はてなキーワード: 教会とは
※訪れる際は時期外れ、移動距離の長さ、ガソリンスタンドの少なさ、渋滞、雪、アイスバーン、狭い山道、公共交通の少なさ、畑や牧場への不法侵入、ヒグマなどに注意する。
※それぞれリンクを貼ろうとしたがスパムと見做されたのか弾かれたので諦めた。
※残念ながらどこのステマでもない。25万円欲しい。
https://www.google.co.jp/imghp?hl=ja
《留萌振興局》
《宗谷総合振興局》
礼文町 澄海岬
《根室振興局》
《釧路総合振興局》
釧路市 幣舞橋 夕日
《十勝総合振興局》
帯広市 紫竹ガーデン
《日高振興局》
《上川総合振興局》
旭川市 就実の丘
士別市 羊と雲の丘
中富良野町 彩香の里
美瑛町 ぜるぶの丘
《空知総合振興局》
由仁町 ゆにガーデン
《胆振総合振興局》
《石狩振興局》
千歳市 苔の回廊
《後志総合振興局》
《檜山振興局》
《渡島総合振興局》
暗号とか数学とか数学ガールとかJavaのデザインパターンとかの本を書かれている方です。
数学系は未読。
私の家庭は普通の家庭です。
輸血を拒否したり、家々を訪問して布教するようなことはしません。
無宗教の家庭です。
この辺はごにょごにょ。
私も無神論者でしたが、信仰に目覚めた?のは辛いことがあったからでしょう。
死にそうになったことがあったり、そういうときに人は「根拠のないことでも信じないと生きていけない」ということに気が付かされます。
人は機械ではないので、理論的な考えだけでは生きていけません。
情けは人のためならず、自分のためなり、
と言いますが、論理的に情けを掛けるかどうか判断するのではなく、やはり人道的に、人としてどうよ?と自問するべきだと思います。
もちろん、助ける余裕がない人は助ける必要はありません。
その辺も聖書に書いてあるので、神を信じなくとも、フィクションとして、読み物として、教養として知っておくといいでしょう。
そこでネタに対して「教養がない」と笑うタイミングさえ逸してしまいます。
みんなが知ってることをネタにしなければ、みんなが笑うことはできません。
教養がなければ、そこで笑うことさえできないのです。
なんでみんな笑ってるんだろう?としか思えない。
辛い人に悪徳カルトの魔の手が忍び寄るのがパターンですが、私は普通のプロテスタントの教会を選びました。
閉ざされた教会でなく、オープンで、外から窓の中も見え、身近にあり、近所の人が多く通っている、普通の教会です。
しかし、普通の、というのは厄介で、普通なんてものはこの世にはありません。
色々なコミュニティーを訪問して、門前払いされないか、怪しくないか、変な教義、人間の教祖を神のように崇めていないか、そこにいて心が落ち着くか、判断します。
嫌になったら通わなくてもいいですし、そう言ってくださる教会がまともな教会です。
毎日来い、修行しろ、何かを買え、などと言うのは確実にカルトです。
これも今の自分の考えに近い。
宗教色もないです。
「目に見えない世界を信じる」というのは、自分が思った「根拠のない自信がまったくないなら、少しでも持ってないと生きていけない」というのと似ています。
「神様はいるの?」という質問に対して、「神様はいる」と答えますが、根拠はないのです。
見えないものです。
でも、それを信じてもいるのです。
論理的にはまったくおかしい、狂人に思われる方もいるでしょう。
そういう方は、水木氏も狂人だ、と思われるでしょう。
しかし、私はそうは思いません。
人は機械ではないのです。
人の脳はコンピュータではなく、もっといいかげんで、優柔不断で、考えがすぐ揺らいだり、ヤケになったり、自ら損になることをします。
自分が損をすると分かっていても、ついやってしまう、人助けにしろ、ギャンブルにしろ、人は機械ではない。
ということは、「自分が生きていていいか?」なんて根拠はないのです。
でも、「俺なんか生きてる資格なんてない」って、じゃあ「生きてていい資格」って何ですか?利益ですか?
たまには遊ばないと人生ではないのではないですか?
というか、娯楽がないと人は死にます。
娯楽がないと人は死にます。
ご飯の前によく神に感謝する描写を映画やドラマで見るかもしれません。
私はKKOの独身なので、あんな大仰なことはやりませんが、神に感謝してご飯を食べています。
「お前が感謝すべきは両親とか親族じゃないの?だって、生かしてもらってるんでしょ?」
「お前が感謝すべきなのは神でなくて、給与を出してくれてる企業だろ」
と主張される方々がいますが、
そのご両親、親族、企業と貴方をマッチングしてくれたのは誰のお陰でしょうか。
無神論的には「運」と言うべきでしょう。
今の時代、こうやって増田に文を書いている、生きている、とりあえず昼飯を自炊して食べてる、明日の身は心配だが生きてる。
これは「運」のお陰でしょう。
しかし、信仰が少しでもある自分からすれば、これは「神様のお陰」であるわけです。
今、こうして生きていることを感謝しているのです。
毎日、「あー、早死にしたい」と朝思っていても、ご飯の前には感謝するようになっているのです。
つまり、「俺は努力したから成功した。お前も努力すれば成功できる」とか言う人はクリスチャンではない。
キリスト教を信仰すると言うことは、幸も不幸も、すべて神様に投げ出す、任せてしまう、その流れで生きることを肯定するのだと私は思います。
すべては神の采配であり、神のなせる技であり、復讐さえも神に投げてしまう、神のために日々働き、働いていなくても神を思いつつ何かを創作する。
結婚や出産、離婚についても、カトリックほど理不尽に厳しいことはありません。
また、カトリックも最近になってやっと変わってきたこともあるようです。
「神を信じる」ということが重要であり、免罪符で許されるのではないのです。
長い歴史上、国家の権威者や教会が「神を利用すること」で自分たちの既得権を維持してきた世界が西欧にはありました。
神を信じる。
他人の痛みが分からない人には、何らかの報いが、回り回ってあるように思います。
何となくですが、思うのです。
キリスト教的に布教が義務みたいな宗派?というか、方針の人たちもいますが、自分はそうは思いません。
賛美歌をみんなで歌うのは好きです。
でも、しつこく勧誘するなんてやりたくありません。
そんなことやるなら、家でだらだらしてたいし、好きなことやるか、寝てたいです。
信仰を持てとは思いませんが、御大水木先生の「目に見えない世界を信じる」は必要に思います。
心のどこかで、そういう根拠のない考えがあるのは、今の時代に大切なように思います。
もちろん、オカルトに走り過ぎるのも問題ですが、他人に自分の考えを強要するのではなく、自分の頭の中で何かを信じたり、物語を持つことは寧ろ大事に思います。
と言っても、NLPのような詐欺の話ではありません。自己啓発でもないし、自己啓発本も買わないでいいです。
ただ、休み休み仕事をする、休憩を挟む、大事なことだと思います。
人生立ち止まって考えて見る期間があってもいい。
ただ、そういうことを許さない社会が日本にあるだけであって、そういうことを許し合う世界があるべきだとは思います。
GitHubのAwesomeにもmental healthがあることを最近になって知りました。
僕たちは機械じゃない。
最近、死刑が執行されるようになってきて、Wikipediaなどの情報も落ち着いてきたため読むことがあったのですが、「オウムは低学歴も多い」です。
後方の支持、援護が高学歴者なように思います。サリン事件などですね。
実際のオウムの科学力?はそんなに高いものではなく、酷い潜水艦を作って信者を溺れ死なせようとしたり、ロシア軍のヘリも直せてない。
しかし、薬品関係の会社を抱き込めたこともあり、サリンだけは成功してしまった。
ここから最悪の展開が始まるわけです。
なんとなく思うのですが、オウムの信者のテロは信仰心ではなく、「この現代社会への復讐」とでも言うか、そんな感じがしています。
つまり、「社会に居場所がない」もしくは「社会において居心地が悪い」人たちが集合した、掃き溜め的な所もあり、どこかに現代社会への憎悪や妬み、悲観を感じます。
上祐なども、JAXAに入ってはみたものの、実態はNASAなんかには夕に及ばず、お役所みたいな組織に嫌になったとか、そういう感があります。
医師として患者を救うより、お金とか病院としてを優先することがある、そうだと思います。
それを受け入れて、受け入れたふりをしてポーカーフェイスになって働くのが大人だと思う一方で、受け入れたふりでやり過ごして生きていけばいいと自分は思います。
それでも、自分に嘘はつけない、というなら、すっぱり辞めて、別の道を模索すれば良かった。
その気持ちを救うのは、なんちゃってクリスチャンの自分から言うのも変ですが、「それは宗教が本質的に救ってくれることではない」のです。
それはキリスト教的にもそうであり、扉を叩かなければ、自分で行動しなければ、現実は変化しません。
神が現実の個人に直接干渉し、現実を変化させたり、罰を与えるわけではないのです。
すべては神に委ねただけであり、しかし、その前に然るべき努力、行動をしているわけです。
その後で、あとは神に委ねるしかないね、と言うのであって、神が、信仰が、教義が、あなたを直接救うのではないのです。
厳しいようですが、それが真実です。
厳しい言い方を更に続けるなら、登戸の通り魔も、京アニの放火魔も、不遇な人生は分かりますが、「自分の不遇さに見返りがないのはおかしい」という主張さえ感じます。
不遇な人は不遇なまま死ぬかもしれない。
それも人生です。
宗教はそこに僅かな救いかもしれませんが、心の平安を与えてくださったり、聖書から何か学び取ることで強行を留めることもあるかもしれません。
もちろん、逆に強行を強める可能性もなくはない。
原理主義者とはそういう人たちです。
しかし、この国の法律があり、宗教があるのであって、その上下関係を忘れてしまってはならない。
その国が、法律が、人道的に、もしくは宗教的に問題があるときにかぎれば、意義を唱えるべきではあるでしょう。
結局、なんちゃってですが、クリスチャンみたいになったことで、自分は人生をかなり諦めることにしました。
良くも悪くもですが、〜をしなければ人生じゃない、〜ができなければ人間じゃない、みたいな能力至上主義とか社会的に勝手に作られた常識も捨てました。
自分の中で、死ぬまでに〜を作りたい、達成したい、成果を出したい、みたいな気持ちも、完全に捨てと言うと嘘になりますが、もうどうでもいいやと思うようにしています。
そうしないと、息苦しくて、それだけで死にそうな気分です。
生きていくだけで精一杯なのに、これ以上世の中は、偉い人達()はどうしろと言うのですか?
そのときそのときに適切な対応、消去法を繰り出すだけであって、その場しのぎの連続でしか自分は生きてこれなかった。
だったら、もうこれから先の期待も、これから先の不安も、全部神様に投げてしまおう。
神様がどうしようが、自分はそれを受け入れますし、一旦受け入れても、そこからまた行動を考えるだけです。
自分の人生が不遇だったとしても、その見返りがあるわけではない。人生がプラマイゼロになるわけではない。
努力しても報われないこともある。
半分正解
大抵の人はここで終わってしまう
そうすると、作曲のセオリーとか、作曲家の好きな戦術、癖までもが見えてくる
つまり、小室哲哉っぽい曲を作りたい、と思えば、小室哲哉の曲ではないけど、それっぽい曲を作れるようになる
アドリブで弾く
これは音楽理論的に、もちろん身体全体で音を感じることも大事であり、それによって他人とのコミュニケーション、セッションも可能になる
音楽理論はプログラミング言語のように、言葉が違う国の人とでもジャムセッションが成立するようになる
もちろん、音楽理論を本で理解するだけなのは駄目で、身体全体で演奏することで習得する、身体で覚える、瞬発的に引き出しから出せる、そこまで鍛えていく必要がある
不快な音、ノイズにしか聞こえない、色々あるだろうけど、無調にする、独自の音楽理論というか法則性を考えてみる、確実に売れない曲へ向かっているが、商業音楽でも格好いいハズシは必要である
ときどき急に無茶な音を入れてみるが、それが寧ろ格好いい、というのはある、これは分かっててハズすのであって、素人がやると音痴になる
あらゆるジャンルの曲をミーハーに聴くのも大事で、好きなジャンルだけでなく、嫌いなジャンルも聴いてみる
この一音は何のために作曲家は置いたんだろう、と考えてみる
そうやって、ぐだぐだ続けていかないと、一歩も進めず人生は終わる
三日坊主で寝転がってもいいから、人生ずっと続けていくのが大事
絵は立ち止まって観る
音は次から次へと鳴っては消えていく
絵にはない躍動感がある
声優が声を当てても何か足りない
そして、黒人たちはその法則をぶち壊しブルースやジャズを作った
しかし、ブルースやジャズにも法則性があり、法則性があるからこそジャムセッションが成り立つ
そして、誰ともコミュニケーションを断ち、全く新しい言葉を自分で勝手に作ることもまた可能である
もう、音符ではない、これは音である
その階層を行ったり来たりしながら、音について考える
死ぬまで考える
>メディア報道を辿り豪パース空港での日本人青年逮捕を伝える2019.11.4付豪州国境警備隊(ABF)公式リリースを発見した。詳報の内容は、ほぼこのリリースの通りで、参照する「輸出入禁止品目(prohibited goods)」のIllegal porn(違法ポルノ)の中にChild pornography(児童ポルノ)が含まれていた。
https://twitter.com/tkatsumi06j/status/1191564220548042752
>日本がいかに実在児童個人の保護法益を適用していても、その論理は国外では通用せず処罰の対象になり得る。それを如実に示したのが今回のオーストラリアでのケース。政治家ならこの現実の問題に対する解を示してほしいものだ。一国主義的な主張は何も解決に寄与しない。
https://twitter.com/tkatsumi06j/status/1191611038350733313
ある意味では予想通り。
聞いた途端、そうだろうなと思った。
オーストラリアは昔からはっきり言ってアメリカ以上にアレな国だし、そもそも今回のセックスドール規制に関してもここから始まった代物だからな。
更に言えば、セックスドールに限らず、最近はウエディングドレスにすら児童婚だの噛みついて、販売停止に追い込んだりしたからな。
「少女向けウェディングドレス」は児童婚を連想? オーストラリアのスーパーが販売停止して物議
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191026-00010003-huffpost-int
要は児童ポルノに託けた児童に見えるものは何でも逮捕できる口実にしているって所だよ。
ついでに言うと一部のキリスト系フェミ団体が国連を利用するのもこの辺からな。
ここがおかしな国である事は何も児童ポルノ問題に限った事ではないからな。
昨今ではフェイクニュース規制辺りでこの国のおかしさはニュージーランドと共に知れ渡っているはずだしね。
この辺の話ね。
検閲法を有するニュージーランド政府、「不快な出版物を頒布することは違法行為であり、懲役刑で処罰されることを国民に思い出させていただきます」とTwitterで堂々宣言
https://togetter.com/li/1330035
そう言えば、一時期話題になったシーシェパードもこの辺の国が関わりあったよね。
ただその安易な規制強化と際限なく拡大したせいで、欧米では実在児童の児童ポルノの件数が悪化し、事実上リソースを超えて、対応不能状態に追い込まれ、フィリピンでは児童ポルノの動画件数や売春が西洋人によって悪化していると言うふざけた結果を招いたのも事実としか言いようがないのだけどね。
だってこの辺は無論、警察の恣意的運用や冤罪等の危険性も指摘されていたけど、当時から下手な規制の拡大により、逆に実在児童保護自体が悪化しかねない問題点も普通に指摘されていたからな。
今回に関して言えば、この辺が、以前に指摘された前提があるので、規制により逆に実在児童への被害が増大したと言える様な事態を招いたとしか言えないんだけどね。
現に日本より児童ポルノ規制が厳しい国でこの様な事が起きているのは規制が厳しすぎた結果、カリギュラ効果とか働いて、逆に興味をもった人が増えてしまった事実としか言いようがないからね。
下手な安易な規制が危険であると個人的には思うのはこの辺からもあるんだよ。
https://toyokeizai.net/articles/-/309872
フィリピンの児童ポルノ動画、「西洋人によって悪化」 BBC番組が取材
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48781713
>フィリピンでは現在、キリスト教の教会に対してオンラインの児童性的虐待のサインを見逃さないよう警告が出ている。
>ガルベルト牧師は、親が「自分の子どもにカメラの前で売春をさせている」のは「吐き気がする行為だ」と話し、貧しくて他の選択肢がなかったという主張は通らないと一蹴した。
良くもまぁ、こんな事抜け抜けと言えるなと普通に思ったよ(苦笑)
ちなみにこのキリスト教の性的虐待は昔から指摘されてきたことで、最近漸くニュースでも取り上げ始めたなと思ったりする。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29979
https://www.afpbb.com/articles/-/3210932
まずは本当に実在児童保護を主にするならば、一度全ての規制を見直した方が良い。
性的虐待物にのみに絞れと言われていたのもこの辺の事情もあるからね。
ただあの人達は気に入らないものを潰す為に、子供の権利を利用しているに過ぎないし、実際の子供の保護なんてどうでも良い事は日本の実在児童保護の予算付けるべきだと言う指摘をガン無視した件でも判っている事なんだけどね。
>確かに、日本の児ポ法における保護法益は児童個人の尊厳の保護であるが、他国では異なる。表現規制派が拠り所にしがちな件のスウェーデン最高裁判決で問われた法益は、「所持される図画で描写されている児童及び児童一般に対する尊厳」だった。
https://twitter.com/tkatsumi06j/status/1191611035699924992
この辺もとっくにおぎのさんに指摘されている所だし、逆に当時そうであったからこそ、裁判になり、違憲判決が出る様な騒ぎになったとも言える。
はっきり言って当初からスウェーデンの定義自体、実在児童保護のみに絞っていたら、ああ言う裁判自体起きなかったと言えるからね。
何にしても漫画やらゲームやらアニメやらセックスドールやら児童ポルノに含んでも実在児童保護に役に立たない所か、逆にリソースを奪って、捜査の破綻等の事態を招きだしたのは昨今のニュースを見ても判る事だから、実在児童保護をメインにするならば、一度本気で見直した方が良いよ。
以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイートの問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃんの献血ポスターについての議論を行う。
どこにあるの?
どうやって見つけるの?
それは反証可能性あるの?」
って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。
そもそも「社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造と人間の行為の関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。
人間が社会構造を作り、その社会構造が人間を規定するというのがどういうことなのか(ミクローマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。
この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています。
以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。
まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いものは科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなたの信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルトは科学ではないと結論されます。
しかし、である。オカルトが科学ではないのはいいのですが、すべての科学が反証可能性を持っているかというと怪しい。化学や物理学の最先端の研究だと、現状そこの施設(しかも営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーとかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーとかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーン、STAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。
反証可能性の理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学者コミュニティからのまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートンは万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートンは万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出しで理論のマイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います。
そういうのをコミコミで、普通「反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。
この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。
社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的に社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントとスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームとウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコント→デュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーとウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコント→デュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーとウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります。
さて、時代は19世紀初頭、フランスにコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけあまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会〈物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会がしっちゃかめっちゃかな状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオンが独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党と共産党が政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法が必要だよね。そのための方法が社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのは、コントが王様や教会の権威(当時は王様も神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまいますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。
それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養の講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会がしっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会が個人に影響する」という概念自体が存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的な社会的事柄を統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死や戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプが殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケームが社会と自殺の関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本の社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口に膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋か苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソードが個人的に好き。みんな知ってることを統計的に確認するのが大事なんです)。
このデュルケームの研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造が存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史に通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史の最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。
まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義がうさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能なこんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケームも自殺が社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソドロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧な概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。
それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義を批判した例として、イアン・ハッキングの『何が社会的に構築されるのか』『何が社会的に構成されるのか』(誤字指摘感謝! Twitterで「社会構築主義」と「社会構成主義」の違いを尋ねていた人がいましたが、場合によって一緒だったり違ったりします。ここではルーズにごっちゃにしていましたが流石に書名はだめですね)を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思います。ハッキングは学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているもののリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟、子供のテレビ視聴者、感情、事実、ジェンダー、同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民、自然、口述歴史、ポストモダニズム、クォーク、現実、連続殺人、工学システム、都会における学校教育、人口統計、女性難民、若者のホームレス現象、ズールー族のナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者のホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォークの社会的構築」とか「ポストモダニズムの社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具のメーターを社会的存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学は社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りのレベルに達してそうですげえなと思わされます。
ハッキングは中でも「ジェンダーの社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念はそもそも「生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初の20ページくらいまででまとまっているので。
長すぎたので続きます
諸聖人の祝日ともいう。キリスト教においてすべての聖人を崇敬する祝日。この祝日においては,個々の聖人の崇敬よりも天国のすべての聖人の集いと地上における教会とが一つの神の教会に属するとの信仰の表明が重要である。東方教会では4世紀以来聖霊降臨祭後の最初の日曜日にすべての殉教者を祭る習慣があったが,西方教会ではボニファチウス4世が 609年5月 13日にローマのパンテオンをキリスト教の聖堂にかえて以来,この日を全殉教者の祝日とした。すべての死者を祝う習慣はアイルランドから入ったが,837年グレゴリウス4世はこの習慣を認め,11月1日を万聖節と定めた。現在この日に万聖節を祝うのは,カトリック教会とイギリス国教会である。
俺たちが祝っては失礼に当たるってね
今回、即位の儀式についてキリスト教団体から憲法違反であるとの声明が出されました。
5月の令和への改元の時にも同様の声明が出されており、意見を異にする牧師の方が記事を書いていました。
https://salty-japan.net/2019/05/05/anti-japanese1inchristiancommunity/
https://salty-japan.net/2019/05/13/anti-japanese2inchristiancommunity/
日本キリスト教協議会(NCC)などが声明を出すが、NCCは個別のキリスト教組織の連合体であり、各団体の
NCC担当者や議長や委員会が声明を出している。キリスト者の総意と思われても迷惑するものもいる。
NCC総幹事の金性済(キム・ソンジェ)牧師が5月の記者会見の場で、
「若者は天皇制や立憲民主主義の問題を語っても聞く耳を持たない。日本国内の日本人自身の市民運動で
自己完結できるのか。隣の韓国をはじめ北東アジアと国を越えて一緒に考えていくのが一つの突破口」
という趣旨の話をしたが、韓国と区別する北東アジアとは北朝鮮のことではないのか。
在日大韓基督教会は李仁夏牧師のもとでNCCに加盟、後に李仁夏牧師はNCC議長となる。
現在、NCC総幹事である金性済(キム・ソンジェ)牧師は、かつて李仁夏牧師が赴任していた川崎教会の後任牧師。
彼らの持つ韓国独自の神学は、韓国でも少数派となる進歩的「民衆神学」派、親北朝鮮のグループゆえに、
李仁夏牧師がNCC議長を務めた当時WCCの会議において日本のNCCがホスト役になって、北朝鮮のキリスト教団体
はたして、北朝鮮に「本物のキリスト教団体」が北朝鮮政府によって公認されるだろうか?
1970年代、金日成ら北朝鮮の指導者たちは、宗教人が皆いなくなったので宗教をも存在しないと公言。
しかし南北対話の道筋がつくと対外工作組織として朝鮮基督教徒連盟を設立し、キリスト教徒がいると発表。
金日成の姻戚で朝鮮基督教徒連盟を作った牧師の康良煜(カンリャンウク)こそが、1972年南北赤十字大会で
耳目をひきそうなところを要約すると、こうですが、本文も長いですがわかりやすい記事なので是非ご一読ください。
天皇制や政教分離について意見を述べたら「反日」だとは増田も思いません。
天皇行事の宗教性や祭事に対しての公金支出に関しては増田も大いに議論があって良いと思いますが、乗る叩き台に
ついても素性を吟味したいですね。
俺が親密さを覚える奴って
親に虐待されていたとか、昔イジメにあっているとか、家庭環境が悪くて離婚してるとか
こういう奴が多かった
辛い目にあったぶん、センシティブな人間が多くて俺は安心できた
俺と親しかった奴は俺含め大体結婚してなくて(まぁ色々事情はあるんだろう)、
俺とは個々の付き合いはあっても当然コミュニティにはなってないんだよね(当たり前だが)
ゆるーい付き合いがあった方が良いとは感じる
一時期若者サポートステーションっていう引きこもり・ニートの若者向けのコミュニティも行ってたけど、居心地良かったな
今はいっぱしの社会人としてちゃんと働いてるけど、根底のところは変わってなくてそういう集まりが落ち着く
俺と親しい奴もそういうこと考えてくれてたら良いなと思う
家庭みたいな親密な関係は怖いけど、
ゆるーく繋がっていたいみたいな
Day,3
3日目
まぜこぜの国
キングサイズの快適なベッドと一昨日からの寝不足のせいか、旅先には珍しくグッスリと眠ることができた。
8時前に起き、準備を整える。
今日は本格的にマラッカの街を散策し、ニョニャクエとニョニャ料理が食べたい。
ホテルからタクシーでオランダ広場に向かうGRABは本当に便利だ。
隅々まで清潔とまでいえないマレーシアで、日本を遥かに超える利便性のあるアプリが普及しているのは、もう進歩の順序の常識が20世紀型と全然違ってしまっているのを感じる。
朝ご飯を食べようと思っていた目当の店が定休日だったので、たくさんの人が食事をしているカフェに入る。
壁にメニューがあるが、なんだかわからないので、いちいち調べながら注文する。
メニューに「ロジャック」という文字があり、これがちょっと安い。
なんだろうと思って調べると、定型のレシピというのがない料理で、あるものを色々混ぜこせにして、エビ味噌やタマリンドなどのソースをぶっかけるモノらしい。
家庭料理でよくある「名前のない炒め物」のようなものだろうか。
ナシゴレンとアイスコーヒーで腹ごしらえしたあと、オランダ広場の中心部に向かうと、帽子をかぶったマレー系の男性、傘をさしたチャイナドレスの女性、宝石のティアラをつけたタミル女性が観光客を歓迎する壁画があった。
観光ガイドなどでよく見かけるオレンジの教会を写真に収めたあと、歴史博物館を訪ねる。
中に入ると、イスラム、中華、インドそれぞれの人々を象った人形が並んでいる。
少し歩くと、日本兵の銅像とその背後にはためく日の丸が見えた。
マレーシアは、第二次世界大戦中、日本の支配も受けているのだ。
しかし、きっとマレーの人々は、その全てを「マレーシア」という袋の中に入れて混ぜこぜにてしまうのだ。
2階に上がると、マハティール首相と習近平書記長が握手をしているポスターが下がっている。
でもきっとそれも、ここにやって来た以上は、混ぜこせにされてしまうに違いない。
みると、キルラキルみたいなテイストの絵や、ちょっと前のやたら目が大きいアニメ少女みたいな絵が結構ある。
源流を辿れば日本初、ではあるんだろうが、アニメ・マンガ文化はもうアジアの中で消化されて、若者の身体の一部になっているようだった。
諦めと誇り
オランダ広場を離れ、ニョニャクエを買うことのできる店に向かう。
その場で飲食ができるカフェと、販売店舗があるらしく、カフェのほうに向かう。
その場で食べようと思ったが、異国なので同じ経営のものなのかイマイチ自信が持てなく、ニョニャクエ自体は販売店舗で買って、その場ではかき氷を食べることにした。
外が暑いのだ。
しばらく待って現れたそれは、上に鮮烈な緑のプルプルした虫状のゼリーが乗っておりなかなか日本で見ない見た目だ。
これは「チェンドル」というゼリーで、ベトナムのチェーにも入っていた。
材料は米粉で、鮮やかな緑はバンダンリーフという植物から採った天然色素だ。
すごい見た目に反して抑制の効いた味わいで、かき氷全体も優しい甘さだった。
ここで気づいたのだが、スマホ用に持って来たモバイルバッテリー、そっちはいいが、ケーブルを持って来ていない!スマホの電池が切れたらGRABでタクシーも呼べない。
まあいいか、これから販売店舗のほうに行ってニョニャクエを買うとして、あれは生菓子なので、冷蔵庫にでも入れないといけない。
店舗のほうに行くと、これが製作工場と棟続きで、でっかい台所に秋葉原のジャンクパーツ屋をくっつけた様な店内に、極彩色の色鮮やかなういろうを思わせるニョニャクエが並んでいる。
その一通りとチマキが詰め込まれれた「お得セット」的な詰め合わせと、緑の球体にココナツパウダーがたっぷり振りかけられた「オンデ・オンデ」、日持ちのしそうなパイナップルケーキ、それとこれはその場で食べるための餃子型の揚げパイを買い求めた。
約41リンギット。
1,100円といったところだ。
よし、ホテルに戻るぞ、パイを食べてみると、?、なんだろう中に入っている餡は。
わかった、カレー風味に味付けられたサツマイモのフィリングだ。
こういう発想はなかった。
GRABでタクシーを呼んでみたのだが、遠すぎてブッキングできない。
少し歩くしかない。
歩いていると、どうやら界隈は学生街らしく、ヒジャブを被って制服を着た7〜8歳くらいの子供をワンボックスがピックアップしていた。
さらに少し歩くと、もう少し上の年代の、これもヒジャブを被った少女たちの一段と出会う。
彼女らはマレー系なのだろうが、そこから2人歩き出した姉妹は痩身に浅黒い肌で、美しい黒髪を揺らしている。
きっとタミル系だ。
ヒジャブの一団から離れて歩くタミルの姉妹を見たり、空気として感じたものを考えると、マレーシア人にとって多民族が暮らしていることは「いちいち気にしていたら日常生活が成り立たない」もので、一種の諦めのような感情も想像できないではない。
でも、博物館で見た様な表現の世界では、それに目を背けず肯定的に描いたものが多く、「受け入れるしかない状況」と「それを自ら肯定的に捉え直す誇り」の間で揺れてるのかも知れないな、と思った。
ホテルに戻り、プールでサッパリした後、少し読書をして日本×スコットランド戦の海外ネットユーザーの反応を見る。
皆、感情を爆発させて、とりわけ日本のプレーの美しさに感嘆する声が多い。
レビューを書いているうちは試合状況を追いながら書いているので、淡々としがちだが、改めて見るとたしかに日本のトライは美しい。
感情を動かされるプレーについても、それに動かされた感情についても書いてもいいのかも知れないな。
タクシーをピックアップして、今日こそは、でニョニャ料理のレストランに向かう。
事前に調べたところによると、以前訪ねた日本人のお願いにより、お一人様向けのお任せメニューに対応してくれるらしい。
到着して、ママさんに「このサイトを見せて頼めば良い」とされるサイトを見せてお願いすると、料理の好みや内容に関する軽い質疑応答を経て、3皿とご飯が出てきた。
野菜が入った平たいオムレツ、レタスと思われる青菜炒め、豚肉とそら豆のちょっと辛い炒め物。
たっぷり出て来ると勝手に想像していたので、「意外と普通の量だな」と思ったものの、おひとりさまメニューとしては妥当な量だ。
味わいは中華といえば中華なんだが、豚肉とそら豆の炒め物のスパイシーで奥深い旨味のある味わいが、ナシゴレンの旨味を思い出させ、確かにこれは「中華風マレー料理」だ。
よくよく考えると、イスラム教国のマレーシアで豚肉の炒め物が出て来ると事自体が特殊な事だ。
だいたい830円くらい。
3皿と飲み物を頼んでこれなら安いだろう。
マレーシアの物価について大体見えてきたんだけど、ホテルとタクシーが異様に安いだけで、その他の物価は日本の5割〜6割いといったところだ。
ママさんにお礼を言って店を後にする。
生温い夜風に吹かれながら歩くと、賑やかな屋台市が見えてきた。
ちょっとのぞいて見ると、皆思い思いの料理を頼んで、夜空の下で食事を楽しんでいる。
まだもうちょっと入りそう。
と、みると「ROJAK」の文字が。
あの謎の混ぜこぜだ。
これは行くしかないと思って頼んで見る。
しばらくすると、茶色いソースがかかったなんだかわからないものが出てきた。
キュウリ、タロイモ、ニラ、揚げパンかな?口に運んでみると、ソースにちょっと独特のくさみがある。
肉類は一切入ってないのだが、この強い味付けで単体でも結構食べ応えがある。
においもすぐに気にならなくなった。
フードコートにうろつく野良犬の横で謎の混ぜこぜ野菜を食べていると「これが熱帯の夜か」という感じがした。
ホテルに戻ってサウナに入ったあと、冷蔵庫に入れておいたニョニャクエを食べてみる。
鮮やかな赤、青、緑のそれは、(色以外は)見た目の通り、ういろうを思わせる味で、さすが中華文化を受け継いでいるだけあって上品な甘みだった。
生菓子でお土産としては適さないので、もしマレーシアに来ることがあれば、ぜひ味わった方がいいと思う。
明日はこの極上のホテルをチェックアウトしてシンガポールに向かう旅程になっていたのだが、シンガポールではわずか1泊してまたマレーシアに戻る予定を組んでいたので、行きはともかく帰りの移動に焦りたくなく、先にバスを予約してしまうことにした。
慣れないバス予約サイトと格闘すること1時間半ほど、なんとかシンガポールからマレーシアのバスを予約できたのだが、ここで小さなトラブルが発生。
何度も予約の失敗を送り返していたため、成功した予約の詳細を確認していなく、ピックアップポイントも降車ポイントも当初の旅程とはやや離れた場所になってしまった。
一瞬焦ったが、シンガポールはショッピングモールの前だし、マレーシアは鉄道駅のすぐ近くだったので、これはシンガポールの物価も見られるし、マレーシアの鉄道にも乗れるし、いいかもしれない、と前向きに捉えることにした。
なんとかなるだろう。
なんとかなるのかな。
生まれたときから障害を持って親に捨てられてホームレスになった人もいる。彼は死んでいいのか?おまえもおれもいま稼いで税金払ってるのはたまたまな。明日交通事故にあって動けなくなって社会が見放したときに何を思う。色んな人がいる。もちろんおまえみたいな考えも。それはそれでいい。— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2019年10月13日
このツイートでおれのことを偽善者というやつがいる。偽善綺麗事は余裕あるやつが言えばいい。言えないやつは余裕ができてからでいい。お金、心、余裕があるやつが配ればいい。ないやつは出来た時に配ればいい。誰も悪くない https://t.co/L2q3cm8UdC— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2019年10月13日
税金を払えない人たち、その身内が心苦しくなるような空気を作るな。アホ。— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2019年10月13日
雨風しのぐ家の無いホームレスこそ最優先。拒否は憲法違反ですよ。— MUSASHI WOO! (@MusashiWoo) 2019年10月12日
私も昨日痩せ細ってしまったホームレスがプラカードに、homeless, help. って書いて暑い中立ってて、でも誰も気にしてないから凄く可哀想になって、僅かながらちゃんと飲んでねってお金をあげました。教会とかバンバン募金する人いるけどそれ考えたらなぜホームレスにはしないのか?と思いました— arzsik (@thyfachan6) 2019年10月13日
⇒他人がやらないのがおかしいと価値観を全面に押し付けてくるのであれば、コイツ自身が全国のホームレスに寄付して1文無しになれば良いのに。
言うだけで何もしない、キレイゴトしか言わない偽善者って楽だよな。
他人に「こう行動すべき」と押し付けるくせに「俺の問題じゃねぇ」と言い始める。
人間関係がわずらわしくて働けるのに、自分の意思で、自ら望んでホームレスになり
他人にすがりついていないと生きていけないって悲しいなぁ。
困ったときだけ他人にすがりついて「助けて!」って生きてくの?見通し甘いんじゃないの。
原語は完全にキリスト教用語で、「異教も含んでいいだろ」というのは現代人による後付けなのでは
https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/congregation/
トラスティベルってゲームでは、死にかけの人間だけが魔法を使えるって設定で、
市民からは近づくと死が感染すると思われて忌み嫌われてたんだけど
教会に行って生き返らせてもらえよ