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2019-04-26

anond:20190426112106

かめはめ波打ってるのは沢山いたが

それは面白いから真似するんだろ

ヒーローキャラとの自己同一視」と「決めフレーズ必殺技のものまね」の区別がつかない方?

まあそれぐらい頭悪くて思考ぼんやりしてる奴が食い下がってるんだろうとは思ったが

2019-04-25

49歳独身だけど20歳の頃はいつか結婚するんだろうなとぼんやり夢みてた

30歳の頃は婚活をやり始めて35歳で活動自体は諦めた

40歳のころ、このままだと死ぬまで童貞だという危機感から風俗に何度か行った

45歳前後で続けざまに両親が死んだ

49歳の今も彼女はできないし結婚なんてまったくないし孤独のうちに死ぬんだろうなと思う

いつかとかいずれなんてないからな

2019-04-24

anond:20190424184405

その種のログを見て、本当は女性蔑視継続したいと思ってるぼんやりした人を勇気づけそうなのが笑

飲み屋で夕食食べてぼんやり

大勢の喋り声が重なって意味のある言葉はあまり聞こえない

静かな中で意味の分かる会話が聞こえるのはひどくうるさく感じる 精神的に

が、ここは意味がわからいから過ごしやす

と、思っていたが 束になった話し声の音量自体が大きいようだ 物理的にうるさい

そろそろ帰るか

2019-04-21

彼女まんこを見たことがない

暗闇の中でぼんやりとしたやつしかたことがないんだが、視覚的なエロ重要性は男と女では違うのか?

蛍光灯の下でまじまじと見たいんだが毎回はぐらかされる

高齢者から運転を取り上げることは簡単なことではない

痛ましい事故が起きると高齢者から免許を取り上げろという声が挙がる。

果たして、そうして声高に叫んでいる人の中で、どれくらいの人が実際に自分の両親に運転をやめるように伝えることができているのだろうか。

わたしの父は運転が上手だったし何より好きだった。

そんな父の運転わたしも好きだったし、今のわたし運転の見本になっているのは教習所教官でも車好きの友人でもなく、紛れもなく父の運転だ。

それだけ父の運転を信用していたし、尊敬していた。

そんな父に、わたしからもう運転はやめるように伝えたのは父が70のとき、5年前のことだ。

きっかけは父の両親のお墓参りに行ったときのことだった。

とっくに車を手放していた父は、こうしてお墓参りに行くときや年数回のゴルフ旅行に行くときわたしの車に乗ってハンドルを握った。

毎年通る道、毎年変わらないはずの道が、その年は区画整理を兼ねた大きな工事が行われたことで、いままで見たことのない風景に変わっていた。

いつも使っていた道は閉鎖され、見知らぬ信号機に見知らぬ交差点ばかりだった。

それでも父ならば大丈夫だろうと、娘を脇に抱えてぼんやり風景を眺めていた。

しかし、その時の父は違った。

今まで一度も見せたことのない様子で焦り、苛立ち、わたしがなにか言おうにも頭ごなしに遮り、運転のものすら見たことがないほどに荒々しいものになってしまっていた。

極めつけは、道のど真ん中で急に停車して、クラクションが浴びせられる中での急なUターンだった。

ようやくの思いでお墓までたどり着いた頃には、母も見るからに苛立つし娘も泣き出すしで、さんざんな状況になっていた。

わたし運転だと不安かもしれないけど、帰りは代わろうか?」

一応進言してみたものの、父はそれをきっぱりと断った。

これ以上何かを言えば父を信用していないみたいになってしまう。父を傷つけてしまうような気がして、それ以上はわたしから何かをいうことはできなかった。

それからも、迷いがありながら、父がゴルフ旅行に出かけるときは快く車を貸し出した。

しかし、たまに同行する母からは、その度に曲がり角を間違って苛立つ父の話や、高速の出口を間違えて何故か母に強くあたる父の話を聞かされるばかりだった。

これ以上父に車を貸し続けていていいのだろうか。車を貸し出す度に迷いが募っていった。

そんな時、とうとう父が事故に巻き込まれたという連絡が警察から入った。

幸いながらもらい事故だった。

だけど、わたしを悲しませたのはそんなことではなかった。

いざ迎えに行ってみると、父はただひたすらに如何に相手に非があって、如何に自分が悪くないかを繰り返した。

聞けば相手側の不注意による追突事故らしく、過失はほぼすべて向こう側にあるらしい。

相手保険新車になるならよかったじゃないか。」

思いもよらない父の一言唖然としてしまった。その後も父の口から事故を起こして申し訳なかったという一言最後まで聞くことはできなかった。

父が走行している間、事故を起こした相手不安定な運転を繰り返していたらしい。

一昔前の父なら、そんな相手がいるなら絶対に近寄らないし、ましてやその車を後ろに背負うことなんて絶対にしなかったろう。

それなのに、ただひたすら相手が悪いと繰り返し言い続けている父を見ていることはただただ悲しくて辛かった。

それから程なくして、結局少しの持ち出しとともに新車に買い換えることになった。(くわしくはわからないが車軸が曲がっていた?とかいうことらしい)

わたしが父に運転をやめるように伝えたのもその時だ。

保険の種類が変わったことで、父が保険対象外になってしまった。」

わたしはそうやって小さな嘘をついた。

そのかわりに、父が車に乗りたいと言い出す前に今まで以上に両親を旅行に誘った。

出費や親のために使う休暇も増えたが、父が事故を起こすことに比べたら何でもないことに思えた。

ある時、隣に乗っている父が「老後は小さなスポーツカーで色々なところに出かけるのが夢だった」と独り言のように話し始めた。

父はまだ運転を諦めていない。

「それは素敵な夢だね。だけど、もしそれで娘と同じくらいの子供を事故に合わせてしまうようなことがあったらわたしはどうしていいかからないな。」

父は一言「そうか」とだけ口にしただけだった。

高齢者による事故が起きれば、あのとき自分判断は間違ってなかったと自分に言い聞かせる。

高齢者から車を取り上げること自体簡単なことかもしれない。

でも、ただ取り上げることを声高に叫び続けるだけではなく、それによって失われるものを埋めるための努力が本人以外にも必要なのだ

未だにわたしは父の夢を奪ってしまったのかもしれないと葛藤を続けている。

2019-04-19

子どもの体温

出産して1年が経った。子どもはすくすく育ち、当たり前だがもう1歳。

歩き始めて何にでも興味津々、最近では言葉意味もよくわかってきた。

自分会社経営しているため、仕事を早く再開しなければならなかった。

産後0日から仕事の連絡がバンバンきた。

授乳をしながら返信し、かかってきた電話にも対応した。

けど、保育園激戦区ゆえ、まったく預けられなかった。

溜まった仕事を片付けなければと思いながら赤ちゃんの世話をする。

ギャン泣きの中、オンラインで打ち合わせもした。「うるさくてごめんなさい」と謝りながら。

一日が嘘のようなスピードですぎていく。

朝起きたら赤ちゃんが隣にいて、おっぱい、うんち、ねんね、泣いてるどうしたの?、お散歩、あつい、さむい、ああもうつかれた、ねむい、・・・

そんなかでの仕事

正直、ぜんぜんなにも考えられなかった。

つらくてつらくてしょうがなかった。

なにもかもやめて、ひとりっきりでぼんやり旅に出たい。もう会社なんかやめちゃいたい。

メンバーからは、「ちゃんと考えてほしい」と詰められる始末。

でも、

質問されたことに答えているつもりでいるけれど、その場しのぎの答えしかできない。

本当になんにも考えられない。

筋道立てて物事を整理して考えることができない。

さっき言ってたこととロジックが通っていない話をしちゃってる。

自分の信用もなくなっていくって感じた。

こんな自分ことなんて、誰も信じてくれない。仕事ぜんぜんできない人だ。なんにもできない人間だ。

子どもを産んで、馬鹿なっちゃったな、

・・・そう感じた。

赤ちゃん寝返りをうち、ハイハイができるようになり、母親になった私も離乳食をつくって与えてを繰り返すうち、家に赤ちゃんがきて1年が経とうとしていた。

仕事を本格的に始めないと、会社的にも限界がきていると感じていた。

住んでいるエリア保育園は、認可はもちろん、無認可ですら箸にも棒にもひっかからず、引っ越し余儀なくされた。

でも、なんでもいいか子どもを預けて仕事をしないと。

そう考える一方で、ずっと一緒にいた赤ちゃんと離れたくない、なんて気持ちも生まれていた。

1年間、片時も離れずべったりいた赤ちゃん自分母性が生まれているのを実感した。

ぐちゃぐちゃした感情の4月、それでも保育園に預けることができた。

いま、ならし保育のまっただ中。

時間が2時間、3時間時間・・と、預ける時間が長くなり、ひとりでいる時間ができた。

そうしたら、すごく強烈に、自分が戻ってきた感じがした。

隣に赤ちゃんがいない、自分ひとりでパソコンを前に座ったとき脳みそシナプスがつながった。

私、1年間何してたんだろう?って思った。

赤ちゃんのお母さんと、社会に属して仕事をする身。

家にいて、そのスイッチの切り替えをするのは無理があった。

女脳と男脳、なのか、頭の使い方がぜんぜんちがう。赤ちゃんをみているときは、決断なんてできなかった。

何と言われてもいちいち傷ついて、どんな状況でも自分被害者の気分でいた。

クリエイティブな脳も死んでいて、物事を考えだす、生み出す、なんてのも難しかった。

なにをみても感動しないし、ほしいものもなければやりたい未来も見えなかった。

一寸先は闇で、人生真っ暗、赤ちゃんかわいいけれど、なんか自分人生はもう終わってもどうでもいいよ、なんて思ってた。

赤ちゃんと離れる時間ができたいま、すごく客観的自分のことがみられる。

そして、この1年間のしんどさの原因についても、頭を使って考えることができるようになってきた。

いやー、

子どもを育てるって本当にたいへん。

保育園に預けず、幼稚園まで自宅で育児をする母親は、本当にすごい。

赤ちゃんを家でずっとみていた1年間、

この一生の中で、もっとも「女」だったとおもう。

否が応でもおっぱいをあげなきゃいけないし、赤ちゃんを育てるという母性を発揮しなきゃいけない。

からか(?)この1年間、もともと苦手だった甘いものが大好きになり、毎日のようにスイーツを欲していたり、

とにかく性格もネチネチと自分想像する嫌な女っぽい人間になってた。

でも赤ちゃんちょっと離れられるようになった今、

甘いものがあまり欲しくなくなり、なんならお酒を飲みたくなったり、仕事の話をしながら飲みの場に行きたい、なんて思うようになった。

人って変わる。

環境によってすごく変わる。

それを実感した1年間でした。

2019-04-18

二次創作の好みを押しつけるな

二次創作しかキャラBLの話をするので苦手な人は見ないでほしい。本当はこんなところで書くべきじゃないのもわかっているけど、吐き出したい。

はいゆるオタクというやつで、しか腐女子だ。どちらかといえば、いちキャラクターに愛が向くタイプCPにこだわりはない。むしろ好んでみる二次創作キャラクターの性格解釈に重きをおいたストリーのものばかりで、ぼんやりといえば「かけ算もの」は好みのものがあればという程度だった。

腐女子はいいつつ、かけ算ものは読めるというだけで、好きかと言われればちょっと悩む。

固定厨でもないし過激派でもないのだ。

でも最近、あるキャラクターのことを好きだといえば「このCPいいよね!」とそのキャラクターと誰かのかけ算ものをすすめられる。

そのCPジャンル大手で、私も嫌いではないし好きな絵師さんもそこのジャンルだとそのCPをよく書いている。嫌いではないのだ。

でも、あくまで私はキャラクターが好きなのであってCPはどうでもいい。かけ算もどうでもいい。そのキャラクターが好きなだけだ。

大手かもしれんが、だからといって皆好きなわけではないのは分かっているはずだよね?

それを「そのキャラクター好きならもちろんこのCPも好きだよね!」っていうテンションで話しかけてくる人が多すぎて辟易する。

もちろん二次創作なのだから原作があるわけだけど、その原作にある絡み程度若しくはそれよりちょっと誇張された解釈ぐらいなら大丈夫だったのに、もうそれをされ続けたせいで嫌いになりかけ。普通に好きだったキャラクター達だったのに、こんなくだらないことで「好き」の感情を踏み荒らされるなんて思わなかった。

しかに最大手で、界隈の人たちが好きそうな感じのCPだけど人にまで押し付けないで。

さすがに疲れてそれとなく躱してるけど、そこで察して理解してくれて引いてくれる人もいる反面、ゴリ押ししてくる人もいてなんだかなという感じ。

akam好きだって言ってるお前らのことだからな。いい加減にしろ

仕事担当もわからないとか何年目だよお前は

そろそろこの事実に気づくべきではなかろうか

日本企業財務経理畑の連中は、時間あたりの生産性を上げるための投資をしたがらない。社内インフラの強化などといった固定費増加に繋がるものが中心になるから

しろ固定費を下げるために社内インフラをグレードダウンしたがる。当然時間あたりの生産性は下がるが、社員裁量労働制高プロ適用すれば何時間働かせても人件費は同じだから問題ない

また固定費を増やさないために、正規雇用を増やさず、極力外注するよう現場にオーダーするのも財務経理畑の連中だ。これでは現場士気も上がらない。

それは財務経理仕事じゃない

君は仕事職場をすごくぼんやりしか把握してなくて誰が何を担当してるのかすらわかってないんだと思う

経理って言うのはみんなが動いた結果の金の流れを把握してデータ処理する仕事で、

みんなをどう動かすか判断するのは経理じゃない


君の会社資金繰り収益ヤバいなら

ヤバいですよ」「このままだと破綻しますよ」と警告するのは経理仕事だけど

そこで何をどうするか考えるのは通常は財務経理ではない

(ほかに出来る奴がいないとか、本格的に破綻してきて整理前提になったら経理が出ばることはある)


君みたいに仕事の職域も担当も正確にわかってないボンクラが「〇〇が悪いー」って簡単に指摘できるならプロ経営者なんかおらんわな。

anond:20190418082827

2019-04-15

クラムボンは、カプカプ笑ったよーー。

彼女はそう言うとぼんやりと姿が薄らぎはじめた。思わず手を握る。悲しみと寂しさと安堵で視界が滲む。彼女はすうっと霧散した。自分記憶も零れ始める。僕はひとり川底でカプカプ笑っている。右手がやけに暖かい

anond:20190415100434

瞑想をしてみてください。

お前のせいだよ、お前がブスだから駄目なんだ、普通のふりしてるけどお前は所詮空気の読めない頭のおかしいやつなんだ。

そんな言葉が頭にこだまする、まぢ病み状態になってしまうのです。

数年前まではこの状態が365日中300日くらいあったのですが、最近ようやく制御するコツを覚えました。

まり感情を波立たせないということです。

体と一緒で、心が激しく動くことを控えると、まぢ病み状態は年間40日くらいにまで減らすことができるようになりました。

これは全人類の心の仕様です

人類みなキチガイと言ってよいのです。

しろあなたおかしくなる過程構造をある程度見抜いて対処法まで発見しているのだからかなり観察力があり智慧がある方の人です。


仏教はお釈迦さまという非常に智慧のある天才あなたと同じことをより精緻に観察して完璧対処法を発見して、それを苦しむ人たちに広めたところから始まっています

あなたなら瞑想を教える本を読めばすぐにピンと来るはずです。

途中まで自力で考えて発見しているわけですから

(私もあなたと同じようなことをもっとぼんやりと感じていて瞑想出会いました。)

ヴィパッサナー瞑想お勧めです。

スマナサーラというスリランカの坊さんの本が読みやすおすすめです。

騙されたと思ってアマゾンで1冊買ってみてください。

それ以外にお金は要らないし変な宗教セミナーもありません。

本読んで家で実践するだけです。

2019-04-14

東大入学式祝辞への反論を見て思うこと

https://anond.hatelabo.jp/20190413114026

ああ、俺はこういう論理的思考力が低すぎるからこの歳になっても大して仕事活躍できないのかなって思った。

どういう意味かと言うと、俺は元の祝辞の全文を読んで出てきた感想が「へーなんか良い感じのこと言ってる気がする。まあそういう学問研究者っぽいし若干思い込みを語ってる部分もあるのかもしれないけど、社会に出て仕事してたらやっぱり明らかに女性が少ないなって思うし少なくとも男尊女卑状態日本ではまだ当たり前で本気で是正するつもりなんて誰もなさそうに見えるから多分あと10年してもそこまで大きく変わらないんだろう。ただ、女性とかみたいな社会的に弱者としてなぜか位置付けられている人が本当に弱者なのかどうかっていう定義はこれから変わっていったりするのかもしれないな。そもそも弱者ってなんだよそれってただ今の社会の中で『沢山お金が貰える行為』ができることが強者っていう定義してない?それは強者とか弱者関係なんじゃなくてたまたま社会がそういう風な流れになってるだけの話でもし今この段階で全人類脳みそが一瞬で書き換えられて例えば『直接的な子育ては最高に偉いことで子供を作って世の中の流動性を増やすことこそがひいては将来的にも人類の為になるのだからその行為に対する貢献度によってお金が支払われるべきである。それ以外の行為無償で行われるべき。』みたいな、今と逆(今は子育てには金が発生せずそれ以外の社会を作る行為お金が払われてる)の定義になった瞬間に男性社会を回せるけどお金は貰えない弱者になって女性社会を回す立場に行きにくいけどお金が貰える強者になったりする訳なのか?もちろん今仕事に専念してるから子育てはできてないっていう男性大勢いるだろうけど何となく今の感じだと女性の方が直接的な子育ては上手そうな気がするよなあ。じゃあやっぱり今の社会弱者って位置付けられている人達は今の社会性とか現代の人の考え方ありきでたまたま弱者位置付けられてしまってるだけな訳だしそういう人たちも尊重されるような社会であって欲しいし事実自身大して仕事できねえけどお金を貰って生きていけてることに感謝するべきだし東大生紆余曲折あって東大入った人も含めて運が良かった訳だから全て自分努力からまれ努力だけで勝ち上がってきたんだっていう思い込みをもししてしまっているんだったらそれは多分あんまり良くないよな。とはいえ本人の努力自体は認められるべきだと思うけどそれは祝辞最後の方で言われてるみたいにこれから入学生達を待っている日本最高峰に充実していると思われる研究環境がある所に毎日通える時点で認められたも同然な気がするし、今はそんなことよりも『入るまでは大変で卒業簡単』とか言われてしま日本大学において入学当日から大人に褒められるんじゃなくてこれから自分の思うことを突き詰めるために頑張っていきましょうって言って貰える方が絶対将来のためになるだろうからそういう祝辞を用意できた東大ってマジスゲーよなあ」みたいな、なんというか元の文章かについて大して深く触れている訳でもなくて特に自分の主張が強く含まれている訳でも登場したデータとか事実かに対する考察とかも全然入ってなくてただただ頭の中でもやもやしていた言葉ぼんやりとした形になって脳内で流れただけで、これって全然論理的じゃあなくてこんなこと考えているだけじゃ現実世界は何も変わらないし誰かと有益議論が生まれるわけでもないのだから社会に対して何の意味も無い行為だなってことです。

そもそも上の文章自体にも矛盾した意味のない前提とか設定とか考え方が含まれているような気がするけどそんな細かいことはどうでも良いと思ってしまっているし、それよりも冒頭の反論を見て「ああこの人はちゃん事実とそうでないことを切り分けようとする意識があって、この人にもある程度の思い込み(もしくは何か意図した悪意かもしれないけど)があることを考慮した上でこれだけ他人発言に対して自分の納得できない所を並べて発言することができる時点で俺より社会に出てから活躍する人間になっていくんだろうな。自分の思っていることをちゃん言葉にして反論できるのであれば反論したことに対する間違いは恐らく身の回りの他の誰かが突っ込んでくれてそこから有益議論が始められる気がするし現時点で多少ブレてたり間違ってる箇所が仮にあったとしても大した問題じゃないな。まあ書いたのが現役東大生じゃなくて俺より年上のどこぞのおじさまおばさまかもしれないけどそんなことはどうでも良いや。どうせ増田として表に出た時点で裏の人間情報は切り捨てられて文字情報けが存在し得る訳だしな。」って思ったから書いた人は凄いなあって思う。

この文章自分で書いて気づいたことは俺は論理的思考っていうものが何か理解してないなっていうことと、自分で書いた文章見直すと自分でも色々つっこみたくなるなっていうことと、そういうつっこみを「この部分ってこうじゃない?」っていう事実に対する反論としても表現できるし「こんな考えを持っているこいつはこの程度の人間だ」っていう人間性に対する攻撃としても表現できてしまう世の中が怖いしだからこそ俺はこの文章自分名前と紐づかない増田しか投稿できないんだろうなっていうこととか、そういうことでした。

あと語彙力少ないけど文章書くのは好きかもしれない。もしかするとタイピングが好きなだけかもしれないけど俺にはその違いが分からない。

2019-04-10

深夜の満員電車で車端にもたれてぼんやりしてたら、隣の女がうとうとしてもたれてきやがった。寝ぼけて痴漢に間違えられたら悲惨なので少しずつずれて行ったら元いたもたれられる壁を完璧取られた。控えめに言って失せろ

過ぎてしまった現実と、生きている人間エゴとしての葬送

どうしようもないことっていうのは、生きていれば必ず起こる。

しばらく前にいとこが亡くなった。まだ二十歳になる前で自分で命を絶った。自分が嫌になったのか自分以外の全部が嫌になったのか、それとも両方なのか、詳しい動機はきっとこの先ずっとわからないんだろう。

祖母は孫たちのなかでも彼を特に可愛がっていた。彼の家族祖母と家が近くて、一緒にいた時間が長い。祖母も両親である伯父夫婦もきっとわたし想像つかないほど落ち込んでいるだろう。


これだけでも十分に大事なんだけれども、問題が一つある。

私と両親はそのいとこの死を、つい数日前に親戚から送られてきた荷物に同封された手紙で知ったことだ。

私の両親は遠方に住んでいるが、私は祖母達の隣の県に住んでいる。死の直後に知らされたなら、父が間に合わなくともわたしは直ぐに祖母の家に向かって葬儀に出ただろう。四十九日の前に知らされたなら、予定を立てて向かった。

私といとこの仲が悪いということはなかった。いとこは口数が多い方ではなかったけど 私と会えば他愛のない話をした。いとこと最後に会った時は、私と祖母といとこで焼肉を食べた。一緒に焼肉食べた二ヶ月後にそいつ死ぬと思うか?私は全然思わなかったよ。

知らせを聞いてから、いとこに関する何年も思い出していなかったような記憶を思い出す。思い出しても一人暮らしの部屋では共有する相手もなく、ひとりでぼんやり記憶を味わうしかない。そんな思い出を共有して、上手に悲しみを昇華するためにも葬式四十九日あるんだろう。そういう儀式は生きていく人間のためにあるんだと実感する。

その別れの手順を踏めなかったせいか、ずっと心の中でなにかがフワッと浮いている。悲しみと無常感とかだろうか?わからないけど、そのせいで純粋喪失を惜しんだり悲しんだりできていない気がする。それが悔しい。

どうして知らされなかったんだろう。祖母と伯父の身近には何人も親戚がいた。みんな私に優しく、お盆正月に帰ると喜んで迎えてくれた。その全員がずっと茫然自失で連絡できなかったのか?四十九日が終わるまで?向こうの事情がわからいからなんとも言えないのだけど、私は少し怒っている。まあ怒っていることを自覚していれば、実際会った時にキレ散らかすことはないと信じている。

そして両親と話をした結果、週末に父と墓参りに行くことになった。今回の件も親戚と話し合うことにもなった。それが済んだらフワッとした何かがちゃんと着地できるだろうか。すっきりした答えが出るとは思えないけど、せめてどこかに着地点が見つかるといい。

映画を見るのが好きだが映画について語るのが好きなわけではない

自分趣味に求めているのは没入感であって、何を得るか考えるかではないんだと思う。

散歩は好きだがウォーキングしたいわけではない。旅先でぼんやり景色を見てる時間が好きだ。一人旅で撮った写真は、大抵、帰宅後にパソコンに保存せずネットに公開せずデジカメに入ったままになっている。

好きな作品風景もただそこにあるだけでいい。

その作品風景が好きだから、そこに自分言葉を足す必要はない。伝えたいわけではない。自分を装飾したいわけでもない。

でもそれって結局何かを享受するのみでいたいということで、ひたすら受動的で、何も生産せず、社会にとっては無価値な、未熟な態度なのだろうか。

自己表現とか、発信とか、成長とか、共有とか、趣味のつながりとか、そういう風にあらゆるもの関係の中に組み込まれ、逃れられない。答えが欲しいわけではない。見たいだけ。

映画が好き。映画を見るのが好き。映画を観た人の感想を読むのが好き。でも自分が語りたいわけではない。

映画を道具にして誰かとの繋がりを求めているわけではない。自分はいらない。

そんなことを考えていると自分もまた消えていくようで、だからせめてこうして書いているのだけど、名前を隠して文章を書いて、消えたいのか消えたくないのかよく分からない。自分ではない「誰か」になってここではないどこかに行きたい。自分探しをする年齢はずっと昔に過ぎて、どう振る舞うべきかなんて分かっていても消えないこのわだかまりを、一生引きずっていくのだろうと思いながら、そんな自分を嫌いになりきれないので、変わらず生きている。

息するのも辛いけど死ぬ努力もできなかった

いまの自分の心境はタイトルの通り。

鬱で休職して、元の会社復職したけど

会社に行くための努力毎日しないと会社に行けない。

フリーランス自営業になりたいとぼんやり思ってたけど、下記の記事見て諦めた。

廃人一直線に突き進んでしまいそう。

https://note.mu/xwa/n/n7296fe38d13c

死ぬ努力したこともあるけど、

失敗したら身体的なハンデも負うかも、という恐怖に打ち勝てず、

結果的自殺未遂は起こさなかった。

結果的には、自分が何をしたいかさえ分からなくなってきた。

どうしたら良いんだろうなー。

将棋を覚えたい

周囲に将棋をするひとがいない。どうすれば将棋を覚えられるだろうか。

りゅうおうのおしごと! 」を見たり、太宰治が「狂言の神」で深田久弥と象戯を指した話を読んだり、はてなの人々が将棋ネタで盛り上がっているのを見たりする毎にやってみたいと思ってきたが、これまで共にそれをする相手に恵まれたことがない。

雛鶴あいのように詰将棋を解くとかすれば良いのだろうか。どこか教室とか行ってみるべきだろうか。

将棋の話をする人たち、楽しそうなんだよな。

ちなみに当方、駒の動かし方もぼんやりとした知らないレベルです。

ネットの知り合いの女の子YouTuberになっていた

わたしは結局人の目世間の目が気になってわたしのしたいことができません。人の目がきになるのはわたしわたしの顔が不細工で嫌い身体が醜く太ってるから嫌い、だから。整形して痩せたら素敵なことが始まる気がする。わたしのやりたいことが人の目を気にしないでできる気がする。でも整形するお金を作る行動が、痩せるための行動ができない。わたしにはできない。ぼんやり思っていた。そんなことを思ってました。いま深夜2じ11ぼんやりしていたものがはっきりしました。なんではっきりしたのかというと、インターネット複数人でよく通話をしていた中の女の子の1人が、顔出しをしてYouTube配信をしているのをみたから。その子はそこそこリスナーがいてTwitterフォロワーは3000人くらいできていた。顔はすごくかわいかった。見なければよかったと思う。わたしはその子が羨ましかった。わたしのなりたい姿だった。わたし親友と呼べる友達が3人いる。あとは高校生の頃青春をすごした友達も5人くらいいる。5年付き合っている彼氏もいる。今年から同棲していて来年結婚する。彼はインターネット出会って、こんなわたしでもかわいい好き愛してると言ってくれる。わたしは両親、おばあちゃんとも仲が良くて、GWには実家に帰ってお土産を渡そうかなと思っていますインターネットの中の顔も知らない5年の付き合いの友達にもわたしはいい子だしおもしろいねと可愛がられます。でも、わたしは何か足りない。周りのみんなは大好きだけど、優しくしてくれるけど、わたし自分のことが大嫌いです。

わたしぼんやりと感じていたもの。今のわたしはほんとうにやりたいことが出来ていない。1回の人生これでいいのか?この思いが、YouTuberになった顔も知らなかったインターネットの知り合いの女の子を見てはっきりしました。わたしはこの子みたいになりたかったんだ。彼女わたし彼氏インターネット上でわたし出会う前仲がよかったみたいです。そもそもYouTuberになった彼女を知ったのは彼が「〇〇って覚えてる?いまYouTubeで顔出しで動画あげてる、ネットの知り合いでみたなかでも〇〇1番かわいいかも」と言ってわたし動画を見せてきたからです。わたしはその瞬間心臓を掴まれたような感覚がした。気丈にふるまっていたけど、頭がおかしくなりそうになりました。わたしインターネットで知り合った女の子なのにね。いま後悔したのかなわたし彼氏。と思いました。ずっと彼女動画を見ている彼を見るのは嫌でした。わたしってなんにもいいとこないな。バーチャルYouTuberオーディションとか受けたいけど彼氏気持ち悪がられるだろうし。わたしインターネット上で声を出すときはいつもとぜんぜん違うかわいい声をだす。彼氏にはお前声つくってたんだなって馬鹿にされました。ぜんぜん作ったような感じしなかったけどお前もつくってたんだってだってインターネット上くらいではかわいく思われたい。神様わたしに声だけはかわいくだせるようにしてくれていました。歌も上手く歌えるようにしてくれていました。そんなわたしインターネットはとても居心地がいいのです。顔は出さなくてもいいし、かわいいと言って貰える。なりたいわたしになれる。彼氏もそんなわたしのことをすきになってくれたし。わたし彼氏とは現実世界であわなければよかったって思います。会いたくなかったです。でも彼に「会わないならお前とは一生絡むことはないだろうな」とインターネット恋愛していたときに言われてて、彼をインターネット上で失うのがいやだったから会いました。自分顔写真身体写真、全て他人撮りのもの20枚くらい送りました。これでも会えるのかって。彼は不細工でも愛嬌がある、と変換できて、太っている子がすきだったかかわいいって言ってくれました。だから会いました。でも会わなきゃよかった。一生インターネットの中でかわいがられていたかった。気持ち悪い思想だけど本心です。わたしのことをプロデュースしてくれる人がいたら、インターネット上で活動したい。いま彼氏同棲して半年幸せだしたのしいこともあるけど、そんな人がいたらわたし彼氏と別れて、そっちをとります。悩むことも無く。なんでこんな事を考えちゃうんだろう。いま2じ46。30分くらいこんな文章を眠っている彼氏の横で書いている。いやになる。また自分気持ち悪くてきらいになりました。この文章なにが言いたいかからない。わたしも何がしたいのかもうよくわからない。たまに死にたくなる。幸せなのに死にたくなる。死ぬのは惜しいのに死にたくなる。自分のなりたい像になれないか死にたいのかな。よくわからない。でも書いたおかげで気分が落ち着いた。それはわかる。

ぼっち充の一人言

ある界隈で長いことオタクをしているんだけど、未だに行動を共にできるような友達がいない。

沼に落ちたばかりの頃、同じ趣味の人がリアルには誰もいなくてネット上でなら…とそのジャンル専用のTwitterアカウントを作った。

推しへの萌えを語りながら、あわよくばいつか現場に一緒に行くような仲間ができないかな、とぼんやり期待していた。

その頃は何人かとリプやDMのやり取りもちょくちょくあって、推しとは別の共通趣味(音楽とか)が見つかって雑談することもあった。

現場が被ったらいつかご挨拶でも、みたいな言葉が交わされることもあった。

ただ基本がコミュ障な私は自分からリプの一発目を送ることはあまりなく、会話中も一つの返事を打ち終わるのに数十分単位時間をかけるぐらい毎回緊張していた。

それから全国ツアーが決まり

演舞台が決まり

次のツアーのそのまた追加公演が決まり

そのたびに

今日は○○行く」「会場着いた!会える方いたらご挨拶させてください!」

といったツイートが飛び交い、TLは賑わった。

私は行きの新幹線の中で、会場近くのタリーズの中でそれを追っては、ドキドキと胸が跳ねた。

返信マークを押して、

「私も今日来てるんです!」「●●さん会いたいです!いまどこにいます?」

ここまで打ち込んでから、急に不安になった。

この人の言う「会える方」の想定内果たして自分はいるのか?

だって他のフォロワーさんに比べたら私とのリプ回数って少なくない?むしろ内容も他の人との方がいつも盛り上がってない?ここで返信送ったら優しいからきっと「会いましょう!」って返してくれるけど(お、おう…お前か…)って内心がっかりさせない?気遣わせない?今後気まずくならない?

こんな考えが一気に押し寄せてきて、舞い上がってた自分が急に恥ずかしく思えてしまった。そうこうしてるうちに各発信者共通フォロワーがリプで反応したのが見えてますます送りづらさを感じてしまい、結局Twitterを閉じた。

公演後は「会えて嬉しかった」というやり取りを後悔と嫉妬を抱きながら眺めた。

これが毎回だった。

そうして少しずつできていく輪のどれにも自分は入っていない気がしてしまって、現場が近づくほど黙るようになり、実際その通りになってしまった。

周りはチケットを一緒に申し込んだり、LINEで連絡を取り合う仲間ができていた。

いつしかTL内で会う人を募るツイートを見かけることもなくなった。

一時期はこの劣等感に苛まれ過ぎて、公演が終わった後打ち上げなんてこともなく一人で帰るだけなのがすごく惨めな気がして、家に着くとボロボロと泣いていた。最中はすごく楽しかったのに、その余韻を押し退ける寂しさがあった。

さらに見なきゃいいのにTwitterを開いては、それぞれの推しメンバーカラーカクテルが並ぶ写真(会場近くの居酒屋だとメンバー名前を付けたサワーとかがその期間限定で用意されたりしている)や、カラオケの壁一面に映されたライブDVD映像写真が溢れるTLをわざわざ追って、勝手劣等感を増幅させていた。完全にSNSとの距離感おかしくなっていた。

今はそれから年数も経って、専用アカウントをやめて雑多に趣味のことはなんでもフォローするアカウントを作り直した。公演期間中も、推しドラマ放送中もおかまいなくいろんな情報自分の目に入るようにしたことで、なんとなく人は人、自分は自分、と割り切れるようになってきた気がする。掟ポルシェさんには感謝してます

人との交流が向いてない、一人が向いてる性格なんだともわかったので、一人のオタク活動も、無理なくできる今の自分ベストなんだと納得している。

もう一人で遠征もするし、一人で推し写真ご当地名産並べて撮影会するし、一人でロケ地も巡るけど、隣で一緒に盛り上がってくれる人がいたらもっと楽しいんだろうな…ってやっぱりときどき考えてしまう。

一人が向いてる=一人が平気(好き)というわけではないから難しい。

ここまで書いてたの見返すと、仲良くなりたい特定の誰かがいるわけじゃないのに(たぶん好きな人彼氏にしたいじゃなくて彼氏という存在が欲しい的な感覚自己中ですね)めっちゃ重い。この感じがなんとなく伝わってるんだろうな…。

2019-04-09

友人が障害者手帳を取るらしくて困惑している

タイトル通り、困惑している。ウッソだろお前っていうビックリと、そこまでやるのかっていう唖然と、そんな事しなくてもお前ならやってけるだろっていうツッコミと、そこまで深刻に悩んでいたのかもしれなかったことに気がつけなかった悔しさ等々、色んな感情が渦巻いて、困惑している。

ハッキリと書いてしまおう。私は障がい者に対して差別感情を抱いてしまっている。好きとか嫌いとかい生理的ものでは無い、人生で数少ない経験の積み重ねから障がい者と接する事がとても怖くなってしまっている。心の中に、所謂健常者との垣根のようなものがしっかりと出来てしまっている事を差別と称するのならば、私は差別心を持ってしまっている。

本題からちょっと逸れるが、障がい者の事を恐怖に感じてしまっているか理由説明する為に、幾つかのエピソードを紹介したい。身バレ回避したいので、ある程度はフェイクやぼかしを交える。それでもバレるかも分からないけど、少なくとも生理的嫌悪だけでこの感情を持ってしまった経緯は説明しておきたい。

エピソード①・vs知的障害者

私が通っていた小学校には当時、特殊学級というものがなかった。当時カーストも低くぼっちになりがちだった私は、2人組で知的障害を持った生徒と組まされる事が多く、しまいにはその生徒にまでタゲられてしまった。

体育の授業の時に鳩尾を彼に思い切り蹴られたその日、遂に耐えきれなくなって、そのダウン症の彼に罵詈雑言の限りを浴びせてしまった。

その日のうちに我が家に連絡が言ってしまったらしく、夜にブチ切れた父親に「弱いものいじめとは何事だ」一方的罵倒され、「捨てるぞ」と最寄りのPAまで連れてかれ、最後は大泣きしながら電話母親謝罪して話は終わった。

そんな役回りにさせられた当時の自分にも問題大ありだが、己の心に明確に憎しみが生まれしまったのはこの頃である。この感情が恐怖に変わったのはもっと少し先である

エピソード②・vs精神疾患

とある趣味サークルで知り合った女性所謂OD常習者の薬ソムリエ。この女性クレジットカードスキミングされ、ネットで買い物をされた。丁度口座に金が入ってなかった時と引き落としのタイミングが一致し、買い物された金額が口座から落ちなかったこから発覚した。

商品の受け取り先から大体犯人が分かったが、本人はこれを強く否定。細かい過程は書けないが、結果的に一緒に戦ってくれた恩人が大打撃を被ることになってしまった。

後処理はカード会社に一任したので細かい事は追っていないが、証拠は固まっていたのに障害理由に不起訴となった。その証拠に用いられたのが障害者手帳である

この時から私は「障害者なら何やっても許されるのかよ」と叫ぶ人々の一人になった。

エピソード3 vs精神疾患

このエピソードちょっと毛色が違う。私の知人が遭遇した被害である

この知人、とある資格スクールをしている方である精神疾患者はこの知人の元友人である

精神疾患者が「社会復帰したい」と知人に打ち明け、知人も「そういうことなら」と指導を引き受けた。もちろん受講料も大幅に割引き、この資格を受けるには最低限の費用での指導となった。国内に多数存在する資格と呼ばれるものの例に漏れず、その資格受験に至るまでは規定量の授業を受け、規定量の熟練必要となる。

本人の体調や精神状態考慮しながら、ゆっくりと確実にやっていこうという段取りで話は決まり指導が始まった。実際に指導を休むことも多く、講習の進みはかなりスローペースであったらしい。

しかし、ある時突然「いつまでも試験を受けさせないとはどういうことだ、金だけ取って何もしないつもりか、差別だ!」と詰問されたとのこと。その人が受けた授業時間試験を受けるに足る規定量には倍近い差があるにも関わずである

知人がその旨を何度も伝えたが、伝わることは無く、最後はその資格を統括している団体クレームを入れられてしまった。当初は知人が差別を疑われたが、その団体に粘り強く当時の状況を説明した結果、指導する講師を知人からチェンジする事で事なきを得た。

この頃から障害者に恐怖を感じ始めた。彼らはやり方によっては理不尽に健常者を蹴落とすことが出来るのだ、と。

エピソード4 vs難病患者

長々と書いたエピソードもこれが最後です。どうか辛抱していただければと思います

これは私と先述の知人が絡んだちとめんどくさい話なので、この話だけはフローチャートで。この難病患者の方は元々私の知り合いで、知人と面識はありません。

某SNSヘルプマーク話題が上がってきた

確か「悪用する人も多いから、それを減らす為にも啓蒙大事」みたいなことを私が書いた

それに対して難病患者の方がコメントを入れた(消されちまって覚えてない) ↓

それに対して知人が「(私)はヘルプマークの事をよく理解していますよ」的なコメントを打った

難病患者の方、唐突に「怖いコメントが来たから消した」と打ち込む

ここまでは良かったが、難病患者の方は何が気に入らなかったのか、仲間を募って知人にメッセージ暴言をひたすら投げまくった。知人が謝罪をすると無言でブロック、これを20人近くにやられたらしい。

先述のエピソードの話に対処してる最中出来事だけあって、知人のダメージも相当大きいものだった。というか難病患者の方も元々私の知り合いだから、ただひたすらに知人申し訳ない気持ちが強い、今でも。

同時に、気に入らなかったのならせめて私に一言入れてくれれば、とも難病患者の方に対して感じてしまった。

ここに来て本当に障害者の方々と関わるのが怖くなってしまった。それまでは知的障害だったり精神疾患だったりと、理不尽な目に遭ってもまだ己を納得させるだけの何かがあった。

しかし、この難病患者の方は、罹患に至るまでは無難社会人として企業に勤め、情熱を持って一心仕事に打ち込み続けた人である。むしろ病魔に負ける事をよしとせず、回復と復活を心に誓っていた方である、少なくとも知る範囲の中ではという話だが。私と「障害を持っている人」という概念関係に完全に亀裂が入った瞬間である

随分と長くなってしまったが、これらの出来事を経て、私は障害者に対して強い恐怖心を持ってしまった。関わったら最後、何をされるかわからない、健常者は健常者であると言うだけで被害を訴えることも許されない。運が悪かっただけかもしれないが、金銭被害スレスレの話に連発して遭遇してもなお平常で居られるほど勇敢であることは出来なかった。

街中で白杖をついている人を見ても手を差し伸べられなくなった、ヘルプマークを付けている人を電車で見かけたら車両を変えるようになった。ただ私が臆病で、恐怖を感じるからだ。

妄言一つで彼らは何の咎を背負うことなく我々を罪人に出来るからだ。弱者なんて嘘だ。彼らは強い、理不尽なまでに強い。私にはその理不尽を被る強さがない。だから近寄りたくないのだ。

そんなことを考えている人間の友人が、障害者手帳を取ることになった。本当に仲良くしている友人だ。同じ趣味を持ち、強気に見せて実は脆い、でも人に対しては誰よりも誠実な友人が障害者手帳を取る。

私が己を弱いと形容したのは、彼と積み上げてきたものを脅かしかねないほどに、障害者に対する恐怖心が強いからだ。障害者手帳であろうが何であろうが、友人であるからには心を許し、信用するのが友としての正しい在り方であるのに、それが揺らぎかける程に弱いからだ。この弱さに腹が立つ。何故友人は友人であると断言できないのだろうか、己よ。

誰にも吐き出せず、でも我慢しきれずに辿り着いたのがここだった。数々のエントリーを読み漁っているうちに、いつか自分も書くことになるのだろうかなんてうすぼんやりと考えていたが、その機会は思った以上に早かった。

願わくば、私がこの恐怖を乗り越えて彼と今まで通りの関係を続けていきたい。そして、彼が私や知人を襲ったモンスター障害者になってしまわないように心から強く願いたい。

モンスター障害者なんて言葉を使う時点で差別なのかもしれない。しかし、未だに弱い私はこの恐怖感を拭いきれない。

私に強さをください。

2019-04-08

曜日起源面白すぎ

なんとなーく、風呂に入ってて、「そういえば、7日周期の曜日って誰がいつ決めたのよ?」って思って調べてみたわけ。
そっち方面はど素人だし、とりあえず、風呂を出てから曜日」でググってみると、当然のようにWikipediaの項目が出てくる安定感な。

曜日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%9C%E6%97%A5

ここで、もっともらしく色々書いてあるけど、どうやらバビロニア起源らしいってことがわかる、とくれば次は「曜日 バビロニア」で検索するじゃん?
ここからが凄い、色々出てくるけど、もう古代の神々オールスターズっていうか、中二病爆発な。ここぞとばかりに、世の中の会社名とか敵ボス名前とかがんがん出てくるのおもしろ

しかも、英語曜日起源北欧神話ってどういうことよ、みたいな。

諸説あるけど、決定的な証拠も無くてぼんやりしてるのもいい。
まぁ、歴史神話系が趣味な連中なら常識なんだろうけど、調べ甲斐があるし、知らなければ自分検索して調べてみるといいと思う。

2019-04-07

anond:20190407195354

違う。単にそういうことして楽しんでるのではなく切実にやってる。(少なくとも非合理性への突っ込みは作中にないし、ナンセンスな楽しみでやってるだねである、という描写もない)。

つかそれぐらい読んでたらわかるだろ。読んだ上での感想に対して読みもせず「だと思う」とかいぼんやりした反論をするな。無礼だ。

親への生活費援助が必要だとわかったときも「老後のプランが狂った」とかため息ついてて真面目な貯蓄枯渇への不安に満ちている。

もうちょっと仕事頑張って稼ごうとかそういう話には全くならない。精神的には45どころか65ってイメージ

今調べたけど作者が40手前の時にスタートしてて、老いや衰えへの関心が強くてこうなってんのかなって感じ。

2019-04-05

あーちゃんさぁ……

よく遊ぶグループにAさんという人がいる。

Aさんはまあぶっちゃけしまえば極度のメンヘラだ。

そのAさんが「誰も私と遊んでくれなくて寂しい」と言っている。

そりゃあ誰も遊んでくれなかったら寂しい。わかる。同情してしまう。

でもAさんが言う「誰も」というのは「誰でもいいかグループの誰か」ではなくBさんのことなのはもうみんなが知ってる。

Bさんは忙しい。

普通にお仕事があって忙しいというのもあるし、そのBさんという人は魅力的で一緒に遊んで楽しいからみんなが遊びたがる。

Bさんの予定は遊びもプライベートもいつもパンパンだ。

当然、そこで取捨選択が始まる。

仕事は削れないから、遊びの予定に優先順位がついていく。

そこで「Aさんと遊ぶ」という予定には低い優先順位が割り振られてしまうのだろう。

Aさんはまた「誰も(というのは建前で実際はBさんが)遊んでくれない」と言う。

でも、BさんがAさんと遊びたいと思うだろうか?

AさんはBさんに対して第三者から見えるだけでもかなり粘着している。

そして、BさんはそんなAさんに対してもうはっきりとわかるくらい辟易している。

もうすでに一緒に遊ぶとか遊ばないとかいレベルではないようにしか見えない。

Aさんはついでにメンヘラを患っているものから、「もうやめる」とか「消える」とかしょっちゅう言う。

なんならその原因にBさんを名指ししたりほのめかしたりする。

そういう人と遊びたいと思うだろうか。

もし仮にAさんのいう「みんな」がBさんのことを指しているのではなく、文字通りに「みんな」だったとしても遊んでくれる人は少ないと思う。

AさんはBさんが絡んでこない遊びは表面上楽しかったというけども、すぐ寂しいと言い始めてしまう。

仲間がよく集まってだべっているところに来たりもしない。だべっているうちに遊びの予定が立ったりするのに。

たまに来たかと思えば楽しそうな人たちに嫉妬して勝手に不機嫌になって帰る。

Bさんが遊びに誘ってくれるのをひたすらに待っているだけ。

対してBさんは一人でもいろいろと遊んでいるし、リアクションもいい。

だべっている場に来てそういうことを楽しそうに話してくれるからみんなもよく聞いている。

「今度〇〇いこうと思うんだけど誰か来ない?」みたいなぼんやりした誘いにもすぐに乗ってきてくれる。

「みんなが遊んでくれない」ってそりゃ当たり前だろって話だし、ましてやBさんとは遊べねえよっていう話なんだけど正面切って言う度胸がないんだよなぁ

2019-04-04

癒やしの音楽で癒やされない現象

実家キリスト教信者で、カルトとかではない普通プロテスタントではあったけれども、けっこう潔癖というか厳しい親だったのと、あと、自分は人見知りだったので家庭集会とかで家に信者が集まるのが嫌だったりで、大学進学を機に家を出てからは、完全に絶縁というわけではないけど疎遠になってる。

この間、肩こりがひどくて整体にいったら、その整体院でかかっているBGMオルゴールアレンジされた賛美歌だったのよ。

信者なのかどうなのかは知らないけど、普通に癒やしっぽい意図でかけてたんだとは思う。

が、これがほんと落ち着かない。実家の嫌な思い出ばっかりが蘇ってくる。

結婚式とか葬式教会にいるときなら平気なんだけど、整体院とか関係ないところでぼんやりしてるときBGM的にかかるとむちゃくちゃイラだつ。

こういう癒やし目的でかけてる音楽で、人の記憶と関連づいて全然癒やしにならない、みたいな現象あるもんなんだなって思った。

とりあえずもうそ整体院にはいかない。

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