はてなキーワード: 市井とは
判決速報240628
令和5年ワ3848 16部甲
餘多分宏聡裁判長
http://blog.livedoor.jp/advantagehigai/archives/66238431.html
colaboの支援者と名乗る匿名アカウントが、「暇空なんかいつでも殺せる」というポストをリポスト
身の危険を感じた暇空は元のポストをした者も、リポストしたcolabo支援アカウントも訴えることにした
アカウントは連絡先を北原みのりの住所にしていたため暇空は犯人は北原だと察し北原を訴えた
しかし北原は「私ではない」とひたすら否定、多忙を理由に出席を拒否し延期が続く
やがて太田啓子が「colaboを支援する者たちの集まりでつくったアカウントで住所は北原にしてるが、実際にXに投稿してるのは私だ」と唐突にいい出した
発言者が誰であれ殺害予告でしかない文なのに、今回不当に棄却となり暇空が敗訴した
【名字】餘多分
【読み】よたぶん,よたわけ
【全国順位】 67,034位
現広島県西部である安芸発祥ともいわれる、治水の功により浅野侯より賜名字である。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%A4%98%E5%A4%9A%E5%88%86
現在、暇空は石丸伸二と対立関係にあり石丸から多数の攻撃を受けている
石丸が広島で生まれ育ち広島の市で市長をやっていたことはよく知られたことだ
暇空が広島出身者に殴られている時に、広島に由来する名字を持つ裁判長が不当な判決を下す
これが偶然のはずがない
名字というのは、山のそばなら山野さん、川のそばなら川辺さんと自然発生するものが多いが、餘多分は江戸時代末期に広島の大名であった浅野長勲が創作し臣下に与えたものが起源で新しい
浅野長勲は多くの肩書を持つが、安芸広島新田藩第6代藩主でもある
安芸広島、そう石丸が市長だった広島県安芸高田市のかつての名だ
これが偶然であるはずがない
石丸は急に出てきて目立つようになりそのバックボーンが怪しまれていたが、つまりは石丸の祖先は浅野長勲なのだろう
廃藩後に華族となることを辞退し市井にまぎれた浅野家の末裔の一人が石丸伸二である
浅野家と餘多分家は今でも密かに主従の関係であり、殿様である石丸の指示に従い法秩序を捻じ曲げてでも不当な判決を出した
石丸は、百合子のイメージカラーが緑であるためかぶりを避けて紫にした
紫なのは、金づるとして支配下に置いている華僑たちが好む色だからだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#/
数百年をかけて広島の人々の血に刻まれた「主人」の色が緑なのだ
広島県民は独特の風俗を持ち、日本国に属しているという感覚はほぼなく、現代においても廃藩置県前の「殿様」に仕えているという意識が強い
広島に原爆が落とされたのは「日本」のせいだ、犠牲にされた、そんな思いから日本への憎しみが深い
原爆による反米感情が根深く、それが中国との強い結びつきを生み出した
石丸がもし都知事になれば、東京のために働くことも日本のために働くこともけしてありえない
母子家庭で毒親に毒づかれながら東大に進学したけど毎日自殺することばかり考えながら結局博士号をとった、
みたいな暗いんだか明るいんだかよくわからない話を読まされてげんなりした。
「俺はこういう生きづら要素のある話がよくよく嫌いなんだなー」
と思った。
世の中には不遇な人々がいる。それに打ち克って立派なことを成し遂げる人もいる。
そういう人々がはてなや世の中で強いコンテンツ力を持っていることも知っている。
テレビにもネットにもそんなコンテンツが溢れている。ハンディキャップを持った人のうるわしい美談。億万長者のきらびやかな生活。
でも俺は、そういうものにまったく心が動かない。
というか、動かしたくない。
負担なんだ。気の毒な人々を見て気の毒がったり、不遇な人々を見て社会を憤ったり、億万長者を見て羨んだりするのは、もう疲れた。
追い風で自転車に乗っているくらいのエネルギーで生きていきたいんだ、俺は...。
だから俺は、起伏のない人生を送り、特に何者になることもなく、わずかな取り柄と言えば手品が特技ですみたいな普通の人の普通の人生が好きだ。
普通ってなんだ、と言われても困るが、気の毒すぎたり満たされすぎたりしていないことかな。
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
「料理名 レシピ」 だけで検索すると市井のお料理投稿野郎どものレシピばかりがヒットして困る。
市井のお料理投稿野郎ども(つまり素人さん)のレシピって、ひとひねりふたひねりされてたり、変な個性を主張してたり、重要事項の抜け漏れがあったりして、今イチそのまま使おうという気になれない。
まだまだ料理勉強中の俺としては、まずはきちんとスタンダードな作り方、基本から覚えていきたいからだ。
そこで俺が最近発見したいい検索ワードが 「料理名 企業レシピ」。
「企業」という単語を追加すると、調味料メーカーや食品メーカーなどがオウンドメディアで展開しているコンテンツがよくヒットするようになる。近頃はお酒のメーカーもおつまみレシピを紹介したりしている。どうやらレシピ記事はコンテンツマーケティングの4番打者らしい。
そういった、立派な企業が公開しているレシピ記事は、たいてい、ひねりのない定番料理のひねりのない手堅い作り方がプロの監修のもとで作られている。信頼感抜群である。
素人投稿とは違ってお金をかけて制作されたコンテンツなので、写真も説明も見やすい・わかりやすい。
ありがたいことである。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
おもしろい。
信頼(しんらい)とは、相手や対象に対し自分の期待した通りの結果が帰ってくることが信じられること。どれだけ信じられるかの定量的度合いを信頼性や信頼度という。
(wikipediaには信用の項目は無し)
イマイチ要領を得ない。社会心理学の用語として載せられている。ここで調べる先を間違っていたことに気づく。
信頼(しんらい)
1. 信じて頼りにすること。
信用 (しんよう)
1. 信じて任用すること。
wiktionaryの定義によれば、信頼は一種感情的なものでさえある。しかし信用は、例えば"信用取引"などという言葉があるように、感情ではなく、どちらかと言えば"合理的な期待"に類似することが分かる。
/* だが、信用と信頼を、意識して使い分けている人が、どれほどあるのか?あるいは、ごちゃまぜに認識している人も、いるのではないか?というのも、私もイマイチ意識していなかったために、こうして調べているのだから。
例えば「そんな人のこと、信用しちゃダメだよ」この文がどちらの意味を(感情か、合理的な期待か)持って信用という語を使っているのか?それは発言及び人物の背景を見ないと分からないと感じる。
形而上の言葉というのはそういうものだろうか。(哲学初心者)*/
信頼とは裏付けも担保もなく相手を信じること。 これもアドラーの言葉です。 信用というのは条件つきで相手を信じること。(引用元)
「信用」と「信頼」では微妙に意味が違う。前者は損得を計算した上で相手を信じる行為を指すが、後者は利害を超えて相手に身を委ねる気持ちがあらわれている。違いを意識した上で英語に訳すと、「信用」は「give credit to s.b.」、「信頼」は「rely on s.b.」というのが適当かと思う。
藤田達蔵著「ガイドとの交信マニュアル」の第5章「交信のコツ」の「5自信を持つ」から以下抜粋する:
「必ず期日までに返済するならお金を貸してやろう」というのが信用です。それに対して、「きっと返済してくれると信じているからお金を貸してあげよう。もしも返してくれなくてもそれはこちらの責任。君を信頼しているから貸すよ」というのが信頼です。
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村上春樹氏は、『村上さんのところ』に収められた読者への返事に自らの考えをまとめた:
長嶋茂雄さんはかつて「選手は信頼するけれど、信用はしない」という名言を吐かれました。要するに配下の選手に対して「基本的にはポジティブに受け入れるけれど、細部に関してはしっかりと疑いの目を向ける」ということなのでしょう。例によって「長嶋語」ですが、なんとなく感覚としてはわかりますよね。
「信用」と「信頼」、「信任」を使い分ける | Web Pages Japanese-English And English-Japanese Wiki | Fandom
木浦 幹雄 / KIURA Mikio @ANKR DESIGN
@kur
テツロー
@punpupuuuun
·
返信先:
@bombombomb2017
さん
事例あります(ドヤァ)で終わること多いですよね。。。なんで?って聞くと、信頼性、コスト、納期ぐらいしか皆さん言わないですし。。。
ここで"信頼性"という語を思い出す。これは「reliability」の訳語だろうか。統計やモノ、サービスがどれほど"そうである"という期待を持てるか、というところか。この概念は信憑性、確実性とも言いかえられる。やや"信頼"からは離れた言葉のようだ。
話が逸れた。まあ、ここまでの感じを見ると、「聞いた話を元に株を買うことと、株を買うために金をそいつに預けること。」は、双方、信用した結果の行動というところか。
信用は、必ずしも信頼を必要とせず、例えば過去の実績や、業績などを理由に行うことができる。という感じだな。
モノに使う場合は、"機能を発揮することの期待"(0/1)が信用で、"可用性、もしくは妥当性を期待すること"(1が継続すること、あるいは1が1であること)が信頼かもしれないが、調べたりないし、もう飽きたのでまたいつか。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
これ→ - (半角ハイフン)を行頭に使うと箇条書き出来るよ。だからなんだ?という話でもないが
例
情報リテラシーの高いはずのはてぶ諸氏ですら混同混乱が見られるので、改めて金プラ買取について説明する。
一般的な古物商や質屋は物品を商う一環として貴金属も取り扱ってきた。
しかし従業員の育成にコストがかかり、拡大が極めて難しかった。
そこで金とプラチナという、真偽と重量さえ計測できればOKの貴金属商材一本勝負の古物商が生まれた。
業界最大手はジュエルカフェ(たぶん)で全国300店舗ほどあり、ショッピングモールにも出店している。
よく報道でいわれる1g12,865円(田中貴金属2024年04月15日 09:30)とは純金の価格である。
純金とは金の含有量が99.9%以上の金のことだが、買取価格の純金とはイコールではないので用語を説明する。
純金:現物をやり取りしない(摩耗やすり替えを想定しない)金のこと。現物価格といいつつ実際にはあまり動かない
純金(バー):インゴットのこと。製造者が明確で刻印等があり、封印(パウチ)が解かれていないもの
純金(コイン):各所発行のコイン。封印があればこの価格で、野ざらしだと下がることもある。
K24:純金の金製品のこと。刻印と封印のないすべての純金とも定義できる。以下まとめて金スクラップ
K23~:純度の低い金全て
K18:75%。大半のアクセサリはこの純度で作られている。取引の9割以上がこれ。
以下余談
だいたい純金4500円/g(K18で3300円)の時代で300円/gから商談スタートするのが基本だった。
基本的にこういう店に来るのは調べるリテラシーがないお客様が大半なので、言い値でポイ。
嘘ついたら詐欺だから聞かれたことには全て正確に真実を話すのが大事。
なんか豊田商事ライク。
ちなみに某大手も300とか600スタートだったんで、リテラシーも交渉能力もない人は相見積もり取っても買い叩かれてたと思う。
けど金の椀ってメッキ・偽物発見率95%くらいの地雷分野で、さらにこれくらいの重量になると市井の店舗にあるような簡易比重計は騙されてしまう場合がある。
だから盗品とか以前の問題で、リスク加味して買い取らない店もあると思う。
増田も正直どうするかな~~~~って感じ。現役時代なら検査に回したいところ。
これも妥当だと思う。
基本的に貴金属が貯まり次第に買取業者か本部に発送するので、この大物だと即梱包して引き取ってもらうだろう。
店の金庫の中で従業員がすり替えたり横領したり、あるいは窃盗・盗難もあり得るから即出荷。
宵越しの金を持たないのがこの仕事。
これこれ盗まれたんで買取リストに無いですか~って。基本的に古物商ネットワークは活用されてないと思われ。
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リテラシーある人はどこに売りに行くの?
リテラシーある人でも金プラは利用するよ。相場感を把握しているお客様を無下にはしないので。
大本の買取業者は基本的に郵送+法人のみの扱いが多かったり、BtoC拠点があっても全国に3店舗しかないみたいな感じ。
店によるけど増田は業者への送料ペイすればOKくらいまで上げるよ(相場が下がり傾向の時は別)
知ってる人相手に無駄に交渉しても時間の無駄だし、そういう人はどこかから金を集めてまたやってくるので、繋いだ方が得な事が多い。
ぼんやりと交渉したとしても、ちょっとは上げる。そのための300円スタート。
今日の金相場は純金でこれくらいです。でもお客さんのこれは純金ではないです。
金スクラップって言って信用の裏付けのない純度の低い金なんです。
ウチは質屋じゃなくて金属屋さんなんで、指輪としての価値はつけられないです。あくまで金属としての値段しか出せないです。
みたいにK18の相場を言わない流れに持っていって買い取る。
犯罪者いて笑う。1回もやったことないわ。そもそもメッキ・タングステンはお客様に返却する運用だった。
嘘ついたら豊田商事やぞ。
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
①見たり聞いたり想像する力が弱い
③予想外の出来事に弱い
⑤人とのコミュニケーションが不得意
⑥力加減ができない
あと1分ごとに無意識に手の甲をベロベロ舐めたり、なんとなく臭かったり(隣の席なのでストレスが半端ない)。
「想像力の乏しさ」という意味では、中学生レベルの語彙しか使わない僕の説明すら全然理解してくれないし、文章を書かせると大体グッチャグチャ。
文法や文章構成からして色々とおかしい。文章すらコミュ障ってどうなんだ。
1年間フィードバックして改善の兆しは見られない。そのフィードバック時の返事もハイハイハイと上の空だが、本人としては情報を噛み砕くの精一杯なのだろう。
残酷なことに一切の成長も見られない。「読めない」「書けない」「話せない」の三重苦で苦しみ続けている。愛嬌を作る余裕もなく、丸裸に傷つくしかできないタイプ。
今日なんて、たいしたタスクでもないのに、自分の中で仕事をコントロールできずキャパオーバーになっていた。
で、頭を掻きむしり「「もう、どうすればいいのかっ!」と妙にデカい声で訴え、ワーッってなってた。
超人の女上司が優しく指導していたが、本音ではだいぶイラついていると思う。
一番ダメなのは自己肯定感の低さ。自分自身を無能と思ってるので、説明も自身なさげで、基本的に信用する気にならない。唯一の救いは……根が真面目なので腐らず真摯な姿勢は維持するところか。
この話にオチはないが、悪気は無いのに、ここまで人を不愉快な気分にさせる女がいるということが驚きではあった。
上司は20代後半で、そんな年も離れていないんだが、頭脳明晰で、どんな仕事でも出来る。
見た目こそ、ゆるふわお姉さん系キャラだが、男顔負けのメンタル強者。
ある意味で社畜の鏡みたいな人だ。(前職で80-120時間以上残業したときはさすがにメンタルをやられたそうだか)
我が強いが、優しく厳しい。
自分の強烈なバイタリティをそのまま他人には当てはめられないと前職時代に自覚したそうなので
そんな上司と先日、月1の面談があったので、仕事の話はそっちのけで昔話をしていたわけです。生育歴が気になったからだ。
上司は「応仁の乱」勃発地といわれる「御霊神社」の近くに住んでいたそうだが、いわゆる心霊物件だった。
誰かがリモコンを操作して、勝手に部屋の電気が消えたり、テレビが突然消えたりするわ。
そのときは見知らぬ女性が足元に立っていたそうだが、「実害はないから」と放置していたという。
しかも部屋の契約期間が終わるまで2年間ずっと住んでいたというメンタルには恐れ入る。
本人は霊感などなく、家電類も引っ越したら正常に戻ったので、「あ、そういう物件だったのね」とあっけらかんと語っていた。
「怖くなかったの?」と聞いてみると
「理詰めで説教してくる母親の方が怖かったので、それと比べれば大したことなかった」そうです。
生きた人間の方がよっぽど怖いのかねえ。
で、上司の名言に「仕事に打ち負かされれるという発想がダメなんだよね。むしろ仕事を〇してやるぐらいの感覚がないとダメだよ」というのがあって、パンクだよなあと感心したり。
暇空茜氏vs東京都国家賠償請求訴訟、1万1千円支払い命令+公文書不開示決定取り消し - Togetter
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間違いなく東京都は上告するけど。
上告した場合、これまでの暇の人のアクションが「行政や市井に混乱と分断を招くための行動だ」と裁判官に認知・理解してもらう方法しかないんだが。
法曹的には「そんなもん関係あらへん!」だけど、裁判所は「空気読み」装置でもあるからな。反吐が出る。
是非とも勝っていただきたい。