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はてなキーワード: 文化とは

2024-11-02

anond:20241102125716

色彩感覚女性のほうが優れてるのとなにか関係あるのでは。

男性色弱が多いでしょ。

世話してくれる人がいないと色弱の人はとんでもない格好をするよ。

身内にいたのでわかる。

それと、おしゃれが女性文化だとして見下す男性文化が年齢によってはありそうな。

2024-11-01

ドーナツ人間22世紀の旅

プロローグ

22世紀人間食生活は大きく変わり、合成食品が主流となった未来しかし、伝統的な食文化を守るため、特定の「食品擬人化プロジェクト」が進行していた。その結果、生成されたのが「ドーナツ人間」、愛称ドン」。彼はドーナツの見た目と性格を持ちながら、人間と同じ知性と感情を備えた存在である

あらすじ

ドンは、22世紀に生きるドーナツ擬人化第1号。彼の夢は地球上のあらゆる「伝統的な食文化」を探訪し、ドーナツ文化起源を見つけ出すことだった。しかし、彼は自分がいつか腐敗してしまうという「賞味期限」という運命を背負っている。彼の旅は、時間との戦いでもある。

登場人物

ドンドーナツ人間好奇心旺盛でポジティブだが、賞味期限を気にしている。

• マキ:未来のフードサイエンティストドン製造に関わった科学者で、ドンに親しみを抱きつつも、科学者としての冷静さを保とうとする。

シバAIガイドドンの旅をサポートするが、時折皮肉屋。

第1幕:旅の始まり

ドンは、22世紀東京で「伝統的な食文化博物館」を訪れ、古代ドーナツスイーツの展示を見て心を動かされる。そこで彼は、かつてのドーナツ職人たちが、何世紀も前からドーナツを愛し続けたことを知る。マキは、彼の夢を応援し、ドンの旅の計画を手伝うことを決める。

第2幕:味覚の旅

ドンシバは、時間場所を超えてさまざまな料理体験する旅に出発する。彼らは、イタリア伝統的なデザート南米揚げ菓子フランスクロワッサンなど、さまざまなデザート文化を探求していく。ドンは、各地で自分と似た「スイーツキャラクター」たちと出会い友情を築いていくが、次第に自分賞味期限が迫っていることを感じ始める。

第3幕:賞味期限との葛藤

旅の途中、ドン自分ゆっくり劣化していくことに気づく。彼の表面にひびが入り、少しずつ硬くなっていくのだ。それでも彼は旅を続ける決意を固めるが、賞味期限が迫るたびに自己存在意味について悩むようになる。シバは、冷静なAIとして「記録を残すことで不滅になれる」と助言するが、ドン「記録」だけではなく「体験」が大事だと反論する。

第4幕:最後目的

ついにドンは、ドーナツの「起源」を探し出すために、かつてのアメリカへ向かう。そこで彼は、現地の人々と交流し、古代ドーナツ作りを見学しながら、自分が「愛される食べ物」として生まれたことに喜びを感じる。

第5幕:自己犠牲と新たな始まり

ドン劣化限界に達し、崩れ始める体を感じながらも、最後メッセージをマキとシバに送る。彼は、自分がただの「食品」ではなく「愛された存在」として旅を終えたことを感謝する。そして、ドンの残した記録と旅の思い出が、次の世代の「擬人化食品」のプロジェクトに活かされ、新たな「スイーツキャラクター」が生まれる。

エピローグ

ドンの旅は終わったが、彼の存在と記録は後世に語り継がれる。マキとシバは、ドンを思い出しながら、彼の遺志を継いだ新たな擬人化キャラクターたちの旅が再び始まる場面で幕を閉じる。

テーマ

ドーナツ人間22世紀の旅」は、有限な命の中で自分存在価値を問い、自らの意義を見出していく物語ドンは、人間と同じように存在意味を探し、限られた時間の中で何を残すかというテーマを描いている。

虹の橋

芸能人訃報に対して親交のあるタレントコメントを出した。

その内容は「彼は虹の橋を渡った」と哀悼表現したのだが、この表現は適切だろうか?

ChatGPT

虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められていますしかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります日本語表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手家族ファン配慮する意味で、もっと一般的表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。

ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ち理解できます

Copilot

虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります

こうした表現の適切性は、文化個人感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族感情、そしてコミュニティ文化的背景を考慮することが重要です。

Gemini

芸能人訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。

虹の橋を渡った」という表現の背景

由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペット虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます

広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります

芸能人訃報に対してこの表現を使うことの是非

肯定的意見:

故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。

親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちストレートに伝わる。

一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。

否定的意見:

ペットに使う表現人間に使うことに抵抗を感じる人もいる。

宗教観死生観の違いから、不快に感じる人もいる。

芸能人という公の立場人物であるため、よりフォーマル表現が求められる場合もある。

適切かどうかを判断する際のポイント

故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。

故人の宗教観家族意向: 故人や家族宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観配慮した表現を選ぶべきです。

発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります

周囲の反応: 自分言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。

まとめ

「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。

より適切な表現を探したい場合

もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現検討できます

冥福をお祈りいたします。

安らかに眠ってください。

彼の温かい笑顔を忘れません。

彼の才能に感謝します。

結論

虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。

補足

この件に関して、より深く議論したい場合は、以下の点について考えてみると良いでしょう。

虹の橋」という言葉意味や由来

異なる文化における死生観

言葉の持つ力と責任

芸能人社会的責任

これらの点について、様々な視点から意見交換をすることで、より深い理解を得ることができるでしょう。

anond:20241101115232

10年後の日本では、人口減少、少子高齢化技術の進展、気候変動など、現在進行中の課題トレンドさら顕在化していると予測されます。以下、分野別に具体的に論じます

 

1. 政治行政

地方分権化の進展

人口減少や過疎化が進む中、地方自治体財政基盤は厳しさを増す可能性が高いです。国から補助金に頼るだけでなく、地方ごとに特色ある税収確保策や産業振興策必要になるでしょう。ふるさと納税のような地域活性化政策さら進化し、地方の自立性が増すと同時に、地方ごとの格差が生まれ可能性もあります

社会保障税制改革

高齢化率がさらに進行し、現行の年金制度医療保険制度の持続性が危ぶまれています少子化による労働力不足や若年層の負担増を考慮し、年金支給開始年齢の引き上げや、医療サービス効率化が進むと予想されます消費税所得税見直し社会保険料の引き上げも議論されるでしょう。

 

2. 社会

多文化共生外国人労働者の増加

労働力不足を補うため、外国人労働者の受け入れが増加していく可能性があります特に介護農業建設といった分野では、外国人活躍が不可欠になるでしょう。その一方で、多文化共生に向けた社会制度地域コミュニティでの支援が進むことが予想されます言語教育差別防止策の整備が急務です。

ジェンダー平等と多様な家族形態

働き方改革男女共同参画の推進により、家族結婚価値観さら多様化します。選択夫婦別姓同性婚合法化検討される中で、これまでの「標準的家族観」から脱却し、様々な家族形態が当たり前とされる社会になっていくと考えられます

 

3. 生活

テクノロジーさらなる進展と生活デジタル

AIIoTモノのインターネット)が普及し、家事通勤健康管理などが効率化されるでしょう。スマートホーム技術や遠隔医療の発展により、日常生活がより快適かつ便利になる一方、デジタルデバイドの問題も浮上するかもしれません。高齢者へのデジタル教育サポート体制さらに充実することが求められます

地方移住サステナブル生活

テレワークが定着し、地方移住の動きがさらに進む可能性があります自然エネルギーを利用したエコハウスや、地域資源を生かしたサステナブル生活スタイルが広まり環境配慮した生活が標準となるでしょう。特に若い世代自然豊かな環境を求めて地方移住し、農業地産地消の取り組みが進むと考えられます

 

4. 文化

• 新しい文化創造国際的な影響力

映画アニメ音楽など、日本ポップカルチャーさら多様化し、国際的な影響力を持ち続けるでしょう。デジタル化やグローバル化により、日本発のコンテンツ世界中で視聴・消費される一方、日本国内でも海外文化がより身近に取り入れられ、ハイブリッド文化が生まれると考えられます

伝統文化保護と再評価

若い世代の間で伝統文化継承者が減少する問題に対し、地域ごとの保存活動が進むと予想されますデジタル技術活用して伝統芸能工芸アーカイブ化し、広く発信することで、国内外日本文化に対する理解と関心が高まるでしょう。

 

5. 環境気候変動

気候変動と自然災害対策

地球温暖化の影響で台風や大雨などの自然災害が頻発すると予測されています。これに対して、日本防災インフラの整備や、避難所増設地域社会での防災教育の充実がさらに進むでしょう。また、再生可能エネルギーの普及や、エコカーの普及を通じた温室効果ガスの削減に向けた取り組みも進むと考えられます

 

まとめ

10年後の日本では、人口減少や高齢化気候変動といった社会課題に直面しながらも、テクノロジーの進展や多文化共生地方活性化といった新しい価値観ライフスタイル確立が進んでいると予測されます

anond:20241101114049

ふるさと納税の導入を促進した日本の主要な関係者は、自民党を中心とする与党議員や、総務省などの省庁です。ふるさと納税制度は、2008年総務省が主導して創設されました。目的としては、地方自治体財政を強化し、都市部への人口集中を緩和することが挙げられます

 

1. 制度導入の背景と目的

地域間財政格差解消: 都市部に人と税収が集中し、地方過疎化が進んでいるという現状を背景に、地方自治体が税収を得るための方法として考案されました。特に総務省は、地方創生や地域活性化を進めるためにこの制度を設け、地方の財源不足を補完しようとしています

• 寄附文化の醸成: 自民党を中心に、日本における寄附文化を広めることも一つの狙いでした。ふるさと納税を通じて、人々が自分出身地応援したい地域に寄附を行うことで、地方支援につながる仕組みとする目的がありました。

 

2. 主要関係者役割

自民党: 自民党議員地方創生の政策として支援し、法整備を推進しました。地方活性化重要視する地方議員も多く、この制度を通じて地方振興の一環として活用されることを期待していました。

総務省: 総務省制度設計とその運営担当しており、ふるさと納税実施ルール策定改正なども行っています。また、返礼品のルール適正化についてもガイドラインを設け、制度の円滑な運営を進めています

 

3. 課題と調整

ふるさと納税制度は当初の目的果たしているものの、返礼品競争などにより一部の自治体に偏った税収が発生するなどの課題も生じています総務省は返礼品の規制や、制度健全運営に向けた調整を進めることで、制度趣旨を維持しようとしています

【恨み】本当に使いづらいアプリが嫌い

俺頭悪いんだと思う

頭悪いかツールを使いこなせないんだよね

頭が良い人が作ったツールとかほんと無理

 

最近イライラしてるアプリツールサービス

 

・UberEatsのアプリ

皆これ使えてるの?地獄なんだが(自分では使わないが頼まれて使ったりする)

何もかもわからん、一回覚えたと想ったらUIガラッと変わったし

 

Box

なんでMicrosoftの作るツールはクソなの?

 

・Notion

一生嫌い、流行ってんじゃねーよ

まだAtlassianの方がマシ

redmineBacklogもAtlassianもNotionも基本嫌いだけど、Notionが現状一番キラ

 

楽天Amazon

1年に数回はイライラしてキレてると思うんだけど皆は違うのか?

カートの導線がクソなんだよ、あとアカウント周りの導線もクソ

 

ホテル予約系アプリ

まりにも地獄

もう良いよ俺ラブホネカフェ

ホテル選ぶの大変なのに、部屋のバリエーション差がたくさんあり、値段は「今だけの割引き」みたいなのがあって地獄クーポンやら還元やらでどんどん複雑になってる

 

・GoogleMap

昔は良かったんだけど、意図しない動きがどんどん増えていく

なんでそうなる?みたいな

ちなみにAppleMapは更に分からん

 

ライブ配信アプリ

要素が多すぎてお祭り状態

こわくて何もさわれないし忌避感がすごい

自分はメインユーザーじゃないからいいんだけど、あれどこの文化なんだろう?中国っぽいよねUI

 

AmazonPrimeビデオ

純粋にクソ

カーソルを合わせたらUIが変更されて押せる場所が変わるみたいな、そういうことをする

世界企業でこれなのか

 

まだまだ大量にある、思い出したら書く

 

_____

 

逆に、ごちゃごちゃしてる割に案外使いやすもの

ソシャゲ

要素がすげー多いのにそこまでイラッと来ない、ボタン昔ながらの立体タイプが多いからかな?見やす

 

もう一個あったけど忘れた

anond:20241101100500

別にカルトじゃなくて保守ってどこの国でもそんなもの

去年、アメリカ民間会社統計取ったら全体の8割が夫の姓を選択していて、保守高齢は夫の姓、リベラル高学歴・若年は別姓っていう傾向が出てる(どちらかが見栄を張ってるのか男女で数字が合ってないし....)


https://www.pewresearch.org/short-reads/2023/09/07/about-eight-in-ten-women-in-opposite-sex-marriages-say-they-took-their-husbands-last-name/


2020年BBC報道では西欧は今でも夫の姓にする社会的圧力が強いらしい


https://www.bbc.com/worklife/article/20200921-why-do-women-still-change-their-names


戸籍制度の無い国は男女平等夫婦別姓にしているのはなく、勝手にやって下さいというだけの話だけだと思う

同姓か別姓か夫婦統合姓かの公的統計データも無いか民間会社統計取って推計するしかない

夫婦同姓が日本根付いた文化だったら制度を変えてもそんな急激には変わらないはずなんだけどね

anond:20241101094430

伝統っぽい内容でも実は戦後文化ってのは、いくらでもあるから

コンバーターコーンバター技術食文化に宿る人間創造

コンバーターコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間歴史の中で、技術食文化進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。

まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能属性を変換する装置技術を指す言葉である電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタルアナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり現代社会を支える根幹を成す技術ひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシコーンから作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米南米など、トウモロコシ主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。

一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターコーンバターしかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこからまれ美的感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間知識結晶である。これに対し、コーンバター農業の発展や食文化進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有美的価値が含まれている。

人間は、常に物質エネルギーさら情報の変換を行うことで、生活利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品自由使用することはできない。デジタル信号アナログに変換することで、音楽映像スムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報エネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的装置デバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。

一方で、コーンバターには全く異なる美的価値内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果であるトウモロコシは、古代アメリカ大陸文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。

また、コンバーターコーンバターは、それぞれ人間内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たち生活を快適にし、さらには新たな表現可能性を広げている。情報自由に変換し、自在操作できるという感覚は、無限創造力を解き放つものであり、それ自体一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁安心感さらには家族共同体との結びつきといった、人間らしい感情喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働愛情を味わうことができる。このように、コーンバター食文化の一端としての「食の美」を表している。

さらに深く考察を進めると、コンバーターコーンバターの間には、「変換」という共通テーマがあることに気づく。コンバーター無機物エネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間自然物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である

現代テクノロジー社会において、コンバーターほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジー進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。

このように、コンバーターコーンバターは、それぞれ異なる形で人間生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間生活寄与し、美的価値提供している。そして、技術進化伝統継承という二つの相反する要素が、私たち感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である

2024-10-31

論争について

https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9

https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9

作品のもの感想

・そうですか、といったところ。


■鯨井氏のジャッジ

 ・まえがきでは個人的狂気重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか

 ・それでいて、最後他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。

  ・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。

 ・固有名詞問題固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。

 ・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略問題しかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなた不快なんですね、としか言いようがない。

 ・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定イメージ形成しているし、フィッシュマンズクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。

 たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。

 しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。

 ・関西弁を含めたトータルのパッケージ差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。

 

 ・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。

 ・いろんなところで中途半端な評だと思う。


ジャッジへの反論

ジャッジの二十倍意味不明かつ閉鎖的ですごい。

・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。

・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。

冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分感情行為しか書いてない。

関西弁の語りの「特権性」に憧れた→まあわかる。

 本当は全部関西弁にしたかったけど、自分技術じゃ無理→すげえわかる。

 だから、一首だけ関西弁にしたお!→え???

(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。) 

・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。

それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああい作品連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。

で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品主体視点人物)が東北人の上京者」であること。

ここらへんの説明がまじで意味わかんなくて、

主体東京出身人間ではないということを明示することで「標準語方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」

というのがほんとうにわからない。視点人物東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語方言権力関係無効化されるの?? なんで???

しろ、この作品場合主体標準語権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言搾取してますって構造に見えませんか???

さら問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。

関西弁マイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?

・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。

・「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」問題

 ・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカル反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。

 ・「最後感情に走られてしまった部分についてはどこか不信感があります」→作者でなくてもそうなりはする。

anond:20241030202838

というと、具体的にはどの国の文化のこと?

何で江戸時代男色文化が、この変態時代にあまり存在していないのか

って考えたけどすぐ分かったわ

あれはあくまショタから

まんが道」のテラさんは正しかった

アイドル界の混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、

自分の子時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツ子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。

親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして、人間性健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。

単なる暴力セックスの話では収まらなくなってきている。最近少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別格差ギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。

自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。

だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。

大学で「こども文化論」みたいな科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。月並み結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育てるべきものではなく、子供もそこで消費者すり替えられていた。そしてそれは子供自身が望んだことではなく、明らかに大人商売のために作られたものだ。

もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全もの理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。

ここで、『まんが道』(とその続編)に出てくる、テラさん実在した漫画家・寺田ヒロオ)の話を思い出す。彼が何をしたかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。「闇」扱いされてるが。

自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずお永井豪漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。

漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。

しかし私は、テラさん立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。

ただ付け加えると、テラさんは、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルト作風漫画までは否定していない。テラさんが心を割って話せる存在任侠アダルト漫画家の棚下照生だったように。

子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるもの欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。

テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心タイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見からない形で(ギャグロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。

はっきり書けば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。

近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。

それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツ子供蔓延したのは、子供事情や「時代要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人商売の都合なのだ

子供漫画社会の両輪で我々以上にますます病む前に。今一度、テラさんの突きつけた建前を、考え直す必要があると思う。

本気で少子化対策するんなら賃上げよりもマッチングアプリ規制してお見合い文化を復活させたほうがよっぽど効果あるよね

2024-10-30

anond:20241030013848

英語などの主要外国語バリバリにできれば特に問題は無いと思うぞ。

外国語バリバリにできる」って、単に流暢に喋ったり書いたりできるってだけじゃダメで、その国の文化に入り込んでネイティブエリート層のインナーサークルで上手く立ち回れるってくらいじゃないと価値ないけど、それは日本人ではほぼ不可能なんだよな。

anond:20241030205657

この問いには、宗教オカルト区別が難しいとする疑問と、信仰合理性必要性への問いかけがまれています。これを考えるには、宗教オカルト定義役割の違いを整理しつつ、不合理であるもの意味を深掘りする必要があります

 

宗教オカルトの違い

宗教オカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれ場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります宗教一般に、特定歴史教義道徳的価値観信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルト神秘的・超常的な現象への信仰や、個人体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義道徳的基盤がない場合が多いです 。

 

宗教の不合理性とその価値

宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしていますしかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性けが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。

 

不合理の必要性について

宗教象徴的に示すような「不合理」なもの存在は、人間の心の多様なニーズ対応するものです。例えば、日本の伝統行事信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります

 

矛盾点や留意

この問いにある「人間死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なもの不要」という前提には、感情文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定社会文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります

 

まとめ

宗教オカルト価値は、必ずしも合理的根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。

anond:20241030195339

でも「日本人は劣等人種から奴隷にしていい」みたいな文化には文句を言いますよね?

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