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2021-01-14

anond:20210114003602

やっぱりNiziUブームラブライブデジャヴを感じるな。

二期の告知がでてからアニオタ内で「あのラブライブの2期」みたいに騒がれだして、「なんかそんなんあった気するけど流行ってたの?」って思ったもんだよ。

円盤の売上とか知らねーし。一期放送時の2013年ってまだ「みんなご存じラブライブ」って感じじゃなかったような…リアタイだとたまこまーけっとのほうが話題になってた印象がある

で、まあ「それは僕たちの奇跡」がオリコントップ3とかになって驚いた。

一期でエモい青春群像劇みせてオタコミュニティ内で盛り上がりが過熱していたところに曲を投下したら見事にスマッシュヒットしたって流れが、Nizi Projectが終わってからMake You Happy」でブーム世間に周知させたのとなんか重なる。

あのころローカルアイドル地下アイドルムーブメントを反映してアイドルを取り扱うドラマアニメ散見されてたから、ラブライブもその一つとしか思ってなかった。

アイドルが飽和してどんどん奇抜な方向に流れていた時代ラブライブ流行ったのは、シンプルな成長ドラマとそのハイライトとして歌唱シーンを使用することで楽曲物語相互作用を図った点が見ていてわかりやすかったからだと思う。

アイドルブームも今は昔で当時勢いのあったグループが続々となくなる今、真っ当にかわいくて前向きであることを前面に出すNiziUの原点回帰的なコンセプトはなんかあのころに似ている気がする。

まあバックストーリーを売りにするのはかつてのモーニング娘。AKBももクロもそうだったんだけど、「あどけない女子が一つのグループとなって活躍する」ってだけのシンプルストーリーを1クールテレビ番組としてパッケージングしちゃったってところで、これラブライブの感じに近いんじゃないかって思う。娘。AKB一筋縄じゃなかったし、ももクロ物語あくまメンバー発言ファン口コミしか存在しなかった。

でも、そう考えると生身の人間生き様をこんな風に消費しちゃっていいのかっていうリアリティショーへの疑問も当然感じるんだよね。

NiziUは古くはアクターズスクール、今でいえばTWICE等のK-popといった、ローティーン女子が主だった支持層になるタイプグループだと思う。

ダンススクール雑誌モデルに憧れる延長上にいるアイドル系譜な。

そういった方面意識し一時代を築いたE-girls2020年12月解散。またNiziUと同じく韓国芸能事務所が協賛するオーディション番組発のIZ*ONEも今年4月活動終了

ファン層が被りそうなグループ終焉デビューが重なったためにそれらのファンからの注目を集められたことがヒットを加速させたと思う。

そうはいってもNiziUは洗練されたK-popを歌い踊るのに、発展途上にある粗削りさや初々しさを売りとする極めて日本的キャラクターももっている。

八頭身美女いかついアイメイクラッパーが一瞬の隙もないパフォーマンストークをするようなのがこれまで日本話題になったK-popアイドルとすれば、それまでなかったような柔らかさをNiziUからは感じる。

その日韓エンタメハイブリッド感が新しいし、それが日本大衆にうけている一番の要因かもしれない。

個人的にはモーニング娘。とNiziUってそこまで被らないと思う。

今の娘。ベテランで洗練された9~11メンバーフォトジェニック12期~14期、新人の15期という世代間でのカラーの違いがあって、それぞれのジェネレーションの交わりが垣間見える。

そして意外と今のハロプロには隙はない。研修生上がりとそんな連中に圧倒されない子で各グループ構成されているのでデビューからタレントとして完成されている。

もはやモーニング娘。は「あのポンコツがこんな立派に成長しました」というような見方をするものではない。それは道重さゆみ卒業で終わった。

つんくが癌で一線を退いたあたりから心なしかハロプロにおけるオーディションのあり方は変わった。それがいいとも悪いとも思わないが。

芸能経験に乏しい子がスターダムを駆け上がる成長ドラマの一面があるNiziUとは対照的であるインタビューでもはにかむばかりで月並みなことしか言わないNiziUの様な初々しさは娘。にはない。

NiziUがジャイアントキリングを目指す新興クラブならモーニング娘。伝統あるスポーツ強豪校のような魅力じゃなかろうか。

毛色が違うので両者は共存する…というかハロプロ好きはかっこよさやかわいさを評価しているのではなく”ハロプロらしさ”を支持している奇特オタク共なので、いくらNiziUが魅力的でもそうは簡単になびかないと思う。岡村靖幸ファン久保田利伸フリーライドしないのと同じだ、「縄跳びダンス」程度の奇天烈さで彼らは満足しない。

2021-01-08

久々に旦那電話した

から旦那電話すると何故か一回3.4時間かかり、仕事終わりに夜22時から深夜1時過ぎまでとか、繁忙期22時過ぎまで仕事してるのに毎日22時ごろ電話がきて毎日メッセがきて、学生時代から電話メールも嫌いなのになんとなく受け続けるという思考停止状態。同業だから実務の助言をもらったり(株主構成が違うからみなし贈与あるんじゃねとか)コロナアメリカ一年行く予定がオンラインになったりフランス行事も結局中止で、個人的にはアメリカにはマジで絶対に行きたくなかったし行くつもりもなかったのでよかったじゃんと思いながら。イギリス日本とは対照的トップはいいけどEU移民が雑多で市民がわりにいい加減だよねーみたいな。日本はクリニックが多いけどICUがあるレベル病院は少ないかキャパが増えないねとか、ほとんど政治とか同業だから仕事の話とかずっとしている。とはいえ実証分析かに入ってくると統計知識もない自分にはよくわからんので、いやだからといって私が今から統計やっても仕方がないしなぁとか思いながら聞き流す。私は根っから内向的活字を読んでいれば幸せみたいなタイプから晴耕雨読みたいな生活は苦ではない。

2021-01-04

紅白雑感/後半

前半

https://anond.hatelabo.jp/20210104090522

NiziU

グループ自体ジブラの娘がラップしてることしか知らなかった。流行ってるらしい。

驚くほど歌詞が単純なんだよな。「聴き手を笑顔にしたい」ってことしか言ってない。でもその直球の励ましが却って洗練された仕事に感じる。あどけない女子が直向きに踊って歌って「元気出して」って言ってる、アイドルって結局それで十分なんじゃないか

こういう応援ソングが受けるのも不安な世相を反映しているのかなとも思ったり。

なんか全体的に見てNizi Projectってラブライブ!ぽい。ラブライブもそんなちゃんと見たことないから大それたこと言えないけど。パフォーマンスバックストーリーとして青春群像ストーリーを展開してるとことか、わりとパフォーマンス方向性がべたな「カワイイ系」の日本アイドル像ぽかったりとかなんとなく雰囲気が似てる。単純に9人組だからそう錯覚すんのかな。

出で立ちとかパフォーマンス日本人好みにチューニングされてる感じだけど、曲自体J-popであまり見られない作りだったのがヒットした一要因かもしれない。あん一定リズムテンションでサビまで流れ込む曲は「サビで爆発する」J-popにはなかなかなくて、それを幼さが残る可愛らしいアイドルが歌う新鮮さがあった。

まあなんだかんだいってもNiziUが売れた最大の要因はJ.Y.パークのマネジメントセオリーが注目されたことだと思ってる。

瑛人

ドルチェアンドガバーナはNHK的にセーフか否かで一部盛り上がりましたね。

オーソドックスフォークソングスタイル下地に、R&Bとかレゲエエッセンスをなんの疑問もなく混ぜ込む、このバランス感覚は今どきの若者からこそだろうなと思う。どこまで意図たかはわからないけど結果として長渕とか井上陽水を聴いて青春を過ごした中高年からSpotifyTikTokに浸る今の学生世代にもしっかり刺さる名曲ができてしまった。

香水」みたいな同じリフを繰り返すタイプアコギ弾き語りってエドシーランとかがやってるのと同じアプローチで、エドシーランはヒップホップとかとのミクスチャーのつもりで意図的にやってるんだよね。

ヒップホップ感覚で聴けるポップスがヒットしたこと時代の変化を感じる。

ヒップホップは歌えない」って曲も出してるけど意外と瑛人はフリースタイルとか出来ちゃいそう。

当たり障りないけど誰にも一度は経験ありそうな普遍的シチュエーションLINEドルガバなどの固有名詞を放り込む詩世界も素敵だ。

シンプル演出ほど映える人って得だな。

Perfume

Perfumeもとうとうメドレーを求められるような境地に入ったのか。来年紅白で見たい。

せっかくの別スタジオからライゾマティクスに期待しすぎてしまった。

BABYMETAL

Perfumeに続けてベビメタが出るのは紅白出演者世代交代のつもりだったりとか…じゃないよな流石に。

テレビ出演してないとまだまだ認知度も比較的低いのかともに見ていた母は認知していなかった。母はあまりにも情報量が多すぎてぽかんとしていたが曲タイトルだけは「そのまんまじゃんw」と笑っていた。

今回の紅白は無観客だったり別撮りだったりでカメラワーク制限が少ないから寄りのショットボーカルでないメンバーを抜いたショットが多いかもしれない。

サポートメンバー博多華丸の娘さんらしい。個人的には鞘師里保に出てほしかったけど、かっこよかったね。

郷ひろみ

筒美京平追悼メドレー。

なんかちょっと背中が丸まってて流石に郷ひろみも歳とったなーなんて思ったり。ベテランはそれが味だよな。

ヘアスタリングはあれでよかったのか?スネ夫みたいになってた。

JUJU

冒頭の司会とのやりとりからして癖が強い。立ち姿からして唯一無二。こんな奴見たことない。

こんな声が裏返ってたっけ?

声が震えてても音程さないのはすごい。

セットに囲まれ360度カメラがぐるっと回り込むのは無観客ならではで感心した。

この人高橋真梨子みたいにこれからちょくちょく出演するんだろうな〜

おそらくミラクルひかるものまね紅白で真似してくるぜ。

Greeeen

朝ドラエール」の特別企画込みでの歌唱

窪田正孝は18歳にも見えるし43歳にも見える、不思議

山崎育三郎安倍なつみの前でもあんなキザな顔をしているのだろうか。

視聴者がこの件で一番期待していたのはおそらくGreeeenの顔出しじゃなくて"岩城さん"が歌う「イヨマンテの夜」だった。

3曲メドレーそしてうち1曲はフル尺という破格の待遇だが、国内トップクラスの人気を持つグループなのは間違いないし、歴代紅白司会者かつ東京オリンピックテーマソングを歌う歌手という功労者であることは拭い去りようがないので、これもまあ妥当な扱いだろう。

カイト

昨年と同じく新国立競技場からの中継。「カイト」の合唱は広いグラウンドの真ん中で5人だけで歌っていた昨年からここまで歌が世間に浸透したんだという感慨があってよかった。でもバック映像ちょっとくどかったかなー。テロップポエム流すのとかちょっと寒かった。

Cメロ部分をまるまる口上にしていた。普段はこういうのファン以外は喜ばないからやってほしくないと思う達だけど、今回はこの瞬間だからこそわざわざいう必要があったしいい演出だったと思う。

君のうた

ういういかにアイドルっぽい曲調の応援歌を投入してくるところにサービス精神を感じる。

NiziUでもそうだけど今ニーズがあるポップスってやっぱ応援歌なのかもな。

オリンピック関係で求められる「カイト」、自分たち世間へのエールとして歌いたい「君のうた」、自分たち代表曲の一つで大衆に求められている「Happiness」で、3曲披露する意義をそれなりに示してた。

LiSA

さまざまな記録を提げ鳴り物入りで登場。

舞台セットが累との戦いのイメージだったり背景映像が日頃見かける紹介VTRでは見ない映像だったり。スタッフちゃんリサーチして作ってるのか、そこまで「鬼滅の刃」が世の中に浸透しているということなのか。なんかわからないけどディテールが凝った演出

ヒゲダン

去年もそうだったけど紅白だとすごく歌いづらそう。PAに嫌われてんのか?

管楽のサポートメンバーイントロしか出番ないじゃんと思ってたら合いの手とかハンドクラップもやってた。

ギターも出番少ないなこの曲。

去年までは音像とか音色とかの上物は洋楽に寄せてその代わり大枠はJ-popセオリーに従った構成大衆性も獲得するヒゲダンとかKing Gnuみたいなのが売れるタイプだったけど、

それとは真逆で、音やフレーズは従来からあるJ-popフォークなのに、曲のアプローチのもの現代的な洋楽のそれに肉薄してる「夜に駆ける」や「香水」が大ヒットしたのはパラダイムシフトかもしれないな。

三山ひろし

けん玉のやりやすさでいうと無観客でよかったんじゃないの。

真ん中のアリーナステージも上手いこと使ってたね。

歌い終わりにけん玉リレーが追いついてないの一番残念なパターンかもな。

YOASOBI

CDを出さない。ネットでは普通に露出してるしバラエティ番組にも頻繁に出るけど音楽番組は避ける。曲もそうだけど活動自体に斬新さがまだまだあると思う。

この曲って一聴するとaccessとかfripSideとかの昔からあるザJ-popって感じのシンセポップぽいんだけど、基本的ベース部分はA♭→GmCmの繰り返しで、そこにB♭やE♭のコードを場繋ぎとして差し込んだり細かい細工をして展開を作ってるんだよね。それでドラムパターン一定クラブとかで流しても違和感なく踊れるような作りになってる。

最後のサビで半音さがるっていう転調を行ってるんだけど、コード進行がシンプルなおかげでそこがすごく目立つ。やっぱ転調は肝心なときしかやっちゃいけない技だよ。

関ジャニ∞

やっぱメインボーカル2人ともいなくなるのは痛い。

審査員ダンスの振りわかってなくて戸惑ってた。

東京事変

二階堂ふみ椎名林檎好きってなんか想像通りだわ。

東京事変デジタルクワイアやるのか。

いろんな曲のフレーズが散りばめられていたけど世代的になんとなくわかっちゃう伊達に16年前からやってるバンドじゃねえわな。

この時期に阿波踊りしてるの見せられてもなんとも変に思わない歌手椎名林檎だけだな。

最後のウィスパーボイスセクシーだな。「母親か」ってすげえツッコミだなおい。

ゆず

ゆずリーダーとか嵐の相葉雰囲気って人を選ぶ気がする。

ゆずの曲をフルオーケストラで聴く機会なんてないからこれは面白いものを見た。

篠笛の人が妙に目立ってた。刺客みたいになってた。

あいみょん

おじさんのあいみょん好きは本当に謎。いやいい曲だけど。

あいみょんのさっぱりしたファッション個人的には好きだな。

吉沢亮が出ててあいみょん主題歌映画なんてあったっけ?と思って調べたら、吉沢亮って「空の青さを知る人よ」の生霊の役やってたんだ!観てたのに全然気が付かなかった。流石だわ。

マリーゴールド」のイントロギターフィードバック音とか「裸の心」のぽんぽん鳴ってる音とか、これよく聞くと歌が始まってもずっとループで鳴り続けてる。普通ポップスって顔しながらこういうブレイクビーツぽいのを密かに延々と鳴らし続けてるのラナデルレイみたいでかっこいい。

YOSHIKI

We Are The World的なドリームチームをさくっと作っちゃったYOSHIKIパフォーマンス

オフの時のサラブライトマンめっちゃ優しそう。

映画の印象もあるからロジャーテイラーのお爺ぷりに驚いた。

ロサンゼルスと中継だとタイムラグがあるだろうによくオケに合わせてピアノ弾けたな。

凄いスケール感だったけどやっぱりこの曲はまだ歌われる時期ではないような気がする。

Superfly

バロック調でのオーケストラアレンジは何回も聴いた「愛をこめて花束を」に新しい解釈ができて楽しかった。

普段のでっかい花束を抱えてくる様なパワフルなパフォーマンスもいいけど、ボッティチェッリプリマヴェーラの様な軽やかを携えたこバージョンも好き。

ミスチル

自分が歌いたいマイナーな歌を歌って見ている側にも響くものがあるのが凄いな。ミスチルというブランド力だな。

モノトーンで無機質なんだけどどこか暖かみがあるセットがちょっと丹下紘希ぽい。「IT'S A WONDERFUL WORLDから「I ❤️U」の頃が僕にとってミスチルが一番身近だったのでなんだか懐かしい気持ちになった。

ギターアンプ直刺しでドラムセットも簡素サポートメンバーストリングスピアノにかぎっていて(コーラスは被せ?)、機材がなるたけシンプルなのが潔い感じでかっこいい。

1番の終わりのコードマイナー調で暗いのが大サビの後で暖かい響きのものに変わってるのがベタだけど良いな。

石川さゆり

いつもの天城越え」だけど冒頭のピアノアルペジオが繊細な印象。

当然のように上手い。

星野源

浮雲はいそがしい。

思うことは色々あるけど、「期せずしてYOSHIKIの「Endless Rain」へのアンサーになった。」ということだけに留めたい。書ききれない気がする。

氷川きよし

メイク濃くなってから観月ありさと見分けがつかなくなってきてる。

視聴者が期待する派手な演出ってこういうのなんじゃないの。

「どうなっちゃうんでしょうね」

松田聖子

この曲カバーしてる人何人かいるけどかわいくみせてやろうって衒いがあるんだよね。本人は流石にすっきりしてる。

なんか歌詞セカイ系ぽい。

松任谷由実

合唱やる人多すぎてここにきてなんか見飽きだしてたから、冒頭の演出で「またか」とはやとちりした、すまん。

「守ってあげたい」は名曲カバーだと鬼束ちひろバージョンが好き。

シャツの柄の主張えぐいな。

正隆さん、JAF会報誌のコラム読んでます

棚ぼたとはいえ出川紅白で歌う未来とか誰も想像しなかった。

玉置浩二

20分くらいまえから時たま怒号が聞こえてた気がするけど、玉置浩二スタンバイでなんかトラブルあったのかな?

「田園」だからベートーベンの「田園」をモチーフにしてるのか。Superflyときも思ったけどオーケストラアレンジもいつになく拘ってたよな。

福山雅治

良くも悪くも星野源対照的パフォーマンス星野源が月なら福山雅治太陽みたいな人。僕みたいな日影者はなんか感覚が合わないな。嫌いじゃないけど。

まだ13回しか出てないのなんか意外だわ。

今剛は一瞬しか映らなくてもすぐわかるな。今剛とJマスシスぐらいだろそんなの。

MISIA

MISIAは鼻腔共鳴が半端なさすぎてたまに何言ってるのかわからないときがある。でもそんなこと気にならないほど歌が上手いからなんとかなってる、圧巻。

投票集計・蛍の光

後半はボリュームがすごくて疲れた面白かったけど。

サブちゃんの「今の若者世界を歌ってる」っつうのは的確なコメントだったと思う。ただコメント全体的に長かった。

ジャニーズ多かった。2枠をJO1とDISH//に譲るべきだ。

優勝旗ってどこに保管されてるんだろうね。

2021-01-03

Vにオワコンの波が来ている件.

2020年にストリーマー界隈で一番勢いがあったのは間違いなくVであろう。V全体の11月12月配信では最高同接、平均同接共に伸び悩んでいる。

にじホロのお祭り配信(1つの配信に人を集める3Dお披露目など)はどれだけ跳ねても12万程度で、数字としては夏ごろから伸びてはない、むしろ20万集めた近くこともあった夏からすると下がっている。

平均同接に至っては11月12月においてほぼ全員右肩下がりだ。イベントの多い12月数字としてここまで落ち込むのは非常に危険であろう。原因をいくつか考察してみた。

①APEXやりすぎ問題

Vとは逆に視聴者が1,5倍になったグループがDTN、デトネーターだ。彼らを筆頭にCRカップリアルのストリーマーは多くの視聴者を獲得した。その事象は当たり前だ、彼らはFPS世界と戦った経験もある猛者なのだ。APEX中にプレイに夢中で喋れないVよりも、プレイに喋る余裕もあって結果も出せて盛り上がるDTNの方が面白いに決まっている。CRカップの結果も露骨で、大量にいたVは殆ど結果は出せずプロ荷物持ち状態で、DTNは2チーム出場でそれぞれチャンピオンを取る対照的な結果、そらそーよ彼ら上手いもん。FPSストリームに重きを置くことはあまり得策ではないと筆者は思う。

②2強状態故のマンネリ

もはやVといえばにじかホロの2強状態だが、それは故のマンネリ化を感じる。要は方針も2種類しかないために色がでなくなってきているように見える。キャラを完全に守るVも少ないの相まってどの放送も似たりよったりになり、飽きが加速しているのではないか

しょうもない炎上多すぎ問題

企業に属している以上、発言にはとにかく気をつけないといけないのは当然である炎上についての話題で怒号が飛びあうことそのものが嫌で界隈から離れていった人も多いのではないだろうか。

ここまで大きくなったが故の難しさではるが、企業に属するということは発言内容も企業思想として受け取られてしまうのは社会の掟であり、覆すことはできないだろう。炎上内容も少し気を付ければ済んだレベルのしょうもないことが多いので意識レベルを上げて改善していく事を願うのみだ。

2020-12-31

パプリカ」と嵐の「カイト」と米津玄師

アイドルグループ「嵐」2020年いっぱいで活動を休止する。最後テレビ歌唱12月31日の「紅白歌合戦」だろう。

おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソングキャンペーンタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。

本来ならば7月24日東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間一喜一憂しているはずであった。

嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。

また嵐自身活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。

そして国家総力を挙げた一大イベントアンセム日本トップアイドル記念碑を兼ねたこ楽曲トータルプロデュース制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である

まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。

合唱曲としての親しみやす

米津は前年にもNHKタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしプロデュースを行っている。

結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。

バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンス披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴出来事であった。

おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。

ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。

(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)

また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井ラップ二宮が上ハモ松潤が下ハモ相葉ファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。

カイトというモチーフ

なぜ米津玄師カイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体モチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。

同じくNHKテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。

これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである

地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナー冒険心を鼓舞する内容なのだ

対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である

さら面白いのはこのカイト最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。

まりカイトとは未来に向かって邁進する人間のもの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。

カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先から視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。

人は絶えず不安孤独に苛まれ瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイト手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分カイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以垣間見た気がする。

パプリカ」との関係

パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワード散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。

これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。

そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。

パプリカピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較甘味があること等で区別されている。ピーマン実像象徴とすれば、パプリカ子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカ花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れないである。僕の解釈では”パプリカ”もまた子ども次世代を見守りかつて子どもだった自分郷愁を寄せる歌である

よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。

カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。

パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。

これに加えて5人組の子集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。

 

カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカから託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。

そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます

様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂アイドルが抱えるドラマテック感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。

この物語徳島実家から独立ニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。

そして「カイト」はファンにとって嵐からの餞別でもある。

ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーコンサートテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズ存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。

オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的人間感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンス米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。

2020-12-30

私の好きな小説家AがTwitterでぶっ叩かれてた

小説家A先生自分作品社会問題ネタを入れるのが特徴で、私はA先生作品を何作も買って読んできた読者だ。ファンと言ってもいい。

TwitterA先生アカウントを見つけた時、私は嬉しく思ったのと同時に、不安にもなった。

プロアマわず、字書きがSNS失言して騒がれる様子をこれまで何度も見てきたからだ。

そして嫌な予感は的中した。

喧嘩腰で政治的主張を繰り返すA先生は、他のTwitter民に嘲笑されまくっていたのだ。

残念な事に、A先生は「思い込み政治を語る」タイプの人だった。

この手の政治語り屋は右向きだろうが左向きだろうが自分思い込みで語るから

「その主張、実際のデータに反してますよね?」「なんかそういうデータあるんですか? 偏見だけで語ってませんか?」「実際は真逆なんですが……」

といろんな人から袋叩きにされるのがお約束の流れだ。

ちなみに、A先生Twitter日本流行る前からプロとして活躍してきた作家だ。

現実世界社会問題物語の中に組み込むという手法をずっと続けてきたせいなのだろうか、「自分政治をよく理解している」と勘違いしてしまったのかもしれない。

思い込みの激しい愚者が周囲に被害を撒き散らして最後には社会的に不必要な悪として制裁される……っていうのがA先生作品のお決まりパターンで、

正直しつこいくらい何度も見てきたけど、まさか作者自身がこんなに偏見こじらせてる人だったとは……。

A先生批判に負けず、厳しい口調で自分の考えをツイートし続けた。

自作品語りなんてほとんどせず、新刊宣伝より政治語りの方に熱心になっていた。

着実にTwitter内で敵を増やし、悪い意味知名度が高まっていき、

そのうちフォロワー数の多い有名な政治語りアカウントから反論されるようになって、A先生さらに多くの人々に自身無知晒す事となった。

ファン自分はというと、A先生擁護する気にはなれなかった。

A先生過去作品は好きなんだけど、それとこれとは別。

浅い知識と激しい思い込みで自信満々に政治を語り、主張の対立する相手を徹底的に蔑む姿に、正直幻滅してしまった。

「あの人、本当に小説家なんですか?www」「小説家ってバカでもなれるんだなwww」と空リプされているのを見た時はさすがにかわいそうだと思ったけど。


んで、A先生とは全く関係ないB先生の話になるんだけど、この若手の小説家さんはA先生とは対照的だった。

Twitter議論をしようとしない。

ツイートの大半が自分の新作の宣伝あるいは過去作の話、あるいは自作品に関連したネタツイート(読者へのファンサービス的な)。

・他の創作者の作品を褒める。

Twitterを読者を増やすための場と割り切ってる感じで、個人的にはこっちの方向性の方が好き。

賞を取ったデビュー作が凄く面白くて元々好きな作家さんだったけど、Twitterを見てもっと好きになった。

新刊は必ず予約して買うようにしている。


クリエイターSNS自由に語ればいいと思う。そしてそれを見たユーザーは何らかの意見を表明してもいいし、無言で離れていってもいい。

あの騒動以来、私はA先生小説を一冊も買っていない。

ぶっちゃけて言うと過去作の方が面白かったって思いながら読んでたし、ファンを辞めるきっかけを与えてくれて結果的には良かったのかもしれない。

2020-12-23

anond:20201223113032

セントラル・リーグ - Wikipedia

1950年代ロビンス/ホエールズ

1954年から1959年まで6年連続最下位

秋山登

1956年入団。その年に25勝で新人賞を受賞。

以降、1964年まで二桁勝利を続ける活躍通算193勝。

ホエールズ一筋で1967年引退

1960年代スワローズ/アトムズ

1960年から1971年までの12年間で最下位6回。

金田正一

わずとしれた400勝投手スワローズ通算では353勝。

1951年から1964年まで絶対的エースとして君臨した。

佐藤

1964年から1967年まで4年連続二桁勝利スワローズ通算48勝。

石戸四六

1966年から1969年まで4年連続二桁勝利スワローズ一筋で通算70勝。

1970年代前半のカープ

V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位

外木場義郎

1965年広島カープ入団して、プロ勝利ノーヒットノーラン

1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。

カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。

安仁屋宗八

1968年23勝を挙げると3年連続で二桁勝利

木場とのダブルエースとしてカープ通算90勝。

1980年代スワローズ

1979年から1986年までの8年間で5回の最下位

尾花髙夫

1982年12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。

梶間健一

尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利スワローズ一筋で通算85勝。

1990年代タイガース

1987年から2001年まで15年で10回の最下位

マット・キーオ

87年から3年連続二桁勝利。実働4年でNPB通算45勝。

湯舟敏郎

92・93・97年に二桁勝利タイガース通算59勝。

藪恵壹

1996年から3年連続二桁勝利タイガース通算84勝。

川尻哲郎

3度の二桁勝利タイガース通算56勝。

2000年代ベイスターズ

2002年から2015年までの14年間で10度の最下位

三浦大輔

1997年10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利通算184勝。

2010年代スワローズ

2013年から8年間で5度の最下位

石川雅規

2002年新人王を獲得して以降、通算11回の二桁勝利

スワローズ通算173勝で現役。

小川泰弘

2013年入団して16勝を挙げ、最多勝新人王を獲得。

スワローズ通算75勝で現役。

疲れたからパ・リーグは任せるわ。

2020-12-20

久々に二次創作小説を書き終わった

https://anond.hatelabo.jp/20201117005334

pixivハーメルンで同じもの投稿してついこの間シリーズ完結したんだけど、意外と傾向が分かれて面白かったので書く。

書いたジャンル男性向けでちょっと前にアニメ化した漫画二次創作

pixiv

投稿した直後以外も地味ーに閲覧数が伸びていった。1話目が投稿一週間で60PVくらいでその後1ヶ月ちょいで100以上まで伸びた。

投稿し続けたことで1話目を読んでくれた人もいくらかいたみたい。タグ検索で来る人が多いのかな。でも閲覧数が1話目>3話目>2話目なのはいまいちよくわからん。なんで2話目のが少ないんだ。

そのあとR-18を挟んだらその話だけ一気に半分以下まで閲覧数が減った。正直エロある話は閲覧数増えるだろうなと思ってたのでめちゃくちゃ意外。閲覧数のカウント方法わからんけどR-18なのはその途中1話だけなので、それ読まなくても繋がるよって書いたからそのせいかな。

ハーメルン

こっちは逆に投稿直後以外はほとんど読まれない。だいたい各話を投稿した直後に30PVくらいのペース。前の話が読まれた感じもあまりしなかった。タグ検索は少なくとも俺の書いたジャンルではあまり使われてない印象。

オリ主やクロスが多いという文化の違いもあるのかな。俺のは原作キャラだけだから

ただR-18投稿したら一気に400PVくらい伸びて驚いた。ここまで対照的になるとは。

R-18ありの話だけユニークアクセスが他にダブルスコア以上つけて図抜けてるけど、これはまあしょうがない。ただ他の話も少し伸びてたので読んでくれた人がそれなりにいたのは嬉しい。

まとめ

閲覧数はpixivで約100PV/話。R-18は50くらい。全年齢は1話目もその他もあまり変わらない。

ハーメルンは70PV/話。1話目はその倍くらいでR-18回は5倍くらい。

1話目の読まれ方とR-18回の伸び方が全然違うのが面白かった。

pixivは各話ごとにR-18指定できて、ハーメルンシリーズ全体でR-18指定しないといけないという違いがあるのでそれも影響してるのかな。R-18飛ばしてもいいって書いてたかストーリーには関係ないんだなとスルーする人もいそう。実際肌を重ねたことが重要で書いた内容は大筋に関係ないし。

あるいはpixiv女性が、ハーメルン男性が多い印象だからその差なんだろうか。原作漫画自体少年漫画ラブコメから女性が読んでるとか考えもしてなかったんだけど。

……もしかしてpixivでは18歳未満が本当に読まなかったのだろうか。いや男子中高生経験した者の一人として非常に考えづらいのだが。

ハーメルンのほうはR-18の有無でそれ以外の回もアクセス数が5倍くらいに変わったので、男性向けでR-18がある作品ハーメルンにも投稿するといいと思う。R-18があるとそれ以降の投稿直後のアクセス数全然違った。

サイトごとに特色があって面白かったけど、pixivランキング中国語日本語混ぜるのやめろ。男向けR-18ランキングの半分近く中国語なの設計ミスでしょ。

こんなランキング機能しないだろいいかげんにしろ言語ごとに分けろよ役目でしょ。

2020-12-17

私はまだ「新サクラ大戦」をプレイできていない

サクラ大戦が発売されてから一年が経った。発売日に買ったゲームパッケージは、封を切られることな本棚の中で埃を被っている。

私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。

私は15年近くサクラ大戦ファンを続けている。いや、続けて「いた」と言っていいかもしれない。2006年PSPで発売されたサクラ大戦1&2にドはまりし、ドリキャスPS2を買って3,4,5をプレイした。一日の受験勉強を終えた後、深夜0時~3時までドリキャスを起動し、3時間だけ睡眠を取って学校と塾へ行き、帰ってからまたサクラをやる。大学受験という過酷生活の中で、サクラけが生きがいであった。

ゲームプレイした自分は次々に派生作品へと手を伸ばしていった。OVAと旧アニメ活動写真を鑑賞し、小説漫画を買い漁り、CDを聞いて武道館ライブにも足を運んだ。あらゆる公式作品では飽き足らずに、ネットに転がっている二次小説を片っ端からガラケーで読んだ。サクラにはまって宝塚も鑑賞した。私にとってサクラとは、自分青春を賭けたコンテンツであったのだ。

サクラに熱を挙げていた私とは裏腹に、サクラ自体にはほとんど進展がなかった。Vの発売以降も定期的なショウは開かれていたものの、公式的な動きはパチンコや他ゲーとのコラボ程度であり、ジャンル前進させるコンテンツ――本編の続編は止まっていたに等しかった。1年、また1年と歳月流れるにつれ、私も他のジャンルに手を広げていく。サクラは依然として好きであったが、あくまで懐かしい思い出の中の1つという立ち位置になっていった。


しかし、2018年4月のセガフェスでついにその瞬間が訪れる。

「新サクラ大戦始動」――太正29年の帝都東京舞台に新しい花組が復活する。Vから13年経ってのナンバリング続編が満を持して発表されたのだ。

あの瞬間の興奮を今でも覚えている。アパートを着の身着のまま飛び出し、家の前の川沿いを下流のほうへ歩いては折り返し上流のほうへ歩いてはまた折り返し、何度も何度もあてどなく歩き続けた。頭の中に溢れて来る激情身体をじっとさせてくれなかった。

私がサクラ大戦を初めてプレイした時は、すでに当時のシリーズ最終作であったVが発売されていた。私にとってサクラ大戦出会った瞬間から最終回であり、ずっとナンバリングの続編を望まれながらも、決して叶うことはない幻のゲームであった。

それが、ついに、叶う。サクラの続編を遊べる日が来るなんて、本当に夢だと思った。忘れかけていた青春時代熱狂と興奮が心をかき乱す。たまらずに開いたTwitterタイムラインは狂乱の渦に包まれていた。


2019年3月末、セガフェスにてサクラ大戦の続報が発表される。メインキャラクターデザイン久保帯人氏が、ストーリーイシイジロウ氏が、そして音楽田中公平氏が手掛ける。檄帝にコーラス等のアレンジを加えたメインテーマは、今までのイメージ踏襲しながらも新しい風を吹き込もうとしている。私の心は歓喜と期待に溢れていた。Twitterでは友人がPVを見て考察を巡らせていた。発売日は2019年12月12日――もう一度あの世界が味わえると思うと自然気持ちが昂った。

同年の6月から、「帝劇宣伝通信」というコーナーがセガyoutubeチャンネルで始まった。公式新規情報を発売日まで随時公開していく番組であるプレイ動画キャラクター世界各地の華撃団の紹介、グッズとメディア展開など、様々な情報が発信されていく。

私はそれらを欠かさずにチェックしていった。しかしながら、一か月、また一か月とカレンダーをめくるにつれ、自分の心の中には言い知れない不安のような影がよぎっていった。


果たしてセガは、サクラ大戦未来へと続く作品にできるのだろうか?」

今の時代美少女たちと触れ合えるゲームはそこらに無料で溢れている。歌う少女も戦う乙女も、20年前とは比べ物にならないほど多くなった。群雄割拠ゲーム業界サクラというジャンルは生き残ることができるのだろうか?

サクラ大戦時代とともにあった。当時のアドベンチャーゲーム、ありていに言えばギャルゲーの中で、サクラは独特の地位を占めていた。歌劇スチームパンクの融合、セガサターンという機種だからこそできた恋愛ゲーム一般向け展開――あの頃のサクラを不動の地位に置いていたものと言えば、新規性と物珍しさによって時代を先取りしたコンテンツ力であったことは疑いない。

しかし、時代は変わった。ゲームは何でもアリになった。アイドル物のゲーム世間一般にまで浸透するとともに、きちんと遊べるゲーム性を核としてギャルゲーさながらの恋愛要素を取り入れる作品はいくつもリリースされている。

サクラ大戦は初代から24年の歳月を経た。その年月は時代性という重りになってサクラ大戦にのしかかっている。

「これは今の時代に耐えうるものなのか?」

気づけばそう問いかけていた。プレイ映像が公開されていくにしたがって、自分の中の情熱が冷静なものに変わっていくのが分かった。



そして2019年12月12日、私のもとにAmazonからパッケージが届いた。そのとき仕事が忙しく、届いてから3日ほどやる時間が取れなかった。

極力ネタバレは控えていたものの、つい気になってTwitterを覗いてしまった。

そこには、「熱」がなかった。

新作発表、主題歌公開のときに賑わいのあったタイムラインは嘘のように静かであった。ストーリー言及するどころか、面白さやつまらなさを語る人もいない。ぽつぽつと流れる呟きは、まるで腫物に触るような言葉の数々であった。

好きの反対は嫌いではなく無関心である。本当に面白コンテンツであれば、人々は誰に先導されるでもなく自然と語り始める。それはネタバレであれ考察であれ妄想であれ、大きな熱となりジャンルを強く後押ししていく。しかし今は、その熱がどこにも見えなかった。栄華を極めたかつてのコンテンツを前にして、友人たちは出来の是非を問うこともなく、ただ当たり障りのないことを呟くばかりであった。

――ああ、そういうことなんだ――

その様子を見た私の心の中に、言い知れないほどの寂しさが襲った。それは悲しみや怒りといったハートを揺れ動かす激情ではなく、まるで亡くなった親友を前にした時のような、涙も出ない喪失感であった。

私はそれを見て、新サクラ大戦を遊ぶことを止めた。プレイしたらそこで終わりになってしまう。20年以上続いたシリーズの行く末を見届けてしまえば、「いつか続編が発売されたらいいなあ」と心を躍らせることもできなくなってしまう。

そして何より、サクラを見限ってしまうのが怖かった。

「ああ、こんなもんだったよなあ」という気持ちで終わらせることが嫌だった。ゲーム面白さに興奮することも出来の悪さに嘆くこともなく、ただただ現状を受け入れて観念することがたまらないぐらい恐ろしく感じた。

こうして私は、サクラ大戦というシリーズを思い出のまま取って置こうと決めた。私にとってサクラ大戦は、続編を望まれながらも決して作られない希望ゲームであるあのころノスタルジーを終わらせもせず続かせもせず、優しい思い出のままそっとしておこうと心に決意した。

そんな私とは対照的に、漫画テレビアニメ舞台と、次々にメディア展開が進められていく。ユーザーとの熱量の違いは目に見えており、ゲーム中古価格がそれを如実に表していた。


そして202012月15日、新サクラ大戦から約1年後、ゲームアプリサクラ革命」がリリースされた。開発はソシャゲ業界大手FGOを手掛けるディライトワークス。リリース初日にも関わらず、タイムラインでは話題にすら挙がっていない。PVを見て考察を巡らせていた友人は、FGOのカルナサンタに熱を上げていた。

もう、誰もいなくなっていた。

そして私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。15年前の思い出にずっと閉じこもり、夢の続きを見ることを拒否しているのだ。

2020-11-25

anond:20201125024146

差がある という単語だけならそれでいいはずだしこの単語自体問題はなにもないはず

差がある から その差を 高いところから 低いところに 向かわせると 有益副産物を得られる

というのが文明社会の中ではデフォルトになってる思考の一つ

差があると認識するだけでは記憶にさえ残らない風景の一つと同じなはずで 差に気付いたとしても 差という情報のみで思考発言おこらないはずだと先読みした結果に

「差がある から その差を 高いところ(高慢から 低いところ(差別)に 向かわせる(問題犯罪)と 有益副産物を得られる(利害)」

差そのものがもう差別であり問題であり賠償問題だと繋がってる思考で「差が権利」だとか「差は権利」だとか指摘しているのでは

現状において指摘するだけなら指摘だけすればいいけれども その指摘も「差があると認識するだけ」と同じで「差がある」と発言した時点で一括で問題視するように 指摘をするという行為自体が「賠償請求する」ような流れになっているかのように見える

脳をはじめほかの何にしても男性性や女性性があるような二つの同類対照的役割を分けている様子についてそれらが分担していることを平均する必要本来ない

右手左手が違っていて大きさや力が違う差について問題があるのなら 真ん中にちょうどいい一本の手足があればいいのかといえばそういうわけではないはず

右手右側にあるのがうらやましく 自分自身右側にあるべきはずだと心底感じているのだが 自分左手なのだということが コンプレックスになったり解消すべき問題なのか得られるはずの権利が踏みにじられているのかといえば それは個人の感想であればそうなのであろうと肯定しかないと思うが あなたは手足がそんな主張をしたならば切断したりするだろうか

手足にとってもっともよい選択が あなた自身人生についてもっとも良い結果をもたらすのだろうかと考えると 悩むところは多いだろうと予想される

性別の差も結局は個人の差であり その差をどう取り扱うべきかと役割でない行動をとるかどうかも個人の差で それぞれの個人の差がまとまり複合的に「ひとつの主張」となっているもの個人の枠をこえて発言したりされたり 見聞きしたりすることになるのではないかと思う

故にそれぞれに差はあるだろう それは個人において性別による差が どれだけ影響しているか差と 構造的な差と 方向性についての差 などを含んだ「個性の差」としての認識に間違いはないと考える

現状 差があると発言しただけで「奪うな補償しろ」と言われる構造がまん延していることも あるのだろうとは思う

集団に対して個人ほしいものを請求するとかわりに簒奪してきて自分に与えてくれるはずだそれが弱者をいたわる社会というものだというような考えがなくなり

弱者弱者として貧者は貧者として持たざる者持たざる者という役割ごとに置いて十分に社会的に貢献し それぞれに分類された充実感や幸福感を感じ満足すべきものだというような構造社会にもたらされるまでは これは変わらないのではないか

情報として知ることができる距離が縮まり誰であっても隣人と感じることができるような社会に成長した今 幸福度とは隣人との比較で成り立つものではないという新機軸発明されることが望ましい

けれども 個人的には 先般の「鬼滅の刃ブーム」のような平滑なアクセスを 出力をしぼり市場に他商品を流さず均一(独占)状態にすることで供給と消費の一本化から皆が平等幸福感を得られるというような仕組みにシフトしていくことは あまり良いとは感じることができない

2020-11-19

みかんコーヒーとオトンの初恋有村架純

「みさちゃんさ、みかん食べる?」

寒い寒いと言いながら、三時のおやつでも食べようかとリビングに降りてきた私に、キッチンから父がボソッと声をかけた。

「いや、みかんはいらん。寒い暖房つけよう」

エアコンなら、母さんが業者呼んで清掃してからじゃなきゃ使わん言ってたから、つけたら怒られるぞ」

はぁ?という顔をしている私に、いらんといったのが聞こえなかったのか、みかんを手渡しながら父が言う。

「なんで寒くなる前にやっとかんかったんだって話よな。そんなこと言ったら、怒られるから絶対言わんけど」

からからと笑う父。手に持つマグカップには湯気の立つコーヒーテーブルに目をやると、みかんの皮が散乱している。

(この人……コーヒー飲みながらみかん食ってるんか)

ソファの背もたれにかかっていたひざ掛けを腰に巻いて、リビングテーブルにつく。渡されたみかんを揉みながら、

わたしコーヒー

頼むより先に父はグラインダーに豆を入れていた。ブィーンという無機質な音が部屋に響く。

「みさちゃん、昨日の夜酔っぱらって、そこまで聞けんかったけど。この後どうすんの。そこらへん、母さんとは話したんか?」

「うーん」

どうしたものかと私は少し考えた。昨夜、久々に帰省した私のために、自宅ではささやか歓迎会が催された(とはいっても少し豪華な寿司の出前をとったくらいだが)。食事を終えて、家族三人テレビを見ながらダラダラとお酒を飲んでいたのだが、父は早々かつ静かにリビングソファに沈んだ。腹に猫を乗せて、スマホバイブほどの小さな音量でいびきをかきながら寝る父をそのままに、母とは今後の話をある程度した。正味時間ほどかかったその話を、今父にするにはまだ話をまとめ切れていない。母からは同姓として理解は得られても、父にはこの冗長な割に何も決まっていない私の現状を伝えても、ただ心配を駆り立てるだけではと不安になったのだ。

「まぁ暫くは休むよ。貯金もあるし。今はまだ動けん気がするし、何より少し疲れたわ」

みかんの皮をむきながら、はぐらかすようにそう答えると、コーヒーを入れる父の手に視線を移した。暫く見ない間にまた年季が入ったなぁと、ふとそんなことを考えた。


ここ数年、私(輝く三十代独身)はアメリカ西海岸の小さな広告代理店仕事をしていた。小資本飲食店小売店なんかがメイン顧客だったので、今回のコロナによる各種制限後はほどんと仕事がなく、一部制限解除後もほとんどの店はコマーシャルを打つ余力はなかった。片手間に作っていた無料情報誌なんかは、コロナ対策コラム等を差し込みつつほそぼそと発行を続けていたけれど、いつしかそれも限界に。結果、私はあえなく「状況が良くなったらまた声をかけるから、必ず戻ってきて」とお決まりコメントと共にレイオフの網にかかったのである。こんな状況ですら私を限界まで雇い続けてくれた会社には感謝しかないが。

解雇後「とりあえず一旦リセットだな」と考えた私は、実家に帰ることにした。異性関係は、現地で交際していた男性と二年ほど前に別れた後はパッタリだったし、行きつけのチャイニーズレストランコロナで潰れたので、かの地に私を繋ぎ止めるものはもう何もなかった。大卒から今までずっと海外でもがいてきたこともあり、このひっくり返った世界を口実に、このタイミング実家ゴロゴロしてやろうと、そういうことであるしかし状況が状況なので、帰国決断した後も、やれ渡航制限だ、やれチケットの予約だと色んなことがうまく繋がらず、なかなか出国することができなかった。ようやく帰国の日取りが決まったころ、

「帰るで」

ポッと送ったLINEに、

「車で迎え行く!楽しみ!おめかししてく!」

還暦も半分過ぎた母はノリノリで返信したにも関わらず、当日派手に寝坊した。私が期待していた、到着ロビーでの感動の再会(BGM青春の輝き/The carpenters)は叶わず。実に四年ぶりの帰国はなんとも味気のなく、一人公共交通機関でと相成ったのである


「あれな、『コロナだし、やっぱ行かん方がいいと思って』って言い訳しとった」

私の分のコーヒーを手渡しながら、けらけらと父は笑った。

「ほんと昔から適当な人。あんなんと結婚した意味分からん初恋の人とか言わんでよ?」

私が次のみかんに手を伸ばしながら言うと、

初恋かぁ……」

ギリギリ聞き取れるくらいの声でボソッと言った後、父は一人モジモジしながら下を向いた。思えば父と母がイギリス出会ったという話は聞いたことがあるが、初恋話となると聞いたことがない。恐らくこの人の初恋は母とは別の人と思うが、どうせ時間もあるし、掘れば面白い話が聞けるかも知れないと思った私は、

「そしたら、父さんの初恋っていつよ?」

別に話したくなければいいですよ、ええ。と二個目のみかんの皮をむきながら、興味なさげに聞いてみた。暫く返答がないので視線を上げると、相変わらずモジモジしながら、父は照れくさそうに顔を上げた。

「お墓に持っていくほどのものでもないし、話してもいいか。母さんには内緒だぞ?」

言うと父はテーブルの上のみかんの皮をまとめてゴミ箱に入れると、ゆっくりと向かいの席に着いた。

(結局話したいんでしょうに……)

いかけた一言を飲み込んで、コーヒーをすする。


「みさちゃん墓参りの時に行った叔父さんの家、まぁあれは父さんの実家でもあるわけだけど、裏手に階段あったやろ。急なやつ。あそこを登ると昔図書館があったんよ。市立だか県立だか忘れたけど、そこそこ立派なやつがね。父さんは大学受験勉強毎日そこでしてたんだ。家だと兄弟たちがうるさいから」

父の実家西日本の某所。坂の多い海辺の町だった。遠方であることもあり、私は小学校高学年の時に祖父母墓参りに行ったのが最後、以来そこには行っていない。

「そこの自習室がさ、海に向かって大きな窓があって。部屋にストーブがあったけど、やっぱり窓が大きかったせいかな。冬場はすごい寒かった。でもそのおかげで利用者が少なくてね。少し寒いくらいの方が頭も冴えるし、父さんはそこを好んで使ったんだ。あともう一つ、別の理由もあったんだけど」

父はそわそわと立ち上がると、コーヒーのおかわりだろうか、電気ケトルに水を入れて沸かし始めた。ケトルがお湯を沸かし始める音が、私の想像の中の自習室ストーブの音と重なる。父はそのままケトルのそばから離れず、窓の外に目をやりながら続けた。

「父さんともう一人、その自習室を使う女の子がいたんだ。とても綺麗な、束ねた長い髪が印象的な子だったよ」

突如文学的表現をし始めた父をみて(これはキモイな……)と思った。初恋話を聞くのにある程度の覚悟はしていたものの、父の口から語られるそれは、なんとも中途半端恋愛小説のようで、

(これは、脳内キレイどころの女優さんでもキャスティングして、程よく補完しながらでないと聞くに堪えないな)

そんなことを考えながら、みかんを口に放り込んで聞いた。

「それが初恋の人?思ったよりチープな感じ」

今にも鼻くそを掘り出さんばかりの口調で茶々を入れると、

最後まで聞けよ。みさちゃんが聞いたんだし、父さんにとっては大切な青春の1ページだぞっ!」

父はムッとした表情で言った。

(だぞっ!って……昭和アイドルかよ)

「隣の高校女の子だったんだ。同じく受験生だった。頭のいい子でね。その部屋で一緒になった最初の数回は会話がなかったんだけど、ある時勇気を出して話かけたんだ。『どこの大学を目指してるんですか』ってね」

「ほうほう。で?」

謎のドヤ顔スルーして相槌をうつ

「目指してる大学が一緒だったんだ。まぁ、彼女は余裕の合格圏内。父さんは相当な努力を要するくらいの差はあったけれどね。彼女英語系の学部に進みたいと言っていた。将来は海外に行きたいと。当時ボーっと生きていた父さんと違って、明確な夢を持っていた彼女はとても輝いていてね。ほら、男って単純だから、一発で惚れちゃったんだ。同じ大学を目指す二人。一緒に勉強する自習室。これは、もう、そういうことだろうってね」

馬鹿なのではなかろうか」

「いや、馬鹿でなくて!」

父は鼻息荒く私を遮り、

「たしか最初一方的ものだったさ。けれど、一緒に勉強……というかほぼ父さんが教わるだけだったけれど、毎日のように、約束して、同じ時間を過ごして、そういう感じになったんだ。『一緒に合格しようね』とか『一人暮らしする時は、近くに住もう』とか、これはっ!もうっ!そういうことでしょうがっ!」

若干の金八先生口調になりながらまくし立てた。

彼女の教え方が本当にうまいもんだからギリギリの成績だった父さんも合格圏内に入るくらいになったんだ。夢の大学生活は目の前だった。ある雪の積もった日、勉強を教えてくれたお礼に、図書館の近くでラーメンを奢ったんだ。温かいものでも食べようってね。その帰り道、初めて手を繋いだんだ。女の子と手を繋いだのは、その時が初めてだ。さっき食べたラーメンが胃から飛び出そうだった。家まで送ると言ったんだけど、ここまででいいと。途中で分かれたんだ。次の日も、いつも通り会えると思った。でもなぁ……」

突然、演技派女優のようにうなだれる父。いや、でもこれは結構シリアスな展開なのでは。私は我慢できず、恐らく一番ビンビンに立っていたフラグを掴むと、

「……し……死んだとか?その才色兼備さんは……事故に遭ったとかで……」

ゴクリと唾を飲みながら聞いた。少しの間、静寂がリビングを包む。父は顔を上げると、

「あっ、忘れてた」

と言って、電気ケトルスイッチを入れ直した。ズッコケる私を一瞥しながら続ける。

「いや、死んでない」

「おい」

「死んでないんだけど、消えた」

は?という私の顔に腕を組みながらうんうんと頷くと父。

「次の日から、もう試験も近いのにパッタリと来なくなった。いなくなって三日後くらいかな、その子高校に行ったんだ。名前は知っていたけれど、家は知らなかったし、当時は携帯なんてないからな。それしか方法がなかった。今ほど個人情報にうるさくないからな、聞いたらサラッと教えてくれたよ」

ケトルからサーっとお湯の沸く音がする。部屋が寒いからか、注ぎ口から湯気が濃く立ち上る。

夜逃げしたらしい。母親がいない家庭で、親父さんがあまり真面目な人じゃなかったようでな。突然いなくなったってことだった。仕事で失敗したんだか、博打なのか知らんが……。家の前にも行ったんだけどな。バラック小屋ってわかるかな?そこまで酷くはないけれども、それに近いような、貧相な家だった。当然、明かりもついてないし、扉を叩いても誰も出てこなかった。家の前には、彼女図書館まで来るのに使っていた、見覚えのある自転車がそのまま置き去りにされてたよ」

そこまで言い切ると、父は黙りこくった。そのまま暫く何も言わず、再び沸騰したケトルのお湯でコーヒーを入れ始める。

大学は……大学はどうなったん?」

私は恐る恐る聞いた。父はいつの間に私のコーヒーが空になっているのに気付いたのだろうか。二人分入れていたコーヒーの片方を私に差し出しながら、

「父さんは合格したよ?」

知ってるだろ?と言わんばかりのとぼけた顔で答えた。

「いや、父さんでなくて、才色兼備さんは?合格発表で奇跡の再会をしたとか」

興奮する私とは対照的に、父は再び、一人冷静にモノローグに入る。

あの日合格発表の日。始発で発表を見に行ったよ。大学は遠かったからな。張り出された番号より先にまず彼女を探した。どこにもいなかった。一通り探した後、掲示板を見た。自分受験番号があった。でも全く喜ぶことができず、父さん、そこでずっと立ってた」

ヤバイ、泣きそうだ)

目の前でセンチメンタルに語られるオジさんのモノローグに、不覚にも目頭が熱くなる。

「当然彼女の番号はおろか、受験たかどうかさえ知らないからね。その日は大学の門が閉まるまでそこにいたよ。掲示板は何日張り出されてたんだっけな、もう覚えてないけど、もしかしたら今日これなかっただけで、明日見に来るのかも知れない。そう思った父さんはなけなしの金をはたいて近くの民宿に泊まって、翌日も一日中待ってたんだ」

「……でも、来なかったんでしょ」

ティッシュで目頭を押さえながら私が聞く。指先についたみかんの酸が目に染みる。

「うん。来なかった。そして大学に入ってからも、彼女の姿を見ることはなかった」

自分の話なのに、ウルウルとなく娘にもらい泣きでもしたのだろうか。ズビッと鼻を一度ならすと、

「きっと、受験できなかったんだなぁ。だって受験してたら、彼女なら絶対受かってるものあんなに行きたがってた大学だったんだから

父はしみじみそういうとコーヒーをスッとすすり、一つ残ったみかんを、テーブルの上のカゴから取り出した。


(なんて切ない話だ……)

還暦もとうに過ぎたオジサンコイバナに、悔しいけれど胸を打たれた私は、鼻水をかみながら劇場を退席しようとした。脳内有村架純あたりを勝手キャスティングしていた才色兼備不憫さも去ることながら、そこにいない初恋の人を必死に探す父の哀れさを思うと、今はすっかり禿げ上がった父にも、そこそこかっこいい俳優キャスティングしてやらねば。そう思いながら、ソファ眠る猫を抱えて二階に上がろうとした。その時。

「でも、この話には続きがあってな」

ニヤニヤとしたり顔で笑いながら、父は私を引き止めるように言った。

「父さん結婚前にイギリス単身赴任したことあるって言ったろ。そこで彼女と再会したんだ」

「えぇ!?嘘!そんな偶然ってあるの!?

私は慌てて猫をソファに戻すと、前のめりになりながら席に戻った。と同時に私は焦った。父と母はイギリス出会ったという話を思い出したからだ。そうすると、有村架純キャスティングした才色兼備の役を再考しなければならない。あの母親は……明らかな才色不備だ。

「ま……まさか……よくある話で、その女性って……」

「あ、母さんじゃないぞ」

私の焦りを察したのか、落ち着かせるように父は釘をさした。

日本人駐在員が集まるパブがあってな。仕事終わりにそこで飲んでいたら、隣に二人組の日本人女性が来たんだ。その片方が彼女だった。一目でわかったよ。向こうもそうだったと思う。『もしかして、○○さん?』って聞かれた時、夢でも見てるんじゃないかと思ったよ」

「うわぁ、本当にそんなことってあるんだ。もうそから話が止まらなかったでしょ」

「いや、お互いとても驚きつつも、一言二言交わしてその日は別れたんだ。向こうは連れがいたしね。翌日は休みだったから、また明日改めて会いましょうと、向こうから番号を渡された。その番号を見て色々悟って、嬉しくなったね」

「なにを悟ったん?」

電話番号だけで、ホテル名前とか部屋番号とかは書いてなかった。つまり定住しているってこと。ちゃんと夢を叶えたんだと」

「なるほどねぇ」

そんなに長いこと話したつもりはなかったが、いつの間にか部屋は薄っすらと暗くなっていた。父がパチッと部屋の明かりをつけると、猫が呼応するように二階へ駆けていった。


「でもさ、そんな感動の再会したら、もうそれは運命の人じゃないの?どうしてその人と結婚しなかったのさ」

話が一周して戻ってきたが、単純にそう思ったので聞いてみた。そりゃあ、今の母と結婚たから私がいてとか、そういう御託はあれど、普通ならそこでくっつくだろうと、そう思ったからだ。

「いや、彼女はもう結婚して、子供もいたんだ」

「あら、そういうパターン

「あの後、働きながら勉強して、渡英して、仕事についたと言っていた。そこで出会った人と結婚したそうだ」

それを聞いて、世の中うまくはいかないのだなと思ったのはもちろんだけれど、ふとその時父は何を思ったのかが気になった。初恋の人との運命的な再会と同時に、自分の恋が終わった時、悲しかったのだろうか。悔しかったのだろうか。私だったらグシャグシャになってしまうかも知れない。しかし、そんな私の疑問は、次の父の言葉ですぐに解消した。

「心からしかった。父さん、みっともないけど、そこで泣いちゃったんだよ」

照れくさそうに笑いながら父は続けた。

「良かった。良かったってね。ずっと心につっかえていたものが取れたような気がした。『ありがとう』っていう父さんに、あの人は『なんで?』とは聞き返さなかった。わかってくれたんだろうね。『こちらこそありがとう』と」

「どういうこと?」

今までの話の中で、父がその人に感謝することはあっても、父が感謝されるようなことがあっただろうか。

「『君が海外に行ったら、そこに僕も必ず行くから、その時はバッチリ英語観光案内してほしい。約束しよう』父さん、そう言ったんだと。全く覚えてなかったけどね」

「そんな約束してたんだ」

「『私が海外に行くことに、きちんと意味を持たせてくれたのはあなただった。約束を守るために、頑張ったから今ここにいるの』と言われた。父さんも、彼女の役に立ててたんだ」

一昔前のトレンディ俳優のようにフッと小さく笑うと、そのまま父はトイレへと消えた。

(お前はすっかり忘れてたわけだけどな)

父の背中に心の中で柔らかく突っ込みながら、私もニッコリ笑った。


それから才色兼備さんとは会ってないの?」

トイレからいそいそと戻ってきた父にそう聞くと、

「ああ。会ってない。連絡先も特に交換しなかったんだ。まぁ色々あってね」

父はテーブルのカゴにみかんを補充しながらそう答えた。

「でもさ、初恋は思い出の中に。そういうものだろう」

キメ顔で答える父に、久方ぶりに(気持ち悪い)という素直な感情が戻ってくる。

「ただいまぁ」

玄関から気の抜けた、疲れた声が聞こえてくる。

「あら。何仲良く話てるの珍しい」

リビングに入ってきた母は、そう言いながら、みっちり膨らんだエコバックキッチンに置いた。それを見て、先ほどまでの話題のせいで居心地が悪いのか、父が二階へ避難しようとする。

「なになに?なんの話してたん?」

トイレに行こうとする有村架純とは程遠い母が、リビングの出口で父に聞く。

「いや?たわいもない話だよ」

父は道を譲りながら誤魔化した。訝しげな視線を投げながら、母がトイレに入ったのを見計らって、

「ちなみにな」

父は私の耳元に口を寄せると最後にコソッっと

彼女と再会したときパブ彼女と一緒に来てたのが母さんだ」

そう付け足して、ニヤニヤしながら駆け足でリビングを後にした。

「えぇー!?なにそれぇ!」

驚く私の声と重なって、リビングのドアがバタンと閉まる。

「ねぇー!何の話なのー?」

母の切ない声がトイレから響いた。


あの人との馴れ初め話は、また後日みかんコーヒーを飲みながらでも聞こうと思う。


暇つぶしにこの話をネットに放流する許可をくれた父に感謝

2020-11-10

anond:20201110145411

日本の夏は蒸し暑いから

吉田兼好も「家のつくりやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」と言ってる。

そのため日本では「夏休み」「お盆休み」という文化がある。

欧米ではクリスマスに長期休暇をとる文化があるのとは対照的

特別イベントが長期休暇に起こるのは自然なこと。

2020-10-31

世界的に見れば人口爆発でコンセンサスは取れとるぞ

なのでデマか読み間違いでは?

たとえば2100年以降は増えないんじゃないかって今のところ言われているが

 

[Wikipedia] Human overpopulation
https://en.wikipedia.org/wiki/Human_overpopulation

  

予測によると、世界人口は少なくとも 2050 年まで増加し続け、2040 年には 90 億人に達し[296][297]、2050 年には 110 億人に達するという予測もある[298]。

将来の人口増加の中央値は、平均出生率が 2010-2015 年の 2.5 から 2045-2050 年には 2.2、2095〜2100 年には 2.0 に減少し続けると仮定して、

2030 年には 86 億人、2050 年には 98 億人、2100 年には 112 億人に達する[299]。 299] ウォルターグリーリングは 1950 年代に、

世界人口は 21 世紀に約 90 億人のピークに達し、第三世界の再調整と熱帯地域の衛生化を経て、その後成長が止まると予測していた[300]。

2000年国連世界人口が年率1.14%(約7500万人)で増加していると推定しており、CIA世界ファクトブックのデータによると、

現在世界人口は1分ごとに145人ずつ増加している[301]。

 

国連世界人口見通しレポートによると:[302]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国連資料が見たいならこち

United Nations Department of Economic and Social Affairs > Publications  > Demographic  >  ManualsPopulation Facts

https://www.un.org/en/development/desa/population/publications/factsheets/index.asp

 

How certain are the United Nations global population projections? (国連世界人口予測はどれくらい確実なのか?)

国連世界人口見通し(WPP)の2019年改訂版で、世界人口2019年の77億人から2030年には85億人、2050年には97億人、

2100年には109億人に増加すると予測している。人口予測は、他の予測と同様に、将来についての仮定が含まれており、それはある程度の不確実性を伴うものである

本短信では、国連が発表した2100年までの世界人口予測の不確実性の程度とその原因について説明する。

 

1. 将来の人口動向は、特に長期的には不確実である

未来絶対的な確実性をもって知ることはできないが、近現代経験を使って、短期および長期の両方の視点から起こりうる結果の評価を行うことができる。

人口予測の不確実性は、人口変動を構成する 3 つの要素である出生率、死亡率、国際移住の将来の傾向の範囲依存する。この分析では、

95%の確率で、世界の人口は2030年には85億から86億、2050年には94億から101億、2100年には94億から127億となると結論づけている。

人口は増加するが、今世紀末までの人口増加率は鈍化すると予測されている。中規模モデルでは、人口増加率は2015年から2020年の年率1%強から

世紀末にはゼロに近づくと予測されている。

 

もちろん、2100年以前に人口増加が鈍化・減少する可能性もあるが、増田が生きている間は世界的には人口は増加の見込みですね(と言っても特定の国だけなんだが増えるのは)

増田の子どもが爺さん婆さんになった頃にならワンチャン世界的にも減るかもね

2020-10-25

anond:20201025123230

フェミニズム女性自由独立、自立を目指すものからむしろ当然だと思うんだけど…。家父長制なんてむしろ元々一番の敵だろうし。

あと、これは人によって違うから非婚主義、非出産主義というKKOとぴったり対照的アナーキーな一派もいるので)一概には言えないけど、女の人生解放という観点でいえば、「産みたい時に産む自由」という面もあるんだけどね。昔は24までに結婚しない女は社会的差別されてたんだよね。でも一生自立的に稼げる人間で居続けるには24,5で出産すると、社会制度バックアップがないとほぼ無理だったりという歴史があるので。今でも第一子の出産、育休後に閑職にやられるなんてことは起きてるみたいだけど。

2020-10-22

anond:20201022163139

「Aの主張はそうだ。一方でBの主張はこうだ。」

というのはA・B両派の主張を対照的に取り上げてるだけだろ。

Aの主張を認めているわけではないが。

2020-10-20

政治家が悪い経営者が悪い官僚が悪いって言ってるけど

政治家エリート無能揃いなのはそれだけ国民レベルが低くなってるから対照的劣化してるだけだろ

例えば1990年台の自民党議員経団連役員たちなんか「ガソリンスタンド若いものが働くのは禁止するべきだ

10年建ってもなんの技能も身につかない」と言ってた

ITでも95年にはまつもとゆきひろ日本人向け言語Rubyを作ってるくらいたくさん世界通用するエンジニア活躍して結果を残していた

今は世間知らずの新卒たちをやりがい搾取使い捨ててるし、web全盛期の頃なんかインターン狙いで女子大生いじめて弱らせてからホテルでヤリ捨てなんてベンチャーの人事がやりまくって大問題になってた、悪質なそれがビジネスとして当然だとか賢い方法だ言ってるだろう

国や産業技術の衰退なんてなるべくしてなるんだよ

カラカラ帝がアホな暴政しまくったせいで一夜にしてイギリス古代ローマ生産業が流通ごと崩壊したようにな

2020-10-15

[]10月14日

ご飯

朝:なし。昼:海鮮丼。ネバネバサラダ。夜:人参大根玉ねぎシメジと溶き卵のコンソメスープフライドチキン。間食:ブルボンのプチシリーズクッキー

調子

むきゅーはややー。お仕事はそれなりー。

今日散歩おやすみ

○プリコネ

初日ルナの塔登りきる快楽がプリコネで一番気持ち良い。

ただ今回のEXクソむずかった。多分、ユイランクとかストーリー解放ボーナスとかその辺の細かいところが重要になってるんだと思う。

グラブル

ドバの周回。いやーソロ団が無理して遊ぶコンテンツじゃないな。天星器は取りきりたいけど、うーむ。

○ワーフリ

シナリオイベント妖怪図鑑編纂記」を読んだので感想を書きます

毎回のことだけど、シナリオタイトル出るところが素敵すぎて一気に引き込まれた。今回は「紅葉」が映える絵で、ドット絵郷愁と相まっててしゅきしゅきだ。

ドット絵での物語の魅せ方を磨きつづてるワーフリならではの絵作りの気持ちよさが映えるところなので、ここは毎回褒めたい。

お話は、和の国(でいいのかな?)を舞台にしたガールミーツガールもの

絵の才能はあるが新米リョウキと、絵にまつわる謎の力のせいで絵を描くのを怖がっているクグイの二人が主役なのだけど、まずこの二人の性格対照的なのに根っこの芯は同じという構図が大好き。

ワーフリの女性同士の関係を書いたシナリオは、ステラディアバレッタラヴなどがありましたけど、また違った魅せ方がされてて素敵でした。

二人が絵を好きでそれを磨くもの同士でかつ、互いの絵が大好きな関係からこその物語になっていて、メインシナリオで再来訪は難しいだろうけど、何度もイベントシナリオでこのエピソードが見たいなあ。

特に今回の加入キャラでもあるクグイの方が、リョウキに対して絵の先輩だし妖怪と戦う力も持ってるのに精神的には未熟で引っ張ってもらうところが好き。

シナリオ後半、リョウキが「描くことに理由必要なら、私がなるよ」と啖呵を切るシーンなんかは大量スクショしまくりました。(グラブルでいうルリアノート的なの欲しいなあ)

物語構造としては、強い力を持ちながら悩むクグイと、力はないけどまっすぐひたすらに進むリョウキの二人の関係が主なのだけど、ここに未だ何も持たないことがキーワードアルクステラ関係オーバーラップするシーンもあったりして、ワーフリの積み重ねも活かしたいいシナリオだった。

ベストシーンはクグイの「生意気な後輩に、先輩の意地を見せなければなりません。そのために…… 返してもらいます。絵が好きだっていう、気持ちを!」です。

毎回、シナリオイベントはこういう決めシーンから逆算したような丁寧さがあって、今回もバシッと決まってて最高だった。

マナサ六層解放とか超級武器などゲーム的なアップデートも気になりますが、やっぱり僕がワーフリを遊ぶのはシナリオなんだなあと再認識できました。

2020-10-13

世界をより良いものにするため、ご飯に箸を突き立てなければならない

 実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたか記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的意図関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。 

 年を重ねるにつれて「宗教的儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範自分自身にも深く根付いていった。思春期差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。 

 さらに長じて倫理とか規範かに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。

「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より

    ①自分尊重していなくとも、他社が尊重している信仰規範平時ご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである

宗教的意図関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、

    ②すでに共有されている規範マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範マナーから逸脱すべきでない

ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか

①「自分尊重していなくとも、他社が尊重している信仰規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について

 当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。

 具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒聖書引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書記載」に自分価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分世俗道徳尊重し支持しているかである宗教倫理世俗倫理が背反するときには世俗倫理優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくま思想信条自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。

 ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分尊重する「世俗規範」の基づいて社会運営されるべきと考える。どれだけ他者価値観尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理現代志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーラン字義通りの解釈尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。

 さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者規範尊重は、私の尊重する規範を害さな範囲でないともちろん認められない。人権思想表現の自由自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマド表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである

 まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナー問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります

②「すでに共有されている規範マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存規範マナーから逸脱すべきでない」について

 これを言い換えると

    ・マナーを破ると人は不快に思う。

    ・人を不快にする行為は好ましくない

    ・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない

 いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。

 まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティ非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。

 何かのマナー価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである基本的選択肢は多いほうがいいと自分は考える。

さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリット存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。

 ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナー価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださら思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別意味見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナー存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。

 マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまりマナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナー不快を感じる機会を増やしているだけである不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さなメリット自由享受できる社会のほうが絶対にいい。自分マナー業界蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナー創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。

と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナー合理的意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範マナー従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間排除する上では非常に有効機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的メリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ自分信仰としてこういった排除ロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。

 ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時ご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定不快感を生じてしまう。これは自分だってそうであるご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由有害マナー継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているか道徳である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなもの迎合していいのか。他人自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。

ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生高校生ともなればこの理屈理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベスト選択できないことはベター選択しない理由にはならないはずだ。

 将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナー存在を知らない世代食卓はどんな光景だろうか。

 彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないかご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。

 これから世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これから世界をより良いものにするため、私たちご飯に箸を突き立てなければならない。

2020-10-11

ホロライブの魅力が相対的に減っているように感じる

多分急激に有名になりすぎて、するべきシフトチェンジが追いついていないというか。

要は、演者自分数字しか見ていない=自分数字にならないことは一切やらない。

そして運営も、演者数字を伸ばすためのアシストに特化しすぎて、コンプラやら法務的な業務ダメダメ

まるでガリ勉とその親みたいな構図で、そりゃ嫌われるだろうよ。

一応、ファン同士が対立しないよう、同じ事務所演者の話をするときコラボするときもかなり気を遣っていて、それが箱推しにつながっていた時期もあった。

でも今はもう、各自活動タコツボ化している感がハンパない


まあ、事務所ブランドや人気演者とのコラボというゲタはあるものの、基本他の誰にも頼らないで数字を取っていければ、周りで何が起ころうがファン絶対についてくるという強みはある。

塾や進研ゼミという手段であっても、勉強したことは何があっても自分財産なるみたいな。

それににじさんじみたいな、メンバーシップを通じた売名行為推奨みたいな営業方針と違って、コミュ障陰キャであっても活動可能というメリットもある。

これも勉強さえできれば…に似ている。

とはいえ、そういう独り善がりが透けて見えるようになると、手放しでの応援は難しい。

ノブレス・オブリージュじゃないけど、「無償で何かをあげてしまう」ムーブみたいな、勝ち組ゆえの余裕を見せられればと思う。

それだって偽善というツッコミはありそうだけど、金の亡者みたいな叩きよりは遥かにマシな状況になりそうだし。


陰キャコミュ障という単語が出たからついでに言うと、にじさんじ陽キャコミュ路線は、それはそれでホロとは別の意味炎上の温床になるので(武勇伝まがいの犯罪自慢とか)、事務所がその運営清廉潔白にこだわるのも当然である

そういうリスク回避もあってか、今夏デビュー新人ユニット(セレ女)は全員陽キャでありつつも下品さや粗野っぽさとは無縁で、イキるムーブするときも十分に節度をわきまえた、中学受験頑張った系の優等生キャラばかりだったり。

(唯一国語力に難がある西園チグサであっても、女学園入学後は無勉低空飛行な遊び人路線の「設定」と思えるレベルに留まっている)

この人選は今の所、数字こそ勝っている反面、デビューから僅か2ヶ月でイメージを大いに損なってしまっているホロライブ5期生とは対照的な、堅実さが光る結果となっている。

まあ見た目に関しちゃ、同じガッコの制服ベースな「パーカー少女と4人のニーソたち」以外に、なにか際立った特徴はない。

それに配信内容も、上述のおチグ以外のニーソ4人については、わかりやす面白みに欠ける(とはいえ件の4人は配信経験からの出発なので仕方ないのだが)。

でもクレバー彼女らのこと、いずれ好転すると思うので、長く応援していけそうである

2020-10-07

天才が見たい 1/2

幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケートファミリーコンピュータ。皆覚えている。

幼稚園の頃には、既に自分他者とは異なる存在であることを認識していた。

幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。

ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園落ち葉拾いをして、その落ち葉ちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデ落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手バイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。

作ったちぎり絵先生に見せた時、「これは・・・バイク・・・・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明必要だな」と何故かひとり勝手確信し、画用紙に黒のクレヨン物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。

「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。

俺のちぎり絵物語幼稚園話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。

発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。

その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。


区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。

両親は平凡だった。見合い結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。

ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。

俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校地元公立のほうが良いように思えた。

幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バス苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間為人を把握して対応方法ほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立ゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。


両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校地元公立小学校入学することになった。

小学校に入っても、特に自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。

この頃になると、自分状態客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。

俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。

言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。

何より、公立小学校毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。

「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間コミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。

ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息けが荒い小学生だったと思う。


─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。

─────日本一大学東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。


そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃であるいかにも小学生摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対京都大学に入ろう」と思った。

そこから俺は色々と京都大学情報収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校先生などに尋ねたりしていたが、小学生調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。

しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないもの・・・模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。

日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。

だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。

看守は

給付型の奨学金制度などもある」

経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」

増田君には質の高い教育を受ける権利がある」

などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。

この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているか私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。


当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。


そうして地元公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試偏差値が出るからである

そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベル高校が無理なら、こりゃ京大東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。

悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く

「成績がいいのに何故」

「塾はお金がかかる」

「家でも勉強はできる」

などなど、様々な言葉で塾に通うことを拒否された。

小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。

また、塾が無理なら定性的定量的評価可能代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。

結局、中学3年の春から、塾に行く事を許してくれた。

半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。

そんな母を尻目に意気揚々進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるか勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。

その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつ教室に雨後のタケノコのようにポコポコ存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。

毎日がただ楽しかった。自分天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃん数字が、成績がついてきてくれた。

幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。


高校公立北野高校というところに入った。維新橋下弁護士とか、日本マクドナルド創業者藤田田ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家岡田あーみんとかが通っていた高校である

本当は東大寺学園に行きたかった。学力模試偏差値は足りていたと思う。赤本自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校絶対公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。

中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金申請手続きを自分自身で済ませた。

北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強必要であると思ったからだ。

俺は詐欺師丸出しの口調で「高校学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費予備校に回してほしい。予備校バイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。

この頃になると、奨学金申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。

自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。

俺が小学生中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。

家計ほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。

高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。

昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。


しかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。

大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。

大学合格したこときっかけに、京都に引っ越す事にした。

ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。

大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。


後編に続く

anond:20201007170042

2020-10-04

anond:20201004165606 anond:20201004174110

宗教的配慮があるだけで普通に病気です。セックス依存性のセラピストフツーにるし、治療も出来る

嗜癖障害と言った方が馴染みやすいかな?『セックスしないと他人と思える』とか単純にあたおか。明らかに生活に支障出てる

 

愛している人とセックスというコミュケーションを取りたい、セックス積極的パートナーと生涯セックスを楽しみたいとは

また別の話ですな

 

嗜癖障害とは?

・正常な楽しいはずの活動が、コントロールしがたい欲求衝動によって繰り返され、その結果、その個人他者に対して有害となっている状態

嗜癖性ありとして特定されている過剰行動には、ギャンブル摂食ポルノパソコンビデオゲームインターネットエクササイズ、買い物がある。

 

診断基準

1. ある種の行動(多くは非適応的、非建設的な行動)を行わずにはおれない抑えがたい衝動(craving)

2. その行動を開始し終了するまで、他の事柄は目に入らず、自らの衝動コントロールできない(impairment of control)

3. その行動のために、それに代わる(適応的、建設的な)楽しみを無視するようになり、当該行動に関わる時間や、当該行動から回復(行動をやめること)に時間がかかる

4. 明らかに有害な結果が生じているにもかかわらず、その行動を続ける

 

報酬系回路

 行動嗜癖物質依存において、同じ脳内回路の異常が指摘されており、その主なもの脳内報酬系あるいは辺縁報酬系回路(reward system)と呼ばれるものである報酬系回路とは、食行動や性行動などの本能的行動を快感として感じることで、行動の継続を図る種の保存のための神経系であるが、存のための本能的行動が快感追求だけの目的で行われると、快感追求の継続と反復という嗜癖や依存に強く関わる神経回路として機能する。

 

セックス依存する人は人間関係を怖がる傾向が高い

調査ではオンラインセックス売春、人前でのセックス複数人との同時セックスしたことがあるかどうかを質問した。またアルコール摂取自尊心に関する質問も行った。


この結果、セックス依存しているとした人は、人間関係を脅威と捉え、人との付き合い方が不安定で親密になることを怖がる、あるいは避ける傾向の割合が高かった。

セックス依存ではない人たちが親密さを望ましい、あるいは価値のある関係だととらえ、また人との関係安心感を覚え、自分パートナーを信頼できると考えているのとは対照的だった。

https://www.afpbb.com/articles/-/2780177

2020-09-19

ヤフコメブコメ

はてブコメント欄Yahooニュースコメント欄、どちらがひどい状況かと問われたときに、一昔前だとヤフコメだと即答できたのだが、今は即答できないし、悩んだ末にブコメという答えになりそうですらある。

Yahooコメント健全化とは対照的に、はてブ放任主義の結果として、徐々に低俗になりつつあるように思う。

特に政治ブクマはひどい状況で、エコーチェンバー現象の見本のような経過を辿っており、Yahooだと普通に削除対象だよねっていうコメントスターを集めて上位に来ていたりする。

ヤフコメ表示順位API話題になっているけど、表示順位API以前の、もっと原始的な削除基準に関する問題が、今のはてブにはあるのではないだろうか。

2020-09-08

新・国民民主党エールを送りたい その2

https://anond.hatelabo.jp/20200907220331

上記日記を書いた増田です。仕事から帰ってきたら何件も反応があったんで返信を兼ねて少し追記したい。

私が新・国民民主党を支持する理由ちょっと弱かったんでその辺の補足をふくめて。

最初結論

新•国民民主党は、主要政党の中で一番中間層に目を向けているから支持。

他の政党は、各種圧力団体等の既得権益層や、社会運動家高齢者といったコアな支持層の方を向きすぎている。

お前の理想とする政治ってどんなの?

穏健保守日本の伝統文化大事にしてほしいけど、靖国参拝とかの復古的な風潮はいらない。

そんなことよりも社会の変化に対応して必要な変化を適切に取り入れていってほしい。

今の時代なら、お役所教育といった公的セクターIT化をどんどん進めて当然だと思うけど、今の政府は遅れているどころか世界的に見ても低レベル。そこに不満を感じる。

現役サラリーマン層の社会保障の負担軽減は必須。なんで毎月給料の1/3近くが社会保障関連費で天引きされるんだよ。

自衛のための戦力や日米同盟必要だけど、右派が言うような核武装敵基地攻撃能力はやりすぎ。中国韓国日本非難の口実与えるだけ。

原発即時全廃は拙速。天候依存太陽光や風力、中東原油依存の火力に頼り切って本当にいいの?

長期的にみて、安定供給できる電力の代替手段が見つかれば廃止進めても問題ないと思うけども。

そんな立ち位置なんで、今の自民党政権自体はそれなりに評価。ただ点数をつけるなら決して高評価にはならない。

自分の中ではよくて40点くらいの点数だろうか。だけど野党評価すると20点とかそれくらいになっちゃうんで、仕方なく自民投票している。現状そんな感じ。

なんで左派が嫌いなの?

少し古い話だが鳩山政権の時に、沖縄基地移転問題で何の準備もなくちゃぶ台返しした挙句

昔の自民と同じように辺野古移転という結論に至ったお粗末さとか、理念先行で空回りする傾向が信用できない。

あとは、日本左派知識人反知性主義に近いのが嫌い。立憲がこの前擁立していたおしどりマコとか、なんで科学的根拠に基づかない主張する候補をもちあげるんだよ。

他には無駄に対決姿勢が強いところとか。旧民主党政権ときの長妻議員とか、厚労省官僚対立してろくに改革できなかったり、

最近だと石垣議員のように、政敵になら何を言ってもいいというような独善性とか。そういうところが普通に嫌いです。

ネオリベ支持派だよね?

ネオリベとは割と思想的に近いとは思ってる。ただ、競争的な環境必要だと思ってるけど、なんでも競争させればいいってもんじゃないという考え。

大学競争資金制度を持ち込んだ結果が日本大学国際競争力の低下や教職員待遇悪化につながってるのが悪い例だよね?

あと、現政権ネオリベ寄りといわれながらぶっちゃけ見掛け倒しだと思ってる。

電通パソナリクルートといった特定業者利益誘導するのは自由競争精神に反するし、政府企業統合に介入する産業政策ぶっちゃけセンスがない。

ルネサスとかジャパンディスプレイとか明らかに失敗だよね?最近日産ホンダ統合構想とか、マジで思考が終わってる。

少数政党にできることなんかないよ?

国会質疑で対決型の野党と違う視点を持ち込めるのは、多様性観点大事

選挙で1回議席増やして、衆議院20議席参議院10議席とれば議員立法提出できたはず。

そこまで行けば個別法案自民と連立与党公明党判断が分かれるときキャスティングボートを握れる。

ていうかそもそも1回の選挙政権取ろうって考えが私には理解できない。

かつての民主党や、もっと前の細川連立政権が勢いで政権取って失敗してるじゃん。

彼らの教訓は、外交安全保障経済社会保障といった基本的国家観が一致していないと政権は持たないという事。

政党が掲げる大義が、「自民党政権を打破して腐敗をただす」だけなら同じ過ちを三度繰り返してしまう。

新しく実現したい具体的なビジョンを掲げるのは絶対必要なんだよ。

今の政府に不満があって政権交代の必要性を感じるなら、時間はかかっても地方選挙国政選挙を繰り返し、

理念の一致する仲間の数を増やして地道に党勢拡大するしかないと思う。

維新支持しないの?

左派を支持しない理由と同じで、反知性主義的なにおいを感じるから

世界中の研究機関が血眼になってコロナウィルス研究進めてもなかなか成果が出ないのに、イソジンコロナ解決したら苦労はせんのだよ。

コロナ対策候補が見つかれば、ちゃんと手順を踏んで治験を進めてエビデンスが得られてから認可っていうような正攻法で進めてほしい。

れいわ支持しないの?

山本党首が目立ちたがりで、考えるよりも行動した方が早いってタイプに見えて、維新同様、反知性主義的なにおいを感じるから

国会での葬式パフォーマンスとか、そういう左派特有政敵に何してもいいって考えが嫌い。

山尾議員微妙なのはなぜ?前原議員スキャンダル多いよね?

山尾議員ヤバいスキャンダルを重ねすぎ。ガソリン疑惑W不倫の2つが重なるとさすがに人格を疑う。地元の支持者が離れた対策かわからないけど、れいわの山本党首に近づいたり、復古主義的な保守系に近づいたりと節操がない。

前原議員外国人献金問題とかあってあまり擁護はできないけれど、民主党政権時に国交相としてJAL再建で成果上げてるのがポイント

他の民主党議員、例えば長妻議員厚労省改革で成果を上げられなかったのとは対照的

他にも京セラの稲森氏を後ろ盾にしていたりとか、民主議員には珍しく財界コネを作ってたりと実務能力の高さを感じる点が割と評価できる。

もっと永田メールに踊らされたり、小池知事に担ぎ上げられたりといった政局面での弱さが目立つので、実務に徹してもらいたいと思っている。

そんなわけで

個人政治的嗜好で支持政党判断すると、風見鶏議員が離党した後の新・国民民主党自分方向性と見事に一致してるんで、今の自民と違って『積極的に』支持ができるんですわ。

後1週間もすれば、新・国民民主党体制が発表されると思うんで、私のような穏健保守派の現役サラリーマンの皆さんも注目してみてはどうでしょう

2020-09-04

小児性愛異性愛についての問題提起」の顔をした女性蔑視

よっオラ小児性愛男性ジェンダー周りの話題は人並み以上に追っていると思ってる。

で、このエントリについて。

https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300207684960935938

小児性愛同性愛比較について。

小児性愛と同様に、異性愛も加害性を問われるべきではないかという意見

ブコメでは既にツッコミが入っていて「同性愛との比較被差別についてであって加害性についてではない」「論点をずらすな」と言われている。

その通りだと思う。

 

その上で。

気になったのは、続きのこツイート

ここについてはツッコミが少ない。

https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219499145166850

https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219500147609600

ツイート本文が読みにくいので変形すると、

社会的に、女性判断力は低く見積もられる。

から、次の問題が提起される。

現状、この問題意識されていない原因は、異性愛男性

からだ。

という主張だ。よく考えがまとまらないままツイートしたのだと信じたい。

 

まず前提として、性行為に関する正当な合意とは何かを確認する。

行為を行う人(異性愛であれば男女)それぞれが、

必要十分だ。

小児性愛場合子供には判断力がないため、正当な合意とは言えない。

ツイート主もここまでは同意すると思う。

 

で、ツイートについて。

ディーラー役職レイプの例は、いずれも、「女性の実際の判断力よりも、その社会的評価が不当に低い」という例だ。

女性判断力が「実際に」低いのではない。

社会的評価が不当に低いのだ。だから社会問題だ。

からといって、どうして、異性愛合意正当性疑問符がつくのだろう?

その女性合意している。

女性には十分な判断力がある(ありますよね?)。

可能性は低そうだが、単に「異性愛には実際には女性合意していない場合があるので、合意正当性が疑問だ」って言ってるのだろうか…?(一応この場合についても後述)

理解ができなかった。

 

邪推だが、このマサキチトセという方は、本心では、女性判断力は、「実際に」低いと考えているのではないか

であれば、「女性判断力子供と同様に低い。」「子供合意も、女性との合意も、両方が、一方的な加害になる。」という懸念理解できる。

というか、それ以外に理解できなかった。

だとすれば、これは、現代社会には受け入れられない女性蔑視そのものだと思う。

これはご自身のことではないですか?

  

ちなみに、合意が不十分なまま行われる性行為が不当なのは、「言うまでもなく当たり前のこと」だ。

対照的に、子供との性行為は、「どれだけ十分な合意があっても、法律上倫理上も一切アウト」だ。

大人の性行為は、同性愛であれ異性愛であれ、きちんと合意すればやっていい。

子供との性行為は、合意しても絶対にやってはいけない。

ここに小児性愛者の生きづらさがあることを理解してほしい。

雑に論点をずらすと、かえって、小児性愛者の生きづらさが理解されなくなってしまうように思う。

 

このマサキチトセという方に小児性愛者の擁護のつもりがあるのか知らないが、中途半端な主張はかえって迷惑だ。

2020-08-21

木村一基の不撓の闘い

藤井聡太棋聖が瞬く間に二冠、そして八段となり、世間は大きく湧いている。

けれど、ここでは、番勝負で敗れた木村一基九段の話をさせてください。

悲願は実る

将棋ファンをやっていて一番辛かった瞬間は、と問われれば、2016年の第57期王位戦番勝負第7局を挙げる。このシリーズ通算6回目のタイトル戦挑戦となった木村一基八段(当時)が、羽生善治王位相手に3勝2敗と先行し、悲願の初タイトル王手をかけていた。しかし、第6局、第7局と木村は連敗する。またしても、悲願の初タイトル獲得はならなかった。これで木村は、あと1つでタイトル、というところで8連敗を喫した。あと一つは、どこまでも遠い。

いつもは負けた後も気丈に振る舞う木村だが、この日は様子が違った。記者質問言葉が詰まる。言葉が、出ない。結局、言葉を発さないまま、木村右手を小さく振って質問をさえぎった。8度目の正直。期するものはどれだけだったか。胸にこみ上げた思いはどれだけだったか。胸が潰れるような思いだった。こんなに辛いことが世の中にあっていいのか、と思った。

この時、木村43歳。次々と若手が台頭してくる将棋である。43歳の木村に残されたチャンスは多くない。もしかしたら、これが最後のチャンスだったのではないか。そんな思いが頭をよぎった。

そんな思いが頭をよぎったことを、私は今でも恥じている。

それから3年後の2019年木村は再び王位戦で7度目のタイトルに挑む。そして、豊島将之王位(当時)を相手に、4勝3敗でタイトルを奪取。史上最年長記録となる、46歳での初タイトル獲得である。43歳で8度目の正直を逃し、それでもなお、木村は這い上がってきた。そして、ついに悲願は実った。解説会場で見守っていたファンは、立ち上がって木村拍手を送ったという。この悲願は、将棋ファンにとっての悲願でもあったのである

将棋ファンをやっていて、一番辛かった瞬間と、一番嬉しかった瞬間。その両方を味わわせてくれた木村一基は、私にとって特別棋士である

ついにタイトルホルダーとなった木村一基王位も、1年後には初めての防衛戦を迎える。2020年7月、第61期王位戦木村の前には、まだどこか慣れない和服に身を包みながらも、凛とした佇まいで盤の前に座る挑戦者がいた。

藤井聡太七段(当時)。厳しい、あまりに厳しい防衛戦が幕を開ける。

遠い勝利

番勝負第1局。藤井七段の先手番で角換わり。木村王位は、38手目に△4四歩と突く。これは、「攻めてこい」という手で、ここを突くと先手の猛攻が始まる。強い受けを得意とする木村。初めて上位者として臨むタイトル戦。藤井七段の攻めを堂々と受け止める覚悟で突いた歩であった。

当然、藤井七段は次の手から攻めかかる。厳しく、刺さるような攻め。藤井が攻め、木村が受ける。それが延々と続いた。受けを身上とする木村である面目躍如の粘り強い受けが次々と飛び出す。絶体絶命と思える場面でも、受けはある。藤井の攻めが止まり、一手でも木村に攻めの手が回れば、たちまち逆転である

しかし、その手は最後まで回ってこなかった。藤井聡太七段、攻め始めてから守りの手を指すことなく、攻め倒しての快勝。盤上に衝撃波が残るような、そんな幕開けとなった。

第2局。先手番の木村選択したのは得意戦法の相掛かりであった。この戦型は、定跡が整備されておらず、一手一手が難しい戦いになる。お互いの構想力、真の力量が問われる戦型ともいえる。木村藤井、互いに盤上没我し、深い読みで盤の底の海を泳ぐ。2日目の午後になってもまだ本格的な戦いが始まらない。あまり難解な応酬の中、一歩抜け出したのは木村だった。8六に角を上がった手が、藤井も困ったという好手。深い読みと、これまでの艱難辛苦に裏打ちされたような丁寧な応対。木村がついに優位に立った。

しかし、藤井は全く楽にさせてくれない。逆転に向けて絶えず圧をかけ続けるような指し手で、木村を追い詰めていく。序盤、中盤で考えに考え、優位を掴んだ木村。終盤まで来ると、時間が残っていない。時間に追われるように指した手は、わずかに足りなかった。木村一基、2連敗。終局後、遠くに目をやった姿が印象的だった。

迎えた第3局。第2局と第3局の間に、藤井は初タイトル棋聖を獲得していた。これでこの番勝負は、初タイトルの史上最年長対史上最年少の番勝負となった。果てしない苦難の末にタイトルを手にした木村に、彗星のごとくタイトルまで上り詰めた藤井が挑む。同じタイトル1期でも全く対照的であり、意味が違う。将棋神様がどこかで筋を書いているとしたら、将棋神様が憎い。

戦型は矢倉。先手番の藤井が、土居矢倉に雀刺しという温故知新の構想を披露する。盤上を転換する角が輝いている。改めて、恍惚とするような構想力である。またしても藤井の攻めを木村が受け止める展開となるが、藤井の攻めは淀みなく、木村、苦しい。

はっきりと苦しい90手目。木村は自陣に銀を打った。うめき声が聞こえてくるような苦しい銀打ちである。この手を見て、中継画面を思わず凝視した。辛抱も辛抱、鬼辛抱の受けである。ここに銀を打ったところで、幸せになる未来はなかなかやってこない。それでも木村は打つ。これまでも打ってきたし、ここでも打つ。

中継を見ながら並べていた将棋盤に、木村の手つきを真似しながら何度も銀を打ち付けた。自慢できるような華麗な手ではない。しかし、これが木村の手なのだ

「これが木村一基だ」。そう念じながら、何度も、何度も打ち付ける。報われてくれ。幸せになってくれ。まずは一つ、返してくれ。

木村の執念の粘りに引きずられたのか、藤井が終盤に一手寄せを誤る。辛抱を続けてきた木村に巡った最終盤の大チャンスであるしかし、そこから木村が優位を掴む手は相当に見えづらく、難解だった。突然現れた勝利へのか細い糸だったが、木村、惜しくもこれを掴めない。番勝負は3連敗、あっという間のカド番となった。

2020年8月19日王位戦番勝負第4局。カド番の木村は、相掛かりに命運を託す。敗れはしたものの、第2局で優位を築いた得意戦法に全てを懸けた。

カド番とは思えないような積極的な指し回しに、藤井も一歩も引かずに応じる。激しい突っ張り合いの末に封じ手を迎えた。飛車に銀を当てられた藤井。36分の考慮に沈んだ末、次の一手を封じた。飛車を逃げるか、バッサリと斬ってしまうかというところである。そして、後者は相当に勇気がいる。

封じ手の場面、ある一手を思い出した。藤井聡太代表する一手の一つ、「△7七同飛成」。場面は異なれども、あれも飛車をバッサリと斬る手であった。鮮烈な一手が去来して、予感を巡らした。そして、翌日開かれた封じ手藤井棋聖はやはり、飛車を斬り飛ばした。

一歩も引かない突っ張り合いは2日目も続く。しかし、局面藤井に傾いていった。終盤の局面は、見れば見るほど、木村にとってどうしようもない。全てを悟った木村王位は、潔く駒を投じた。藤井王位誕生し、木村にとっての初の防衛戦の幕が閉じた。

木村から見て「0勝4敗」という星取りは、正直すぐには信じ難い。紙一重の、いや、間に紙一枚もないような攻防の中で、残念ながら木村勝利を掴むことができなかった。どこまでいっても勝利の遠かった番勝負。そこには、歴然たる「差」があるのかもしれない。しかし、木村一基王位は、初めての防衛戦となるタイトル戦で、最後まで全力で戦い抜いた。彼が初めてタイトルを獲得した時、解説会場でファンたちがそうしたように、今回も立ち上がって、全力で拍手を送りたい。

折れない心

藤井王位は、記者会見で木村の立ち振る舞いから学ぶことが多かったと述べていた。それは、偽らざる実感だったと思う。多くのタイトル戦を経験してきた木村だが、これまでは全て挑戦側。上位者として迎えるのは初めてで、しか相手自分よりも30歳近く年下の若者、加えてこのコロナ禍の中での異例づくめのタイトルである。戸惑う部分は大きかったはずだが、それを感じさせないくらい、木村の振る舞いは堂々としていた。

初めての封じ手所作に戸惑った藤井棋聖。優しく所作を示したのは対戦相手木村であった。その封じ手、通常は2通であるが、今回は3通作成することを提案したのもまた木村である。通常より多い1通は、販売し、収益豪雨災害被災地などに送ることを想定したチャリティーである

目を覆うような負け方をした後でも、感想戦リードし、記者質問にも気丈に答える。厳しい番勝負の中でも、木村他者へのまなざしを忘れない。あと一歩のところで敗れ続けてきた。苦難に満ちた将棋人生が、棋士木村一基を創っている。

感想戦の後、駒箱に駒をしまう。タイトルホルダーとしての最後所作を終えて、木村一基王位戦は幕を閉じた。47歳。あの時より、4つ年を取っている。しかし、木村一基はまた戻ってくる。苦しい手しか残っていなくても、まだ指し続ける。「百折不撓」折れない心は、木村の信念である

今度は、微塵も疑っていない。

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