はてなキーワード: 凝視とは
いや、この件、内心の自由や表現の自由は一切侵害されてなくない?
これだけじゃん。
なんか侵害されたのか?
「内心の自由」については、
「表現の自由」については、
何をどう守っている気でいるんだ?
冷たいことを言うようだけど、元増田の言うところの「内心の自由反対派」を批判している人たちは、間違っている(と当人が考える)と思うモノに間違っていると言っているだけで、別に黒澤氏の庇護を目的としているわけではない。
正しいことを言った黒澤氏には報われてほしいという同情的な気持ちはあっても、それはあくまで「表現の自由」や「内心の自由」を守ることと比べたら二の次の話であって、そこを最優先とはしていない。
高校の時、隣のクラスに保健室登校してる子がいたわけ。結局、一度も喋ったことはないんだけどね
保健室では保健医に向かってすっげーうるせー鳥みたいにピーチクパーチク喋ってんのに、教室戻ると自分の席で下向いて机凝視したまんま少しも動かねえしもちろん喋らねえの。
え?二重人格?てかまあ、内弁慶みたいな気質だったんだろうな、とは思うけど。
んでさあその子、名前も知らないその子が、俺の部活をめっちゃくちゃこきおろしてんの。卓球部だったんだけど俺は。
オタクのあつまりだし、卓球とかだれでもできるし~みたいな卓球部が生涯で言われることベストテンをフルスロットルでずっと言ってんのね。その保健室のベッドで卓球部部員の俺が寝てることも知らずに。
自分で言うのもなんだけど、うちの高校の卓球部って結構強いわけよ。まあもれなく全員ダサメンではあっただろうけど。でも毎日必死に練習してるわけ。
それをさあ、同じように部活頑張ってる陽キャとか、めちゃ勉強に打ち込んでるガリ勉とかでもなく、毎日教室に通う勇気も根気もろくになくて保健室で女王様面してるその子に言われたのがクソムカついたわけ。
いやてか保健医なんか言えよって感じだったんだけど、俺らには厳しいそのオバハンは不登校予備軍の生徒には肯定しかしないわけ。腫れ物を扱うように「そうだね」しか言わないわけ。まあカウンセラーじゃないし仕方ないんだけど。
その日俺は水泳の授業上がりに冷えた牛乳飲みすぎて腹壊して保健室で寝てたんだけど、その子の話が不快すぎて顔色悪いまま教室戻ったわ。そのまま残った方が精神衛生上よくねーもん。
俺がカーテン開けた時、その子は初めて気付いたみたいであっヤベッって顔して一瞬で黙ったんだよ。さっきも言ったけどそこそこ強い部活だったから、名前も知られてたんかもしれない。でも俺はその子の顔しか知らない。
ここで俺がもっと性格が悪いか、もっと度胸があるか、もっと機嫌が悪かったら「喋る元気あるなら教室行けば?」って言ってたのかもしれないけど、そんなに優しい人間じゃなかったので普通に無視して保健室を出た。
すげーいじめられたのかもしれないし、勉強についていけなくなったのかもしれないし、ただ単にクラスにムカつくやつがいたのかもしれない。何も知らない。
何も知らないけど、守られてるのは今だけだよってくらい、教えてあげればよかったのかなあ。
Iカップのいかにも大人しそうな女子中学生がいたら、うわっデカいなって思うじゃん。
隣を歩いてた友人が思わず「でか!」と口にしてじろじろ胸を見たとして、それに気づいた女子中学生の顔が真っ赤になったとして、友人に対して確かにデカいから仕方ないと思いこそすれ本気で怒ったり引いたりはしないだろう。
口では「やめろよ」と笑いながら言ったとしても、男なら気持ちはわかる。たとえば通りすがりにその爆乳に肘が当たったことを自慢されても気持ちはわかる。楽しく遊んでいる最中に本気で咎めて空気を悪くはできない。
男なら仕方ない。爆乳なら仕方ない。女の子は別に嫌そうな顔はしてなかった、と思うだろう。
小学生の頃から通りがかりに卑猥な言葉を投げつけられたり偶然を装って胸を触られたり教師にニヤニヤしながら凝視されたり同級生の男子にふざけて羽交い絞めにされたり、そういうことがしょっちゅうあったけど中学生らしからぬ巨乳の女子中学生だから仕方ない。
「やめてほしい」と本気で言うと、誤魔化すように笑うか空気を読めよとキレられる。巨乳のくせに本気で怒る私のほうが間違っているかのような雰囲気。
顔色を変えず上手く躱すようになることが大人の女性の本当の賢さだと社会は言っていた。ほんの十年前まで、たわわな女子中学生・高校生は性的な存在として扱われるのは当然だと社会のさまざまな場所で広告されていた。
建前上はやってはいけないことだが、実際にそれが行われたのを見た大人の男は「気持ちはわかる」「男の本能だから仕方ない」と言う。この苦しさは、ずっと欲情させる身体に生まれてきた自分が招いたことだと信じていた。
この巨乳はあまりにも人目を引き、これまで接した男性たちに「この女は性的な存在として嘲笑していい」というメッセージを送り続けた。
私に大小の性的な接触をしてきた人々は決して低能でも粗暴でもなく、普段は人のいい友人たちだ。ごく普通の善良な男性に性的な欲情を起こさせ、ラインを超える言動をさせるのは、私の身体だ。
私自身は重度のオタクだし、自由主義者であり性的表現規制には慎重な考え方だ。
だが同時に、私が子供の頃から好んで読んだり見たりしてきたメディアで示された性的表現に自分が影響されてきたことも知っている。
周囲に溢れるバラエティやドラマ、漫画やアニメによる刷り込みで、コミュニティの中で性的なアイコンとして振舞うように求められるのは当然だと学習してきた。
辛いと感じるのは私が弱く、大人のスキルをもっていないからだと思っていた。
大学でジェンダー論に触れ、あるいはいくつかのフェミニズム論に触れて初めて私は怒ってよいのだと言ってもらえたとき、目からうろこが落ちたようだった。
それまでずっと私が受けた性被害は性被害ではなく、それは私自身が招いたもので、受け流せない自分が悪いと思っていた。
私の身体は私のものだと言ってはいけないと思い込んでいた。私の身体のせいではない、社会が間違っている。この社会を変えられると言ってもらって、涙が出た。
漫画やアニメが実際の性犯罪を惹起する確率は低い、というのは理解している。
だが私は漫画やアニメから「性的な存在として振舞うのが正しいあり方です」というメッセージを受けとって成長してきた。
データを示せと言われたら困る。私は持っていないのでこれはn=1のただのお気持ち表明だ。
これから性被害を受けるかもしれない子供たちに、それを肯定するような表現を見せたくない。あなたの身体はあなた自身のもので、踏みにじられそうになったら本気で怒っていい。あなた以上にあなたの周囲の大人たちも怒ってあげると言ってあげたい。
私が公的な場所での性的な表現をやめてほしい理由はこういうことです。性犯罪を誘発しかねないという理由で性的表現を批判していることについては否定的に見ています。
今日、近所の電器店でアレに使う大容量HDDなどを物色しておりましたら、 「萌えー!萌えー!」と叫びながらフロアをうろつくおっさんを発見いたしました。
ああ、夏だな。
ああいうおっさんの存在を根本から抹消したらさぞかし楽しいだろうなとバッファローの200GBHDDを凝視しながらレジへと並びました。
ふとおっさんに目をやると、いつのまにやらおっさんが幼女に寄り添っているではありませんか。
これはいけませんと、買い物かごにあった唯一武器になりそうなUSBケーブルを握り締めていると、 おっさんと幼女の会話が聞こえてまいりました。
「もえ。お父さんから離れたらダメじゃないか」 「ごめんなさい」 ああ、アレだ。
親子だ。
もえって名前のお子さんですか。
利発そうなお嬢さんですね。
抹消されるべきは私ですね。
視点死刑とは心の中に植え付けられた観念が視点へと変質し、常に内面を除かれ内側から支配さる状態を指すがこのような気味の悪い病にも社会性があると思われる。
例えば松本人志の「遺書」がそうである。この松本人志の「遺書」が日本のお笑い会に多大な影響を与えたことに異論はないだろうが、お笑い会のみならず一般社会にも多大な影響力をもったのもまた事実であろう。
一般人が「俺はどちらかと言うと突っ込みタイプ」とか「俺はどちらかと言えばボケ」だなとか言い出したのはどう考えても「遺書」以降であるし、当時はみんな松本人志の真似をしていた。
「遺書」の中にちりばめられたさまざまな言葉、哲学、思想がテレビ会を良くも悪くも「汚染」したのも事実であろう。
「遺書」以降日本のテレビ番組がつまらなくなってしまったのは疑いの余地の無いところである。
で、その理由として松本人志の言葉が観念化し、テレビ会を凝視する視点へと変質してしまったと考えることは出来ないだろうか。
このボケや突っ込みをしたら松本人志につまらないと思われるの恐ろしく、笑いの質を変えざるを得なくなってしまった可能性はないだろうか?
松本人志的なあるいはダウンタウン的な笑いが日本中を席巻し芸人も一般人もパクってたし、はっきし言ってそれはつまらぬものでしかなかった。
日本のテレビ番組は「遺書」以降どんどんつまらなくなっていった。
たとえばビートたけしが昔に比べてつまらなくなったのも、素直に笑いたいけど笑えなくあの、ビートたけし特有の「ニヤリ」とした笑いかたも「遺書」以降によく見られる現象である。
私はビートたけしのバイク事故も「遺書」に敗北感を感じたビートたけしの自殺だったという説を持っているがどうであろうか?
最近のお笑い芸人は何でもかんでも突っ込み、しつこいし、これは浜田雅功のパクりとしか思えないし、ワイプに映るタレントの笑い顔も「笑わなきゃならず笑ってる」という感じで素直な笑いではない。
最近の笑いはボケから突っ込みまで全てが予定調和でつまらないし、そこにはやはり松本人志の「つまらない」という視点があり「つまらない」と思われるのが怖いからではなかろうか。
どう考えても松本人志の「遺書」以降日本のテレビ番組は変質してしまった。(そんななかお笑いの質が遺書以降も全くぶれなかった島田紳助は流石と言わざるを得ず引退が非常に惜しまれる)
笑いコンビは別にどちらがボケでどちらが突っ込みという決まり事なんかないのはたとえば、とんねるずやウッチャンナンチャンを見ればあきらかで、
その時々の状況に応じてどちらが突っ込んだりボケたりすれば言い訳で別にお笑い形態としては、必ずしもどちらがボケでどちらが突っ込みといった役割分担が必須というわけではない。
ウッチャンナンチャン的、とんねるず的なお笑いコンビがもっといてもいいわけである。
ダウンタウン以降、ほとんど全ての笑いコンビがボケと突っ込みの役割分担がはっきりしており、今は昔ほど酷くないが少しでもダウンタウン的な要素があるとつまらなく感じるのであった。
兎に角松本人志の視点がテレビ会に内在化されてしまったことは疑いようのない事実である。
明石家さんまですら、松本人志の視点を感じながら番組に挑んでるのも全く事実であろう。
ダウンタウンも歳をとりもうすぐ還暦である。流石に昔程の輝きはないが、ダウンタウンがどんどんつまらなくなっていくのと日本のテレビ番組がつまらなくなっていくのは軸を一にしており、繋がっているとは言えないか。
番組制作スタッフも本音を言えば正直松本人志の視点が邪魔で重苦しく感じているのではなかろうか?
私に視点死刑の刑が執行されたのも、「遺書」の発売年とほぼ被るし、私を自分の支配下に置こうとした彼は松本人志の芸風をよくパクっていた。
気味が悪く絶対に誰も同じ目にあいたくない視点死刑という刑罰も実は彼のオリジナルではなく社会性があったのであり、私を支配下に置こうとした彼も時代の手のひらの上で踊らされてたのである。
色々考えてたら分かった気がするので言語化してみる。
それは多分、相手から見て恋愛対象外という前提がはっきりしているから男としてジャッジされなくて済む、という安心から。
踏み込んで言い換えるとフリーな女性を目の前にするとあわよくばヤりたいだとか彼女にしたい、という欲から
自分をよく見せたい、だとか余計な力が入ってぎこちない自分になるからかもしれない。
男友達同士はどうかというと、心のどこかで男として負けたくない、金を稼ぐ能力で負けたくない、無能だと思われたくない、とか思っているフシがあるのか、
ふとした瞬間にあいつは仕事ができなさそうだとか心の内で見下したり、
自分より上だと思う人間に対してはあいつは環境が良いから、とか実家が太いからだ、とか
嫌なことを考えてしまうところがある。
普段去勢された草食系男子のように振る舞っているのだけれど、その実ただの非モテ30代が自己擁護するための手段にすぎない。
そう振る舞うことで警戒心を下げて女と仲良くしたいだけ、そういう戦略を取っているからこそこうなっている可能性はある。
カルピスを極限まで薄めて飲んでも美味しい、とい言って喜ぶ感覚というか、
その先にセックスはないが、友達として異性に受け入れられて喜んで誤魔化しているというか。
通常接しているときはフタをしているけれど、女友達に対する性の目線は確実にあって、
ピチッとしたセーター越しのおっぱいを凝視してしまったりする。
他人がしている恋愛に興味はないし、「男として」とか昭和ですか興味ないです、みたいな顔はしているけれど、
内情はセックスがしたくてたまらないし、誰かにマウントを取りたくて仕方がないという、
欲望を満たす能力がない男が一番安心できるところが、すでにパートナーがいる女である、と思うと、何かドンマイって気持ちになった・・・
恋愛市場における価値を高める努力をしたくないけど、女性とか関わっておきたい男が惰性でたどり着く行動。
最適化してると思いつつ、いつかどこかのタイミングで欲を出して、
お前ちんこついてたやんけ!と離れられる未来が待ち受けている気がしないでもない。
なんとかしないといけない、とは思うが
きっとこのままぬるま湯に浸かったままなんだろうなと思う。
渡辺明王将(名人、棋王)に藤井聡太竜王(王位、叡王、棋聖)が挑む第71期ALSOK杯王将戦七番勝負は、2022年1月9日、静岡県掛川市の掛川城で開幕した。王将含む三冠を保持する渡辺と、竜王含む四冠を保持する藤井。三冠と四冠によるタイトル戦は史上初で、文字通りの頂上決戦である。両者によるタイトル戦はこれが3回目だが、2日制のタイトル戦を戦うのはこれが初めて。より深い次元で互いの読みをぶつけ合う、最高峰の舞台がここに整った。過去2回のタイトル戦では、藤井の前に敗れ去った渡辺。初となる2日制の対局で、藤井相手にどのような将棋を見せるのか。戦前に今回のタイトル戦を「(自らにとっての)正念場」と語った渡辺、過去6戦全勝と抜群の相性を誇る掛川城で、最強の挑戦者を迎えた。
戦型は相掛かり。振り駒で後手番となった渡辺は、比較的穏やかな形を選択し、自然な駒組みを続けた。先手番の藤井がどのような作戦に出てくるか、その動きを静かに待つ。
盤上に突然の嵐が吹いたのは41手目。藤井が指した▲8六歩という一手は、盤上に突如緊張を走らせた。この▲8六歩という一手は、将棋をある程度知っている人からすれば、思わず何事かと凝視してしまうような衝撃の一手である。この8六の地点は、盤上にある一つの「火種」。後手からは、△8六歩▲同歩△8五歩と合わせる継ぎ歩の攻めや、△8六歩▲同歩に△8七歩と垂らす垂れ歩の攻めがある。さらには桂馬を跳ねてくる手もあり、やられる先手としてはどれも相当に嫌らしい攻めである。できれば先手としては触りたくない火種に自ら歩を伸ばしたのだから、解説陣は騒然。立会人で永世名人資格保持者の森内俊之は、「何が起きたのか、すぐには分からないくらい衝撃的な手」と評した。
盤上に嵐を読んだこの手だが、藤井がこの手を昼食休憩の直前にさらりと指したことにも衝撃が起こった。このような大胆な手があったとして、普通は休憩後に一呼吸置いてから指すのが定跡である。大胆な手は後に引き返せないし、休憩前に指してしまえば、休憩中に相手の渡辺に考える時間を与えてしまう。勝負術という面でも、休憩後に指すのが有効と思われるところ、藤井は何事もないかのようにその一手を指した。ただ、この「▲8六歩」という一手は、初見なら相当な衝撃を受ける一手だが、すでに類似形の将棋も現れており、トッププロの間では水面下で着々と研究が進んでいるという見方もある。藤井にとっては、この手は大胆でも何でもなく、すでに嵐は過ぎ去った後なのかもしれない。現代将棋は、ものすごいスピードで変質を遂げている。昔は、2日制の将棋といえば、1日目は互いの了解で通い慣れた手順をなぞるだけ、本格的な解説もほとんどないというような時代もあった。しかし、現代ではそんなことは全く通用しない。2日制の1日目から、研究がぶつかり合い、激しく火花が散るのが現代将棋である。1日目の、まだ昼食休憩も迎える前に時間に放たれた「▲8六歩」の一手は、かつての常識が全く通用しない、むしろかつての常識を全て疑ってかからなければ始まらないという、現代将棋の一端を高らかに宣言しているかのようだった。
藤井に大胆な一手を提示された渡辺は長考に沈む。藤井が自ら突っかけてきた▲8六歩を咎める手順はないのか、それともこれは「罠」か。非常に悩ましい時間だったと思う。長考すること1時間31分、昼食休憩も含めば2時間30分以上も考えた末、渡辺は△1四歩と反対の端の歩を突いた。藤井が突き出した歩には触らず、引き続き戦機を窺う一手だった。
藤井の▲8六歩は、本当に突いて大丈夫な一手なのか。危険はないのか。それは、これから研究が深められる点であり、まだ分からないとしか言えない。ただ、盤上の形勢を示すAIは、▲8六歩が指された後も特に波打つことはなく、「互角」を示し続けていた。盤上に嵐が来たと人間が騒然とする中、その静かな波形はどこか不気味だった。嵐とは、これまでの価値観に囚われた人間だけが見てしまう、幻のようなものに過ぎないのかもしれない。
その後はじりじりとした難解な手順が続いた。互いに間合いを取り合い、ひりひりした駒のポジション取りと鍔迫り合い。何がどうなっているのか。つかみどころのない将棋だった。この将棋には「羅針盤」が見当たらない。羅針盤を取り出したところで、針は決まった方位を示すことはなく、ただ揺れ動くだけである。羅針盤が機能せず、どこにどのように進めばいいのか分からない。そのような中で、二人の対局者は(AIが示すところによれば)均衡を保ちながら進めていく。これが現代将棋の最先端かと、半ば呆然とするような気持ちで盤面を見つめた。
戦機は熟し、堰を切ったように局面は動き出した。ここからの応酬も難解を極めており、私には手の解説をすることなど到底できない。ただ、難解な応酬の中で感じられたこともあった。それは、渡辺明が、今回の王将戦に向けて、自身の将棋観を相当にアップデートしてきたということである。
「玉の守りを固めた後、細い攻めをつなげる」。かつての渡辺が得意にしたスタイルはもはや見る影もない。渡辺は現代将棋に対応するため、バランス型の将棋に棋風をシフトさせたが、今回はそれをさらに進化させてきたということが随所に感じられた。戦いが始まり、渡辺の玉の周りには守り駒がほとんどない。74手目、△4四金と強く盛り上がって、玉の周りの8マスにはついに一つも駒がなくなった。裸の王様。藤井の攻め駒が前に出てきており、傍目には相当に怖い。しかし、これでも均衡は保たれている。堅さより「広さ」「バランス」。ここにも現代将棋の価値観が現れていた。このような将棋において、「囲い」の概念はすでに消失している。戦いは、盤上の空間を広く使って起こさなければいけない。駒の価値、手の価値に定まった指標はなく、局面によってその価値は微妙に揺れ動いている。玉はもはや、周りの駒に囲われ、ただ守られている駒ではない。玉もまた戦っている。盤上を泳ぎ、時には自らが攻め駒にもなる。盤面は液状化され、局面に羅針盤はない。難解熾烈を極める現代将棋だが、37歳の渡辺明はここに来てさらに自身の将棋観をアップデートさせてきた。新時代の棋士、藤井聡太を挑戦者に迎えた番勝負への覚悟は並大抵のものではなかった。そうして、濃密で難解な異次元のねじり合いは演じられた。
将棋は激戦のまま最終盤に突入し、双方1分将棋を迎えた。互いにどうなっていたのか分からないと述べた大激戦。「終盤は悪手の海を泳ぐようなもの」。1分将棋では、到底全てを読み切ることはできない。二転三転の展開で、双方にチャンスがあったように見えたが、最後は藤井が渡辺玉に生じた長手数の詰みを読み切っていた。1分将棋の中を抜け出したのは藤井。大激戦を制し、七番勝負の初戦を白星で飾った。
この将棋が終わった時にまず湧き起こったのは、勝敗についての感情ではなく、「この将棋を永遠に見ていたかった」という思いだった。最後は1分将棋という制約の中で、盤上は1つの結末を迎えた。しかし、この将棋には途中で気の遠くなるような、膨大な数が分岐があり、この結末はその中のたった一つでしかない。もし、持ち時間が無制限で、両者が次の一手を極限まで追求できたとしたら、この将棋はどこまで均衡を保っていたのだろうか、そんなことを思った。実際には、持ち時間が無制限というルールは不可能だし、仮に無制限に考え続けたとしても、膨大な分岐がさらに膨大に広がるだけだろう。81マスと40枚の先にある結論には、まだ誰もたどり着けていない。人間はいったいどこまで行けるのだろうか。番勝負の行く末のはるか遠くにあるそんなことを思うような、壮大な将棋だった。
渡辺明と藤井聡太。人類最高峰の番勝負を生で見届けられる僥倖に感謝しながら、次局以降も、一局でも多くの熱戦が繰り広げられることを期待したい。
ぎりぎり定型発達な俺の成長記録
子供のころから習い事などは続かなかった。そもそもタスクがあること自体がストレスで、いざ始めてしまえばそれほど嫌ではないことも、「習い事に行く」ことが嫌で続かなかった。
これについては、小学生に上がってから習い事を始めさせ、すぐに続けさせることを諦めた両親に感謝しかない。当然塾にもいかなかった。
なお、長じては飲み会嫌い、付き合い嫌いとなって開花し、無事、友人づきあいも交際も消失した。
継続ができないので、低学年の連絡帳などは、ほぼ真っ白だった。人生のやり残した感の端緒は連絡帳に違いない。
根気が無いので暗記もできなかった。例外は百マス計算で、多分自分の(興味ないことへの)集中力の限界がここらへんだったと思う。ミスは多かったが計算ができたことで何とか自我が保たれた。
テストはとにかく第一感で解いて見直ししない事で折り合いをつけた。空いた時間は、問題用紙にひたすら迷路を書いていた。
当然、ケアレスミスで点数は落とすし、漢字の書き取りなどは壊滅しているので満点にはならないが、8割くらいはとれていたので、ほおっておかれた。これも助かった。
すでにある程度分かっていることを繰り返すと激しく集中力が落ちたので、予習も復習もしなかった。小学生の頃はそれでも授業の進行が遅かったので、まだ終わらないのかと時計を凝視している嫌な生徒だったと思う。
待合室で漫画にかじりついていたので、近所のお医者さんに、この子は将来大物になるといわれたが、そんなことはなかった。
真面目に頑張ればなんにでもなれると、無責任に言う親だったが、中学生ぐらいには、医者とかパイロットとか100点をとれる人向けの職業には就けないと確信した。
なお、中学から始まった英語も暗記科目なので死んだ。たまたま近所に、例文の単語を隠してその単語を問う5W1Hの文章を作成するという特訓をしてくれる人がいて、英語の構文に慣れたので、全く筆記ができないにもかかわらずセンター試験でそこそこ点数が取れた。
理科は、とにかく根気が無いので、難しくて(解けなくても恥ずかしくない)薄いということでZ会の問題集にお世話になった。
なお、社会は地図帳にもかじりつくタイプ(鉄)の人間なので地理一択だった。
小さいころから人前が苦手で学習発表会とかは仮病を使ってよく休んだ。実際問題、風邪もよく引くし中耳炎なども一通りやられたが。
布団の中で横になって、NHKラジオの株価とか気象通報を聞きながら窓から雲を見ている時間が、今思えば一番幸せだったかもしれない。
そんなことだから、大学に入る前から卒論発表に怯えていた。後に、卒論発表よりゼミの方がつらいし、終わらない恐怖より恐怖の結末のほうがましだ、と知った。
基本、話ながら考えることができないので、人前に出る前には準備が必要、トラブったら諦める、と自分に言い聞かせているが、社会人になってもいまだにストレスである。
また、字の汚さもなかなかのもので、自分の書いたノートは自分でも読めないので残っていない。
高校の恩師が、教科書という立派なノートがあるからそれを見ればいいと言ってくれたのは、一生の宝物である。
あとは、両親があまりうるさいことを言わない人たちで、17時帰宅21時就寝という簡潔なルールだけを課してくれたので、生活が整いやすかったというのはあるかもしれない。(大学入学まで変わらなかった)
以上