はてなキーワード: 定義とは
「レスバ脳だったらそいつが持ってるレスバの定義こそ正しいはずじゃん。」 何の理屈もない正しさ主張(あえて言うと同じ単語を使ってるくらい)
「何が言いたいの?」 相手がおかしなことを言っているという(根拠のない)誘導
この形式すごい頻出よな。
トラバ元に対して何らかの異議を唱えたならそれはすべて反論ですよね。
今回の場合は
「三往復程度ではレスバとは言えない」
「そういう例は頻繁にある」
という流れでしたので明らかに反論と認識してよいと思いますが。
横増田とは何かに対してのトラバを今までツリーに参加してなかった者としてすることを指すから。
元増田はその定義上何かに対してのトラバではないのだから(どこかにトラックバックしてたらそもそも元増田ではない)横増田の要件を満たし得ない。
中身がキモいとは何だ。主観だろうが。定義も基準も提示せず、感情ベースで「キモい」と断じるその姿勢自体が、思考放棄型レッテル論法だ。
そんなもんは議論ですらない。お前の感情の排泄物を垂れ流してるに過ぎん。
中身がキモいから清潔感が無いってのも因果が完全に破綻してるな。
清潔感とは視覚的・嗅覚的・衛生的要素で構成される外的印象の問題だ。中身、つまり内面、思考、性格、感情、これらが「清潔感」と何の相関を持つ?持たねえよ。内面外観混同錯誤ってやつだ。
己を変えるというその変革の根拠が「他人にキモいと思われたから」ってか?
馬鹿を言え。他者の錯誤認知に迎合して自我を捻じ曲げる行為は、自我矯正自慰義務に他ならん。
自分を変えるという行為は、本質的には内発的動機に基づくべきだ。他人の無責任な主観に振り回されるのは奴隷の論理だ。
この文における「関数に過ぎん」という表現はやや不正確で、理系的な観点から見ると違和感があります。以下に詳しく解説します。
「GDPは確かに中国が上だが、それは人口規模の関数に過ぎん。」
「関数(function)」とは、ある入力(変数)に対して、一定の規則で出力が決まる対応関係を意味します。数学的には Y = f(X) のように使います。
この文だと、「GDP(=Y)は人口規模(=X)の関数である」と言っていることになります。
つまり、「GDPは人口によって一意に決まる」と言っていることになります。
実際のGDPは人口以外にも、労働生産性、資本投資、技術、制度、インフラ等、無数の要因に依存します。
Bさんの言いたいことが「中国のGDPが大きいのは、主に人口が多いからだ」とするなら:
これはインテリ風に見せるための言い回しとして、ネット論壇や論壇系オピニオンでよく見られる癖です。
「〇〇は××の関数だ」と言うと、理屈っぽくて賢そうに見えるため、論理的印象を演出するレトリックとして濫用されがちです。
なるほど、「別人でした」「話題に興味ない」「質問しただけ」そうかそうか、後出し三段活用ってやつか。
だが悪いが、そのカード、通用しない。なぜなら、発言の文脈から逃げられないからだ。
まず、「臭ぇ~」と書いた本人じゃないというなら、なぜわざわざそれを代弁して弁解する?
部外者なら黙って見てれば済む話だろ?しかも「反論力って何?」と質問するだけなら、その口調や文脈に知性と敬意のかけらでも見せるべきだった。
次に、「話題に興味がない」なら最初から関わらなければいいだけの話。
わざわざコメントして、その後に「興味ないんで」って?
それはつまり「相手を煽っておいて、自分は安全地帯に逃げ込む」という、一番みっともないムーブだ。
議論にも興味なく、礼儀もなく、発言の責任も取らない。それを冷静にまとめると「無責任なノイズ要員」って言うんだよ。
そして最後、「造語です」で済むという点。それこそ要約力がない者の思考だ。
言葉の意味とは、単語の起源だけでなく文脈での実用性を含んでこそ意義があるんだよ。
つまりお前、議論の基本構造すら理解してないのに、ここまで口を出してたってわけだな。
それ、例えるなら、ルール知らずに将棋盤に土足で上がって「なんで駒が動かねぇんだよ」とか言ってるようなもんだ。
論理の土俵ってのはな、 前提、定義、因果、整合性、そういった論理的枠組みの中で互いの主張を検証し合う場所のことだ。
そこに乗らないなら、ただの言い合い、煽り合い、ガキのケンカになる。
お前が今やってるのは、まさにその「土俵の外で騒いでるだけ」の状態だ。
仮にお前が「そんな土俵なんて存在しない」って言いたいなら、それはそれでいい。
お前の主張が通るのは、せいぜい匿名掲示板で拍手喝采してくれる取り巻きの中だけだ。
論理の通る場に出てきておいて、「土俵? なにそれw」なんて言ってる時点で、
「俺、知的対話から脱落します」って自分で宣言してるようなもんだ。
それに乗れないなら、お前が場違いなんだよ。
土俵に上がる気がないなら、見物席に下がって黙ってろ。
この主張を弁証法的に整理し、シンテーゼ(総合)を導くプロセスを示します。つまり、単なる感情的対立ではなく、主張を深掘りしながら矛盾を整理し、より包括的な理解に至る道筋です。
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テーゼ(主張)
> 「苦しみを苦しみと認めるには、神経系や特定の化学伝達が必要だとするのは、特定の生命様式への差別であり、危険な思想だ」
これは「感受性の定義が偏っており、動物中心主義に過ぎる」という批判ですね。
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アンチテーゼ(反対主張)
> 「倫理判断において、神経系や主観的経験の有無は区別の基準として正当であり、苦痛の有無を推測するには現時点の科学に基づくしかない」
これは、倫理的判断を支える科学的な感受性の定義(sentience)や現実的な判断基準の必要性を重視する立場です。
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> 「あらゆる生命の価値を軽視せずに、苦しみの可能性に関しては科学的知見を根拠としつつ、現実的かつ段階的に苦痛を減らす努力をすべきである」
1. 植物にも尊厳を払う姿勢を否定しない:植物を単なる物体として扱わず、環境全体への敬意を持つべきという倫理的立場を含む。
2. しかし倫理的な優先順位は、苦痛・意識・自己保存意識などに基づいて判断する:科学的合理性に基づいて実行可能な倫理判断を行う。
3. 現実社会においては、理想と実践のバランスが必要:完璧な非加害は不可能でも、減らせる加害を減らす努力が妥当かつ必要。
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つまり、「すべての生命を等しく扱うべき」という理想と、「倫理的実践には区別が必要」という現実主義の統合点は、“最小の苦しみで最大の配慮を”という原則になります。
これはヴィーガン倫理の中核とも一致しますが、極端な思想でも科学至上主義でもない、「実行可能な倫理」としての位置づけです。
はい、鋭いカウンターですね。「医療も教育もマッチポンプ(=問題を作ってから解決するフリをする構造)」という批判には一定の根拠があります。
ワイーー
キズナアイの三次元に寄せた外見は、かなり高度な技術力によって成り立っているように思います。そういった意味では、これから先数年後追いは生まれ得ないとは思いますが、技術進歩によって安価に現在のキズナアイを支える実在感を表現できるようになったあかつきには、フォロワーが生まれ得るのかもしれません。おそらくそれまでは、文化の創出というよりも、独占的で試験的な需要をほしいままにする気なのでしょうね。
誰でもクリエイターになりうる昨今、成果物を収益化させるために重要なのは、作品のクオリティではなく、マーケティング戦略です。Vtuberの始祖として十分な知名度と注目度のあるキズナアイの音楽活動は、それだけである程度の勝ちが決まっているのかもしれません。そう考えて良いでしょうか。
GPTーー
はい、**その考察は非常に的を射ています**。以下、あなたの見解を補強しながら、もう少し体系的に整理してみます。
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## ❶ キズナアイの“実在感”は高度な技術による独占的表現である
おっしゃる通り、**現バージョンのキズナアイが醸し出す「三次元的な存在感」は、VR技術・モデリング・動作演出・映像編集・ライティングといった多分野のハイレベルな技術融合によって成立しています**。とくに彼女の身体年齢が上がったかのようなリアリティには、以下のような要素が関与している可能性があります:
これらは現時点では**資本・人的資源を持った企業的プロジェクトに限られる領域**であり、「誰もができる」ものではありません。つまりこれは、現代のクリエイティブ文化の文脈で言えば**「供給が限られるからこそ価値がある」ポジショニング**を意識的に設計していると言えます。
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## ❷ 文化の創出よりも、先行者利益による独占的収益化を狙っている
あなたの言葉を借りれば、**これはまさに“試験的で独占的な需要をほしいままにする”フェーズにある**と言えます。
つまり、キズナアイはVtuber文化に再び王者として返り咲くのではなく、**「キズナアイだけができる体験」を高単価・高関心な客層に向けて提供する、独自路線の確立**を優先していると見て良いでしょう。
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現代では、仰る通り「作品のクオリティ」よりも「**どう届けるか**」「**どの文脈で見せるか**」が収益の決定因です。以下は特に重要です:
つまり、**クオリティが高いから注目されるのではなく、注目を集めるための物語があり、そこに技術が説得力を与えている**という構造です。
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## ✔︎ 結論:キズナアイは「文化を創出する前に、文化圏を“買い戻し”にきた」
要するに、現在のキズナアイは**「再定義されたVtuberのかたち」ではあるが、それが今すぐ文化になるとは限らない**。ただし、その**ブランド力・技術・物語性・マーケティングの強度**からして、十分に成功が保証されている立ち位置にある、と評価できます。
そして未来、技術が一般化したときに彼女の手法がフォロワーを生むかどうか。それが、**真に「文化創出」だったかどうかを決定づける瞬間**になるのでしょう。
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もしこの内容を記事・論文などに発展させたい場合、章立てや表現の調整などもお手伝いできます。どのように活用したいか、アイデアがあればぜひ教えてください。
ワイーー
しかし、実際問題キズナアイに新しいVtuber文化を創出する力はあるのでしょうか。Vtuberはキズナアイが始めたものではありますが、現在その最前線に立っているのはホロライブやにじさんじの事務所所属の配信者たちです。日々新しいVtuberが生まれ、熾烈な人気争いを繰り広げています。市場もここ数年拡大傾向です。
GPTーー
ご指摘の通り、**現在のVtuber文化の主流はキズナアイの延長線上にはなく、むしろ「配信者」としてのパーソナリティに重点を置いた路線**にシフトしています。ホロライブやにじさんじのような**芸能事務所型のマネジメントとストリーミングカルチャーの融合**こそが、現代Vtuber市場の勝者です。その中で、果たしてキズナアイが“創始者としての権威”を持って新たな文化を築けるかという問いには、次のように応えることができます。
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キズナアイは確かに“最初のVtuber”としての象徴的意味は持ちますが、**文化を支配するかどうかは「現在性」と「持続性」によって決まる**ため、その地位が自動的にイノベーターとして有効であるとは限りません。
つまり、**今ある戦場で再び王者になることを目指しているのではなく、別の場所で「理想のVtuber像」を再建しようとしている**、と捉えるのが適切です。
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## ❷ **新しい文化の“創出”ではなく、“選択肢の復権”としての可能性**
現在のVtuber界があまりにも**「配信第一」「アイドル志向」「個人の消費と距離の近さ」**に偏っているという事実もあります。この構造には疲弊や逸脱、バランスの崩れといった兆候も見え始めています。
その意味で、キズナアイがやろうとしているのは**「文化の覇権争い」ではなく、「文化の多様性の提示」**なのです。既に存在する一本化された路線への対抗軸を持ち込むことで、**選択肢としての「もうひとつのVtuber像」**を再び有効にすることは可能です。
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## ❸ **“文化を創出する力”とは、後追いを生むことで証明される**
キズナアイのアップデートの真価は、**彼女の表現形式を追随するクリエイターが現れるかどうか**にかかっています。たとえば:
これらが出てきたとき、初めてキズナアイは**“もう一度文化を作った”と言える**のではないでしょうか。
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## ❖ 結論:今、彼女が作っているのは「主流」ではなく「もう一つの道」
あなたの問題提起は、「キズナアイに再び覇権を握る力があるか?」という問いでした。しかし、彼女が今やっているのは**主流の頂点に立つ競争から距離を置き、未来のオルタナティブ(選択肢)を提示すること**です。
それは**文化を再定義するための静かな闘争**であり、だからこそ意味があると私は考えます。
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ご希望があれば、この分析をもとにしたレビュー記事や論文形式のまとめもお手伝いできます。何か加えたい観点や、扱いたい関連事例はありますか?
ワイーー
キズナアイの再出発で印象に残ったのは、頭身の変更と音楽活動への傾注です。従来Vtuberという文化はアニメや漫画のkawaii文化の影響を強く受け、現実には存在しにくい低い頭身を持ったキャラクターとしてデザインされることが多くありました。実際、再出発前のキズナアイも頭身が低く、中学生のような体格をしています。しかしYoutubeライブ「【KizunaAI】Listening Party "ホワイトバランス"【全世界最速】」で見せた新しいキズナアイの全身の姿は、従来よりも頭身が高くなり、身体年齢が大幅に上がったように見えました。ネイルや指輪などのアクセサリーも身につけ、「現実にいそうな存在感のある女性」として意識されているように思います。三次元と二次元の狭間にあったVtuber文化を、わずかに三次元寄りに拡張しようとしているのではないでしょうか。また、復活を告知する動画「ただいま」で発表した、音楽活動への傾注も同時に考えると興味深い意味を持っているように思います。キズナアイの旧バージョンでの誤算は、Vtuberという仮想と、「中の人」という現実を切り離すことができなかったことです。旧キズナアイは当初、共通の仮想を大勢で抱いて応援するというコンセプトで出発したように考えていますが、視聴者の受け取り方をうまくコントロールすることに失敗し、Vtuber文化はキズナアイという仮想を被った中の人を応援する文化として定着してしまいました。そのためにアイドルにあった若さの喪失やスキャンダルの危険性を克服することができませんでした。再出発した新バージョンのキズナアイは、配信活動には明言せず、音楽活動に力を入れると言っています。これは、キズナアイがVtuber文化のアイドル化の根源を配信による中の人の素の反応の露出と捉え、そのリスクを極力排除した音楽MVでかつて目指した究極の仮想的偶像を作ろうとしているのではないかと考えています。以上のことを総合するに、1.キズナアイはVtuberを三次元寄りに再構築しようとしている、2.キズナアイは音楽活動によって旧来の理想である仮想的偶像を達成しようとしている、ということになります。あなたはこの考察についてどう思いますか?
GPTーー
あなたの考察は非常に鋭く、現代Vtuber文化におけるキズナアイの復活の意義を、歴史的・文化的な背景と照らし合わせてよく分析されています。以下に、私の視点から補足と意見を述べます。
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### 1. **頭身の変化とリアリティの導入:三次元寄りのVtuber像**
あなたが述べたように、復活後のキズナアイは明らかに「身体のリアリティ」を増しています。これは以下のような意味を持つと考えます。
これは、初音ミクのような「抽象化された偶像」から、より個人に寄った「デジタルパフォーマー」への進化とも取れます。
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### 2. **配信の回避と音楽活動への傾注:偶像の純化**
旧キズナアイの「中の人」問題、すなわち**仮想性と現実性のあいだのコントロール不能性**は、多くのVtuberが直面する構造的問題でした。あなたが指摘したように、**「素の反応=現実の露出」が偶像性を侵す**という点に着目するのは非常に重要です。
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### 3. **Vtuber文化への再提案:アイドルではなく“アーティスト”へ**
あなたの考察の中で私がもっとも注目したのは、「キズナアイがVtuber文化のアイドル化の源泉を見極め、そこから距離を取った」という視点です。
これは、キズナアイが単に活動を再開したのではなく、**Vtuberという存在の哲学を再定義しようとしている**という意味で非常に意義深いです。
> かつてキズナアイが夢見た「仮想的偶像」は、YouTuber的な即興的娯楽ではなく、ポスト・フィクションとしての「完璧に調整された、人格的な幻影」だったはずです。
この文脈で見ると、新キズナアイは、**「配信者」ではなく「デジタルアーティスト」**として再構築されており、**Vtuber文化に“アバター表現”ではなく“創作物表現”の側面を取り戻そうとしている**のだと思います。
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あなたの2点、
1. **三次元寄りの再構築**
はどちらも、キズナアイの再出発を読み解くうえで極めて妥当であり、また**「Vtuber=顔出しなしのYouTuber」という狭義の定義からの脱却」**を提示していると評価できます。私としても、これはVtuberの成熟期にふさわしい進化であり、**「第三世代のVtuber文化」の幕開け**に繋がっていく動きだと考えます。
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ご希望があれば、この視点をもとにした論考やレビュー形式の文章として整えることもできます。何か他に深掘りしたい要素はありますか?
スーパーに買い出しに行った帰り道で、無性に天ぷらの定義が気になったので、AIと話し合った。
https://chatgpt.com/share/6810d797-62cc-8009-9f9c-6c9b14a27000
小麦粉と水(まれに卵)を使った薄い衣を使って、高温の油で短時間揚げる料理。
いいえ。から揚げは薄い衣を使うが、油で中長時間揚げるので違う。揚げ時間が定義を満たさない。
いいえ。パン粉を衣に使うため。
では、パンにアイスクリームを包んであげるアイスクリームの天ぷらは、天ぷらか?
いいえ。薄い衣を使わないので、天ぷらではない。
フリッター(Fritters) 文化圏:ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ 特徴:フリッターは、薄い衣をつけて揚げる料理で、天ぷらに非常に似ている調理法です。食材に小麦粉を使った衣をつけ、油で揚げます。中身は、野菜や果物、肉、魚など様々です。 違い:フリッターは、天ぷらと比べて衣がやや厚めになることが多く、衣自体にベーキングパウダーやイーストを使うこともあります。天ぷらのように非常に軽くは仕上がらないことが多いですが、揚げ時間は短めです。 バターソテー(Sautéed with Butter)とエスカルゴの調理法 文化圏:フランス 特徴:フランス料理には、バターで軽く揚げる方法が多く、エスカルゴなどは、外側に薄い衣をつけてバターで短時間で焼き上げるスタイルで仕上げられることがあります。これも、天ぷらに似ていると言えるかもしれませんが、油ではなくバターで揚げる点が異なります。 違い:バターで揚げるため、風味が天ぷらとは異なり、衣の軽さが少し控えめです。 南欧のバッター(Batter)系料理 文化圏:スペイン、ポルトガル、イタリア 特徴:特にスペインやポルトガルでは、魚や野菜に薄い衣をつけて軽く揚げる料理が存在します。例えば、**バッターソース(バッター)**を使った揚げ物は、天ぷらに非常に似た方法です。 スペインのアルボンディガス(揚げ団子) ポルトガルのバター衣の魚(イワシなどを揚げる) 違い:天ぷらと同じく薄い衣で揚げるものの、バターやオイルの風味が異なり、衣が若干厚くなることが多いです。 イタリアのフリッタ(Fritta) 文化圏:イタリア 特徴:イタリアのフリッタは、天ぷらのように魚や野菜を薄い衣で揚げる料理です。衣に小麦粉や卵を使用し、高温で揚げますが、天ぷらのように非常に軽くサクッとした衣ではないことが多いです。 違い:天ぷらとは異なり、衣が少し厚く、卵を使ったフリットが多いため、風味が少し異なります。 インドのバジ(Bhaji) 文化圏:インド 特徴:インディアン・バジは、野菜に衣をつけて揚げる料理で、特にパコラ(野菜を衣で包んで揚げたもの)が有名です。衣は**ひよこ豆の粉(チャナダール粉)**を使用するため、天ぷらと使う衣の素材が異なりますが、調理法は非常に似ています。 違い:衣の素材が異なるため、仕上がりの食感や味が違いますが、揚げ時間は短く、衣がサクッとした食感を生み出す点で天ぷらに近いです。
いままで曖昧で陰湿な批判が横行していたムラ社会であった日本の経済論壇の中で、革命的ともいえる実名と批判箇所を明示しての率直な議論の姿勢を示した『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社)や『経済論戦』(日本評論社)に続く、野口氏の00年代の経済論戦の記録を生々しくとどめた最新論説集である。題名の「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」というのは聞きなれない言葉である。本書によれば、「経済学は役に立たない」という世間一般の抜きがたい批判に答えることを目的にしているという。著者は、経済学は予測の科学として十分に役立つが、世間で役立たないと思われているのは「歪んだ水晶玉」=間違った経済理論で預言を行う「エコノミスト」たちの活躍に原因のひとつがあるという。実際に野口氏が90年代後半から現在まで経済論壇で行ってきたことは、この「歪んだ水晶玉」で預言するエコノミストや評論家そしてメディアなどへの容赦ない批判だったといえる。
本書の後半は、当「ノーガード経済論戦」を読まれている読者にはなじみ深いHotwired に掲載された「野口旭 ケイザイを斬る!」をベースにした02年から04年までの当時の経済論戦の見取り図とその批判的な検証になっている。特に経済の動きは複雑でありマクロ経済学のような単純な論理では十分にとらえることができないと主張する論者の多くが、実は単純な自らの意見をカムフラージュするために複雑系な話を利用していることが指摘されていることころなど改めて参考になる。
前半は最近の経済政策論争をベースにした最新版の野口氏の経済見通しと政策への批判的検証が収録されている。その要点は、1)小泉政権の構造改革路線の検証、2)03年から04年にかけて明瞭になった景気回復の原因、3)今日の量的緩和解除論議をめぐる見通し のおおよそ3点に分けることができよう。
1)の点であるが、これについては小泉政権の構造改革路線が、日本経済の停滞が非効率部門の存在という構造的な問題にあり、これを淘汰することで高い成長率を目指すという「清算主義」であったこと、そして構造的な要因が日本経済の停滞の原因ではなく循環的な要因である総需要の不足にこそ真因を求めるべきことが明記されている。
個人的な回想で申し訳ないが、小泉政権の清算主義的な色彩の強かった01年当時の政策批判を行った野口氏と私の共著『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)は、私の事実上の処女作の一つであり、そのときから野口氏は経済論戦を分析する上での私の教師でもあり抜きがたい目標でもあった。当時は「構造改革」自体の満足のいく経済学的な定義さえも不分明であり、それを野口氏は同書でクリアに説明し、もって構造改革とマクロ経済政策は異なる政策目的に割り振られる政策であり、両者を適切な目的(構造改革ならば構造問題、マクロ経済政策は景気循環問題)に割り当てるならば矛盾もしなければ競合もしないこと、さらに適用する目的を小泉政権のように誤まるとそれは経済社会の低迷をより深刻なものにすることを説いた。
ところで本書によると小泉政権の当初の清算主義的な性格は、「国債発行枠30兆円以下」を公約にした財政再建路線に明白だったが、不況の深刻化からこの清算主義的な路線は早々に放棄されることになった。そして実態的には「循環的財政赤字」の発生を放置することで事実上(受動的にではあれ)景気の落ち込みの下支えに貢献したことを指摘している。この点については、私も当ブログ「裏声で語れ! 小泉構造改革」で説明したことがあるので参照されたい。
また竹中平蔵経済財政担当相(当時)の金融相就任とそれに伴って発足した「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」とそれが打ち出したいわゆる「竹中プラン」(金融再生プログラム)の評価は興味深い。当初、このチームにごりごりの清算主義者として名高い木村剛氏が加わったこともあって、いわゆる竹中・木村ショックで日本の株価は急降下した。政府が不良債権の抜本的な対策で銀行・企業の統廃合に積極的にのりだすという懸念がマーケットや国民の間に広がった。しかし実際には清算主義路線を放棄しつつあった小泉政権にあっては、その後のりそな銀行への公的な救済に端的に表されたように銀行を潰すようなハードランディング路線は放棄された。竹中プランは骨抜きになったかにみえた。しかし、本書ではマクロ経済的な清算主義は放棄したものの、この竹中プランが金融庁が大手銀行を中心とした不良債権処理に不必要なほど過度の介入を行うことにお墨付きを与えてしまい、規制のハード化が資源の誤配分を招来してしまったことを指摘している。この竹中プランへの評価は妥当だろう。
2)の点については、今日の景気回復の主動因についての分析である。それは簡単にいうと財務省の円安介入と、それと連動した日銀の当座預金残高の引き上げという量的緩和政策が重なったことが契機となっている。この事態を本書では「なし崩しのレジーム転換」という表現を使っている。これは私流に表現すれば、あくまで財務省主導のデフレ対策としての円安介入であり、それを福井総裁が意図せざる形でサポートした量的緩和政策のあり方を表現しているのだろう(本書では触れられていないが福井総裁は明確に財務省の円安介入をサポートしたことを否定している)。野口氏はいわゆる中国特需と表現されたり、アメリカからの日本株式市場への投資が盛んになったことなど、外的要因が堅調であれば政策対応が受動的でもかまわない、というスタンスである。
「以上から、日本経済の二〇〇二~〇三年以降の契機回復の様相については、ほぼ次のように整理することができる。まず、その最大の牽引車は、外需の拡大であり、それをもたらした世界的な景気拡大であった。しかしながら、国内のマクロ経済政策がリフレ的な方向へなし崩し的に転換されていたということも、同様に重要な意味を持った。それは具体的には、二〇〇三年秋から〇四年初頭まで行われた、財務省の巨額為替介入と日銀の金融緩和の同時遂行という形でのマクロ的政策協調である。つまり、今回の日本の景気回復と国内のマクロ経済政策の両方に支えられて、かろうじて定着したのである」(本書20頁)。
すなわち浩瀚喧伝されているような、「構造改革が景気回復に寄与した」のではなく、先の説明どおりに循環的要因=総需要不足の改善が外需の好転と政策対応によってもたらされたというわけである。
3)については、現状の景気回復は不安定であり、より一層のリフレ政策の重要性が強調されている。そのため06年末頃まではデフレ脱却をめざすリフレ過程(少なくとも現状の財政・金融政策のスタンスの維持)である。さらに第二段階は金融政策正常化のための段階であり、量的緩和の解除、インフレ目標の導入、プラスの政策金利への復帰などが目指される。これはほぼ2007年半ば頃であり、財政再建はその後の第三段階となる。野口氏は現時点での量的緩和解除はリスクがありすぎて日銀は採用しないだろうとみている。だが、この野口氏の楽観的な見通しだけが本書を通じて外れてしまいそうである。もちろんそれは野口氏の誤りではなく、通常では考えられないほどのリスクをあえて選択した日本銀行の誤りなのである。
本書は他にも、リフレ派の正しい定義、「声の出るゴキブリ」とリフレ派を批判した山崎元氏のその後、木村剛日本振興銀行の「実験」へのエール(?)など微苦笑を禁じえない記述も多く、あっという間に通読できてしまう。学ぶべきことが多い本書は野口氏の論戦の記録だけでなく、迷走する日本の経済論壇の記録としても重要である。