はてなキーワード: 文化とは
22世紀、人間の食生活は大きく変わり、合成食品が主流となった未来。しかし、伝統的な食文化を守るため、特定の「食品擬人化プロジェクト」が進行していた。その結果、生成されたのが「ドーナツ人間」、愛称「ドン」。彼はドーナツの見た目と性格を持ちながら、人間と同じ知性と感情を備えた存在である。
ドンは、22世紀に生きるドーナツ擬人化第1号。彼の夢は地球上のあらゆる「伝統的な食文化」を探訪し、ドーナツ文化の起源を見つけ出すことだった。しかし、彼は自分がいつか腐敗してしまうという「賞味期限」という運命を背負っている。彼の旅は、時間との戦いでもある。
• ドン:ドーナツ人間。好奇心旺盛でポジティブだが、賞味期限を気にしている。
• マキ:未来のフードサイエンティスト。ドンの製造に関わった科学者で、ドンに親しみを抱きつつも、科学者としての冷静さを保とうとする。
• シバ:AIガイド。ドンの旅をサポートするが、時折皮肉屋。
ドンは、22世紀の東京で「伝統的な食文化博物館」を訪れ、古代のドーナツやスイーツの展示を見て心を動かされる。そこで彼は、かつてのドーナツ職人たちが、何世紀も前からドーナツを愛し続けたことを知る。マキは、彼の夢を応援し、ドンの旅の計画を手伝うことを決める。
ドンとシバは、時間と場所を超えてさまざまな料理を体験する旅に出発する。彼らは、イタリアの伝統的なデザート、南米の揚げ菓子、フランスのクロワッサンなど、さまざまなデザート文化を探求していく。ドンは、各地で自分と似た「スイーツキャラクター」たちと出会い、友情を築いていくが、次第に自分の賞味期限が迫っていることを感じ始める。
旅の途中、ドンは自分がゆっくりと劣化していくことに気づく。彼の表面にひびが入り、少しずつ硬くなっていくのだ。それでも彼は旅を続ける決意を固めるが、賞味期限が迫るたびに自己存在の意味について悩むようになる。シバは、冷静なAIとして「記録を残すことで不滅になれる」と助言するが、ドンは「記録」だけではなく「体験」が大事だと反論する。
ついにドンは、ドーナツの「起源」を探し出すために、かつてのアメリカへ向かう。そこで彼は、現地の人々と交流し、古代のドーナツ作りを見学しながら、自分が「愛される食べ物」として生まれたことに喜びを感じる。
ドンの劣化は限界に達し、崩れ始める体を感じながらも、最後のメッセージをマキとシバに送る。彼は、自分がただの「食品」ではなく「愛された存在」として旅を終えたことを感謝する。そして、ドンの残した記録と旅の思い出が、次の世代の「擬人化食品」のプロジェクトに活かされ、新たな「スイーツキャラクター」が生まれる。
ドンの旅は終わったが、彼の存在と記録は後世に語り継がれる。マキとシバは、ドンを思い出しながら、彼の遺志を継いだ新たな擬人化キャラクターたちの旅が再び始まる場面で幕を閉じる。
「ドーナツ人間22世紀の旅」は、有限な命の中で自分の存在価値を問い、自らの意義を見出していく物語。ドンは、人間と同じように存在の意味を探し、限られた時間の中で何を残すかというテーマを描いている。
「虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められています。しかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります。日本語の表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手の家族やファンに配慮する意味で、もっと一般的な表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。
ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ちも理解できます。
「虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります。哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります。
こうした表現の適切性は、文化や個人の感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族の感情、そしてコミュニティの文化的背景を考慮することが重要です。
芸能人の訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。
由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペットが虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます。
広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に、家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福を祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります。
故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。
親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちがストレートに伝わる。
一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。
芸能人という公の立場の人物であるため、よりフォーマルな表現が求められる場合もある。
故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。
故人の宗教観や家族の意向: 故人や家族が宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観に配慮した表現を選ぶべきです。
発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります。
周囲の反応: 自分の言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。
まとめ
「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。
もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現も検討できます。
安らかに眠ってください。
「虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。
補足
10年後の日本では、人口減少、少子高齢化、技術の進展、気候変動など、現在進行中の課題やトレンドがさらに顕在化していると予測されます。以下、分野別に具体的に論じます。
• 地方分権化の進展
人口減少や過疎化が進む中、地方自治体の財政基盤は厳しさを増す可能性が高いです。国からの補助金に頼るだけでなく、地方ごとに特色ある税収確保策や産業振興策が必要になるでしょう。ふるさと納税のような地域活性化政策はさらに進化し、地方の自立性が増すと同時に、地方ごとの格差が生まれる可能性もあります。
高齢化率がさらに進行し、現行の年金制度や医療保険制度の持続性が危ぶまれています。少子化による労働力不足や若年層の負担増を考慮し、年金の支給開始年齢の引き上げや、医療サービスの効率化が進むと予想されます。消費税や所得税の見直し、社会保険料の引き上げも議論されるでしょう。
2. 社会
労働力不足を補うため、外国人労働者の受け入れが増加していく可能性があります。特に介護、農業、建設といった分野では、外国人の活躍が不可欠になるでしょう。その一方で、多文化共生に向けた社会制度や地域コミュニティでの支援が進むことが予想されます。言語教育や差別防止策の整備が急務です。
働き方改革や男女共同参画の推進により、家族や結婚の価値観もさらに多様化します。選択的夫婦別姓、同性婚の合法化も検討される中で、これまでの「標準的な家族観」から脱却し、様々な家族形態が当たり前とされる社会になっていくと考えられます。
3. 生活
AIやIoT(モノのインターネット)が普及し、家事や通勤、健康管理などが効率化されるでしょう。スマートホーム技術や遠隔医療の発展により、日常生活がより快適かつ便利になる一方、デジタルデバイドの問題も浮上するかもしれません。高齢者へのデジタル教育やサポート体制がさらに充実することが求められます。
テレワークが定着し、地方移住の動きがさらに進む可能性があります。自然エネルギーを利用したエコハウスや、地域の資源を生かしたサステナブルな生活スタイルが広まり、環境に配慮した生活が標準となるでしょう。特に若い世代が自然豊かな環境を求めて地方に移住し、農業や地産地消の取り組みが進むと考えられます。
4. 文化
映画やアニメ、音楽など、日本のポップカルチャーはさらに多様化し、国際的な影響力を持ち続けるでしょう。デジタル化やグローバル化により、日本発のコンテンツが世界中で視聴・消費される一方、日本国内でも海外の文化がより身近に取り入れられ、ハイブリッドな文化が生まれると考えられます。
若い世代の間で伝統文化の継承者が減少する問題に対し、地域ごとの保存活動が進むと予想されます。デジタル技術を活用して伝統芸能や工芸をアーカイブ化し、広く発信することで、国内外で日本文化に対する理解と関心が高まるでしょう。
地球温暖化の影響で台風や大雨などの自然災害が頻発すると予測されています。これに対して、日本は防災インフラの整備や、避難所の増設、地域社会での防災教育の充実がさらに進むでしょう。また、再生可能エネルギーの普及や、エコカーの普及を通じた温室効果ガスの削減に向けた取り組みも進むと考えられます。
まとめ
10年後の日本では、人口減少や高齢化、気候変動といった社会課題に直面しながらも、テクノロジーの進展や多文化共生、地方活性化といった新しい価値観やライフスタイルの確立が進んでいると予測されます。
ふるさと納税の導入を促進した日本の主要な関係者は、自民党を中心とする与党議員や、総務省などの省庁です。ふるさと納税制度は、2008年に総務省が主導して創設されました。目的としては、地方自治体の財政を強化し、都市部への人口集中を緩和することが挙げられます。
• 地域間の財政格差解消: 都市部に人と税収が集中し、地方は過疎化が進んでいるという現状を背景に、地方自治体が税収を得るための方法として考案されました。特に総務省は、地方創生や地域活性化を進めるためにこの制度を設け、地方の財源不足を補完しようとしています。
• 寄附文化の醸成: 自民党を中心に、日本における寄附文化を広めることも一つの狙いでした。ふるさと納税を通じて、人々が自分の出身地や応援したい地域に寄附を行うことで、地方の支援につながる仕組みとする目的がありました。
• 自民党: 自民党議員が地方創生の政策として支援し、法整備を推進しました。地方の活性化を重要視する地方議員も多く、この制度を通じて地方振興の一環として活用されることを期待していました。
• 総務省: 総務省が制度設計とその運営を担当しており、ふるさと納税の実施ルールの策定、改正なども行っています。また、返礼品のルールや適正化についてもガイドラインを設け、制度の円滑な運営を進めています。
3. 課題と調整
ふるさと納税制度は当初の目的を果たしているものの、返礼品競争などにより一部の自治体に偏った税収が発生するなどの課題も生じています。総務省は返礼品の規制や、制度の健全な運営に向けた調整を進めることで、制度の趣旨を維持しようとしています。
俺頭悪いんだと思う
頭が良い人が作ったツールとかほんと無理
・UberEatsのアプリ
皆これ使えてるの?地獄なんだが(自分では使わないが頼まれて使ったりする)
何もかもわからん、一回覚えたと想ったらUIガラッと変わったし
・Box
・Notion
一生嫌い、流行ってんじゃねーよ
まだAtlassianの方がマシ
redmineもBacklogもAtlassianもNotionも基本嫌いだけど、Notionが現状一番キライ
1年に数回はイライラしてキレてると思うんだけど皆は違うのか?
ホテル選ぶの大変なのに、部屋のバリエーション差がたくさんあり、値段は「今だけの割引き」みたいなのがあって地獄、クーポンやら還元やらでどんどん複雑になってる
・GoogleMap
昔は良かったんだけど、意図しない動きがどんどん増えていく
なんでそうなる?みたいな
こわくて何もさわれないし忌避感がすごい
自分はメインユーザーじゃないからいいんだけど、あれどこの文化なんだろう?中国っぽいよねUI
純粋にクソ
カーソルを合わせたらUIが変更されて押せる場所が変わるみたいな、そういうことをする
まだまだ大量にある、思い出したら書く
_____
・ソシャゲ
要素がすげー多いのにそこまでイラッと来ない、ボタンが昔ながらの立体タイプが多いからかな?見やすい
もう一個あったけど忘れた
去年、アメリカで民間会社が統計取ったら全体の8割が夫の姓を選択していて、保守・高齢は夫の姓、リベラル・高学歴・若年は別姓っていう傾向が出てる(どちらかが見栄を張ってるのか男女で数字が合ってないし....)
2020年のBBCの報道では西欧は今でも夫の姓にする社会的圧力が強いらしい
https://www.bbc.com/worklife/article/20200921-why-do-women-still-change-their-names
戸籍制度の無い国は男女平等で夫婦別姓にしているのはなく、勝手にやって下さいというだけの話だけだと思う
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9
https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9
・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
というと、具体的にはどの国の文化のこと?
アイドル界の混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、
自分の子供時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツを子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。
親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして、人間性の健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。
単なる暴力やセックスの話では収まらなくなってきている。最近の少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別や格差をギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。
自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。
だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。
大学で「こども文化論」みたいな科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。月並みな結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育てるべきものではなく、子供もそこで消費者にすり替えられていた。そしてそれは子供自身が望んだことではなく、明らかに大人の商売のために作られたものだ。
もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全なものと理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画も少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。
ここで、『まんが道』(とその続編)に出てくる、テラさん(実在した漫画家・寺田ヒロオ)の話を思い出す。彼が何をしたかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。「闇」扱いされてるが。
自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずおか永井豪の漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。
漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全な漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。
しかし私は、テラさんの立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。
ただ付け加えると、テラさんは、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルトな作風の漫画までは否定していない。テラさんが心を割って話せる存在が任侠・アダルト漫画家の棚下照生だったように。
子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるものが欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。
テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画・劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心かタイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見分からない形で(ギャグやロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。
はっきり書けば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。
近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。
それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツが子供に蔓延したのは、子供の事情や「時代の要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人の商売の都合なのだ。
「外国語がバリバリにできる」って、単に流暢に喋ったり書いたりできるってだけじゃダメで、その国の文化に入り込んでネイティブのエリート層のインナーサークルで上手く立ち回れるってくらいじゃないと価値ないけど、それは日本人ではほぼ不可能なんだよな。
この問いには、宗教とオカルトの区別が難しいとする疑問と、信仰の合理性や必要性への問いかけが含まれています。これを考えるには、宗教とオカルトの定義や役割の違いを整理しつつ、不合理であるものの意味を深掘りする必要があります。
宗教とオカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれる場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります。宗教は一般に、特定の歴史や教義、道徳的価値観、信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルトは神秘的・超常的な現象への信仰や、個人の体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義や道徳的基盤がない場合が多いです 。
宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしています。しかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性だけが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的を提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割を果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。
不合理の必要性について
宗教が象徴的に示すような「不合理」なものの存在は、人間の心の多様なニーズに対応するものです。例えば、日本の伝統行事や信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります。合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります 。
この問いにある「人間が死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なものは不要」という前提には、感情や文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定の社会や文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります。
まとめ
宗教やオカルトの価値は、必ずしも合理的な根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。