はてなキーワード: 定義とは
@kfpause
通りすがりの環境法・行政法教員ですが、これは一番まずい「1条・目的規定の使い方」ですね…。
Kamei, Gentaro
@gk1024
都市公園法1条は「この法律は、都市公園の設置及び管理に関する基準等を定めて、都市公園の健全な発達を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」との規定に過ぎず、これにより利用制限をさせようとするのは、なかなか味わい深い試み。他の場面でも恣意的な利用制限が可能になる。 twitter.com/jcp_sai/status…
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@kfpause
ちょっとなぜまずいのか、自分のツリーで補足します。通常、法律の構成としては、目的規定、定義規定という総則を置いた後に、具体的な権利制限に関する規定を置いていきます。その権利制限規定の解釈に当たって、目的規定が参照されることがあります。原告適格の範囲とか、濫用に至っていないかとかね
@kfpause
で、目的規定(1条)というのは、その法律で定めている施策等の概要(これが手段)を述べて、それがどういう目的に資するものなのかを宣言するという構図になります。つまり、具体的な施策の内容は他の条文にある、というわけです
@kfpause
問題になっている都市公園法はかなりシンプルな目的規定ですので、見てみましょう。1条「この法律は、都市公園の設置及び管理に関する基準等を定めて、都市公園の健全な発達を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=331AC0000000079
@kfpause
さっきの説明から敷衍すると、「都市公園の設置及び管理に関する基準等を定めて」までが施策の概要で、「都市公園の健全な発達を図り、もつて公共の福祉の増進に資すること」が目的です。
@kfpause
そして、この「都市公園の設置及び管理に関する基準等を定めて」の内容は、具体的には、2条の2以降(制定当初は3条以降)にある、という構図になります。何らかの利用制限とかをしたいのであれば、これらの条文に基づいた、要件と効果というかたちで規律されるべきということです。
@kfpause
元の政治家の発言がどこまでの意図を持っているかわかりませんが、例えば想定されるのは、6条の「都市公園の占用の許可」に関し、その許可を与えるべきではない、という主張であれば、わかるのです。あるいは、管理基準(3条の2)に適合しない利用をしようとしているから、禁止すべきだ、などならね
@kfpause
これらの規定に基づくのであれば、公園管理者がどういう要件に該当してその活動を「禁止」するのか(許可を与えない、も含む)が、決まってきますので、それはそれで議論すればよいことになります。このように、法律の「根拠規定」とは、具体的な要件と効果について定めている条項を指すのです
@kfpause
そうではない「目的規定」でその禁止を許してしまう、というのであれば、たしかに「都市公園の健全な発達」という言葉は出てくるのですが、他の利益との調整であるとか、どういう尺度で判断するのかが判然としません。恣意的な禁止も行われうる、きわめて危険な法運用です。
@kfpause
ですから、元のツイート主は、「法1条の『都市公園の健全な発達』との観点で、行使すべき権限を行使して、禁止してくれるよう要望します」なら、まあ、わかるのですが、目的規定だけでそれが可能だというのであれば、それは間違いですし危険ですよ、ということです。
「お前が 『好き』 と感じたことと、それが 『良い』 かどうかは別問題」
はてなにおける文章力あるなしの定義は、まさしく 「好き」 と 「良い」 を混同した状態となっております。
言葉の定義について後で揉めたくないので最初にここをハッキリ書いておきますね。
話し言葉に近づけた表現をするなら以下のようになるでしょうか。
はてなにおいて 「文章力がある」 「文章力がない」 という言葉が使われている場面の多くが、単にその文章の好き嫌いを語っているように感じます。
言っているはてなー本人が 「読み手に伝わりやすい良い文章」 とは何かを正しく認識できていないことによって想起している問題です。
文法が正しい。誤字脱字が少ない。無意味な造語が少ない。対象の曖昧な代名詞が使われていない。複数の読み解き方が可能な文章となっていない(意図してそれを行っている場合は除きます)。論理の飛躍がない。過剰な頻度で同じ話を何度も繰り返していない。こういったマイナス要素の少なさこそが、良い文章を形作ります。
契約文書や法律文書は、甲乙による呼び名を代表とした堅苦しい表現が使われています。これらは一般的には読みにくい文章となりますが、それぞれの表現が指す範囲を明確にする必要があり、かつ冗長にならないようにすることを最優先する必要があるために、独特の表現を使った文章となっています。
日常会話において法律文書のような表現を用いれば、伝達において齟齬が生じやすくなるでしょう。逆に契約書に砕けた表現を多用すれば、あとで揉める原因となるでしょう。
シチュエーションごとに適切な文章表現を選び出す能力は 「文章力」 の最重要の構成要素です。
「文章力」 の構成要素を羅列し見れば分かる通り、 「個人が好ましいと感じたか」 は 「文章力」 との関係性が極めて薄いのです。
過剰にヘイトを煽るような表現を多用して判断力を下げる文章が世の中にはありますが、それを書いた人間の目的が相手を感情的にさせて判断力を下げることであったならば、それはその目的にあった文章となっています。
自分の好き嫌いを基準に 「文章力」 を語るはてなーにはそういった視点さえも欠如しています。その証拠に、自分本位の好き嫌いの基準のままで文章の良し悪しを判断し 「文章力がある」 「文章力がない」 という表現が多用されているのを非常によく見かけます。
このような謝った言葉の濫用は、全く持って言葉に対して不誠実と言えるでしょう。
ですがそれらが悪意や、善意のなさによって生起していると考えるべきではないように思います。
単純に、 「文章力」 というものを正しく認識する機会に恵まれることの難しさが原因だと私は考えます。
高校までの教員の中に言語の研究において論文を何本も書き上げた経験がある人がどれほどいるのでしょうか?
大抵は大学に通い教員免許を取る過程において少し齧った程度のままで、その後は現場の忙しさに翻弄され、学生たちのしょうもないてにをはの間違いを如何に効率よく正していくかばかりが頭を支配することでしょう。
そして多くの日本人はそうした教員から受けた言語教育だけを、言語に対して深く触れた体験だと感じ、そこに言語能力というものの天井を感じてしまうのです。
虫かごに入れられたノミの話と同じように、人間は下手に天井を感じるとそれ以上を目指さなくなります。
正しい言語力というものを、単にセンター試験の国語で満点を取れるだけのものであると思えば、そこからの百分率で言語というものを考えるようになる。
ですが実際には言葉というものはもっとずっと複雑でいくらでも工夫のしがいがあるものなのです。
それを知らない人達が安直な好き嫌いで 「文章力がある」 「文章力がない」 といった表現を使っているのは非常に悲しいことです。
ですが、これは現代社会における教育コストの問題であり、一個人が過剰に憂いても仕方がないことなのです。
それでも吐き出したかったのでここに垂れ流させていただきます。
お目汚し大変失礼致しました。
ぶつかりおじさんは女性ばかりターゲットにしている、みたいな論調を見かけて、自分の場合は男女問わずぶつかるタイプのぶつかりおじさんだったなと思い出したので書く。
※ぶつかりおじさんの定義は諸説あるようだけど今回は、避けないで結果ぶつかるタイプも含む広義のぶつかりおじさんと思ってください
最初の対象は電車から降りる時に、降りる人の流れが終わる前に乗り込んでくる人だったと思う。
当時はコロナ前で満員電車で通勤していたのだが、降りるより先に乗ってくる人には絶対譲らないぞという精神で通勤していた。
SNSでの暴言とかでもそうだと思うのだけど、やはり「正義は我にあり」と思っている時が人間一番暴力的になる。
段々他の場面でも「あえて避けない」事が増えてくる。
駅構内で進行方向が指定されているのに逆流してくる人を避けない。
歩きスマホで前を見ない+歩道の中央を歩いている人に対して半分しか避けない。
ぶつかることで相手に間違いを教えてやる、という気持ちが10%くらい、
こっちはルールに則ってるのに、ルール違反しているやつに譲りたくないという気持ちが90%くらいだったと思う。
で、ある日、エレベーターから降りようとしたとき、扉が開くと同時に乗り込んできた男性と肩が強くぶつかった。
口論になり、胸ぐらをつかまれ、相撲ののど輪みたいな感じで首を絞められ、「ここじゃ警備員に見つかるから建物の裏に来いや」と言われてノコノコついていった。
今にして思えば危ないが、その時はワクワクした高揚感すらあった。まぎれもなく悪いやつに、正論をぶちかますチャンスだとでも思ったのだろうか。
結局相手もそれ以上の暴力行為には及ばず、こっちも日々妄想していたほど能弁に正論を語れたわけでもなく、グダグダのまま解散した。
その日以来、ぶつかりおじさんを引退した。いずれトラブル起きるから損なんだよな。
皆さんはどう思っただろうか、私は正義を貫くべきだっただろうか。
ちなみに自分はエスカレーターで(関東では空けておくことが多い)右側で立ち止まるおじさんも兼任していたのだけど、ジジイにステッキで殴られるという事件がありそちらも引退した。
猫 ミチル
@minpounokokoro3
https://twitter.com/minpounokokoro3/status/1667388240012410881?s=20
https://note.com/benli/n/n624b9497c5fc
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でも、そもそも、法律的には「批判か誹謗中傷か」という論点設定をしません。
民事法的には、まず、
1 その表現が流通することにより、被害者の社会的評価が低下するかどうか
を検討します。被害者の社会的評価を低下させるような表現は名誉毀損表現ということになります。
2 被害者の社会的評価が低下するようなものでない場合、一般人の感性を基準として、受忍すべき限度を超えて被害者に精神的苦痛を与えるものかどうかを検討します。受忍すべき限度を超えて被害者に精神的苦痛を与えるような表現は侮辱表現ということになります。
この記事では仕事としてちゃんとビジネスマナーを持っている絵師=イラストレータ、絵をかけるだけの人=絵師、とんでもないモンスターの絵師=クソ絵師と定義します。
ゲーム制作者、動画投稿者、VTuberなど、絵師に依頼をする人が多くなってる現在、依頼したはいいものの納品してくれない、連絡がつかない、指定とはまったく違うものを納品されるなどトラブルは付きません。
私も何年か前までゲーム会社で働いていたこともあり依頼をして絵をかいてもらっていましたが、納期を守ってくれない絵師は一人や二人ではありませんでした。
イラストAIの登場でそういうクソ絵師が真っ先に失業するものだと思っていましたが、どうやら自覚があるらしく納期をすぎていながら連絡もとらずゲームしていると平気な顔でTwitterにつぶやけるようなぬるい仕事を守るために激しい反対活動を行っています。
そこで私が依頼していた頃にクソ絵師に依頼しないように気をつけていたことをここに書いて1人でも多くのクソ絵師が失業するよう注意喚起をしたいと思います。
1.絵師への敬意を捨てる
この記事のタイトルにもしているくらい重要なことだと思います。
なぜなら本当に敬意を払われるべきは納期をしっかりと守って品質の高いイラストを納品してくれるイラストレーターだけで、連絡はつかない、指示は無視する、納期を守る意識のないクソ絵師には全く敬意を払う必要はないからです。
そしてイラストレータかクソ絵師かは実際に納品されるまでわからないので、それまではある程度疑ってかかる必要があります。
疑うのは相手に失礼かと思ってしまう人もいるかと思いますが、まともなイラストレータはクソ絵師が世の中に存在していることをちゃんとわかっているので最初は疑われるのは仕方ないとわかってくれるので安心してください。
むしろ失礼だとキレてくる場合はクソ絵師なのでトラブルに巻き込まれる可能性が高くなりますので依頼しないようにしましょう。
2.事前の調査をする
現在ほとんどの絵師はSNSを活用しているのでTwitterなどでどのような人かを確認します。
たとえば過去にコミケの新刊を落としていたりする場合は計画性がない可能性があるので納期に間に合わせる能力が足りない事が多いです。
クリスマス、ハロウイーン、キャラクターの誕生日などの記念日イラストをちゃんと完成させている人は納期を守る能力が高いです(仕事の絵よりも優先させている可能性もありますが……)。
記念日イラストを完成させられずラフであげてたりする場合もちょっと疑ったほうがいいですし、クリスマスのイラストを年明けて3月頃に供養とかいって上げてた人は案の定納期を守ってくれませんでした。
過去に料金を払ってもらえなかったというトラブルに巻き込まれていないかか確認します
1~2回程度であれば害悪クライアントにたまたま当たってしまった可能性が高いですが、何度もあるようであれば納期の遅延を繰り返しキャンセルされているのを隠している可能性が高いです。
敬意が足りないと繰り返しツイートしている場合も、そもそも敬意を払ってもらえるようなことをしていない人間性の可能性があるので注意が必要です。
3.依頼のメールを送る
事前にチェックした内容を元にして複数人の絵師に依頼のメールを送ります。
予算とスケジュール、利用する目的など基本的な書き方は他のサイトが参考になると思いますのでそっちを参考にしてください。
大事なのは複数人に送っていて条件などから検討するようにメールの中に書くことです。
たまに失礼ではないかと思って受けてくれる人がいるまで一人づつ送る人がいますが、まともに社会と関係性をもっているイラストレータであれば案件に対して競合があることはよくあるとわかってくれるので心配はいりません。
むしろ失礼だとキレてくる人は社会と繋がりのないクソ絵師なので依頼しなくて正解です。
午前11時とか常識的な時間にメールして早く帰ってきた中から条件のあう人に依頼すればいいと思います。
4.細かく連絡をとる
契約をして作業に着手してもらったら細かく連絡をとるようにします。
たまにSkebの感覚で完成するまでまったく連絡とれず、指定を無視したなんの役にもたたないメモリを消費するだけのゴミ絵を送りつけてくるクソイラストレータもいるので注意が必要です(依頼してしまったら注意もクソもないですが……)。
途中経過の確認は重要で、ラフがいつまでに完成するのかなど細かく連絡をとるようにします。
まともなイラストレータであればそれも仕事だとわかっているので過剰でなければ心配はしなくて大丈夫です。
5.イラストレータへ敬意を払う
連絡をちゃんととり、期日内に納品してくれたイラストレータにはしっかり敬意を払いましょう。
次回依頼するときはもっと多くお金を支払うなどして離さないようにします。
信頼できるイラストレータであれば事前に相談があれば納期を多少送らせても問題はありません。
このノウハウはあくまで初回でハズレくじを引かないためのものです。
世の中クリエイターには敬意をはらったほうがいいというのは共通認識となりつつあります。
本当はクリエイターを支援したい企業は世の中にたくさんあり、報酬を先払いしてもいいと思っている人もたくさんいます。
でもそれをしてしまうとクソ絵師にあたったときに時間だけでなくお金まで失うのでできないのが現状です。
列挙と言うか
頭が悪いの定義を「物事を俯瞰的に正確に捉えることができない。特に自分の置かれている立場や利害関係によって物事の見え方が変わってしまう人」とすると
「俺の嫌いなやつ」であることは認めるけど、頭が悪い特徴と言い換えても遜色ないかと。
頭が悪いの定義を「物事を俯瞰的に正確に捉えることができない。特に自分の置かれている立場や利害関係によって物事の見え方が変わってしまう人」とするとだいたい当てはまる
物心ついた頃から、「自分は子供を産んだらいけないタイプの人間だ」と感じてきた。
小中高職場すべてで虐められてきた。
(因みに自分のスペック→フリーター、低学歴、一重、貧乳、顔デカ、陰毛ヘア、発達障害(手帳持ち)、学習障害、家事能力なし、運動神経なし、アル中。)
父親はおおよそ社会適応できてる人だったけど、母親は仕事が長続きしないタイプで(大体が3日もたなかった)、近所で噂話される程度にはヒステリックで変人だった。
私も弟も、小中高すべてで不登校になった。もう遺伝子から弱者なんだなと幼いながらに実感したものだ。
どうやら自分は目を二重にして陰毛ヘアを直毛にすれば、何とか擬態できるベースを持ち合わせていたらしい。
整形したら、恐ろしくイージーに理解のある彼くんが生えてきた。
(整形前は生える気配は一切なかった。学生時代は自分が給食当番でよそったご飯を受け取ってもらえなかったり、席替えで隣になると気持ち悪がられた。バイトでは初日から従業員にブスだと言われたり、客からも暴言を浴びせられた。世の中の全女がイージーモードだというのは流石に主語がでかいと思う。)
便宜上理解のある彼くんと書いたが、多分定義からははずれると思う。
他に本命がいたし、金を貢がされてたし、暴言と暴力を振るわれてたし、寝てる時に犯されるなど、合意のない性行為も多々あった。
ある時、妊娠した。正確に言うと、流産してから妊娠していたことを知った。
流産した時、真っ先に「よかった」と感じた。
私の血が入った哀れな子供が生まれなくて本当によかったと、心の底から思った。
その子が生まれ育つ想像をしてみたが、可愛いとは全く思えなかった。
子供が生まれないで済んだ喜びはあれど、子供が流れた悲しみは1mmたりとも感じなかった。
そしてこの時に、「自分には子供を産みたくないという本能がある」と確信した。
多分、マジョリティの「本能」は、子供が欲しいというそれなんだろう。
でも、世の中にはマイノリティの「本能」もあって、それは弱い個体を生み出したくないというものなんだと思う。
ちなみにその後、本当に理解のある彼くんとも出会ったが、子供を求められた為にお別れした。
私の本能論も話したが、理解不能だと言われた。今はお互いの「本能」が一致したお相手と子供を作って、幸せに暮らしてるらしい。
https://yonosuke.net/eguchi/archives/16363で「キモくて金のないおっさん」という言葉を久々に目にし、かつて別のところで書いたこんな文章を思い出して再掲。
http://wezz-y.com/archives/50640
この文章があまりに酷いので、誰か一人くらいどこが酷いのか指摘しておくべきじゃないかと思いました。北村紗衣さんという方の文章で、書籍にも収録されています。
「キモくて金のないおっさん」というネット用語がある。キモくて金のないおっさんには誰も注目しないじゃないか、という異議申し立てのための言葉である。しかし、文学はずっと昔から「キモくて金のないおっさん」を扱ってきたので、その中から特に2作を紹介する。というのが上記文章の趣旨です。
取り上げられているのはスタインベックの『二十日鼠と人間」とチェーホフの『ワーニャおじさん』です。ここで問題にしたいのは『ワーニャおじさん』の方です。ワーニャおじさんを「キモくて金のないおっさん」の一例として扱うのはシンプルに間違っているし、そもそも作品を誤った形で紹介しているし、チェーホフにも『ワーニャおじさん』にも「キモくて金のないおっさん」にも失礼だ、というのが私が以下言いたいことです。
「キモくて金のないおっさん」という、そもそも定義が曖昧というか、明確な定義なんかあるわけない用語の意味するところには不毛なので立ち入りません。シンプルに「キモい」「金がない」「おっさん」という3つの要件にわけ、それに『ワーニャ伯父さん』の主人公ワーニャさんがあてはまるかのみを問題にしてみます。
まず、作中年齢47歳のワーニャが「おっさん」にあてはまること、これは間違いありません。
一方、上記文章中でも一応断りはありますが、ワーニャが「金がない」は明らかに無理があります。理由は単純、ワーニャは19世紀末ロシアの地主階級の人間で、実際に相応の広さの地所を管理し、その地所からの上がりで食っている人間だからです。地主階級の中では決して経済的に恵まれている状況ではないことは作中で描写されていますが、社会全体の中で見れば断じて「金がない」人間ではない。
ある頃までの文学は基本的にブルジョアのものであり、働かなくても食っていける人間しか出てこない作品も多いのは事実です。その中で比べれば、ワーニャは相対的には「金がない」かもしれない。でも、チェーホフという人は自身が3代前まで農奴の身分で、父親は破産し、短編小説を書き出したのも家族を養うため、作家兼医師として働きづめの人生を送り、作品の題材の多くをロシアの普通の人々に求めた作家でした。日々働いてもぎりぎりの生活しか送れない人を主人公に据えた短編小説をたくさん書いていますし、そもそも『ワーニャおじさん』中にも地所で働く下層階級民の姿はきちんと描写されています。チェーホフの描いた世界全体の中でも、『ワーニャおじさん』という作品単体中でも、ワーニャは断じて「金がない」人間ではないのです。チェーホフはそのような意図でワーニャを描いていないし、実際、作品中でもそのような存在とはなっていない。まずこの点で、ワーニャが「キモくて金のないおっさん」だというのは明らかに間違っています。ワーニャが「金のないおっさん」なら、港区の地主の息子だって「金のないおっさん」になってしまいます。
「金がない」点については、北村さんも文中で触れているのでまあいいです(ただし、なぜ「金がある」人間を「金がない」扱いするのかという説明にはなっていません。「金がある」人間は「金がない」人間ではありません。)。はるかに酷いのはワーニャを「キモい」にあてはまる存在だとしている点です。先に断っておくと、チェーホフは多くの作品で美点を見出しがたい人間を取り上げ、そのような人物に対しても何らかの同情の念を読者に起こさせてきた、これは事実だと思います。でも、『ワーニャおじさん』におけるワーニャはそもそもそのような人物ではない。単純に言ってしまえば、ワーニャは「キモい」人物としては描かれていないのです。
文章中、ワーニャが「キモい」理由として具体的に取り上げられているのは、実は「エレーナに10年前(20年前は誤記です)に求婚していれば、エレーナは今ごろ俺の妻だったかもしれないのに…」と妄想していたという1点だけです。北村さん自ら書いていますが、そもそもこれは妄想であり独白です。この後、確かにワーニャは人妻であるエレーナに愛を告白しますが、別に上記のような妄想を彼女にぶつけたわけではありません。北村さんがワーニャより上等な人間であるとするアーストロフだって、エレーナに告白します。妄想を膨らませた程度のことで「いわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています」は作品の解釈として明らかに飛躍があり過ぎます。
ワーニャが「キモい」存在であることの根拠を一箇所しか上げないかわりに、北村さんの文章は、随所随所に読者がワーニャに対し「キモい」という感情を抱いてしまうような主観的な描写をはさんできます。
北村さんはワーニャの結末について、「財産のことで逆上して大騒ぎ」したと書きます。確かに、ワーニャと教授の間で財産について争いが起こり、ワーニャは教授をピストルで撃とうとします。でも、「逆上して大騒ぎ」という書き方は、普通に読めばワーニャが自身に理のないことで勝手に騒いだかののような書き方です。でも、そうでしょうか。
事実関係を整理すると、問題の地所の物語時点での名義人は、教授と先妻の間の娘であり、ワーニャの姪であるソーニャです。ソーニャは地所を母(教授の先妻)から相続しました。ロシアの法制度に詳しいわけではありませんが、多くの国の例に漏れず、その頃のロシアも夫婦別産制だったはずです。つまり、婚姻期間中も土地は妻の単独名義であり、妻が亡くなった際にも配偶者には相続の権利はない。相続権があるのは子だけです。要は、教授は地所についてはまったくの無権利者なのです。
もともと地所を購入したのは先妻の父(ソーニャの祖父)で、娘が教授のところに嫁ぐ際の持参金として土地を購入しました。土地の購入代金を一括で支払うのは厳しかったので、一部は借金しました。その借金はワーニャが土地の上がりから返済しました。地所の管理は、現在はワーニャとソーニャが2人で行なっていますが、借金はソーニャが生まれる前のことなので、借金返済のために立ち働いたのは基本的にワーニャです。
先妻の父が死に、ワーニャの妹が土地の所有権を相続し、名実ともに妹の土地になりました。その際、ワーニャは自身の相続分を放棄し、妹に単独で相続させてあげています。その妹も亡くなり、ただ1人の子であるソーニャが相続した、という経緯です。
ソーニャの所有する地所を、ワーニャとソーニャが2人で管理し、2人は上がった利益の中から教授に長く仕送りをして、教授の生活と研究活動を支えてきました。ところが、教授は退職し、土地からの上がりも減ってきたことから、土地を売却して利益を投資に回そう、と提案してきました。そこでワーニャが怒った、というのが「逆上して大騒ぎ」の経緯です。これ、逆上でしょうか?
教授は地所については無権利者です。しかも、地所に住んでいたわけでも、管理をしていたわけでもない。ただ、一方的に仕送りを受けてきただけの立場です。その人間が、利益が上がらなくなってきたからといって、独断で土地を売っぱらおうとする。ワーニャじゃなくたって怒って当然じゃないでしょうか。
しかも、「あんたの土地じゃないし、長くここに住んできた俺たちはどうなるんだ」と聞いても、教授は「そんな難しいことは分からない」ととぼけるばかりです。ピストルをぶっ放すのはやり過ぎにしても、この経緯で怒ることを「逆上して大騒ぎ」などと形容されたらたまったものではありません。
自分が誰の働きで食えてるのかもろくに考えず高等な人種のつもりの教授と、その教授を支えるため田舎で働いてきて気が付けば人生に行き詰っていたワーニャ。この構図は誰が読んでも明らかなのに、それをわざわざ「逆上して大騒ぎ」などという言葉で形容する。ワーニャに「キモい」印象を与えようという操作が露骨すぎます。
「チェーホフ全集」の後書きにこんなエピソードが書いてありました。
チェーホフの存命中、ロシアのある地方都市で『ワーニャおじさん』が上演された。その舞台では、ワーニャ役の俳優が自堕落な地主として演じ、長靴を履き、百姓風のルバーシカを着ていた。要するに田舎者のステレオタイプということでしょう。当時のロシア演劇では地主といえばそんな風に描かれるのが普通だった。それを聞いたチェーホフは怒って言った。「それじゃいけませんよ、いいですか。わたしの戯曲にはこう書いてあるのですよ。彼はすてきなネクタイをしている、って。すてきなのをですよ! ね、地主たちは、われわれやあなたがたよりもいい身なりをしているのですよ。」
このエピソードを紹介したのはメソッド演技の源流となるスタニラフスキー・システムで有名なスタニラフスキーです。スタニラフスキーは続けて書いています。「問題はネクタイではなくて、戯曲のイデーなのだ。才能ある人物のアーストロフや詩的にやさしいワーニャは片田舎の暮らしで朽ちて行くのに、鈍物の教授は首都ペテルブルグで楽しく暮らし、似たり寄ったりの連中とともにロシアを支配している。これがネクタイのト書きにこめられた意味なのだ。」(スタニラフスキー『モスクワ芸術座におけるチェーホフ』)
これでも、ワーニャは「キモい」のでしょうか?
今は人妻となっている女性との「あり得たかもしれないロマンス」を妄想する。財産のことで怒りのあまりピストルを持ち出す。自殺をたくらみ医師アーストロフのところからモルヒネを持ち出すが、見つかってしまい自殺もできない、というか多分はじめから本当にやる気はない。こういう断片だけ取り出し、著者の考えるところの「キモくて金のないおっさん」像にあてはめ、チェーホフだって「キモくて金のないおっさん」を書いていたんだと言い張る。女性観が歪んでいて、被害者意識が強く、些細なことで大騒ぎする小心者。「キモくて金のないおっさん」のことをそう考えるのは自由ですが、ワーニャおじさんはそういう作品ではありません。権威付けなのか何なのか、古典を歪めて持ち出すのは「キモくて金のないおっさん」論そのものより下品で、キモいです。
先ほど非モテ男がなんたらかんたらと言ったら投稿を見かけたが、明らかに2軍あたりの男を非モテ男として語っていた
そんなやつは見て見ぬ振りをしているのか?
多分違う。
本当に見えてないんだと思う。
ツイッターをふらふら読み渡っていて、世の中に「国語力だけには自信がある」という低学歴のクラスタがあることを初めて知った(はてなのブログやブクマ界隈にもありそうだが、興味がないので知らない)。
これって要は、学生時代に(あるいは漫画なんかで)よく聞いた「国語だけは平均点以上あるから地頭は悪くないはず」とかいう劣等生の慰めの言葉の延長だと思うけど、あの認識のまま、本当に他になんの専門性も身につけられず大人になったようなのがこんなにたくさんいるのだという事実に衝撃を受ける。
しかもその『国語力』も、単に主観的に「自分はうまい文章が何かを分かっている」という思い込みを、センスの似通ったもの同士で承認し合ってエコーチェンバーに陥っているだけで、幅広い文章スタイルを使い分けたり読み分けたりするような応用力があるわけではない(専門用語を使った翻訳調の文章を読めなかったり)という始末。
『国語力』が何かも定義できないから、『国語力』という言葉を自分勝手に使えるという、悪夢のようなスパイラルがそこにはあった。
去年の大晦日に「メモアプリの知見を貸してほしい」という増田を書いた者です。750超のブックマークと注目をいただきまして大変感謝しています。
https://anond.hatelabo.jp/20221230142549
あれから半年経過してみて自分の使うメモアプリが定まってきただけでなく、メモの意識およびスタイルに変革が生じました。これを、皆さんからお借りできた知見の「お返し」としてご報告したいと思います。
「中身に興味無いけどブコメしたいからブクマした」という人は、簡単に作れそうな激辛料理を教えてください。最近自炊が楽しいもので…中華ばっかりですが。
「うるせー経緯は良いから何に落ち着いたのかだけ簡潔に教えろ」という方は、「asdf」「あsdf」「あかさ」でページ内検索してください。
ブコメは270件、増田のトラバは50件と膨大なアドバイスや激辛スナック情報を頂いて、まずは発見がありました。
ある人が「タラタラしてんじゃね〜よ は激辛?」と聞いてきた折に「自分は激辛とは思ってないけども〜略」という返答をしたのですが、同じことがメモにも言えることに気がついたのです。これはメモ?それとも他の人にとっては違う?
私の以前の認識では「私的で体裁の整っていない文書は文量問わず例外なく全部メモ」と思っていました。そんな意識では提案されたもの(勧めてもらったものは余すことなく試しました!)を実際に触っても帯に短し襷に長し。要件定義に不足があったのですから無理もありません。
1. 要件が済んだら破棄されるもの(実例:買い物メモ、日程が過ぎた忘れ物チェックメモ)
2. 要件が済んでも備忘録として残しておく価値があると感じるもの(実例:スーパーの安売り曜日情報、激辛スナックリスト、ロックマンXのパスワード)
3. 2.の体裁を後から整えたくなったもの(実例: 読書メモ、アニメ感想メモ)
提案してもらったアプリおよびサービスが、以上の3タイプに対してどれくらい適性があるのかを確かめることにしたのです。全てに対応したオールインワンでスッキリとしたアプリがあれば、学習コスト的にも理想的ですからね。
そんな理想郷はなかった。
1-3全てを1つのアプリケーションが管理するというのは、私にとっては文書の混沌を意味します。たとえデータだから実体がないとしても(電磁気的にはありますが…)、タグで分けられるとしても、付箋・ペライチ・ノートが混在するような収納を許せる器量が自分にはありませんでした。
メモはメモであるべきで、後付で構造が生まれたものはメモではないと確信し、3の隔離の必要性を認識しました。これもうわかんねぇな
1-3で共通した要求は「PC/スマホで編集できる手段がある」「データの共有が端末間でできること」。そして3にのみ「目次機能を始めとした文書的機能」が要求されていることがわかりました。
1-2は最早ToDoリストで良さそうなミニマルさ、3には編集機能にリッチさが欲しい雰囲気になりました。
絞り込みがスムーズになりそうです。
1-2の選定は数ヶ月にわたり苦悩しました。前述の要求でGoogle KeepとOneNoteの二大巨頭に即刻絞り込まれましたが出来がどちらも良く、最終的にGoogle Keepを選んだ理由が「前からちょいちょい使ってたから…」しかありませんでした。それくらいOneNoteの出来も本当に良かったです。
私がメモアプリを勧める立場になったら、この2つのうち好きなほうで良いんじゃない?と言うことでしょう。あまり面白みの無い結論かもしれません。
3はメモではなく、もはやノートと呼んで差し支えのないものに昇華しました。従って、原題である「メモアプリ」からは少し枝分かれというか、切り離した話題になります。
ここでかち合うことになったのがNotionとObsidianです。
Notionは複数人で共有できたり権限管理もあったりで組織で使う分にはかなり強力なアプリであることは実感できました。今回は「私的な文書」を取り扱うわけですが、それでも私はConfluenceの使用経験もあるので「こういうの便利だったんでわかるわかる」という箇所が多かったです。
とは言え他のコメントにあったように「使いこなせている感じがしない」気持ちについては強く共感できるものがありました。Obsidianも多機能にできるのですが、それはプラグインによるもので自分の選択の結果として多機能になるのです。学習コストと関わるところですが、「ある機能が欲しくなってそれが実現できることに気づいたので学習する」のと「『こういう機能がある』と最初から使うかもわからない機能の存在を脳の片隅に置かれる」のでは私は前者を好む人間です。探検好きなので。
あ、誤解のないように記しておきますが今回の模索は個人のメモをとる分の話です。友人や組織の仲間とのやりとりではNotionを使っています。あまり使いこなせてはいませんが…。
データ共有については課金しているので問題ありませんが、そのあたりに抵抗があるならば…実体はmdファイルなので自分でバックアップを取る感じですかね…?
そんなわけで、減点方式的ではありますがObisidianに落ち着きました。
メモはGoogle Keepになりました
メモをノートにレベルアップさせるときはObsidianを使っています
一応はてなブログもあるからそこに書いても良かったんですが以前が増田だったので報告も増田でやるのが筋だろうと思い、またここに失礼させていただきました。
アプリを2つ使うことになろうとは思っていませんでしたし、おそらくコメントを下さった方もこういうオチになるとは思ってなかったんじゃないかということで、経過報告と面白い報告を兼ねていることを願っています。
メモの定義がしっかり定まっていなかったために(おかげで?)多様な提案をいただく結果となりましたが、片っ端からアクセス、インストールして試しました。しっかり自分の糧となっています、感謝しきれません。
あっそうだ。メモアプリに興味もなく、激辛スナックを食べられない皆様には2023年の抱負を書いていただきましたが、経過はいかがですか?順調でしょうか?