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はてなキーワード: 言語学者とは

2020-11-17

セクシュアリティ研究を専門とする大学教授(異性愛者)」と「高卒同性愛者」では、どちらがよりLGBTに詳しいか

とか、

英語研究を専門とする言語学者(日本語ネイティブ)」と「英語ネイティブ高校生」では、どちらがより英語に詳しいか

とか、そういう下らない問いに一言で答えられると思ってる人が多すぎるんじゃないだろうか。

学問的な結論として認められうるエビデンスとしては全く不十分でも、当事者ナラティブとしては価値があるという話は往々にしてあるわけで。

※具体的な事例を思い浮かべた時に「俺ら」と「あいつら」立ち位置が固定されてしまうなら、逆の立場として当てはまる事象はないか見つかるまで探してくださいね。必ずあるので。

2020-11-13

anond:20201113140136

ある言語に「統一」することはそもそも不可能なのだ

現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語アメリカ英語オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語母語とする話者一定いる地域誕生すればそこには必ず方言誕生するのだ。仮に日本公用語英語と定め、数世代あとに日本人が英語母語とするようになっても、気候歴史文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本英語」、ジャパニーズイングリッシュ英語日本弁になってしまうのだ。つまり統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアル想像すれば、方言である日本英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単理解できるのだ。)


日本語を廃することは不合理なのだ

なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要情報源ほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベル理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉文化はセットだからなのだ文化的な背景、自然文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語文化資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代日本が抱える問題でもあるのだ。


移行期間云々のこと

移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代完了するのだ。上で触れた「文語口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化バックボーンはなく、かつ過去自分たち自身リソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。

日本語的英語」って?

英語公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジン母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本公用語英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。

たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式カリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼カレーうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼なのだ。従って、「日本語を廃して英語公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼うまいのは、和食うまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ

最後にただし……

ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶものなのだ。これは避けられないことなのだ。日本だって10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分研究対象としていた言語話者絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタ言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。

日本廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論現実の利の前には極めて無力なのだ

2020-11-03

鬼滅の刃がヒットした本当のところ

鬼滅の刃が爆売れしているのはなぜか?というのを論じる記事をたまに見るが、どれも本質的ではない。惜しいものならあるのだが。

今回は、ヒットした理由の本当のところを述べてみたい。

結論から言うと、愛や憎しみの表現が上手いからだ。

鬼滅の刃は、他のジャンプ作品に比べて愛憎や人間同士の繋がりを描いた場面が多い。

そのうえで、キャラクターが魅力的であり、バトル描写があり、一応は恋愛要素もある。

これでウケないはずがない。

私の意見だけでは根拠に乏しいので、引用をさせてほしい。

ベストセラーコード』という、アメリカ言語学者フリージャーナリストによる共著だ。テキストマイニングという数学アプローチにより、実際に世にウケる作品パターンについて記した本だ。1万冊以上の小説スキャンして機械分析にかけている。

少し長い。結論最後の方にある。

 しかし、このふたり(注:書中で紹介されているベストセラー作家のうち2名)の共通点のうちもっとも興味深いのは、彼らが上位で使っているトピックが、ベストセラー予測するにあたって決め手になるとモデル判断したトピックに一致することだ。といっても、ベストセラー作家特有トピックという意味ではない。売れない作家もよく使うトピックからだ。しかし、非ベストセラーにくらべると、ベストセラーに出てくる率が高いので、予測するときには威力を発揮する。書き手にとっては無視できないトピックといっていいだろう。セックス犯罪といった人目をひくものにくらべると、驚くほど平凡なそのトピックは、人と人との交流関係を示すものである。だが、人間関係といっても、ロマンチック恋愛情熱といった激しい感情を伴うものではないし、先生と生徒、社員上司といった型どおりな関係でもない。それは人間同士のつながりを感じさせる近しい関係だ。予測するにあたってもっと重要なこのトピックが出てくるシーンには、互いに親しみや愛情を感じ、絆で結ばれている人々が登場する。

 【ベストセラーコード「売れる文章」を見きわめる驚異のアルゴリズム】 p.89~p.90


著者は、これ以降の章においても、ベストセラーになる作品の傾向を繰り返し述べている。人間同士の温かい関係性という要素が、作品がヒットする最大の要因であると。

同感だ。これまで多くの漫画アニメ映画小説を嗜んできたが、面白かった作品というのは、どれもみな人の繋がりの描き方に重点を置いている。

それに比べれば、作画が美しいとか、戦闘シーンに迫力があるとか、性的描写というのはおまけに過ぎない。

もう一点だけ述べるとしたら、「感情」だろうか。鬼滅の刃は、とにかく感情が動かされる。ページを捲りながら、複雑な気分になって悶えたりすることが私の場合はよくある。

あとひとつだけ引用させてほしい。こういうのは客観性大事だ。

 脚本の基礎を学ぶ時間はそろそろ終わりにしよう。今から脚本執筆術で本当に大事なことに焦点を当てよう。本当に大事なこと、それは脚本を読む人に感情的な体験提供するということなのだ。読んだ人の心がいろいろと感じたから、それを良く書けた脚本と呼ぶのだ。

【「感情から書く脚本術 心を奪って釘づけにする物語の書き方】 p.14


先に挙げた本は科学者寄りの人が書いたもので、こちらは実際の脚本家が執筆した本になる。

こちらの著者は、感情を揺さぶものこそが良いストーリーであると、本書の中で繰り返し述べている。

例えば、『鬼』の描き方がそうだ。鬼滅の刃に出てくる鬼のほとんどに過去がある。凡百の作品では、敵は倒しておしまいであり、過去が用意されるのは重要キャラクターに限られる。

でも、この作品では、鬼と戦っている最中モノローグが流れ、敵が歩んできた道のりや、鬼になった理由や、鬼になってからの労苦が描かれる。こんな作品は今までにあっただろうか。いや、ない(反語)。

鬼滅の刃の冒頭は退屈だ。地味な情景からスタートする。

山に住んでいる少年が炭を売りに出るところから始まって、売りに出た先の町では可愛がられていて、炭治郎の人柄ゆえに炭は無事に売れて、帰る頃には暗くなっていて、山に登ろうとしたところで〇〇に泊まっていくように言われ…その夜、家に男が2人、何も起きないはずがなく…

修行シーンも長々と描かれて退屈に感じることもある。それでも、上に挙げた名作の条件をばっちり満たしているからこそ、ジャンプで生き残ることができた。

世でいうところの、売れる要素、売れない要素というのは上っ面でしかない。連載当時の編集者や読者は『本物』を見抜くことができた。だから、同じくこれが本物であることを見抜いたアニメプロデューサーによって、潤沢な予算スケジュールをもってアニメ化されたのだ。

鬼滅の刃評価については、当記事のほかにはてな匿名ダイアリーや、note記事や、個人ブログなどをいろいろ読んでみるといい。

個人的には、Amazonカスタマーレビューが一番参考になった。以下のURLを載せて終わりにする。

漫画

ブルーレイディスク

プライムビデオ

なお、漫画版において低評価レビューが顕著であるが、彼らの正体は売れない漫画家かアマチュア作家だ。

自分作品が世に評価されないので、人気作品の粗を探して叩くことで自尊心を保っている。

魔法科高校の劣等生』など、アマチュア作家出世作ありがちな現象だ。目にはつくが気にする価値はない。

2020-09-13

anond:20200913035706

俺は長年の田中芳樹ファンだけど、残念ながらその頃と今回とでは「当たり前の批判」の社会的意味が違うんだよ。認識アップデートしてよ。

タイトルの通り増田20年来の銀英伝ファンですが、私が銀英伝を知りネット掲示板個人サイトなどを見始めた当時からファンによる「銀英伝女性キャラステレオタイプ過ぎる」とか「田中芳樹女性を描くのが下手」みたいな批判は当たり前のものとしてありました。今回炎上した冒頭のツイートもそれと同系統のものであり、作品内の女性の扱いに対する感想としては見慣れた内容で特に違和感はありませんし、個人としての違和感を述べたうえでリメイクにあたってのアップデート希望するものであって、それ自体問題があるものとは思えません(なお、「Die Neue These」はリメイクではなく「原作の再アニメ化」なので、その点は事実誤認なされているものと思います

うん、銀英伝ファンあいだでは「あいつ女を描けてねーよな」みたいな評は普通のものだったよね。そういう意味で、例の社会学者氏のツイート認識はごくありふれた銀英伝認識を示したものだといえる。それだけを切り取ってみれば特に叩かれる要素はない。

でもさ、

ことと、

こととでは、社会的意味が違うんだよね、残念ながら。

twitterという、簡単に支持者を社会運動に動員できるプラットフォームで、これまでさんざんコンテンツを燃やしてきた社会学者っていう属性の人が、表現の内容を変えるべきだと口を出したら、単なる批評の域を超えて作品へのバッシング煽動してるようにしか見えないんだわ。

ジェンダーがどうこうというのも、そういうバッシングの際によく使われる常套句からね。

「あっ、この状況、キズナアイバッシングで見たことある!」って思っちゃうんだよね。

実際にそれらの描写を変更すべきか否かはそれぞれで判断が異なるのは当然としても、こうした意見に対して「現代にそぐわないから変えろって言いだす社会学者やべえ」などと嘲笑するのは原作者のスタンスを含めて明らかに論点を見誤っていますし、「銀英伝を燃やしに来た」などと反応するのは過剰です。挙げ句社会学者というツイート主の職業フォーカスしてその職業全体を否定するような言説まで行うのははっきり言って異常だと思います

もちろん、昨今のネット社会学バッシングはどう考えてもおかしい。一部のおかし社会学者存在で以て学問としての存在意義まで否定されるべきではない。

ところで、「すべての男がそうじゃない」みたいな言い訳をする男に対してノットオールメンって言ってきたのってどういう人たちでしたっけ?

文系のはしくれとしてはノットオールソシオローグスと言いたいところなんだけど、フェミニズム同調して社会問題に口を出してきた社会学者がそれを言うことは、まあ論理的一貫性問題惹起するよなあ。

本件もそうですが、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論においては「過剰なポリコレ押し付けるな!」などと主張する批判側にも個人意見に対して過剰かつ攻撃的な言動を繰り返す「反ポリコレを旗印に個人を抑圧するネット憂国騎士団」みたいな存在も目立ってきており、まともな議論が成立しづらい状況になっているように思います

マトモな議論が成り立ちにくい環境を作ってきた責任を反ポリコレの側「だけ」に求められても困るんですが。

ポリコレが高邁な理想としての側面しか持ち合わせていなかったのであればともかく、実際には他の表現を抑圧する棒として使われてきていたという前史があった上での反ポリコレ側の過剰反応でしょう。

つい最近起きた騒動にだけ目を向けても、ジェンダーを専門とする社会学者によってキズナアイバッシングされ、フェミニズムを掲げる弁護士研究者によって献血ルーム攻撃され、「ミカンはお母さんが買うもの」などと宣うフェミ学者たちがラブライブ農協コラボを焼きに来た、といった話があって、その上で今回の社会学者氏の感想への過剰反応があるわけ。

ポリコレ棒でヒステリックに殴られてきた側がちょっとでもポリコレっぽく見えるものヒステリックに反応するのは自明の理では?

悪いけど、ポリコレ棒を振り回して暴れ回ってきたポリコレ憂国騎士団の皆様にはもうウンザリしてるんだよ。

からといってこちらも憂国騎士団ムーブをしていいことにはならないけど、ポリコレ側の憂国騎士団ムーブのことを棚に上げて反ポリコレ側だけを憂国騎士団と言われても困惑するほかないんだよね。トリューニヒトみたいな詭弁やめろ(憤怒)

ブコメに応答

実際問題2013年の人工知能学会表紙事件以降、表現特にオタクコンテンツ)をネットで叩いて社会問題化し、金と名声を得るというのは、社会学者定番になってる。最も顕著だったのが宇崎ちゃん献血ポスター騒動

社会学者の人、名誉はともかく金は得られてないと思うよ。

いや、ネット表現を燃やしたところで影響力とか声望とか自尊感情とかはともかく金は得られんよ(少なくとも学者世界では)。金目当てで彼らが動いているというのは被害妄想がすぎる。そりゃ有名どころのレーベル新書とか書けばまとまった金は入ってくるかもしれんが、彼らは現段階ではtwitterで吠えてるだけで別に一般向けに売れそうな本を書いているというわけでもないし。

この界隈Twitterさえ見なきゃ起きてない論争多くない?ほぼネットそれもTwitterしか社会学者」を知らなそうな人多くない?

そりゃ、多くの人には表現を燃やしに来る「社会学者」の姿しか見えてませんし……

アカデミアあるいはそれと近いところにいれば、社会学といっても色々あって、ハマータウンの野郎どもを研究する人もいれば聖なる天蓋を論じる人もいて、ジェンダーオタク文化に関心を持っているのは一部であり、表現を燃やしに来るのはさらにその限られた少数に過ぎず、もっと言えば社会学者といっても博士課程の院生から誰もが参照すべき大御所まで「権威」に勾配があることくらい理解しているだろうし「社会学者」を十把一絡げに論じるべきじゃないっていうのは自明の理なわけだけど、燃やされた被害者からはそのごくごく一部の姿しか見えないので。

アカデミアと縁のないそのへんのオタクにとって、哲学者数学者工学者や物理学者言語学者文化人類学者なんてろくずっぽ知らないのが「普通」でしょう。普通の人は良かれ悪しかれそんな学問について詳しい知識は持ってないんだよね(漠然としたイメージは持ってるかもだけど)。だからtwitterオタクがロクに社会学者について知らないってのもある意味当然なのよ。

そんな学問についてよく知らない一般大衆は、まあ、自分たち表現を燃やしに来た一部の社会学者の姿を見て「社会学者」のイメージ形成ちゃうよね。

もちろん「そんな社会学者ばかりじゃない」という異議申し立てはどんどんやればいいと思うよ。「そんな男ばかりじゃない」と同程度には正当性のある反論だろうし。

昨今の風潮でいちばん納得がいかないこと

ムーラン』と『銀河英雄伝説』が同時並行で話題になってホッテントリに出まくってるのに誰も『風よ、万里を翔けよ』の話してないのおかしくない!?

2020-06-21

anond:20200621085233

大小はともかく、数学者グロタンディークとか言語学者チョムスキーとかやたらと政治的発言したがる人だったけど、今でもそれぞれの学問において偉大な大家の一人だよ。

2020-01-21

褒め言葉として「クソ」を遣うやつをボコボコに殴り倒したい

常々「クソ」や「クッソ」に腹立たしさを覚えていた。

しか褒め言葉として「クソ」だの「クッソ」だの遣う人間も出てきて不愉快まりない。

頭の中が排泄物にまみれているのか?殴り倒して半殺しにしたくなる。

不愉快に感じている人が他にもいるのではないかと探したら

下の記事に辿り着いた。

しかし驚いたのがコメント欄

「クソ」「クッソ」を擁護しているコメントがあった。




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■すごく良い、を表す形容詞に「クソ」「クッソ」を付ける違和感ハンパない

https://www.odaiji.com/blog/?p=7848

わたあめ より:

マイナスを示す程度表現が強調のみ残すことは、言語史上多く見られることです。

例えば我々が普通に使う「凄く」なども、もともとは「凄惨な、おそろしい」というようなマイナス表現意味です。

こうした言語の変化に時代時代の人々も敏感でして、しばしば問題提起しておりますが、

結局浸透してしまって、後世普通に使われることが多いかと思います

「クソ〜」もその道を辿るのではないでしょうかね。

私は育ちが悪く、なかなかに許容できてしまいお恥ずかしい限りです。

ななし より:

別に言語学者でもないし、比較ら抜き言葉も目くじら立てるようなことはないんですけれど。

この一文の時点で変化する言葉に対してどうこういう資格はないというか

クソだけに目くじらたてる理由もない気がしま

時代とともに意味合いや表現は変化していっているという話ではないですか?

貴方古典の文にでてくるような表現を使っているのなら話は分かります

貴方の中の貴方世代言葉だって昔の人が聞いたら違和感しかならない言葉はたくさんあると思います

もうすこし変化を受け入れ寛容になられてはいかがだろうか

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言語過去現在未来をしっかり見ていれば

この記事否定的コメントをする理由はどこにもない。

よくぞ言ってくれた!と高評価をするのが当然。

私は配偶者の「嫁」呼称や、ら抜きも嫌いなので

管理人にそのあたりの指摘はするかも知れないが

「クソ」や「クッソ」を擁護する根拠として使う気はない。

「嫁」と「クソ」で思い出したが

ヨスという気持ち悪い男が「嫁という言葉がクソ嫌いで」云々という記事投稿していたな。

あいつもボコボコに殴り倒してやりたい一人だ。

話を戻そう。

言葉は変化する。

故に目くじらたてる理由はないという感覚が私にはさっぱりわからない。

お前だって変化した言葉を遣っていると批判してくるのがいる。

そいつらは、変化させた過去大衆から反省材料を一切得ようとしない。

したがって過去の変化に関する批判は一切なく何故か全肯定する。

変化させた大衆への疑問も抱かず華麗にスルー

その一方で、表現おかしさを指摘した人だけを責める。

アンフェアでしょそんなの。

「昔の人が聞いたら違和感しかならない言葉

↑だからその昔のバカが「変化」とやらを続けた結果、現代言語になってしまったんでしょうに。

何故、現代に生きる管理人への反論になるのか意味不明。




少 し は 昔 の バ カ た ち に も 言 及 し ろ 。




古典」の文にしたのは過去大衆だ。

そのせいで言語の断絶が起きていることは全く無視なのかい

授業に古文という科目が増える負担無視なのかい

過去バカな奴らが気紛れに変化させなければ古典の文にはなっていない。

よって「わたあめ」と「ななし」の反論は生じない。

管理人現代人なりの好ましい表現について述べている。

極論だが、もし、それぞれの時代に生きた人たちが管理人のような言語感覚を持っていたなら

古典の文なんてもの存在しない。

わたあめ」は「凄く」に言及しているがそれもお粗末。

現在「凄く」や「とても」や「素晴らしい」を良い意味として用いるのは他に選択できる言葉がないから。

「クソ」は全く違う。「クソ」を遣わずとも表現できるしそちらの方が適切。

適切な言葉選びをできていないか管理人違和感、いや不快感を示している。

雰囲気に流されて雑な言葉選びをしているバカ批判するのは正常な感覚

それなのに「言葉は生き物でちゅー」「寛容になろうよぉ」みたいに言い放つ

全体主義的かつ虚無主義的な思考停止野郎が必ず沸いてくる。

そう「わたあめ」と「ななし」のような奴らのことだ。

言語を壊している一因は「わたあめ」と「ななし」みたいな良心を履き違えた善人。

試合を観客席から眺めて「Aチームのほうが優勢だね」と言うだけの無能

過去から学んでいるようで実は「その場その時」しか見えていない愚か者

「寛容」という名の下に、見て見ぬ振りをしバカ放置しているマヌケなくせに

自分進歩的で器が大きいかのように見せ、管理人を蔑むクズ

それに全く気付いていないのが腹立たしい。

私は「わたあめ」と「ななし」のような「言葉は生き物」を盲信している人間が大嫌いだ。

こいつらみたいな人間こそ「クソ」と言われるべき。

これぞ適切な言葉選び。

「凄く」は他に選択できる言葉がないからと前述したが

しかしたら良い意味を表す言葉大衆に葬り去られたのではないかとも考えられる。

危険性」「恐れ」「疑い」などが「可能性」という言葉に上書きされている現況を見るに

十分有り得る仮説ではないだろうか。




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■『可能性』と『恐れ』はどう違うか?

http://plaza.rakuten.co.jp/chenpitao/diary/201105220000

■「可能性」と言う言葉の使い方がおかし

https://blog.goo.ne.jp/natukikousuke/e/581d460f458ff2caf6f273ddc1adc134

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よく大衆必要とされる言葉用法けが残ると言うが

そんなものは嘘っぱちだ。

どうしたわけか大衆は常に好ましい選択をしているという幻想を抱いている。

また、度が過ぎた間違いなら自浄作用が起こり広がらないとも思っている。

しかしそれは単なる驕りでしかない。

絶対的な正しさが無いことを盾に「言葉は生き物」だと決め付け反省対策も考えない。

それどころか過去反省し、バカな変化の連鎖を食い止めようとする人を、

言葉は生き物でちゅー」「寛容になろうよぉ」と言って叩きのめす。

言語観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも無い。保守的でも無い。

そいつらこそ不寛容害悪のもの

つの時代大衆は、過去から何も学ばず、未来言語を託す責任考慮せず

今の雰囲気だけに流されているのは明らか。

大衆が用いれば正しさが上書きされても良いと漠然と思い込んでいることが

どれだけ危ういか気付かない。

大衆が常に好ましい選択をしているという幻想

言葉意味を調べないバカ繁殖させる。

言葉なんて時代で変わっていくんだから、どう使おうとかまわん」

こんなことを平気で言えてしまう無神経な人間に好ましい選択ができるだろうか。

こんな無神経な人間に正しさや好ましさが上書きされて未来の人はどう思うだろうか。

もういい加減「不適切言葉選び」を「言葉の変化」に擦り替えるのはやめていただきたい。

「どくせんじょう」を「どくだんじょう」に変えて意思疎通が効率化したか

教養文化水準が向上したか日本語としての趣きが増したか

よく考えてみてみろ。

「どくせんじょう」が「どくだんじょう」に置き換えられても何ら向上する要素がないなら

今を生きる我々は甘んじて「どくだんじょう」を用いながらも、

その変化とやらに疑いの目を向けるのが自然な理路でしょうに。

言葉は生き物」なんて殆ど既存の語義や用法を蹴にして息の根を止めているだけ。

言葉を作った人の思いを踏みにじる行為でもある。

言葉を半殺し」にしておいて何が「言葉は生き物」「言葉は変化する」だよカス

禄にマナーやエチケットを身に着けていない奴が無作法を諭された言い訳

マナーやエチケット時代によって変わるんだよ!頭固すぎ古臭い!」と

反発しているようにしか見えない。

しばしば表現の変化前と変化後について摩擦が起きる。

先述した記事コメント欄も似たようなもの

変化とやらは余計な争いを招く元になっている自覚あるのか?え?「わたあめ」と「ななし」さんよ。

余計な争いは他国から侵略のスキを与える事にも繋がる。

突き詰めれば「言葉は生き物」信者とは利敵行為をしている反日野郎

そりぁこんな大衆なら投票率が低いのも当然だし

小泉郵政民営化するのも当然だし

一度民主党政権になったのも当然だし

橋下や堀江チヤホヤされ続けているのも当然だし

拉致被害者を奪還できないもの当然だ。

言葉を雑に扱うバカはもちろん、それを見過ごす「わたあめ」と「ななし」みたいな鈍感な善人も

国の破壊者に成りかねない事を認識しろ!!!!!!!!!




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なぜ日本人思考能力がここまで幼稚になったのか。 伊藤

https://youtu.be/pwDkY3uOA_Y?t=191

特別寄稿 西部邁言葉過去からやってくる

http://asread.info/archives/428



漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります

輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民心中に抱く常識」のことです。

そんな土台も庶民常識もなくなったのが現代社会です。

から言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、

それが流れ去れば、自分意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。



言語動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、

無残としか形容の為し様がありません。

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この記事はいずれブログを作り文章を整理して再投稿する予定。

2019-11-28

いい加減社会学ってもの自体見直した方が良いと思う。

千田有紀氏、キズナアイ騒動ねつ造だという批判反論する「相槌しかうたないって言ったら、相槌以外もあるって、日本語教育の敗北ではないですか?」

https://togetter.com/li/1435032

また社会学者か。

読んでいて色々な意味社会学学問ではないと言われる理由が判る気がするよ。

しかしすげーな。

こいつらの本質が以下に他罰であるかこんな所にも如実に表れている。

日本語教育の敗北って、これ言語学者付近にもナチュラル喧嘩売っていて草。

こいつら他の文系の人々にも迷惑かけすぎだろう。

昨今著作権絡みの方でも漫画家ダブスタやら相変わらずの御用学者やらで出鱈目な事が大概多くてうんざりするけど、流石に元祖は違うね。

こいつらがフェミジェンダー等の思想に絡んでいる事が本当に多かったし、その連中が女性の権利はおろか、それこそ世論的に反論しにくい子供権利を盾にして、規制問題点を指摘されているにも関わらず、無視して、余り弊害を考えずに好き勝手気に入らないものを短絡的に規制した結果、日本がここまで衰退した一因としてあるのは事実からな。

そして今でもマスメディアやらを利用して大暴れしているのだから性質が悪いと思うよ。

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件2

(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。

論文日本語文法事象を中心に扱っており、その記述分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語目的語自動詞他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧パラダイムによる言語研究標準的使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。

日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念のものの再検討を迫るという点で、本論文日本語研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論憶測ではなく、万葉集源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。

論文共時的言語事例と通時的言語事例とを並行的に分析し、日本語言語現象全般個別現象の解明を目指した統合研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点提供している点で、学術価値は高いと判断される。

よって、本論文博士人間環境学)の学位論文として価値あるものと認める。

また、平成26年11月26日論文内容とそれに関連した事項について試問を行った結果、合格と認めた。

まさにお墨付きだ。

最後ちょっと真面目な話。『認知言語類型原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこ自体問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判したことで将来不利益を被ることがあってはならない。

それにしても、どうして『認知言語類型原理』は『日本語主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語主語はいらない』は大手出版から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型原理』は学術専門出版から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-10-27

anond:20191027034412

上記記事の中身でそう書いたつもりなのですが、私の文章力が足りず、伝わっていなかったならば、申し訳ないです。

いえ、個人的にも世の中の時代の流れと共に表現言語なんてものは変わっていくものだと思いますよ。

寧ろ言語学者等の方がその辺肯定的で、言葉は流動的であると仰られる方が多いですね。

なので、言われておられている事については間違っておられないと思います

つべ動画見てもらえれば判りますが、古代日本語は半分も現代だと判らない事が良く判りますし。

2019-08-01

例の読み方が覚えられない異文化交流言語学者の話

読んだときはすげー面白いと思ったのに、随分追っていなかった。

異文化交流がすごい次元に達していたり、言語学者と思われる怪物 (?) が出てきたり。

名前を見たときに、あれって思ったのだが、(特にギャグときの)絵柄を見て、やはりこの人ってあの人だよな等と思う。

すごくすごく漫画家になりたがっていて、見ている方ももっとこの人の漫画を読みたかった。

原作付きでもない、異文化交流(思えば Web 漫画もそうとも読めた)の漫画を書いて、コミックスが出せたのだな。

おめでとう。続くこと、次作品あなたの描きたいものを描けることを、祈っています

2019-05-08

マナー本・マナー講師は本当に「お疲れ様は目上にNG」と広めたのか?

前提

「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter

上記まとめにもある通り、杉村喜光という人は、以下のような発言をしている。

 

 

しかし、これまで「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」というマナーは、(そのよしあしはともあれ)聞いたことがあるものの、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」という言説は、少なくともマナーマナー講師)関連において見聞きしたことがなかった。

 

※ただし、マナー講師ではなく芸能人タモリ氏)や言語学者園田博文氏)は、「お疲れ様」という言葉について以下のように述べているようである

タモリが「お疲れ様です」は目上の者に使ってはいけないと指摘 波紋呼ぶ - ライブドアニュース

子役が誰彼かまわずお疲れ様です』といって回るのはおかしい」(タモリ氏)

「『ご苦労様です』『お疲れ様です』というのは、本来、人をねぎらう言葉。目上の人が使うのが伝統的で、目下の人が目上の人に使うのは失礼にあたります」(園田氏)

調べてみた

ならば、本当にマナー本は、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と主張しているのだろうか?

このことを検証するため、八重洲ブックセンター八重洲本店2Fの「ビジネスマナー」コーナーにあったマナー本を片端から当たってみた

……かったのだが、1段・56冊あり、全部を立ち読みするのは時間的にも労力的にも足りず、かつ、売り物の書籍を使って調べ物をするのが申し訳なかったので、20冊だけ抽出した。

八重洲ブックセンターを選んだのは、会社から近く、また今日仕事関係で立ち寄りやすかったというだけであり、他意はない。図書館を選ばなかった理由は3つある。近隣の図書館が思いつかなかったこと、冊数としては八重洲ブックセンターの方が豊富だと判断したこと、古い、昭和の本も交じっていそうで、そうすると有効な冊数はさらに少なくなると考えたこからだ。八重洲ブックセンターさんには申し訳なかったが、普段も毎月1万円程度は購入しており、今日も本を買ったので、許してもらえたらうれしい)

 

なお、書籍はスミからスミまで見たわけではなく、「あいさつ」「言葉かい」といった項目のところだけざっと流し読みしているので、漏れがあるとは思う。この件についてはご容赦願いたい。

 

さて、その20冊の中で、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と書いてある書籍は何冊あったか

 

答えは0冊だ。

調べた限りでは見つからなかった。

ただし、「ご苦労様を目上の人に使うのはNGお疲れ様を使いましょう」と推奨する書籍は、5冊発見した。もっと多いと予想していたので、案外少なかったが、精査していないため見落としもあるのだろう。

個人的には、杉村と同じく、ご苦労様だろうがお疲れ様だろうが、目上の人に使っても、まあいいんじゃないのかな、とは思っている)

念のため、その書籍名を記しておく。

○知らないと恥ずかしい!おとなのマナー図鑑

○男のマナー パーフェクトBOOK

○必ず役立つ!仕事の基本とマナー面白いほど評価が上がる本

常識以前の仕事ルールマナー

新人の「?」を解決する ビジネスマナー100 または 社会人としての常識マナーQ&A(メモミスで、どちらか分からなくなってしまった。申し訳ない)

 

以上のことから

○「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」とするマナーは、確かに複数の著者が主張している

○「『お疲れ様』を目上の人に使うのはNG」というマナーを主張する著者(マナー講師)は、少なくとも「『ご苦労様』NG」以下だろう

ということが確認および推測できた。

杉村は、どのような根拠をもって「この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。」などと断じているのか、また、そのようなマナー本がどこにあるのかを示してほしい。

加えるならば、「新ルール」とまで言うからには、1人のマナー講師・1冊の著書の主張では足りない。最低でも3冊は「お疲れ様NG」と述べているマナー本を、杉村に限らないので提示してほしいところだが、どうだろうか。

※言っちゃあ悪いが、マナー本なんて、よくも悪くも似たり寄ったりだ。二重敬語NG例など、同じ表現を何度見たことか…。だが、それは当たり前で、マナー本ごとに言っていることが違ったら、プロトコルとしてのマナー機能しないかである。逆説的に言うと、本当に「お疲れ様NG」というマナーが新たにできたというならば、上記の通りタモリ氏・園田氏の事例もあるし、20冊も拾い読みすれば、2~3冊は目に引っかかっておかしくないのであるが…。

少しだけ寄り道

改めて、杉村tweetを見てみる。スクリーンショットだが、元ネタをたどると、

山田優、「両陛下お疲れ様でした」という投稿に批判殺到「皇室をなんだと…」(1ページ目) - デイリーニュースオンラインが出てくる。

デイリーニュースオンラインという段階で、取り上げるのもあほらしくなるのだが、ひとまずそこは置いておこう。

 

で、そもそも元ネタ記事には、

会社上司にすらお疲れ様と言うのは失礼と言われるのに。。」

引用されているだけであり、どのような根拠、つまりマナー本を読んだりマナー講師に教わったりしたのか、上司にそう注意されたのか、はたまた、自分個人思い込みなのかは一言も書いていない。

個人的には、元の発言者は「ご苦労様」と勘違いしているのではないか、という第一印象を持ったのだが、もちろん、定かではない)

 

それをいきなり、マナー本が~と言い出しているのは杉村である(だからこそ、典拠となるマナー本を提示してほしいのだ)。

実は最初杉村も「ご苦労様」と勘違いしたんじゃないか、と思ったのだけど、その後別のtweetで、

と述べているので、「お疲れ様は目上にNG」と主張するマナー本を数冊は読んでいるのだろう。ぜひ教えてほしい。本当にそう思う。

 

ブックマークコメントで「マナー本・マナー講師」を断罪している人へ

これまで述べた通り、一個人としては、

○「ご苦労様は目上にNG」というマナーは聞いたことがあっても、「お疲れ様は目上にNG」は見聞きしたことがない

書店に並んでいるマナー本を抽出調査したが、「お疲れ様は目上にNG」とするマナー本が見つからなかった

ことから

○「お疲れ様は目上にNG」だと主張する平成マナー本は、あったとしても本当にごく一部で、「ご苦労様NG」ほどには広まっていない

○「平成マナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張には根拠が薄い

と考えているが、はてなブックマーク

はてなブックマーク - 「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter

において、「『お疲れ様は目上にNG』という謎マナーマナー本(マナー講師)が広めた」というベースのもとでマナー本やマナー講師をののしっているブックマーカーは、

○実際に「お疲れ様は目上にNG」というマナー本を読んだか、マナー講師指導を受けたことがある

のか、

○「平成マナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張を鵜呑みにした

のかは、せめて教えてほしい。

ついでだ

杉村は同じtweetで、

それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。

と、あたかも、言葉遣いのマナーを追及している者も言葉遣いがなっていない、という含みを持たせた書き方をしている。

 

が、これは釈迦に説法だが、「違和感を感じる」は、話し言葉引用したコメント言葉)ならば別におかし表現ではないし、書き言葉としても、許容範囲内だと考える。

その破堤基準を一つ挙げると、「○○感を感じる」の前半の「感」を取ったとき表現違和感があるかどうかである

 

×不満感を感じる(不満を感じる、と表現しても違和感はない)

○一体感を感じる(一体を感じる、と表現すると違和感がある)

違和感を感じる(違和を感じる、と表現すると違和感がある)

一種ジョークとして「○○を感じる、と表現しても(すると)違和感がない(ある)」という書き方をしている。読みづらくしていることは謝りたい。

 

それなのに、

それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。

などと言うのは、これこそ無駄表現無駄なかせをはめる「新マナー」じゃないのかと。

2019-03-08

日本語進化

Can you ~? や Will you ~?(やや横柄)

Could you ~? や Would you ~?(丁寧)

のと同じで、

こちらでよろしいですか?(やや横柄)

こちらでよろしかったですか?(間違いだとされているがやや丁寧な感じがする)

というのは言語として日本語の正常な進化なのだと思っている。

こちらでよろしかったですか?、という言い方を言語学者はそろそろ正当な日本語として認めてもよいのではないか

ら抜き言葉も、

食べられる(可能受動尊敬、の3つの意味に取れるのであいまい

食べれる(可能、に限定される)

など日本語として正常に進化した結果だと思われる。これもそろそろ「日本語の正常な進化系」として認定しよう。

みんな頭が固いよ。

2019-03-04

anond:20190304130749

>いずれにせよ、現在一線級の現役の言語学者独自アイデアを見せたいならともかく、何十年も時間が静止した世界線チョムスキーとか言ってる時点で取るに足らないものであるのは確か。

それは違う。なぜならベーシックイングリッシュは850語で、その論理的意味分析するだけなら文脈はいらないからだ。

anond:20190304122918

分野が違うんだが一応研究者の端くれとして書くけれど、論文書かずに主張しよう、しか特定人物にだけ主張しようとするのをマトモに相手にする暇ってないんだよ。本当に自らの主張がまっとうだと思っているならば、チョムスキー以外の意見だって聞きたくなりそうなものなのだけど。チョムスキーけが言語学者というわけでもないしな。まず自分英語論文書け。そして PDFネット上に出せ。

2018-12-31

anond:20181230145307

欧米にとって「言語」「外国語」は英語とその諸方言なんだよな

英語覚えれば分かるけど言語学者共が言語思考規定しないっていうのもそりゃ方言レベルなら変わらんだろって感じ

東北方言琉球語日本語有意思考が異なるわけがないだろ

2018-12-30

anond:20181230145307

とある言語学者は4000時間と言っていたが、2200時間じゃ足りないと思う。

毎日10時間勉強すれば8ヶ月足らずで話せるようになるような難易度ならもっとみんな話せるでしょ。

2018-11-22

増田注射ボケ100連発藩玲001ヶ母ゃ祠宇ゅ千田州間(回文

ユー!エス!エー!ユー!エス!エー!

カーモンベイビーアメリカ

アメリカ人の9割は90%!

という歌詞

どっちかの夜は昼間ばりに並んでキャッチーさで優勝してもいいと思う!

アホっぽくもあり哲学的でもあり、

きっと国語言語学者金田一ファミリーの方も認めざるを得ないわ。

おはようございます

今朝インフルエンザ注射をキメて来たの。

インフルエンザ予防と言うより、

インフルエンザになったとき軽減税率措置がゴーンと来た感じよ。

あの高熱が出たときの辛さを思ったら

何が何でもワクチンをキメておいた方がいいと思ってね。

「痛てててて!」

「まだ打ってませんけど」

看護師さん真顔で答えられても、

ファイナルファンタジーの人たちが

オープンカーに真顔で乗ってる感じの、

または

外人四コマオチ4コマ目の様な真顔さでもあるわ。

そんな1ボケでことごとく

今シーズンインフルエンザ予防接種は終わってしまった。

そこで諦めたら試合終了ですよと

スラムダンクを読んだことないけど

そのセリフは有名すぎるぐらい定番なその一人歩きしている安西先生ボケ1つで幕を下ろしてしまった。

まあ、

予防接種受けたかインフルエンザになりませんように!と願うわ。

今日は安静にしておきます

うふふ。


今日朝ご飯

野菜サラダタマサラダ

秋も終わっちゃうと言うのにこの食欲の秋シーズンマックス感が食いしん坊を掻き立てるわ。

美味しいものは美味しい!

そう問いかけたい、

もぐもぐ食べるサンドイッチは美味しいわ。

デトックスウォーター

なんか無性にのどの渇きを覚えて目覚めた朝、

ぐびぐびっと炭酸水ポッカレモンをそえての

炭酸レモンウォーター

米津玄師さんに漂う謎の玄人感ね。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!おー!

2018-10-12

anond:20181010122823

本論と直接関係ないのですが、「情報系では」は主語(subject)ではありません。dlitさん言語学者なので、そこはご専門を尊重しましょう…ただ、主題(topic)ではあるかもしれません。

by 自然言語処理分野の博士号取得者。

2017-06-06

違和感を感じる ←これが駄目なら日本語は欠陥言語すぎる

表意文字である以上、確実に起こる事態

違和感を覚える」みたい言い換えを逐一用意しないといけないとしたら致命的。不規則活用どころの騒ぎではない非効率さ。

「店の店主」←これが頭悪いのは分かる。「店主」だけで情報が足りる。

「一号店の店主」←これはどうしようもない。

まり表意文字熟語動詞を作る日本語では、「AB+BC」という形は冗長であっても許容して然るべきだということ。

追記言語としては冗長性はむしろ利点らしい。「違和感を感じる」の是非はネットでは伸びる話題だけど、専門の言語学者なんかはとうの昔に結論を出しているんだろうなぁ。

 
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