はてなキーワード: つのとは
多分嘘だろうね
でもマイノリティ盾にして他社キャラ持ち込みNGのディズニーに等身大ミク連れ込もうとして、ぬいぐるみならオーケーですって言ってもらえたのに理解がないとブチギレたり、オタク達と組んでフィクトセクシャルという性的マイノリティを弾圧するなって表現の自由界隈の盾にしたりとか、やることなすことやべえんだよな。
表現の自由オタクも元々は現実と妄想の区別はついてるつってたのに、いつの間にかオタクは現実の女のように2次元を愛しているマイノリティだと主張始めていてドン引きよ。
特殊な訓練を受けた6人の時空犯罪者たちが、任務のせいで入り込んでしまった死のループから抜け出すために、モノリス的な奴を使って時空航行装置をいい感じにアレしてたんですね。
そんでまあなんだかんだで時空の狭間で並行世界の時空航行装置まで辿り着いたから2つの航行装置の力を使って何かアレしようとしてる所で、「保管庫で時空凍結した別の仲間を見てきてくれ」って言われて見に行ったんですよ。
んでまあ冷凍睡眠装置を見たら、今回の任務が始まったばかりの姿で保管されている仲間(今までの旅の間に2人が消滅してる)の1人が無事であるのは見つかったんですけど、1人はそもそも冷凍睡眠装置にいないんですよね。
それを報告しに艦橋に戻ったら、2つの航行装置の間でソレをアレしてる影響によって世界が抽象化されていってなんか真っ白い宇宙に点と線がフワフワと浮いてるだけになって、まあインターステラーの最終局面みたいな空間に入っちゃったわけです。
んで、このあとどうしたら脱出できるのかな、そもそも今どんな状況なんだろうって考えてたら、世界がフリーズしたんですよ。
最初、時空同士をアレした結果として世界が止まったんだと思ったんですけど、ふと気づいたんですね「あっ、俺の脳がこの状況についてこっからどういう理屈をつければいいのか分からなくなったな」って。
ストーリーテラーとしての俺の脳が全然分かってない展開をSF映画やゲームのツギハギでなんとかやってたんですが、最後の最後に派手にSF考証ぶっこんでそれっぽく最後の時空跳躍かます直前に、「そもそもどういう理屈で跳躍させればよくてそのためには主人公たちがどういう操作をすべきで世界はどういう風景になるのか」ってことが分からなくて夢が処理落ちしたわけです。
途中まで結構ソレっぽく頑張ってたのに、なんかもう完全に萎えて起きちゃいましたよ。
どうしようもないなら割り切って心象風景みたいな所で赤ん坊の泣き声でも流しておけばよかったんちゃうかと思ってしまうわけですが、それをやらずに最後まで頑張ろうとした俺の無意識の姿勢も否定しがたくはありますね。
夢ってたまにこういうことありません?
前回どういう感じだったのか言えって言われても覚えてないんですけど、たまにこういうのあるなあって感覚だけは残ってるんですよ。
マジレスすると、複数の異なる作品をそれぞれの絵柄で一つの作品に落とし込むのは超絶的な画力が必要になるから。
「3年B組一八先生」をやった錦ソクラほどの画力を持つ同人作家なんて、そうそういないのよ。
まあ、同人世界でも涼宮ハルヒとR田中一郎をまぜた「究極超人は~るひ」みたいな作品もあるにはあったが、あれは六道神士の卓越した技巧があってこそ成り立ってる作品だったし。
芸術作品には、そのメディア特有の表現を駆使し、他のメディアでは再現できないような唯一無二の体験を観客や鑑賞者に提供することを目指したものがあります。このような作品は、そのメディアの可能性を最大限に引き出し、芸術としての価値を高めるでしょう。
例えば、絵画であればキャンバスや画材の特性を活かした表現、彫刻であれば素材や造形の特徴を活かした表現、音楽であれば楽器や作曲技法を駆使した表現など、それぞれにしかできない表現があります。このような作品は、そのメディアの特徴を深く理解し、表現の可能性を追求した芸術家によって生み出されます。
一方、商業的に成功を収める作品には、メディアミックスがしやすいという特徴があります。メディアミックスとは、一つの作品や物語を複数のメディアで展開することです。例えば、小説が映画化や漫画化され、さらにゲームやアニメなど様々な形で展開されることがあります。
このような作品は、元となる物語やキャラクターの魅力を幅広いメディアで伝えることができ、より多くのファンを獲得することができます。また、複数のメディアで展開することで、それぞれのメディアの特徴を活かした表現を楽しむこともできます。
芸術作品において、そのメディア特有の表現を追求することは重要です。絵画、彫刻、音楽など、それぞれにしかできない表現を極めることで、芸術としての価値が高まります。一方、商業的な成功を目指す作品では、メディアミックスがしやすいことが重要となります。小説や映画などを複数のメディアで展開することで、より多くのファンを獲得することができます。
このように、芸術作品と商業的作品は、それぞれに異なる価値観や目的を持っています。そのため、良い芸術作品と売れる作品は、決定的に異なるものとなってしまうのです。
女のあらゆるライフイベントに被害者意識つのらせるくせして、都合のいい時だけ出生率の低さをさも社会問題みたいに言うんだもんな
そんなに産むのも育てるのもイヤというならせめて堂々とバンザイできないのか
犬と女に多いんだけど、道路の端を建物にへばりつくように歩くやつってけっこう多い
そいつらに言いたい
だいたい歩行者同士は左側通行ですれ違うことが多いからそうしろ
前のやつが左側を歩いているのに右側の建物にへばりつくように歩くのはやめろ 前のやつの後ろを歩け
セットバックされてる建物にへばりつくように歩くな そこは道路じゃなくて他人の敷地だ
以上
日本のゲームスタジオが、このレベルのオープンワールドを作りあげたことに感動している。
もちろん、スパイダーマンやアサシンクリード、サイバーパンク2077といった一線級のオープンワールド作品に比べると、まだまだ物足りないことは否めない。
だが、それらの背中が見えるところまで来ている、食らいつけているという印象を持った。
ゲーム自体はわかりやすく『Ghost of Tsushima』の影響を受けている。
海外のゲームスタジオが日本史を題材にしてあれほどのものを作ったのだから、コーエーがそれ以上のものを作らねばどうするんだ、というアンサーだとも言える。
実際、オープンワールドとしてはやや作りが古かったツシマに対し、『Rise of the Ronin』は最新のスタンダードを取り入れてブラッシュアップに成功している。
オープンワールドで最も重要なファクターである「移動の自由度」は高い。
幕末の横浜・京都・江戸を舞台に、その街並みを縦横無尽に駆け巡ることができる。
手が届く段差は基本的に登れるようになっていて、慣れれば建物の上をぴょんぴょんと軽快に移動できるだろう。
敵の手薄なところからステルスで侵入してもいいし、屋根にのぼって遠距離攻撃してもいいし、上空からいきなり敵のリーダーを狙ってもいい。
オープンワールドならではの立体的で自由度の高い攻略を楽しめるようになっている。
ストーリーに関しては、かなり荒唐無稽な描写を交えつつも、黒船来航から江戸開城までの歴史を追っていく手際はさすがコーエーである。
登場するキャラクターは、ほとんど幕末オールスターと言ってよく、それぞれに個別のサブクエストがあり、いくつかのifも織り込んでいてなかなか面白い。
1. 鈎縄はどこでも使えるべき
移動の自由度は高いと書いたが、鈎縄が特定ポイントでしか使えないのは重大な瑕疵である。
この点で言えばスパイダーマンどころか隻狼以下だ。
アクション面の不満はこれに尽きると言っていい。
この手のゲームでは敵の視界が異常に狭いのが常ではあるが、それにしても本作はかなり違和感がある。
相当な遠距離からいきなり攻撃されることもあれば、すぐ近くでどたばたと戦っているのに他の敵はそれに気付かず棒立ちしていることも多い。
プレイヤーがエリアの境界から一歩でも出ると、追いかけてきていた敵が急に戻っていくのも、さすがに作りが雑すぎると感じた。
ある人物を殺さない選択をしたのに結局殺されてしまうとか、幕府側につく選択をしたと思ったらいつのまにか長州側についているとか、そういうのは本当によくない。
坂本龍馬をパートナーにすることで、最初は攘夷志士として行動して、次に勝海舟と出会って幕府のもとで行動して、という流れは上手いと思ったのだが。
京都の最初で佐幕ルートか倒幕ルートかを決定したら、そこからは完全に専用シナリオになる、というかたちが良かったのではないか。
やはりサイパンなどとの決定的な差はシナリオの質・量なのだろう。
サブクエストなども楽しめはしたが、史実そのものの面白さを借りているところが大きいとも感じた。
ただ、そうした点を考慮しても『Rise of the Ronin』は十分によく出来たオープンワールドゲームである。
一つの論文を読んでも何の意味もないってことも分かってるよ。自分が尊敬してる東大大学院教授の先生が常日頃言っていた。
それとは関係なく、ネットの自称医者の言うことは見る価値がないとまでは思わない。
論文は科学的根拠だが、ネットの自称医者のボヤきは現場の人の感情面を知るきっかけになることがあって参考になる。
それと現場は科学的根拠やガイドラインのみで運用されてるわけではないので、実運用はどうなってるのかを探るきっかけにもなる。鵜呑みにするのではなくあくまで情報の1ピースとして。
実は、ちょっと思うことがあった。あるヤツの行動にムカついてしまった。先週末に投稿しようと思ったけど、頭に血が上っていてイマイチな出来だった。一度推敲をしてから投稿することにした。
自分は官公庁に勤めている。政令市のようなオシャレ庁舎ではなくて、関東の片田舎にある役場である。
まず言わせてもらうと、年齢に関係なくマナーがなってない奴がいる。「周りを不愉快にさせない態度や技術」がなってない奴だ。
目に余るヤツがたまにいて、イラっときた。そういうヤツは市役所を辞めてほしい。社会から消えるべきだと思う。どれだけ周りを馬鹿にしてるのか、わかってない。ぜんぜん自分から喋らない奴とか、話を振られても知らないフリをするヤツとか、上の人間にお酌を勧められても飲まない奴だ。人間社会をバカにしている。
以下、そういうヤツ(飲み会に非協力的な職員)について話していく。特定はされないと思うが、一応はぼかして書かせてもらう。私の自己責任だ。
まず、上に挙げた1人として30前後の若手職員がいる。飲み会では何の役割も果たさない。他部署では幹事を引き受けたことがないし、若い頃は断ったことすらあるという。さらに言うと、前の部署では職場の親睦会にすら入ってなかったらしい。噂で聞いた。
先週の飲み会は六時半に約30人で、洋風居酒屋の広間を貸し切ってスタートしたのだが、ほかの若い連中が皆のビール瓶を用意したり、誰がどの席に座るか決めたり、年配社員を周ってどのお酒を飲むか聞いて回ったりしてるというのに、そいつは何もしない。まだ一応は若手職員だというのに、ほとんど手伝わない。
それだけならまだいい。許しはしないが、まああり得る範囲だとしてやろう。世の中には自閉症とか発達障害の子だっているだろう。ただ個人的には、そういう障害のある人が公務員になってはいけないと思ってるし、私の上司(主幹、課長、部長)だってオフの場ではそう言っている。
悲しいけど、現実なのだ。公務員は困っている市民を助けられる人でないといけない。障がい者にはそれができないのだ……。
しかしだ。例のそいつは限界を超過していた。なんと、春の飲み会だというのに、ビール瓶を持って全体の座敷を周ることすらしなかった。周りのことを仲間だと思ってないのだ。いやマジで、自分の直属の上司にも酒を注ぎに行ってなかった。ただ飲み食いしてるだけ。
ただ、ほかの一部の連中とは会話をしてた。少しだけど。飲み会の広間の端っこに立って、後輩や年配の人と一緒に飲んだりもしてた。女と飲んでることもあった。でも、「みんな」と会話してるかって言ったら、そんなことはなかった。
さらに思い出したのだが、私はそいつがさらに若い頃を知ってる。確か、5,6年前も同じような態度で、上の人間から飲み会の最中に怒られて、「みんなに酒を注げ!」って命令されていたっけ。で、注ぐことはしたんだが、今度は「注いでやるからお前も飲め」と言われたところ、拒否したのだ。
私の記憶では、楽しいはずの飲み会の最中に、こんなやり取りがあった。
「帰りが自転車だったら飲んでもいいだろう。一杯だけでいい。上から勧められたら飲め」
「ここは呑んでおく場面だ。呑まなかったら男じゃない」
「酒を勧められたら飲まないと。特に上の人から。法律とかいう問題じゃなくて」
「お前。結婚してるか、する予定があるのか……ない? だったら、そこにいるあいつの方が『上』の存在だよ。婚約者いるんだからな」
「結婚できない人間は、お前みたいに人間性に問題があるやつが多いんだよ」
自転車だから、酒が飲めない……? それはあくまで法律上の話であって、そんなもん警察官だってわかってて見逃すよ。今だったらわからんが、当時だったら多分見つかっても、見逃してくれる。
それで、何度も何度も上の人間や先輩方に「酒を飲め」って言われてたけど、結局従わなかったんだよな。で、「お前は辞めろ!!」って怒鳴られてたけど、「労働者の自由です」って返してたっけ。
私の年齢は言わないが、はてなユーザーの平均と同程度かと思われる。ただ、私よりずっと若い人、特に民間企業の人から見ると、飲み会中にこういう行動はおかしいだろって、わかってもらえると思ってる。
その子は、飲み会中はほぼ1人でゆったりしてたよ。たまに誰かに話を振られて、「うんうん」って相槌を打つのが基本だ。別にこんなのを視界に入れたくないが、席が近いので入ってしまう。姑息にも、自分は喋らないのに、周りと同化して喋ってるフリをしていた。特に、直属の上司が近くを歩いてる時はそうだった。飲み物を注がれるのを回避してるのだ。
せっかくパートさんが酒を注ぎにきても、そいつは烏龍茶を飲んでいて、「自分は呑めないんです」とかほざきやがる。全く別の会合があった時、そいつが実は酒飲みなのを見ている。
私は、こういう飲み会で苦心した人を何人も知ってる。例えば、ヤツと同じ職場の若手社員は、この飲み会を運営するために必死こいてた。開催前は、いろんな先輩のところを公務中にもかかわらず廻って、おいしく飲める店を聞いていた。飲み会中は、男連中はグラスや酒を並べるとか、みんなの注文を取るとか、二次会の前にはタクシーや代行を呼んだりしてた。
女の子は、上の人間や年配社員の席に近くに行って、キャバ嬢並みとは言わないが、話相手になったりしてる。高校を出て就職したばかりの初々しい子も、内心ビビりながら、全員のところを周ってお酌をしたり、されたりしていた。
ある子は運悪く、ちょっと下品なこと(男性がビール瓶を○○に見立てて相手のグラスに酒を注ぐやつ)だってされたけれども、ニコニコしながら酒呑んでたよ。きっと嫌だったろうな。でも、みんな我慢してるのだ。私だって若い頃はそうだった。
一番悲哀があるのは臨時職員さんだ。昨日は、飲み会に臨時職員さんが4人きてた。会費が正規職員の半分だから来てるのもあるけど、その4人はみんな、飲み会に参加している人全員のところを周ってお酌をしてたんだよな。もちろん、そいつのところにも行ってた。
なぜそんなことをするのかって、正規職員、特に上司に嫌われると職場を追われるからだ。官公庁で働いている臨時職員の人事権は、人事部署ではなく担当課にあるのである。そういう必死さが、悲哀がある。だがそいつは、「烏龍茶なんで~お酒呑めないんです~」と彼女らからのお酌を断るために嘘をこいていた。マジでむかつく。氏ね。
飲み会に非協力的なヤツは理解できない。みんなで盛り上がるのが普通だろう。普段の人間関係だってさ、常にメンテナンスをし続けないと壊れてしまうだろう。飲み会はその一環なのだ。それがわかってない。人間は、生きてる限りは繋がらないといけないのに。
いや、ただ……唯一褒めるところがあるとすれば、奴は、自己紹介タイムの時は堂々としていた。「自分フツーに頑張ります!」みたいな感じで、めっちゃ堂々とした感じで、自分が正常な人間みたいに振る舞ってる。一応は笑いだって取っていた。意外なところでスマートにボケて、全員の笑いを搔っ攫っていた。それを見てる人達が「おー」みたいな雰囲気になってる。錯覚なんだけどな。人を騙す天才である。
結局そいつは、ほぼ手伝いをすることもなく、まったりと1人につき7千円のメニューを堪能していた。烏龍茶を無限にグビグビ飲んで、二時間半の飲み会が終わると、上司の目を盗んでサーっと消えて行った。
ああいう自己中心的なヤツを見ると、マジで職場から消えてくれねーかな、と思う。ああいうのが年配になると、いわゆる老害職員になる。職場歴が長いからって、偉そうな顔をして職場で好き放題に自己中ムーヴを取るのだ。
それで、若い子がそういう連中と接して、仕事が嫌になって、東京都にあるイマドキな会社に転職していくんだよな。これまで見た限りだと、大学や高校の事務職員とか、リクルートの分社とか、フリマアプリの会社とかだ。有能な職員から消えていくのは悲しい限りである。
私は今、四十代だ。これを読んでいるあなたはどう感じただろうか。もしあなたが、会社の飲み会に参加して数十年とかだったら、ぜひ感想を聞いてみたい。
横だがそりゃanond:20240427031100みたいなやつのことだろ
敬語をつかったらChatGPTに見えるのでしたら私もChatGPTに見えるでしょうか
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」(未成年の子の投票は親が代理して行う)を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。たとえば日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、調査局の報告書(タイトル:生まれた時からの選挙権[構想]の諸問題)という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではないことに驚いた。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の選挙権を付与するモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法(憲法)改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方子の選挙権を親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。また、少なくとも表向きは、少子化対策のために子持ちの票を増やそうという理由でもない(その理由の馬鹿らしさはこれでも読めば良いhttps://mond.how/ja/topics/v35a8jk8lwp89el/jw3f2o4dj0z9fo4)。あくまでも普通選挙の拡大に資するというのが理由である。より民主的な政治制度への変更を試みようという提案(として自らを位置付けている)というわけだ。ただ、民主主義は平等選挙原則も同様に要請するから、ドイツ人がやっているように、平等選挙原則と両立するかを考えなければならない。
平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要がある。それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論は話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうだ。私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。それでは子から投票を付託されたという代理人という建前が崩れる。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、ここから分かるように一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞いた覚えがある。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないようになる制度の可能性こそを真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、もう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、そもそも平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がない。上記の議論では、平等選挙原則は基本法(=憲法)改正によっても曲げることは許されないと言われている(※※)。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。つまり、賛成・反対の議決もなく、本格的な議論もされずに一蹴された話だということだ。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
※※
これはドイツ基本法79条3項の規定故ではあるが、憲法改正の限界という純法律的な論点を脇に措いたとしても選挙権の平等を真面目に考えないことが民主主義者であることを疑わせるのは変わりはない。なお、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)が、平等選挙原則の排除が憲法改正の限界に引っかかる理論的可能性はあるだろう。
(追記)
それにしても、吉村氏に関しては、自身が子の分も含めて4票あるというから、「代理」モデルの利点である平等選挙原則との抵触回避の利点をわざわざ捨てているように思う。利点を捨てるような発言を自分からしていくあたり、本当にただの思いつきなのだろう。ドイツ人の議論を持ち出しながら(これをやったのは音喜多氏だが)、ドイツ人が回避しようとしていたことをやってしまうのは無様だ。「消滅可能性自治体」に引っかけた話題作りという以上の意味はないのだろうが、話題作りのために民主主義の根本原理に手を触れるのはどうかしている。それが弁護士のすることだろうか。
(再追記)
俺がいた高校自分で言うのも何だけど進学校だったんだけどそのせいで民度が高かったからかそれとも俺がハブられてたからか学校裏サイト的なものが一個も無くて友達の低偏差値高校行ってたやつの裏サイトが羨ましくてそこの生徒じゃないのにずっと見ててあー俺も裏サイトで他人の陰口で盛り上がりてーって思ってたの何となく思い出した。恵まれてるのは俺の方なのに。
私は著書「統計データはおもしろい! -相関図でわかる経済・文化・世相・社会情勢のウラ側- 」(2010年10月技術評論社刊)の中で、この図録を含む上記3つの図録にもとづき、「少子化は公的支出で防げるか?」という表題の1章を構成したが、「政治の奇跡」へ向けての具体策として以下のように提言した。
「私は、究極の普通選挙として、選挙権を未成年にも与え、親にその代理投票権を許すという新制度について真面目に検討してもよいのではとさえ思っています。世界史上はじめてこうした制度をつくるとしたら、高齢化のスピードが最もはやく、高齢化に伴う社会保障制度のゆがみが最も深刻な日本においてではないでしょうか。」(p.121)
これは、一般には、なかなか受け入れがたい考えかなと思っていたら、同じことを考えている人は、予想以上に多いようだ。
経済学者の大竹文雄氏は2008年10月20日(月)発売の『週刊東洋経済 』に「子供の数だけ親に投票権を」というコラムを掲載している。
大竹文雄氏のブログでは、他にも同じ提案をしている例として「北海道大学大学院文学研究科の金子勇教授がお書きになった『少子化する高齢化社会』(NHKブックス、2006年2月刊)の148ページから149ページに記述があります。そこには、2004年4月に富士通総研の鳴戸道郎会長が「少子化コンファランス」でこのような提案をされたと記載されています。」とある。
さらに、東京新聞では、「ゼロ歳児から選挙権を」という見出しで、スウェーデンで「赤ちゃんを含めた将来世代に選挙権を広げよと提唱し、」同国で反響を引き起こしたイエーテボリ大学のボー・ロースタイン教授へのインタビュー記事(2011年2月20日)を掲載している。
「昨年9月、スウェーデンの総選挙では与野党は年金所得への減税について優遇策を競い合った。高齢化した有権者層の受けを狙った、投票を金で買うような行為によって政策をゆがめた」「いっそゼロ歳児から全国民が選挙権を獲得すれば、スウェーデンの政党は新たに誕生した約200万人の有権者の獲得を目指すことになる。この大きな一撃は政策の優先順位を必然的に変える。もちろん選挙関連法の改革が必要で、実際には保護者が子どもの代弁者として投票する仕組みが考えられるだろう
-夢物語では。
もともとは10年ほど前にスウェーデンの小児科医らの協会が考えたアイデアだった。彼等は経済的困窮に陥った子供たちを多く見る立場なので発想できたのだろう。私は当初『とんでもない考えだ』と否定的にとらえたが、学者としての調査で過去30年間、西欧社会で子供の貧困や精神的不適応が驚くほど拡大したことを実感しており、人的資源(子供)に投資しない政治、社会をもはや見逃せなくなった」
こうした投票制度は「ドメイン投票制度」としても知られているようだ。
親権者に子供の数だけ投票権を与えることで、間接的に未成年者にも投票権を与えようというアイディアは、「ドメイン投票方式」と呼ばれ、人口統計学者のポール・ドメイン(Paul Demeny)によって1986年に考案されたとされる。「ドイツでは2003年にドメイン投票方式を導入について議会で議論されたが、実現には至らなかった。そして2008年に再び議論されている。なお、ドイツでは ドメイン投票方式は子供投票権(Kinderwahlrecht)の名で知られている。」(ウィキペディア「ドメイン投票方式」2013.4.30)
提唱者のドメイン教授を招いた「ドメイン投票制度」についての討論会が2011年3月に催されている(NIRA該当サイト)。ここで、ドメイン教授は、ドイツ議会での議論のほか、シンガポールのリー・クワンユー元首相が同様の提案を口にしたこと、またハンガリーの新憲法草案として「子どもをもつ母親に1票を付加給付」という考え方が示されたことを紹介している。
自分が伝えたいことを正しい言葉使いで伝えられる能力は、今の子どもたちの間で危機的状況にあるのではないか。少ない子どもをみんなが大事に育てるあまり、子どもたち自らが要求しなくても、周りがセットしてくれる。何か単語をつぶやけば周りが気を利かせて読み取ってくれる。
それがいつの間にか、ほんの少しの情報から多くを読み取ることが要求され、読み取れないものは「空気が読めない」とされるようになってしまった。しかし情報は、完全な形で伝えるから誤解やエラーがなく伝わるのである。今ネットや子どもたちの間で求められている「空気を読む力」は、正しい情報リテラシーではないように思える。
ある種の不定方程式が無限個の解を持つ場合のkを決定せよという問題が存在するが、 x^n+y^n=z^nというきれいなものを考えて、それが無限個の解を持つのは、n=2のときに
限られるというような解釈もできないではない。
ゲームでタイパを考えない人って別にゲームを好きじゃないんだろうな。
1つのゲームを100時間遊ぶっていうのは、10時間で終わる他のゲームを10個犠牲にするってことなんだよ。
ゲームが好きだから、時間のかかるゲームになんて構ってられないの。
ただの暇つぶしとしか思ってなくて、安くて長く遊べりゃどうでもいいと思ってる人はウマ娘の無課金プレイでも死ぬまでやってたら?
IT業界で1つの言語が人気出てそれでブイブイいわせてるパイセンっておるやん
ワイは別の現場に出向中なんだけど
そこは自分以外全員そこの正社員でパイセンみたいな態度の人はいないわけ
だからパイセンのこと「なんか足りないな〜」みたいな目で見てるのがバレて
なんかキレられてる感じがする
すごい長文だけど「お前は間違っててコンドーは正しかったはずだ!」「そう思うからそうなんだ!」って狂ったように繰り返してるだけじゃん。
と言ったのに対して
「そう思うからそうなんだ!」と繰り返す馬鹿に付き合うの苦痛でしかないんだけど。
ーーーーーーーー
どうせ何も覚えてないだろうけど
これはもとよりkondoとかいうやつの口ぶりがまいたび俺の癇に障るというただそれだけの話で
そもそもどちらかが正しくてどちらかが間違ってるなんて言ってもねえぞ…
…とか言ったところでなあ。
な〜〜〜〜〜〜〜んにも通じないんだけどな。
他人の襟首掴んで対局強要するのに、駒の動き一つ覚えてないし覚える気もないわけよ。「飛車は飛べるんだぞーぶいーん」ってな。それでこっちがウンザリ顔すれば「おでのかちだー」ってな。
こんな馬鹿な俺を笑ってほしい。
30半ばにもなって彼女も居らず、毎日9時から17時の工場勤務。一日誰とも口を利かずに終わる日なんてざらにある。
元々趣味なく、これまで何かに熱中するようなことがない人生だった。今ではパチンコが唯一の趣味と呼べるのかもしれない。
かといって大勝ちしたところで使い道はなく、ソープ行って居酒屋で一杯するのが関の山だ。
今年に入ってから一度、驚くほど勝てた日があった。
その日もソープに行った。土曜の夕方。馴染みの店だった。指名したのは一番若い子。初指名だった。
くつろぐようにと案内された黒革のソファで待ち、並びには50近くに見えるスーツ姿の男と、大学生ぐらいのカジュアルな格好をした青年が居た。
ようやく俺の名前が呼ばれると立ち上がり、迎えに来た嬢が一瞬眉をしかめる。俺はそれを見逃さなかった。
こちらへどうそ、と嬢はにこやかに俺を案内する。俺の一歩前を歩き、手は握りらない。踵は少し擦り減っていて、俺の靴と同じように。
靴を脱いで部屋に入ると嬢は俺に抱き着いて来る。キスをすると、洗い場に向かい、体を洗うために衣服を脱ぐ。
俺を担当する嬢にはいつも刺青がある。それは顔に彫り込まれ、”笑顔”という刺青を俺は絶えず目に入れる。
嬢は俺を座らせ、身体を洗いながら「どんなお仕事をしているんですか?」と聞いてくる。
俺は適当に嘘をつき、嬢はそうなんですね~と頷く。
ここの女は大抵の男を馬鹿だと思っており、俺も大抵の女を馬鹿だと思っているので、ちょうど釣り合いがつく。
だからときどき俺は自分というものを見失いそうになる。挿入し、快楽に浸るその瞬間でさえ俺は自分のことを俯瞰するように考え、すべてが馬鹿らしく思えることがあった。まるで彼女の刺青が俺の肌にまで浸透してきたかのように。
年齢のせいかもしれない。
地元の駅に着いたのは昼頃で、家までそれほど遠くないので歩くことにした。
遠くない、といっても徒歩で1時間ほどは掛かり、それでも町の様子が変わっていないか確かめて歩くのも悪くないなと思えたのだ。
彼は(Aとしよう)記憶のままの顔をしており、今も裸眼で、当時の面影を深く残していた。
Aは俺だとすぐに気づいたようで、声をかけてきたのは向こうからだった。最初、親し気に近況等を話しながらも何処かそわそわした様子を見せ、一段落つくと口を閉じた。一間を開け、勢いをつけて口を開けると本題と言わんばかりに「そういえばさ~」とAはにやけながら言った。
え?と口に出した。そんなことは知らない。
俺に構わずAは片手の指で輪を作ると、もう一方の手の指をその輪に通し、それを繰り返して見せた。
その様子をAの隣で観ていた青年が戒め、すみませんと俺に言った。彼は眼鏡をかけた青年で、面識はなく、そのことに気付いたのか「Aの弟です」と彼はそのあとすぐ自己紹介をした。
失礼なことをしてすみません。そう言いながら弟は含み笑いを持たせ、軽く頭を下げ、それから俺たちは別れた。
実家の前に着くと俺は家に入るのを躊躇った。その場で行ったり来たりを繰り返していると家から姉が出ていて「何してんの?」と言われた。
数年ぶりの再会だったがの姉の印象は記憶通りで、40前にしては若々しく見えた。
俺は姉の目を見れなかった。どうかした?と聞かれ、最初は答える気にはなれなかったが根負けして「Aに会った」とだけ伝えた。
姉は「ああ…」とだけ言い、それから二人とも黙り込んだ。実家の前の道路で、しばらく二人で立ち尽くしていた。
ここに居ても仕方がないから、と姉は家に入るようにと促してくる。
渋々俺は姉の後に続いて家の中に入ると両親は縮こまったように見え、リビングは昔よりも広々と見えた。がらんとしていて、実際に物もなくなっている。
自分の部屋に行ってみると家を出た時のままで、時代に取り残されたように変わっていなかった。
このうち、壊すから。いつの間にか姉が戸口に立っていて、俺にそう言った。動揺の同様の色を見取ったのか、建て替えるってことだからと姉は言う。
だから、この部屋の物もどうするのかちゃんと決めといて。どうでもいい。と俺は言った。
居場所がないように思えて俺は散歩に出かけた。行く当てはない。ぶらぶら歩いていると一軒のパチンコ屋が目に入った。ずいぶんと昔からある店舗だった。
まだあるのかと感慨深くなり、中に入ると安堵感がどっしり現れた。俺は日が暮れるまで打った。最終的には-1kで終わり、少し歩くと明かりが見えた。
それはブックオフだった。学生の時と比べると俺は本をまったく読まなくなっていた。漫画すら読まず、気になる漫画があればYouTubeで調べ、そこで得られる情報だけで十分に満足していた。
だから本を売っている場所を訪れること自体が本当に久々なことだった。どうして入ったのか?なんとなくだったと思う。
店内を歩いていると一冊の本が目に入った。
それはエミリーディキンスンの『続自然と愛と孤独と』という本だった。
俺はエミリーディキンスンなんて全く知らないし、手に取るまでこれが詩集であることさえ知らなかった。
それでも気付くと俺はこの本を持ってレジへと向かっていた。まるで俺に残された唯一の良心がそうさせたように。
定価1100円と書かれている本を俺は1000円で買い、それから暗くなった夜道を歩いて帰った。
リビングに入ると両親の姿はなく、テーブルの上には料理だけが置かれている。ちょうど姉がお風呂から出てきたようで頭にタオルをかけて歩いてきた。
おかえり。どこ行っていたの?と聞かれたので俺はブックオフと答えた。
ブックオフ?珍しい。と姉は言った。
テーブルの一角にあぐらをかくように座り、頭のタオルを撫でるようにして髪を拭いた。
とうさんとかあさんはもう寝たから。ごはん、まだでしょ?と姉がいい、俺は頷いた。
じゃあ一緒に食べよっか、と姉がいい、俺は頷いた。
食事が終わり、自分の部屋に入り、自分のベッドで久々に横になると俺は買ってきた本を袋から取り出した。
仰向けに寝そべり、適当にページを開いた。111ページ。そこにはこう書いてあった。
私はあなたと暮らせない
これが人の世というもの
そして「人生」はあちら側の
俺は本文を読むのも忘れて、あの嬢のことを思い出していた。俺は酔っていたのだ。
嬢の笑みが脳裏に浮かび、その顔が一瞬、姉になった。
俺は本を閉じ、横に置くと、深く深呼吸をした。目を閉じ、祈りたかった。
しかし誰かを救うために祈るには、俺はもう歳を取り過ぎていたのかもしれない。
おそらく今年のGWは帰らないだろう。
俺はもう駄目かもしれない。