はてなキーワード: 結論とは
諸々あって、絶対に二ヶ月後には今の住居を退去しなきゃいけない事態になり、急遽新居を探すことになった。(※何か悪いことをした訳ではない)
ネットで気になる物件があったので、そこを扱ってる不動産屋と連絡を取り、次の日には営業所に行くことになった。
不動産屋の担当の女性(若い)とは相性が悪かったと思う。話好きなようで、こちらの希望もろくに聞かず、ひたすら話をし続けた。
この時期でしかも二ヶ月後入居となるとこんな変な物件しか残ってないんですよ!ほら、これとかひどくないですか〜?(笑)
と、こちらが如何に無知で、どれだけ非常識な条件を出しているのかを遠回しに延々と話す。
いやそんな状況でも少しでもいい部屋見つけてくれるのがあなたの仕事なんじゃないの?その条件でもネットではいくつか物件は載っていたし、とりあえず店舗に来い話はそれからだと言ったのはそっちでしょう。急いで見つけないといけないのは十分承知してるし無駄な話してる時間が惜しいんだけど…。
もうこういうのしか残ってないですね〜って苦笑されながら数件紹介された。早いとこ帰って違う不動産屋に行こうかと思っていたら、突然安くて条件の良い物件を紹介された。
えっなにここめっちゃいいじゃん!不本意ながらテンションが上がってしまった。
まだ空いてるか聞いてみますね、と管理会社かどこかに電話し始めた。そして「他にも狙ってる人いるから急がないと危ないそうです!内見急ぎましょう!」と言われるがままその物件に向かった。
内見して更にテンション上がってしまった。けっこう良い物件じゃん。
しかし、今日は絶対契約しない。良い物件だったとしても、他の物件と比較して、一晩経って冷静になってから結論を出そう。心にそう決めていた。
所有している家電がちゃんと入るか、まずあらゆる場所の寸法を測らねば…と思っていた矢先、「あと5分後に、次の内見者さんが来るそうです!」と、追い出されてしまう。
え、これから細部をゆっくり見ようとしてたんだけど…そしてあなたがずっと話しかけてくるから全然集中して見れなかったんだけど…
「かなり人気で狙われているようなので、決めるならすぐ営業所に戻って申し込みをしないと…!」と急かされる。
もはや冷静な判断が出来なくなっていた。ここを逃したらもう良い物件に巡り合えないかもしれない。ただでさえ引っ越しまで時間がない。あのとき申し込んでおけば…!と後悔するのは嫌だ。
自宅に帰る途中、ようやく冷静になってきた。本当に他の物件を見ずに、一件目で決めてしまって良かったのか。いや確かに良い物件ではあったのだが。
全てあの女性のシナリオだったのでは?「今日こいつにこの物件契約させるわ〜笑」って思っていて、結果その通りになってしまったのでは?
そもそも、本当に人気な物件なら、空きが確定した時点で申し込み殺到するんじゃないの?内見できるってことは、それなりに時間もあったけど入居者が決まらなかったってことなのでは?自分のすぐ後に内見する人がいるって本当だったの?
どこまでが嘘でどこからが本当かを考え始めたらモヤモヤが止まらなくなってしまった。
いろんな物件を見てメリットデメリットを比較した結果、やっぱりこの物件に決めたということであれば、すんなり納得できたと思う。(担当者と相性が悪くて言動にいちいちイライラはしたけど)
人材紹介業に携わったことがあって、転職という人生の大事な部分に関わることの責任の重さを知っている。そして、人が安心して住める家を紹介する不動産屋もみんなきっと同じようなマインドでやっているはず、と勝手に期待していた。
白衣を着た顔の良い2人組が熱した鉄球を色々なものに落とす動画がYouTubeに流れてきたけど、ただギャーギャー騒いでるだけで、どんな仮説があったのかもどんな結論が出たのかも分からん。
こんなのを「実験」なんて呼ばないでほしい。
社会派アニメは、単なる娯楽を超えて社会的な問題に光を当てる手段として重要な役割を果たす。このジャンルは、現実世界の複雑な問題を視覚的で理解しやすい形で提示し、視聴者に深い洞察を提供する。アニメは若者を中心に幅広い視聴者に届き、社会意識の向上に寄与する可能性を秘めている。
「ネオ・エコシティ」は、近未来のエコロジカルな都市を描いたアニメである。この作品は、環境問題に対する新しい視点を提供し、持続可能な都市開発の重要性を強調する。登場人物たちは、エコシティを守るために様々なチャレンジに直面し、視聴者に環境意識を促す。
「ボーダーライン」は、異なる文化背景を持つキャラクターが共生する街を舞台にしたアニメだ。多文化共生と人種的なテーマを探求し、互いの違いを認め合いながら共に生きる方法を模索する。この物語は、現代社会の多様性と融合について考えさせる。
「サイバーリベリオン」は、デジタル化が進む社会における個人の自由とセキュリティの問題に焦点を当てる。テクノロジーの進化とそれに伴う倫理的な問題を掘り下げ、視聴者にデジタル社会のリスクと可能性について考えさせる。
社会派アニメは、しばしば政治的なメッセージを含む。これらの作品は、政治的な問題を表現することで、視聴者に新たな視点を提供し、議論を促す。視聴者の反応は多様であり、アニメが社会に与える影響は大きい。
社会派アニメを通じて、視聴者は社会の多様性と複雑性を学ぶことができる。これらの作品は、エンターテインメントの枠を超え、社会意識の向上と教育に貢献する。アニメは、これからも様々な社会問題に光を当て、重要な役割を果たし続けるだろう。
anond:20231208134630に基づいて書いてもらったChatGPTちゃんの作品です。
発達障害(診断済み)、女です
うちは兄弟のほとんどがおそらく発達もちで、父がたぶんADHD。母はキレやすいが頭のいいお嬢さまだ。
自分が発達の診断を受けたのは大学進学がきっかけで、大学に馴染めず精神をいわしたことがきっかけだ。
今までもっとしんどい思いをしてきたのに、なぜここにきて急に?と思い、いろいろ病院を巡った結果発達障害と鬱の診断がおりた。
結論から言えば私が精神をいわしたのは父母の支配がなくなったからであった。
うちの家は昔ながらのゲンコツ教育で、物心ついたときから箸の上げ下ろしさえ父母の顔色を伺う家庭だったのだ。
発達障害というのはある種の個性であるなら、個性の隙間すらないほど叩きのめす教育を施せばよいのである。
私は自分には支配してくれる人が必要なのだと思い、超モラハラ気質の人間とばかり好んでつるむようになった。彼らもまた、孤立しがちなタイプであったため、私のようにモラハラされたい人間は好都合だったようだ。
かつての友人らからは心配される交友関係ではあったが、精神の回復はすさまじく、鬱も障害の特性もすっかりなりを潜めたのである。
発達障害者のみなさん
モラハラと付き合いましょう!
エビデンスベースで検討、検証しながら、結論を絞り込んで、最後迷ったら、お気持ち(好き嫌い)で決めるもんじゃないかね。
嫌いなことは結局人間やらない/成果でないもん。
【追記】
本当にありがとう!!
何が決め手って
第六話
怪獣、リオにあらわる
すっきりした
nejipicoさん、マジ感謝です
【追記ここまで】
今から40年前に学校の図書室で読んだ怪獣の本がすごい怖かったんだけど
調べてみてもピンとくる書籍がないんだよね
とにかく絶望的な話だったんだ
水爆でも倒せないで人々がただ殺されていく
ウルトラマンとか超越兵器とか存在しない、滅ぼされるだけの世界
あれがホラーオカルト系を好きになる原体験だった気がするんだけど
どんな本だったのかはわからない
存在しても今読んだら大したことないのだろうから読まない方がいいかと結論付けて今に至るけれど
そんな記憶
1年ぐらい前だろうか、この記事が色々と物議を醸してた
これが丸ごと全部正解だとは思わないが、自分の正直な感想を述べてみたいと思う。結論から言うと
「コミケで壁サー以外が必ず厳しいわけではないが、雑な計算式から考えると苦戦を強いられるだろう」
ということだ。
まず、自分のことについて触れておきたい。
45歳男、参加ジャンルは同人音楽(オリジナルボカロ)、主にM3とコミケに参加してる。歴は10年ぐらい。
M3春2019 | 2019年4月 |
C96 | 2019年8月 |
M3秋2019 | 2019年10月 |
M3秋2020 | 2020年10月 |
M3春2021 | 2021年4月 |
M3秋2021 | 2021年10月 |
M3春2022 | 2022年4月 |
M3秋2022 | 2022年10月 |
M3春2023 | 2023年4月 |
C102 | 2023年8月 |
M3秋2023 | 2023年10月 |
こんな感じ。M3では3曲500円の新譜を出して、20枚前後売れるぐらい。
コミケ合わせの新譜は最近作っていなかったこともあってか、大体10枚ちょっとぐらい。
C96に関しては、それがなぜか18枚売れた。これは予想外だった。新設されたばかりの南館だったからか、とりあえず見てみようかと言う雰囲気の参加者が結構流れてきてたイメージ。
このときは久しぶりに参加したコミケだと言うのもあって、閉会までいたが、閉会ギリギリまで試聴してみようという人がちらほら来てた。
大手サークルからしたら鼻で笑ってしまうような数字かもしれないが、自分としてはコミケというお祭りの「熱量」のようなものを再実感したイベントだったので印象的だったのを覚えている。
M3春2020は日程が変更になったこともあり参加を見送り、それ以降はコロナ禍になってしまったこともあり、制作枚数を絞って早めに撤収していた。2022年末までの各回の売れ行き枚数を書いておくと、こんな感じ。
M3春2019 | 2019年4月 | 23枚 |
C96 | 2019年8月 | 18枚 |
M3秋2019 | 2019年10月 | 22枚 |
M3秋2020 | 2020年10月 | 14枚 |
M3春2021 | 2021年4月 | 13枚 |
M3秋2021 | 2021年10月 | 14枚 |
M3春2022 | 2022年4月 | 13枚 |
M3秋2022 | 2022年10月 | 12枚 |
数は新譜・旧譜合わせた総数。
2023年に入り、海外ではコロナは収束したような雰囲気になり、日本でもGW明けにはコロナは5類に移行するなど報じられ、同人界においてもコミケが入場チケットつき・2日間開催という異例の形とはいえ復活し、盛り上がりを見せ始めた。
自分もそれに乗って久しぶりにコミケに参加してみようと思い、久しぶりにC102にも申し込んでみた。
その結果の枚数が、このような感じだった。
M3春2023 | 2023年4月 | 20枚 |
C102 | 2023年8月 | 6枚← |
M3秋2023 | 2023年10月 | 21枚 |
C102のところに注目してほしい。誤記ではない。新譜4枚、旧譜2枚で全部で6枚しか売れなかった。自分としては爆死も爆死である。
久しぶりのコミケに参加できて嬉しかった・楽しかったというのもあるが、こみあげてくる悔しさと、何より「なぜ??」の気持ちが大きかった。
前後のM3の売れ行きを見ていると、別に自分のサークルが見向きされなくなったというわけでもないようだ。
(余談だが、コミケのショックからM3秋はどうなるのかと若干緊張した。幸い売れ行きはいつも通りで安心したが)
無論お金のために同人イベントに参加しているわけではない。が、何故C102ではそんなに枚数が落ち込んだのか。
コミケは久しぶりの参加のボカロサークルには手厳しい?そうとは思えない。
当日の設営があまり目を引く感じではなかった?
コミケではレイヤーの売り子でもいないと誰も見向きもしてくれない?
考えられる理由はいくつもあるにはあったが、考えても答えはでない。答えは出ないが、C96では18枚売れたのが何故1/3にまで減ってしまったのか。気になった。
その一方で、SNSでは神絵師などのいわゆる壁サーを中心に「コミケの勢い完全に戻りましたね!」という言説がちらほらみられた。
本当にコミケの勢いが戻ったのであれば、何故自分のところは1/3にまで減ってしまったのか。
気になったのは、当日は売れ行きが悪かっただけではなく、試聴のために足を止めてくれるような人も少なかったことだ。この日も閉会まで粘ってみたが、参加者の方はと言うと終日足早に目の前を通り過ぎていくばかりで、こちらのスペースを見ようともしない人がほとんどだった。C96の時に感じた「熱量」みたいなものはどこに行ってしまったのだろうか。
こんな問題に答えが出るはずもないのだが、ふと気がついたことがあった。C96の前、C92に参加したときは13枚だった。これと比べても半分に落ち込んでいる。
コミケでの売り上げを抜き出すとこんな感じ。
C90 | 2016年8月 | 13枚 |
C92 | 2017年8月 | 13枚 |
C96 | 2019年8月 | 18枚 |
C102 | 2023年8月 | 6枚 |
そこではたと気がついた。
C102だけがおかしいのではなく、C96もおかしかったのでは?
C102とC96が通常のコミケと違った点にもしかしたら原因があるのかもしれない、そう考えてみると不思議と合点がいった。
そして違うことといえばそう、開催日数である。
準備会のサイトにはご丁寧にも開催実績が全部載っており、そこに参加人数の情報もある。
C96は4日間開催だったが、一般参加者はバラけたわけではなく開催日数が増えた分だけ参加者も増えたことが見て取れる。
C90 | 53万人 |
C92 | 50万人 |
C96 | 73万人 |
C102 | 26万人 |
動きも枚数と似た動きをしている。ここら辺にヒントがありそうだ。
ここで、自分は仮説を立ててみた。
1. コミケに参加する人間はその日の予算の上限があり、これはコロナ前・コロナ後でも変わらない(コロナ中のことは分からない)。
2. 参加者は、ある開催日に自分の目的のサークルがたくさん参加していればその日に参加する可能性が高まり、少なければ参加する可能性が低くなる。
3. サークルはたくさんあれど、一般参加者は壁サーを優先的に回る。
どれも反論が来そうなものではあるが、大外れしていない、、、と思いたい。
1.についてはそのままである。年に2回のお祭りに軍資金を持って参加するときに、その金額に糸目をつけないのがオタクというものではなかろうか。コロナ後の経済事情が厳しい人もいるとは思うが、そこまで変動していない気がする。
2.については、いわゆる「女性向けの日・男性向けの日」という概念を拡大解釈したものだが、当然自分の目当てのサークルがたくさん参加していれば来たくなるというものである。
3.については、最初は通販が出なさそうな島中が初手として正しいと言う言説もあるが、結局のところ壁サーに行列ができることを考えるとやはり壁サーを優先して回るという考え方が一般的であると考えるのが自然だろう。
2.については、どのぐらい参加の可能性が変わるかと言うデータはなかったが、ジャンルごとの参加サークル数の情報ならあった。
ジャンルコード別サークル数一覧(C90〜C96)と夏コミ告知
自分が参加しているデジタル(その他)のジャンルだけを抜き出すと、以下のような感じ。
C90 | 1018 ☆ |
C91 | 1020 |
C92 | 948 ☆ |
C93 | 939 |
C94 | 1146 |
C95 | 1346 |
C96 | 1328 ☆ |
C97 | 1804 |
C98 | 864 |
C99 | 570 |
C100 | 488 |
C101 | 488 |
C102 | 472 ☆ |
そして自分が参加した回だけを抜き出すとこんな感じになる。
C90 | 1018 |
C92 | 948 |
C96 | 1328 |
C102 | 472 |
C90 | 17.7万人 |
C92 | 16.7人 |
C96 | 18.3万人 |
C102 | 13万人 |
また、各回の1日あたりの参加サークル数を計算すると、こんな感じ。
(本当はきちんと調べれば自分の参加した日の厳密なサークル数も分かるのだろうが、ここでは割愛)
C90 | 11,300サークル(3日間で34,000) |
C92 | 10,600サークル(3日間で32,000) |
C96 | 10,600サークル(3日間で32,000) |
C102 | 10.500サークル(2日間で21,000) |
ここから先は推測でしかないが、例えばC96の18万人とC102の13万人では、見た目の数字以上に目的に違いがあるのではないかと思う。
雑な計算式であるが、参加サークルの割合に応じて一般参加者の目当ても違うとすれば、デジタル(その他)目当ての参加者は以下のようになる。
C90 | 15946 |
C92 | 14935 |
C96 | 22927 |
C102 | 5844 |
だからどうだと言われれば本当にそれまでなのだが、雑な計算式でこれだけ差が出るのであれば、これが影響したと考えても不自然ではないだろうと個人的には思う。
特に、思った以上にC96にデジタル(その他)目当ての参加者が多そうだということ、つまりC96にはいわば「バフ」がかかっていたと言うことが言えそうだ。それと比べてしまうと、C102は苦戦を強いられるのも無理はない。
冒頭で紹介した記事でも「三分の一くらいになった」という記述があるが、むしろ1/3は健闘した方と言えるのかもしれない。
一方で、なぜ壁サーは全然その影響を受けずに、むしろ「コミケの勢い完全に戻った」などという話が出るのであろうか。
ここから先は雑な計算式すらないのだが、コミケはもともとコミックマーケット、つまり参加者は同人誌を買いに来ている人が多いと言うことを考えると、参加者は仮説3. の、「何はともあれまずは壁サー、そのあとに自分の好みのジャンル」という傾向が強まったのではないだろうか。
これが正しいかどうかは根拠は全くないが、仮にこれが正しいとするならば、あの96で感じられた「熱量」のようなものがC102では全く感じられなかったのも少しうなづける。
少し乱暴な結論になってしまうが、やはりコミケは「日本最大の同人誌イベント」である点に強みがあり、2日間開催が続く限りは自分のような弱小サークルは売り上げとしては厳しい状況が続くのだと言えそうだ。
もちろん最初にも書いた通り、多くのサークル参加者同様自分もお金稼ぎのためにコミケに参加しているわけではない。とはいえ丸一日参加して誰にも手に取ってもらえない、参加者の熱量が感じ取れないイベントに毎回出続けるのもそれはそれで疲弊するものがある。
自分としては今後もM3には参加するつもりだが、コミケはまた数年はいいかなという気になっている。売り上げのこともあるが、それ以上にM3の方が参加者の「熱量」が感じられるからだ。閉会間際にどんなもんかなと試聴のために足を止めてくれる人、一度通り過ぎた後でしばらくしてからやっぱり気になるので戻ってきた人、とりあえず足を止めてどんな曲なのか質問してくる人。そういった場面が、M3では多く見受けられる、そう言う気がするからだ。
今後コミケがいつ3日間開催に戻るのか、あるいは南館もフル活用した4日間開催という狂乱のお祭りが実現するのか、同人歴の浅い自分には全くもって何も分からないが、もしそんな4日間開催が本当に実現した時には、是非ともまた参加したい、そう思っている。
一方で、島中のサークルでも「今回自分史上最高の売り上げを記録しました!」みたいな話をちらほら聞くこともある。今回の仮説が全く当てはまらないわけであるが、そういうサークルさんには是非ともどんなポイントが功を奏したのかを分析してそれを教えていただきたいところである。真面目な話、そのポイント、喉から手が出るほど知りたい人も多い気がする。
多少食い止める程度で十分ならこれでいいよね
そもそも産んで安心の雰囲気がなければ結婚支援と出産支援があろうともその一歩は踏み出さないだろ
結論弱者男性に女をあてがったり不幸の再生産のような可哀想な子を産む必要なんてないんだよ。それをする場合は予算青天井で組む暴挙が必要なのでね
射精後に勃起を維持できる人ならコッソリ中出しした後にピストン継続すれば精液がだんだん掻き出されてくるのでバレにくいが、そもそもそんなこっそり中出しするようなことを考えずに堂々と生中可能な相手を作るべきである。
そして結論をはっきりさせておくよ。女性には「差別する権利」が本来存在する。そしてそれが家父長制社会によって抑圧されているのだ。
これは逆でしょ。家父長制社会「だからこそ」女性には「キモい男」を差別する権利があるんだよ。
むしろちょっと前までトランスに否定的なのは昭和おじさんだったわけ。で、それを古いとバカにし続け、トランスとどう向き合うか真面目に考えてこなかったから今があるんじゃない。
で、社会の流れとして家父長制廃止にいなっているから、その流れとして、女性がキモがっていようが認めざるを得なくなっているんだよ
追記(00:35):id:Falky氏のブコメのおかげで、複数のブコメにある謎の誤読の理由がやっとわかったのでタイトル修正。
(ついでに、誤字修正したつもりが誤って再投稿となりしばらく二重投稿状態だったことに気づいた、すまぬ)
https://twitter.com/kanose/status/1732048986259988949
抽象的にまとめれば、どちらも「本を焼く」行為である。ダブルスタンダードでは?
この論法の根本的な欠陥は、敵対する論者の思想信条に対する軽薄な理解で、ただ揚げ足を取ろうとしているところだ。
言論の自由を重んずる立場として、「SNS批判殺到で出版停止」といった動きはすべて倫理的問題を含んでいると私は認識しているし、『ゲームの歴史』の絶版時にもその認識の元で行動した。
『ゲームの歴史』の批判者としてもっともPVを集めた岩崎啓眞氏もこう述べる。
KADOKAWAの騒ぎで「ゲームの歴史」が絶版になった時文句言わなかったとデタラメ言っている人がいるので、明快にしておきますが、僕は絶版に対して批判的ですし、ブログなどでも明快にそう書いています。
https://twitter.com/snapwith/status/1732359430233374769
故・五島勉さんの『ノストラダムスの大予言』なんて、言っちゃ悪いけれど、今読むと失笑してしまう間違いと強弁の塊で、こんなものを自分は信じてしまったのかと恥じてしまうけれど、それが出来るのは言論・出版・表現の自由の下で、その本が手に入るからだ。絶版はもちろん筆者と版元の権利だし間違いを広めることを許容しない態度ではあるけれど、反面、検証の権利を奪い取ってしまうものでもあるので、今でもやってほしくなかったなあと思っている。
なお、岩崎啓眞氏はWeb連載として発表した『ゲームの歴史』の批判を、同人誌『ちょっとは正しいゲームの歴史』として発行、国会図書館に納本している。
抗議の声が今回ほど大きくはならなかったのは、類似の問題を孕んでいても深刻度には濃淡があるからだ。
『ゲームの歴史』の絶版回収と『あの子もトランスジェンダーになった』の刊行停止には、以下の2つの重大な違いがある。
私の居住地周辺を検索すれば、自転車で15分程度の距離にある最も近所の市立図書館に『ゲームの歴史』は収められていた。ただしなんと「貸出済」である。
さいわい、市内の別の図書館にもう一冊貸出可能で収蔵されているので、予約取寄さえすればいつでも読めるようであった。
新刊本は不祥事が起こらずとも、一部の例外を除き出版後しばらくすれば書店から版元へ返本されることになっている。
数年後には品切れ重版未定となって新刊書店では入手困難だ。長い目で見れば結局同じ状態になる、時計の針を進めただけとも言える。
ただし、
ここで述べた「違い」というのはあくまで深刻度の濃淡の説明であり、「ちゃんと出版されて図書館にあるから問題なし」という主張でないのは言うまでもない。
私はこれまでも、オープンでアクセシブルな表現の自由市場を保つため
の2点を『ゲームの歴史』の絶版時も含め、折りに触れて、当然の常識として確認してきたし、
無視できない数の編集者・作家・学者が、本の刊行停止をはばからずに喜ぶという末法の世(https://togetter.com/li/2270929)では、これまで以上に「本を焼く」行為へ大きな抗議の声を上げていく必要があると信じる。
さて、上で、『ゲームの歴史』との違いとして述べた1点目「オープンな議論を可能であったか否か」に関し、
『あの子もトランスジェンダーになった』の刊行停止はオープンな議論の結果なのだ、『ゲームの歴史』絶版回収と違いがないという反論がある。
繰り返すが、オープンな議論を可能にするには、本はアクセシブルである必要がある。
例えば、身体障害に関する議論であれば、点字も音声読み上げも使えない紙の本ベースの議論は、視覚障害者に対しアクセシブルでなく不当だし
日本で行われる議論では、本が日本語で書かれていないならば、議論の参加者のほとんどを排除することになる。
ましてや、原著 の Irreversible Damage は精神医学の専門英単語が多いため、洋書を日常的に読みこなす人であっても、なかなか読み進められないと評判なのである。
原著を読んだ日本人にしろ、海法紀光は、アニメを「乱れた性」の一例と扱うアニメヘイト本としての側面を紹介しているが
一方で小森健太朗は、あくまで本の中には、アニメに関する記述はほぼない、とする。
英語の読めない人はどちらを信用すればよいのだろう。なお、2方共に翻訳家としてのキャリアの長い方である。
2点めに関しても同様だ。その英語圏の議論に日本人はアクセスできるのか? 誰ならば読めるというのだ?
訳者は、ただ英文を機械的に置き換える仕事ではなく、文化的な違いを註釈その他の方法で乗り越える必要があるし、
議論は、原著の論点の1つ1つを日本という環境に置き換える作業を経なければ意味をなさない。
翻訳という文化をとことん軽視した、ただの詭弁と言わざるを得ない。
kanoseさんのブックマークコメントは極めて慎重なので、“kanoseさんの傘の下”に入っていれば99%のリスクは回避できるでしょう。
とまで言われた人がこれか。老いに逆らうことは難しい。はてなでは隠居して久しいとは言え、そろそろ正式に誰かに代替わりすべきであろう。
新時代の象徴としてのはてな村長は、永遠の女子高生 id:firststar_hatenoがふさわしいと思う。
ただし、村民や村の風習にまだ理解の足りない、はての村長では実務に不安がある。成長するまでの補佐として爺や id:zaikabou を付けよう。
しかし一向にできない。おかしいなとも思いつつどこかで機会や出会いがあるのだろうと思っていた。
そんなこんなでもう四年目。就活もそろそろあり、このまま社会人になったら自分は一生童貞でしかも孤独に死ぬ未来予想図がありありと見える。
夏休みになってマッチングアプリというものを始めてみた。結果的に現在はマッチングアプリを9個やっている。
自分は身長165cm、顔は下の下でないことを祈りたいくらいの塩顔。髪型は短髪で体型はいわゆる普通体型。大学もまあまあ名前が知れてるし、自己評価としては好物件ではないが悪くはないだろうくらいに思っていた。
男はマッチングアプリで課金をしないとメッセージもできないということを知り、4000円近くの金を突っ込んで始めた。
そしてマッチングアプリを始めて1ヶ月、誰一人としてマッチしない。世界から否定され、自分の無価値を世界が認めたような気分だ。最悪だ。
マッチングアプリには足跡という機能がある。これは誰が自分のプロフィールまできたかわかる機能だ。1ヶ月で100人くらいはプロフィールを見に来ているようだ。
つまりケーキ屋で言えば店内入ってきてショーケースまで見てそこで帰ってる客が100人いる。自分がパティシエだったらコック帽をおいているだろう。
何が辛いかというと足跡があってマッチしないことが辛い。つまりわざわざ中を見るまでされ、精査された上で「お前には価値がない。魅力がない」と突きつけられているのだ。
そしてまず考えたのはアプリが悪いのではないかということ。今振り返ると別にそんなことはなかった。ただそのときは自分の価値が自分の想定より断然低く見えており現実を見えていなかった。
ということで次のアプリを始めた。結論からいうと全くもって同じ結果であった。
つまりどういうことかというと自分は完全にこのマッチングアプリという市場において無価値であるというがサンプル数2で太鼓判を押されたのである。
しかし2個ではたまたま偶然同じようなアプリを選出した可能性があると自分を鼓舞した。なので3個目のアプリに手を出したのだが結果は裏付けるサンプルが増えただけなんだ。笑えるよな。
弱者男性というものに自分が属すのではないかと不安になり、そしてそれを受け入れ始めた。
自分が使ったアプリはいわゆる恋活アプリというものであり、恋愛を目的としてアピールされているマッチングアプリである。これに対し結婚をアピールする婚活のアプリも存在する。
そして傾向としてかわいい(一般的な美的感性の美人)は恋活の方が多い。考えれば当たり前で可愛い子は別に結婚など若いうちにする必要はなく、遊びでマッチングアプリでいい男を探せばいいのだ。
これに対し婚活アプリになった場合はかわいいの平均が著しく下がる。実際の顔の美醜ではなく、写真写りが露骨に悪い。自己プロデュースが下手な女性が多いのだ。
また婚活アプリのプロフィールは20~25歳くらいだと極端に精神疾患や障害などなんらかの追加情報を持っていることが書いてあることが多い。また必ずと言っていいほど「それを理解してくれる優しい男性」を希望しているのだ。
そして自分は恋活アプリでは全くもって箸にも棒にもかからないくらい相手にされなかったのだが、婚活アプリに関して言えばまあまあ健闘できた。
理由としては写真だろう。自分はオシャレなどとは程遠い人生を送り、理系の大学でびんぞこメガネをかけた陰キャを地で行く人間だ。悪くいうのなら垢抜けず、野暮ったく、ダサいのだ。
しかし婚活アプリの市場においては相手側はいわゆる恋愛強者が少なくなるので、それらの女性の非恋愛強者(恋愛強者と恋愛弱者が排反ではない)がオシャレな男とマッチするという自己評価をしておらず、一見誠実で遊んでなさそうに見える男性を同程度またはそれ以下の相手だと考えてマッチするのだと予想した。
マッチングアプリの難しさというものは自己改善の難しさである。
当然なのだが男性は女性のプロフィールしか見えない。もちろん女性であれば男性のプロフィールしか見えない。
マッチングアプリの基本的な形式だが、男は女に選ばれる側という明らかな上下関係にある。女は選り好みしなければ男なんて掃いて捨てるほどアプローチがくるが、男は1ヶ月しても1回もアプローチも来なければ自分のアプローチが実らないこともザラなのだ。
つまり男はマッチングアプリにおいて競争環境に置かれているのだが、レースで言えば横を走っている相手を知ることができないのだ。
受験だって普通は他の人の成績を見て自分は日本で何位で他の人より英文読解が弱いとか分析することができるのだが、マッチングアプリではそれができないのだ。
これが非常に辛かった。これでも理系のはしくれなので論理的に改善をできるなら前向きに生きることができるのだが、そのための比較ができず改善もできない中で完全な暗中模索。しかも結果は出ないのだから辛かった。
写真写りなのだが正直ここがよくないとマッチもしないので交際のスタートラインにも立てないのだということが分かった。
新宿のホストっぽい写真(なんかいかついスーツ)・スーツのビジネスマンみたいな写真・TDL背景のただの笑顔で服を女性に選んでもらったカジュアル3割フォーマル7割みたいな格好の写真・自分の普段のオタクみたいな写真の3つをそれぞれ1週間ごとで写真を変えた。
他人の写真を使うのは倫理的に憚られるのでPhotoShopで気合いでアイコラしてゴリゴリのフィルターで1枚目の写真を作成した。2枚目は大学の入学式あたりの写真を使った。
3番目はカメラマンの友達に金を払って「マジで仕事と思って頼む」といって相手が断る中で半ば無理やり金を握らせて撮ってもらった。
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これだけを見れば女性に服を選んで貰ってカメラマンに撮って貰えば改善するように見える。
ここで比較としてホストをやったこともあるイケメンの友人にお願いして同じアプリで同じようなことをしてもらった。(この友人の彼女には自分の方から謝罪と事情説明をしてOKをもらった)
ホスト風の写真/普段の写真(ファッションがわからない自分には女性に選んでもらったやつくらいオシャレ)/自分がチョイスしたださ目オタクファッション(自分の普段着)
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ここでわかるのだが結局顔なのである。身も蓋もなさすぎる気付きなのだが大きな気づきだった。
マッチングアプリは顔がよければどうにでもなる。
この結果は救われたような気すらした。所詮顔の差でしかなく、逆に言えばここがよければ改善も可能なのだ。自分は人間としてオワリなのではなく、ただ顔が良くないだけで人間的にオワリとは言い切れないということが収穫だった。
※上記実験は全て同じプロフィール、同じステータス(毎日ログイン)、同じ会員ステータス(課金)、同じ開始時期なので差は完全に写真だけなのである。またマッチングアプリには新規登録ユーザーの優遇が存在するため、自分と友人のアカウントはアカウント作成後1ヶ月放置し、そのあとに課金を始めている。
写真を以下の条件のもと、プロフの文章を長め(趣味嗜好・休日の過ごし方・恋愛遍歴などの長文)と基本的な自己紹介と挨拶だけの短めの文章(写真の実験で使用した文章)を用意した。
それぞれ1週間の実験期間であるが、この実験は写真の実験のあとに行っている。
長文 5 短文 2
長文 5 短文 4
長文 57 短文 43
長文 290 短文 238
ということで気持ち長文の方が増加傾向なのだが、写真以上のインパクトはない。しっかり書けばだいたい1.1~1.2倍程度いいねの向上が見られた。
記載の通り、この5週間で以下の成果を得られた。これはおおきな進歩だ。正直最初にいいねをもらった時は嘘じゃなく飛び上がるほど喜んだ。生きていていいんだと感じた。
驚くべき成果だ。自分は無価値だと思っていたが見せ方次第ではある程度改善が見込めるのだ。
しかも努力が反映され、これが即結果につながることが分かった。この時点で自分は完全にマッチングアプリを数値的なゲームの感覚で触れるようになった。
与えられた環境で最大点を出す努力をするのが快感になり始めた。自分はもともと資格勉強とかの結果が明白にすぐ出る努力が好きなのでこの環境で頑張ってみようと思った。
でも、ほんとの恋愛強者ってのは高校とかの時点で彼女を作って、別にマッチングアプリなんか始めずに大学生活を周囲の女子とかとディズニーとか行って惰性で付き合ったりしてるんだろうな。まあもう自分にはなれないからただただそんな人は羨むしかない。
ここから先はメッセージしてから実際に会える確率についての実験と9個のアプリに手を出す話が続くのだがこれはまた今度書きたい。
今のトランスジェンダー議論って基本全部女性の世界の話なんだよな。
男性の話だと、いや実は心は女だったんですとかいわれてもおどろきはしてもそうなんだ・・・ですむのがほとんどだし、肉体が女性なんですけど実は心は男性だったんですってのでもむしろそれは男性側にきて大丈夫なの?ってなるし。
問題とされているもののほとんどが想定される四つの組み合わせのうちのひとつ・・・つまり男の肉体で生まれた人が心が女でしたってパターン。それを女性の世界が受け入れるかどうかって話。それ自体に結論はでてるんだっけか?
あれはなんなんやろな オレは老害オタクの自主規制やとおもうんやが
Xで無料でながしたらどんな陵辱でもOKというエロ乞食みたいな結論になるやんけ
なんで紙同人誌と電子同人誌で対応わけようとするのか今となっては全く意味がわからんが
まあものすごく善意にみるとデジ絵はスクショ・トレスにちがいないとか、
わけのわからんガイジンに電子輸出されて見られるとこまるとかそのへんなんかあるんやろね
そんなもん紙でもすでにやってるやつはおるわな
アホちゃうやろか
オトナプリキュア9話、咲舞の変身回まで視聴。
ここまでもしんどかったけど、今回が決定打になった。
SNS(主に旧Twitter)でも9話放送後から「スプラッシュスターの扱い、これどうなん?」
みたいな話題はちょくちょく見たけど、正直それ以上に
「咲舞変身キタ!」
「満と薫はプリキュア!」
「4人揃ってくれてありがとう!」
これに結構ビックリしたんだけど、かといって自分の考えをツイートすると超連投になってとっ散らかるし、ツイート数ばかり増えて検索汚しアンチ野郎になりかねないので全部まとめて書けるスペースに書くことにした。
結論から言うと、スプラッシュスター好きなイチ視聴者としては信じられないところをいくつもスルーしている作品。
同じ作品内に比較対象として5GoGoがいるからなおさら強く感じる。
ここから咲舞以外のスプラッシュスターの登場人物を踏まえつつ、その理由を書いていく。
何話で何があったとかって話もするので、よくわからんところは公式の全話リストで補完してほしい。
https://www.toei-anim.co.jp/tv/precure_SS/episode/list/
変身時におけるフラッピとチョッピ(以下フラチョピ)の扱いについて色々とSNSでも意見が挙がっているけど、特に引っかかったのがフラチョピに対する咲と舞の反応。
どんな反応かと言えば、無。まったく何もなし。これにはマジで納得できない。
フラチョピの扱いについて亡くなった声優さんの件を挙げて英断だったとか仕方がないとかって意見も見たけど、それらは咲舞の無反応の理由になってない。
咲舞にとってフラチョピは大切な友達にしてパートナーだったでしょ。
スプラッシュスターを視聴した人がそれを忘れるはずがないし、仮に未視聴だとしても「プリキュアと変身を共にするパートナー妖精」と聞けば、そこに浅からぬ絆があることは想像に難くないはず。
なのに咲も舞も無反応ってどういうこと?
5GoGoのキュアモみたいな、ただの変身に必要なツールじゃないんだよ。
11話のフラッピ看病回に12話のチョッピホームシック回と、序盤からしっかり見せてくれてたでしょうが。
まだ全話終わってないから明言はできないけど「あれは本当のフラチョピではない」として、それをあの時点の咲と舞は知らないでしょ?
仮にその情報が事前にあったとして、突然現れた旧友の姿に終始無反応を突き通せるか?
変身前のネガティブすぎる咲(これも納得できないけど今は割愛)とそれを鼓舞する舞も変身できるできないの問答になっていてフラチョピの話題は挙げないし、急に出てきたコミューンを普通に手に取るし、バトルが終わって変身が解けたら「変身できたね…」で感慨にふけって終わり。
なんだこりゃ…って思いながら見てた。
あのスプラッシュスターで積み重ねた物語の先に、こんな未来が存在してしまうんかと。
オトナプリキュアにおけるスプラッシュスターの存在は「恋愛や結婚に関わる大人の悩み」を課せられており、それが最優先なんだろうなあ。
変身バンクなしでいきなりプリキュアの姿になっていたら少しはマシに感じられたかも?
それでも一切言及しないのは相当変だと思うけど。
<美翔和也>
フラチョピと同様に、本編にしっかり関わっていながら存在を消された人。
咲と良い影響を与え合っており、日常寄りのカップリングとしてかなり良い感じに描かれていたと思う。
まず咲と和也は5話で初めて出会うんだけど、その時に舞は不在なので特にきっかけにはなっていない。
それ以降も16話では「大切なのは諦めない事、諦めたら夢は絶対に叶わない」とプリキュアみたいなメッセージを残したり、27話の夏祭りや34話の学園祭実行委員の話、最後は45話のクリスマスと、あまり舞が関わることなく咲と和也の間で進む話が定期的に挟まれる。
クリスマス回なんて『 ケーキと和也とクリスマス! 』とかタイトルにまで名前が出てくるし。
プリキュア関係者以外の中では咲とのイベントが結構多かったし、それぞれの成長にも繋がっていて、最初こそガチガチな咲ちゃんといまいち読めない和也さん…って雰囲気だったのが終盤はちゃんと自然体の交流になっていた。
しかしオトナプリキュアで咲舞に課せられたノルマを考えると、消されて然るべき人物だった。
何故なら、4話=舞が恋人と別れる回で「カレと結婚を控えていて、仕事も充実した幸せな咲」と「カレと上手くいかず、仕事も充実とは言えない舞」の対比をする上で、和也が存在してしまうと咲舞をポジティブに繋げてしまう可能性がある。
舞の「上手く行ってない感」の表現を阻害してしまうし、和也を出演させてしまうとある程度説明も必要になる。
そして9話=咲の悩みとスプラッシュスター変身回。
和也自身、小さい頃から宇宙飛行士になるという大きな夢を抱いて過ごしてきて、咲とお互いに良い影響を与え合ってきたことは本編の通り。
そんな和也が、仮に宇宙飛行士になれなかったとしても「夢のためにフランスへ留学して自分を高めたい」という咲の気持ちを尊重してくれることは疑いようがない。
それこそ9話変身前の咲みたいに。
仮に咲が憧れの和也さん(人格そのまま)と共に何年も歩み続けていたとして。
目の前にシャドウが現れて、親友にしてパートナーの舞が手を伸ばしてくれている、そんな状況で「あの頃とは違う!もう子供じゃない!」と自虐する人間だったかと考えると、全然そうは思えない。これは願望です。
以上から、美翔和也という存在はオトナプリキュアにおける咲舞に課せられた役割に対して強いノイズになってしまうため消されたのだろうと受け取った。
<満と薫>
咲舞とはそんなに疎遠だったのか…っていうのが一番効いた。
それと、二人とも作劇的に便利なポジションだよね。
異変を察知できて、一般の方々が認識できないシャドウの存在を周知できるインフルエンサー。
話を進める上でとても便利。
あの様子だとPANPAKAパンにも何年も顔を出してないでしょ。
偶然咲と顔を合わせないタイミングでばかりパンを買いに行ってたかも…みたいな、うっすい可能性を手繰り寄せるしかない。
PANPAKAパンのパンとみのりちゃん、これらって満と薫の新たな人生を形作った大きな要素だと思ってたんだけどな~。
パン買いにも行ってないんか…。
5のメンバーでも「そんなに会ってなかったの!?」はあったので、スプラッシュスター固有の話ではないかもしれないけど。
最終話で満はパンを作ってみたい、薫は絵を描いてみたい、と言ってたけどそれと将来は別の話だったか…。
5GoGoの面々は本編でこれと宣言していた道から外れてないから満と薫はどうなるかと思ってたけど、二人とも外してきたな…。
満はパン屋に来たお客さんの「ありがとう」から、薫はみのりちゃんと一緒に絵を描いた経験から出た言葉だと感じられたからこそ最終話の発言は良かったんだけどなあ。
一応配信者になったという結果については、そういう道も無しではないと思ってる。
閉じた世界から羽ばたいて、より多くの人と通じ合おうとする姿勢がこの道を歩ませた…ということならば。
ただ配信者としてここまで広く周知されていることを咲も舞も知らず、声を聴いてもピンと来なくて、満と薫からそれを伝えられることもなくここまで来た、くらいまで疎遠になるとは想像していなかった。
でもちゃんと登場時に咲舞に声をかけてもらえたのは良かったんじゃない?
同じく突然登場した友達であるはずのフラチョピには無反応だったし。
最終的に優子とくっつくのは本編の繋がりで納得できるんだけど、健太のコメディアンの夢についてノータッチ。
16話では親に家業を継ぐことを望まれても諦めたくないという意思を見せて(親のことは勘違いオチだったけど)、
31話では最高の相方候補である宮迫君をひたすら勧誘しまくり、
37話の文化祭では健太&宮迫タッグの話がほぼメインになっていた。
コメディアンとして花開くのは大変っていうのはよく分かる。
これはその他様々な「オトナプリキュアにおけるスプラッシュスター」に不信を抱いているから余計に気になっているだけかも。
当方たまに見るバラエティ番組と年末のM1グランプリくらいでしか漫才を見ないので何とも言いきれない。
個人的には「現実ってこんなもんだよね」をスプラッシュスターに背負わせたように思えてしまう。
さよなら俺の初恋…とかいうノンデリ発言が奥さんの隣で飛び出したことについては「そんなことわざわざ言わせるなよ…」と「まあ健太ならギリギリ言うか…?」といったことを思いつつ、最近は「咲の初恋の人には触れてないな…あっ存在が消えたんだっけ、良かったなお前消えなくて」ってなってる。
<太田優子>
25話の海の家回の繋がりでお店を切り盛りする未来に繋がった?
そこに健太がセットで運用されている、と考えるとコメディアンの夢について一切言及がなくてもまあ…いいのかな…?
以上。
とにかく「課せられた役目」が最初にあって、そこに咲と舞があてがわれた結果こうなったというのを強く感じる。
大人の悩みを描くなら、結婚をはじめとした将来を踏まえた恋愛要素は鉄板。
けどこれは5GoGoキャラには任せられない。
異世界の王族が相手という時点で現実的な悩みに持っていくのが難しいし、そもそも5GoGoのキャラを本編外のキャラと恋愛させたら爆発炎上してしまう。
だから咲と舞に大人の恋愛を担当させて、ついでに対比もさせた。
ステレオタイプの幸せを掴んでいるものの自分の夢と天秤にかけて悩む咲、自分の本当にやりたいこととは何なのかで迷う舞。
最終的には、私はこの道を進むと決めた!→咲舞並び立つ→変身ヤッター→満と薫も来て万々歳…という話。
絵面のエモさでなんとかしようとしてない?
作品自体が5GoGoがメインだからとか、本筋の進行に影響が…みたいな「尺の関係で仕方がない」といった意見、これこそ全然理解できない。
尺が厳しければパートナー妖精との再会について一切言及せずにバトルして良いか?
そんなわけなくない?
他にもオトナプリキュアについては、美々野さん悩みにぶつかってなくない?いや悩みがないのが悪いわけではないけどさ…とか、シロップとうらら会ってなさすぎじゃない?とか、初代とスプラッシュと5の舞台の位置関係どうなってんの?とかいろいろ言いたいことはあるけど、まだ放送中だしどう転ぶか分からないよな…と堪えてる。
ここまで書いてきたスプラッシュスターの扱いについては、ここから巻き返しようもないだろうしガッカリ度が桁違いだったので書き残した次第。
最後に。
オトナプリキュアシリーズの続編が発表されたら、絶対に思い入れの強いプリキュアは出てほしくない。
何年か振りに姿を見せたメップルミップル、シプレコフレ、モフルンなどなどのパートナー妖精に何も言及せず変身するプリキュアの姿は見たくない。
日大アメフト部みたいな大学スポーツについては、大学は勉強するところ!スポーツするところじゃない!と全面否定して、
中学生くらいになると、自分は実は男なのかも知れないと思うようになった。当時読んだレベルEというマンガで、一見女性に見えても実は男性というケースがありうると知ったからだ。
当時はたまに自称が「俺」になることがあった程度には倒錯していた。
高校生くらいになると俺呼びは収まり、それ以降の人生は普通に私呼びで過ごすことになる。
大学はほぼ男子校と言える理系単科大学に進学した。人生初の彼氏もできた。この辺りで、私は普通に女だな、という結論が見えた。
ただし、ネット上ではネナベをやっていた。けれど昔のインターネットは男のふりをしないと普通に話ができない空間だったから、それは自分の中ではノーカンだ。
しかし、大学を卒業してから不景気だったのもあり女ばかりの職場でパートをすることになったが、そこでも先輩方から「あなたは考え方が男だ」と言われ続けた。
だが、最終的に男性と結婚して子どもも産み、兼業主婦をやっている。
ここに落ち着いたからこそ断言できるが、今の時代に思春期をやらずに済んで、本当に良かったと思っている。昭和生まれでよかった。
もし今中学生だったら、きっと自分はトランスセクシャルだと思い込んでいただろう。場合によっては、周囲に「あの子はトランスセクシャルだ」などというラベルをつけられていたかも知れない。
実際は思春期の気の迷いであり、俺呼びもただ痛い俺女だったという黒歴史であるだけだ。
でも、当時はそんなことなど絶対に分からないのだから、きっと自分は本当は男なのだと思い、場合によってはホルモン治療などにも手を出したかも知れない。
そうなったら、一体どんな人生を歩んでいただろうか。
楽天的な私のことだから、それでも結構幸せな人生を歩んだかも知れない。
実際、今の世の中はトランスに寛容であろうとし始めている。理論的には、きっとその方がいい時代だ。
けれども、私たちは気をつけなければならない。思春期に揺れる子どもの性自認をあくまで見守るように。
の翻訳。執筆者はステットソン大学の心理学教授、クリストファー・J・ファーガソン。
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2020年に起きた比較的マイナーな(トランプ大統領や新型コロナと比較して)炎上ニュースの中に、ジャーナリストのアビゲイル・シュライアーの『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇(Irreversible Damage)』をめぐる論争があった。
本書は、みずからのトランス男性として認識するティーンエイジャーの「女子」の急増は、性別違和やトランスジェンダリズムが原因ではなく、社会から疎外されたアイデンティティが社会的な影響によって、本来他の精神疾患を持っている少女たちが誤って自分をトランスとして認識しているためだと主張している。
この本に自分の家族や娘を重ね合わせ、娘たちが直面している現実の問題を語っていると考える親もいる。(原注:シュライアーの見解を反映し、生物学的性別のみを反映することを意図しているため、ここでは「娘(daughters)」という用語を使用する。) しかし、多くのトランス活動家たちは、この本をトランスフォビックであり、敵対的であり、より広くトランスの人々にとって有害であるとして非難している。そのため本書への販売反対運動も広まっている。*1
私は最近この本を読んだので、ここに感想を述べておきたい。はじめに言っておくと、これは複雑で微妙な問題だと思う。しかし、現代の言論は、感情的な議論のどちらの側にも、ニュアンスや複雑さを認めることはめったにない。
基本的に以下のふたつの状況は傍から見てほとんど区別がつかないことは、残念ながら確かだ。a)トランスであると自認する青少年を含むほとんどの個人は本当にトランスであり、医学的な移行から恩恵を受けるであろうということ、b)青少年としてトランスであると自認しているが、境界性パーソナリティ障害やその他のパーソナリティ障害、自閉症スペクトラム障害など、アイデンティティの混乱を引き起こすような他の精神的健康状態にあり、これらの個人は医学的な移行からあまり恩恵を受けないかもしれない、ということ。
第一に、「ジェンダーは社会的構築物である」というスローガン(シュライアーがその大部分を支持している)に反して、ジェンダー・アイデンティティは視床下部に存在し、そのようなものとして、ほとんど不変であることが神経生物学的証拠から判明している。端的に言えば、トランスジェンダーは、ある性別の身体を持ちながら、別の性別の脳を持っているということだ。そのような個人は、尊敬と思いやりに値し、嫌がらせやいじめから解放されるべきであり、自分の好む代名詞や名前が尊重されるべきであり、恋愛、結婚、子供を持つこと、養子をとることも自由であるべきなのだ。
同時に、境界性パーソナリティ障害は、多重人格障害(解離性同一性障害)や双極性障害など、他の有名な精神疾患と併発したり、誤診されたりすることが多いという証拠もある。したがって、トランスであると自認する人の一部(すべて、あるいは大多数ではないことは確かだが)が、アイデンティティの混乱というより広範な問題を抱えている懸念もあるにはある。
本書を読んでいて、私はいくらか批判的にならざるを得ない点があった。その主なものは、シュライアーの科学への関心が、時として表面的であるという懸念であった。もちろん、これは本書に限ったことではないが、このようなセンセーショナルなトピックでは、科学的議論のいくつかにもっと精妙な検証が要求される。シュライアーは、この分野の学者たちのデータや意見を掲載し、リサ・リットマンの「急速発症型性別違和」*2と呼ばれる物議を醸した研究(過去にはこの研究自体が議論の対象となったが、研究の是非はともかく、科学的には嘆かわしいものであった)など、重要な(しかし是非の多い)研究をいくつか取り上げている。
ジェンダー・アイデンティティが生物学的なものに基づいているという考えを、それを示唆する証拠が豊富にあるにもかかわらず、シュライアーが平気で否定するのには呆れた。ある時、シュライアーはこう書いている。「XX染色体が刻印された女の子の脳が男の子の体に宿るというのは、生物学的にナンセンスだ」。染色体とは関係なく、子宮内でのアンドロゲン暴露が視床下部の発達に影響を与え、性自認に影響を与える可能性はある。そのことを理解していないこの見解に、私は顔面蒼白になった。
もちろん、この見解はシュライアーの創作とは言い難く、第二波フェミニズムにまでさかのぼる〈ジェンダー・クリティカル〉なフェミニスト(一般的に、この非常に論争的な議論においてトランス活動家と対立する側)を反映している。実際、この論争で興味深いことのひとつは、伝統的な右派と左派の対立というのではなく、左派を標榜する2つのグループの間の感情的な蔑視がしばしば反映されていることだ。
シュライアーはまた、インターネットに時間を費やしすぎることが少女たちにトランスであるという認識を抱かせる原因になっている、という考え方に奇妙なほど執着している。彼女は、ソーシャルメディアが精神衛生にどのような影響を与えるかについて、ジャン・マリー・トゥエンジ*3の研究を引き合いに出すが、トゥエンジの主張の多くがかなり徹底的に否定されていることを読者に知らせない。彼女がこの種のモラル・パニックにしばしば戻るのは気が散るし、急速に発症する性別違和という概念自体がモラル・パニックなのではないかと思わせられた。
とはいえ、彼女の論文を完全に否定する気にはなれない。実際のところ、トランスであると自認する女子の割合が本当に増えているのか、あるいは増えていないのかについて、きちんとしたデータは存在しないようだ。私の交友関係でも、伝聞的に、このようなことを耳にする機会が少しずつ増えてきているが、伝聞は証拠ではないし、もっと確かなデータが必要されている。
境界性パーソナリティ障害に加えて、性別違和も自閉症スペクトラムの思春期の女の子に多いという研究がある。この意味で、青少年が公言する性自認を、それ以上の診断的評価なしに医学的移行への動きとして受け入れるという肯定的アプローチには、明らかなリスクがある。これが、医学的移行に対するこのアプローチに懐疑的な最近の英国の裁判所の判決の背景にある理由のようである。
私たちは、どのような青少年が医療移行への迅速な移行から最も恩恵を受けるか、またどのような青少年がさまざまな介入からより多くの恩恵を受けるかについて、より良いデータが必要である。いずれも、トランスジェンダーの権利と福祉、そして彼らに課せられた敬意を損なう必要はない。学者には、急速に発症する性別違和が実在するかどうかを研究する余地が必要である。私は、査読と科学的再現性と訂正がこの問題を解明すると確信しているが、ツイッターの怒りに応じる形での科学的検閲は問題を混乱させるだけだろう。
結論として、ここには検討すべき有効なアイデアがいくつかあると思う。しかし、特にアイデンティティ・ポリティクスが激化している時代には、データの複雑さや困難な状況のニュアンスを考慮する意欲と、より多くの情報が必要であることを認める知的謙虚さを持った、より多くのデータに基づいた研究が必要である。
私は本書のどのような部分が論議を巻き起こしているかを理解するためだけなく。本書に反対する立場から検閲しようと努力する向きにも一読を薦めたい。しかし、科学について慎重かつ忠実な本を期待していたのであれば、この本がそうでないことは確かであり、その点で、本書がトランス・コミュニティで集めた否定的な反応はまったく理解できる。将来、質の高い、事前登録された、オープンサイエンス、インターネット検閲の努力から解放された科学的な取り組みが行われ、この複雑な問題をより明確に理解できるようになることを願うばかりだ。
*1……本書に対する販売反対運動が巻き起こったのは日本だけではない。
Amazonは同書のジェンダーの取り扱いに対するスタンスへの懸念から有料広告キャンペーンを打ち切ったものの、販売自体は行ったため、ヘイトに反対する従業員グループから販売中止の要請を受けた。結局Amazon社は「Amazonのコンテンツポリシーには違反していない」として、販売を継続し、その態度に失望した一部従業員はAmazonを辞めた。
また、大手量販店のターゲットではやはり論争を受けてオンラインでの販売を中止したが、翌日に再開し、三ヶ月後に再度中止した。
ここで興味深いのは、販売反対運動が出版社に対してではなく、販売プラットフォームに対してなされたことだ。日本でもヘイト本を扱っている書店に対する苦言などはたまに見られるが、反対活動によって販路を閉ざし実質上の販売中止させようという動きはあまりない。アメリカではAmazonが書籍販売について(日本より普及している電子版を含め)かなり独占的な勢力を占めていることなども関係しているように思われる。カナダでは図書館に対しても貸出の中止を求める請願が出されたという。
ちなみに出版元であるRegnery Publishingは保守系の老舗で、過去にはインテリジェント・デザイン説を擁護する書籍などを出し、そのたびに批判を受けてきた。『あの子もトランスジェンダーになった』で「エモやアニメ、無神論、共産主義、ゲイ」などが批判的な文脈で持ち出されるのもこうした文脈に沿っている。
*2……本書がサポートしている rapid-onset gender dysphoria (ROGD、急速発症型性別違和)はリサ・リットマンによって2018年に提唱された概念であるが、臨床的・科学的な証拠が不十分であるとして医学的診断としては認められていない。
*3……アメリカの心理学者。2017年に iGen という本で若年世代のナルシシズムとインターネットの関係を書いた。が、同書は多くの批判を受けた。