はてなキーワード: 人生とは
医師で結婚していますが、今週という1週間を切り取ってみれば、私より1万円もらってその使い道にワクワクしてる元増田さんの方がとても幸せなのは間違いない。
またこういう事ですごく幸せを感じられる人なら、この1週間だけじゃなくて、人生全体でも、私より幸せなのかもしれないなあと思う。
いいなあ。
さらに言うと、選択的労働...だったはずなのに、仕事してないんですか(笑)みたいなのは何なんだ?
外で働きたい人が外で働いて、家にいたい人が家にいればいいと思うんだが、最近は外で働くの当たり前みたいなことになってない?
人間には向き不向きがあるし、ライフステージによってやりたいことも変わると思うんだけれど。
最近の子は歳をとっても十分な社会性を身につけず幼い子供が増えたと思うけれど、保育園に預けて働くみたいなのが増えた結果だろうなって思う。
多分、社会が子育てのために自分の人生を使うってことを許してくれないんだろうなと。
あと、選べることってそんなにいいことなのとも思える。
選択的結婚、選択的子育てが実施された結果、結婚も子育てもぜいたく品になってません?
みんなが当たり前のように享受していた時代、たいして珍しくもないので、それに伴って起きるライフイベントもお互いさまって感じだったと思う。
結婚すれば自分の意志ではどうしようもないことが起きるようになるし、子どもがいればそれはなお加速される。
あちこちオードリー最新回でノンスタ石田さんが番組前半に「仕事よりも家族優先」の話をしていて(前回出演時に言い切っていたこと。というか「豊かさはここ(芸能界)には無い」という名言)
後半で「テレビ業界での天下取りを諦めていないビスブラ原田と話してて、もし、自分が原田と同じ思いでやってきていたら、違った世界を見ていたかも(テレビで天下取ってたかも)」という話をしていた
正直、ノンスタならば今からでもMCとして昇り詰めることが出来るのではないかと思う。二人で
子供はいつまでも手元には居ないけど、芸人としての仕事はもっとずっと続くことを考えると、今からシフトチェンジもありじゃないかと思う
確かに子育ては今しか出来ないから、可能な限り全力で向き合って幸せを享受したいというのは分かるけれども
芸人としての野望が今更頭をもたげたということは、そういう気持ちが芽生えてきたってことなんだから無碍にしないでやってみればいいんじゃないかと思う
人の人生ながら、そんなふうに感じた
才能あふれる人だからテレビに出ずっぱりになって他のことが出来なくなるのも辛いかもしれないけどね
そしたらまた方向変えればいい(そうすっと「テレビ出まくってたのにいきなり消えた」とか言われるだろうけど)
新卒で挫折して休職中、全部自分のせいにしたら頭がおかしくなりそうだったから、毎日8時間他責をしていた。
小さい頃に虐待を受けて、義務教育も不登校で、なんとか資格をとって社会に出ても、求められる仕事はできなかった。
人一倍早く出勤した、残業した、家でも勉強をした、でもその場でパニックになり水の泡。
最初は親切にしてくれていた同僚からも、あの人は障害者じゃないかと噂をされた。
噂が広まってからは問題なく出来ていた業務も疑いの目で見られ始め、見張られていると感じて緊張でさらにミスが増えた。
こんな育ちで障害かもしれない自分が何を言っても信用がないだろうと自分が一番分かっていたので、何も言えずただ謝り、次からはこうこうして気をつけます…!と反省までした。
大人なのに、ありがとうとごめんなさいくらいしか出来る事がない。
努力しても要領の悪さと一度抱かれた不信感は埋められず、周りに迷惑をかけてしまった。
一年半で辞めた。
障害の事を調べる内に、自分を虐待して出て行った母親も発達障害だったんじゃないかと疑った。(あらゆる特徴が一致していた為)
その時に、堰き止めていた思いが一気に崩れた。
母親自身も両親に虐待を受けていたから、繰り返してしまっても仕方ない。
人より出来る事が少ないのも全部自分のせいだ。
親の事は関係ない、自分がとにかく頑張れば、普通の人生になるはずだーーーと思って
信じて生きてきたのに。
今まで困ってきた事は全部親のせいだったのか。
生まれた時から頭が変だったんだ、だから頑張っても上手くいかなかったんだ…今からどうやっても、障害だったら治らないじゃん…
絶望。
産むな!!!!
学もない貧乏が、被虐待児が、障害者が、責任とれない奴が、産むなよ。
中出しセックスして、結婚出産を自分が何者かになるための道具にして。
子どもに障害なすりつけて、虐待連鎖で自己肯定感までめちゃくちゃにして。
まともに1人育てられないのに兄弟がいないと将来可哀想〜!って偽善で兄弟ポンポン産んで結局逃げて。
自分の人生を彩るために産んだり、病気や障害の可能性を深く考えずに産む人間が全員、気持ち悪くなった。
だんだん自分の事を飛び越えて、虐待やヤングケアラーの問題、遺伝する病気や障害、兄弟児の苦悩、いじめ、貧困、戦争、性犯罪がある世界に産む人間達、ニュースやSNSで話題を見るたびに心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて全て許せなくなった。
どんどん自他の境界がなくなって、もう人間自体が居なきゃいいとすら思った。もっと少子化になって滅亡したらいい。優生保護法が続いていれば自分は生まれずに済んだのかもしれない。安楽死の制度が出来て辛い人がどんどんいなくなったらいい。
死のうとしても直前で怖くて死ねなくて、失敗して余計に苦しむのも怖かった。
こっちは産んでくれと頼んでない、親が勝手に産んだのに、自分で本能的な死の恐怖に打ち勝たないと死ねない。
産みたい人が産む自由は尊重され賞賛され、自殺は非難される、楽に死ぬ手段もない。
怒りの行き場がなくSNSで毒親を叩き、レスバに時間をついやした、同じ思想の人からいいねをされて一瞬スッキリした。
自分の主張は正しいと思って、スッキリしたはずなのに、それを繰り返すたびにさらに自分の存在が気持ち悪くなって自分以外も全員気持ち悪くなって、苦しくて苦しくてたまらなかった。
それでも街中で知らない人とちょっと話したりお礼を言い合ったり、そんな事が不思議とうれしかった。
バイトして仕事覚えようと悩んでいる方がまだましだし、たまに感謝されたら普通にうれしかった。
(まぁスキルなしの障害者でも出来る仕事ってなったら毎日ゲロとかマナーおかしい人糞掃除するしかなくて、よく変な人にも話しかけられてキツくてやめてしまったけど。そんな仕事に同性の若者1人もいないし、たしかにもし健常者だったらこの仕事しないわ!ガハハ!ってまた落ち込んだ)
脱線したけど、結局あんなに社会が許せなかったのに実際に顔が見える人と会った時には、今生きてるみんなが幸せだったらいいなと思ってしまった。
親子を見ても文句を言いたくはならず、障害者やホームレスの様な社会貢献度が低そうな人を見ても、この人も死にたいだろうなーと勝手に決めつけたり、その人を産んだ人を責め立てようとは思えなかった、もし目の前で死のうとしてる人がいたら普通に心配になるとも思う。
結局は他人が許せないんじゃなくて、自分が自分の存在を許せなくて苦しかった。
人に傷つけられても、相手がそうした背景を思うと文句を言えない、その人なりにそうした理由があったと思うと責められない。
だからしばらくして親に会った時も、何も怒れなかったよ。
絶対許さないし、心を傷つけてやる!と思っていたのに、泣いて謝られてたら不思議と笑って許してしまった。
母親が受けた虐待を話されても、ただひたすら酷いね、辛かったねと聴いていた。
こっちの方が泣きたかったけど。
でも自分自身の存在を許したいから、形だけでも親を許す事にした。許さずに傷付ける事を言っても、またスッキリするのは一瞬だろう。
自分が追い詰められて苦しかったのに人を追い詰めるなんて、もっと自分が嫌いになりそうだった。
思えば親にも社会にも認められなかったけど、優しい人だとか真面目だとか褒められた事だけはあった。それがあったからこそ、人に優しく真面目に頑張れば大丈夫!と根拠のない希望を持てていたんだと思う。
自分の中で唯一認められた長所を捨ててまで親や他人を責めても、考え方を変えさせるなんて出来やしない。誰に理解されたって苦しさは消えないし、自分が生まれなかった世界線になんて行けない。
どうせ死ぬ勇気もないなら、せめて人に好かれる行動だけとってた方がお得だと決めた。
たとえ社会に不必要でも、そのマイナスを優しいとか良い人だとかで0.1でも誤魔化せるならそうするしかない。捻くれ障害者なのに最低限のマナーや愛嬌まで捨てたら最悪のまま終わりだ。
自分の為に生きれなくても、現実にいる目の前の人に喜ばれる事があるならやっていこう。
弱者の立場や優しさを都合良く搾取されるかもしれないけど、単に褒められたら気持ちがいいから、人生気持ち悪くならないで済むわ。
シンプルに目の前の人にありがたがられたいよねー!生きる意味あるじゃんって一瞬錯覚できるから!偽善最高ー!
※他責を辞めようという内容では無いです。
自分も苦しかった時はそうしないと生きれなかった。今も気にしない様にした気でいても、具合が悪い時は心の中で他責に逆戻りしているから。人はそう簡単に変わらない。
※産み育てる事に様々な懸念や責任が伴うという意見を訴える事は意味ある事なので、正しく反出生を訴えている方の非難ではありません。
自慢じゃありませんが、オタクとしてゲームやアニメ、漫画にどっぷり浸かって生きてきました。ところが、今では「一生オタクとして生きるなんて無理だな」と心から感じています。若者の皆さんには、ぜひ結婚を勧めたいと思います。どうせ、人生を失敗するなら、家庭を持ってからにしませんか?
まず、オタクは段々消費できなくなります。加齢とともにスタミナが減り、趣味を楽しむ余裕がどんどん失われていくのです。そう、憂鬱な気持ちが広がるだけです。このままでは、破綻した人生を送ることになるでしょう。
だから、若いやつは結婚しろ!結婚して子どもを作れば、"何者か"になれるなんて言われますが、まさにその通り。家庭を持つことは、自分の存在意義を見つけるための一つの方法です。あなたたちの自由な時間を無駄にするのも悪くないですよ。結婚することで、家庭を持ち、次世代に自分の趣味を押し付けることができますからね!
もちろん、結婚には面倒なこともありますが、何もしないよりはマシです。結婚して家庭を持つことで、社会に貢献している感覚を味わえるかもしれません。親になって、子どもに自分の好きなゲームやアニメを教えるなんて、素晴らしいですよね。自分の人生をあえて破綻させるチャンスですから、これは逃せません。
私のように、結婚せずにオタク趣味に没頭していると、ますます人生の選択肢が狭まっていきます。若い頃の自由を満喫した結果、結局は「何かしらの存在」になれないまま歳を取ってしまいました。だから、あなたたちには早めに結婚を勧めたいのです。失敗するにしても、せめて伴侶がいる状態で失敗してほしい。
結婚は、楽しいだけではありません。現実は厳しく、やっぱり面倒なことが多いですが、それでも「普通の人生」を送ることができる可能性があります。オタクでいることに固執せず、結婚を通じて新しい世界に飛び込んでみてください。そして、あなたたちも私のように「なんで自分はこうなっちゃったんだろう」と考えながら、人生を終えてみるのもいいかもしれませんね。
要するに、若者よ、結婚しろ!そして、私のように破綻した人生を送らないように気をつけろ!未来を築くために動き出せ!俺みたいなソシャゲ6本しか遊ぶ体力のない34歳年収700万の弱者男性にはなるな!
妻はとても素敵なひとで、ポジティブで明るい。
どんなことがあっても前向き。
人生を照らしてくれるひとを選んで良かったと思う。
小さなことでもで悩み、落ち込みがち。
明るい妻には理解できないこともあるのかな。
一緒に落ち込めるパートナーだったら、どうだったんだろう、とたまに思う。
梅田って普通に地元のおっさん歩いてて話しかけたら全部喋ってくれるじゃん。歩んできた人生とか。
で、そのおっさんに聞けばいいんだよ。
気づいたら第二ビルにたどり着くことができる。
ネット上の大半の人間は知能も低ければ能力も無い程度の低いゴミガイジであるという真実を理解しているから
だからネットで支持を集めただのネットの活動で躍進しただのというジャップランド製の政治家というものは1人残らずゴミガイジしかいないのである
もーなんか、時間差で書けば別人のフリできると思ってる??どっちでも良いけど
とりあえず付き合いきれんからこれだけ答えとくな
「それくらいの事」の積み重ねが効いてくるんだろ、働いてない奴には分からんかも知れんが
凹んでもムカつく事があっても外じゃ理性的に振舞わなくちゃならんから家の中に味方がいてくれる事が有難いんだよ
実際独り身のときは負の感情を翌日翌週に持ち越して蓄積する事がしばしば在ったが、結婚してから、特に子供が喋れるようになってからは、家に帰って家族と過ごすと一旦リセット出来るようになった
元々毎日酒を飲み家にいる時は酒を飲んで陽気な状態か寝ている状態だった父。
ある日体調が悪いので病院で薬を貰ったそうなのだが、1番重要な薬を飲み忘れていて、母に薬飲み忘れているよ。と言われた瞬間烈火のごとく怒り出した。
そんなの説明されてない!
その薬の説明部分が紙で見えない!
病院が悪い!
と病院のせいにしていた。
キレそう!とぶつぶつ言っていたが、どう見てもすでにキレている。
母曰く、前日に病気をネットで真剣に調べいたらしい。なので余計に飲み忘れているのは何故なのか?と思ったらしい。
私もなぜ薬の一覧の紙を見ないのか?とか何種類あるなと確認しないのか?と思っていた。
身の危険を感じたのでこれ以上悪化する前に外部の人に相談した。
アルコール依存症か脳の病気かADHDかもしれない。また複数を複合的に発症してる可能性もと言われた。
父親は算数ができないし、役所の書類も読めないので手続きはほとんど母がしていた。
家電なども説明書も読まないし、組み立てなど上手く行かないと途中で投げ出して家を出て行く。
個人で使う物ならまだしも、共用部分もそうなのであとから私たちが物を直したりする。
親戚間の連絡も全く取らずに母が取り継いでいる。自分の兄弟にもキレるので、親戚から怖がられているらしい。
部屋が物で山積みになっていて、共用スペースまで物だらけである。
自分の物はどんどん共用部分にはみ出るが、私が少しでも共用部分に置きっぱなしにしているとキレる。
父は同居している祖母のことがあまり好きではないが、祖母の部屋の周りを自分の趣味のもので埋め尽くしている。
風邪を引いた時にトイレに近いテレビがある部屋で寝ていたら、その隣で寝てずっとテレビを見ていたり。
吐いてしまった布団をそのままにされたり。
皿を洗っていて体調が悪くなってきたので、後でするねと伝えたら、じゃあ洗ってから休んで。と言ったり。
母が家で事故に遭った時に父親は出かける寸前だったそうだが、そのまま出かけようとしたことを母の前で笑い話にする。
悪口ではなく平然と笑い話にする。
愛情がないとか父の幼少期は大切にされてなかったのかな。と考えたりもしたが
頭のつくりが違うと考えた方が1番しっくりくる。
昔はこういう人は男だからと家族が我慢してきて問題視されてなかったのかなあ。
兄弟の将来について悩んでいた時に、父親に話したら人生色々だからな〜まあ嫌ならお前が家出ればいいじゃん!と言われた。
これを聞いてから我慢の限界がきて、あ、この人が糞尿垂れてても血を流しても痛みに苦しんでも人生色々だもんねって助けないでおこう。と誓ったのだった。
じじいはぬるい人生送ってていいな
今の世代は、昼学校夜バイトであとは寝るだけの生活してるやつ普通にいるぞ
それを「無茶」とか言えるぬるさが憎いわ
おまえらのせいで無茶が当たり前になってんだよクソが
「選択的夫婦別姓」と「選択的安楽死」に対する賛成・反対の一貫性は気になるところではあるね。
元増田のような同調圧力で同姓派がバカにされるようになるという懸念も、
安楽死が合法化されたら同調圧力で社会的弱者が安楽死を「選ばされる」ようになるという懸念も、
どちらも、知ったことか、他人の意見に自分の人生を委ねるな、自分で選べ、弱いお前を基準にして他者の自由を制限するな、と突き放すけど。
と、こう書くと過激に聞こえるかもしれませんが、今の私は、確信を持ってこれを言えるようになりました。昔の私は、まるで迷路の中でキャリアパスというゴールを探し求める鼠のように、必死に進むことしかできなかったんです。
大学生の頃、未来は明るく見えていました。周りが言う「立派なキャリア」「安定した生活」が手に入れば、幸せがやってくると信じていたのです。でも、社会に出た瞬間、私はその幻想がいかに儚いものかを痛感しました。理想と現実のギャップに苦しみ、職場の過剰な期待と要求に押し潰されそうになり、次第に自分が自分じゃなくなっていくのがわかりました。そこから鬱病が始まったんです。
この病気は私の世界を変えました。生きている実感がなくなり、ただ「何とか耐えている」だけの毎日が続きました。生きることが苦しくて、死をちらつかせることさえあったのです。通院を続け、薬を飲み、無気力な日々に追い打ちをかけるように、社会は「キャリアを築け」「もっと努力しろ」「もっと頑張れ」と命じてきます。それに従わなければ、何も価値がない、存在する意味がないとさえ思わされていたのです。
けれども、どこかで「違和感」に気づき始めました。なぜ、誰もが同じゴールを目指して、同じように苦しんでいるのか。私たちの生きる意味や価値が、どうして収入や地位で決まるのか。この疑問は頭から離れず、心の中で次第に大きくなりました。
仏教に興味を持つようになったのもこの頃です。仏教では、「今の自分が本当の自分ではない」と教えてくれます。私たちが抱える苦しみの多くが、社会や周囲から押し付けられた「こうあるべきだ」という幻想から来ているというのです。目から鱗でした。
特に「無常」と「無我」という考え方に救われた気がしました。すべては移ろいゆくものであり、私たち自身もまた、固定された存在ではない。自分が「成功しなければならない」「立派なキャリアを積まなければならない」という固定観念から少しずつ解放されるようになったんです。
私がたどり着いたのは「メメント・モリ(Memento Mori)」、つまり「死を忘れるな」という言葉です。人生はいつか終わるものであり、私たちはその終わりを見据えて、今この瞬間をどう生きるかを考えるべきだという視点です。
多くの人は「キャリア」や「将来の安定」に執着し、必死で未来を確保しようとしています。でも、「今この瞬間」が本当に大切だと気づいた私は、そこに人生の意味があるように感じ始めたのです。死ぬことを恐れず、むしろ「いつでも終わらせることができる」覚悟を持つことで、私の中で生きることへのプレッシャーが軽くなりました。
「今すぐ死んだって構わない」というのは、決して自暴自棄の気持ちではありません。むしろ、今ここにいる自分を自由にし、どんな時でも自然体で生きる覚悟を持てたという意味です。
こうした考えに至った今、私は社会と一線を引きながら、自分に正直でいることができています。もちろん、社会の一員として働かなければ生活はできませんが、だからといって自分をすべて犠牲にする必要もないのです。「無理にキャリアを追わなくてもいい」「成果を出さなくてもいい」と言い聞かせ、自分らしい生き方を探すことで、自然と心の負担が軽くなりました。
いわゆる「普通の労働者」である私が、キャリアを追うことをやめて、ただ「ここにある今」を大事にして生きる。それは社会から見れば「やる気がない」ように見えるかもしれませんが、実はその方が、私にとって本当の意味で生きることなのです。
こうして振り返ってみると、鬱病と向き合い、苦しみ抜いた時期があったからこそ、今の私がいるのだと思います。「キャリアパスなんてクソくらえ」と言い切れるようになったのは、社会や他人の価値観に自分を縛られず、自分にとっての「意味」を探す勇気を持てたからです。
もしも、今を生きることに苦しんでいる人がいるなら、少しでも「メメント・モリ」を思い出してほしいと思います。未来ばかりを追わず、今の自分に正直でいること。いつかすべてが終わることを忘れず、押し付けられた生存の重荷を少しでも降ろせるように、生きていくのも一つの選択です。