はてなキーワード: 概念とは
まずもともと性別の男女と言うのが肉体(遺伝子)で決められた概念
さらに肉体的な男/女にありがちな精神性を心の男/女 と言ってるのが今のトランス論な訳だ
肉体より優先される心の性別があるならそれが男女に限られる根拠がなにもない
私は数学の修士課程の学生で、現在TQFTについて研究しています。
どなたかCFTとLanglandsの関連について詳しい方、あるいはこの種の分野についての読みやすい入門書があれば教えてください。
ヘッケ固有値はどのように関係するのでしょうか?事前に何を知っておく必要があるのか。この概念に取り組む前に必要な知識のリストはありますか?何から始めればいいのかを知るのは難しいです!
https://anond.hatelabo.jp/20241118112813
そういえばと思ったからこれも惚気る~~~勝手に書くぞ~~~~
ルッキズムとかそういう問題っていろいろあるけど、結局彼への想いは「一目ぼれ」で始まってるのでそこんとこ惚気たい……
あと、ちょっとした嫉妬心で狂いそうになってたのが若干回復したキッカケもここにもあったから書く。
20年前に彼を一目見た瞬間に「うわ!かっこいい男の子いる!!私に用があって今ここに来てるってマジ!?優越感スゴ!」と衝撃を受けたのを皮切りに
私に違う彼氏ができたりありがたくもアプローチしていただいたりで他の男性を何人見ても
「いや、あの人の方がかっこいいな…」と基準になってしまうくらい“好み”として概念がインプットされてしまったような、
とりあえずそんなレベルで彼は私のツボルックスなんだけど20年経った今どうなってるかって、
私目線ではほぼ変わってない…と一勘違いしたほどに(なぜ勘違いかは後で)アラフォーの今もぶっちゃけ「27歳です」くらいなら通じると思う。
けど垢ぬけたし精悍になった……っていうかんじだからほんと爆イケなんだわ…さい&こう…
彼は妹と同い年なわけだけど妹も「若いな…」って言うくらいだから、やっぱり見た目は若いんじゃないかな。
そこがコンプレックスらしいけど(かんわいい~~~~~~~~)
「イケてるわ~ビジュ強いわ~」って話すと「そんなこと言われたことない」ってマジレスされるから私補正は強めかもしれない。
で、私はというとそんな彼と「顔が超似てる」と周りに言われるから多分顔は同じ系統なんだと思う。
歳については、実は若い頃「15歳くらい上って言われても納得できるwww」ってからかわれるタイプの老け顔だったから
子供のころ老け顔だった人は年を取ると若く見えるっていうアレで今若見えしてるっぽい。
仕事で「年相応に見られないことが状況を不利にする」という事態が起こる程度。
……というかんじの二人組なんだけど、あるとき大昔に使ってたカメラのメモリを確認してみたんだよね。
「うわマジか、見たくないな」って思ったよ。
だって、おそらく男性が一番かっこいいであろう時期を別の女と過ごしてたっていうか、そのころを独占した女がいるって思ったら嫉妬しちゃうなと思って。
けど目に入っちゃったもんはしょうがないなと思ってちゃんと見返したらさ、
不思議…あんまりかっこよくない……いや、かっこいいんだけど今ほどじゃないっていうか……
好みが変わったのか、単純に今ミドサーだから「若い子」を見てる感覚になってて若い頃の彼がストライクゾーンから外れたのか
とにかくかっこよくなくてビックリした。
若い頃は彼のことが好きだったりそうじゃなかったりでブレてたけど今はもう一筋だし惚れまくってるのを考えたら
「今、私が大好きな彼を作っているのはこの過去たち」と思えてちょっとだけ心に余裕ができたし、
「当時、今ほどの甲斐性や人間性を自分は持っていたか、好きになってもらえたか」と考えると超疑問だなと思って、
そういう意味で彼の過去への嫉妬の整理整頓ができるようになったキッカケではあったんだよね。
とりあえずただの面食いなわけだけどこんなかんじだから写真撮りまくり溜めまくり刷りまくりでやばいことになってて
そこを喜んでくれてるみたいだからいつも一緒に遊びに行くの嬉しいな。
付き合う前から今に至るまで、今の見た目を失ったとしても「好きだな」って思えることをたくさん見つけたと思うし
とにかくまとまらないけど私自身も「そんな彼に見合う女性であり続けたい」っていう願望が強くなったから今日も今日とていろいろと頑張る。
「古い政治を打破する」「既得権益に挑む」「虐げられし者の代表」といったいわば主人公的な立場になりきります。
①に沿うような形で、わかりやすいフレーズや、センセーショナルなフレーズを使いSNS等で発信します。とりあえず偏向しているとしてメディアを、既得権益として官公庁を仮想敵とするのがいいでしょう。
ここで重要なのは、根拠は薄弱でよく、その具体的な偏向や既得権益を必ずしも明らかにする必要はないことにあります。
偏向といっておけば元より不信感を持っていた人は多少引っかかりますし、具体例がなくとも既得権益といっておけばやはり官公庁に不信感を持っている人は多少引っかかります。
②まで行うと、あなたの主張に同意する者が現れるでしょう。彼らは貴重な支持者です。丁寧に寄り添い、返信を行うことで彼らはよりあなたに心酔するようになります。SNS等での拡散をお願いすると喜んで応じてくれるはずです。
SNS等で拡散されることにより、あなたの支持者も徐々に増えてくるでしょう。支持者がその信念から拡散する以外にも、インプレッションがお金になる今の時代です。収益目当てであなたを取り上げてくれる人も出てくるかもしれません。支持者のあなたに関する言動には虚偽が交じるかもしれませんが、所詮他人、質より量です。
ここで支持を深化するフェーズです。支持が広まるにつれ、あなたの一挙手一投足に勝手に意味を見出す人が出現するでしょう。どういうわけか、それなりの社会的ステータスがある人もあなたを支持し始めます。あなたが何も考えずに言ったあの発言、うっかりな失敗、それらの全てにそれっぽい理由を付けてくれます。②で根拠が薄弱で良いと言ったのはこのためです。
多くの人の目に留まるにつれ、あなたの言動を快く思わない人もまた増えてきます。「ピンチはチャンス」とは月並みな言葉ですが、これもまたあなたの支持者を結束させるまたとない機会となります。
①で作り上げた設定を思い出してください。主人公に困難は付き物です。その困難はメディアや官公庁に起因するものです。困難に対して諦めない主人公を演じることで、支持者はあなたに感情移入し、判官贔屓的に擁護をしてくれます。元よりメディアや官公庁への不信、漠然とした既得権益という概念の嫌悪感を有している人々ですので、さぞ士気も旺盛となるでしょう。それっぽい理屈は頭がいい人が考えてくれますし、オールドメディアの誤情報に比べて個人発信の誤情報は咎められにくい傾向にあります。とにかく詭弁も屁理屈も振り回し、数の暴力を活かしましょう。
また、こうした情報の奔流により、無関心層を惹きつける余地も生じます。情報の真偽判断にはコストがかかるため、支持も不支持も雰囲気頼りです。とにかく数で圧倒することで、情報の吟味を放棄させ、味方に引き込めるでしょう。
ここまで来るともう大丈夫です。余程のことがない限り支持者が離れることはないでしょう。何故ならあなたは既得権益層に立ち向かう皆のヒーローで、ヒーローは道を違えるはずがないのですから。
・少なくとも私はこんなやり方をする政治家を支持はしない
PCの監査を権利の濫用とされた件もあるし、合法とされた件もあって、どうすれば適法に処理するにはどうすればいいかというのはもうかなり確立されてる。
最低限のハードルは就業規則やそこから呼ばれる社内ルールなどに明記されて、本人に通知されていなければならず、そこに明記された手続きを経てなければいけないとされている。
一方で、パソコンは会社のもんなんだから何もかも見られても当たり前だから通知する必要がない、とか、システム的に見れているのは常識だ、といった主張はほぼ認められていない。
また、監査で業務上しった情報を社内で流布したため被害を受けたみたいな裁判例はいくつもあって(ITに関係したものも、関係してないものもあるが、基本的にはIT関係に限らない概念)
今回の件、被害者が存命で訴えられたら県は勝てないと思われる。
もともとエビデンスという言葉が使われていた医学分野ではエビデンスレベルという概念があるのに、ネットで使われるエビデンスにはそれがありません
evidence自体はもともとただの英語の普通名詞みたいだけど、現在のエビデンスの用法が医療分野から派生したものだという話のエビデンスはありますか。
ひとの増田を『みんなおまんこ』みたいな紹介するんじゃねぇよ😠
𓂺という文字は、古代エジプトの表記法に由来する象形文字です。具体的には、この象形文字は座っている人物を表し、人間や神をさまざまな姿勢や役割で表現することが多い一連の記号の一部です。
主な詳細:
一般的には、膝の上に手を置いて座っている人物が描かれています。
テキストに応じて、人間の姿、特定の個人、または座っている存在に関連する抽象的な概念(安定性や存在など)を象徴する場合があります。
古代エジプトの象形文字では、このような数字は決定詞(単語の意味を明確にする記号)または表意文字(考えを直接表す)として機能します。
単語の中での使用法によっては音韻的な意味を持つこともあります。
このような座像は、畏敬の念、安定、落ち着きなどと結び付けられることが多く、エジプト美術における人間や神々の描写を反映しています。
これらは、特に形式的または敬意を持って人間を罵倒するときに、人の名前、タイトル、または役割の説明に使用されることがあります。
この象形文字をどこで見たか(例えば、芸術作品、テキスト、象徴的なテキストなど)についての詳しい情報があれば、その解釈についてより正確な情報を提供できます。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
ブクマカ諸氏はSNS、YouTubeは陰謀論にあふれている、エコーチェンバーがどうのこうのと言う時に、自身は陰謀論でもエコーチェンバーの中にもいないと確信するに足る担保をどのように確保していますか?
それはエビデンスだと言われるかもしれません
なぜかと言うと、もともとエビデンスという言葉が使われていた医学分野ではエビデンスレベルという概念があるのに、ネットで使われるエビデンスにはそれがありません
エビデンスとは白か黒か断じるのではなくグラデーションの度合いを示す言葉であったのに、安易に使われる方はグラデーションの意識が薄いと感じています
漫画のネームって実際は絵コンテとか下書きと呼ぶ方がふさわしいよなと常々思う
なぜネームと呼ぶんだ
とりあえずwikipedia見るか……
語源は英単語「name」の「指定する」と言う意味で、写植の書体やQ数を指定するために、台詞を事前に抜き出しておく必要があったところから。つまり、個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業が本来の「ネーム」であり、そこから台詞そのものをネームと呼ぶようになり、ネーム作業の効率化のために事前に用意するようになったコマ割りしたものにラフな構図や台詞だけを描いたものまでもがネームと呼ばれるようになっていったのである。[要出典]
[要出典]か……
マンガの「ネーム」はいつから描くようになったのか? - Togetter [トゥギャッター]
先人のまとめがあった
1969年頃、「若草」で知り合った年上の漫画家志望者たち(担当さん付いてる)は、いつも編集部にネームを持って行ってました。当時の少女雑誌編集部はどこもそうだったかと。私は70年(中学生です)に別マ編集長に「次はネームで持ってきて」と言われました。
『石ノ森章太郎のマンガ家入門』(1965年)にもストーリーマンガを描く準備として、プロット→シノプシス→コンストラクションときて、コンテ(今でいうネームに相当)を作りましょうと書かれてますね。「物語の細部をかきこみ、コマわりまで完全にしましょう」「めんどうなようですが、この段どりが、もっとも重要なのです」
昔だとやっぱりコンテって呼ぶケースもあったんだな
用例として信頼できそうなのはここらへんか
本来のネームである「個々の台詞に対して書体やQ数の指定をする作業」は今もやっているのかな
詳しくない
死んだ概念かもしれない
複数人で分担するからこそ指定する必要があり、ひとりで作業が完結するならネーム(真)指定は必要ない
デザイナーとかが活躍する業界の仕事とか業務の流れを全くイメージできない 門外漢すぎる
生きている概念だとしてもネームとはもう呼ばないのかもしれないな
こういう「よく考えると何故そう呼んでいるかわけわからん名前」の語源を調べるの大好き
second(秒)とか なんで2ndが時間の単位やねん、みたいな
おわり 日記