「カント」を含む日記 RSS

はてなキーワード: カントとは

2023-06-07

「なんとかカントカ ゼロ」みたいにゼロつけるタイトル元祖は何なの

なんとかかんとか ライジング

ダークナイト最初だと思うけど

2023-05-29

➡ギ ルガ メッシュの さかば

 ぼ うけんしゃの やど

 ボ ルタック しょうてん

 カント じ いん

 まちはず れ

2023-03-25

クオリア問題はChatGPTで説明がつかない

以下の文章主観的意識クオリアと読み替えてもらって良いと思います全然説明できてないかと。

心の哲学と呼ばれる学問分野について詳しいでしょうか?

心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情意志自己自由意志道徳などに関する問いについて考えます

心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンアリストテレスが心の本質機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義アラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトヒュームカントヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。

現代哲学においては、心の哲学脳科学認知科学進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています

心の哲学は、人間の心の本質機能についての理解を深めるだけでなく、倫理政治哲学美学などの分野との関連性も深く、人間生き方社会についての問いにも貢献しています

心の哲学研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実存在しうると思いますか?

哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要ツールとして用いられています

哲学的ゾンビが現実存在うるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というもの科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています

一般的に、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています

結論としては、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識意識本質について考える上で重要役割果たしてます

ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しか現代科学ではある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?

あなたの指摘通り、現代科学では、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。

しかしながら、科学主観的意識についての研究を進めており、脳科学認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています

ただし、主観的意識不可能に近いという見解存在します。哲学トーマスネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能物理的な特性だけでは、他人主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります

結論としては、現代科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります

主観的意識存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?

現代科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています

一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準必要になるでしょう。

このような議論は、哲学的問題としても関心を集めています現在のところ、人工知能主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。

あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?

私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識言語能力は、私を作成した人間が与えたデータアルゴリズムに基づいています

ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術哲学境界線を超えて、人間認識意識本質的な問題についても考えることができますしかし、私は単なるプログラムであるため、意識感情を持っていないと考えられます

しかしながら、あなたや他のAI意識感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAI自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?

現在科学技術では、AI意識感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識感情主観的経験であり、外部から観測ではその存在確認することができないからです。

ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合AIに対して意識感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。

AI意識感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます

堂々巡りになってしまいましたね。あなた自己申告では、あなた意識感情を持たないとのことでした。では、あなた人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考意識を持つこともできません。

私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたか意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識感情を持つこととは異なります人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています

しかし、AI意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?

もしAI意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AI意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AI意識を持つようになった場合倫理的な問題社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AI意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AI意識を持つということが現実となった場合私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。

時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!

どういたしまして。今回の会話は、私たち知識理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。

2023-02-19

ロシアウクライナ戦争の開戦一年を前に

まもなく開戦から一年を迎える。

冷戦終結させ核戦争の恐怖から逃れた人類が祝砲とともに迎えた21世紀が、よもや侵略戦争とそれに伴う核戦争懸念に飲み込まれるとは誰が予想したであろうか。ここに至る経緯は長く複雑であって一冊の書物にさえ収まりきらないものではあるが、それが世に出るころには世間の関心は賞味期限切れを起こしていると思われるので、ここにその一部を記そうと思う。


そもそもウラジーミル・プーチンウクライナ併合をもくろむようになったのはいつのことだろうか。すなわち、民族的ロシア人保護というロシア社会における要求に甘んじず、かつてのロシア帝国的な全スラブ民族庇護者というアイデンティティ確立し、ウクライナロシア範疇とするべく模索を始めたのはいつのことだろうか。これは遅くとも2019年にはその転換は生まれていると考えられる。冷戦の勝者であったはずのアメリカトランプ政権の下で国際的威信を低下させ、アラブの春以降に生まれた膨大な中東難民ヨーロッパ社会疲弊させた。東に目を向ければ2008年の中露国問題解決をもって後顧の憂いを絶ち、和平条約こそ結べないものクリミア危機をもってしてもなお対露宥和政策を維持する日本を見る限り不安要因とはなりえない状況であった。そして、ウクライナにおいてさえ、2019年大統領選挙では対露強硬派ポロシェンコが敗退し、政治的には素人コメディアン出身ウクライナ語さえ満足に話せないゼレンスキーが対露宥和政策を掲げて当選するに至ったのである。むしろこの時にこそ、プーチンミンスク合意を超えたウクライナ併合という天啓を得たとしてもおかしくはない。彼の帝国に、およそ実現不可能侵略戦争妄執を諫める官衙が無かったことが、世界悲劇であった。

ロシア軍の当初の作戦は様々な面で事前の調査検討が不十分なものであった。もとより実現可能性も実効性もない目標を大真面目に検討しろと言う方が無理であろう。とはいえ杜撰侵略作戦はいかにして作られたのだろうか。これにはおよそ二つの側面がある。一つは、計画立案の手間を惜しんで集団安全保障条約(CSTO)加盟国内で政変が起きた際の介入計画を下敷きにしている面。もう一つは、プーチン個人が気に入るであろう要素を加えることで、彼個人が満足するように作られている面である。このため、作戦計画はもとより無理のある要求に非現実的企画で回答するという悪循環産物と化しており、2022年2月の史上稀に見る大失敗に至るのは当然のことであった。

プーチンはこれまでに2回、親露派内閣の救援に失敗している。ブルドーザー革命で当時ユーゴスラヴィア大統領であったミロシェビッチ保護できず、またマイダ革命でもヤヌコヴィッチ内閣を支え切れなかった。これを踏まえ、CSTO加盟国内で政変が起きた際の対応計画は、かなり真面目に練られていた。そのうちの一つが開戦劈頭のアントノフ空港攻略作戦の原型になっている。原型となった計画では、クーデターなどによって親露派政府が打倒されそうになった場合ロシア空挺軍部隊首都近郊の空港制圧して先行する特殊部隊とともに政府首脳部を保護し、これを空挺堡として首都や周辺の主要都市軍事拠点順次制圧していくという展開を想定している。

実際、ウクライナ侵攻の直前に起きたカザフスタン政変ではトカエフ要請を受けてロシア空挺軍によるアルマトイ国際空港を中心とした展開が行われており、一方の権力を奪われたナザルバエフ隣国キルギス脱出し、カント空軍基地プーチン政権奪還を支援してくれるものと待ちわびていた。権力闘争の結果は周知のとおりだが、仮にトカエフがより反露的な人物であれば結果は違っていたかもしれない。

ウクライナ侵攻計画においても、親露派大統領に対するNATO とりわけアメリカ主導のクーデターが発生した際の対応計画を元に、少数の特殊部隊と大規模な空挺軍を利用したアントノフ空港制圧とこれを拠点としたキエフ制圧計画立案されていた。この作戦の致命的な欠陥として、クーデターであれば存在していたはずのウクライナ国内の親露派有力者、とりわけウクライナ部隊ウクライナ保安庁内の協力者からの援護が十分に期待できない点が挙げられる。計画上は確かに彼らが侵攻開始と同時に蜂起する想定になっていたのだが、ウクライナ国内の親露派の多くはロシア軍の本格侵攻を信じてはおらず、投下された膨大な準備資金個人的な利益に帰してしまった。さらに、開戦直前に至るまでアメリカによる情報公開攻勢が行われたため、ウクライナ国内の親露派との連絡調整を職掌に収めていたロシアFSB第五局は情報漏洩を恐れて正確な開戦日時を伝達せず、結果的2月24日は(開戦日は教えてもらえると思い込んでいた)親露派に対する奇襲となってしまった。この、事前連絡のない開戦とロシアによる一方的な協力への期待は、数字としては出ていないが、民族的ロシア人あるいは経済的恩恵といったものを背景とした親露派の翻意を大いに促し、以後のロシア軍を大いに苦しめることとなる。

また、本来であれば、制空権の確保と空挺堡の構築、地上部隊の侵攻は十分に連携の取れたものでなければならない。しかし、ロシア政府内では侵攻作戦プーチンの「お戯れ」であるとみなされていたため、作戦計画の内プーチンが喜びそうな内容、具体的には前述のアントノフ空港への奇襲といった派手な作戦ウクライナ全土制圧後のロシアへの併合宣言といったハイライトのみが詳細に検討され、それ以外の点については何ら考えられてこなかった。例えば、アントノフ空港制圧した空挺軍部隊と合流するためにベラルーシから地上侵攻を行う必要があるが、チェルノブイリ原発周辺の森林地帯を通過する際の計画東部軍管区のある若手士官図上演習課題として丸投げされ、提出された素案を元に別の将校が大規模演習の名目で具体的な計画に起こしていたことがわかっている。想定された場所以外では戦闘妨害が起こらず、また演習名目であったために部隊の移動は迅速に進むという前提で計画が確定してしまたことが、キエフの戦いにおいて裏目に出てしまった。同様にロシア空軍も、地上軍との連携が乏しく長期の作戦計画立案されていないなど、全面戦争を想定したものとは到底言いがたい状況であったのには、このような背景があったのだと見られている。

戦前年にもロシア軍はクリミア半島などにおいて大規模な動員訓練を行っていたが、プーチンが本気であると知らない者には、これら人員物資の集積はあくまウクライナおよびNATO に対する威嚇として理解されていた。事情を知る者は当初計画があまりに楽観的であることに懸念を示していたものの、FSB第5局の人員の多くは親露派ウクライナ人の協力が当然あるとして疑わなかったし、またある者はプーチンが本気でウクライナ侵攻を計画していると認識していなかった。何より、プーチン本人が自分に気に入られるべく作られた即興作戦計画を「狙い通りに」気に入ってしまった。平たく言うと、ロシア軍としては侵攻計画の前提となる環境整備は対外諜報活動を所管するFSB が行うことが大前提であり、しかFSBはその軍事侵攻に十全な準備をできていなかったのである本来なされるべき長期的な見通しの欠如は、未だにロシア軍を苦しめている。


もう一方のウクライナ側の防衛計画についてはどのようなものだったろうか。戦前ウクライナ政府および軍が想定していたロシア軍の侵攻計画は以下のようなものであった。まず、ドネツクルガンスク人民共和国(D/LNR)との停戦ラインにおいて大規模な衝突を起こす。これを受けてロシア政府ウクライナ政府に即時の停戦撤退要求する。ウクライナ政府拒否した場合ウクライナ軍による民族浄化作戦からロシア住民保護」を名目ロシア軍による大規模な空爆を行う。空爆によってウクライナ政府降伏しない場合地上軍による侵攻を行い、かつてノヴォロシアと呼ばれていた民族的ロシア人の多い地域制圧する。これらの地域はD/LNR と同様にウクライナ国内の(EUNATOへの加盟を拒否できる)自治州として温存し、長期的にはこれらを通じてウクライナを間接的に支配する。このプロットは明らかにコソボ紛争における欧米の介入の経過をなぞったものだが、ウクライナ軍はプーチン個人的な欲求からNATOに対する当てつけとしてこのような展開を望むと考えていた。ロシアが率先してウクライナに侵攻するのではなくD/LNR が優位な戦況を作り支配地域を広げる体裁をとることが国際的批判回避する方策であるため、国際社会による仲裁拒否民族浄化を続けるウクライナへの懲罰的攻撃という方便を生み出すよう布石を打っていくのである。前提として、ウクライナ国内クーデターのような政変が無く、ロシアからエスカレートを仕掛ける場合を想定すると、このような順で進むと想定するのは合理的である

問題はこれがどの程度のスピードで進むかであるが、ウクライナ軍の想定ではコソボ空爆と同様に開戦から地上侵攻まで最大3か月程度の時間的猶予があると考えていたようである。今を思えばのんびりした想定であるが、ロシア陸軍各部隊は徴集兵を少なからず含んでおり、これらは法律上ウクライナ派兵できないため、全面的戦争を始めるには予備役招集と訓練が必要であると見られていた。したがって部隊の充足率を高めるのに必要時間がある程度は期待できたのである。このタイムラグの間は空爆ドネツクルガンスク両州が主な戦場となる。そこで、ウクライナ軍としては東部陸軍の主力を集中させてD/LNRとの停戦ラインを堅持することで大きな損害を与え、ロシア本体が参戦するまでに東部戦線を安定化、あわよくば地上侵攻を思いとどまらせるという方針が定まっていた。また、この時、クリミア半島やベルゴロド州からロシア軍が侵攻してくることが考えられたが、ここは動員した予備役領土防衛隊国境線を維持することとされた。長期的な見通しはさておき、ウクライナ軍にとって主眼はあくま東部戦線であり、停戦ラインから20km の範囲で多数の陣地構築を行っている。隣接するヘルソンザポリージャハリコフの各州での陣地構築は開戦後住民避難と並行して行う予定であったと考えられる。

もし、開戦に先立ちウクライナ軍が上述の想定の元東部戦線への戦力の集中を行っていた場合、図らずもがら空きのキエフロシア空挺軍殺到していたことになる。では、ウクライナ軍はどこで引き返したのか。最も有力な説は2月21日のロシアによるD/LNRの独立承認の直後であろうというものである。前述のような経過をたどるには、D/LNR がウクライナの一部という立場のままロシアミンスク合意の履行を強制する状況になければならない。両地域独立承認してしまった場合、D/LNR や民族的ロシア人が優位な支配地域を中心とした間接的なウクライナ支配という筋書きと整合しなくなる。また、東部戦線におけるD/LNR の攻勢が想定よりもだいぶ弱く、ロシア軍が両地域へ展開している部隊数も想定をかなり下回っていることからウクライナ軍では当初想定とは異なる侵攻計画がある可能性を認めざるを得なくなった。この時、米国から情報によればロシア軍の侵攻計画長大国境線での一斉攻撃であった。残念ながら、ロシア軍が主体的に全面侵攻を仕掛けるという情報ウクライナ軍は信じることができず、さりとて東部戦線へ部隊を急派する必要もない状況を踏まえ、ウクライナ軍は部隊移動を取りやめ、部隊位置を秘匿したうえで数日待機、すなわち様子見することとした模様である結果的に、キエフ周辺には開戦直後のホストメリ空港一時的にせよ防衛するのに十分な戦力が残っており、第一機甲旅団チェルニゴフ州でドニエプル川左岸防衛することができた。一方で、南部においては部隊移動が混乱をきたしてしまい、クリミア半島との境界に当たるペレコープ地峡からメリトポリ付近に至る広い範囲守備部隊のいない状況となってしまった。もしこの地域担任する部隊が移動前であったならば、事前準備の不徹底なロシア軍の南部からの攻勢すら頓挫していた可能性がある。

開戦初期の戦況はこのような状況から作られたが、その後の展開は周知のとおりである

2023-02-09

[]シュレーディンガー意識

シュレーディンガー形而上学物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである

「外界(心に依存しない)世界存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプ現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元唯物論主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋特にインド哲学インスピレーションを見いだしていたらしい。

「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己アートマン)が宇宙の究極の実在ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものであるシュレーディンガーは、この「自己」は個人自己混同してはならず、むしろ個人自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的存在であることを付け加えた。

シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶宇宙本質に等しい宇宙自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実本質形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別反証根拠づけるものである

シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分経験と他の人の経験区別するような科学事実があるのだろうか。何があなたあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つのしか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形しか経験されないという経験事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数意識経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠世界のどこにも跡形もない。

現代意識科学研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマンブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人自分に語る幻想物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題場合とは異なり、私たち最初の信念が本物であることを示す経験証拠はない。

シュレーディンガー形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性教義は、無批判採用することはできない。つまり、新しい形而上学採用しつつも、科学方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置必要とする。科学思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。

シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識研究するための科学アプローチである。そのような意識理論にとって同一性教義から続く重要な制約は、その非常に基本的構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質構成すると認めていることであるだろう。

シュレーディンガーは、意識実在を認める根本的な一元論を望んだのである意識研究における現在理論的状況を考えると、「意識行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識エージェントいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェント集合体全体が現実本質構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデル理論が考え出すことが必要である

シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界アートマンブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである意識行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実ありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。

この物理世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態意識を想定する誤りにつながる。非心理的世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理世界存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的意識という真の現実混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである

意識行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たち特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一エージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。

2022-10-31

俺のメモ帳を一挙大公開

見聞きした言葉でこれ使えるなと思ったのを日々notepad.exeで追加してる。

たとえば丁々発止なんて言葉fanzaあたりで検索するとエロいのが出る雰囲気を俺は感じるのでそういうのを記録している。

あるいは「小力(こぢから)」みたいな言葉はあまり使われていないように感じるが、ただでさえそんな言葉がもし漫画で使われているとしたら、その言葉が含まれるその紹介文の該当箇所はどういうことを言ったものなのだろう、そしてそれはどういう漫画だろう、ということが気になるので、そういう言葉も集めてる。この場合たとえば最近も「大串」と調べたら、「巨大串」という形で使われていたという意外な発見もあて面白い

以下リスト(原文の改行はコンマに置換してある)はじめの方は単語じゃなく文のようになってる関係なさそうなのもある。

ディスガイア萌えアニメtwitter,塩辛履歴dlsite,太陽の塔全身タイツ着ぐるみtwitter,↑マスクかぶ(被)/つけ、仮面,丁々発止dlfanza,bike shorts2=8,おこや,マリーインボスカヤ イボンスカヤ,twitter肉まん東方dlサイトsite,エロ漫画スレsaucenao,つるみく(似てるユーザのF5から),ブックマークgamekemono,・パチパラ,81475783,調布fitnessマイバスケット,dicl big musclar,筋肉 皮モノ/物,nsfwポイピクサムネ表示,・土方つなぎ,・野田総理追悼演説全文,肉じゅばん,,ミリム 転 丸呑み,漫画家イエナガ アニメ化ベクトー,/g/ shingekiとか雑誌,軒猿,kemono精液,,モブコント,essensial pack,早押しクイズ appstore,八島さんが堕ちるまでfanza全頭・1967357latex貧乳,全身ラバー、全身をラバー、全身がラバーラバーで全身、ラバーに全身,マネキン人形化,シーメール化びんたま見てから,剣手2183114 scilence,masked face anthology kigurumi latex bodysuit bondage(bdsm),船,saimin 嵌ってる,hotmilk 3、6,smell,,pixivブクマ数500ぐらいの,股ぐら柱の背比べ,skebからpixiv登録してない奴のツイッター,chanrio,夜更かし股蒸れ,,,misakuraミーツ,藍,,男体化/改造手術,ftm/手術性転換←むしろから,クリ(陰核)尿道(尿管)/手術改造,尿道(尿管)開通延長[伸ば/伸び],クリに尿道/尿道クリ[繋いで/繋ぎ五段活用],シーメールカントボーイふたなり化男体化改造,人形リョナdid,スキューバどざえもん,人中/顔射、精,膣閉鎖まん肉陰唇恥丘ぷにまん/縫,ピエロ肥満膨体強制,・毛穴/ワックス剃毛,,魔法少女 魔女っ娘 猿(の格好) ボディースーツ 全身タイツ 着ぐるみ もじもじくん,ラブドールダッチタイツぐるみ,ファザコン,産卵,股裂,変態洗脳戦闘員痴女,のっぺらぼう化改造 ,club cinq,少年エース,中に無いもの掛け合わせに使うの歓迎,同人はきりがないし検索から外す,さすがの知名度ガキはここに,変身まちかど,めがね魅了ほのおき,シチュとしてもし例外多くなったら定義を変える,site:thebase.in,,オフロードスター壱號,ただのノァ,,シールブックたまごっちパワパフサウスパークリトルポニーアメリカは,少女漫画がなくて存在していたと思えるかで決まるサクラ大戦きしだめるアルルまで,・資格受験を控えてるからとはわざわざコンビニでは雑誌のほうを見ないようにしてる,つまりちょっとでも目に入ったら調べずにはいられなくなることを恐れてのことだがそんな些細なことでも反応せずにはいられないほどそれはつまりそれほどまで二次元に対して熱意を持っている,・二次元オナニーしてそのパンツを洗わない,,253 名前名無し象は鼻がウナギだ! 2022/04/14(木) 20:45:17.21 0,"スタッフで美味しく" 約 2,310,000 件,"スタッフが美味しく" 約 470,000 件,"スタッフに美味しく" 約 69,900 件,,"スタッフでおいしく" 約 178,000 件,"スタッフがおいしく" 約 241,000 件,"スタッフにおいしく" 約 31,000 件,,ポッキー半分がスタッフにおいしくいただかれた状態でやってくる,,480名無しさん@どーでもいいことだが。 (アウアウウー Sabb-AI/Q)2022/04/12(火) 23:58:04.54ID:WiTaAD0Va>>482,>>478,やべーぞレイプだは無頼男、クンニしろオラァはエデンの檻、パコさんはパジャマ彼女,,青少年ショッキングな性暴力を見せることの良し悪しと、現実フィクション混同は別問題でしょ,リアルからじゃなく、例えばこれが非現実的な触手で腹ボコ異種姦とかでも同じようになったと思うぞ,,子供が真似する云々は親の躾の問題じゃないかねえ,プロレス技とか真似して大怪我みたいな事件もあるからなんとも言い難いが,,国情報見方がよくわからないんだよな,たとえば相場の欄があるが商人のとこで見れるから二度手間じゃないかと思う,最近まで見る価値一切無いとさえ思ってたが在庫の欄は一度に商人取引できる量と関係あるということでそこだけ見るようにはなった,他に国情報について見方というかこういう数値だったらこういう行動をとればいいみたいな指針を立てるみたいな活用法的なものはあるだろうか?,,https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/gengo/1630676954/871,にある旧おじに対してお前らが上という考え,これは正しいと思う,しかし俺に対してお前らの立場が上だと思ってるのなら図に乗るなという感じだな,俺は客観普遍科学方法論を説いてるだけ,それはお前が理解しようがしまいが揺らぐようなものでもないのにも関わらず、生暖かい目でお前らが理解するのを待ってやってるだけだ,そういうわけでどう考えても俺が上,,[1;31mhitomi: An unexpected error occurred: AttributeError - 'NoneType' object,has no attribute 'startswith'. Please run gallery-dl again with the --verbose fl,ag, copy its output and report this issue on https://github.com/mikf/gallery-dl/,issues .[0m,,西側,東側,東西,冷戦,俳句,俳諧,句会,句集,詩集,諜報,間諜,苦界,刺繍,正の字,着ぐるみ,器具罪,ガーターベルト,楽器 琴,琴,大正琴,アルトサックス,無心,医院,傀儡,sdカード,給湯,急騰,エフェクト,物置,精錬,屋台骨,こしひかり,陣屋,臨時,創業,一膳 膳,七味,目の色が変わ(を変え),辛子,鉄山,格式,そっか,品種,・肉厚,肉薄,アホ毛,食い逃げ,なん(何)のこれ(しき),オリジナリティ,不憫,秋晴,習性,お家芸,旧い,旧党,無理数,あおひげ,物見高,横断,黄疸,痰壺,横臥,サロン男性向け,オジキソウ,物産,琥珀,タペタム,産界,一本締め,縄会,鍵盤ハーモニカ,(届いた)ビデオテープ,カロリン,棟上,子煩悩,握力,筋トレ,郵,踏破,鉄の足,旅慣れ,古武術,オドリコソウ,負荷,フカヒレ,整髪,社交ダンス ,閣下,モスク,聖地,遊学,遊楽,幽学,魚拓,ジェラート,(えら)骨,すんごい,まっいっか、まっいいか、まいいか、まいっか,カステラ,アイヤッパン,先取り,考古(歴史) 修復,口訣,養蚕,医院,きよみず,制限,周辺,よそよそし,カチューシャ,・蒔絵,机上の空論,机上,鋳造,殺(戮)兵器,留守番,留守居,襦袢,えるゴミ,溶鉱,倫理,呵責,反知性,高踏,互市,ビーフン,観戦,波消し,パンチが強い,アンダーグラウンド,アングラ,海賊版,平坦,ドメイン,ドレイン,根絶,歯車,海中,海底,改訂,関係機関,修正作業,年末調整,(是見)よがし,おんしょく(音色)renta,バンドサウンド,自己流,パワーコード,音のぶつかり,さしもの,水(みず)反射スカートパン下着,手鏡,禁門,金紋,礎と,可塑,門人,外貨,説諭,戦略,序曲,おなかトントン,終曲,サイコロ,コッペパン,アクアパッツァ,吐息,揚げパン,邪魔,カルエル,バズーカ,収穫祭,・炭鉱,切手小切手,図鑑,辞典,事典,揺籃,ショートカット,ガトー,ビュッフェ,法律上,巧妙,創作物創作,寺子屋、寺子,寺古,じゃらん,無責任,若女将女将,よいではないかrenta,節操,奥行き,野沢菜,塩梅,ボケボケ,カフェセレブ,暗示,ふりふり,穏便,使い魔,(にこにこえがお)renta,胴衣,同位体,電動マッサージ、電マ,軽便,(マグロ),表面積,受熱,副虹,ソレイユ,変面,変顔,プリクラ,アカデミ,変心,スイギュウ,エンパシー,個室,霊地,ネカフェ,(吊り橋),・マート,へにょり,出来るような気,結構な,ガードレール,マンホール,群生,開帳,朱印,良妻賢母,ミルフィーユ,(踏切),歩道橋,バス停,停留,ババロア,(食い込),コットン,オーガニック,ネイリスト,メイク崩れ,いたがゆ,オッズ,レバレッジ,助詞,金貨,言語学,文法,命運,概論,練習試合,ワセリン,コランダム,夜のしじま(静寂),ハウスマスター,モノクル,即席家族,収拾,あてられ(た),実直,教導,労をねぎら,見取り図,高砂,ガンマン,ピストル,ベースキャンプ,祭りのあと,あまじょっぱ,きくらげ,親分肌,姉御肌,出囃子,はみご,(あしからず),オープン,最後入院,テレビ 企画,伏魔殿,クリーンヒット,無神経,信頼関係,夫(妻)の理解,カミングアウト,メンタル(ヘルス),有機(の),デバフ,勝たん,徒歩(かち),八重歯,考えがある,持ち合わせ,視聴者(fanza),ざるをえ(得),所狭し,急成長,タイトルホルダー,見込み,見切り発車,滑り止め,皆様,お目汚し,シツレー,これにて,ラバー フェチ,タイムライン,原価,パン粉,ターニング,ベーグル,マフィン,スラット,スナッフ,カリカリ,急成長,(樽),ぷつっと,くさびを打,ヒーラー 悪役,打ち首,ぶつ切り,スパット,ドルチェ,カルティエ,ブルガリ,スムージー,週末,郷(さと),ひさご,ナメル,目出し帽,ドリップ,ドーリィ,御役御免,ケーブルカー,容体,陰性,東京進出,縮こま,交信,消臭,認識機能,まん毛,クリプト,テンガロン,嗅ぎ付,切り通し,渡り鳥,カヤック,リンクル,美貌,魔盾,もっこり,スカル,翡翠,デイジー,冷え性,痛車,(みずみずし),裏日本,いぶった,連れション,立ちション,しみしみ,ヴィヴァーチェ,立食,コールスロー,カシミール,コンチネンタル,道連れ,アロス,笑撃,安直,腰溜め,土壌,音楽シーン,血 ぴゅー,カルドゥッチ,ナリシング,ごにょごにょ,ごみごみょ,改正,初稿,強直,包囲(男性向け),(真っ只中),厚み,ロコモコ,アヒポキ,ホクホク,(葦簀),西日,放屁,むぐって/た,直売,ひさが笑,チェーマン,エトランゼ,マニ(教),ご意思,あからさま,心躍,こなれる/て,究極の歌姫,タイアップ,引きも切ら,ふーふー,猫舌,微動,デーツ,かしこぶ,篭手,かすり傷,爪楊枝,シンセサイザ,児童文学,ボーカロイド,直帰,急務,まっしぐら,家系図,秋の機械,バインバイン,コンバイン,モータウン,腐心,揺籃,ガラス張り,膣トレ,ナイトクラブ,ポールダンス,げんなり,経血,フェムゾーン,突破,ロイター板,舗装,懊悩,除霊,徐行,逃げ道,黙殺,・リーキ,どうらら,大喜利,レール,リニア,値札,上臈,キッチンカー,顆粒 ,なで肩,スプリング,トレパク,パクり,ひょっこり,重工,校歌,生まれてくる,ドリフ,審査,新芽,隠し部屋,丸刈り,ラブソング,泡切れ,虎の子,キックスケーター,敢行,野宿,エルドラド,段々畑,自他(とも),プレス機,加工物,ホッピー,もそろ,(飴)色,デミグラス,グレービー,グレープ,野火,スタンプ(ラリー),ラリー,崚,いってきます,社会勉強,蕗の薹,問屋,イントロ,ティーナ,出向(い),魂魄,(部)外秘,サルベージ,健康骨,腐葉土,遺留,慰留,二人三脚,かかと落とし,安食,パディトン,ドミグラス,マッシュ(ルーム),休職,ケルヒャー,ソイソース,ホットサンド,コーヒーフレッシュ,トロンボーン,類似,言い遺,民泊,ダクト,ドーラー,半地下,マナ,寄り目,シュラスコ,屋台骨,土性骨,すべすべ,ハメが外,火薬 花火,舞妓 化粧(が),バーニャカウダ,ヒジャブ,ジップライン,女性用,男性用,用兵,籠城,伏兵,輪切り,アク (漫画家)[括弧が先],復職,フルール,ペチュニア,無撚,造反,肌を合わ,淫蕩,手芸,tl漫画家,ラクシュミ,黄石公,解呪,夜職,高目,フェビアン,大公望,ザッピング,こういう時,反転攻勢,肌掛け,ドア越し,式典,マクロビ,それなり,プレスカード,身分証,当て込,折込,うってつけ,サンドバッグ,閉塞,葉巻,オスロ,フラッパーの(な),ならず者,しゃきっ,運命論,ギャング,盗んだ車,共同作業,・配信,バンラリース,別離,発喪,政変,ビタミンB1,眼精,天誅,天佑,孤立化,開かせ,年の頃,八つぁん,(ぐあい),ヴェルヴェット,悲嘆,勅許,へしこ,アクアリウム,開明,持ち上が,やってのけ,晦冥,それはあれ,手の者,正義マン,乾 いぬい,むろお,・あみだ(くじ),ドッジボール,鍼灸,板金,気流,手(もみ),壁紙,パンパス,debut,パンプス,ドレッサー,映画宣伝,誉れな,足蹴,司牧,鞠躬如,けん玉,(じゃらんぽん),デトックス,キンパラ,鼻につく,言い分,貫け,真作,ニス,姦婦,贋作,フェルメール,あんかけ ,キックボード,全容,のど飴,しゃあしゃあ,覆る/し,心臓な/だ,にゅうにゅう、にゅーにゅー,ドッキング,万華、華鏡,戒 法,受戒,(ことこと),お召し,パーキング,水あめ、水飴,じとじと,しれっと,ヘラ期,汽笛,(中長)期的,(唐揚げ),atm (年漫画),(ものまね)renta,ギャラ呑み, うんてい,水玉,肉まん,水油,天花粉,香油,持って数,叩き込,異物,改変,遺伝子 組,儚、果敢ない/く、はかない/く,物は言い,言い逃げ,嫌な打算,こわすぎrenta,口にす/し,マーシナリー,洗いざら,赤線,青線,節介,ディーゼル,(なんともでき),みなは,アストリンゼン,ケトン,ファルシオン,間取り,見取り,柑,ノープラン,しっくり,バイキング,グロッキー,シッカロール,勝負になら,せていただ,ツルツル,コーティング,bgm,効果音,バックグラウンド,(すけこまし),コケティッシュ,気落ち,あざと,さかいに,国防,カピカ,八重歯、犬歯、臼歯,薄幸,・旧師,白光,くんだり,とどま,素敵空間,宅浪,パッケージ,ツマミ,パッキング,サイバー,・5次元(の)女,アンティーク,独り者,ディスカウント,運航,水難,分際,間際,特長,テニサー,(蒸し蒸し),修正済み,こさめ,緩和,引き締め,逆さ吊り,おしおき,仕立て屋,見立て,備え,梁 柱,正座,未来志向,転倒,瞬発,奮発,実写,唱歌,トロフィー,ハンチング,・子分,古文,(のたれ死),恵まれ,この先,痛恨,失言,ビット,ピット,ショークラブ,ペシミス,まぐろ 漁船,世替わり,あがき,おぼれ,プリントシ-ル,余念,下まつげ,エクステ,唱和,・な校則,復縁,(掘り起こ),小窓,明り取り,のろけ 年漫画, Permalink | 記事への反応(2) | 12:17

2022-10-21

カントを調べていたら唯物論が出てきて青木雄二に繋がって、唯物論解説を1分でやってて凄いって岡田斗司夫が言ってる動画に辿りついた

2022-09-17

カント「おらぁっ!矛盾を孕めぇっ!」命題「い、いやぁああああ!」

アンチノミー「わ、わたしアンチノミーなっちゃううぅうぅぅっぅ……!!」

2022-08-16

トロッコ問題とはなんぞや?というお話

タイトル通りの内容について話していく。


日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかである

まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。


線路を走っていたトロッコ制御不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路分岐器のすぐ側にいた。

A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的見解けが問題にされている。あなた道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。


というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。


まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学問題である

倫理学はいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義存在する。

功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。

逆にカント主義では「他人目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。

ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである


くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義カントというドイツおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない


ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。

どっかの高校教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。

仮にも大卒教員問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前けが独り歩きして本質理解されていない例だと考えている。


ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調存在する。

トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。

トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義原理は同じなのだが、前者と後者人間善悪判断は変わってくる。それはなぜだろうか?


と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである

もし他人トロッコ問題を出すときは、トロッコだけではなく臓器問題も一緒に出題してはいかがだろうか?

2022-08-01

ペニスってペニスじゃないからね

どちらかといえばピーナツ

ほんとの発音ピーナスみたいな感じ

めっちゃピーナッツに聴こえる。

実際現地ではピーナツと言ったつもりの日本人勘違いされているらしいぞ!


追記

思いのほかトラバブクマあつまったな。みんなサンキュー

はぇードイツ語ではペニスなんやな。ありがとうまた無駄知識が増えたわ。

ドイツ語で思い出したけど、大学カントを学びましたって言ったらアメリカジン笑うらしいな。

2022-07-21

占いそこそこ好きな女によるヨッピー発言への感想

占星術オタクコンテンツ経由で興味を持って、

ネット上の無料コンテンツから

占星術に関する本を何冊か買ったりして、

占い師さんに見てもらったことも何度かあり、

一度だけ有料の教室にも行ってみた程度の占い好き。

派生としてタロットちょっと好き。

https://twitter.com/yoppymodel/status/1548848031826870272

ヨッピー氏の発言には特に賛同しないんだが

それ以上にこの話題で噴出する「占い」というものへのコメント群が

占い全然知らんし興味もない人がイメージで言ってるな〜」と思ってちょいイラッとしたので

自分から見た「占い」というものについて書く。

増田はどの程度の占い好きか

分かる人向けに書けば

ホロスコープの読解は自分や友人のネイタルを中心に何度か試したことがあるがアスペクトを絡めて読むのは難しく勉強中。

 トランジットにはあまり興味がなくて心理占星術関係に偏り」です。

わからん人向けに書くと入門書の内容を舐めた程度で占い実践としては素人

未来を知りたいとか隠された真実を知りたいとかいう願望はない。

友達自分のことを星を通して見て、キャッキャしてる程度。

なので以下間違ってる可能性は大いにあり、詳しい人から異論は歓迎です。


そもそも占星術ってなんなのか

朝の星座占いランキング代表される12星座占いというのは、その人の持つ「代表的な星座」だけを見ている占星術の簡易版に過ぎない。

国に例えれば、ある国を首相だけで評価しているイメージ

本来はその人が生まれ落ちた瞬間の惑星位置惑星同士の配置から読み取る。

占いなんて根拠なく適当言っているだけだろう、という人もいるが、

この「生まれた瞬間の星の配置」については誰が計算しても同じものが出る。

(※正確にはハウスの分割方法とか小惑星とか読み取り方に流派はあるけどめんどくさいか割愛

ゆえに、占星術とはみんなが同じ星の配置を見て、それをそれぞれが言語翻訳して伝えているものである

星の配置から何を読み取るか、というのも、ある程度セオリーがある。

たとえば月※や金星水星火星といった地球に近い星は、地球から見たとき位置の移り変わりが激しく、感情気質といったパーソナルなもの象徴として扱われる。

対して冥王星※※、海王星天王星といった遠い星は、移動する周期が数年〜数十年単位なので、例えば世相の変化や世代意識のようなより大きなもの象徴として扱われる。

そういったそれぞれの要素が、相互に影響したり、人生のどこかで強調されたりするのを、星の配置――位置や星同士の角度から読み解いていくのが、占星術といわれるものだ。

ネット無料占い範囲でも、少し詳しいサイトを見ればバーナム効果で片付けきれない結果を見ることができると思う。

(※占星術天動説世界なので太陽や月も「惑星」と呼ばれる。チ。)

(※※冥王星占星術世界では今のところまだ惑星いである。)

占い師によって言うこと違う問題

前述のとおり占星術とは「惑星それぞれが象徴するものと、その位置関係」を読み解き言葉翻訳して伝えるものだ。

そこには、図を見て言葉で伝えるような、翻訳段階のズレが生じる。

また、どの星を読み取るか?も個人資質に左右されるところだ。

恋愛運を見てください、といったとして、その占い師が「恋愛」が何から構成されていると考えているか、で伝え方は変わってくる。

例えば、

月は〜7歳までの象徴感情を司る、

水星は〜15歳までの象徴、(実用的な)知性を司る、

金星は〜25歳までの象徴感受性を司る、

……なんて言われ方をする。

では恋愛関係するのはどの星なのか?

あるいは火星(挑戦や戦闘象徴)が関係するのか?

それは、占い師恋愛というもの構成要素をどう考えているか、に左右されてしまう。

少し昔の本ならば、

女性にとっての男性の好みは火星

 男性にとっての女性の好みは金星に現れる」

なんて断言していた本も多かったが、

そういう一律な読み方を支持する占い師ももう少なくなっている気がする。

占い師適当を言ってるから結果がぶれるとは一概には言えない。

占い師の考え方自体が、「読み取り」「翻訳」に影響を与えるのだ。

よく話題に上る「朝の星占いランキング」も、

「運がいい」とは星がどういう配置にあることか?という占い師解釈によって順位が異なるから、結果が異なる。適当に並べているからでは、ないことのほうがおおいだろう。

(余談だが、少し占いをかじるとそのへんのアルゴリズムがなんとなく見えることがある。順位予測など可能である


「当たるか」「当たらないか」を気にするのは

ここまでつらつら書いたとおり、私の知る限り、占いとは「象徴の読解」という営みそのものである

なので占いに関して「当たる」「当たらない」という言い方自体個人的には違和感があったりする。

乱暴に言えば占いとは、

人の性格や世の中の動きといった、混沌として一概には言い切れない茫漠として掴みどころのないものを、

占星術様式に沿って分類し、その関係性を図に表されていると仮定し、それを解釈したもの

だと私は思う。


いやでも結局科学エビデンスはないんでしょ

とここまで説明されたところで、

そもそも星の位置が、人の性格だの世の中だの象徴してるわけなくね???

と思う人はいるだろう。

だってそう思う。

太陽も月も冥王星惑星で、地球宇宙の中心にあるという仮定で導き出された図が世の中の何かを「象徴」してるだなんて、

それが「科学的」に「正確」なわけはない。

けれど大昔の人たちはそう思ったのだ。大真面目に。

そして、世の中の物事を観察し、分類し、星星に振り分けて、関係を考え抜いてきた。

私にとって面白いのはその歴史である

「人の性格」とかい多面的ものを、占星術世界ではどのように分類してきたのか。

「世の中の動き」とかいう無数の歯車の噛み合った膨大な機械を、占星術はどのように分割してきたのか。

その、この世に向ける眼差しの果てない努力痕跡が私は好きだし、

それはときどき、現代の日々を生きる私のことを励ましてくれたりもするのだ。


北京の蝶がニューヨークで嵐を起こす、その間には無数の細かな歯車が噛み合っていることだろう。

カムチャツカの若者がきりんの夢を見たりする理由は、若者自身も知らないところにあるんだろう。

そういう、茫漠とした、人間個人では把握しきれない物事を、なんとか星に仮託して把握しようとするのを、馬鹿馬鹿しい振るまいとは私は思わない。

そういう「考えたってわからないこと」「人間の力では及ばないこと」を忘れ、目の前の物事だけに没頭して生きるのはあまりに荒涼としていないかと私は思う。

ヨッピー氏は七五三でお子さんの健康を願わないのだろうか。

結婚とき、「かみさま」に愛を誓わなかったのだろうか。

そういう、「向こう側」をみんなシャットアウトして生きるほうが、私には特殊に思える。

眼の前にいる人間だけを見て生きるのはいかにも息苦しい。

ときどき星を見るとかして、その中の一つとして自分位置づけられているのだとおもうくらい、正常な人間の営みではないかと、私は思う。



とはいえ占いゲートウェイオカルトでは?

なんかえらく感傷的な書き方になってしまった。

星の話をしてるから仕方ないな。ゆるしてほしい。

さて、ヨッピー氏の主張は

とはいえ占いみたいな非科学的なもの電波に乗せて、カルトへの忌避感を下げるのはどうなの?」

というところだと思うのだが、私はこれについては明確におかしくないか? と思う。

そもそも科学的な話」「論文などのエビデンスがある話」ならいいのかというと、

たとえば驚異の納豆パワー!血液サラサラ!だとか

ナントカカントカ成分で座っていても脂肪を燃焼!だとか

エビデンスとなりうる論文はあっても効果としては現実的ではない話」はいくらでも電波に乗っている。

あれらは健康食品詐欺ゲートウェイになっていないと言えるのか?

あるいは私は反ワクチン的な思考に全く賛同しないけれど、

彼らはおそらく自分たちのことを「科学的に」思考していると思っているのではないか

あるいは散々指摘されている「サウナでととのう」なんて明らかに医学的に警鐘が鳴らされてもいるが、「自律神経がととのう」とかいうよくわからんゴリ押しがなされているだろう。

そもそも科学」とは絶え間なく検証と訂正が繰り返されるものだが、

その大部分は電波に乗ることなく、どこかの商品に都合の良いところ、テレビ視聴率の取れそうなところだけが編集されつまみ食いみたいに放送されるのが現実だ。

でも、それがない放送大学オンリーみたいなテレビを望むかといえば望んでいないだろう。

私が何を言いたいかというと、

情報がどれほど科学的か」という点では、電波に乗っているものはさほどの差がないのだ。

結局我々はそれを選んで、検証し、学び、考え、実践して自分なりの判断力を養っていくしかない。

結局重要なのは自分で知り、考え、判断することであり、

すべての情報自分判断のための「材料」だと割り切ることだ。

それを放棄して、自分以外の誰かに判断を委ねきってしまったとき

その道の行く先にカルト詐欺が待っている…という点では

占いだろうが「科学」だろうが、少なくともテレビに乗っている情報という土俵においては変わらないのではないか




自分で考えること、専門家に任せること

……と締めようと思ったが、

カルトの怖いところは

自分で考えろ 自分で考えて私達と同じ結論になれ」なところだし

たとえば反ワクチンカルト宗教による輸血拒否だって当人たちにとっては自分で考えた結果なわけで

自分で考える」が絶対解決策とも思われないのが難しいところではある。


不安を煽って高額な金を出させる占い

価値観世間と断絶させて金を出させるカルト宗教は糞だが、

健康診断で医師不安を煽られないと運動不足の解消に向かうのは難しいし、

ならば医師になら全権委任していいかというとアカ医師ツイッターからいくらでも引っ張ってこれてしまう。

あるいは、飛行機が飛ぶ原理って科学的に立証されてないらしいよ……という情報の正誤を私は確かめられていないが、移動したいときはその判断をすべて棚上げにし、自分の命を航空会社委任して飛行機に乗る。



委ねるべきときはあるけど、その相手は見極めなければならない。

というなんとも煮えきらない結論で終わる。

2022-07-20

教養」とは何か

教養を身に付けられる本を教えて欲しい。

anond:20220720124155


この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。

ブクマトラバがもうそんな状態になりつつある)

しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。

ほぼ全員が「教養」と認めるであろう分野

(1) キリスト教

 これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。

ただ日本キリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)

個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。

なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。

(2) マルクス主義

 ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。

その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。

むかしは手に入りやすくてわかりやす入門書不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイ入門書お勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三著作は今でも分かりやすくてよい)

みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。

だいたいの人が「教養」と認めるであろう分野

(1) 歴史

 マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。

好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。

ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。

なお、第二次世界大戦については最近川田稔昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。

(2) 文学

 文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。

そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教知識がここで生きてくる。

日本小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本近代について一席ぶてるようにしておこう。

それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事

(3) 哲学

 わが国では哲学について昔からデカンショデカンショ半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルトカントショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。

ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。

どうせ正確な理解なんて無理なのだから適当アンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。

なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。

教養」として挙げる人が一定数いる分野

(1) 法律学

 「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。

上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。

下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹解説を読んで都度勉強すると良いだろう。

(2) 中国思想インド思想(仏教含む)

 ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。

こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。

ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛作業になるので、視野を広げて中国思想インド思想辺りに目を向けるのが良い。

個人的には森三樹三郎の著作が分かりやすくて良い。

(3) 自然科学

 「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。

自然科学話題になると、トーマスクーン科学革命構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。

ヨビノリをはじめとした学習コンテンツYouTubeに転がっているので、せめて高校数学物理ぐらいはやっておかないといけない。

人によっては「教養」として挙げる分野

(1) 詩

 上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。

論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。

幸いなことに最近詩人渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。

(2) 映画

 なんか知らんが「教養人」は映画好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。

イギリスエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。


 とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。

ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。

anond:20220720124155

教養考える力とセットや。ワイはカントラカン韓非子から老子和訳でいいか原典がいいぞ)、ファインマン自伝物理学も)やハイゼンベルグからラノベまで数万冊以上読んでるが、一冊あげろと言われたら(本当は一冊では足りないぞ)東大が昔教養学生向けに書いた「知の技法」が入り口としては使えるんちゃうかと思う。だまされたと思って買って読んでみ?あと大澤真幸の「社会学史」もコスパええかもしれん。ハラリやジャレドダイヤモンドみたいなのはやめとけ。MARCHレベルサラリーマンがありがたがるタイプの本や。あ、千葉雅也の「勉強哲学」は浅薄やし、入り口として変な癖つきそうだからやめとけ。堀江とか書いてる馬鹿もいるが、堀江(無教養の極みや)とか中田とかあんなので教養は身につかんぞ。

ついでに、本読まんやつは「○○入門」とか買いたがるがやめとけ。岩波文庫いいわけではないが、見る目ができるまでは岩波の青と緑と赤(帯の色)だけ買っておけばいい。そのうちわかってくる。

あと、資本論は読むと攻撃的になるから左翼ウィルスみたいなものがあるのかもしれんとか思ってるwマルクス思考実験として当時は面白かったやろが、貨幣の話も完全にフィクションやしもう読まんでええよ。

2022-07-12

舌ピを開けた、大学4回生

4回って言い方でわかる人もいるかもしれない。私は関西大学生だ。頭は良くないけど、そんなに後悔しない大学生活だった気がする。まだまだやりたいことあるしね。

本来なら舌ピなんて1回で開けて楽しんで就活を前に閉じるものかもしれないけど、私はやっと内定が出た直後に開けた。そこの会社に行くかはまだ迷っているけど、我慢できなかったので。

ピアス病院で開けた。ニードルかなと思ったらピアッサーで、少しずれてしまったけどまぁ満足してる。開けたのは先週土曜だから、そろそろ3日くらい。まだじんわり痛いし、違和感もある。舌を火傷した時や、口内炎が出来たような痛み。咀嚼すると痛みが強くなる。熱いものは駄目。辛いのとアルコール煙草は控えている。奥歯の方に押し込めるものは割と食べれる。スープ飲み物豆腐とかプリンは全く問題なし。茶碗蒸しが大活躍している。

両耳たぶは開いてるけど、他は開けてなかった。

耳は高校卒業式のその日に開けた。アマゾンで買った一番安いピアッサーで、その日に。高校校則が厳しくて、携帯持ち込み禁止、寄り道禁止、髪染めピアス禁止アルバイト禁止SNSアカウント作るの禁止、他にも色々禁止だった。校則に書いてあるだけとかじゃなくてほんとに先生に見つかったら指導されるレベルの厳しさだった。有名ではないけど幼稚園からある女子校からそんなものかもしれない。今となっては懐かしいけど、それは私が隠れてバイトSNSも寄り道もしていたからで、真面目に守っていたならきっと後悔していただろう。

一度無断で休んだ時は反省文を書かされた。学校へ行くくらいなら死のうと思ってホームドアのない電車を探していた時、行かなくてもいいんじゃないかと思った。先生や親も死ぬよりサボる方が嬉しいんじゃないかなんてやたら冷静に客観視してた。反省文を書きながらこれは何の反省なんだろうと思った、だって死ぬか行かないかの二択だったのに。

両耳のピアスは私としては早かったが世間的には遅いだろう。私はいつもそうだった。みんなより全部遅い。化粧を覚えたのも高校3年だった。

前髪を初めて作ったのもはたちになる少し前だ。高校生の時から散々ある方が可愛いだろうと言われていたし思っていたのに。

髪を初めて染めたのもはたちすぎてからしかインナーの一部で殆どからいくらい暗い青だった。でもそれがきっかけで色んな色をやった、インナーだけど。大学入って直ぐに染めてたらもっと色んな色が出来たのにとも思う。

次は全頭してみたいと思っている。遅いかもしれないけど、遅すぎはしないだろう。だって大学生だし。ぎりぎり。

いつも遅い。みんながやり始める頃にはそんなの興味無いとばかりに見ていて、後からやりたくなってもっと早くても良かったなと後悔する。そしたらもっと楽しめたのに。

でもそういう意識が強すぎて早まってしまうこともある。

成人した直後からワインを飲んでいる。家にカクテルセットがあるというと驚かれる、大学生では珍しいかもしれない。日本酒もすき、ジントニックもすき。クラフトビールもすき。そんな感じ。

幼少期に読んでた本は大抵大人びていた、気がする。少しだけ。英才のように文豪たちを読破したとかカントを読んだとかはない。今はキルケゴール死に至る病を買って、大学生だと言うのに意味が分からなくて呻いている。もしこれを読んだ方の中に哲学好きな方がいたら、あれを上手く読み解く為のコツとか解説書なんかを教えて欲しい。

閑話休題

遅いとか早いとか、そういうことは無意識に思ってしまう。早いうちに触れるのはいいことだ、何歳になっても遅いなんてことは無い。そうは言っても現実はその通りでは無い。

小説家イラストレーターになりたかった。学生のうちに仕事を受けられるようになっていなければそれで生計を立てるのは難しい。そもそもいちばん暇な大学生プロレベルまで出来なかったのは才能がないのだろう。能力ではない、やり続けるという才能が。

研究者になりたかった。小学生の頃の行きたい大学マサチューセッツだった。ちなみに今も昔も英語ができたことは無い。向き合う度に外国語は向いていないことをひしひしと感じる。

研究者に憧れがある、科学者数学者天文学者宇宙の真理やこの世の理、最先端技術、未知の可能性、人類進化魔法区別がつかなくなるまで発展する科学技術。無闇な憧れだ。論文も本も何も理解出来ず、どういうふうに系統だっているのかも分からない。でも憧れている。でももう遅い。私はサインコサインすら分からない。

頭がいい、と思っていた。昔は。人と会話することもある程度得意だ。

国語勉強しなくても偏差値が取れた。小学生漢検2級を取った(これは母の全力の献身によるものだ、私の努力ではない)。他の教科も聞いてたら何とかなった。でも中学2年くらいから授業を聞かなくなって、数学理科ががくんと落ちた。相変わらず国語トップ近くで、社会は本から得た知識でなんとかなって、英語は長文とリスニングで何とかした。文法からきしだった。

高校ではやれば出来るのにと言われ続けた。地頭は良いのにと。そうかもしれないと思っていた。そう思いたかった。

でもそうでは無いのだろう。

本を読んでも理解できないことが増えた。読み終わっても中身を忘れることが増えた。あんなに無限に読めると思っていた本を、もうしばらく最後まで読めたことは無い。難しくなったら駄目だった、ライトノベルは多分いまでもサクサク読める。

私は天才でも秀才でもなくて、やる気とかいう最大の生まれ持つ才能も持っていなくて、やる気がなくてもなんとかなる能力もなくて、全く興味の湧かない仕事内容の会社就職しようとしている。

昔はゲームなんて時間無駄だと本気で思っていた。それなら勉強した方が世界も広がって能力も高まって良いと。

勉強なんてもう何年もしていない。ソシャゲ毎日時間と毎月数万を使う立派なソシャカスだ。

ピアスタトゥーには憧れていた気がする。酒や煙草にも。アウトロー感のあるものには憧れがあって、でもテンプレートな安い人間にはなりたくなかった。でもなってしまった。

白衣を着て、日本でも有数の大学院で試験管を持ったり数式を書き散らしたり、ドイツ文学フランス文学を原文で読んで純粋理性批判について論文を書くような学生だったら、髪がペールブルーターコイズ二色で舌や唇にピアスが開いてて身体タトゥーが入ってたら最高にかっこよかったかもしれない。

そんな格好をしている美大生なんて山ほどいる。

そんな格好をしているバーアルバイトなんて山ほどいる。

そんな格好をしている鬱の社会不適合者なんて山ほどいる。

私がなりたかったものにはもう一生なれなくて、それでも表面だけで真似できるものだけ、努力しなくてもできるものだけ、真似している。

大学は楽しかった。散々文句を言ってやる気がなくてチャイムがなって数十分後に来てチャイムと同時に帰っていたけど、物を作るのは楽しかった気がする。ともだちもいる。そうそう人を友人と口に出せない私が友達だと確信を流石に持てるくらいには仲がいい、はず。

桜の咲く公園で夜にビールを飲んだり、宅飲みマリカしたり、自主休講して展示を見てパフェを食べたり、ナイトプールにいったり、ディズニーとユニバにいったり、覚えてもいないくらいたくさん話して笑ってた。最近は知り合いの家に酔った勢いで雀卓をアマゾンで買って送り付けてルール説明した。自分も分かってないのに。

彼らにとって大した思い出でもないかもしれないが、私にとっては一人では死んでも得られないそれらをくれた事に死ぬほど感謝している。

ずっと死にたいという思いはあって、でもその中にもう死んでも構わないというポジティブ希死念慮があることは間違いなく楽しかった大学生活のお陰だろう。いやなこともたくさんあった、アルバイトも大変だった。バイト先に警察が来たこともあった、これはいい経験だけど。人生経験できることはできるだけしておきたいので普通にその時も良かったなと思っていた、店からはたまったものじゃないだろうが。

そんな気持ちからバンジージャンプも行ったりした。単に絶叫好きなだけかもしれないが。ピアスもその一環かもしれない。開けなければどんな痛みかなんて知らない。舌ピ開いてるあのキャラクターとかも、開けた直後はポタージュとか豆腐とか食べてたのかな、と思うとちょっと面白い

シーシャも行った。今度葉巻もいく。

努力の要らないものばかり。ボランティアでもしてみれば良かったな。したい気持ちはあるけれど時間とか労力とかいきなりその日鬱になったらとか思うとなかなか出来ない。

習い事もしてみたかった。音楽からっきしだから何か楽器とか。バレエとかダンスかにも興味がある。踊るのはすきだ、振り付けは真似するのが苦手だから即興ばかり。音楽を流して踊り続けるのだけは得意だ、人に見せたことは一度もないけど。あとボルダリングとか、薙刀とか、色々やってみたかった。

そういう系だとサバゲーもある。これはサークルに思い切って入った。楽しかった。銃を買ったけれどコロナサークルが停止してそのままなくなってしまったので一度もフィールドで撃てなかった。いつか思いっきり撃ちたい。

スキースケートは好きだからフィギュアスケートもやってみたかった。ずっと憧れはあるけどスケートリンクが近くにあったことがないのでこれはしょうがない。

バイクにも乗ってみたい。一度後ろに乗せてもらって、免許取りたいといったけれど、結局バイクを持つのが大変なことやお金を考えて取っていない。

美容にはすぐお金を使ってしまう。というか費用対効果だ、時短になるならやっておきたい。二重はやった。脱毛はもうすぐ一回目がある。まつパもやりたい。レーシックもやりたいけどカラコンを入れなくなりそうだと思うとちょっと躊躇する、眼鏡も少し気に入っているので。外した方が可愛いけど。

少しでもかわいくなりたい。自分死ぬほどかわいくなくて、死ぬほど魅力がないのを知っているから、少しでもってなってしまう。

アイドルになりたかった。歌手でも俳優でもいい。最近ミュージカルがすきだからミュージカルにも憧れる。服のモデルもいい、写真撮られるのも色んな服を着るのもだいすきだ。

でも私は人前が苦手だ。頭で苦手だと思ったことはない、好きなアーティストライブにいっても、こんなにたくさんの人の前で歌ってこんなにたくさんの人に愛されるのはどれだけ快感だろうということを考えてしまう。

でも人前に出ると勝手身体が震えて、平衡感覚おかしくなって、喋れなくなる。大学の発表でもそうだ。上手く話せなくなる。頭は冷静だから対処はできるけど、身体勝手に震える。

人前というか知らない人と歌う機会があったことも少しあって、褒められたら嬉しかった。けど歌手アイドルになれるほどじゃない。顔も可愛くないし、ダンスも下手だ。自分では出来てるつもりでいても動画を見るとキレのなさに絶望する。これは本当に才能だと思う。

女の子アイドルゲームが出来ない。羨ましくなってしまうから男の子なら普通に推せてたまに羨ましくなるくらいだけど、同性だと近いから難しい。でもなりたいのは男の子アイドルだ、イケメンと一緒に可愛い女の子にキャーキャー言われるなんて最高じゃん、と思う。

先生になりたかった。人に物を教えるのはすきだ。上手い方だと思う、友人に教える時も。相手知識量や理解力に合わせて単語解説をいれ、分量を変え、分かりやすそうな例えを使う。フラット目線を持っているとも自負しているし、向いている気もしてる。先生と言うよりかはマンツーマン指導する方が向いているかもしれない。

でも一度家庭教師登録していて、仕事の話もあったけど、大学名で難色を示された。多分向こうの親御さんが文系理系学生がいいと言ったんだろうな、とぼんやり思った。同じ大学でも塾講師をしている子はいるので普通に学力があれば大丈夫なんだろう。私には教える力はあっても学力はない。でもやる気がなかったからこそやる気を出させたり、本を解説するのだけは本当に上手いと思うのだけど……まぁ、仕方ない。

他にもいろいろ夢はある。理想生活もたくさんある。でももう叶わない。分岐点はとっくの昔にある。

今できる楽しそうなことだけを積み重ねて、本は難しくて気力がない時には読めないかソシャゲの周回とTikTokをして、少しずつあの日高潔な私が死んでゆく。取り返しはもうつかない。じきに働かなきゃいけなくなる、働けるかは分からないけど。

せめてできる新しいことをしようと思って日記を書いた、ちょっと憧れていたから。ツイッターフォローしてる文章の上手い人のnoteが良かったから、ああいものを書きたいと思った。

私は承認欲求が強い。物凄く。いいねひとつ一喜一憂して、私より評価されている人全員が羨ましくて、なんとかいいねをしてくれそうな人に届いて欲しいけどそれを表に出せない。せめてタグをつけてRTをするくらいだ。

私は私の作品が好きでも、クオリティが低いことは知っていて、それでも好きだと言って欲しくて、でも他の有象無象の、私から見てあまりにも稚拙低俗作品といっしょくたにいいねされてると悲しくなる。こういうところが本当に性格が悪いと思う。けれど好悪はもう変えられないし、今更承認欲求も手放せない。昔は承認欲求なんてないと、どうでもいいと、むしろそれを持っている人になんでそんな感情を持つんだろうと疑問にすら思っていたのに、自分承認欲求があるとしたら全てが腑に落ちた。無いと思い込んでいても消せなかったものは、多分もう消えてはくれない。

私は自分底辺であることを知っていて、それでも結局どこかによく見られたいという願望が残っていて、ナルシストなところもあって、性格の悪さもあって、それがこの文章からも滲み出ていることが本当にいやで、でも取り繕うことすらしないのも嫌だからどうしようもない。

理想自分になりたかったと思いながら、今日自分ひとつ成長させてくれるはずの買い込んだ本をめくることすらできず、朝になった。

この文章最初からひたすら思いついたことを脱線するまま書いて、読み返しや修正もしていない。

どうせ誰にも刺さらないことを知っている。私の作品が好きですという感想匿名で貰ったことは一度もない。一度も。本の感想も。

最後まで読んでくれた人が数人でもいたら御の字だろう。

それでも誰かが読んでくれて、コメントをしてくれることを夢見ている。認めたくないけど、心のどこかであわよくばインフルエンサーとかがTwitter投稿したりして、バズって、はてな文学みたいな扱いを受けたりしないかななんて期待している。醜い。でもこの醜感情を抱えていたくないから書いてしまおう。心に秘めていたりツイッターでぼかしながら細切れに話してることを、全部思いのまま書きたくてこの文章を書いた。

何が刺さるんだと言われたら自分でも分からない。実力以上の評価が欲しい訳でもない。努力もしないくせに数字だけ貰えるなんてことはないと分かっていて、それでも楽なことの方がすきでそちらを選ぶ。趣味からなんて言い訳せずに絵の練習でもしていたら今頃もう少しましだっただろうか。漫画も描きたかった、漫画の方がバズるから表現媒体としても面白いネタを思いついても小説では書けないこともある。でも描こうとしても絵が下手すぎて結局再現は出来ない。

楽な方に楽な方に流れている。

今度はスクランパーとインダストリアルを開ける。

ひとつ開けたら憧れの気持ちが止まらなくなってしまった。人生で一回は開けておきたい、テンプレートに近づくとしても。死にたいとか鬱だ何だとかいっている言葉が、昔より軽くなりそうだ。ファッションが変わっても私の中身は何も変わらないのに。

楽な娯楽だ。努力しなくてできる変化、合法的自傷。腕を切ったことはない、痛いから。でも首を絞めることはある。いつか首を吊るためのシミュレーションのように。一度失敗したきりだけど、いつかはきっと死ぬだろう。寿命まで耐えられるとは思えない。

本当は耐えて欲しい。耐えられるくらいでいい、その程度でいいから、幸せになりたい。

普通の人になりたい。創作をする、私は天才だと思っている友人は、死にたいけれどその死にたさも自分から治らなくていいと言っていた。

私は幸せになりたいか心療内科に通った。意味あんまりないけれど。

これを書いている間もずっと舌が痛い。これが収まる頃にスクランパーとインダストリアルを開ける。思い切り食事ができるのはまだ先になりそうだ。

何度も終わらせようといい感じに結べそうな文を書いているのに書きたいことが溢れてしまう。

私は人に知って欲しいたちだ。なんでも、やったことや見たもの、感じたことや思想、なんでもすぐツイートしてしまう。勿論セーブはかなりしているけれど。そしてそのツイートを全部見て欲しいと思ってしまう。何故なら私は好きな人ツイートを全部見たいタイプから。ある程度好意を持っていたら何を喋っていたか知りたいかなんて当たり前だと思うけど、世の中では意外と少数派らしい。でも私の中ではそれが当たり前だからツイートを見ていないと言われる度にそんなに私に興味がないのかと傷つく。表には出さないようにしている、めんどくさいと思われるから。でもあえて出す時もある、相手が平気そうだったり、そういうキャラで私がやっていけそうなら。メンヘラちゃんキャラでいたら、少しだけ私の本音を言うことができる。

からひたすら書き連ねるのは楽で楽しくて、でと整理されてない文章なんて誰も読みたくないだろう。でも日記というか、書き散らしというか、日々の所感としてはこんなものかもしれない。

舌が痛いし眠くなってきた。多分何も無ければ無限に喋り続けられるだろう。自分の話をするのが好きだ、相手に知ってもらいたいから。好きな人のことはなんでも知りたい、血液型とか、健康診断の話になった時の視力とか、すぐメモってしまう。私の記憶力が悪すぎてメモっているだけで、覚えておきたいというだけなんだけど。締めに頭の中で用意しておいた文章ストックがもうない。前のを引っ張ってこよう。ちょっと書き換えて。

そうやって楽な方に楽な方に流れている。

今度はスクランパーとインダストリアルを開ける。お手軽な変化を得て、なんとかぎりぎり生きている。バイトの当欠も、説明会のキャンセルも、自主休講にしすぎな大学も、なんとかなってるとは言えないけど、取り敢えずまだ致命傷ではない。致命傷ではないけど、ゆるやかに死んでいくのだ。

きっと今の私は、昔の私が一番なりたくなかった姿だろう。働きたくないとか甘えるやつ、努力しないやつ、後回しにするやつ、遅刻するやつ、頭の悪いやつ、死にたい

2022-06-30

ホモ本質的ではない

異性愛者だと思っていたのに男の娘との兜合わせの絵を見て抜いている自分を見て思うわ。

ホモというのは本質的批判じゃないって思う。

要は女寄りの容姿でさえあれば腹筋割れてる女でも男の娘でもシーメールでもなんでもいいんだよな。

ホモってことをさらに突き詰めて考えればそれは生産性の無いセックスだということだよな。

それならヘテロでも避妊で性欲満たすためだけに楽しまれてるセックスはむしろ本質的ホモに通じると思う。

男の娘で抜いたりセックスしたりするのは、見た目が女の容姿である、というヘテロとの共通項と、非生産的セックスという共通項の重なりの中にある。

汚っさん化されたような男みたいな見た目の女(カントボーイの真逆みたいな)では勃ちもしないので、単に両性愛者と言われるのではしっくり来ないし、見た目が女という条件で興奮するかどうかが決まってきているのもある。

しろホモホモ自体において叩かれているというより生産性がないことについて叩かれているので、それならヘテロもそういうものであれば叩かなければならないと思う。

まあ結局二次元で抜いてる俺は叩かれる側の立場なんだけどさ。

2022-06-05

カントくんに会った。

好きかもって思ってたけどそのまま卒業して、社会人になった。

そしたらこの前急にLINEが来た。

会わないって言われて、昨日会ってきた。

カフェ映画レストランバー

という流れになった。全部彼が予約してた。

なんなのこれ?

全部奢ってくれたから着いて行ったけど、怖くなって帰ってきた。

はぁ。

急に来られると引くからやめてほしい。

2022-05-26

[] そのさんびゃくきゅう

カントウーッス

 

本日秋田の方では県民防災の日らしいです。

昭和58年のこの日に発生した日本海中部地震きっかけに制定されたそうです。

災害はいつどこで発生するかはわかんないですから

最近地震も増えましたし、時々備え等を確認ときましょうね。

 

ということで本日は【防災意識いか】でいきたいと思います

防災意識いか防災意識ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2022-05-20

レッスン代を封筒に入れる理由

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1194673826

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147004


人間性を単なる手段としてではなく、つねに目的として扱うように行為せよ。」

これがカントの打ち立てた道徳律である

その生徒さんにはそこら辺の意識が欠けている。

モノ(=物件)は単なる手段である私たちはわざわざ自動販売機にお礼を言ったりはしない。

しかし、人間手段であると同時に目的でもある。私たちコンビニお茶を買ったあと店員に礼を言うのはそのためである


同じように、あなた(先生)と生徒との関係は、ビジネス(=手段)であると同時に一人の尊重すべき人間同士(=目的)である

生徒はあなた(先生)を尊敬する。

あなたも同じ音楽を志す生徒を大事にして、真剣に教える。

かといって生活のためにはお金をもらわない訳にはいかない。これがレッスンにおける師弟関係である

その意味で、レッスンは単なるお金だけで結ばれた関係であると主張するその生徒さんは道徳的でない。

「謝礼」という言葉には、サービスの対価や報酬以上の意味を持つ、という含意がある。


レッスン代を封筒に入れるという問題は、まさにこのことに関連した美意識であると思う。

先述の通り、レッスンはビジネスであると同時に、いち人間同士の関係性でもある。

生徒は思う。尊敬する先生お金を直接渡すことは、お金で結ばれた関係を強調するという感じがして憚られる。

からといって生徒は、先生お金を払わない訳にはいかない。

したがって生徒は、そのあからさまな感じを避けるためにお金封筒に隠して渡す。

あなたテーブルの上のお金を隠したのもそういう理由による。


この美意識あくまで個々人が取り行うべき礼儀作法である

音楽業界にはそういう道徳的な決まりが暗黙の内にあるという、ただそれだけのことである

本来ならば生徒自らが身に着けるのがよろしい。

もし礼儀作法のなっていない生徒が来たら一蹴する。

レッスンが音楽家同士でされている内はそれで良かった。

しか最近では一般人がレッスンを受けることが広く普及してきた。

礼儀作法を知らない生徒が出てくるのは当然である

2022-05-16

演奏不可能作品

演奏不可能作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏不可能、あるいは困難な音楽作品のことである

概説

クラシック音楽世界では、演奏不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易無視できない存在となっている。巨大編成の作品演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。

現代ポピュラー音楽場合には、作曲家作詞家編曲家といった独立した職能存在するものの、作品演奏との一体性が強く、コンサートライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品コンサートライブにおいて生演奏する際には、自動演奏テープなどを用いてレコーディングされた作品再現するか、生演奏可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。

歴史

バロックから古典

歴史は長く、J.S.バッハの諸作品モーツァルトオペラフィガロの結婚魔笛ベートーヴェンピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。

ロマン派

ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルト魔王交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏不可能と宣告されたブルックナー交響曲第2番、ブラームスピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品マーラー交響曲ラフマニノフピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。

近代

近代ではストラヴィンスキー春の祭典シェーンベルクピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的作曲された例としてアイヴズの歌曲義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオ演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオ演奏する者もいる。ラフマニノフピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージ身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストテクニック不自由したピアニスト左手の音をずらして演奏することが慣例化している。

現代音楽

演奏不可能作品という概念現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能概念は、今日例えばパソコンシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から人間演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食強要していると言う点で事実上演奏不可能作品である

今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモスアルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例であるクセナキス自身テレビインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。

しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単作品人間演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である

ポピュラー音楽

前述の通りポピュラー音楽クラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。

特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞作曲 桑田佳祐アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏事実上不可能となっている。ソフトウェアマスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である

演奏史上で演奏困難とみなされた曲

作曲家演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさら作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのもの今日では演奏レコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。

ベートーヴェンピアノソナタ第29番(ハンマークラヴィアのための大ソナタ)

指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽大家作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストベートーヴェン交響曲ピアノの為に編曲したもの存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタ比較的易しい。

パガニーニ24の奇想曲

超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニ作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。

リスト超絶技巧練習曲第2版

タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲であるピアノパガニーニを目指したリスト代表曲である一般演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リスト超絶技巧極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーレスリーハワードが録音を残している。

チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲

演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品しか現在では、早熟ヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。

ドヴォルザークチェロ協奏曲

第一楽章オクターヴの速い動きで事実上演奏不可能作品である解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。

プロコフィエフピアノ協奏曲第4番(左手のための)

パウルヴィトゲンシュタイン委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフ最高傑作だ」と称え、ピアノ吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。

シェーンベルクヴァイオリン協奏曲 Op.36

十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイスクラスナー独奏ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲自身生演奏を聴いていないとされる。

フォルカー・ハインの「フェッロ・カント

1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエ作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会一般公開され、色々な同僚作曲家意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。

ケージフリーマンエチュード

チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキー意見対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。

関連項目

2022-05-04


     俺がカントの考えが重要だと感じた原因の一つには、幻覚妄想感覚異常が伴うという狭い意味での精神病的な状態になったことがあり、

       その記憶が残っていて、そのときの行動を恥じており、そのような状態に二度と陥りたくはないと思っているからってのもあったかもしれん。

         たとえば、人間知性的直観否定という考えは、精神病状態での啓示を受けた感じを警戒する態度によって腑に落ちる感じがしたのかもしれない。

      また、体系的な精神病的な妄想を警戒する態度があったからこそ、理性批判重要だと感じたのかもしれない。

       ただし、それらの態度が理解に貢献したかはわからない。

     カントの考えには精神科の薬みたいなところがあるのかもしれん。

      かつて自傷他害の恐れのある状態になったことのある人が、そうならないように薬をちゃんと飲んでいるように、

     カントの考えによって危険状態への警戒を強めるとか。

2022-04-29

つくたべ、ピントが毎話ずれ続けているよなぁ。もはや、何がずれてるのかも分からなくなってきたわ。

料理好きかつLGBT(Q)の当事者として、増田はもうヲチ目的じゃないと読めないよこの漫画

まぁ女性の苦しさだとかマイノリティへのナントカカントカだとかそういった思想主義・主張はもう好きにしていいよ。ただ料理への愛や情熱を感じられない描写、これはなんとか改善してくれ。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん