はてなキーワード: 精緻とは
「情報を食ってる」という言葉には多分に嘲笑的なニュアンスがありますがそれは「まっさらな状態で感じたことが本物で情報を得た後は思い込みにより歪められた偽物だ」という考えがあるからだと思います。
しかしそれは完全な誤りです。
むしろ情報や知識を得た後じゃないと本当の味や香りはわからないんです(ごく一部の天才を除く)
人間の目や耳や鼻や舌は場合によっては高額な分析機器より高性能で精緻なセンサーですが、それを処理する脳がクソサボり魔なんです。
大飯喰らいの臓器である脳はことあるごとに省エネ運転を試みます。せっかくの高性能センサーが届けてきた信号をまるっと切り捨てて無視しちゃうんです。
例を出してみましょう。
隠し絵というのをを知ってますね?
よくできた隠し絵を見せられて即座に何が隠れているかを見つけられる人はそう多くありません。
確かにそこに描かれているものを信号として捉えてはいても脳がサボってちゃんと処理してくれないからです。
「何かが隠れているので探してください」と言われ意識してサボりモードが解除されて初めて”見る“ことができるんです。
そして一度見つけたら見えなくなることはないですし、トレーニングを積めば無意識に脳を働かせてパッと見でもわかるようになります。
味や香りもこれと全く同じなんです。
情報や知識がないままだと脳はわかりやすく強い要素だけを処理して他を捨ててしまいます。
「◯◯の香りがします」「隠し味に◯◯が入ってます」といった情報を与えられて意識をすることで細かい味や香りを感じられるんです。
五感は生得的に備わっていると考えがちですがトレーニングしないと本当の能力を発揮してくれないのは技術や運動能力と同じです。
ケンタッキーフライドムービーという小ネタが延々続くコント映画。
世界一ソウルがこもってない黒人シンガーとかクロいじりが多い。
黒人スラム街で「ニガー!」と叫んで怒った黒人集団に追いかけられながら逃げるだけのもの。
こういうのいまはすっかり無くなった?なんでなくなったかわかる?
正解は、ウケないから。
広義では上記の通りかもしれない。人種差別の意識が浸透したからかもしれない。
でも、それは結果論。正解は、黒人差別のギャグでウケたことに、差別だ!と訴え反対を訴える人が現れてウケなくしたから。
あなたが今笑ってるおもしろを笑ってはダメですって怒られるとそれはウケないし笑えない。
あれはなぜそうなったかというと怒る人がいるから。みんな怒られまで笑いたくないから。
人間全て怒られるのが嫌。イーロンマスクも習近平もプーチンも増税カリスマレスメガネも怒られたくない。
怒りは笑いに勝つ。だから怒ることの優位性を知ってる人はそれで人をコントロールしようとする。
だから公正性を保つという名目で怒りを封殺する風潮になってきている。「○○ハラ」などが顕著。アンガーコントロールも。怒る人を減らそうとしてる。
などという陰謀論は関暁夫に任せておけばいい(言われてみれば元お笑いがオカルトや都市伝説的なことに傾倒していく例は多い)。
お気持ちになるが怒りで笑いが減る状況は困るし嫌だ。
笑いはウケないと意味が無い。ウケることこそ全て。実は笑いはかなりデリケート。
笑いのためになんでもする人は多い。
ただしそれはウケるためで怒られるためではない。
ウケるために手を変え品を変え怒る人を刺激しないように笑いを作る。怒られたら変えて笑うようにする。
なぜなら怒りを生み出すのは簡単だから。笑わせるより簡単。怒るのも簡単。
そしてついには「人を傷つけない笑い」という言葉まで生まれる。
本当にそんなものが可能なのか少し考えるとわかりそうなものだ。試しに作ってみろ。少しでもセンスがあるならそれはおもしろくないことに気づくから。
かように怒られなく笑わせるということが難しい。年々難しくなるとベテランや笑いに真摯な人ほど言っている。
もはや3年前ほどの漫才やラジオのネタでも笑えなくなっている。そこで爆笑が巻き起こってるのに。
それくらいデリケート。
精密に彫刻された飴細工が笑いで、それを無邪気な怒り、あるいは正義の怒りでもいい、そんなお気持ちでダメにされるのはとても悲しい。そう笑いをダメにされても怒りは湧かない。上記の飴細工を壊しながら、「それはダメなものだ」と怒られたら、精緻であるほど、手間暇かけたものであるほど、怒りより悲しくなる。自分の芸術作品を壊されたらすぐに怒るよりも悲しさがくるのではないか、
その問いかけにはNONO。
怒る人たちと同じで、ただ笑いたいのだ。
幸か不幸か、次々と笑いを殺す人と同じスピードで笑いを生み出す人がいる。そこは頼もしい限りではあるが、自分が笑う前に怒る人によって笑えなくなるのが悲しいのだ。
残念なことに怒る人が笑いを殺したら、途端にそれは笑えなくなる。前記の中国を笑いにした漫才は「けしからん」として取り上げられる。その記事により好奇心で見ると笑いは減る。「これで笑うな」という呪いがかかった状態で見るからだ。
先ほども言った通り人間全て怒られたくない。その「怒られ」という呪いがかかってるともう笑いの量は激減する。
MCUがいよいよもって危機に瀕している。最新作、マーベルの興行収入はズタボロだ。
製作費2億7000万ドルと言われ、リクープ可能なラインを表す2.5倍の法則を適用すると資金を回収するのに6億ドル近くの興行収入を稼がねばならない。
MCUが凋落するにつれ、ついにスーパーヒーロー映画コミュニティが行ってきたプロパガンダが暴かれるかもしれない。
MCUは日本のTwitterなどでも見られるようにリベラルで国外の文化に親和性があるような人が取り上げムーブメントを作り上げてきた。
その中で彼らはMCUは"女性の活躍が見られる"や"ダイバーシティが..."と言った言説でMCUへ観客を誘致してきたわけだが実際にはマーベルはそれらの作品群とは真逆の客層に対して物を売っていた。
マーベルの読者が別に保守主義者にモノを売っていたというつもりはない。
実際にはDCの方が傾向で言えば保守主義的な人々にモノを売っていたし、スタン・リーを筆頭にどちらかというとリベラルで左派的な価値観の作品群を従来から押し出していた。
しかし重要なのはそれらの作品は女性ではなく男性にモノを売っていたと言う事だ。
つまり基本的にスーパーヒーロー物のアメコミはboyが主要客層だったし、女性作家が増えたとはいえマーベルコミックは今でもそうだ。
そういった作品群の中であまりにも男性メインすぎたので女性を主体としたキャラクターを開発してきたという歴史がある。
これはつまり週刊少年ジャンプがあくまで男の子をマーケティングターゲットにしてきたが、現実の読者を精緻に分析することで、それに合わせて徐々に女性キャラクターの造形が変化していったに過ぎない。
しかし、MCUはそのバックグラウンドを奇妙に偽装してきた。一部のMCU作品は女性キャラが主体となった女性主導の女性向け映画だというように喧伝してきた。
しかし実態は男性向けの作品を無理やり女性向けにアジャストしたに過ぎない。
スーパーヒーロー映画は映画館のスクリーンをあまりにも独占しすぎるため、女性向け映画がまるで上映できず、むしろ2000年代後半からアメリカの映画館はどんどん男の向けになっていった。
そういった文脈知らない日本人向けに、こんなに立派な女性向けヒーロー物があるぞと日本の一部スーパーヒーローファンは喧伝してきたがその化けの皮がついに剝がれる時が来た。
実態としては日本の映画館でのヒーロー物は男性によく見られていたのだがアメコミクラスタはなぜか女性にも人気があるかのような言説を押し出していた。
実際には女性キャラが主導する作品でも男性の方が良く見ていたのだ。いくつかの記事ではよく見ると女性スーパーヒーロー映画の男女比が男性の方が多いと書いてあるにもかかわらず、女性の観客が多いと勘違いしている人を見た。
しかし、これはシンゴジラが女性にも人気があるなどとうそぶくようなものだ。もちろんシンゴジラを好む女性はいるが圧倒的少数派だ。
これは、そういった実情に対して苦悩している女性に対して"実際にシンゴジラは女性に人気だ!お前もそう言え!"と強制しているようなものだ。
数学の書籍には、幾つかの類型が存在すると思考の深淵に耽る。まず、教育を志向したものがあり、確実にステップを踏みながら数学の底力を身につけることができると謳われている。次に、辞書的な性格を帯び、数学者自身が自らの難問の鍵を求めるために、特定の定理や概念を参照するのに重宝される。最後に、最先端のトピックを瞬時に理解するためのもので、その要点を端的に把握することが狙いとなる。従って、私はどのような目的で数学の書に触れるのか、自己を問い詰めずにはおれない。
おそらく、私は最新の知識を迅速に吸収したいと願っているのだろう。しかしながら、そのために必要とされる前提知識は、敷居が高くなることがしばしばある。このようなとき、インターネットの広がる海を航海すべきか、精緻な教材と向き合うべきか、迷いに迷うのである。
一般人でありながら、高度な数学の概念を理解するための近道、それはいったい何か。私は、フレンケル教授のような説明術が、多岐にわたるトピックに適用されることを夢見ているのかもしれない。プリンストン数学大全という書物が私の手元にあるが、これは数学の骨子を簡潔に把握するには素晴らしい資源であると感じている。しかし、定理は単なる暗記ではなく、数学を生きた魂とするためには、他の科学的領域との接点が必要不可欠だと考える。審美的な要素だけではなく、科学的な実験と理論を結びつけるのである。
確率論の領域において、私はゲームを編み出し、コンピュータを用いてそのシミュレーションを行う方法を通じて、実験を行うことが可能だと思っている。テキサスホールデムポーカーの最適戦略が解明されたように、理論的な興味に基づいてゲームを選択し、コンピュータによるシミュレーションを行うのである。経済における金融商品市場は、まさにそのようなゲームの一つだが、私は残念ながら、実際にお金を投資することには興味を持たない。もし実際にそのような分野で実験を行うのであれば、利益と損失のリスクを冒すことなく、安全なサンドボックス環境を用意するだろう。私の心の深奥に築きたいのは、理論的モデルを探求し、それをシミュレーションする世界なのだ。
hash: 9a6aec5b64eb6d8e83e087c0bbd9bba4
予算規模と言われるとそれまでだが、冷静に考えるとよくわからない
ある原作(小説でも漫画でもよい)があり、それを映像化しようと考えた時、
映画・劇場アニメよりも尺が長いTVドラマ・TVアニメはより原作を忠実に再現する、精緻に映像化できるはずである
そのため、予算を抜きにしたあくまで制作フォーマットで考えると、
長尺のTVドラマ・TVアニメが映画と比較して下扱いになるのはよくわからない
原作者にとっては変な編集がなされる映画よりもドラマ・TVアニメ化の方が嬉しいということはないんだろうか?
視聴者から見ても2時間の濃密な体験ができる映画と比べると、1クールや2クールで作品世界をゆっくり楽しむ楽しみ方もあり、どちらが上とは一概に言えないはずだ
歌が一番わかり易いのだが、音に込める感情の起伏や細やかさといった表現のレベルと、音程や発声といった技術のレベルは正比例していることが多い。
これはまあ当たり前で、表現を突き詰めるために高度な技法があるわけだし、表現の高みを目指すモチベーションこそが、実力を高める原動力になるのだから。
したがって技法の身につけ方も、まず最初に「あるべき理想」を思い、恋い焦がれ、それを実現するために技術を身に着けていく。
音程の正確さだったら、そのフレーズの理想を思い描き、そこにマッチする音をはめ込んでいくことで正確さを実現するわけだ。
そのときの練習の意識は「自分の出したい音のために、ちゃんと音符がハマらないと気が済まない。だから頑張る」という感じ。
そしてこれは歌に限らず楽器もそうで、一番の好例はエレキギターやベースギターだろう。
音程の精緻さという観点で見ると荒削りではあるんだけど、でも圧倒される音/痺れる音を実現するのに十分ハマった音程なわけで。
しかし、このアプローチが全く当てはまらない楽器も世の中に存在するのだ。
その最たるものがヴァイオリンで、次点は吹奏楽の、特にコンクール偏重な環境で管楽器を学んだ人達かな。
どういうことかというと、
「そんな微妙過ぎる表現で、音程だけがそこまで正確に合うはずないんだけどな…」
と感じる演奏が極端に多いのだ。
ちなみに微妙というのは大味or貧弱だけでなく、指導されるがまま演奏してるのが見え見えな、悪い意味で指導者の劣化コピー的なわざとらしい表現も含む。
これは、「表現よりも先に正確さだ!」という方針で、そもそも表現とは?音楽とは?みたいな話を学習者が理解できないうちに、指導者から一方的に芸を仕込まれた結果である。
具体的には、フレーズの中の音譜を1個ずつ取り上げては「高い」「低い」あるいは「フォルテ!フォルテ!」という具合だ。
こういう、学習者の自発的な音楽へのモチベを引き出さないどころかガン無視するような指導は、習う方からしたら苦痛でしかない。
そして上達するために必須の条件というか適性が、この練習の苦痛に耐えることになってしまう。
この時点で多数の脱落者が出ることは確定である。
脱落しなかったとしても、表現と技法がアンバランスな、「普通の下手」よりも聴くに耐えない演奏をする、雑魚奏者を量産する可能性が高い。
音楽を習うのに、音楽を後回しにするんだから当然の結果だろう。
しかも、あるべき表現というセンスの涵養を後回しにしてしまう結果、何かの曲の演奏を完成させるにも試行錯誤の回数だけが桁違いに。
(逆にどう表現したいかが先に定まっていれば、そのために必要な試行そのものはシンプルなのだ。)
この傾向は曲が難しくなればなるほど加速度的に大きくなるため、最終的には百万回さらう体力・精神力が要求されるようになる。
こういう指導で幸せになれる人は、最初から表現のモチベーションに燃えに燃え、あるいは練習の早い段階でモチベに火が付き、それを最後まで絶やさず続けられた人だけである。
飲み込みが早い/要領がいいのも必要条件ではあるが、それだけだと「自分のやりたいことはコレジャナイ」という思いを秘めたたまプロとして食うしかないという、これまた苦しい人生が待っている。
というわけで、ごく一部のモチベーション超人かつ強靭な体力気力の持ち主しか、楽しい音楽家人生を送れない構造なのだ。
とはいえ、少なくともヴァイオリンについてはもう少し本人も周囲も幸せになるような育成をして欲しいと思う次第である。
幼少に初めたヴァイオリンで自らの雑魚な演奏に苦しみ、大人になって再入門後に長い年月を経て、ようやく憧れだった結構難しい曲(音大入試レベル)を心底楽しく学んでいる筆者の、ささやかな願いだったり。
発達障害の日常は、両腕が根本から無い人に「義手で精緻な絵を描け」って言ってる感じ。
無理じゃないけどすごく難しいし、適正にもよるし、何よりそこまでするか?っていう。
発達はグラデーションだから、実際は片手の人差し指の第一関節だけない人もいれば根本からない人もいる的な感じよ。
「発達障害は生まれつきの脳の欠陥であり、投薬で症状を軽減するが出来るが一生治らない」ってのは、「治らない」ってだけでカバーはできるよ。
ただし、努力や経験値をどれぐらい積み重ねればカバーできるようになるのかはその人の障害の度合いとか、適正の度合いとか、やる内容とか、使ってるツールとか、色々で全然変わるけど。
そもそも典型的な発達障害の症状もった人でも自覚している人自体がまだまだ少ない。
で、職場の問題は元増田も多分認識していると思うし、いろんなところで取り上げられがち。
健常者と思われる人、もしくは発達障害スペクトルが非常に低い人でも仕事を真面目にやってる人なんてあんまいない。
本人は真面目にorしっかり仕事やってるつもりなんだろうけど、他の人、特に上司から見たらいまいちなんてのはざら。
それは個人の意識とか取り組み方次第よ。いくら職場環境を整えて働きかけても出来ない人は出来ない。
どこかで気づいて意識が変わる人もいれば一生そのままの人もいる。
会社が面接やSPIとかで弾くのは、仕事上のアウトプットが基準以下と思われる人や自分の会社にマイナスになる人。
発達障害なんだったら、手帳取得して障害者枠使ったりもできるわけだし。(手帳は開示義務ない)
なんにせよ、発達障害のスペクトル強い人は人生ハードモードだし、会社どころか日本社会全体としてダメダメなとこも多いし、健常者でも意識次第で仕事できないとか普通にある。
どこにも吐き出せないからせめてここにだけ書き残させて。
夢の内容は
「高校時代の友人と数年ぶりに会って現在の自分の生活や高校生活を振り返りながら談笑する」という字面だけ見れば何ら恐ろしい要素は無い他愛のない夢だった。
その友人との関係性を加味しなければの話だが。
元々面識はなかったが、高2の新学期コロナによる数ヶ月にわたる臨時休校の狭間で行われたクラス替えで同じクラスになり自己紹介で私が「趣味は読書で◯◯◯◯◯と◯◯◯◯が好きです」と言ったのがきっかけで仲良くなった。
自己紹介が終わって自由に席移動して気になる人と話していい時間になった時、私は元々友達が少ないためクラス内に友達がいないこと、そして他人に執着しない性格だったこともあり手持ちの本を読んでやり過ごそうとした。
すると、「ねえ、◯◯◯◯◯好きってホント?わたしも好きなんだ〜」とみらいが話しかけてきた。
第一印象は「綺麗だな」だった。
二重まぶたに通った鼻筋、光を湛える黒目がちの瞳、細く白い腕、赤い唇。
どこをとっても絵に書いたような美少女だ。
◯◯◯◯◯は私達の世代が好んで読むような作家ではないので本物の読書家だということは問わずとも明らかだった。
その後時間の許す限り◯◯◯◯◯や他の好きなこと、部活などの話をした。
その日の下校の時にはどちらともなく先生の目を盗んで校内でスマホの電源をつけ、LINEを交換するほど意気投合していた。
その日からは臨時休校で暇を持て余していたこともありほぼ毎日のようにLINEでいろいろな話をした。
初めて話したときからなんとなく感じていたが、みらいは私と思考パターンが似ていた。
そして学力もほぼ差が無かった。
得意な教科の話になったとき時、二人とも同じ教科を挙げた。
その教科は私が1年の間たった1度だけ1位を名も知らぬ誰かに明け渡してしまった教科だった。
まさかと思いながら「もしかして1位取ったことある?」と返信した。
すると、「もしかしてずっと1位だったの◯◯(増田の下の名前)だったの!?私、1回だけ1位取ったことあってその回以外はずっと2位だったの!」と返ってきた。
こんなことってあるのかと思った。
それと同時に彼女のは切磋琢磨しあえる良い関係になる予感がした。
それとともに私の中には負の感情が巣食いはじめた
初めて遠隔ではない担任の授業を受け、二人で談笑しながら教室へ向かっていると、担任から話しかけられた。
「増田に新川(みらいの苗字)(仮名)!お前ら1年の頃から同じクラスだったのか?」
担任にはそれぐらい仲がよく見えたのだろう。
「違いますよ〜!担任なら前のクラスぐらい把握しておくのが筋ってもんじゃないですか〜?」
とみらいが軽口を叩いているのを横目に見ながら私は内心嬉しくて堪らなかった。
こんな美少女と対等な友人関係を築けていることが他人の目から見ても明らかなこと、私はその事実に歓喜した。
その日、授業が終わると担任がロッカーを整理しているみらいの所へ向かうのが見えた。
その数秒後、廊下から二人の笑い声が聴こえてきて、今度は私のもとに担任がやってきた。
「ごめん。新川を増田だと勘違いして声かけちゃった。だってお前ら背丈といい雰囲気といいなんか似すぎなんだよ。」
だった。
信じられなかった。あの美少女を私だと見間違えるなんて。
それなのに見間違えるなんて許せない、彼女の美に対する冒涜だとさえ感じた。
きっと委員会の連絡か何がだったとは思うが、担任のその後の言葉が頭に入ってこないほどの衝撃だった。
担任と会話したあとチャイムがなったので自分の席に戻るともう一度さっきのことについて思索を巡らした。
そこで私は気付いてしまった。
私がおかしいということに。
普通の人間なら心の中で喜ぶべきことを私は赦されないことだと感じて、しかも怒りさえも感じた。
どう考えてもおかしい。
他人に執着しないはずの私が、彼女には彼女に対しては何故かこんなに心を掻き乱されている。
もう手遅れだった。
その頃にはもう彼女への、そして彼女の美に対する感情はもはや信仰の域に達していたことを、その時ようやくわからされた。
休み時間になると彼女の方から私の所へやってくるのが当たり前だった。
その美しさや性格から友達は多いが、その数多くの友達の中で私のことを選んでくれた。
それが私にとっては至上の喜びだった。
クラスメイトが
みらいは
「まぁね〜」と当たり前だとばかりに返答していた。
そんな彼女の自己肯定感の高さがこの上なく好きで、でもそんな彼女が眩しかった。
彼女が他のクラスメイトの「かわいい」と言われる時、私はいつも息苦しかった。
当たり前だ。わかってる。私が彼女より醜い事は私自身が誰よりも知っている。
決して表には出さなかったが称賛を全てほしいままにしている彼女が横にいると気が滅入ることも多々あった。
それでも私は彼女と一緒にいた。
二人でいる時だけは、その美しい瞳に私以外は映らないから。
もちろん全ての行動を共にした。
一日目は某県の某資料館へ2学年全員で向かった。
手が触れたのを契機に、どちらともなくお互いに指を絡めて相手の震えを感じながら暗い館内を歩いた。
私は手汗が出やすい体質なので1度手を解こうとしたが、
「怖いから話さないで」と小声で訴えられたので逆らえるわけもなく結局出口までそのまま向かった。
私がお土産を見繕っていると、みらいが
「ねえ、◯◯こういうの好きでしょ?」といきなり声をかけてきた。
彼女の指差す先には、色とりどりの硝子でできた美しいエジプト香水瓶(中は空)があった。
凄く綺麗……とつぶやくと
「全部一点ものらしいよ!せっかくだからお揃いで買おうよ!」とみらいはもう買う気満々でその手の中には桜色の香水瓶が収まっていた。
私は彼女のそれとデザインの一部がよく似た空色の香水瓶を選び二人でレジへ向かった。
なかなか量が多く、少食気味なみらいは食べきることができるのかと心配になったのでそれとなく隣にいる彼女を見やるともう限界という顔をしていた。
「これとこれ食べれる?」と言ってきたので有り難く拝借した。
それで終わると思いきや、デザートでミニケーキの二種盛りがやってきた。
私はぺろりと平らげたが、彼女はどうしても最後の一つが食べられないようだった。
そして
「ごめん。これ食べれる?」と聞いてきた。
私はうんと言おうとしたが、
私の食器やフォークはつい先程席を巡回しているホテルの方に回収されてしまったので食べる術がない。
手で食べるのははしたないしと逡巡していると
「はい、あ〜ん」
同じテーブルの生徒の視線が彼女の手と私の顔に集まり、恥ずかしさで頬に熱が走るのを感じた。
いつまでもこのままではいられないと思い、覚悟を決めて顔を近づけ、食べた。
修学旅行でそんなことが起こったため、その後の学校生活ではクラスメイトに彼女との仲をからかわれることも増えた。
「なんかみらいちゃんと増田さんって二人だけの世界?っていうか独特な空気感あるよね〜」と言われたりなんかもした。
今まではそう感じたことは無かったがあの修学旅行を経ると確かにと思う自分も居た。
その関係に心地よさを感じる一方、今振り返ればどこか嫌悪感があった。
念のため言っておくと、私は普通の女だ。
小中学生の頃は普通に男子と付き合っていたし、好きになるのはいつも男だった。
でも共学は嫌いだった。共学の女が嫌いだった。
あらぬ噂を立てて私と彼氏を引き離そうとする、そういう汚い女が大嫌いだった。
「女子校は本当に生きやすい。男がいないとそういう争いとかもないし。」と聞いていたのもあり必死に勉強して女子校に入学した。
秘密の花園なんてのは空想だけれど、進学校だったこともあり皆自分が一番大切だから自然と無駄な争いを避けるようになっていたから本当に生きやすかった。
今思い返すとというより当時から薄々感じていたが、みらいはボディータッチが多かった。
1日に少なくとも2回以上はハグしてくるし、堂々と人前で手は繋ぐし、とにかく距離感がおかしい。
最初こそ戸惑っていた私も仲良くなるにつれて気にしなくなってきたものの、時折嫌悪感に近いものを感じることさえあった。
でも、やめてとは言えなかった。
2年の3学期になって3年生0学期なんていう進学校あるあるワードが教師の口から出始める中、彼女との関係が変わった(と増田が勝手に思っている)出来事が起こった。
その前の記述模試から国数英3教科に加えて理社科目が追加された。
2年最後だしここで一つ頑張ってあの教科でみらいに勝ちたいと密かに思っていた。
毎晩負けまいと勉強して迎えた本番。
習っていない範囲もあったが自分で勉強してカバーした分自身はあった。
3月、結果が出た。
私はその教科で全国一桁の順位を取った。
模試の順位は掲示されるので早速見ると、みらいは私のすぐ下の段にいた。
私は勝ったと思う前に彼女の不調が気になった。
トイレに行っていたみらいがこちらに来て順位が張り出された紙を見ると
「やっぱり◯◯はすごいよ、」と一言言って自分の席に戻っていった。
その日は話しかけてもどこか上の空だった。
次の日、彼女は休んだ。
心配で休み時間隠れてスマホを起動させ、LINEを開いてメッセージを送った
すると数分後
こんな時まで謝ってくるのが彼女らしいなとその時は思った。
次の日予告通り彼女は帰ってきたが、いつものボディータッチは無いしなんだかひどく静かだった。
結局2年の終業式の日まで彼女はずっとそんな感じだった。
3年になるとクラスが離れた。
前はあんなに同じクラスがいいと思っていたのに、最近の彼女の煮えきらない態度をあまり好ましく思っていなかったので実際の所は
嬉しさ7割悲しみ3割といったところだった。
しかしその思いはすぐ覆された。
一つがクラスメイトの私に対する反応だった。
2年の時みらいと私ともう一人のクラスメイトの3人でたまに会話することがあった。
3年に進級してそのクラスメイトとはまた同じクラスになったので声をかけると
素っ気無いそぶりですぐ別の友達の所へ向かっていった。
そこで私は気付いてしまった。
結局私は彼女が隣りにいなければ価値のない、何も特別なところなどない人間だと。
みらいとはクラスが2つ離れていたため頻繁には話すことは無かったが、たまに会話するとそれはそれは惨めな気持ちになった。
私にとっての彼女はたった一人の心を許せる友人だった。
けれど彼女にとっては大勢の友達の中の一人でしか無いという事実に串刺しにされる気持ちだった。
私にはポテンシャルがあることを教えてくれた。
それだけに縋って、今までの人生でやったことのないぐらい死ぬ気で勉強した。
その成果は存外早く出て6月の模試では早速学年1位に躍り出た。
この結果には教師陣も驚いたのか露骨におだててくるようになった。
それをあしらいながら只管勉強した。
7月、もう何ヶ月もLINEなんて送ってこなかったのにみらいから急に連絡が来た。
良かったらうちの部室くる?」という内容だった。
3年に入ってからは画塾にも通い始めたと聞いた。
彼女には夏休み中特別に部室の一角を占領する権利を顧問からもらったらしい。
私はその誘いにあっさり乗った。
彼女と実質二人だけで過ごせる時間をみすみす手放す訳がなかった。
夏休み、みらいの部活の日はみらいの部室で、それ以外の学校開放日はひたすら教室と図書館で勉強をする日々が始まった。
部室ではみらいが自分の背丈ほどの大きさのキャンパスにひたすら油性絵の具を塗りたくっていた。
正直油性絵の具の匂いは苦手だったが、みらいと同じ空間にいる方が大切なので我慢した。
他愛のない話をしながら、彼女は絵を、私は過去問をそれぞれ仕上げていった。
そんな夏が終わると、また連絡を取る回数が減った。
それもそのはず、彼女は推薦と一般で美大を受験するため、画塾に通うだけでなく面接の練習なども必要になったからだ。
私はただ勉強していった。
この頃には志望校の偏差値を大幅に上回る成績を取れるようになってきた。
冬がやってきた。
そんなことを思いながら夜食で出されたホールケーキの残りを頬張りながら勉強していると突然LINE電話がかかってきた。
みらいだ。
修学旅行でまわったとこ、また二人で全部回ろう」
みらいは電話越しにそう言った。
私が
と言うと
突然そんな提案をしてきたのには驚いたが、その約束は私を鼓舞した。
かつて無い手応えを感じた。
自己採点をするとこれまで取ったことのないほどの高得点だった。
みらいは家の都合で国公立しか受けられないと言っていたから3月にならないと結果は出ない。
式が終わってもみらいの元へ向かった
「◯◯、待ってた」
そう彼女は言った。
「写真撮りたい」
自分の顔面に自信が無い私はせっかくだから二人で映ろうよと言って彼女のスマホを借りてツーショを撮った。
案外あっさりした別れだった。
そのときはそれでいいと思っていた。
その日、LINEで彼女のスマホで撮った写真が送られてきたのを最後、彼女からLINEが送られてくることは無かった。
彼女の志望校の合格発表日が過ぎても連絡が来なかったので、私はある決意をした。
整形をする決意を。
幼い頃から親に「醜い顔で産んだから整形代は出すよ。ただし、高校を卒業したらね」と言われていた。
今こそその時だと思い、すぐカウンセリングの予約をし、施術プランと日程も決まった。
私の思い一重は施術とダウンタイムを経て左右差のない整った二重になった。
私は私で上京したので新しい暮らしと新しい環境に慣れるので精一杯でみらいに連絡している時間もなかった。
「かわいい」なんて言われるようにもなった。
やっぱり美は正義だなと感じた。
前期は友達と遊んだりテストやレポートと格闘している間に過ぎ去っていった
夏休みも終わりに差し掛かった頃、ふとみらいのことを思い出した。
数時間後、数日後、数週間後。
待てども待てども返信が来ない。
それどころか未読無視をされている。
プロフィール画像などは変更されているからLINEを見ていない訳では無いだろうに。
しかし私は今でもふとした瞬間にかつての彼女を思い出してしまう。
いつだっただろうか。
私とみらいはあの時担任が言ったように本当に瓜二つだと初めて気付いたのは。
卒業式の後、送られてきた彼女と一緒に写った写真をまじまじと見てみると
私と彼女は鼻の高さ、形、口の大きさ、頭蓋の形が本当によく似ていた。
そう、違っていたのは目だけだった。
私が二重に整形したことで、私の目はぱっちりと開くようになり、彼女の瞳の形そのものになっていた。
今の彼女はどんな顔をしているのだろう。きっと美しさが増しているだろう。
今日見た夢は
みらいと数年越しに会って食事なんかしながら
近況や今までのこと、あの時はお互いをどう思っていたかについて話し合う夢だった。
美しいのは相変わらずだなぁなんて彼女を見つめていると、
「◯◯、整形したの?良いじゃん似合ってるよ」なんて言ってきた。
本当に彼女らしいなんて思っているとアラームの音で現実に引き戻された。
起きて夢かぁと思いながら十数ヶ月ぶりに彼女のLINEを開いたがやはり既読はついていない。
午後、用事を済ませて家に帰って来ると既読がつくはずないのになんとなくまたみらいのLINEを開きたくなった。
その衝動のまま、トーク画面を開き、自分の送ったメッセージを目で追う
「みらい!最近どう?元気?」
見慣れたそのメッセージの上に目を向けると、そこにはそのメッセージを送った日付が表示されていた。
それを見て息を呑んだ。
そこに表示されていたのは
「1年前の今日の日付」だった。
こんなに都合のいいタイミングで夢に出てくるほど彼女の幻影をいつまでも追いかけている自分が心底恐ろしい。
という話。
「ペドフィリア差別」も結局は理屈の上では凍結された坪井とかあたりが最も正しい。
反差別は「ケア」などとは最も遠いところにある、論理によって構築された精緻な機械であり、その鉄輪は「サバイバー」の惑いごと容赦なく「踏みしだい」ていくのである。
「ペドフィリア擁護が小児性被害サバイバーに対して無配慮だと思わないのか」と言われてあわてて当該ポスト削除したやつなんかは最もダサい。そういう定見のないバカは反差別の戦列には不要である。
1980 年代、心理学者のリチャード E. ペティとジョン T. カシオッポは、説得がどのように機能するかを説明する「精緻化尤度モデル」を開発した。ここでの「精緻化」とは、その情報をどれだけ注意深く考えるかという意味である。人々に注意深く考える意欲と能力がある場合、「推敲の可能性」は高くなる。これは、人々が関連情報に注意を払い、メッセージの議論の利点に基づいて結論を導き出す可能性が高いことを意味する。
他人を説得するには少なくとも2つの方法がある。最初の方法は「中央」ルートと呼ばれ、聞くメッセージを注意深く熟考することから生まれる。中央ルートが関与している場合、提示された情報を積極的に評価し、それが真実かどうかを見極めようとする。一方で「周辺」ルートが関与している場合、実際の情報やメッセージの内容以外の手がかりにさらに注意を払う。たとえば、誰かのメッセージの実際のメリットを考慮せずに、その人の魅力や教育を受けた場所に基づいてその人の主張を評価する可能性がある。
周辺ルートを通じてメッセージを受け入れる場合、中央ルートを通じてメッセージを受け入れる場合よりも受動的になる傾向がある。
有名な心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーは、人間を「認知的守銭奴」と特徴付けている。彼らは「人間の情報処理能力には限界があるため、できる限り近道をするのです。」と書いている。
動機や議論を処理する能力が低下するにつれて、説得には周辺的な手がかりがより重要になってくる。
議論(中心ルート)の実際の利点を比較検討して信念を更新すると、周辺処理を通じて信念を更新する場合と比較して、更新された信念は持続する傾向があり、反論に対してより堅牢になる。慎重かつ思慮深い検討を通じて何かを信じるようになると、その信念は変化しやすくなる。
つまり、周辺ルートを通じてより簡単に操作される可能性がある。周辺ルートを通じて何かを確信している場合、操作者は周辺ルートをもう一度使用して最初の信念を変えることに成功する。
心理学者のレオン・フェスティンガーは、社会的比較プロセスに関する影響力のある理論の中で、人は自分の意見を他人の意見と比較することによってその意見の「正しさ」を評価すると示唆した。他の人が自分と同じ信念を持っているのを見ると、その信念に対する自信が高まる。
これらの考えを総合すると、人間の心の中には何らかのメカニズムがあることが示唆される。たとえそれが真実であっても、自分の地位を下げるようなことを言わないようにする。そして、たとえそれが嘘であっても、自分の地位を高めるようなことを言うように彼らを駆り立てる。
さらに、自身の評判がどうなるかという考慮が私たちの信念を導き、私たちの社会的地位を維持または強化するための一般的な見解を採用するように導くこともよくある。暗黙のうちに「この信念を保持すること(または保持しないこと)が社会にどのような影響をもたらすだろうか?」と自問する。
説得の周辺ルートに戻ると、多くの人がそれを信じている場合だけでなく、その信念の提唱者が権威ある人物である場合にも、何かを信じるかどうかを決定する。
オックスフォードの心理学者セシリア・ヘイズは、著書『認知ガジェット』の中で次のように書いている。彼らは、同じ年齢と性別の同じくらい身近な人よりも、大人が社会的地位が高いと考えるモデル、たとえば学校の校長を模倣する可能性が高い。
それでも、私たちが高い地位を持つ他人を真似するのは、彼らを模倣することで自分の地位が向上することを期待しているからだけではない。権威ある人ほど有能であると信じがちであるが、プロミネンスはスキルのヒューリスティックである。
研究者のアンヘル・V・ヒメネス氏とアレックス・メソウディ氏は、威信に基づく社会学習に関する最近の論文で、能力を直接評価することは「騒がしくコストがかかる可能性がある」と書いている。代わりに、社会的学習者は、モデルの外観、性格、物質的な所有物などから推測することによって、ショートカットを使用できる。
ここで、次のような疑問が生じる。周辺的説得による操作の影響を最も受けやすいのは誰か? 教育を受けていない人々のほうが操作されやすいと信じるのは直感的に思えるかもしれないが、研究によると、これは真実ではない可能性がある。
心理学教授のキース・スタノビッチは、「マイサイド・バイアス」に関する自身の研究について論じ、次のように書いている。「あなたはそれに属しているのは、それらはあなたの気質と生来の心理的傾向に適合しているからです。」
一流大学の学生や卒業生は、自分側の偏見に陥りやすい。彼らは「自分自身の以前の信念、意見、態度に偏った方法で証拠を評価し、証拠を生成し、仮説を検証する」可能性が高くなる。
アメリカのジャーナリストであり、『第三帝国の興亡』の著者であるウィリアム・シャイラーは、ナチスドイツの従軍記者としての自身の経験をこう語った。シャイラーは次のように書いている。「ドイツの自宅やオフィスで、あるいは時にはレストラン、ビアホール、カフェで見知らぬ人と何気ない会話をしているときに、一見教養があり知性のある人たちの突飛な主張に出会うことがあった。彼らがラジオで聞いたり新聞で読んだりしたナンセンスをオウム返ししているのは明らかでした。時には同じことを言いたくなることもあったが、まるで全能者を冒涜しているかのような不信感を抱かれた。」
同様に、ソ連崩壊に関する研究では、大学教育を受けた人々は高卒者よりも共産党を支持する可能性が2〜3倍高いことが研究者らによって判明した。ホワイトカラーの専門労働者も同様に、肉体労働者に比べて共産主義イデオロギーを支持していた。
今日の米国内のパターンはそのような調査結果と一致している。政治アナリストのデビッド・ショールは、「高学歴の人々は、労働者階級の人々よりもイデオロギー的に一貫した極端な見解を持つ傾向がある」と述べている。これは、問題に関する世論調査やイデオロギー的な自己認識にも見られる。大卒の有権者は穏健派であると自認する可能性がはるかに低い。
この理由の 1 つは、時間や場所に関係なく、社会の富裕層の方が地位を維持したり、地位をさらに獲得したりするために正しいことを言う可能性が高いためであると考えられる。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンが主導した最近の一連の研究では、社会階級が社会的地位への欲求と積極的に関連していることが判明した。より多くの教育を受け、お金を持っている人は、「他人の意思決定に影響を与えることを楽しんでいます」や「名声や社会的地位を得られたら嬉しいです」などの発言に同意する可能性が高かった。
ケイトー研究所がYouGovと協力して行った調査では、全米を代表する2,000人のアメリカ人サンプルを対象に自己検閲についての質問を行った。
その結果、高校教育以下の学歴を持つ人の25%が、政治的見解のせいで解雇されたり、雇用の見通しが損なわれることを恐れているのに対し、大学院卒の学歴を持つ人の割合は44%であることが判明した。
政治学者のジェームズ・L・ギブソンとジョセフ・L・サザーランドによる「口を閉ざす:米国における自己検閲のスパイラル化」と題された最近の論文の結果は、Cato/YouGovの調査結果と一致している。彼らは、自己検閲が急増していることに気づいた。マッカーシズムの絶頂期だった1950年代には、アメリカ人の13.4パーセントが「以前よりも自分の意見を自由に言えなくなったと感じている」と報告した。2019年までに、アメリカ人の40%が自分の意見を気軽に言えないと回答。ギブソンとサザーランドは、「自分の意見を言うことを心配している民主党員の割合は、自己検閲を行う共和党員の割合とほぼ同じで、それぞれ39%と40%である」と報告している。
この増加は特に教育を受けた層の間で顕著である。研究者らは次のように報告している。「自己検閲に従事する人々が限られた政治的資源を持った人々ではないことも注目に値し、おそらく予想外である…自己検閲は最高レベルの教育を受けた人々の間で最も一般的である…この発見は、以下のことを示唆している。社会学習のプロセスであり、教育を受けた人ほど、自分の意見の表現を妨げる社会規範をよりよく認識している。」
興味深いことに、教育が自分の権力意識とマイナスに関連していることを示す示唆的な証拠がある。つまり、教育を受けていればいるほど、「自分が意見を表明しても、自分の意見はほとんど揺るがない」「自分の考えや意見は無視されることが多い」といった意見に同意する可能性が高くなる。
ミュンスター大学のリチャード・ラウ氏が率いる「他者の最良または最悪の見方:一般化された他者認識の尺度」というタイトルの論文を考えてみる。
研究者らは参加者に、ソーシャルメディアのプロフィールや動画に登場する人物を評価するよう依頼した。参加者は、「この人が好き」「この人は冷淡だ」などの発言にどの程度同意するかを尋ねた。その後、参加者は自分自身についてのさまざまな質問に答えた。
高等教育は一貫して、人々に対するあまり肯定的な見方に関係していなかった。この論文は、「人々の感情、行動、社会的関係を理解するには、彼らが他者に対してどのような一般的な見方を持っているかを知ることが非常に重要です…人々がより良い教育を受ければ受けるほど、他者に対する認識は肯定的ではなくなります。」と結論付けている。
したがって、裕福な人々はステータスを最も気にし、自分にはほとんど力がないと信じており、仕事や評判を失うことを恐れており、他人に対してあまり好意的な見方をしていない。
つまり、意見は、その真理値に関係なく、ステータスを与えることができる。そして、自分の地位を維持したり高めたりするために特定の意見を表明する可能性が最も高い人は、すでに社会のはしごの上位にいる人でもある。
①翻訳文
初めに彼はさっそく、二つの寺院を破壊させて四町四方の地所を得たが、日本の諸王候と貴人がことごとくこの工事に奉仕するために来たので、通常二万五千名が従事した。
彼らは皆、カルサン(丈の短いズボン)と皮製の短いカバイア(上衣)を身に着け、彼は筆頭の現場監督として鍬を携え、大半の時間は手に竹を持って工事を指図した。
既述の通り、いっさいの工事はかつて日本で見たこともない石造りとしたが、そのための石がなかったので、石の偶像を多数破壊するように命じ、それらの偶像は首に縄をかけられ、引きずって工事現場に運び込まれた。
都の人々は偶像を大いに崇敬していたので、このことは彼らに非常な驚きと恐怖をもたらした。
然して領主の一人と兵とともに毎日、各僧院より或る数量の石を彼のもとに運び、諸人は何事であれ、ひたすら彼を喜ばせ、少しもその意志に反しないようにしたので、石造りの祭壇を引き出し、仏、すなわち偶像を地に倒して破壊し、これを荷車で運んだ。
また、他の者は堀を造り、土を車で運んだり、山中の木を切ったりしたが、これは正しくエルサレムの殿堂の建築か、或いはカルタゴにおけるディドの工事の絵図を見るかのようであった。
(城の)外に水を満たした非常に大きな堀を造り、ここに多数の家鴨や種々の鳥を入れ、幾つかはね橋を架けた。
壁の高さは六、七ブラサあり、幅は場所により建築上の必要に応じて六、七、八ブラサであった。
そこにたいそう大きな門を三つと石造りの防塁を設け、その内側に別の狭い堀と日本で能う限りの趣に富んだ遊歩場を造った。
彼は工事が続く間、市の内外の僧院が鐘を鳴らすことを禁じ、城中の鐘のみは人々を参集し、帰らせるために鳴らすよう命じた。
この鐘が鳴ると貴人や大身は皆一様に、各自の手勢を率い、鍬や(運搬用の)担架を手に工事に入る。
信長は常に座るための虎の皮を腰に吊るし、はなはだ粗末な衣服をまとっており、諸人は彼に倣って同様の皮を携えていたが、何ぴとも宮廷の装束で彼の前に現れる者はいなかった。
作業が続いている間、(工事を)見ようと欲する者は男女とも、尻切(しりきれ)と称する藁の草履を履き、頭に帽子を被って彼の前を通った。
或る時、工事に従事していた一人の兵士が一婦人の顔を見ようとしてその被り物を少し上げるのを、偶然、国主が目撃し、彼は即座に自らの手で彼の首を斬った。
この工事に関してもっとも驚嘆すべきは、彼がこれを信じ難いほどの短期間で行なったことである。
すなわち、少なくとも四、五年を要すると思われるものを七十日間で完了したのである。
以上は石材工事に関することである。https://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12046841406.html
世の中には自殺、つまり自分の意志によって自分を殺すこと、なんて有り得なくて、そう思われているのは「社会による殺人」つまり他殺なんじゃないだろうか。
自殺するような状態に追い込まれている人なんて、精神的にしろ肉体的にしろ健康的な環境に居るわけないんだから、少なくとも意志って意味では通常の状態ではないし、尊重っていうか、そのままにしておいていいもんじゃないと思う。
尊重されるべき意志って、完全にそれが独立していて、十分な情報とか栄養素が与えられている環境にあって初めて成立を認めていいものだろ。尊重なんて立派そうに言うけど、要するに遠くにおいて見守って手出ししないってことで、そうされても大丈夫な環境に居るやつにしかやっちゃいけないことじゃん。
そんな恵まれた環境に置かれていない、傷だらけでそこらにボロくずみたいに転がって朽ちかけている人の意志を、『個人の自由だから』って言って、尊重って名目で元気な人の精神と同列に置いてほっぽっておくのは、それはもはや殺人だろ、文字通りただの見殺しじゃん。だからその人は自分の意思で死んだんじゃなくて、社会に殺されてる。
自己責任論は「厳しい、しかし受け入れなければいけない現実」かのように語られるが、現実に起きていることを精緻に、細かく追って見れば見るほど、自己責任論は欺瞞で、単に現実の複雑さを考えるのが面倒で力の足りていない存在が、単純化された(そして誤った)図式で納得しているだけということが分かる。モデルをモデルとして理解して使いこなす分には有用だが、それを真理だと思うことは害悪しかもたらさない。
悲しいのは、それは自殺じゃなくて他殺なのに、自殺だと勘違いしてあたかも自分の意志で死んだと勘違いしたまま死んでいった人たちが居ることだ。
彼らは被害者なのに、時折「愚かな選択をした加害者」のようにピックアップされる。それは彼らが選択肢の余地がなかった存在であるにも関わらず、あたかもそれを主体的に選択した人のように見做されているからだ。
彼らがどこまで「もう耐えかねたので自分の意志で世界から去ることを決めた」「肉体は支配されても精神は支配されない」と訴えていたとしても、彼らの意志を尊重という名のもとに放ってほくことを良しとはしたくない。
もしかすると彼らは「助けてほしいとなど言っていない」と言うかもしれない。助けることで彼らの精神が傷つくかもしれない。でも助けたい。心肺蘇生のためには、肋骨を折れてしまうことを恐れてはいけない。
加害者が居て被害者がいる、という旧来の責任所在のわかりやすい殺人事件の関係性が変化して、加害者の責任が分散され希薄化され社会にまぶされ均された、「なめらかな殺人」が横行するようになっているだけなんじゃないか。技術者や思想家が必死こいて社会に実装しようとしている社会の形が、殺人の形式でこれ以上ないというほど完璧に実現されている。そんなの悲しすぎる。
一方で自殺が存在しないというのは、つまり、自分の意志でコントロールして回避するなんてことができないということだ。それは突然降りかかる通り魔のようなものなのだろう。
自殺しようと悩んでいても結局死を選ばなかった人たちというのは、偶然その人の経験が、自分を死に追いやるような本当に破滅的な悲劇の閾値を超えなかっただけで、「選ばなかった自分」がいる、というのは単なる生存バイアスに過ぎないんじゃないか。
車に轢かれ掛けたけど死ななかったのは、その人の意思が強かったからではない。ただ物理運動の連鎖が幸運に働いたからにすぎない。するとやはり我々は社会として殺されることを自分ごととして怯え、備え、防がなくてはならない。
我々は安全運転に努めるのと同じように、殺されないように世界に気を配り、殺されかけている人たちを助けなくてはならない。車を運転する人が事故りたいと思わないのと同じように、やはり生きている人は殺されたいとは思わないのだ。
人と家畜のように非対称性を作って殺されない方の立場にいくことを目指すのではなく、人同士が殺し合わない世界を、共犯者にならない世界を、一体人類史で何万回目の試みになるかわからないが、それでも目指す必要があるのだ。そしてそれは、自殺は自殺ではないというように捉え直すところから始められるのではないかと思っている。
自殺が殺人であるとすれば、世界には老衰にしろ事故死にしろ病死にしろ殺人にしろ、自分の意に反した死しかない、ということになる。自殺はある意味、現代の倫理における特異点だ。それをどのように考え、善悪を判断するか社会は悩み続けている。
(もし自殺の意志が尊重されるべきだとして、全ての準備を整えて「自分の意志」で飛び降りて、地面にあと10センチまで迫った時にその人の胸中に切実に去来する「死にたくない! 生きたい!」という願いを、一体誰が尊重してくれるのか? という問いは長年個人的な関心だった。この問いがあるため、俺は「自殺は死の自己決定権の問題である」という議論に全く乗れなかった)
しかし自殺は存在せず他殺の特殊な形態の一つであると考えれば、特異点の発生を回避することができ、他の死の征圧の過程と同じような手続きでそれを回避していくことができるようになるのではないか、そんな期待もある。
人は自分がいつか死ぬと知っている、ほぼ唯一の動物だという。何もせずとも人は死ぬ。しかもこの世界の物理的な規定に殺される。それだけは宿命で、今のところ回避の手立てはない。しかし、同胞を殺したくはない。
動物を殺し植物を食らい、資源を食い荒らしてきたこの世界で、それでも同胞を殺すことだけナイーブに人は避けてきた。そして人の倫理の歴史は、同胞の範囲を家、村、町、国、人種、人類全体、さらにその先へと、広げていく過程であった。
今、殺人の概念を拡張し自殺を包含することで、新たな倫理とそれに基づく制度を作れるのではないか。何も思いついていないけれど、そう思っている。
よう、俺だ。
最近暑すぎて朝と夜に水やりするくらいしか出来ることがなくて暇だ。
はやく秋になってほしい。
暇だから植物を育てる趣味はいいぞ、ということを書きに来た。多分冬にも来る。
例えばモンステラだ。観葉植物としてはかなりありふれた部類だけど、ありふれている品種ってのはやっぱ強健で育てやすい。
モンステラ・ボルシギアナのデカく育ったやつなんか豪快で葉っぱがパリっとしてて緑が深く鮮やかなんだ。
ドリルみてーな奴がニョロニョロ伸びてきたと思ったらそいつがパラっ…とほどけて一枚の葉っぱになる。
数日前までは何もなかったのに、水をやってるだけでどんな工芸品よりも精緻な構造物が勝手に出来る。
その不思議さに毎回背骨を撃ち抜かれるような衝撃があり、新しい葉っぱを前にするとそのメカニズムの途方もなさにボーっとしてしまう。
でたばっかりの葉っぱは繊細で、生命力がパンパンに詰まった赤子の頬っぺたみたいなハリで、ちょっと突っついたら破裂してしまいそう。
植物が勢いよく成長してる時ってホースから勢いよく噴出する水のスーパースロー映像みたいな感じなんだよ。
何かが成長してるっていうよりも、後ろからすごい力で何かが押し出されて勢いよく噴射している液体の様子をスローで見てるような感じ。
推しの子のアニメを見た。その勢いで漫画も最新話まで読み切った。
本当に素晴らしい作品だし、こんなに魅力的かつ精緻にストーリーテリングできる赤坂アカ先生は紛れもなく天才だと思ったよ。
だけど同時に感じたのは、この作品は万人受けしないだろうってこと。
なぜかと言えば、人間の仄暗い側面(あの子いい身体してるよな、グラビア行けば? みたいな発言など。その他多数)をしっかり描いてるし、社会問題になった恋愛バラエティ問題を扱っているし、実際この作品自体がそれを描いたことで炎上したりもした。こうした「実際に起こり得る現代のエグさ」をしっかり描いたアニメ作品はこれまでそう多くはなかったと思う。
ところが、実際はものすごい勢いで売れてる。タイアップ企画もそこら中であるし、主題歌は未だにYouTubeのミュージックビデオチャート1位。
ここまで売れるには、単に面白いだけじゃなくて何かしらの共感があって然るべきだと思う。しかも当人の根っこに根ざしたところの共感。
自分なりに考えてみて、自分が共感したポイントは「登場人物が自身の愛着障害と折り合いつけながら前に進んでいく様」なんだなと思い至った。
自分も(もっとひどい家庭はいくらでもあるけど)まあまあひどい家庭環境で、そういう観点から否応なしに登場人物たちに共感してしまうんだよね。
そしてこの作品の爆発的なヒットを見て、自分と同じような人が自分が思ったより遥かに多く存在するんだろうなと察してしまった。底知れない深みを覗く底知れない作品だなと思わされた。
個人的にはこういったある種社会的なアニメ作品が増えていくのは良いことだと思う。見ないフリをするくらいなら、とことん覗き込んでどこまでも落ち込んだ方がいい。共感して初めて理解できることはたくさんある。
https://anond.hatelabo.jp/20230319133934 の続き
そもそも前述のオーディションの告知すらDTM magazine以外で見たことがなく(実際はもう少し色んなところで告知していたのだろうけれど観測範囲ではDTM magazineだけだった)、ネット上で注目されるのはロイツマ・ガールからのニコニコ動画に投稿される初音ミクのIevan Polkkaを待つ必要がある。
実は初音ミクのIevan Polkka以前に初音ミク自体は注目されていたのだが、それは深夜アニメブームの文脈で藤田咲ファングッズという需要であり決して初音ミクの可愛さやら革新性がDTMの文脈で評価されたっものではなかった。
実際に当時のKAITOやMEIKOの立ち絵が更新されたのは初音ミクブーム以降であって初音ミク登場時点でもまだ扱いは非常に小さい。
この時期に触れて置かなければならないのはニコニコ動画の誕生だろう。実際のところ2000年代半ばの項で触れなければならないのだけれど、現在のニコニコ動画として成立するのは2000年代後半からなのでココにする。
御存知の通り当初のニコニコ動画は違法動画アップロードサイトであり、何なら当時話題であったYoutubeから動画を引っ張ってきて字幕を流すという方式であったため、Youtube側に違法動画が溢れ、負荷も高まりすぎたためBANされるという全くもって褒められない頭のおかしい犯罪サイトだった。ドワンゴもそれを自覚していて運営がドワンゴだって黙っていた。
VIPPERのニコニコ動画移住が促進されるのは前述したパートスレの問題と2ちゃんねるまとめサイト問題による嫌儲勢の興隆によってニュー速VIPのスレが執拗に荒らされるという事態が起き、YoutubeBANからMAD動画ブームが萌芽し始めて面白いコンテンツがニコニコ動画へ増えてきたからであった。
その初期では違法動画アップロードのノリで無編集の動画がアップされていたが次第に編集の手が加わるようになりMAD動画へと変化していった。代表格はアイドルマスターの「tUNAK M@ster (THE iDOLM@STER アイドルマスター インド版)」や「るろうに剣心英語版(フタエノキワミ、アッー!)」など。
ほぼ同時期にはMikuMikuDanceが登場、次第に増えていくボカロ曲(カバー曲)へMikuMikuDanceによるダンス動画を付けるなどの動きが発生。それらがボカロ曲へ絵師によるカバーの依頼、次第にモーショングラフィックス化が促進され今日のようなボカロMVが生まれるようになった。
その当時を振り返れば、Flash動画黄金時代のBUMP OF CHICKENの天体観測やKのような動画を作りたいという想いが強くあったことを今でも懐かしく思う。あなた達師匠がボクたち世代にそうさせたんだ。
livedoorねとらじ勢はニコニコ生放送登場とともに移住する。
livedoorねとらじ時代からカラオケ配信などの動きがあったもののニコニコ生放送登場直前くらいから版権曲へ対して勝手に字幕をつけて(当時は違法に)アップロードするニコカラという動きが発生し、この動画はニコニコ動画から(当時は違法に)ダウンロード、携帯動画変換君(FFmpeg)によってPSP向け動画へ変換し、実際のカラオケ店で歌うという学生文化が生まれた。
当時のカラオケにはアニソンはもとよりボカロ曲なんて配信されていなかったので、PSPのコンポジット端子AVケーブルでカラオケ店のディスプレイモニタとAVアンプへ出力して歌ったのだ(後にJOYSOUNDがこの学生文化に気づいてアニソンやボカロ曲を積極的に配信、DAMがそれに追従する)。これらの学生文化からニコニコ生放送でもカラオケ配信をするようになり、そこから歌ってみた文化が興隆する。
歌ってみたにニコニコ生放送の影響は計り知れないが負の側面もあり、livedoorねとらじでもあったような過激化が一部で促進され、配信しちゃいけない女の子の柔らかい2つの丘を見せちゃったりしてBANされるのも跡を絶たなかった。
結局、人気取りのために手っ取り早く女の子という要素を売りに全面へ出すと女の子要素を強く訴えることでしか評価を貰えないため次第に過激化していくのだ。livedoorねとらじ時代(約20年前)から何にも反省してないヤツは結構居たし、今のYoutube LiveやTikTokでも居るのでそういうのやめておきなと言いたい。10年前と20年前の失敗を繰り返すな。エロであれ悪ノリであれ何であれ犯罪を伴う過激化はダメだ。合法的に過激化しろ。
歌ってみたでキーアイテムであったPSP、実はMikuMikuDanceとも関係があり、MikuMikuDanceでのボカロ系ダンス動画をダウンロードし、同様に携帯動画変換君によってPSP向け動画へ変換し、ダンスをコピーして踊るということへ活用された。小型であり物理ボタンで再生停止逆再生スキップなどが可能であったためダンスの練習に丁度良かった。そうつまりこれの流れが踊ってみた文化の萌芽であり、PSPは踊ってみたでもキーアイテムであったのだ。
当時のPSP、実は学生に対して物凄く影響を持ったガジェットで、当時の学生文化に疎い世代には信じられないかも知れないがPSP本体を所有しているのにPSPゲームソフトを所有していない女子学生が居たくらい学生の間では物凄く評価が高かったのだ。その影響度合いは当時のiPod以上と言って過言じゃなく往年のAppleファンには信じて貰えないだろう。
このあたりに来ると当時学生であった自分からしてもオタクへの風当たりは非常に改善されていた。
未だに自分の姉などはオタクへ対して少々嫌悪感があるようだけれど、学生時代から部屋に引きこもって続けていたことが仕事になっている現状を見て「アンタあのままじゃ犯罪者か何かになると思ってたけど今はそれが仕事だもんねぇ世の中わからないわ」などと諦めた感じでたまに言っている。
そんなの当たり前の話なのだ。ボクは師匠たちに憧れて今のような大人になった。師匠たちがどんなに迫害されても面白いモノを作り続けてくれたからこそボクたちは師匠のようになりたいと思った。モノを作る人が何かを変化させ、何も生まれない世界は何も変わらないんだ。ボクは師匠たちの手によって変化させられモノ作りをするようになった。
確かにボクたちの世代でオタク迫害はほとんど無くなった無くした、でも迫害されてきた師匠たちがモノ作りを辞めなかったからこそ今のボクたちはあるんだ。
今でも覚えてるよ!粗いのに精緻なドット絵、面白いテキストサイト、発音制限の中で奏でられるFMサウンド、低処理性能で実現する疑似3D、ブラウザゲーム、あめぞうスレッディングシステム、夢小説、ツクール、吉里吉里、HSP、アナタ達が作ってくれたモノなんていくらでも挙げられる!
憧れさせてくれた師匠たちへありがとうございます!と深々と頭を下げたい。
そしてボクたち世代を見て憧れてモノ作りをしたいという新しい世代の子が現れているのなら作り手としてこれほど嬉しいことは無い。
P.S. あまりにも書きすぎて3/4削った。つまりこのエントリは1/4まで圧縮してるので何かのきっかけがあれば補足するかも知れない。