はてなキーワード: 中高生とは
中高生のうら若き美少女たちがあんなハレンチなコスチュームに身を包んで巨悪と戦うのはプリキュアの走りではあったけど
プリキュアは後発でセーラームーンよりもずっと大人しめのコスチュームなのに毎期そのコスチュームが叩かれる。
でもセーラームーンは地上波のゴールデンタイムで特集が放送されてもその卑猥なコスチュームについて批判する声を聞かない
その時代を生きた人が思い出話のようにあの頃はよかった、セーラームーンは素晴らしかった(主にコスチュームや見え隠れするスケベな肢体も)と。
何かプリキュアとの違いが見出せないんだよね
何なら過激さはセーラームーンの方がずっと上だし胸やお尻の大きさは今よりもずっと露骨だった
何が違うんだろうな。
女だってブサイク男子でもギャグセンあるとか運動神経いいってだけでコロっといっちゃう子いっぱいいたじゃん。中高生とかでそんなのいっぱいいなかった?
結局ブスでも愛嬌あったり優しかったりするわけでしょ?女なら誰でも、じゃなくて条件がつく訳じゃん。
それは女性も一緒で、ブサイクでもお金持ってれば好きになる可能性あるし、売れない芸人がモテるみたいに条件付きなら好きになるよ。
その条件が男女で違うだけで。
因みに会社の男性で年下女性から好かれて『セクハラ問題とかなったら嫌だし面倒、誘いも断ってるのにまた誘ってきたりしてキモい』って言ってる人はいたよ。先輩達もいるところでもらったメール晒してた。
このエントリ題名でカッとなって覗いた人へ先ず言うことがあるからよく聞いて欲しい。
「経験のない感情を君は理解できるのか?」
推測は出来よう、想定は出来よう、でもそれは実際に経験した感情でなく君は結局のところ物語や他者の語り口から聞いた情報によって親心を理解した気になっているに過ぎない。
これを否定するのは無理だ、仕方ないじゃないか君には子供が居ないのだから。
君たちは子供のままなのだ。
もっと具体的に言えば「子供という役割」しか経験したことがなく「親の役割」を経験したことがない。
君たちは子供心を実によく理解できるだろう、子供の役割の中で人と人とが繋がる愛をよく知っている。君たちは決して愛を知らないわけでない。
たがしかし、親として子供へ愛を注ぐ経験をしたことがない。
更に言えば親として自身の子供へネガティブな感情を持ってしまった経験がない。
驚くことなど無いだろう?ネガティブな感情が行き過ぎて子供を虐待し殺してしまう親も居る。
「何をそんな当たり前のことを」と言う者も居るだろう。
子供の役割しか経験したことがない君たちが知らないのは大抵の親は若いってことなんだよ。
大抵の場合、20代30代の小僧小娘が一端の大人のふりをして子育てしていることを君たちは真の意味で理解することが難しい。
君たちが幼少期から見てきた大人とは自身の親であり、車をビューンと走らせて動物園に連れて行ってくれた存在なのだ。
幼少期の君たちは大人はすごくてなんでもできて、自慢の大好きな大人だった。
実際のところそうではないと気付くのは中学生くらいだろうか?遅い子は高校生か?
しかし中高生が想定できる大人の無力さなどたかが知れていることを成人した君たちは知っているはずだ。
中高生が想定するよりも大人はもっともっと無力であることを今の君たちは知っている。
中高生にはまだまだ自身よりも大人への期待感がある。
何だかんだで自分よりも優れている部分があると思い込んでしまっている。
そりゃそうだ経済力も人生経験も親は自分より上なのだから何だかんだで凄いのだ。
君たちはその期待感が今でもまだ続いてる。
中高生よりは人生経験を積んだ君たちの大人への期待は薄れているが、親なのだから子供を上手く教育せよと思うし、親なのだからしっかり大人の振る舞いをしろと思ってしまう。
今の君たちは大抵の大人が大人のふりを、大人の演技をしていることに気付いているだろう。
しかし子供の立場しか経験したこと無い君たちは親という存在を見た瞬間に演技ではない正真正銘の大人であると認識し、演技ではない正真正銘の大人であることを期待してしまう。
子供がするような大人への期待感を未だに持ってしまっているんだ。
大人への期待感を未だに持ってしまっていることを証明しよう。
はてなでは「責任が持てないのに子供を作るな」という主張を見るだろうが、その主張は「親の視点なのか?子供の視点なのか?」と問おうではないか。
親の視点では愛おしい自分の子供を想って責任を持てないならばダメだと言う。我が子を不幸にしてはならないという感情が裏に潜んでいる。
子供の視点では自分を不幸にするな、他人である自分へ迷惑を掛けるな、親なのだからという期待の感情があるんじゃないか?
何故ここまで子供が居ない君たちの感情へ寄り添えるか君たちは察することができるだろうか?
その理由は至極明快で「親は子供の役割を経験済み」だからであり、逆に言えば「子供は親の役割を経験するとは限らない」のだ。
君たちの役割を経験してるからこそ君たちの感情へ寄り添える。
君たちは中高生の時点で親は経済力や人生経験が上だから何だかんだで大人はすごいと期待感を持った。
ならば、子供の役割と親の役割の双方を経験した人物へ心の何処かで期待感を持ってしまっているのは否定しにくいんじゃないか?
君たちは大人への期待感から親が持つ子供への愛を想定し推測する。
それは所詮、想定であり推測であり、実際のところ複雑になっている親が持つ子供への愛はわからない。
だって君たちは20代30代の親が青年期の若者、人生80〜100年のうち半分にも満たない未熟な者だって心の底から理解していないじゃないか。
君たちは未熟であり、そして若い親もまた未熟なんだ。
だから許せとは言わない、期待するなとは言わない。
しかし親もまた人間であり、それぞれの感情を持つ者だと再度考えなければならない。
理解なんてしなくたって良い、考えるだけで良いんだ。
考えて、考えて、その上で結婚し子供を作ろうとなってくれたら一人の親としてはそう思うように育ってくれた君に心から感謝を述べたいと思う。
覆水盆に返らず。世界は浄化されていく一方だ。ならば合法のうちに薬物は体験しておかなければいけない。
これこそ、マジックマッシュルームが根絶された後、石丸元章にドハマリしていた中高生の私にとっての真理だった。過ちは繰り返しませぬから。子供ながらそう心に誓った。
友人には「頭に障害が残ったらどうするんだ」と言われたが、田舎の県道のような人生に興味はないと答えていた。
大学に入るや否や、真っ先にDMTへと目を向けた。すでに違法化されていたはずだが、化学式を巧妙にいじったものが当時のインターネットでは堂々と販売されていた。
今ほど人が人に関心を持たず、ダークウェブ的なものがダークではなく、インターネットが安全や清潔さを気にかけず、すべてが大らかだった時代の産物。マジックマッシュルームには間に合わなかったが、この時は時代が私を迎え入れてくれた。
透明なガラスパイプをライターで炙ると、ケミカルな臭いが部屋に立ち込める。ボウルから逃れようとする煙を思い切り吸い込み、息を止めること数秒。足が消えていく。目を瞑ると、点のようになった意識が頭頂部へと上がっていく。頭の先、その先へ。
時間と空間が消滅する。始まりも終わりもない、無限のただ中で裸の自分が浮いている。あらゆる思考が乱暴に打ち消される。宇宙と合一したかのような感覚が延々と続く。天地開闢から自分が<今ここ、この瞬間>に在ることだけが直観で分かり、それ以外は無、一切の無である。
重力が気配を顕わにし、次第に自分が地面に俯せになっていることを理解する。地球に還ってきたのだ。身体という質量を再び背負わされる。
映画「ゼロ・グラビティ」で生還したサンドラ・ブロックが大地に立つ描写、あのシーンは真に正しい。一度重力を失った人間でないと、きっとラストは理解はしても共感はできない。
水がダクトを流れる音が聞こえてくる。日常へと回帰する合図。アパートの誰かが蛇口を捻ったのだろう。自分の認識を成り立たしめている時間と空間が、再び私を統御していく。
一切が洗い流され、生まれ変わったかのような感覚になる。川の中に身体を沈め、浸水洗礼を行う米南部バプティストも、きっと同じ体験をして信仰へといざなわれるに違いない。外に出ると街灯の光が私を優しく包み、吸い込んだ湿った空気が身体の中を循環していく。万物が自分の存在を肯定してくれた。
DMTが再び満足に効果を発揮するには、吸ってから最低でも二週間の空白が必要なため、購入した粉末をすべて使い切る頃には、販売サイト自体が消滅していた。
このロット以降、DMTの体験はしていない。次に生を心の底から実感したのは、610ハップとサンボールで硫化水素を作り、死にかけて這いつくばりながら窓を開けた時だ。純然たる好奇心と恐怖から生まれた自殺未遂。
いやああいうところにいるのが中高生とか大学生だってのはわかってるんだ。お子様が痛い発言してても、それはお子様の特権みたいなもんだからばんばんしていいしするべきとは基本的には思ってるんだけども。
……という前提があります。
匿名ラジオを好きでよく聴いているんだけど、YouTube版のコメント欄を見ると、痛いコメントが割と並んでて鳥肌が立っちゃうという話。
たとえば「#31」では女子高生がテーマになっていて、コメント欄には女子高生を名乗るコメントがある。それ自体は、まあそういうわざわざ所属を書く自己顕示って中高生はやるよなあと思っていたんだけども、「女子高生で匿ラを聴くのはセンスがいい」という旨のコメントがぶら下がっていた。これを見てすごく鳥肌が立ってしまう。
それだけでなく、どうもリスナーの一部には「匿名ラジオ(ないしオモコロも?)はインターネットの深部」という意識がありそうで、それってグロサイト表示して「Welcome to underground…」ってやつと一緒じゃん!ゼロ年代の反復!!
いまどきインターネットなんて無限コンテンツ生成機で、いわゆるダークウェブなんていかなくても謎コンテンツが死ぬほどあるのに、数時間で数万回再生されるネットラジオが「ディープなインターネット」って意識なのか?新宿で映画行くときTOHOシネマズじゃなくて武蔵野館に行くからドヤ顔してるくらいの痛さだ。でも中学生ってそういうことだもんな。再生数数百以下の動画をディグってから言ってくれ〜。
「性格が悪い」と言われる匿名ラジオはインターネットで見がちな痛い行動(Twitterの無断転載画像リプで喜んでるひとたちとか)を揶揄するのがひとつの芸風だと思うのだけど、ついに最近の回で「大声で泣いちゃった」を揶揄してて笑った。だってそれって匿ラとかオモコロchのコメント欄でも見るやつだもんな。「でかい”聲”出た」とかね。
そもそも万バズほぼ確のARuFaが発信してるコンテンツはかなり浅めのインターネットなような……?
かなり前に久川凪のなりきりアカウントがインターネットのユーモアを「オモコロ的」「ギークハウス的」「小林銅蟲的」と分類していて、なんて性格が悪いんだと震えたことがあった。オモコロはそのなかでも比較的上の層にいると思う。別に深けりゃいいってもんじゃなくて、なんとなくユーザーの「うちらはインターネットカルチャーにどっぷりです」みたいな身振りがあいたた!ってだけなんですけどね……。
オモコロchでホワイトすき焼きをやっていたとき、私が想起したのはデイリーポータルZのYouTubeチャンネルであるプープーTVで大北栄人が何年も前にやっていた「すき焼きに砂糖入れるの躊躇しな男」だった。でも勿論そんな類似への言及はほぼされておらず、悲しくなった。再生回数は何十分の1だし……。
なんか古参アピになってしまったが、でもやっぱりあの感じで「ふふん、これが””インターネット””なんだぜ」とやられるのがあいたたた!となるのだろう。
だってきっとそのひとたちは10数年前だとしたら「速読王山口」とかを見つけるひとというよりは、ドラえもんのグロアニメとか見て爆笑してる層だろうから。
前半→https://anond.hatelabo.jp/20220615180702
こんな形でソ連という敵を喪失してなおアイデンティティの為に日教組を叩いていた人らが居たのだが、社会的には全然相手にされていなかった。
そこでこの批判を既存のコードを使ってアップデートしたのが小林よしのりだった。
左翼や進歩主義者ににとって社会は変革されるべき客体である。人間は変革を担う主体である。
だが、最初に大事なのはその主体が社会的矛盾や疎外に気付く事だ。それによって「変革の主体」との主体性を得るようになる。
だから、大学などに進んでも尚主体性を得ずに高校の延長で勉強しているような学生には「君達は教育による馴致によって自分が何か、何がしたいかの動機が予め奪われてここに居るんです」というような事が言われる。説得でもあり扇動でもある。
ルソーの『エミール』等の自然状態礼賛がベースになった考えで、本来人は高貴な野蛮人として生まれるのに教育を受ける間に躾けられ、個性を封じ込められ主体性を発揮する動機さえ喪失してしまう。
君たちは既に侵され殺され抑圧されているがそのことすら気付いていない。卵の殻を破壊せよ世界を革命する為に、とそういう具合である。
だがこの主体性への気付きというのは進歩主義者の専売特許ではない。帰国子女は異文化経験によって「今ここ」が異化されており概ね主体的でありそれにより成熟している事が多い。私学エスカレーター組と比べると大人とガキの違いだ。
また就職活動で仕事について真剣に考える期間を経ると顔つきが大人びてくる。
そこで小林がやったのは「君たちは教師によって騙されていた。君の本来性は殺されたままだ」という扇動だ。その騙しとは真実である歴史修正主義言説を隠蔽していたというものだ。
今ではこういう覚醒の物語というのは「レッドピル」として一般に認知されている。マトリックスでモーフィアスに「今までの生活がいいなら青カプセル、覚醒して世界の真実が知りたいなら赤を飲め」と言われるアレだ。
この扇動が奏功するには条件が必要だが、その前に指摘しておきたいのが、90年代末当時に流行していたアダルトチルドレン言説である。
アダルトチルドレンとはアル中に育てられた人間が自分の子供にも暴力をふるってしまう現象の事だ。
だがこれが「親の教育のせいで大人になれないガキ大人」という風に俗流解釈されてこれが流布して問題を起こしてしまう。
米国で弁護士事務所が営業をかけて「自分が大人としてうまくやっていけないのは親の教育のせいだ」として親を訴える事例が続出したのだ。
元の意味では自分の問題行動が幼少期のトラウマにある事を発見して自覚し克服するのが目的になっている。
対して俗流では自分の人格の問題は教育のせい、と問題を固定化するのが目的化しているのだ。訴訟を吹っ掛けるのが目的なんだからそうなる。
さて小林の日教組被害論はどっちだろうか?後者であろう。そして小林は当時この言説を知っていたはずである。ビル・クリントンが「僕もアダルトチルドレンだ」なんて言ったニュースが流れたのだから。
まず最初は
1.主体性棄損論がリベラル教師らによって唱えられ受容されていた
これは既に言った通り。
就職面接対策がマナーや受け答え型の技術的なマニュアルから主体性探求型へと移っていた時期である。自分が何故この会社と職種に賭けたいのか、自分を探求して経験者が起業する時のような事を語るのを求めれた時代である。今の洗脳型ブラック研修のオリジンはこの頃にある。
格別に強度がある自分探しの経験をしたとアピールする為に東南アジアの奥地で死にそうになったエピソードを語る学生が沢山居た頃である。
日教組被害論が端的に奇妙で揶揄の対象となるのは経験で上書きされていないという事だ。普通は大学や社会での経験で上書きされて中高の頃の事などいつまでも覚えていない。
上書きされないのはレッドピルだからなのだが、それ以外にも当時は社会経験で上書きされないという条件が揃っていた。
当時の新卒就職率は大学でも5割程度である。高校卒なら殆どが就職できていない。
「学校の上書き」がされずに経験の類型を話す時に仕事じゃなくて学校での事で話してしまうような者が半分以上居たのだ。
みなバイトや派遣してるうちに社会が変わって何とかなると考えたが何ともならなかった。
小林はリベラル界隈で活動している時に薬害エイズ訴訟の支援をしていたが、菅直人が厚労大臣になり原告の請求是認して謝罪し一応の解決を見ても運動に参加した学生がいつまでも新たな課題に飛びつき運動から離れないので嫌気がさしてしまった。
運動で正義を追及する自分がアイデンティティになってしまうからである。
更に運動に参加した学生が一律同じことを言うようになる。戦後に天皇が存続しているのもおかしい、自衛隊が存在しているのもおかしい、と。
明らかに左翼運動家に「世界観」を吹き込まれているのだ。レッドピルである。それらのパッケージの全体性は自己のアイデンティティの保持の為に支持されている。これに「汚ねぇやり方だ」と感じるのは正当であろう。
こういう運動のイヤな面を見て嫌気がさして辞めたのに、その方法論を覚えて転籍先で援用したのだ。
世界観提示による実存囲い込みの方法もその効果も、経験が少ない若年者を囲うと世界観の保持の為に経験での上書きを避けるというのも知っていた。就職しないで運動を続けたいというのがこれだ。
異論は個々の方法には許されるが、世界観を構成する箇所への異論はNGだ。その世界は積み上げたものではなくてパッケージ全体性が担保されねばならないものでそれを棄損するものだからだ。
小林はこんな風に左翼の思想/行動的に拙いところの要点を教示されるなどで認識しているのにそれを後に右翼扇動に使うという事を沢山していて例えば橋爪大三郎が後に口の端にも上げないのは小林の転向の為ではない。自分が説明した事の悪用のせいだ。
まとめると、社会が安定した日教組衰退期にソ連が敵性を喪失した為に敵の乗り換え先としてテーゼとなったが世間では相手にされていなかった。左翼運動の方法を知る小林が若年者の実存囲い込みの方法をこのテーゼにコピーして実行したところ社会情勢がマッチして成功した。
日教組被害論者があり得ない条件を言うのでツッコミ多数で、いやあったんだ北教組は…などという話によくなっているが、日教組は実在するのはみな知ってる。
そうでなくて日教組によって自分の主体は棄損されて間違った世界を見せられていたというのが訴えたいことだったのだろう。あれはマトリックスに封じ込めるブルーピルだったと。
だから揶揄している人は実在を問題にしているのではなくて中高の経験をいつまでも語るおかしさを揶揄している。思想的な事を多少知る人はその日教組の存在は世界の全体性パッケージの外郭を保持する為のアプリオリな仮想経験だという事に気付いている。
ネットでの対話なら揶揄して終わりだが、身近に居る人なら「それに拘泥している間は経験を擦り合わせて積むことが出来ない」「自由世界の住民の自我は小傷が多いがそれで壊れたりしない」と忠告してくれるはずだ。
冷戦と社会党瓦解の影響で日教組が協調路線に転じたのが1995年頃なのでもう30年近く前なのだよ。その当時の中高生はもう40代半ば以上なのだ。
いや、カツアゲってそんな命のやりとりみたいな圧倒的な力の差があるところじゃなくて、もっと中高生が弱そうな同級生や下級生を狙うようなやつだよ。
それじゃあただの強盗だよ
「主人公やヒロインが可愛いだけの漫画はジャンプで生き残れるのか?」
を突きつけるだろう。
それは彼らの脳にキルコさんの幻影が今も残っているからである。
ピロピロピロピロ
週刊少年ジャンプ 2022年28号を本屋や電子書籍でみつけたとき、多くの読者はまず「かわいい」と思うだろう。
ルリドラゴンが長生き出来る可能性があるとすれば、それは主人公の可愛さぐらいしかないと私は感じた。
日常の中にファンタジーが入り込むことで産まれるギャグ、これはジャンプではある種の定番だが、打ち切りの定番でもある。
もし今のジャンプに全くギャグがないならジャンプのギャグ漫画を買い支える読者の票が集うだろうが、高校生家族とウィッチウォッチという強力な漫画が既に控えている。
日常だけをやっても高校生家族は邪魔になるし、アオのハコが既にだいぶ日常を積み上げてきてそっちから票を取れるかが怪しい。
残された道はもう可愛さだけだ。
可愛いは強い。
だがキルこさんは滅んだ。
何故か。
10年の探究の末、キルコさんの作者が夜に送り出したデビィ・ザ・コルシファはエロをより強く押し出す道をとった。
女の子を可愛いを売る漫画は、「エロを押し出すか」を真剣に考えないといけないのだ。
エロを押し出すなら全力でやらなければいけない。
エッチ要素のある漫画を読む男子はエロ扱いされるリスクを抱えるのだから、半端なエロを出されてもデメリットが勝る。
女子からしても男子向けのエッチ要素で売るタイプの漫画はスルー対象になるわ(恋愛要素が強ければそれで伸びることもあると聞くけど本当か?)。
正解だ。
女子高生の超高温くしゃみを頭皮に浴びている様子に性的興奮を覚えたと主張するならそれは変態を拗らせる中年読者が悪い。
ドラゴンが人間とセックスをしたからエッチだというならそれはドラゴンカーセックスに引きずられすぎているだけだ。
ルリドラゴンの可愛いは「エッチ要素が薄く、自然体よりの可愛い」だ。
これはジャンプにおいてかなり強い。
露骨にエッチエッチしてるキャラはオッサンくささがあって中高生からはあんま受けない。
同時にいつまでもジャンプを読んでる中高年もこういうふとした瞬間に童貞を殺せるタイプの女の子に弱いものだ。
だが生き残れるかは分からない。
なぜならジャンプにおいてこのタイプの可愛いで戦い抜こうとした漫画がまだないからだ。
こういうのは変に勝ち負けを読まずに成り行きを見守るのが乙というものだろう。
まあ、半年後にはドラゴンの力が覚醒して大魔王を倒すために魔界のトーナメントに参加していて、主人公の顔つきも戦闘狂になってたりするのかもだが。
中高生以上がアニメを見てもいい空気ができ始めたのがエヴァの再放送の頃
数日前、ドラッグストアでコンドームを探しまわった体験録を書いた悲しき24歳労働者です。
https://anond.hatelabo.jp/20220528225125
勢いに任せて書き殴りろくに推敲もしないままインターネットの大海へぽいと投げてしまったものの、なんだか恐ろしいことをしてしまったような気がして翌日こわごわ匿名はてなを開いたところ思いの外たくさんの方に読んでもらったようで。コメント見ました。全部見ました。匿名はてなを覗くとき、匿名はてなもまたこちらを覗いているのだ。
サガミオリジナル0.02Lサイズはやはり男のプライドなんでしょうか。白状するとさっぽろ時計台と書きながら思い浮かべていたのはテレビ塔のほうで普通に脳内変換ミスでした。長文乱文すみません、いやほんと、長いっていうのがいちばん多かった。す、すみません。
いやー、なんだかみんなおんなじ文章読んでるはずなのに気になる部分が全員違うって、そりゃそうなんだけど不思議なことだなあとブルーライトが眩しい液晶の前でうっすら笑みを浮かべながらスクロールに次ぐスクロールをしていたら。
「今好きな女の子がいて、のところがスルーされてるのはなぜ? 何度も読み返した」
さすがデュオ!
俺たちが見逃してしまうことに平然と気がつく!
そこにシビれる!憧れるゥ!
女を好きな女の話をしましょう。
えー、いま現在わたくしは好きな女の子がいます。付き合ってはいません。思いを伝えてもいません。
わたしにとっては好きな女の子、向こうにとってはわからない。お互いにとっては毎日LINEをする友達。
仕事が終わらないだとか、三谷幸喜は血も涙もない脚本を書くねとか、コナンが外出するとそれだけで人的及び物的被害が多発するから彼は名探偵になるよりも早急にお祓いを受けたほうが世のため人のためってやつだよねとか、そんなくだらないことをつらつらと話すだけだけど、それで結構満足している。
LGBTというアルファベット4文字がだいぶ世間に浸透し、昨今なにかと話題のセクシュアル・マイノリティ。いや別に話題になろうがならまいがわたしが女を好きな女であることに変わりはないのだけれど。まあ言語でもって共通認識があったほうが話が早いのは確かな人間社会。
わたしは男の子も女の子も好きになる女なので、所謂バイセクシュアルの女性というやつにあたるんだろうなとふんわり思っている。
なぜふんわりかというと、実のところ自分のことを「女が好きな女である」と自覚したのがわりに最近、ここ数年のことだから。石のように揺るがない確固たる意志だとか、テコでも動かんぞ!というがんとした姿勢でもって「好きだ!」というのではなく「いやまあ好き……っすね………」みたいな感じ。
自分のことを定義付けできたのは大学生になってから。女の子への初恋は中学生のとき。憧れの先輩がいた。
週に一度、習い事のためにいつもは乗らない電車に乗るときが、部活も学年も帰り道も違う先輩と2人きりで話す唯一のチャンスだった。
容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群な先輩は地区でいちばん頭のいい高校に合格した。卒業式の日、制服のボタンを貰った。翌年同じ高校に入学した。廊下ですれ違うたびに手を振ってくれる先輩が眩しかった。先輩みたいな人になりたい。憧れの存在だった。
ただ当時のわたしはアイドルの嵐がめちゃんこ好きだったり、仲の良いクラスの男子と定期テストの結果を競い合って負けたらサーティーワンのアイスを奢るために一緒にショッピングモールに遊びに行ったりと、まあ、なんだ。傍目から見たら普通に男子が好きなんだなあという感じだっただろうし、自分でも男子が好きなんだなあということは疑いようもなかった。
ただ一方で、じゃあこの先輩への説明のつかない気持ちはなんなんだという疑問が胸の奥ーーのほうでキャラメルリボンのようにぐるぐる渦巻いてもいた。
実際サーティーワンの男の子からはサーティーワンの帰り道に付き合ってほしいという申し出を受けた。素直に舞い上がった。けど、高揚のままによろしくお願いしますとシェイクハンドしてしまうのは、なんか、なんか違うよなと思った。
「ごめん」のひと言を伝えるのがやっとのわたしに、サーティーワンボーイは
「おっけ。次のテストも負けねえから」と爽やかに返してくれて、それが告白されたことよりも嬉しかったのを覚えている。
アイスの冷たさが沁みる季節も過ぎて、短い秋をのんべんだらりと過ごしていたある日。地元の図書館で本を貪り読んでいたところ、雷に打たれたような衝撃を食らった。
それは少女小説「マリア様がみてる」との出会いであった。まじ、衝撃であった。
マリア様がみてる、通称マリみてとの出会いはわたしの恋愛観を180度どころか900度くらい変えた。まじ、根底からひっくり返ったのち勢いそのまま何周かした。わたしの精神世界はさながらセカンドインパクト後のような様相であった。信じられん存在感をもってして、わたしの世界を一夜のうちに変えてしまった。
お、女の子のこと、好きになってええんか……。
先輩への憧れを、尊敬とか思慕とかそういう言葉でもやもやっとさせなくてもええんか……。
近付きたいと思ってええんか……。
まじか…………。いや、まじか…………。
もう、絶句であった。
クラスメイトたちがせっせと次の定期試験に向けて勉強しているさなか、わたしはただひとりマリみてを読み漁った。とりあえず全巻読破した。
まじか。うわー。まじかー。
マリみてを読むことに全ての力を注いでいたためサーティーワンボーイとの賭けには再び負け、今度は購買のパンを奢らされた。苦手な物理では赤点を取った。けれどもそれらはマリみての前では些細すぎる出来事だった。
まじかー。
この「まじかー」という思いを3年間引きずったまま、けれども先輩との距離をそれ以上縮めることもできずに、先輩が卒業したあとは何事もなかったかのような顔をして男の子と初お付き合いをしたりしてわたしの高校生活が終わった。
マリみてどころの騒ぎじゃなかった。
盆と正月とクリスマスと創造神と破壊神がいっぺんにこの世にやってきて世界をめちゃくちゃに踏み荒らし、亡き者の命を弔い新たなる生命の誕生を祝福し、一筋の光を灯しては消して灯しては消して「じゃ!あとは自分で頑張って!」と言って帰っていった。
まじ、衝撃であった。
セクシュアリティ、多様な性、LGBT、性別二元論エトセトラエトセトラ。それらすべての言葉や考え方が、自分がどれに当てはまる当てはまらない関係なく、誰もかれもに関係する言葉であるのにも関わらず、わたしは過去18年間何ひとつ知らなかった。
ただ己の直感のみで生きるしかなく、その直感の中に「もしかしたら女の子が好きかもしれん」というものがあり、がしかし、なまじ男子も好きになるがゆえに「いやいや、まあそれとこれとは違うっしょ」という感じで奇跡的な気付きに雑に蓋をしてしまっていたのだった。
と思わないでもなかった。
でも、じゃあ仮に高校時代に「女を好きになる女」みたいなことを調べたとして、わたしが先輩に何がしかアプローチすることはあったのか?先輩後輩の均衡を最後まで崩さなかったのは紛れもなくわたしの選択肢ではないのか?
どうしょもないIFすぎる問いを抱えたまま、とりあえず次に好きな女の子ができるまで、何事も何事もなかったムーブで過ごそうと決めた。
ただ、ちょぴっと知識を得たことで、わたしの「普通」がちょぴっと変わった。
女を好きな女であることをことさらに全面に出すこともなく、かといって、押し込めるわけでもなく。普通に男の子とも付き合うし、好きになったら女の子にも普通にアプローチする。だって好きなんだもん。別にいいじゃんね。
クィアの講義を受け持っていた先生は、セクシュアリティは個人的なもので、そして流動的なものでもあると言っていた。わたしは結構この言葉が気に入りだった。
個人的なもの。わたしだけのもの。流動的なもの。変わってもよいもの。わたしのものだから、変わったって変わんなくなって、誰に文句を言われる筋合いはない、もんもんとしたときは、そういうものがわたしの体の中心にすーっと通っていることを思った。
その「すーっ」を思う効能は、何事も何事もなかったムーブよりもはるかに効き目があった。
いま好きな女の子に対して、踏み込みたいという気持ちが無いわけではない。そりゃ好きだからな。
2人で遊ぶこともある。今度は旅行しようねと話してる。
舞い上がらないわけがない。でも彼女が少なからずわたしを信頼してくれているのがわかるから、それを壊すようなことはできないなーと、綺麗な横顔を見ながら思う。
わたしにとってわたしのセクシュアリティがわたしだけのものであると同時に、彼女にとってのセクシュアリティも彼女だけのものであり、そんでもって関係性というのは両者で作るものだ。お互いを尊重したうえで変容を求めるなら変容を、現状維持なら穏やかに関係を続けていけばいいのだ。
で、わたしは別に彼女に「わたしは男も女も好きです!」みたいな宣言をしたことはない。ので彼女は多分知らないと思う。言うならきっと、女だとか男だとかではなく。必要なのは「あなたが好きです」というただひと言なんだと思う。で、わたしはまだ思いの丈を伝える覚悟がないから言わないだけで。
ていうか別に、宣言とか、しないよね。なんかセクシュアル・マイノリティばかり言う言わないうんたらかんたら色々ありますが、
言う人もいる、言わない人もいる。
わたしのように匿名ツールでなら言えるとか、ざっくばらんな恋バナをする友人には言えるみたいな人も、いや家族や職場に言います、という人もいるだろうし。本当に、人それぞれ。その人だけのもの。個人的なもので流動的なものだから。
だからこう、ネットでも現実社会でも、まじかーまだその段階かーみたいな発言やら意見やらを見かけることは多々ありますが、知識を得た今ならそういったあれこれ全て、わたしの個人的なものを傷つけたり揺るがせたりすることはできないのだよ、と自分に言ってあげられる。ただ、中高生のころのわたしのように、じゅうぶんな情報や知識にアクセスできない若い子たちが不用意に傷ついていないかは心配しているよ。ていうか本当、いちばんはそこだよね。