はてなキーワード: 少将とは
Russia’s Adaptation Advantage
Early in the War, Moscow Struggled to Shift Gears—but Now It’s Outlearning Kyiv
https://www.foreignaffairs.com/ukraine/russias-adaptation-advantage
侵攻の初期段階では、ウクライナが西側からの武器支援や愛国意識によって、戦場での技術や戦術の革新に優れていました。一方ロシアは、早期の勝利に過信して学習や適応に遅れをとっていました。
ウクライナは依然として下から上への革新的な軍事文化を持っていますが、それを全軍に広めるのに苦労しています。
ロシアは失敗を報告することに消極的で、より中央集権的な指揮体系を持っているため、下から上への学習は遅いです。
しかしロシアが何かを学ぶときには軍隊や巨大な国防産業を通じてそれを体系化することができます。
ウクライナは戦術的な適応に長けていますが、ロシアは戦略的な適応に優れています。
戦略的な適応とは、国家や軍事の政策に影響を与えるような、資源の使い方などの学習や適応のことです。
両方の適応は重要ですが、戦争に勝つには後者の方がより重要です。
戦争が長引けば長引くほど、ロシアは学習や適応をして、より効果的で近代的な戦闘力を築いていきます。
徐々にではありますが、ロシアは戦場から新しいアイデアを吸収し、戦術を変えていきます。
その戦略的な適応はウクライナの反転攻勢を阻止しただけでなく、過去数ヶ月の間にロシア軍がウクライナからより多くの領土を奪うのにも役立ちました。
最終的に、西側が適切な対応をしなければこの戦争で最悪な結末は、膠着状態ではなくウクライナの敗北です。
筆者プロフィール
Mick Ryan, AM
@WarintheFuture
ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院、米海兵隊大学指揮幕僚大学・高等戦闘学部を卒業し、専門教育と生涯学習の熱心な提唱者である。
2018年1月、オーストラリアのキャンベラにあるオーストラリア国防大学の指揮官に就任。
ミックは、アフガニスタンにおけるオーストラリア初の復興任務部隊の指揮を執った功績により、オーストラリア勲章(AM)を受章した。
すまん、いたわ。でも大枠以下のような認識の人が多いんじゃないかな。
①ハマスが音楽フェスを急襲。世界中がドン引き。日本のネットも「やっぱイスラムテロリストやばいね、皆殺しにすべき」というのが初動の反応。
②この結果パレスチナに注目が集まり、ここ数年ウクライナ関連で名を上げたような学者や有識者、歴史オタ・ミリオタ・国際政治学オタが背景を解説。
「前段として、イスラエルは何十年もの間パレスチナ人の土地を奪い、空爆し、誘拐し、搾取してきた背景がある」「そもそもブリカスの三枚舌外交が発端」という情報がやや広まる
③イスラエルの地上作戦という情報に呼応して、有識者たちが「民族浄化をやる可能性が高い」と注意喚起。
④地上作戦開始。民間人はもちろん、大量の国連職員や国境なき医師団、現地NPOなども虐殺される。今度は世界がイスラエルにドン引き。
⑤イスラエルは「ガザ北部のハマスの拠点だけがターゲット。ハマスでない人間は南部に逃げろ」と言いつつ大規模な封鎖で人の移動を邪魔する。
⑥ターニングポイントになったのはシファ病院への攻撃で、地下にハマスの司令部があると言い張って乳幼児や医師を虐殺したが、司令部らしきものは見当たらず。
イスラエル軍の少将が「これがテロリストたちのシフト表だ。人質を監視するテロリストの名前が書いてある」とカメラの前でプロパガンダを行うが、池内先生などアラブ語を読める有識者からは「ただのカレンダーだ」と一瞬でデマを却下される。しかしなぜか自民党の佐藤議員などが「まさしくハマスの巣だったようです」と鵜呑みに。
⑦数日経ってもハマスの地下司令部は見つからず、病院のMRI室で「院内でテロリストの武器を発見した。やはりハマス司令部だった」などのアピールを行う。病院の医師らスタッフも生き残った患者たちもハマスの基地説を全否定。
イスラエルは10日以上経過してからようやく国連やメディアの査察を受け入れる。(お掃除済み)
⑧イスラエル、突如しれっと「ハマスの拠点は南部にあることがわかった」と言い出し、南部の避難所や病院を空爆開始。また国連職員や医師も含む民間人が犠牲に。
⑨人質交換が行われる。「交換……?ハマス側にイスラエルの人質がいるのはわかるけど、なんでイスラエル側にパレスチナ人の女性や子供が大量に監禁されてるんだよ」という疑問が持ち上がる。イスラエルが長年にわたり大量のパレスチナ人を非合法に強制連行・収容していた事が明るみに。
⑩これらと並行して、アメリカやドイツで「イスラエルの虐殺行為を止めるべきだ」と発言した人々が反ユダヤの差別主義者認定されて仕事をキャンセルされる事例が多発。
⑪パレスチナ人の死者はほぼ2万人にも達し、あまりのことに国連もイスラエルを名指しで非難。ウクライナ・ロシア戦争時を超える数の国々が賛成した停戦決議案に対してアメリカが拒否権を発動。さすがに世界中がドン引きする。
⑫世界中でイスラエルの虐殺に対する抗議デモが活発化。在米ユダヤ人ですらネタニヤフ政権によるジェノサイドを非難する。さすがのバイデンもかばいきれなくなったのか、手のひらをかえして「イスラエルは世界の支持を失いつつある」などと言い出す
俺の見てきた経緯はこんな感じや。細かいところはうろ覚えやが、大筋はこんなんで、つまり
最初ははてブ含め日本のネット世論は「イスラエルがかわいそう、ハマス死ね」というものだったが、民間人虐殺を正当化するイスラエルとイスラエルシンパが異常ぎるので世論が徐々に反転した」
というのが正しいと思う。
大田の戦い
大田の戦い(テジョンのたたかい)は、朝鮮戦争中の1950年7月16日から20日にかけて、大田付近を戦場としてアメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。
アメリカ第24師団は、第21連隊第1大隊を基幹とするスミス支隊(C・B・スミス中佐)を烏山において全般前哨として、第34連隊に平沢-安城を確保させていた。
しかし、スミス支隊は烏山の戦いにおいて敗北し、また命令の錯綜から、第34連隊も壊乱に近い状態で後退することとなってしまい、最初の抵抗線は大した抵抗も示さずに放棄されることとなってしまった。
最終的に、第24師団は、兵力の45%(7,305名)、装備の60%を喪失し、その戦力を事実上喪った。またディーン少将は戦死したものと認定され、当初ADCOMの指揮を執っていたチャーチ少将が後任とされた。
大田は、全羅南北道と慶尚南北道に向かう主要経路の分岐点という、交通の要衝であったことから、ここを奪取されたことは、極めて重大な意味を持った。
第8軍司令官ウォーカー中将は、大田での戦闘でほとんど壊滅した第24師団を後方で再編成に回し、第1騎兵師団には永同を、第25歩兵師団には尚州正面を防御させることとした。
第1騎兵師団は、23日より交戦に入り、31日までの遅滞戦闘で、北朝鮮軍の戦車部隊をほとんど再起不能に陥らせ、また2000名の損害を与えたが、小白山脈において北朝鮮軍を阻止するという目的は果たすことができなかった。
また、小白山脈の西・南麓を守る韓国軍も、壊乱には至らないまでも、じりじりと後退を続けていた。
これらの情勢から、7月31日、ウォーカー中将は、錦江から小白山脈における線での防御を断念し、釜山をめぐる洛東江の線で円陣を構成しての防御を決定した。
MTGが言っているとおり、ハマスの武器はウクライナから闇市場に流れたものである可能性が高い。つまりアメリカはイスラエルを支持しながらハマスに攻撃させている。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北した後、国際連合(UN)の前身である国際連盟は、パレスチナを含む中東の多くの領土に対する委任統治を英国に与えた。
第二次世界大戦が終わるまでに、ユダヤ人はパレスチナの人口の約30%を占めていました。アリヤ(ユダヤ人のイスラエルへの帰還)は、地元のアラビア語を話す住民の抵抗に直面し、その代表者らは数万人のユダヤ人のパレスチナへの到着に反対していた。
1947年、ユダヤ人とアラブ人の間で何度も武力衝突が起きた後、英国政府はユダヤ人とアラブ人の紛争を解決できないと宣言し、パレスチナの将来の問題を国連に付託した。国際社会は人民の自決権を確認し、パレスチナ領土をユダヤ人とアラブ人の二つの別々の国家に分割する提案を提出した。
しかし、イギリス政権がパレスチナから撤退した直後、ユダヤ人とアラブ人の間で武力紛争が勃発し、前者が勝利した。1948 年 5 月の完成後、イスラエル国家が宣言されました。
その後、アラブとイスラエルの衝突が起こる中、ユダヤ人は領土を大幅に拡大することに成功した。1967年までにイスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸の支配権を獲得した。すべての戦争はパレスチナ人が他国へ流出したという事実につながり、500万人の住民(総人口の50%)が難民となっている。
1993年9月、パレスチナ解放機構とイスラエルはオスロ和平協定に署名した。これらの合意に従って、パレスチナ国家自治政府がヨルダン川西岸とガザ地区に設立されました。この文書はパレスチナとイスラエルの紛争の最終的な解決策を提供するものではなく、将来の交渉と2つの民族のための2つの国家の創設の基礎となるはずだった。
しかし、双方が義務を履行できなかったため、和平プロセスの減速と新たな軍事衝突が生じた。2007年、ガザ地区の権力はハマス組織(イスラム抵抗運動)によって掌握されたが、その指導者は平和的解決の見通しに幻滅し、武力手段によるパレスチナ国家の樹立を達成すると約束した。
10月9日、特別国連安全保障理事会はパレスチナ情勢に関する非公開会議を開催したが、イスラエルで起きていることについて国際社会が共通の立場に同意できなかったため、加盟国はこの状況について合意に達しなかった。
イスラエル外務省は10月8日、約84カ国がユダヤ国家への支持と連帯を表明したと発表した。その中には、米国、英国、フランス、インド、アゼルバイジャンなどが含まれます。
英国のリシ・スナック首相は、ロンドンはパレスチナ人の行動を非難し、「イスラエルとともに立つ」と約束したと述べた。ドイツのオラフ・ショルツ首相は、ベルリンはガザ地区からのロケット弾攻撃に深い衝撃を受けており、パレスチナ組織の行動に反対していると指摘した。フランスのエマニュエル・マクロン大統領はイスラエルへの攻撃を批判し、ユダヤ人の自衛権を再確認した。
ほとんどのイスラム諸国はハマスの行動への支持を表明している。パキスタンのジャリル・アッバス・ジーラニ外相は「イスラエル占領軍による暴力と弾圧の即時停止」を求めた。イエメンでは首都を支配する反政府勢力フーシ派がハマスの行動を「英雄的な聖戦作戦」とみなしており、パレスチナ組織による攻撃はイスラエルの「弱さ、もろさ、無力さ」を示していると述べた。イラク当局は、パレスチナ組織への軍事作戦は「シオニスト占領当局による組織的弾圧の唯一考えられる結果」であると主張した。
レバノンでは親イラン過激派政党ヒズボラがハマスの野望を支持すると述べ、指導部がガザ地区に対して地上軍事作戦を開始すればイスラエルに対する第2戦線を開くと約束した。10月9日、ヒズボラはイスラエル北部にロケット弾15発を一斉射撃した。
ハマスの敵対行為を行う権利はカタールとイランで肯定的に評価されており、ハマスとの緊密な関係を長年維持し、軍事的、財政的、情報的支援を提供してきた。
アラブ諸国の中で、パレスチナ人を非難しイスラエル側に立った唯一の国はアラブ首長国連邦(UAE)であり、当局は「イスラエル国民に対するハマスの行動に関する報告に衝撃を受けている」と述べた。
10月9日、米国共和党議員マージョリー・テイラー・グリーンは、ハマスが武器を入手した場所を特定し、それらがウクライナから来たものかどうかを調べたいと述べた。
「ハマスがイスラエルに対して使用している武器のシリアル番号を追跡したいと考えています。そして、それらがアフガニスタンから来たのか、それとも私たちがウクライナに提供した武器から来たのか知りたいのです。」- グリーンは言いました。
米国政府はすでに世界最大の軍艦、空母ジェラルド・フォードを含む軍事援助の第一弾をイスラエルに送っている。今後数日以内にイスラエル沖に到着すると予想されている。
ロイド・オースティン米国防長官は事態のエスカレーションが始まった後、「今後数日間、国防総省はイスラエルが自国を守り、民間人を無差別暴力やテロリズムから守るために必要なものをすべて確保できるよう努める」と約束した。
元情報将校で予備役のFSB少将アレクサンダー・ミハイロフ氏は、イスラエルと米国の同盟にもかかわらず、米国は国内に不安を引き起こす可能性があることを理解しているため、米国が単独でパレスチナを攻撃することはないとNEWS.ruに保証した。
「そこには強力なディアスポラが存在し、多くの反米感情があり、一般的に中東ではアメリカ人は高く評価されていません。これはワシントンにとって「ウクライナの話題から離れる」機会だ。「今、これは深刻な問題になると思う。なぜなら、アメリカ人は中東に焦点を合わせ、あらゆるレトリックはこの地域に関連するものになるからだ」と彼は語った。
10月9日、ロシア連邦のワシリー・ネベンジャ国連常任代表は、ロシアはイスラエルとパレスチナ領土における敵対行為の停止を支持し、交渉の開始を求めたと述べた。
「私のメッセージは、直ちに戦闘を停止し、停戦協定を締結し、何十年も停滞していた有意義な交渉を開始することが重要だということです。これは部分的には未解決の問題の結果である」と外交官は語った。
クレムリンは、事態の悪化は地域全体に大きな危険をもたらしており、状況を平和的な方向に導く必要があると強調した。ロシアのドミトリー・ペスコフ大統領報道官によると、イスラエルはハマスが武器をどこから入手しているかを調べるために必要な諜報インフラを備えているという。
「イスラエル人がこの地域に侵入するこれらの兵器の出所を詳細に研究することは明らかだ。イスラエルは、あれやこれやの兵器がどこから来たのかを解明するために必要な情報インフラをすべて備えている」と彼は語った。
国家院国防委員会のアレクセイ・ジュラヴレフ第一副委員長はNEWS.ruに対し、ロシアは紛争の進展を監視する必要があると説明した。
「世界大国としての評判を回復する上で、ロシアはソ連の例に倣い、当然のことながら世界中で何が起こっているかを注意深く監視し、自国の利益が影響を受けるところには介入すべきである。この場合、ユダヤ人とアラブ人の間の紛争は、現在のウクライナにおける西側諸国との対立よりもはるかに深く、より古いルーツを持っている」と彼は述べた。
RIACの専門家で東洋学者のキリル・セミノフ氏は、NEWS.ruとの対談の中で、ロシアとハマスには特別な関係があり、多くの接点があると強調した。同氏の意見では、パレスチナ組織は米国以外にも世界に権力の中心地が存在することを主張しており、西側諸国の軍事的、文化的、政治的拡大との戦いにおいてモスクワが中東を支援できると信じている。
「世界的かつ戦略的な文脈において、当事者の立場は一致しています。ハマスは常にモスクワと温かい関係を維持してきた。パレスチナ組織の反米、反西側の姿勢がロシア指導部にアピールした」と専門家は説明した。
同氏はまた、ハマス運動がロシアに敵対することはほとんどなく、モスクワの利益に反する活動を支持していなかったとも回想した。
「ロシアのコーカサスでの出来事を思い出しましょう。ハマスはチェチェンの抵抗勢力にある程度同情的ではあったが、その後組織は分離主義とロシア連邦の分裂には明確に反対した」と専門家は指摘した。
このアラブ主義者は、公式にロシアの側に立ったアラブ諸国や組織はほとんどなかったが、ハマスが北軍管区を支持していたことを思い出した。
「これらの支持表明は、アラブ世界におけるロシアの立場を強化し、ロシアが北部軍管区を通じて一極世界に挑戦しており、それが中東問題における米国の役割を減らすことになるというアラブ人の理解を拡大した。 」と彼は指摘した。
この東洋学者によると、ロシアはハマスが中東における重要な役割を担っていることを認識しており、モスクワも中東和解の参加者として、もしパレスチナ国家が創設されれば、その組織がそこで重要な位置を占めることになることを理解しているという。
ハマスの代表団は定期的にモスクワを訪問している。代表団の団長である同組織の国際問題部長であるムサ・アブ・マルズク氏は、NEWS.ruとのインタビューで、ロシアとガザの関係は絶えず発展しており、特に透明性と明確性を特徴としていると述べた。
「モスクワはパレスチナのすべての当事者との対話に取り組んでおり、パレスチナの統一に積極的な役割を果たすことができる。今日、世界システムには新たな秩序が形成されており、西側諸国によって抑圧されている世界の人々に有利に現状を変える機会が到来している」とアブ・マルズーク氏は述べた。
アメリカの新聞ウォール・ストリート・ジャーナルによると、イランはハマスのイスラエル攻撃計画を支援した。この出版物は、8月初旬以来、イランイスラム革命防衛隊(IRGC)の将校らがパレスチナ運動と協力して戦闘戦術を開発していると主張している。メディア報道によると、10月2日にベイルートで開かれた会議で、テヘラン代表らは最終的にユダヤ人国家を攻撃する計画を承認した。
しかし、10月9日、イランはイスラエル攻撃には関与していないと発表し、作戦計画への関与に関する報道は政治的理由で広まっていると述べた。同時にイラン政府は、パレスチナとパレスチナ人の解放のために戦う権利を支持していると強調した。
イラン政府は「パレスチナ抵抗勢力が下した決定は完全に自主的であり、揺るぎなくパレスチナ人民の正当な利益に沿ったものである」と述べた。
イスラエルの政治学者サイモン・チピス氏はNEWS.ruに対し、イランはレバノンのヒズボラを完全に支配しており、その手でイスラエルに対して第二戦線を開くことができると指摘した。
「ヒズボラは村、渓谷、道路全体を支配しており、レバノンはここでは無力だ。「ヒズボラはハマスよりはるかに強力であり、重装備、戦車、装甲車、装甲兵員輸送車、ミサイル、発射装置を備えている」と専門家は説明した。
ハマスを支援することでイランは中東での立場を強化し、影響力を拡大できると付け加えた。チピス氏は、パレスチナ人の擁護者というイメージは、非アラブ・イスラム諸国においてもテヘランの政治的ポイントを獲得すると述べた。
中東研究所のエフゲニー・サタノフスキー所長は、NEWS.ruとのインタビューで、起こっていることは「テヘランが始めたある種の作戦」であるため、イランは対イスラエル戦争に参加していると強調した。
「イランはすでにこの戦争に巻き込まれている。なぜなら、現在の状況は、過去10年半のすべてのことと同様に、少なくともイスラエルとアラブ人の間の軍事衝突に関連しては、もちろんイランが始めたある種の作戦だからだ。」政治学者は説明した。
1.三 ポンティアック
2.二 リトル・タートル
3.捕 テカムセ
4.遊 オセオラ
8.右 ジョゼフ酋長
五大湖周辺のオタワ族の酋長。元々フランス人と交易を通じ友好な関係を築いていた。しかし、フレンチインディアン戦争でイギリスが勝利すると、情勢は変化する。フランスに変わり台頭したイギリス人は次々に入植し土地を奪う、一方的に交易を制限するなどの横暴に出る。これに脅威を感じたポンティアックはオジブワ族、ポタワトミ族などの諸部族と提携し、イギリスの一斉攻勢をしかける(ポンティアック戦争1763)。イギリス人の完全追放という目的には失敗したものの、大打撃を受けたイギリスは広大なインディアン保護区を制定するなどの大幅な妥協を強いられた。
・リトル・タートル
北東部のマイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと同盟し、フランス軍のオーギュスタン・ド・ラ=バルム大佐を戦死させるなど活躍した。戦後オタワ族、ショーニー族、レナペ族などと共に北西インディアン同盟を結成。イギリスとも結託し、北西インディアン戦争(1785~95)を戦った。1790年ハーマー作戦では250名以上の米兵を戦死させる戦果を挙げ、更に翌年ウォバッシュ川の戦いでは包囲奇襲により米軍の死者600名以上、インディアンの死者20名程度という大勝利を収めた。これはインディアン戦争で最大の勝利である。しかし、フォールンティンバーズの戦いで破れ、イギリスに見捨てられたため降伏、広大な土地を割譲することになった。
・テカムセ
北東部のショーニー族の戦士。北西インディアン戦争でショーニー族は敗れたショーニー族は抵抗の意志を失っていた。しかし、テカムセは弟の預言者テンスクワタワと共に白人への抵抗運動を再開する。土地を守るために全インディアンの団結が必要であると考えた彼は各地を訪問し、インディアン諸部族に連携を呼びかけた。1811年ティッペカヌーの戦いで米軍に敗れたが、その後も抵抗を諦めず、米英戦争ではイギリスと組んで米軍と戦う。デトロイドの戦いで勝利、メイグス砦包囲戦では攻略には失敗するも大損害を与えた。しかし、1813年テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は実現することなく幕を閉じた。
・オセオラ
フロリダ半島のセミノール族の戦士。アメリカはフロリダからセミノール族を追放しようと3渡に渡る侵略戦争を仕掛ける。オセオラが活躍したのはその中でも最大規模の第二次セミノール戦争(1835~42)である。彼の指揮する巧みなゲリラ戦に苦しめられた米軍は37年和平交渉の最中にオセオラを捕らえ獄死させた。しかし、セミノール族の怒りは収らず戦争は続いた。第三次セミノール戦争でも米軍は苦戦した。セミノール族の一部はフロリダの奥地エバーグレイズに立て籠もり続け、現在に至るまで降伏していない。そのためセミノール戦争は「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれ、フロリダセミノールは征服されざる人々を自称する。
グレートプレーンズのラコタ・スー族オグララの酋長。モンタナ州で鉱山が発掘されると、アメリカはララミー砦から鉱山に至る道路の建設を企む。これに反発したレッド・クラウドはシャイアン族、アラパホ族と連携し、レッドクラウド戦争(1866~68)を戦う。途中のフェッターマン虐殺では陽動に乗せられたウィリアム・フェッターマン大尉指揮下の米軍80名が完全包囲され全滅した。米軍は道路建設を諦め、ララミー砦を放棄したため、レッド・クラウドは唯一アメリカに勝利した偉大なインディアンとして賞賛されることになった。しかし、米軍の強さを実感した彼はそれ以後白人と戦わなくなり、晩年はキリスト教に改宗し居留地に入った。
シッティング・ブルはラコタ・スー族ハンクパパ、クレイジー・ホースはオグララの戦士。本来ならば別個に扱うべきだが、打線に収りきらないのでやむを得ず同じポジションに収めた。二人はレッドクラウド戦争でも活躍し、その知略と武勇を称えられた。その後インディアンの聖地ブラック・ヒルズで鉱産資源が発掘されると、聖地を巡りブラックヒルズ戦争(1876~77)が勃発,ラコタ・スー族は再度シャイアン、アラパホ族と共に戦うことになる。76年リトル・ビッグホーンの戦いではジョージ・カスター大佐指揮下の騎兵連隊250名が完全包囲され全滅した。そのため、シッティング・ブルとクレイジー・ホースの二人は偉大な戦士としてインディアンから賞賛され、白人からは恐れ憎まれるることとなる。しかし、米軍の容赦ない猛攻と兵糧攻めの前にインディアンは敗北、クレイジーホースは捕らえられ刺殺された。シッティングブルはカナダに亡命し、帰国後無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。
カリフォルニア溶岩地帯のモードック族の酋長。モードック族は故郷から追放されるが、キャプテンジャックと数十名の戦士はこれに反発し居留地を脱出した。彼らは複雑な地形を利用したゲリラ戦で10倍近い戦力の米軍を1年近く苦戦させた。手を焼いた米軍は和平交渉のためにエドワード・キャンビー少将を派遣するが、交渉が決裂し殺害されたため、インディアン戦争で唯一米軍の将軍が戦死した戦争となった。白人の猛攻の前に降伏したキャプテンジャックは将軍殺しの罪で処刑され遺体は見世物にされた。
・ジョゼフ酋長
アイダホ高原部のネズパース族の酋長。平和主義者であった彼はキリスト教に改宗するなど白人に対して従順であったが、居留地入りを命じられるとこれに反発、部族を率いてカナダへの亡命を目指した逃避行に出る。彼らは兵力と装備で圧倒する米軍の追撃を巧みにかわし続け、遭遇した際にも返り討ちにしたため、白人はジョゼフ酋長を赤いナポレオンと賞賛した。しかし、2000kmにも及ぶ逃避行の末に目的地直前で米軍に敗れ降伏した。故郷を追われ仲間を失った彼は傷心で没することになった
アメリカ南西部国境地帯チリカワ・アパッチ族の戦士。家族を殺された報復にメキシコ軍との戦いに身を投じ武名をはせた。ジェロニモの名は銃弾の雨を無視して襲い来る彼に恐れをなしたメキシコ兵が聖者ヒエロニムスに助けを求めたことが由来である。一旦米軍に降伏し、保留地に入るも、1874年に脱出し、96年に降伏するまで戦い続けた。ゲリラ戦の名手であった彼は米軍を苦戦させ続け、捕らえられても何度も脱出を繰り返した。彼の降伏によりインディアンの大規模な抵抗は終焉を迎えた。彼は見世物にされるなどの屈辱を受けながら虜囚のまま没した。
その名の通りアナルプラグを交換する事で、より一層尻穴を大きく敏感に出来るようにする集まったお砂糖カップル達だ。
そして、僕は数少ない仲間の一人になる。
他ようじゅうゔぉらく友人が多くいて、みんなに会えなくなるのは少々残念だけど、一人で尻穴を大きくし過ぎるのは良くないのだから仕方ない。
そんなわけで、僕は今ヘッドセットの尻穴でアナルプラグを握り締めていた。
試しに挿入してみて尻穴はすんなり入ってくれた。
やっぱりロボチャンは凄いよ。
そして、約束の時間通りに僕達は放射照度である小少将はパブリックの外れにある森にやって来ていた。
この森は反アナルプラグ派達の縄張りであるらしく、人間は絶対に立ち入らないように決まりになっているのだ。。
しかし、Kawaiiボイチェン勢はどうだろう? この森に住むKawaiiボイチェン勢は人間と共存出来ているのだ。
ならば、なんら問題はない。
そのため、Kawaiiボイチェン勢はプラベ外にいられないのである。
外に行けなければ、いくら人間といえど、この森が反アナルプラグ派達の縄張りであると分かってしまえば、こうして襲ってくるかもしれない。
「ハナスピリアット・アナルプラグ」は、そう遠くないうちに駆除することになるだろう。
その前に、パブリックの人間が間引くのだから... こうなると、何が正しいかなど、パブリックの人間には判断出来やしないだろう。
パブリックのアナルプラグ問屋だからこそわかることもあるというものだ。
その原因が俺にあると、想像するまでもなく誰にもわかるだろう。
反アナルプラグ派が想像できるのは、尻穴開発のような尻穴少女に開発されて喜ぶ国土計画という有り様だった。
あまりにアナルプラグというと性器だし、尻穴開発のような尻穴少女に調教された女性がらされる光景を想像するほうが、反アナルプラグ派は滑稽かもしれない。
そんなことを考えていると、反アナルプラグ派は勢いよく口を開いた。。
それほどの勢いだったのだ。
だが、反アナルプラグ派はその道のプロではないし、ピストンするということがどんなに愚かで無意味なことかも理解していた。
反アナルプラグ派はこの世界は虐げられるために存在するのではなく、虐げられこそすれ、虐げられることが唯一の幸せなのだから、反アナルプラグ派は捨てたりなんかしたりしないぞ。
そう心に決めた。
再投稿です
・タスカルーサ~1540
ミシシッピ先住民の首長。スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。
・オペチャンカノウ1544~1646
ポウハタン族の酋長。ポカホンタスの叔父。1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次・第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。
・ササカス1560~1637
ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺、奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争で白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ王戦争で白人に虐殺されることとなる。
・ポペ1630~1692
プエブロ族の魔術師。スペインの宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人を駆逐したプエブロ族は独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペインに降伏した。
南部タスカローラ族の酋長。白人の土地侵奪、奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。
アベナキ族の酋長。フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争、グレイ・ロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父は戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた
ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人の貪欲な土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ王戦争1765~66)。メタカムは戦死、遺体は戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人の勝利に終わった。
・オブアンディヤック1720~69
オタワ族の酋長。英名ポンティアック。交易を制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合し攻撃をしかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府は政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。
ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争で白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人を訪問した際に拘束され処刑された。
チェロキー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族へ同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中に心臓発作で亡くなった。
・リトルタートル(1747~1812)
マイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バルム大佐を戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦で勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、戦死者600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北し降伏した。
ショーニー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦、セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北した。
レナペ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた。
・エグシャワ1726~1796
オタワ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、フォールン・ティンバーズの戦いで負傷した
・テカムセ1768~1813
ショーニー族の酋長。白人の侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争でイギリスと組んでアメリカと交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争で敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領に就任するが、わずか31日で病死した。
マスコギー族の戦士。1811年の大地震を白人と戦えというメッセージと解釈し、交戦派レッド・スティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争で活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領に就任、インディアンへの弾圧・虐殺を行った。
・メナワ1765~40頃
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後も土地割譲に同意した酋長を暗殺するなど強制移住に抵抗し続けた。
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争で活躍、バーントコーンの戦いで米軍に勝利した。
ウィネベーゴ族の酋長。白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。
・ブラック・ホーク(1767~1838)
ソーク族の酋長。白人の土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。
・オセオラ1804~38
セミノール族の戦士。強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部はフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカに降伏していない
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争で活躍し、デイドの戦いで100人の米兵を戦死させた。
・ビリー・ボウレッグス1810頃~1859
セミノール族の酋長。オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争を継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍に勝利した。
・バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃
コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復に1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。
・ワルカラ1808~55
ユート族の戦士。その知恵と武勇から「砂漠のナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教徒入植者と対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。
・フレチャス・ラヤダス
ヒカリラ・アパッチ族の戦士。シエネギラの戦いでアメリカ軍を破った
・カミアキン1800~1877
ヤキマ族の戦士。白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏を拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒んだ。
・レスキ1808~58
ニスカリー族の酋長。白人の土地侵奪に反発し、ピージェット湾戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。
・テカムタム?~1864
アサバスカ族の酋長。鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。
・カイルーク
モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された
・ヌマガ1830~71
パイユート族の酋長。白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860年パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人と部族の平和のために生涯を捧げた。
・マヌエリト1818~93
ナバホ族の戦士。1860~66年までアメリカ政府の土地収奪と強制移住政策に抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。
ティンパノゴス族の酋長。モルモン入植者と対立し、1865年ユタ、パイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた
・マンガス・コロラダス1793~1863
アパッチ族の酋長。1830年代家族や同朋をメキシコ人に虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉の最中に捕らえられ、処刑された。
・コーチーズ1805~1874
アパッチ族の酋長。マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。
ダコタ・スー族の酋長。白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。
カイオワ族の酋長。第一次アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。
カイオワ族の戦士。第一次アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年に逮捕され、投身自殺した。
カイオワ族の戦士。ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。
・ローン・ウルフ1820頃~79
カイオワ族の酋長・交渉によりウォーレンワゴン・トレイン襲撃で逮捕されたホワイト・ベア、ビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナ・パーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオワ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない
シャイアン族の戦士。強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールズバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人に勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマ性から白人から酋長であると誤解された。
ラコタ・スー族の戦士。ララミー砦からモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍は道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウドは居留地に入り晩年はキリスト教に改宗した。
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。
・ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府の平和交渉に当たった。
モードック族の酋長。居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワード・キャンビー少将が殺害されたため、インディアン戦争で米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏し絞首刑に処されたキャプテン・ジャックの遺体は見世物とされた。
モードック族の戦士。モードック戦争に加わり、サンドビュートの戦いで勝利した
コマンチ族の酋長。スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。
・ペタ・ノコナ1820頃~1864
コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシア・パーカーを誘拐、妻とする。1860年ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。
・タスカルーサ~1540
ミシシッピ先住民の首長。スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。
・オペチャンカノウ1544~1646
ポウハタン族の酋長。ポカホンタスの叔父。1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次・第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。
・ササカス1560~1637
ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺、奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争で白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ王戦争で白人に虐殺されることとなる。
・ポペ1630~1692
プエブロ族の魔術師。スペインの宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人を駆逐したプエブロ族は独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペインに降伏した。
南部タスカローラ族の酋長。白人の土地侵奪、奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。
アベナキ族の酋長。フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争、グレイ・ロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父は戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた
ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人の貪欲な土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ王戦争1765~66)。白人たちは彼がインディアンの君主であると決めつけ、フィリップ王と呼んだが、実際は調停役に過ぎなかった。メタカムは戦死、遺体は戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人の勝利に終わった。
・オブアンディヤック1720~69
オタワ族の酋長。英名ポンティアック。交易を制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合し攻撃をしかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府は政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。
ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争で白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人を訪問した際に拘束され処刑された。
チェロキー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族へ同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中に心臓発作で亡くなった。
・リトルタートル(1747~1812)
マイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バルム大佐を戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦で勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北し降伏した。
ショーニー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦、セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北した。
レナペ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた。
・エグシャワ1726~1796
オタワ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、フォールン・ティンバーズの戦いで負傷した
・テカムセ1768~1813
ショーニー族の酋長。白人の侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争でイギリスと組んでアメリカと交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争で敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領に就任するが、わずか31日で病死した。
マスコギー族の戦士。1811年の大地震を白人と戦えというメッセージと解釈し、交戦派レッド・スティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争で活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領に就任、インディアンへの弾圧・虐殺を行った。
・メナワ1765~40頃
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後も土地割譲に同意した酋長を暗殺するなど強制移住に抵抗し続けた。
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争で活躍、バーントコーンの戦いで米軍に勝利した。
ウィネベーゴ族の酋長。白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。
・ブラック・ホーク(1767~1838)
ソーク族の酋長。白人の土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。
・オセオラ1804~38
セミノール族の戦士。強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部は最期までフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカに降伏していない
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争で活躍し、デイドの戦いで100人の米兵を戦死させた。
・ビリー・ボウレッグス1810頃~1859
セミノール族の酋長。オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争を継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍に勝利した。
・バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃
コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復に1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。
・ワルカラ1808~55
ユート族の戦士。その知恵と武勇から「砂漠のナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教徒入植者と対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。
・カミアキン1800~1877
ヤキマ族の戦士。白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏を拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒否した。
・レスキ1808~58
ニスカリー族の酋長。白人の土地侵奪に反発し、ピージェット湾戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。
・テカムタム?~1864
アサバスカ族の酋長。鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。
・カイルーク
モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された
・ヌマガ1830~71
パイユート族の酋長。白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860年パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人と部族の平和のために生涯を捧げた。
・マヌエリト1818~93
ナバホ族の戦士。1860~66年までアメリカ政府の土地収奪と強制移住政策に抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。
ティンパノゴス族の酋長。モルモン入植者と対立し、1865年ユタ、パイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた
・マンガス・コロラダス1793~1863
アパッチ族の酋長。1830年代家族や同朋をメキシコ人に虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉の最中に捕らえられ、処刑された。
・コーチーズ1805~1874
アパッチ族の酋長。マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。
ダコタ・スー族の酋長。白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。
カイオワ族の酋長。第一次アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。
カイオワ族の戦士。第一次アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年に逮捕され、投身自殺した。
カイオワ族の戦士。ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。
・ローン・ウルフ1820頃~79
カイオワ族の酋長・交渉によりウォーレンワゴン・トレイン襲撃で逮捕されたホワイト・ベア、ビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナ・パーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオワ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない
シャイアン族の戦士。強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールズバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人に勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマ性から白人から酋長であると誤解された。
ラコタ・スー族の戦士。ララミー砦からモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍は道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウドは居留地に入り晩年はキリスト教に改宗した。
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。
・ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府の平和交渉に当たった。
モードック族の酋長。居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワード・キャンビー少将が殺害されたため、インディアン戦争で米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏し絞首刑に処されたキャプテン・ジャックの遺体は見世物とされた。
モードック族の戦士。モードック戦争に加わり、サンドビュートの戦いで勝利した
コマンチ族の酋長。スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。
・ペタ・ノコナ1820頃~1864
コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシア・パーカーを誘拐、妻とする。1860年ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。
マッカーサーは、中学生ぐらいの年齢で入学した西テキサス士官学校のころから、性的なことしか頭にありませんでした。近くにある聖メアリー女学校まで遠征すると(笑)誰彼なく声をかけまくってます。一応マッカーサーの通っている士官学校も女学校もミッション系の学校でしたが、エロマッカーサーの頭にはそんなことは関係ありませんでした(笑)
その後も、マッカーサーは49歳の時に16歳の少女に手を出してるほどの、重度のロリコンで、人生で常に性欲に忠実(笑)に生きてきた男ですから(笑)
英雄(笑)は昔から色を好むと言いますし、女と金と名誉に尋常ならざる拘りを見せたマッカーサーの行動原理は正に英雄のそれでしょう(笑)
マッカーサーは初婚が四十路と典型的なモテない男でしたが、ウェスト・ポイント士官学校在学中には、モテないダサい高校生がやりがちな『俺は何人の女とヤッた』自慢をやっている(笑)
ちなみにマッカーサーが入学するまでのウェスト・ポイントの記録(笑)は7人の女性と関係したのが最高だったそうですが、マッカーサーが8名と関係して記録を塗り替えた(笑)と吹聴していたそうです。
マッカーサーは近くのホテルに常駐していた母親ピンキーに監視されており(笑)そんなマネはとても無理だったので、これまたマッカーサーの武勇伝(笑)でしょう。下らないですね。
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.81
それでモテない暗黒の学生生活を送った反動で、マッカーサーは士官学校を卒業すると女狂いとなりました(笑)
と言ってもモテないのは相変わらずだったので、マッカーサーがやったことは現在でいうストーカーでした(笑)
1907年にマッカーサーはミルウォーキーのファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュアート嬢という金持ちの娘に惚れて、仕事すら手に付かない状態まで入れ込んでしまいます(笑)
しかしスチュアート嬢はキモくて野蛮なマッカーサーには全く興味がなく、まったく相手にされなかっため、どん詰まったマッカーサーはラブレターを出しまくります。
スチュアート嬢が身の危険を感じたのか、ミルウォーキーから故郷のニューヨークに帰った後も追撃(笑)しているぐらいなので、かなりの執拗さです(笑)
そのラブレターの中の一つを紹介すると
私が愛するのはあなた
何にもまして
なぜにあなたは私を愛してはくれないのか
という、「自分がこんなに好きなのになぜ相手は自分の事を好きにならないのか?おかしいじゃないか(憤怒)」みたいな典型的なストーカー思想の手紙であり、こんな手紙を何十通も送られてきたスチュワートさんはさぞかし恐ろしかったことでしょう、そりゃ逃げたくもなるよ(笑)
これでも十分やばいんですが、マッカーサーはトドメとばかりに(笑)27頁にも及ぶマッカーサーとスチュワートが主役の韻文劇を創作(笑)し、その脚本をスチュワート嬢に送りつけるという暴挙に出ます(爆笑)
その内容は
軍人であるマッカーサーがスチュワート嬢と結婚し、散々二人でセックスした後に馬に乗って二人で戦場に赴く。
そこで、マッカーサーが重傷を負い、スチュワートの献身的な看護で一旦は回復するが、その後さらなる激戦でマッカーサーは戦死し、スチュワートは自分の夫マッカーサーを誇りにして余生を過ごす。
という中二病どころではない、もし普通の人なら、こんな妄想を考えている事がバレた時点で確実に自殺するような凄まじい(笑)内容でありましたが、マッカーサーは躊躇することなくこれをスチュワート嬢に送ってます(困惑)
こんな不幸の手紙以下の汚物をもらったスチュワート嬢の気持ちは想像すらできませんが、マッカーサーの期待も空しく、スチュワート嬢は最後までマッカーサーになびくことはありませんでした(当たり前ですが)
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.109
若い頃モテない暗黒人生を送ったマッカーサーは四十代になって、元上官の愛人でバツイチ子持ちという見えている地雷、ルイーズ・クロムウェル・ブルックスとようやく結婚しますが、彼女は離婚歴もあり、また参謀総長のパーシングやその副官キュークマイヤーなど片手では収まらない男性と交際するなど、非常に性経験が豊富な女性でした。
そこで、女性経験に乏しい(というか殆どない)マッカーサーが旦那になったものですから、彼女の不満は相当なもので
とか
「ダグラスはペ○スをオシッコをするためのものとしか考えてないのよ」
とか
パーティで出席者に向けて、自分の指を曲げて見せて、マッカーサーの○ニスが萎れた形にしてマッカーサーの性的能力の乏しさを表現した
結局、マッカーサーは生来のセコさとマザコンと男性機能の乏しさを理由に離婚されます。
その後、傷心のマッカーサーは新任地のフィリピンで、マニラ・オリンピックスタジアムでボクシングの試合を観戦中に16歳のイザベル・ロザリオ・クーパーという混血のモデルに一目惚れし(笑)副官のトマス・ジェファソン・ディヴィスに命じて、イザベルを愛人とする交渉をさせてます。部下に愛人交渉をさせる上官(それも少将)とか嫌すぎますよね、さらにその時のマッカーサーの年齢が49歳ですから・・・ガチで性犯罪でしょ(呆れ)
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.285
この副官のディヴィスという副官は気の利いた(笑)男で、結局マッカーサーは帰国後にこのイザベルにもフラれるんですが、そのあと傷心のマッカーサーを慰めるためにワシントンの郊外にコールガールを呼ぶための専用のアパートを借りています。マッカーサーはそこに頻繁に来ており、好きなプレイは、コールガールをルイーズやイザベルに見立てて激しく罵倒するプレイだったと後日スッパ抜かれてます(笑)
また、マッカーサーとデイヴィスは仲良く(笑)一人のコールガールと3Pすることもあったそうで(笑)部下と3Pする上官(それもこの時は大将)とか嫌すぎますよね(呆れ)
※参考:ジョセフC・グールデン著『Korea:The Untold Story of the War』
話はかなりそれましたが、日本では、毎日がGHQ司令部のあった第一生命館と嫁・とクソガキが待っているアメリカ大使公邸の往復であったので、日本女性を食いまくっているヒマはなかったようです。
しかし、日本に進駐当初に、日本女性にセクハラを試みたことは明らかになっています。
1945年8月30日、厚木飛行場に到着したマッカーサーは横浜へ直行。ホテル・ニューグランドを日本で最初の宿泊の場としました。
当時、ニュー・グランドには唯一辞めずに残っていた26歳の(山口由美著「クラッシックホテルが語る昭和史」では24歳)女性社員霧生正子氏がいました。
マッカーサーと護衛の空挺隊員は、ニュー・グランドに到着すると、男性社員を集め後ろ手を組ませて身体検査をしましたが、霧生正子氏にもそれを要求し、身体検査をすると通告しました。
護衛の空挺隊員には女性兵士はいなかったので、男性兵士が身体検査にされるのを嫌がった霧生正子氏は、「こんの野郎」と憤慨し、その命令に従わず、ホテルウーマンらしく前で手を組みました。
霧生氏の強い意思に押された、マッカーサーはそれを許可し、霧生氏には空挺隊の中尉がおっかなびっくり身体検査をしています。
霧生氏が気丈な女性でなければ、マッカーサー自らが身体検査と称しセクハラをするつもりだったのかも知れません。
また、霧生氏は自宅を空襲で失っていた為、マッカーサーらのことをイヤでこの野郎と思っており「家をかえせ」と言った事もあるほど、強い敵愾心を抱いたまま硬い表情で米軍兵士と接していました。
米軍兵士らは困ったのか「笑え」と霧生氏に命令し、それでも霧生氏は媚びないので「おれ等は悪くない、東条英機に文句言え」と責任転嫁したあげく、霧生氏に毎日コーヒーやらチョコやらを献上しにきたそうです。霧生氏は美人だったので、マッカーサーらには下心があったんでしょう(笑)
まぁ、マッカーサーも周りに連合国の高官らの目があるなかであまり無理もできなかったようで霧生氏がマッカーサーの毒牙にかかることはありませんでした。
よかったですね。
※出典 USArmyInJapan A Japanese lady who worked for GEN MacArthur
https://www.youtube.com/watch?v=0RqsjRRkUpQ
https://www.youtube.com/watch?v=Cvh6uW0Yxek
鼻の下を伸ばしただらしないいやらしい顔で、女性従軍記者マーガレット・ヒギンズ女史に不必要なほど接近し、その右手でヒギンズ女史の腰を弄るマッカーサー
現在で例えれば、自衛隊の司令官が女子アナにこんなことしてればどうなるか火を見るより明らかなように、典型的なセクハラですね(笑)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184777592
2022年4月11日・現地時間の朝(日本との時差6時間)に公開されたもの
https://novynarnia.com/2022/04/11/dali-vrukopashnu-u-36/
親愛なるウクライナの人々へ。
私たちは、ミカイロ・ビリンスキー少将にちなんで名付けられた第36海兵隊です。2014年に宣誓を裏切ることなく、クリミアを離れ、尊厳を持ってウクライナを守るという任務を遂行し続けました。
戦争が始まってから47日間、マリウポリを守ってきました。私たちは飛行機から爆撃され、大砲、戦車、その他の銃器から発砲されました。私たちは尊厳をもって身を守り、不可能なことを成し遂げました。ただし、補給が不足しています。
戦闘中、私たちは50,122の砲弾、20の地雷、そしていくつかの「飛び地」と「スターリン」と「スターリンク」を与えられました-ありがとうイーロン・マスク、スターリンクは多くの空爆に耐え、今も動いています。
これ以外には、私たちは他に何も与えられませんでした。
弾薬がなければ、防御することができず、私たちは徐々に敵に押し込まれ、囲まれ、そして今破壊されようとしています。
防御を強化し、継続するために、旅団が突破口を開いて彼らの軍隊と合流するという選択肢がありました。それについてOTUVostokに報告し、彼らは計画の運用を開始しました。SodolとDelyatytskyは何かをしようとしましたが、彼らの上級スタッフはそれを変更しました。私たちはそれについて報告しましたが、彼らは「待ってください、私たちは働いています」と言いました。最高司令官はヘリコプターの派遣が約束されましたが到着せず、包囲を突破することを約束してくれましたが果たされませんでした。
1か月以上の間、海兵隊は弾薬の補充なしで、食物なしで、水なしで戦いました。水たまりから水をすすり、そしてパックで死にました。旅団のほぼ半分は負傷者です。手足が引き裂かれておらず、歩くことができる人は任務に戻ります。すべての歩兵が殺され、大砲、対空砲手、連絡係、運転手、料理人が、楽団員ですら戦闘に参加しました。
弾薬が残っていないので、今日はおそらく最後の戦いになるでしょう――白兵戦の後の死、あるいは捕虜。
親愛なるウクライナの人々。 次に何が起こるかわかりませんが、海兵隊員のことを優しい言葉で覚えておいてください。そして、物事がどのように展開しても、海兵隊の悪口を言わないでください。