はてなキーワード: ぼんやりとは
最近、下の子が産まれて私と妻と子供二人の4人家族になりました。
しかし、上の子が未就学児なため、義母がフォローで我が家に滞在しくれています。
それはありがたいのですが、上の子は色々買ってくれたり連れて行ってくれる義母にべったりになり、
妻もそのことに対して良しとしているのかそのままにしているため、上の子から見たら義母>私になっています。
さらに、産まれた下の子の世話に関して私がうまくできず、義母と妻からお小言を頻繁にもらいます。
あくまで私の言い分としては、
やらなければ文句を言われ
という、やったら文句、やらなくても文句という矛盾に悩まされ、
何かしようとしても、本当に今か?やり方はあっているか?そもそもしていいのか?と堂々巡りになって
そのせいか、最近は家庭内でリラックスできるのは眠っているときか風呂かトイレ程度しかありません。
自分の主観では、もはや家庭内に居場所などなく、義母、妻、子供がソファでテレビを見ていても、
私は目が気になって椅子に座る事にすら「何か言われないか」と気にしてしまい、
下手をするとリビングの端の方でぼんやり立っているだけの時すら珍しくありません。
そんな状態ですから、スマホや漫画などの娯楽など手が出せるわけもなく、
ただぼーっと自分以外の家族が団らんしているところ見つめる毎日です。
「理不尽な上司(妻)」、「理不尽な役員(義母)」、「その取り巻き(子)」
かわいかった子供ですら、コミュニケーションの仕方を評価される要因に感じられてしまい、
勘違いだと思いたいのですが、義母が帰った後のことを私抜きで相談したり、
私との会話が必要最低限になったりと、義母と妻が私を居ない扱いにしているとさえ感じています。
先にも書いたように、あくまで私の主観であり、私に至らない点があるのだろうとは思います。
ですが、現状の義母、妻、子供達/私のような構成にはもううんざりです。
今までのような関係に戻りたいとはもう思っていません。
思い出したように文句を言うのなら、ちゃんと指示を出してほしい。
居ないように扱うなら、一貫してそのように扱ってほしいというのが望みです。
生きていなければならない理由が日々削れていく思いです。
この間はこっそり首吊りの真似事をして気を紛らわせましたが、
このままだとそう遠くない未来にうっかり実行してしまいそうです。
追記:
インベーダー世代ってガチのジジイじゃん。孫の面倒でも見てろよ。あ、遺伝子を残せないタイプの人種でしたか(笑)
ゲームの名前を全く上げてないことからも実際には全くプレイすることなく最近のゲームは・・・とか言ってるんだろうな。
100時間以上かかるなんていわゆる大作ゲームばかりだし、何十年もゲームをやっていてそういう最上部の上澄み以外に全く見識がないとか無能にもほどがあるだろ。
いや、去年のゲームオブザイヤーを考えれば上澄みですらないな。何も見てないし、何も考えておらず妄想だけで構築されたぼんやりとしたイメージを現実と思いこんでるんだな。脳が壊れてきてるから病院行ったほうが良いよ。
話題のエルデンリングなんかは100時間以上かかるけど、アクションゲームなのでストーリーがダラダラ続く昔のJRPGタイプよりずっとプレイ感は軽快。ヘヴィにみせかけて、30分だけプレイするようなライトなスタイルにもバッチリ適合している。つか増田はダクソシリーズすらやったことなさそう。
しかしはてなのゲームカテゴリですらsteamなんかの優れた小品がよく流れてくるのに、これだけ雑語りできるのは逆にすごい。尊敬するわ。
増田爺さんが子供の頃、ゲームなんてとバカにしていた大人を軽蔑していたろうに。わかったような口をきく分それよりタチが悪い真の老害になってしまうとは悲しいなぁ。
NHKでクラシック音楽(以下クラシック)の番組が放送されていたので、食事をしながらぼんやりと見ていた。私はクラシックをたまに聞くことはあるが、好みの曲はあるけどそれ以外の曲は皆同じに聞こえる、程度の浅さで楽しんでいる。つまりよくわかっていない。
NHKで放送されていたクラシックの番組は『クラシック音楽館「次世代の挑戦者たち」』で、次世代を担うであろう才能のある若手を特集していた。クラシック音痴の私は、若手が上手に演奏していてすごいのだろうなあとぼんやり見ていた。流れていた曲の良し悪しとか難易度とかはよくわからないけど、聞いていて不快ではないので食事をしたり薬を飲みながらなんとなく楽しんでいた。
ある若手ピアニストを紹介していたときだった。高校2年生のときにコンクールで挫折したが、その後大学で自分らしい表現を追求する楽しさを発見。翌年のコンクールで優勝した上で観客賞も受賞したという。
優勝したときの演奏のダイジェストが放送されたのだが、そのピアニストはノリノリで実に楽しそうに演奏していた。そのさまは終盤には顔にはっきりとした笑顔という形であらわれる。そして曲を終えた直後の満面の笑み。観衆が大喝采するなかで、礼をしながらやりきったという表情を浮かべるさま。
これはいい、とその時私は感じた。具体的に何がいいと感じたのかは、まだ言語化できないけれど。私にとって好ましく感じる何かが、今のこのシーンにありそうな気がする、と感じた。
それはもしかすると、自分らしさを追求して楽しくやり遂げることかもしれない。それはもしかすると、自分らしさを楽しく追求しながらどこかに向かっている人をサポートして一緒に喜びを分かち合いたいのかもしれない。それはもしかすると……なんだろうね。
ともかく、今回の気づきは迷宮に迷い込んでいる今の自分にとって、一筋の光になるのではないか、と思っている。まあ、脳が雰囲気に流されて勘違いをしただけかもしれないけれども。
他人の子供もどうでもいいが、私に子供はいないけどたぶん自分の子供もどうでもいい。
ふつうに子供に興味がないし、仮に子供を持つとしたらパートナー(そんなものはいない)が望むからだろうけど、パートナーが望んだから設けただけであって自分としてはどうでもいい。たぶん「子供だなあ」という気持ちしかない。
最近収入も増えてきて持て余している部分もあるので、結婚したり子供を設けるべきなのかなとぼんやり思っていたが、どうやら自分は子供への感情が薄すぎる様子なので、児童福祉施設に寄付したりするくらいで良いのかなと思えてきている。
座右の銘は「人畜無害」。褒められもせず、苦にもされない人生だと思う。
生まれは地方の小さな町だけど、高校は県内の公立トップ校に進み、大学も東大京大とはいかなかったが東京の上位私大に潜り込んだ。
就職も志望していた大手企業に入って、マイナーな職種のため大出世こそ望めないものの食うに困らない賃金を得ている。自分の部署の中ではまあまあ重宝がられてるとも思う。
年齢=彼女いない歴の童貞・非モテだけど、男女問わず飲みに行ったり遊びに行ったりしてくれる友達はいる。
趣味といえるほどめちゃくちゃに凝ってるわけではないけど、旅行も好きだし展覧会や観劇に出かけたりもする。運動はそんなに好きではないけど、太りすぎも痩せすぎもせず、まあまあ健康だ。
両親も健在で実家は地元に残った兄が継いでいるし、家族仲も大してよくはないけど致命的に悪いわけでもない。いまはコロナ禍もあって景気は悪いらしいけど、少なくとも外の学校に行かせてもらえるくらいには経済的に恵まれていた。幸いなことに両親とも毒親ではなかったと思う。
東京生まれ東京育ち、親が大企業勤めや官僚とかで自分も東大や海外有名校を出たというような偏差値70超えの人生ではないけれど、経済的に困窮したり家庭が破綻してたり、ものすごいハンディキャップを背負ったりしているというわけではない。
それでもときどき、生来のものぐさな性格からか「生きるのめんどくさいなあ」と思う。将来に対するただぼんやりした不安というのも多少はあると思うけど、そういうのも含めて「なんかめんどくさい」のだ。
よくも悪くも自分の能力はわかっているし、自分の性格もよく理解しているから今後も突飛なことはしないだろうなと思う。結局のところ、生まれて飯を食ってクソして死んでいくだけなのかと思ったりもする。
とはいえ自殺する気も今のところない。安楽死は悪くないなとたまに思ってしまうけど、死後というものが(観念的なものとして)どういうものか想像できないだけに積極的に選ぶような勇気はない。
特定の宗教を厚く信仰していて死後の世界を信じられていたら(宗教における自殺の是非はともかくとして)もう少し楽だったのかもとも思う。しかし今さらになって急に何かを信奉するのは難しい。
自分のことはよくわかっているので、何かアドバイスが欲しいわけでもない。たいていのことは「自分でもわかってはいるんだよね。でもそうするのは難しい」って思ってしまうのだ。
何かわかりやすい解決策が見つかるでもなく、これからも淡々と生きていくんだと思う。
自分でも贅沢な自慢話だと思うけど、なんとなくよく眠れず、ぼんやりと考え事をしていたアラサーのたわごとだと思って聞き流してほしい。
電車乗ってたら気分悪くなったから、着いた駅で降りてホームのベンチに座って項垂れてた
そしたらおばあさん?おばさん?ぐらいの女性が「あなた大丈夫?」って声をかけてきた
「大丈夫ですありがとうございます」と答えて、それで去ってくれるかと思ったら女性は心配そうにこちらを見たまま動かない
また話しかけられたら面倒だと思って立ち上がったらふらついてしまって、女性が体を支えてきた
「どの出口から出るの?一緒に行きましょう」と言われて「いえ結構です」と答えたつもりだったが、多分伝わってなくて、引きずられるように一番近い出口から駅の外に出た
日差しが暑くて視界がぐるぐる回り始めて何も言葉が出てこなくて「タクシーを拾いましょう。おうちはどこなの?」と女性が言うのをぼんやりと聞いていた
すると、女性は何を思ったのか突然私の体を放り出して「ちょっと待ってて」と言うとどこかへ去った
私はガードレール?にもたれかかったまま一人では動けず待つしかなかった
しばらくすると女性は戻ってきて「あのお店で休ませてくれるから行きましょう」と目の前にあるカフェを指した
カフェに入るとお店の人が椅子とお水を出してくれて、エアコンが効いて涼しいのもあって大分楽になった
女性は「タクシー拾ってくるわ」と言って店の外に出ていき、しばらくすると戻ってきて店員に「タクシー呼んでくれない?」と言った
水を持ってきた店員に女性は「駅であまりにも顔色が悪くて辛そうにしてるから声をかけたのよ」と誇らしげに話した後、私に向かって「あなた大丈夫?どこの人なの?大丈夫よ一緒にそこまで行ってあげるからね」と言った
その声は静かな店内に響き渡るほど大きく、他の客もこちらをちらちらと見てきた
その後も「お仕事なの?学校?連絡しなくて大丈夫?何歳なの?」と質問が続いて、答えたくはなかったが、助けてもらったくせに態度が悪いと周りから思われるかもしれないと思うと無視できず、私はそれに全部答えた
恥ずかしくて気持ち悪かったが、女性が善意で言ってくれていることもわかったので私は最後に「ありがとうございます」と言った
しばらくしてお店の人が呼んでくれたタクシーがやってきて、また女性に支えられながらタクシーに乗った
お水だけで何も頼まないのは申し訳ない気がしたが、私達にメニューは出されなかったし、気分が悪くて何も受けつけそうになかったので結局何も頼まないまま店を出てしまった
最後まで女性は「大丈夫?」と何度も聞いてきて本当に鬱陶しかった
タクシーに乗って家に着く頃には体調はほとんど回復していて、あのまま無理に動かずベンチで水でも飲んで休んでいればタクシー代もかからなかったのにと思った
あの女性が「いいことをした」と思っているだろうことが本当に腹が立つ
上島が死ぬ前から死にたい死にたいと思っていたが、上島が死んでとうとう狂ってしまった
ネットを見るに私は弱者男性なんだなと認識していった。生きている価値のない、ゴミのような存在
弱者男性の平均寿命は65くらいらしい。平均じゃなくて中央値なのかどうなのかとか、詳しい話は興味ない。もう人生はとっくに折り返した
水差しを落として床が水浸しになったのを見て、ああこれが弱者男性の生活かと思った
今日起きていつも通り死にたいと思った中で、どうせ死ぬならレイプして殺した方が得じゃね?って考えに至った
ぼんやりと妄想でそういうこと考えたことはあったけど、リアルに選択肢として検討したのは初めてだった
まず弱者男性に対して「うえめせ」で偉そうなこと言ってきてるのがイラつくんだわ。何で言われた通りに動くと思ってんの?舐めてんの?そういうこと言ってくるやつにとって一番「効く」のは何か?つまり、レイプして殺す。
なんかもう人生投げやりになってきたな。どうせ死ぬんだし。この文章もやばい単語一切伏せずに書いてるのもそういう心理状態って事さ。
まあ、ジョークだよ。メンタルヘルスに通う必要性を認識したから来週行ってくる。メンタルやばいって会社にも言ったし。毒を吐けて多少すっきりしたよ。
サンキョー。
今日の朝、久々に外に出たら爽快な感じだった。普通ってこれだよね。
ここ二ヶ月ぐらい、ずっと頭がぼんやりとした症状が続いていた。
仕事をしていても、なんか集中できていない。曇った感じである。
特に考える仕事が絶望的。誰かが作ったタスクをただ処理することはできる。ただ考えるのが辛い。
また仕事だけではなくて、コミック読んだり、スポーツ中継を見たりしてもどうも集中できていない。
休みは多くはないけど、働き詰めということではない。職種柄GWとかいうのはない。
一昨日の夜、スポーツ中継見てたら、全く状況が把握できていない。
ジロデイタリア(自転車のレース)見ていたら、誰がどこ走っているかが完全に分からなくなってしまった。
いよいよヤバイと思って、昨日一日休んで、ガチで休息することにした。
一昨日の夜は25時に寝て、目が覚めるまで寝た。目が覚めたのは11時。10時間眠った。
今日一日、まずはインプットしない。PCもスマホも最低限以外は見ない。
マインドフルネスする。今することに集中する。
と決めた。
2時間ほど走って、スタバで休憩して帰ってくる。スタバって最初から決めておく。
思考を減らす。
あれこれ考えない。こんな状態なので、サイクリングロードを選択。
今日は心拍を上げない。少し息が苦しくなってきたら、ペースを弱める。心拍計でチェックする。120から130ぐらいで走った。
あれこれ考えない。どうしても、仕事の事とから、昨日見たどうでもいいツイートの事を考えてしまうと脳が休まらない。
今ここに集中する。
最初は走るのが辛かったが、徐々に気持ちよくなってきた。久々に感じる幸福感である。
二時間ほど走ってスタバでコーヒー飲む。ここでもぼーっとする。スマホは見ない。
さて帰宅。途中一度、休憩しつつ帰りはペースが落ちて2時間30分ほど走る。
近所のスーパーでサラダ系の惣菜を買ってきたのを夕食にして、風呂に入ったらそのまま熟睡。
9時30分に寝て、8時まで熟睡。かなり睡眠負債がたまっていたようだ。普段の睡眠は基本6時間、たまに週1〜2で7時間。
昨日のスマホ使用時間見たら10分になっていた。買い物した時のスタバアプリとpaypay、後はstravaとgooglemapだけ。
PCは一度も起動しなかった。
あまりにも男男男男男男男男男女女女女女女女女女女女女ってやってるから
視界に入った際にでつい見てしまった
足の小指をぶつけた時のような感情になった。もちろん誰も悪くない、見た自分が悪い
一瞬、彼女の言うことに頷いて○○○○はアカンのでは?🤔とも思ったが、
よく考えるまでもなく、別にそんなことねーなとなった
真の経済的自立の達成をしていない人間が何を言っても不毛などんぐりだからだ
しかもそれを口にしている彼女自身がそもそも自力で得ていないので不毛の極みである
でも1億円通帳に振り込んで欲しい。別に100億円でもいい
意識の高い系の人が魂がどうたらとか言いがちなのでスピリチュアルなことを考えてみる
母ちゃんは哲学とかには興味はないがスピリチュアルは家系的に親和性が高かった
自分が小学校4年くらいの時に神様っていると思うかと尋ねると、
『特定の宗教は信仰しておらず、強いて言えば先祖崇拝だが、生かされていると感じることがあるので神はいると思う
年を重ねれば重ねるほど生かされていると感じることが多くなっている』と言っていた
その時は生かされているの意味がよくわからなかったが、母ちゃんの言葉の通り、
年を重ねれば重ねるほど、『死んでも不思議じゃなかったのによく生きてたな』とか『自分はラッキーだったんだな』とか
生かされているなぁと感じることが多くなった
生かされているだと妙にヒロイックというか厨二なので『たまたま生きてるんだなぁ』と置き換えてもいい
ただ、たまたま生きているのだから、たまたま死んでもいいよね〜?・・・みたいな感情には微塵もならない
あらゆるものを出し切って得た生存権ではないが絶対に返却しない。最低でも100年は生きたい。なんなら1000年でも生きたい。しぶとく生き汚くいきたい
あと、たまたまから漏れてしまった人の代わりに、他人に親切するとか、助けるとか、役に立つものを作るとか、身近な人を大事にするとか、
環境がどうたらというのにコミットした方がええんか・・・?とは割と思う。どれも出来ていないのでぼんやり罪悪感もある
でもやっぱり1億円通帳に振り込んで欲しい。別に100億円でもいいと思う
最低でも100年は生きたい。なんなら1000年でも生きたいので
復職してまた一人暮らしを始めたけれど、報告がてら昨日久しぶりに実家に顔を出した
ぼんやりとしか記憶がないが、ゲロ吐きながら家族の前で声を上げて泣いた
病気になったとき、やっぱり死ぬのが怖くて仕方なかった、でもそういうのを家族には言えなかった
コロナ禍で面会ができなかったし、優しい看護師さんがたまにそういうのを聞いてくれた
自分が病気してみて、見守るしかない家族のほうが自分よりも辛いんじゃないかなって思っていた
家族は自分より不安だったと思うから、家族の前では泣きたくなかった
でも昨日そういうの全部言っちゃった
あと最近体調が悪そうな父のことが心配で仕方なかったから、お願いだから元気でいてほしい大好きだからって叫んでまた泣いた
それ以外のこともいろいろ言ったと思うけどあんまり覚えてないし同じこと何回も言った気もする
昨日は泣いて酔いが回って歩けなくなって吐きまくって、家族に申し訳なかった
親元離れて自分ももう30歳過ぎて、親にそういうの面と向かって言う機会なかったし
本当は大好きだとか、ずっと元気でいてほしいとか
そういうのをなにも伝えられずに突然終わってしまうのが死において一番怖かったことなのかもしれないなと思った
今はなんだか安心している
二日酔いもやっと落ち着いてきた
こわ。
20代前半の頃、ぼんやり生きていたら、積極的な女の子が急にグイグイ来て、悪い気はしないので受け身に付き合った。
でもその女の子が美少女なわけではなく、普通のルックスで、会話がかみあわないことがある子だったりして、
「結婚したいという気は起らないなあ」なんて上から目線のことを考えながらぼんやり付き合っていたら、
唐突に振られて(本当は唐突ではなく、サインが出ていたのに、気づかなかったか、面倒だから無視していただけなのだろう)、
振られたあとは20年、あらゆる女性から「人間」としては会話してもらえるけど、「恋人・配偶者候補」としては無視されて、
これでも女が悪いんだ。
年末ジャンボの時期はギリ8億くらい(1等前後賞合わせて10億なので)までだったら、夢見たり妄想できるんだけど、
『40億』とか言われると途端に夢見たり妄想出来なくなりますね
なんかマンション経営をしょうとかそういうせせこましい妄想とか一切出てこなくて、誰が買えるんやろか?という気持ちにしかならない
ニューヨークのペンシル物件くらいなら、『宝くじが当たれば買えはするけど、金持ちじゃないと管理費が維持できないな〜』とか妄想出来るけど、
40億かぁ・・・🤔
■面積約235.75坪の広大な土地
2沿線以上利用可、土地100坪以上、スーパー 徒歩10分以内、市街地が近い、システムキッチン、浴室乾燥機、陽当り良好、閑静な住宅地、前道6m以上、整形地、トイレ2ヶ所、2階建、東南向き、温水洗浄便座、都市近郊、アイランドキッチン、IHクッキングヒーター、都市ガス、小学校 徒歩10分以内、平坦地
「妄想だ」と叩かれることが多いけど、「女の子が降ってくる」に近い事態というのは現実にあって、
20代前半の頃、ぼんやり生きていたら、積極的な女の子が急にグイグイ来て、悪い気はしないので受け身に付き合った。
でもその女の子が美少女なわけではなく、普通のルックスで、会話がかみあわないことがある子だったりして、
「結婚したいという気は起らないなあ」なんて上から目線のことを考えながらぼんやり付き合っていたら、
唐突に振られて(本当は唐突ではなく、サインが出ていたのに、気づかなかったか、面倒だから無視していただけなのだろう)、
振られたあとは20年、あらゆる女性から「人間」としては会話してもらえるけど、「恋人・配偶者候補」としては無視されて、
元彼女の一件は「奇跡」であったことを、10年20年経って、さすがに直視しなくてはならなくなる。
元彼女は今でも自分のことを好きでいてくれるはずという幻想にも浸れない。とっくに既婚者になっており2児の母だ。
ぼうっとしている人間が、ラッキーで女性の好意を得られても、ぼうっとしているままなら、逃す。
ラッキーがあったときは、ラッキーが途切れないうちに、運の流れが来ていると感じているうちに、
死ぬ気で、自分を作り替える勢いで、求められることができる人間になれるよう学ぶべきで、
そうでないと流れが途切れたときに、全部が元通りになる。
プライベートの人間関係だけではなく、仕事でもなんでも、人間が関係するものはすべてそうなのではないか。
女性についてだけ書いているようだが同性の友達もいない。積極性やサービス精神がないと同性にも相手にはされない。
分かれ道は、まず「運の有無」があって、次に「運に乗って学習するか否か」がある。
ひたすら運がない、本当に運がなくてすべての機会が絶たれている場合は気の毒だ。
でも、多数派は俺みたいに、運がもたらした機会を怠惰によって台無しにしているのではないか。
本当は怠惰が原因なのに、運がなかったと思い込んで、努力家が享受しているものだけを、あいつは運がいいと言って、ねたんでいるのではないか。
息子ちゃんはあたしの彼氏!ってやるだけならただきっっしょいだけで済むんだけど
そういうババアは間違いなくお嫁さんをいびるし、何なら実の娘でもおかまいなしにいびる
一方でママに甘やかされてる男は思考能力を奪われぽかんと口を開けながらぼんやりと霞がかった世界で漫然と生きていく
我慢の限界を迎えた嫁や姉や妹がブチ切れても、自分が甘やかされていることも彼女たちがいびられていることも自分の母親が鬼ババアなことにも気づけないので
なぜ彼女たちが怒っているかが理解できずわけもわからないまま離縁されてママと余生を過ごすことになる
増田のお母さんはちゃんと増田の気持ちを察して尊重できる人だからどっちみちいずれは適切な距離感を得ていたんじゃないか
母親があえて自ら息子の手を放すってなかなかできることじゃない、立派な人だと思う
すごく仲がいい友人がいてほぼ丸一日遊んでもすごく楽しくて疲れないのに、泊まるとなるとホテルチェックインからチェックアウトまでしかいなくてもストレスでやられてしまう。
相手は多分泊まるの楽しいから年中誘ってきて毎回理由つけて断るけど一年に一回は「今回は大丈夫やろ」という気持ちで泊まって後悔する。よくない。
第一にとにかく気が使えない。(気が使えない人あるある、すぐ「こないだ会った人気が使えなかった」とか言う)
何も言わずに部屋の7割くらい荷物で占拠したり、部屋の椅子を独占したり、寝てる横で動画をイヤホン無しで見たり、夜中にでけー声で喋る、変な時間にパンとか食べて夕飯入らないから軽いのにしようよとか言う、コンビニからホテルまで遠いから行きがけにコンビニ寄ろうって前日に決めてるのに先にホテルに行く、「適当に買っといて」って言うけど好き嫌い多いから「食べられないものしかない」とか言う、テレビ見てたらつまらないって言うからチャンネル変えたら全部つまらないって言う、うるさいから消す?って聞いたらいいよいいよって言うけどつけといたらやっぱりつまらないってずっと言ってる、消したらYou Tubeみてた
ホテルもレストランもなんも決めてないのに「あっちのが良かったなぁ」「混んでるなぁ」とか言う、ホテルまでの道を歩いてたら通り過ぎた後に「あっちから行ったほうが良かったよ」って言う(距離も高低差も同じ)、「じゃあその時に言ってよ」って言ったら不機嫌になった、駅の乗り換えがあっちのほうが早いって言うけど自分と逆方向だからそっち乗ればって言ったらもういいよって言ってたけど電車乗ってる時ずっと「やっぱりあっちのほうが早かったなあ」って言ってた
第三に自分の行動に縛りたがる。
温泉が有名なとこに泊まったからチェックイン直後に温泉入りに行こうと思ったら「まだゆっくりしてたい」つぅから一人で入ってくるよつったらえー言うてぶすくれるからよ3時間部屋でぼんやりしてた(2敗)
あとなんかすごいジロジロ見てくる。行動値踏みしてるみたいな…うわぁとか思ってんだろうなって思うとマジイライラしてきた。
アリの下顎歯(mandibular teeth)を原子レベルで配置を観察すると "亜鉛(Zn)" で切れ味を最大化していることがわかったそうな。
サソリの鋏角、爪、尾部の針、クモの牙などでも同様で、先端部に亜鉛(Zn)が均一に配置されていることが判明した模様。
人の歯と同じ生体材料で作られた場合に比べて、60%以下の切断力で十分であると推定されるそうな。
『へぇ〜・・・すごいなぁ🤔』とは思う、『美しいなぁ・・・』とも思う。
ただ、蟻や虫に対して思い入れがないし、ナノ畑の人間でも素材開発畑の人間でもないので、
『うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ』とは別にならない。
何かをキッカケにまた思いだすことはあるかもしれないが、とりあえずバナナを食べて牛乳飲んだら忘れる程度の興味レベルだ。
それに対して、ワイくんの部屋にずらりと並べ飾られている、ポスター、フィギュア、円盤、関連本、薄い本たち。
これらはすべて美少女Aちゃんなのだが、今のワイくんは、美少女Aちゃんの何が良くて熱心に集めたのかまったく思い出すことが出来ずにいる。
原因は不明だが、寝て起きたら、美少女Aちゃんに関する記憶だけがワイくんの中から綺麗さっぱりと消えていた。
今のワイくんにわかるのは、寝て起きる前までは、熱烈な美少女Aちゃん信者だったと言うことだけである。
少なくとも蟻の下顎歯の強靭さよりは強い関心と興味を持っていたはずだ。
ところで、ワイくんはお引っ越しプロジェクトの真っ最中である。
ずっと貰っていたお仕事が無くなってしまったので、しばらく実家に置いてもらおうという心積もりで、お部屋のお片付けをしていた。
なので、この美少女Aちゃんグッズをどうするべきか?は早急に解決しなければならない問題だ。
ちなみに美少女Aちゃんグッズを売ったら幾らになるのか、過去のオークション・フリマアプリ・中古ショップの履歴を確認したところ、二束三文のようだ。
その上、美少女Aちゃんは人気が無かったのか、現在は売りに出している人は誰もおらず、万が一記憶が戻って美少女Aちゃんを買い戻したくなった場合は、
かなりの出費と労力が掛かりそうだ。
じゃあ、トランクルーム・レンタル倉庫でも借りて、とりあえずはそこに美少女Aちゃんグッズを置いておくか・・・?とも一瞬考えたが、
収入減で少しでも出費を減らしたいから実家のご厄介になろうとしているのに、新たな固定出費を増やしたら本末転倒である。
なによりも、今現在のワイくんは、美少女Aちゃんに対して蟻の下顎歯の強靭さくらいの興味しか持てないでいる。そこに無いお金を今払いたいか?と言えば正直NOである。
美少女Aちゃんグッズは寝て起きる前と何一つ変わっていない、変わっていたとしても人間には認識不可能なレベルの経年変化しかないのに、
ワイくんが美少女Aちゃんの記憶をきれいさっぱり失ってしまったが故にいっきに無価値になってしまったのである。
目を閉じ、開けば、部屋中に美少女Aちゃんグッズはまだあるし、触ることもできる。
だがワイくんが価値を置いていたのは物ではなく "記憶(想い)" だったのだ。
"記憶(想い)"に重きを置いてるのに、居住スペースを物理で圧迫するのは、理不尽の極みなのでは?とますます美少女Aちゃんグッズ不用の気持ちが強くなったが
どうしても、えいや!と投げ捨てる決心はつかない。
実在する物ではなく、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)" に重きを置いていた事実に、薄ぼんやりぼんやりとした罪悪感と恐怖を覚えるのだ。
あるSFでは自己("I")を記憶(想い)の連続と定義している。
精神科か脳神経科か物忘れ外来か・・・ワイくんはこのあと何科にご厄介になるべきなのかは知らねど、とりあえず記憶障害を起こしており、
実在する物として今ここにワイくんは"有る"が、ワイくんは昨日までのワイくんでは無くなってしまったのだろうか?
もちろん、不動産管理会社には退去連絡をしてあるのでワイくんはとっととお部屋のお片付けをして期日通りに部屋を明け渡さねばならないし、
"I (アイ)"がなんであろうと、腹が減ったら苦痛を覚えるのが生命現象の仕様なので、今のワイくんがなんであるかは?とてもプライオリティーが低い問題ではある。
だが、今からお世話になる実家の両親が重きを置いてるのは、今ここに物理で有るワイくんだろうか?それとも記憶(想い)のワイくんだろうか?
まぁその答えが例え出たとしても、部屋のものがスッキリ梱包されたり、ほかほかのご飯が自動的に出てくるわけでは無いので、それもどうでもいいと言えばどうでもいい。
しかし、それでも引っかかるのだ。
架空の美少女Aちゃんのだったから良いものの、これが犬猫小鳥トカゲなどの生きているペットや人間だったら?
実在する物ではなく、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)" に重きを置くことは果たして許されることなのだろうか?
またワイくんたちは、人・動物・物に対して愛を誓うが、
その愛は、実在する物に対して誓われたものなのだろうか?それとも自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)"に対して誓われたものなのだろうか?
かの有名な『ロミオとジュリエット』の中で夜ごとに形を変える月に愛を誓うなんて不実!みたいなシーンがあるが、
実在する物も、自己の認識にしか存在しない "記憶(想い)"も、万物はすべて変わるし、
そもそも"I (アイ)"自体が不確かなものなのだが、誓いとは、想いとはいったいなんなんだろうか?
ワイくんたちは、なんだかよくわかないものを大層ありがたがって生きているのだろうか?
これも、『うるせーーーー!!!!!!!!!生命現象の秩序維持になんら影響しねーーーーだろ!!!!!』といえばそれまでだが、
いったいワイくんたちは何だったらわかる・ありがたがる価値があるのだろうか?
「石の卵」という本を見た子供が、内部に宝石の入った石を探したいと騒ぐので、家族で川原に行くことになった。
ところが、川辺のキャンプ場の駐車場に車を停めて川原を目指して歩いたところ、川原へ通じる小道の全てが封鎖され、「立ち入り禁止」の立札が立てられていた。
車へ戻り、堤防沿いや川にかかる橋を通過してみたりして気づいたが、連休中でしかもいい天気なのに、川原には川遊びをする人々どころか釣り人さえ一人としていない。いつの間にか、川原全体が立ち入り禁止区域になっていたようだ。
そんな訳で石拾いは諦め、翌日、市営のちょっと大きな公園に行った。お目当ては、公園の中心にある池だ。そこではザリガニ釣りと鯉に餌やりをすることが出来るのだ。
公園に着くと、まずは散歩がてらぐるりと一回り。ここに来たのは数年ぶりだが、昔とほとんど変わっていない。芝生や樹木は手入れがなされてさっぱりとした様子。遊具では沢山の子供達が遊んでいる。噴水は十分おきに水を吹き上げる。そこに水着姿の幼児達が水浴びに興じている。
変わった点はというと、芝生の半分くらいは沢山のポップアップテントに占拠されていて、子供達が走り回る場所ではなくなっていたことくらいか。
だが、ふと気がついたが、うちの子供達は既にこういう公園で遊ぶような年齢ではなくなりつつあるのかもしれない。テントの合間をぬうように走り回る子供達より、我が子らはだいぶ大きい。うちの上の子は小学五年生だ。下の子は二年生で小柄な方だが、それでもこの場所では少し浮いているかもしれない。
池に行ってみると、昔のように畔には燕子花が葉を伸ばし、浅瀬は蓮の葉に覆われている。そして、池の中央にかかる橋から池に餌を投げ込んでいる人々がいた。どうやら今も池の鯉用の餌が売られているようだ。
そこで、子供達を連れて公園の入り口まで戻り、管理事務所に入った。昔は事務所の窓口で鯉の餌が売られていたはずだ。ところが、今は販売システムが変わっていた。事務所の裏口で「鯉・カモの餌」と「ザリガニ釣りキット」がそれぞれカプセルに入れられた状態で販売されているのだ。1個100円なり。
昔、子供達がまだ幼児だった頃は、どんなにせがまれても鯉の餌やりやザリガニ釣りはさせなかった。池の深さはそれなりにあるのに、周囲に柵などが全く設置されていないからだ。子供達が池に落ちるのを畏れた。だが、今では子供達も大きくなったことだし、これからはこちらがここへ遊びに来ようと誘っても子供達の方が億劫がるかもしれない。もしかしたら、これが最初で最後の機会になるかもしれないと思った。
子供達は大喜びだ。上の子は鯉とカモの餌がいいと言い、下の子はザリガニ釣りキットを選んだ。鯉とカモの餌は思ったより多く入っていた。ザリガニ釣りキットは、タコ糸の先に小さな鉛の玉とスルメの切れっぱしをくくりつけたものだった。それを園内で適当な木の枝を拾って結び着けて使うのだ。
上の子に私がつき、下の子には夫がついた。私と上の子は池に餌を投げ込み易い、開けた場所に移動し、夫と下の子はザリガニがいそうな、浅瀬で草の陰になっている場所へと移動した。
池の中を泳ぐ魚影は、昔に比べてだいぶ少ないように見えた。だが、一匹一匹がとても大きい。昔見たのよりも全長が倍くらいありそうな錦鯉が、泥水の中を悠々と泳いで行く。上の子はただの黒い鯉よりも錦鯉に餌を食べて欲しいらしく、餌を一粒ずつ、腕を振りかぶって遠投するが、まったくのなしのつぶて。どうやら、鯉達は全く腹を空かせていないらしい。風上の方から、ふやけた餌粒がいくつも漂ってくる。
黙々と餌を投げ続ける上の子の横で、私はしゃがみ込み、時々水底に光る小魚の影や水面を漂う餌粒の合間をすいすいと泳ぐアメンボを眺めた。
「あーあ、全然食べてくれない」
と、上の子が嘆いた時だった。燕子花の葉陰から、カルガモが二羽、クワックワッと鳴きながら泳ぎ出て来、水面に浮かぶ餌粒を食べ始めた。ただ水の流れ任せにたゆたっていく餌粒を、カモはまるで生きている虫を捕まえるかのように、律儀に大げさに嘴を左右に振って、食んだ。そして、クワックワックワッと、まるで我々のことを「餌くれる人」と理解しているかのように見上げて鳴くのだ。時々田んぼの近くを散歩中に見かける彼らとは、ずいぶん態度が違う。用水路に浮かんでいる時の彼らは、人の気配がするやいなや、バタバタと飛び立ち、逃げてゆくというのに。人を見分けているというより、場所を見分けているのだろうという気がする。
間近で見るカルガモは、思ったよりも目が顔の中心よりも上にあって、しかも目付きが鋭い。剣呑な目の真ん中の瞳孔は、鳩のそれと同様に虚ろだ。確か、渡辺崋山だったか……、江戸時代の終わりごろに、師匠の絵を手習いにするのではなく、自然の花鳥風月を直接手本にして描く絵師がいたけれども、彼らの観察眼はかなり自然に忠実だったのだなあと、しみじみ思う。今目の前にいるカルガモは、私の子供時代にワイドショーで持て囃されていた、雛を沢山連れて道路を横断するカルガモの親よりも、江戸時代の写実画によく似ている。
上の子は、鯉を狙って餌を投げつけている間に投球のコントロールがよくなり、高確率でカモの真正面に餌を投げ込んだ。ところが、そういう時に限って、カモ達の食い付きは悪い。上の子の贔屓は、二羽のうちの後方にいる方で、これは前方に出て盛んにクワックワッ鳴いて餌を強請る奴よりも小柄で控えめに見えた。上の子は手前のカモに一粒投げたら、後ろのカモに二粒連続で投げた。だが、後ろのカモがきょとんとしている隙に手前のカモが自分に投げられた餌そっちのけで後ろのカモの分を横取りしてしまう。
上の子が文句言い言い餌を投げる。ぼんやりと浮かぶだけの後ろのカモと、その周りを忙しなく動き回って餌を独占する、手前のカモ。後ろのカモがこちらに真っ直ぐ顔を向けたままほぼ動かないので、真正面から見たカモの顔つきの不気味さがよく見える。ウサギなんかと同じで、目が顔の左右に着いているので、真向かいに向き合っても視線が合うことはない。カモのような鳥が真正面から絵に描かれることが少ないのは、我々人間の顔とは違う顔をしているからであり……はっきりいって、正面から見ると別に可愛くないからでもあるんだろうな。
と、考えていてふと気づいた。単に視野の問題なのだ。私は上の子に餌を一粒貰い、後ろのカモの左脇を狙って投げた。すると、すかさず手前のカモも反応したが、後ろカモは横取りされる前に餌を食べた。やっぱり、目の前に落ちた餌は、見えないので気付き難いようだ。後ろのカモに与えようとして投げた餌はちょうど、手前のカモの視界をよぎって飛んでゆく。
そのことを上の子に伝えたところ、上の子は二匹のカモに代わる代わるに餌を食べさせることに成功した。
カモ達の食欲は底なしに見えたが、少しすると食べ飽きた様子で、餌を拾うのを止めてただ水を嘴で掬って飲んだ。水を飲むときは首を真上に長々と伸ばして、軽く嘴を左右に振りながら嚥下する。
ふと、後方のカモがブルッと尻を振った。茶色い水中にあってもオレンジ色の鮮やかな、しんなりとした脚の周りを白いもやが漂っていく。
「すごい、うんちしたー!」
なるほど、カモは水面に浮かんだままで排泄をするのか。野鳥の排泄なんて、カラスが電線から飛び立ちざまに排泄をしてゆくところくらいしか見る機会がないので、いいものを見た気がする。Eテレの動物番組でも、なかなか映さないのではないか。せいぜい、ツバメの雛が親の顔に尻を向けて、ゼリー状に固まった糞を排泄して、親に糞を巣の外に捨てて貰う場面くらい。
そういえば、冬に下の子を連れて散歩をしていたら、田んぼの真ん中でアオサギが糞をしているのを見かけた。まるで水道の蛇口のように、長々と糞を噴き出し続けていた。食ったらすぐ全部排泄する。それが空を飛ぶ鳥の習性だ。
餌を全て投げ終わったので、夫と下の子の所へ行ってみると、下の子はザリガニが全然釣れないと愚図っていた。下の子はすぐに癇癪を起こすが、案外粘り強い性格なので、取れないが食い付きはするからと、釣り上げるまで諦めないと言った。だが、夫の方が気短なので、早く帰ろうと言い出した。
夫は、釣り場選びから釣糸の垂れ方まで下の子に口出しをしただけでもう疲れたらしい。池の周りには、夫と同じように子供以上にマジになってしまった父親達と、うんざりして別のことをやり始めた幼児があちこちにいる。
どうしてもザリガニが釣れないので、鯉とカモの餌をもう一つ買って下の子に与えた。カモは目が左右に着いているため、真横はよく見えるが真正面はよく見えないようだ、と教えると、下の子はカモの体側にぶつけるように餌を投げた。カモは即座に反応してくるくる回りながら餌を取った。下の子がそうして黙々と餌を投げてると、やはりザリガニ取りに飽きたらしい幼児が我々の横にとことこ歩いて来て、ハルジオンの花をカモに向かってぽいぽい投げた。数メートル先の池畔では、その子の父親が虫捕り網を手に持って、
と怒鳴っていた。
帰宅後、釣果が何もなかったので、日記が書けないと下の子が愚図った。でもカモに餌をやったじゃないかと宥めすかせ、日記を仕上げさせた。絵は下の子が自分で描いたが、文章はほとんど私が書いたようなものだ。カモは横から餌を投げられるとよく食べる、と。カモの様子ばかりで「楽しかったです」や「面白かったです」などの自分自身の気持ちが一言も書かれていない絵日記。そういうタイプの絵日記を、学校の宿題として提出するなんて、子供時代には思いもしなかったなあ。
最上階の1階下に住んでる
・全体として:景色うんぬん抜いて普通に便利なのでタワマンに憧れがある人は今すぐ住んだ方がいい
・24時間ゴミ捨て可能(各フロアにゴミ捨て場がある)のクソ便利
・近所の施設に傘無しで行けるの超便利
・コンシェルジュとかいうあんまり役に立たん高級感を出すためだけのただの事務作業員
・エレベーターは確かにめんどいが階数によって分かれてるかつそれぞれ数あるから待ち時間は予想より短い
・住んでるガキでいい子そうな奴がいない ぼんやりしたハングリー精神のなさそうなボンボンorイキリクソガキ
・職業不明の人物と真面目そうなエリートサラリーマンぽいのが混ざってる あとはごく普通の人たち(俺)
・夜景は慣れるがたまーに遅く帰ってきた時とかやっぱおおっとはなる
正直、理系からみると文系ってジェネラリストで人当たりのよいコミュ充として社会の潤滑油になってくれてないとおかしいよなとは思うんだ
いわゆる感情労働ってやつ
文系男性と高卒女性はおそらく技術力よりも目に見えにくいせいで感情労働スキルを買いたたかれてるんだろうけど、
定量化してとらえられずぼんやりと「自分にも才能があればな」と思うだけだし、ひどいと体を売ればコミュ充になれるとおもってそう
じゃあもう生ポ受けて子供をまともな人間(含:理系)に育てるという最大の感情労働に専念すりゃいいのにな
なぜなら理系の素養が子供にあっても感情労働しか労働を知らない文系親は子供の適応性を早いうちに英語スクールとかで使いつぶそうとするから
文系発信者としてのスキルも新聞記者くらいの事実レポート力がみがかれてればものになるんだろうけど新聞自体オワコンだし
知性終わってる