいて難だけどセカイ系とは相性が悪いマンからさほど感慨はない……w

@kimiterary あ、僕もそこはどうでもいい派。15年以上前オタク同士でランデブーしてろ派だし、安易に話に入ると誰も幸せにならないか意図的スルーする

@tm2501 端的に言って本人の能力値がどこでいいからどこかに向けて高くない限り救いようがない人種だけど、わりとそれオタクの本質の1つだと思うんだよな。








@tm2501 てゆーか貴方だしすっげえ雑なこと言うけど、要は1つのテンプレとしては太宰に感情移入ちゃうタイプメンタリティが挙げられるんじゃないの、後者ファウスト系に人生曲げられたマンとしてはこの辺他人事ではない

@kimiterary それ、私には発達障害問題IQの低さと高さが混在した人間宿命や悩み)の話に聞こえるから哲学案件ではなく、精神科案件か臨床寄りな心理学案件な感じがあるかなぁ…。個人的な話でもあると同時に、それらを病気や克服すべき問題定義したのはそっちだし。

@kimiterary そこまで広くくくっていい話だとすると、それは確かに哲学案件


@tm2501 俺としては「病気が治ってしまったら病気が治る前の自分は死んでしまう」みたいな感慨があるからいかに病を抱え続けていけるかの問題自己肯定問題なんだけどなそれ。戯言遣いが言う「変わりたいって気持ち自殺だよね」に未だに取り憑かれてる感。

@tm2501 「太宰に感情移入ちゃうタイプ」の「太宰」に代入出来る解としての庵野なり新海ではもはやなくなった、ってことだと俺は理解してるし、なんならそこに代入できる解って今の世界にいるのか?そもそも求められているのか?ってところで一般化していけそうではある。


はてなブログ投稿しました #はてなブログ

オタク時代が終わったのではなく、リア充オタクな影響を受けた世代大人になっただけじゃないの? - かくいう私もでね

http://www.tm2501.com/entry/2016/09/11/204500

2016-08-12

豚まんからあずまんへの挑戦状 「この無限ループ脱出する方法を答えよ」

https://twitter.com/tm2501/status/763973897985269760

東浩紀批判してドヤ顔してる人」に限って、あずまん的なグダグダ空気を作ったり、居たがったりするんだけど…君らがやってるのはただの駄サイクルなんだよねぇ〜。



僕は東浩紀の魅力をある人から死ぬほど説かれても、

あんな奴認めない。君の意見は信用に足るものだが、

 東の真似事や類似品やは製品が酷すぎるから、あの空気を認めると厄介な連中と関わることになる」と突っぱねてる。

俺がいうのもアレだけど、あずまん学者YouTuberポジ

YouTuberが中身の無い放送で人気を取ったようにバカが誤解して、中身の無いところだけをパクるように、

あずまん学者な部分ではなくダメオタクっぽさだけをパクるクソを東浩紀がどれだけ量産してるかって話をそろそろさせてほしいよね

東浩紀的なグダグダって…東浩紀がすごいメンツとか極稀にかっこいいこと言うからかろうじて好きな人がいるよ?

でも、それと同じことをやった99%のダメ学者ダメオタクもっとひどいとダメオタクでかつ大学院崩れとかだったりすると…

僕があずまんを認めたくない理由ってそれさ…。

しかも、何が悲しいかというと「東浩紀批判してドヤ顔してる人」に限ってあずまん的なグダグダ空気を作ったり、居たがったりするんだけど…君らがやってるのはただの駄サイクルなんだよねぇ〜。

いや、俺個人的には東浩紀ほぼほぼ駄サイクルっぽいですけどね。

 

僕は東浩紀の魅力をある人から死ぬほど説かれても、

あんな奴認めない。君の意見は信用に足るものだが、

 東の真似事や類似品やは製品が酷すぎるから、あの空気を認めると厄介な連中と関わることになる」と突っぱねてる。

俺がいうのもアレだけど、あずまん学者YouTuberポジ

YouTuberが中身の無い放送で人気を取ったようにバカが誤解して、中身の無いところだけをパクるように、

あずまん学者な部分ではなくダメオタクっぽさだけをパクるクソを東浩紀がどれだけ量産してるかって話をそろそろさせてほしいよね

東浩紀的なグダグダって…東浩紀がすごいメンツとか極稀にかっこいいこと言うからかろうじて好きな人がいるよ?

でも、それと同じことをやった99%のダメ学者ダメオタクもっとひどいとダメオタクでかつ大学院崩れとかだったりすると…

僕があずまんを認めたくない理由ってそれさ…。

しかも、何が悲しいかというと「東浩紀批判してドヤ顔してる人」に限ってあずまん的なグダグダ空気を作ったり、居たがったりするんだけど…君らがやってるのはただの駄サイクルなんだよねぇ〜。

いや、俺個人的には東浩紀ほぼほぼ駄サイクルっぽいですけどね。


僕は東浩紀の魅力をある人から死ぬほど説かれても、

あんな奴認めない。君の意見は信用に足るものだが、

 東の真似事や類似品やは製品が酷すぎるから、あの空気を認めると厄介な連中と関わることになる」と突っぱねてる。

俺がいうのもアレだけど、あずまん学者YouTuberポジ

YouTuberが中身の無い放送で人気を取ったようにバカが誤解して、中身の無いところだけをパクるように、

あずまん学者な部分ではなくダメオタクっぽさだけをパクるクソを東浩紀がどれだけ量産してるかって話をそろそろさせてほしいよね

東浩紀的なグダグダって…東浩紀がすごいメンツとか極稀にかっこいいこと言うからかろうじて好きな人がいるよ?

でも、それと同じことをやった99%のダメ学者ダメオタクもっとひどいとダメオタクでかつ大学院崩れとかだったりすると…

僕があずまんを認めたくない理由ってそれさ…。


しかも、何が悲しいかというと「東浩紀批判してドヤ顔してる人」に限ってあずまん的なグダグダ空気を作ったり、居たがったりするんだけど…君らがやってるのはただの駄サイクルなんだよねぇ〜。



すごいな!「東浩紀批判してドヤ顔」しながら「東浩紀批判してドヤ顔してる人」について言及してるもんだから自分がやってることが駄サイクルであると認めない限り出口がない無限ループになってる!

先生、この豚まん無限ループから脱出する方法を教えてください

2016-07-31

宇都宮けんじ氏による野党都知事選敗北の解説

宇都宮ニコ生発言まとめ

鳥越週刊誌に具体的に書かれたのに被害女性に対する配慮が無い」

説明が無いのはそんなことえでは都民にも失礼」

人間性を疑うような人の応援はしたくなかった」

撤退するまで選挙事務所に早く降りろっていう脅迫電話が掛かってきてた」

立候補するのは誰にでもある権利なのにこういうことするのは市民運動が未熟」

野党人達には民主主義って何って言いたい」

密室で決めたことを強制するようでは野党がやったことは独裁と変わらない」

「こんなんじゃ日本リベラルは勝てない」

選挙闘争は1回1回総括して考えるべき」

「2年前選挙の手伝いしてくれた人たちは地方議員になってて応援にも行った」

野党市民連合を全面に出すべきだった」

政党幹部が前面に出てきてたら駄目」

市民連合安倍政権独裁扱いしてる割に自分達の体制の方が独裁的で全然民主主義になってない」

「次に向けて我々はリスタートする」

候補者達も都議会を傍聴する位じゃないと」

選挙の時だけ政治に関心があるのは都民も駄目」

オマケ

東浩紀

「お前(津田)みたいな奴が居るから宇都宮さんが辞退したんだよ、責任取れ!!」

2016-07-21

増田ユーザー罵倒する言葉を考えてたんだけどさ

イマイチいいのが思いつかないんだよね。

「バーカ! 升田の○○! ○○!」の○○に入るヤツ。きょうもえさんくらい自然に豊かな罵詈雑言が出てくればいいんだけどなあ。

政治信条攻撃するなら対立する立場(の蔑称)が自然か。
例)益田ネトウヨ! はてサ! しばき隊! 日本会議
相手趣味性や属性攻撃するならそれ自体を貶める修飾語をつけるのがいいのでは。
例)舛田の自称高学歴! 自称高収入! アニメオタク! 美大くずれ!  
企業名前を組み込むのはどうだ。
例)桝田のみずほ銀行SE! ゼンショーホールディングス役員
人間性を攻撃するならやっぱクズ人間を出すのがいいと思うんだ。
例)枡田の石川啄木! 種田山頭火
より現代性を持たせるのもよいだろう。
例)ますだのイケダハヤト! はあちゅう! 梅木雄平! 東浩紀! 家入一真


……言っていいことと悪いことがあるなやっぱり。さすがに言い過ぎたよ。

ごめんね。

追記)

そういえば都知事候補に同じ苗字の人がいたね、まこと申し訳ない。タイトル文章少し変えた。

2016-07-20

東浩紀さんとのチェルノブイリツアーが43万円

どんな人が行きたがるのか気になる

2016-06-30

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

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