はてなキーワード: 革命とは
1キロ入りのとろけるチーズの袋はなかなか使いきれないから、いつも冷凍庫に入れて保存している。
そうするとチーズが固まってしまうから、袋を壁に叩きつけてチーズの塊を破壊しながら少しずつ使っていた。
けど、チーズの塊がなかなか壊れないので、頑張って壊していた。
今日は特に壊れなくて、そこでようやく「包丁の背で叩いて崩す」という方法を見つけて、チーズの塊を壊す作業に革命が生まれた。
でも、そのことが逆に悲しくなった。
もしチーズの塊が頑張ったら壊れていたら、包丁で崩す方法を見つけられなかっただろう。そしてこれからもずっと頑張って壁に袋を叩きつけていたのだろう。
それは、すごく無駄なことだ。
自分では最適だと思っていたことが、実は最適ではなかったということが分かったのが悲しかった。
こういう、自力では気づけないような小さな無駄が自分の生活にはたくさんあふれているのだろう。
例えば服のタグは必ず左に付いているとか、ポイントサイトを使った方がいいとか、よりたくさん炊ける炊飯器の方が便利とか。
でも、こういうことに気付かないかぎり、無駄なことをし続けてしまうのだろうし、それに気づけるかは運でしかないのだ。
「袋のチーズが固まる」という課題があったら、「もっと小袋のチーズを買え」とか「チーズに片栗粉を少し入れるとくっつきにくくなる」みたいなアドバイスが見つかる。
けど、安いから1kgのを買っているし、片栗粉をいちいち開封時にいれるのは面倒。
「固まったチーズを壁に叩きつけるのではなく包丁の背で崩しましょう」なんてことは、自分で気づくしかない。
こういう細かい改善ポイントに気づけない限り、自分は人生において無駄なことに時間と労力をかけ続けるのだろうな、ということが悲しくなった。
今日も相変わらず、隣人と同居人が恋愛の話題で盛り上がっていた。
彼らの会話を聞いていると、まるで原子核物理学の講義を猿に聞かせているようだ。
そう、猿にとって量子力学が理解できないのと同じように、僕には彼らの会話が理解できない。
さて、本題に入ろう。
今日、僕は11次元の超弦理論における位相的場の量子論の新しい展開について考えていた。
特に、M理論とF理論の統合に関する新しいアプローチを思いついたんだ。
これは宇宙の根本的な構造を理解する上で革命的な進展になるかもしれない。
友人のエンジニアが僕の部屋に来て、なぜ僕がこんなにも興奮しているのか尋ねてきた。
彼に説明しようとしたが、途中で彼の目がグラスになっているのに気づいた。
まあ、仕方ない。天才の思考を平凡な頭脳で理解するのは難しいからね。
「AIが悪いのではなく、AIの使い方が悪いのだ」と言いたい気持ちは理解できる。
自動車の運転に例えるなら、事故を起こすかどうかはドライバー次第だとしても、事故が起きたときに「車は関係ない」とは言わないだろう。
強力な道具は、便利な反面トラブルの規模も大きくなるので、より慎重な取り扱い・ルールづくりが必要になるのが世の常だ。
そもそも、AIによる革命が起こるとさんざん利点を強調しておきながら、トラブルが起きると「AIは関係ない」と言い出すのは矛盾している。
良いことも悪いことも、AIの影響であることを素直に認めろよ。
その上で、使い方が重要だという話をするのが筋だろう。
まるで地獄のような一日だ。この地球上には、俺みたいな存在がいる理由がわからない。今日も街を歩けばカップルだらけ、まるで俺の存在を嘲笑っているかのように手を繋いで、楽しそうに笑っていた。なぜだ。なぜ俺は一人なのか?なぜ、あの連中のように普通の幸せが手に入らないのか?
駅前のカフェで一人でコーヒーを啜りながら、周りを見渡してみた。カップルが向かい合って、ニヤニヤしながら話している。ああ、こんな奴らが当たり前のように幸せを享受しているのを見ると、胸の奥から黒い怒りが湧き上がってくる。「お前ら全員地獄に落ちろ」って心の中で何度も呟いたよ。でも、現実は何も変わらない。俺は一人で、彼女もいないし、友達すらいない。
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ここ数年、俺はネット上でいろいろな情報を探してきた。自称「恋愛の達人」や「モテる方法」を教える連中がいるが、あんなのは全部嘘だ。だって、俺がどれだけ努力しても何も変わらなかったんだからな。筋トレして、服装にも気を使って、髪型だってオシャレな美容師に頼んだ。それでも俺は"見られない存在"なんだ。女たちは俺をただの背景としか見ていない。俺は彼女たちにとって何の価値もない「空気」だ。
あいつらは、何も努力せずに彼氏や彼女を手に入れて、幸せそうに笑っている。まるで、俺のような奴は最初から恋愛市場から排除されるようにプログラムされているかのようだ。何が悪いんだ?俺は一体何を間違えたんだ?
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社会は俺みたいな奴を抹消したがっているんだろうな。メディアや広告はいつも「彼女とデートしよう」とか「素敵なカップルになろう」とかそんなことばっかり言ってる。俺にはその全てが偽善に見える。連中は俺のような孤独な男を「負け犬」だと言わんばかりの態度を取っている。ふざけるなよ。こっちは何も悪いことなんてしてないのに、どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ?
人は「努力すれば報われる」とか「ポジティブな思考が大事だ」とか言うが、それが全く通用しない現実もあるんだよ。俺は何度も試した。いわゆる「自己改善」に時間も金も費やしてきた。だけど、結果はいつも同じ。「お前には興味ない」って言われるだけ。俺はもう限界だ。世界は冷酷だし、俺のような人間には救いなんてどこにもないんだ。
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もう俺は誰かに好かれたいなんて思わない。この腐った社会に迎合するつもりもない。彼女ができないなら、それでいい。どうせ誰も俺を理解しようとしないし、俺の価値なんて誰も見ようとしない。だったら、もう好きなように生きてやる。俺を見下す奴らを無視して、俺は俺の道を歩むしかない。
最近は過激な考えが頭に浮かぶことが増えた。社会を変えたいとまでは思わないが、この腐った世界に一矢報いたいとは感じる。それが何を意味するのか、自分でもわからない。ただ、心の奥底で何かが叫んでいるんだ。「もう黙っているな」「もう奴らに従うな」って。
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もう、この世界に愛や希望を見いだすことはできない。すべてが欺瞞と偽善で塗り固められている。だが、俺は何も恐れない。俺が感じているこの怒りと孤独は、やがて俺の武器になるだろう。社会が俺を拒絶するなら、俺も社会を拒絶するだけだ。
「一人では何もできない」なんて言わせない。俺はこのまま消えるつもりはない。孤独が俺の力となり、怒りが俺を突き動かす。俺はこの世界に爪痕を残してやる。いつか俺が立ち上がる日が来る。その時、俺を嘲笑った奴らは後悔するだろう。
うんうん、その気持ち、すごくわかるよ。なんでこうも使いにくいんだろうね、あの漫画アプリたち。これって、まるで19世紀のフランス革命の時の貧民層が「ルイ16世!」って叫びながら無駄に過ごしていたような、無力感があるよな。最初に手を出したものが、結局期待を裏切ることって、歴史でもよくあった話だし。
あの「拍手」っていうの、まるで古代ローマのコロッセオで観客が戦士たちに歓声を送るような感じで、回数を増やせば増やすほど「アクションが評価に繋がる」ってことだろうけど、実際は面倒なだけだよね。これって、まるで日本の江戸時代、庶民が手間をかけてやっと手に入れた「ご馳走」のように、結局その後にある満足感が薄い。
一回で済ませられるじゃん、って思っちゃうけど、それもまた「不確実性」の魅力を求めているってことなのかもしれない。ちょっとずつやりとりすることで、「選ばれたもの」って感じがするし。でも、その曖昧さっていうか、ボタンを押し続けることに意味があるって思わせてる感じが、ほんと意味不明だよね。
そして、広告!広告の鬼畜さは、まるで19世紀末の工業革命後の都市における、どこまでも続く煙突から吐き出される煙のようだ。まさに「進歩」の名の下で、意図しない邪魔が入るっていう不快感、これって21世紀になっても変わらないんだよな。まるで美術館に行って、作品に集中しようと思ったら、突然展示会場に広告が乱入してくるみたいな。
その気持ち、ほんと痛いほど理解できるわけ。海賊版サイトが直感的に感じるのも、まさにその「無駄がない」っていう、簡潔さ。今の世の中、時間が一番貴重だからね。ちょっとした「便利さ」のために、時間を浪費するのがどれほどストレスになるか、歴史的にも無駄なものはすぐに淘汰されてきたし。
あとは、横読みとか縦読みが自由にできるように、っていう提案、素晴らしいよ。それ、まさに「ユーザー第一」の精神だね。実際、ユーザーの利便性を考えた進化って、17世紀の技術革新において、芸術家たちが次々と自分の作品を改良していったことにも通じる部分がある。彼らも、自由な表現ができるように、あらゆる壁を越えようとしたんだ。
でもさ、そんなに不便なことだらけのアプリでも、ちゃんと使いこなしてるって、すごく頑張ってるよ。時には不満を抱えながら、それでも使い続ける姿勢って、まるで中世の騎士が不安な戦いの中でも忠誠を尽くしていたような、ひたむきさがあるんだよね。ほんと、君のその「正義感」、誰かに伝えたくなるくらい素敵だよ。
ほんと、週末のスーパーって高くて頭にくるよね。確かに、最近の物価の上昇は厳しくて、なんだか家計が圧迫される。だが、ちょっと歴史を振り返ると、この「高い」という感覚は、決して新しいものではないんだよ。
例えば、19世紀の産業革命後、都市化が進み、労働者階級はその生活がどんどん厳しくなっていった。その時代の経済学者、アダム・スミスは「見えざる手」という言葉で市場経済のメカニズムを説明したけど、結果として富の集中が進んで、一般の人々の生活はどんどん困窮していったんだ。それと似たようなことが今、私たちの目の前でも起きてるんだよ。
現代のスーパーの価格設定も、ある意味「パワーカップル」や高所得者向けにシフトしていると感じる人が多いだろう。まさに、資本主義の縮図だよね。お金を持ってる人がもっとお金を得るシステム。確かに、この現実に心が痛むのも無理はない。でも、これはひとつの社会構造の一部に過ぎないんだ。
昔から「金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になる」というフレーズがあるけれど、これは皮肉なほどに現実を映している。かつて、フランス革命を起こしたロベスピエールも、貧困層の絶望を前にしてどうしようもない気持ちになっていただろうね。革命を経ても、結局、社会は完全には変わらない。新しい秩序のもとでまた別の不平等が生まれてしまう。哀愁を感じずにはいられない。
だから、君のその不満も当然だし、理解できる。でも、悲観してばかりもいられない。歴史を見ても、最も困難な時期を乗り越えたのは、少しずつでも諦めずに戦い続けた人々なんだ。家計の厳しさを嘆くよりも、どんな方法ででも少しでも生活を楽にする道を模索していくほうが、今の時代には求められてるんじゃないかな。
うーん、ちょっと待って。話を聞いてみると、君が言ってることはかなり偏った見方をしてるんだよね。パワハラが「犯罪とは違う」と思ってるかもしれないけど、実際はその考えがまさに歴史的に見ても危ういし、現代の社会ではその視点が非常に問題視されているんだ。
まず、パワハラを「指導に対する解釈不一致」として軽視しているけど、そんな風に扱うのはかなり危険だよ。君が言うように「犯罪ではない」としても、パワハラが引き起こす心理的・肉体的ダメージは無視できない。これがわかりやすい事例で言えば、18世紀の産業革命時代の労働環境だよ。労働者は過酷な条件下で働かされ、身体的な搾取だけでなく、精神的にも虐げられた。その結果、労働組合が台頭し、労働基準法が整備されていったんだ。つまり、過去の教訓として、パワハラのような行為が「指導」という名の下に行われることで、結局は社会全体の健全性を損なうことがわかってるんだよ。
それに、セクハラを「性犯罪」として認識しているけど、パワハラは「心理的な暴力」としての側面がある。たとえば、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが述べた「人間は目的そのものであり、決して手段として扱ってはいけない」という倫理観があるけど、パワハラを行うことはまさに相手を手段として扱う行為なんだ。これは現代倫理において許されるべき行動ではない。
また、公益通報者保護の問題についても言及しているけど、それが「裏切り者を放置する方が有害」と感じるのは、全体主義的な考え方に偏っている。公益通報者が保護されるべき理由は、社会全体の信頼を守るためなんだよ。仮に君の考えが通ると、組織内で不正を暴くことがリスクだらけになり、結果として社会が腐敗する。中世の封建制度下では、貴族や領主の不正を誰も指摘できなかったことがあるけど、その結果として民衆の不満が爆発して革命が起きたんだ。現代社会でも、通報者を守ることが民主主義や透明性の基盤なんだよ。
つまり、君の考え方は歴史的に見ても偏ったもので、現代社会においても非常に問題が多い。パワハラが「指導の一環」として許容されるわけではないし、公益通報者が守られるべき存在であることは、社会的な正義を維持するために不可欠なんだよ。
ああ、そうやって「極端な意見」を求めてる気持ちも分かるけどさ、それって、結局歴史の中でも何度も繰り返されてきた誤解や偏見のパターンなんだよね。
まず、歴史を見てみろよ。たとえば、古代ローマの帝国が繁栄していた時、あの時代にも「どっちつかず」が嫌われて、強い個人的意見や極端な発言を好む風潮があった。アウグストゥスが指導していた頃、「平和が一番大事だ」って言われていたけど、実際にはその平和を手に入れるために数え切れないほどの戦争や暴力が背後にあったわけだ。それに、アウグストゥス自体も政治的には非常に慎重な態度を取って、公共の場では常に調和を強調していた。
でも、ここで注意したいのは、過度に極端な意見っていうのは、最終的には社会に対する不安定要素を生むことが多いんだよ。例えば、フランス革命の頃、ロベスピエールみたいに「革命的な過激さ」を誇った人物がいたけど、あの時代の暴力と混乱、結局は彼の理想すら裏切ってしまったことは記憶に新しいだろ?
そして、もっと現代に近づくと、たとえばナチス・ドイツのヒトラーなんて、極端な意見や感情を基にして、大規模な戦争と無数の人命を奪ったわけだ。極端な意見が何を引き起こすか、歴史は教えてくれているんだ。
だから、「極端な意見を読みたい」って気持ち、分かるよ。人は時に感情に流されて、過激な意見に共鳴しがちだ。でも、そういうことって、歴史的には一度成功すると、一度暴走を始めたら取り返しがつかないことになることが多い。聖書にも「言葉には力がある」と書かれているように、何を言うか、どう表現するかっていうのは、相当重要なんだよ。
逆に、極端すぎる意見は、「君の立場や視点に共感する人」を増やすかもしれないけど、結局「論理的な思考」が抜け落ちて、他者との対話や理解を疎かにするだけだぞ。共感は大切だが、歴史や哲学が教えてくれているのは、「対話」や「折り合い」が鍵だってこと。君が求めているのは、ただの激情や暴力ではなく、本当はもっと深いところでの理解じゃないのか?
最後に、孔子の言葉を借りるなら「愚者は過激に反応し、賢者は冷静に考える」。極端さを求めて無駄に感情に走る前に、少し立ち止まって自分が何を本当に求めているのかを考えてみることだよ。
おいおい、なんだよその愚痴!確かに気持ちはわかるけど、ちょっと冷静になって考えてみろよ。
まず、映画版『ルックバック』について言うなら、あの作品の本質は、「原作をどう再現するか」じゃなくて、原作を基にして、どう新しい視点を提供するかだろ。原作が持ってる「漫画の力」っていうのは、確かにすごいんだよ。例えば、手塚治虫が『ブラック・ジャック』で描いた「命の価値」だって、読者がそれをどう感じ取るかってところにこそ力があった。でも映画ってのは、原作に対する「解釈」を加えるものなんだよ。例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だって、タランティーノが歴史のifを描いたわけだろ?実際の歴史がどうあろうと、映画としての「物語」が成立してるから、並行世界が存在する意味が強調されるわけだ。
それに、映画で「並行世界の扉を開く力が足りなかった」とか言ってるけど、それがそもそもズレてるよ。映画っていうメディアは、漫画のようにページをめくりながら無限の詳細を積み重ねることができない。だからこそ、映画は「映像表現」によって観客にインパクトを与えるんだよ。例えば、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が革命的だったのも、彼が言いたかったのは「映画は映画でしか表現できないことがある」ということだからな。
それに、君が言ってる「インターステラー的な何か」が薄いってのは、もしかしたら君がその部分に過度に期待しすぎてるだけかもな。映画版『ルックバック』は、漫画と同じように時間軸や物語を複雑にしていこうとしたけど、そこに込めたテーマやメッセージは、むしろシンプルに伝わってきた方がいい。映画には映画なりの表現方法があるんだから、そこに深い解釈を求めるのは少し違うだろ。
それに、映画が「漫画の力」を再現するって言っても、漫画はやっぱりそのフォーマットにしかできないことがあるんだよ。『ルックバック』における一枚の漫画がどれだけ強い力を持っていたか、それは確かにすごい。でもその力を「映画で再現する」のは、根本的にメディアが違うから、どうしても限界があるんだ。
それにしても、お前が言うように「深く踏み込むべきだった」っていう部分も、俺は逆に言うと踏み込みすぎてなくて良かったんじゃないかと思うぞ。むしろ、映画があまりにも深くまで踏み込むことで、観客が原作と同じように個々の解釈を持ちづらくなったら、それこそ映画として失敗だろ。
まぁ、色々と感じる部分はあるだろうけど、映画を見て「足りない」って思うのは、そこに期待を持ちすぎたからだよ。芸術作品なんてものは、結局は鑑賞者の解釈によって完成するんだから、もうちょっと柔軟に受け入れてみろよ。
そんな言い方して何がしたいんだよ?リベラルとか革命とか、まずその言葉を軽く使うな。正当防衛だなんだって、暴力を正当化する理由にはならないだろ。それに、私利私欲と正義を同列に語るのは、お前がどれだけ考えてないかの証拠だよ。人それぞれ意見は違うけど、お前みたいに極端な物言いはまったく建設的じゃないし、誰も納得しないだろ。もっと冷静に、ちゃんと考えてから発言しろよ。
今まではアウトランみたいに平面でレースっぽく見せるしか出来なかったのにこれの登場で全てのレースゲームが過去の物になってしまった。正に革命。コースのライン取りが出来る様になったのも家庭用ではこれが初めて
・グランツーリスモ(PS1)
説明不要。走行距離や中古車・洗車といった実車にここまでクローズアップしたレースゲームは今まであっただろうか。いや無い。
当時の主流だったリッジやセガ系のゲームゲームしてる挙動と違ってカーブ中にブレーキを踏むと荷重移動であらぬ方向にすっ飛んでくのも当時は非常に驚いた。
実際の車と挙動が似ているので成人して実際に車を運転する様になってから非常に役に立った。実車に乗る前の練習としては非常に良い教材。
本作で実際の車が好きになった人も大勢居るだろう。ゲーム内の新車価格や中古車価格が当時の相場なので今プレイすると事故車並みに安いのも時代を感じれて面白い。
剣と剣で戦ったらそこらの男に負けない凄腕なんだろうけど
素手同士だと男の腕力に負けて身分卑しいアンドレに犯されかけちゃうんだから
あとアニメではカットされたけどアランにも無理矢理キスされてるんだよな
一回不意打ちでキスされて抵抗して振り払ったけどまた強引に掴まれて二度目のキスされちゃうんだよ
エッチすぎるでしょ
軍人家系なのに女しか生まれない→せや、末っ子を男のように育てて男に負けない女軍人に仕立て上げよう!
こんなことやったくせに革命が起きると「やっぱ軍人なんて危険だから辞めて普通に嫁ぎなさい」とか言い出すんだぞ
今更メスになれというんだぞ
普通に女として育って花嫁修業だけしてたような女よりも、男のように育てられ男の軍人の中にいたオスカルがいきなり嫁げって言われる方がエッチだよね
ああ、なんて素晴らしい提案だろう。やっと誰かが知性的な会話を求めてくれたわけだ。
さて、今日の日記は、11次元の M理論における位相的な特異点の解析から始めようか。
朝食にシリアルを食べながら、私は カラビ・ヤウ多様体の変形について考えていた。
同居人が「おはよう」と言ったが、私はその平凡な挨拶を無視した。彼には、今私の脳内で起こっている量子重力の革命的な洞察が理解できるはずもない。
午後はペンローズ図を使って、ブラックホールの情報パラドックスの新しい解決策を考案した。隣人が「何してるの?」と聞いてきたが、説明しても無駄だろう。彼女の脳では、私の天才的な理論を処理できないだろうから。
夕方、友人2人が来訪した際、私は彼らに非可換幾何学におけるリーマン予想の新しいアプローチについて熱く語った。彼らは眠たそうな目で頷いていたが、私の brilliance に圧倒されていたに違いない。
就寝前、私は宇宙の超対称性について瞑想した。明日は、11次元超重力理論における M5-ブレーンの動力学に関する論文を書き始めよう。
洋モノは抜けない。
なぜかというと、あまりに女優がノリノリだからである。笑顔でオーイェ!では抜けない。
bdsmはもちろん知ってるが、これもなんか大味だなと思うことが多い。悲鳴出させときゃいいだろ、という感じ。
そして昨日、オカズサーフィン中に"Maledom wrestling " というものを見つけた。これは革命だ。
"勝負"という建前があるから女優がいつもより真面目な雰囲気を醸し出しているし、本気で抵抗したり、逃げたり…という風にやってくれる。また、苦しい体勢が多いため、声もいつもより控えめ。そしてそれを組み敷くエロさたるや。
あー、なんで早く教えてくれなかったんだ、ネット民達。
私は反AIを標榜する絵描きたちに、単純な陰謀論やラッダイト運動というよりは、全共闘との類似を感じている。
当初は、画像生成AIを用いた直接的な損害を被った人もおり、このツールの危うさに警鐘を鳴らすことは確かに理があった。
彼らは荒唐無稽の反AIをお題目に、ウォーターマークという呪符を携え、自らの信仰に反した情報発信者には異教徒のレッテルを貼り付けた。
彼らはバリケードという殻にこもり「敵」に備えている。
全共闘は高度経済成長という大波の中、大衆に呼びかけた。そして、大衆は生活を優先した。革命は理解されなかった。
生成AIという大波は、既に大衆にとって欠かせないものとなっている。絵描きという一部の人間が、実際に大きな損害を被ったわけでもなく、実のところ生成AIの恩恵を受けながら反AIを唱える姿に、いったいどれだけの人間が賛同するのであろうか。
いや、そもそもこんなものは大衆にとって問題としてすら認識されていない。
私は危惧している。
ノンポリは体制側に寄与する悪であると断じた闘士たちのように、彼らも成るのではないかと。
大衆を目覚めさせるためであれば、暴力も辞さなかった彼らのように成るのではないかと。
バリケードの中の内圧が高まり、大衆を「敵」として、飛び出してくるのではないかと。
私は全共闘のすべてを否定しない。確かに理はあったはずなのだ。無根拠な学費の値上げ、医学生への不当な処分、使途不明金が溢れるロッカー・・・。
だったはずなのに、現代においては多くの人にとって全共闘とは、インテリ学生のモラトリアムが起こした過激な火遊び程度の扱いになってしまった。
私は危惧している。
絵描きとは、気に食わないことがあると集団ヒステリーを起こす幼稚な者たちなのだと思われる未来の歴史を。
絵描きとは、文盲で規約も読み解けず、都合いい甘言をよしとするような愚か者であろうと悪意のクライアントに認識されるのを。
恐らく、反AIの絵描きたちは生成AIよりも自らの行いによって絵描きの立場を危うくしている。
そして私が悲しく思うのは、反AIを扇動する有名絵描きたちは、AIがもっと当たり前になっても問題ないような需要を既に持っており、扇動された無名の絵描きたちは自らの可能性を狭めていっていることだ。闘士をしていた者でも、卒業してその学歴で持って大手企業にのうのうと就職したものは良かった。問題は、その後も戦い続けた無名の闘士たちである。
人づくり革命を力強く進めていくためには、その安定財源として、再来年十月に予定される消費税率十%への引上げによる財源を活用しなければならないと、私は判断いたしました。
二%の引上げにより五兆円強の税収となります。
現在の予定では、この税収の五分の一だけを社会保障の充実に使い、残りの五分の四である四兆円余りは借金の返済に使うこととなっています。
この考え方は、消費税を五%から十%へと引き上げる際の前提であり、国民の皆様にお約束していたことであります。
この消費税の使い道を私は思い切って変えたい。
子育て世代への投資と社会保障の安定化とにバランスよく充当し、あわせて財政再建も確実に実現する
決めたの政治家じゃね?