はてなキーワード: リビングとは
旦那も育休を取得しているのでもうそれだけで「恵まれている」ため、ワンオペママに夜泣きが大変で〜とか言えない。言っても「でも旦那さんいてくれてるからいいよね〜」とかえってくるので言えなくなった。だからワンオペママに大変なのに1人で頑張ってるね〜とこちらが褒め褒めするポジションにならなくてはならない。夜泣きしてても旦那は上の子と別の部屋で寝ているので旦那は来ない。私と下の子で夜泣きの数時間を毎日過ごしている。今もそう。抱っこ重いそろそれ。
旦那は県外出身で近所に友達もおらず、子育てコミュニティに参加して交友関係を広げるわけでもないのでずっと家にいる。私は上の子の時のママ友なり今育休を取っている友達なり子育て中でも昔と変わりなく遊んでくれる友達と子7どもを連れて遊ぶのでその間旦那は家でぼんやり出来る。晩ご飯は作ってくれてるけどそれ以外は自由時間ななで実質半日以上家でボンヤリ出来る。増減はあるけど平均週2くらいでぼんやりできてるんじゃないか。私も家でひとりでボンヤリしたい。旦那に会社の誰々さんもお子さん産まれたよね〜子ども同士合わせたみたらとか言ってみてもいや向こうに迷惑だろうからぼくだけ出てさっとお祝い渡して帰ってくるよと言われた。なんやそれ。
旦那がずっと家にいるので母子センターとかにも相談したいけど相談しずらい。ていうか多分旦那さんと支え合ってうんぬ「か言われて終わりそう。ひとりになりたい。上の子のワンオペの時みたいに他のママちゃんたちと育児大変だよね〜て言い合いたい。旦那いるから恵まれてるから言えない。旦那さんいいな」羨ましいなーて言われて終わる。下の子まだ泣いてる。あんまり泣き続けてるからさっき怒鳴ってしまった。本当にごめんね。眠れないの辛いよね。旦那がいるのにノイローゼなりそう。恵まれてるのにひとりになりたい。ひとりになれる人が常時となりにいるの羨ましくてイライラする。予定作って子どもとちょっとどっか出てくれ。今日どうする?じゃないねん。たまには自分で子どものイベント調べるとかして考えて自分で行動してくれよ。でもそれ言ったらずっと機嫌が悪くなるので言えない。こないだ旦那に子供預けて次の授乳までの1時間ちょっとだけ友達と会えた。嬉しかった。みひとつで会えたの嬉しかった。すぐ帰って子供任せてごめんねって言った。旦那は週2で半日自由なのに私は久々の1時間ちょっとでごめんねなのか。なぜなのか。わからない。家でひとりでボンヤリしたい。旦那ばっかりずるい。負担大きいから家事もっとやってって言ったらやってくれるようになったけど毎晩すごく機嫌悪くなっちゃって夜の家事一緒にやって終わったら雑談タイムもなく自室でゲームに行っちゃうようになった。私には部屋ないのにずるい。リビングで少しゴロンとしても下の子泣いたらもう自由おしまいなのでずるい。子ども出来たら育休とかで家にあんまりお金入れれないよね〜て家の頭金私が多めに出したのに旦那もいるじやん家に。せめて払った分のとこ私の代わりに働いてよ。独身時代の貯金だぞ。旦那は趣味で溶かしまくってたけと私はちゃんと置いてたやつだぞ。返してよ。せめて私にボンヤリする時間くれよ。上の子はもう一晩ぐっすりだから旦那は上の子担当だからずるい。子どもわ全然悪くないのにわたしぱっかりみたいに思っちゃって怒鳴ってしまった。可愛い子なのに。ひとりになりたい。ひとりで家でボンヤリしたい。旦那機嫌悪くなるから無理だが。まだ泣いてて重い。
妻側は主に夜にムラムラする。
ピル服用中で、生理(消退出血)が終わったあとのピルシート前半時期が特にムラムラ。
夫側は朝にムラムラする。
たまに夜もムラムラするが、仕事の悩みや疲れでなかなか勃起しない。
朝にムラムラする夫と
夜にムラムラする妻。
休日の午後が一番お互いベストコンディションでセックスできると判明したが
まあなかなかキッチリできるわけもない。
もちろん、平日でもムラムラはする。
特に平日朝、夫はほぼ毎日ムラムラしていて、抜いてからリビングに来る。
朝が一番体力があってムラムラする性質だし、妻は可愛いと言われたので信じるようにした。
やはり夫のちんぽは疲れて挿入できるほど勃起しない。
私がおもちゃで1人でクリイキしてると「僕のちんぽがたたないから…」と泣かれる。今も泣かれた。
まあでもそれはそれとして
夫も朝抜いてるし、私もおもちゃイキしていいよな?
日曜夜とかだと成功率は半々。
こんな馬鹿な俺を笑ってほしい。
30半ばにもなって彼女も居らず、毎日9時から17時の工場勤務。一日誰とも口を利かずに終わる日なんてざらにある。
元々趣味なく、これまで何かに熱中するようなことがない人生だった。今ではパチンコが唯一の趣味と呼べるのかもしれない。
かといって大勝ちしたところで使い道はなく、ソープ行って居酒屋で一杯するのが関の山だ。
今年に入ってから一度、驚くほど勝てた日があった。
その日もソープに行った。土曜の夕方。馴染みの店だった。指名したのは一番若い子。初指名だった。
くつろぐようにと案内された黒革のソファで待ち、並びには50近くに見えるスーツ姿の男と、大学生ぐらいのカジュアルな格好をした青年が居た。
ようやく俺の名前が呼ばれると立ち上がり、迎えに来た嬢が一瞬眉をしかめる。俺はそれを見逃さなかった。
こちらへどうそ、と嬢はにこやかに俺を案内する。俺の一歩前を歩き、手は握りらない。踵は少し擦り減っていて、俺の靴と同じように。
靴を脱いで部屋に入ると嬢は俺に抱き着いて来る。キスをすると、洗い場に向かい、体を洗うために衣服を脱ぐ。
俺を担当する嬢にはいつも刺青がある。それは顔に彫り込まれ、”笑顔”という刺青を俺は絶えず目に入れる。
嬢は俺を座らせ、身体を洗いながら「どんなお仕事をしているんですか?」と聞いてくる。
俺は適当に嘘をつき、嬢はそうなんですね~と頷く。
ここの女は大抵の男を馬鹿だと思っており、俺も大抵の女を馬鹿だと思っているので、ちょうど釣り合いがつく。
だからときどき俺は自分というものを見失いそうになる。挿入し、快楽に浸るその瞬間でさえ俺は自分のことを俯瞰するように考え、すべてが馬鹿らしく思えることがあった。まるで彼女の刺青が俺の肌にまで浸透してきたかのように。
年齢のせいかもしれない。
地元の駅に着いたのは昼頃で、家までそれほど遠くないので歩くことにした。
遠くない、といっても徒歩で1時間ほどは掛かり、それでも町の様子が変わっていないか確かめて歩くのも悪くないなと思えたのだ。
彼は(Aとしよう)記憶のままの顔をしており、今も裸眼で、当時の面影を深く残していた。
Aは俺だとすぐに気づいたようで、声をかけてきたのは向こうからだった。最初、親し気に近況等を話しながらも何処かそわそわした様子を見せ、一段落つくと口を閉じた。一間を開け、勢いをつけて口を開けると本題と言わんばかりに「そういえばさ~」とAはにやけながら言った。
え?と口に出した。そんなことは知らない。
俺に構わずAは片手の指で輪を作ると、もう一方の手の指をその輪に通し、それを繰り返して見せた。
その様子をAの隣で観ていた青年が戒め、すみませんと俺に言った。彼は眼鏡をかけた青年で、面識はなく、そのことに気付いたのか「Aの弟です」と彼はそのあとすぐ自己紹介をした。
失礼なことをしてすみません。そう言いながら弟は含み笑いを持たせ、軽く頭を下げ、それから俺たちは別れた。
実家の前に着くと俺は家に入るのを躊躇った。その場で行ったり来たりを繰り返していると家から姉が出ていて「何してんの?」と言われた。
数年ぶりの再会だったがの姉の印象は記憶通りで、40前にしては若々しく見えた。
俺は姉の目を見れなかった。どうかした?と聞かれ、最初は答える気にはなれなかったが根負けして「Aに会った」とだけ伝えた。
姉は「ああ…」とだけ言い、それから二人とも黙り込んだ。実家の前の道路で、しばらく二人で立ち尽くしていた。
ここに居ても仕方がないから、と姉は家に入るようにと促してくる。
渋々俺は姉の後に続いて家の中に入ると両親は縮こまったように見え、リビングは昔よりも広々と見えた。がらんとしていて、実際に物もなくなっている。
自分の部屋に行ってみると家を出た時のままで、時代に取り残されたように変わっていなかった。
このうち、壊すから。いつの間にか姉が戸口に立っていて、俺にそう言った。動揺の同様の色を見取ったのか、建て替えるってことだからと姉は言う。
だから、この部屋の物もどうするのかちゃんと決めといて。どうでもいい。と俺は言った。
居場所がないように思えて俺は散歩に出かけた。行く当てはない。ぶらぶら歩いていると一軒のパチンコ屋が目に入った。ずいぶんと昔からある店舗だった。
まだあるのかと感慨深くなり、中に入ると安堵感がどっしり現れた。俺は日が暮れるまで打った。最終的には-1kで終わり、少し歩くと明かりが見えた。
それはブックオフだった。学生の時と比べると俺は本をまったく読まなくなっていた。漫画すら読まず、気になる漫画があればYouTubeで調べ、そこで得られる情報だけで十分に満足していた。
だから本を売っている場所を訪れること自体が本当に久々なことだった。どうして入ったのか?なんとなくだったと思う。
店内を歩いていると一冊の本が目に入った。
それはエミリーディキンスンの『続自然と愛と孤独と』という本だった。
俺はエミリーディキンスンなんて全く知らないし、手に取るまでこれが詩集であることさえ知らなかった。
それでも気付くと俺はこの本を持ってレジへと向かっていた。まるで俺に残された唯一の良心がそうさせたように。
定価1100円と書かれている本を俺は1000円で買い、それから暗くなった夜道を歩いて帰った。
リビングに入ると両親の姿はなく、テーブルの上には料理だけが置かれている。ちょうど姉がお風呂から出てきたようで頭にタオルをかけて歩いてきた。
おかえり。どこ行っていたの?と聞かれたので俺はブックオフと答えた。
ブックオフ?珍しい。と姉は言った。
テーブルの一角にあぐらをかくように座り、頭のタオルを撫でるようにして髪を拭いた。
とうさんとかあさんはもう寝たから。ごはん、まだでしょ?と姉がいい、俺は頷いた。
じゃあ一緒に食べよっか、と姉がいい、俺は頷いた。
食事が終わり、自分の部屋に入り、自分のベッドで久々に横になると俺は買ってきた本を袋から取り出した。
仰向けに寝そべり、適当にページを開いた。111ページ。そこにはこう書いてあった。
私はあなたと暮らせない
これが人の世というもの
そして「人生」はあちら側の
俺は本文を読むのも忘れて、あの嬢のことを思い出していた。俺は酔っていたのだ。
嬢の笑みが脳裏に浮かび、その顔が一瞬、姉になった。
俺は本を閉じ、横に置くと、深く深呼吸をした。目を閉じ、祈りたかった。
しかし誰かを救うために祈るには、俺はもう歳を取り過ぎていたのかもしれない。
おそらく今年のGWは帰らないだろう。
俺はもう駄目かもしれない。
愛猫は言葉が話せるようになったと言い、私は驚きながらも感激した。
次に日本語を教えてほしいというので、私は二つ返事で頷いた。
「え?」
「朝の挨拶がどうして”おはよう”なのかと聞いたんです。べつに、”こんにちわ”でも”いぬ”でもいいじゃないですか」
私は苛々し始めた。
「…うん」
私は渋々頷いた。
「それなら他の言葉でもいいじゃないですか。それに前から思ってたんですけど、いつも同じ挨拶の言葉を使うって、なんか馬鹿みたいだなって」
私は愛猫の頭を叩いた。
愛猫は驚いた顔を見せ、そのあと顔を伏せると小さな声で「…わかりました」と言った。
そこで目が覚めた。
妙な夢だったなと思いながらベッドから起き上がり、リビングへ行くと愛猫がソファで眠っていた。
思わず頭を撫でると目を覚まし、「にゃあ」とかわいく鳴いた。
⻑い⻑い文になってしまった。
と文に続いて画像が送られてくる。
だいぶ彼も慌てていたのだろう。
ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。
Facebookの投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。
そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。
LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。
とはいえ、彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。
彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。
その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。
本当は大笑いしたかったのだ。
私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。
当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。
そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。
彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。
そういう微妙なバランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。
そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。
まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧に無視されていた。
理系の大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。
大学を中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)
ただの恋敵から、マウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。
その願いは数年後に叶うとも知らずに。
その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から、彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。
大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。
そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇のシンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。
私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。
彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。
そうして、今回の訃報に至る。
彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。
勝った、と思った。
私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。
後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。
多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。
駅から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。
バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。
彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。
けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。
穏やかな顔で私は嘘をついた。
割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。
何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。
どうしても彼女を恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。
そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。
これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。
そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。
けれど、彼女は死んでいる。
だからこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。
そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。
草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。
それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。
あんなに学歴や彼との距離感でマウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。
もう彼女には何もない。
入った大学のキャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。
そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。
何よりもそれが嬉しい。
彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。
リビングには薔薇のドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースのクロスが敷かれていた。
演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。
くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。
悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。
仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分は我慢 しよう、という気概を感じ取れた。
男子だからこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。
リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。
「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」
彼女の母と、私は目で訴え合う。
それを聞くのか?という母親の目と、
死因を教えて楽しませろという私の目。
たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつの親なのだと感じてしまっ た。
あの、喰えない女を産んだ女だ。
「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」
脳浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。
ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。
けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。
彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。
話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。
脳浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。
けれども、脳浮腫は医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。
脳浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である。
それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。
たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である。
そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。
まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。
脳浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。
けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。
だから、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。
脳浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものである。くも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。
そして、私はふと思い出すのだ。
彼女は大学入学前からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。
そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。
もちろん七割は、私の願望なのであるが。
帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。
その煌めきの中に、彼も共にいる。
その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。
だから、いいのだ。
彼の口から、今の彼女との結婚のプランの話が出てきたとしても。
彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。
この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。
だから、その今の彼女の名前を、今回死んだ彼女の仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。
来年の今頃、彼は式を挙げる。
彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。
それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。
そして、もうひとつ、彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。
彼女は、どのように死んだのだろう。
微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?
それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。
ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。
けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。
首吊りや飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。
ああ、彼女は、世界に絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。
今までの努力が全て無駄になった上、 彼からは彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望の最中で彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。
そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。
駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。
「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。
来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。
そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せな人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。
死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。
やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。
その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。
この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。
こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。
なんて偉そうなことを言う奴が多いくせに
じゃぁ自己投資をどうやってすればいいのかを誰も教えていないから
拡張自我とは、要するに自分の身の回りにあるモノを自分の一部だと認識する心理学のこと
それは自分自身を褒められたり傷つけられたりしているのと同じだから、という感覚だ
本当に自分自身に対して投資をすると基本的に不可逆なので取り返しがつかない
と思われるかも知れないが、Apple Watchで良い
ただし、一番高いApple Watch Ultraを付ける
Ultraはデカくて物理的にどうしても無理ならノーマルで良いがバンドはHERMESにする
などと考える必要はない
ただただその価格が付けられている(そして値下がりしない)のであれば、投資額として相応であるからだ
株式投資をする際も、投資先の企業に対する価値を自分基準で計ったりはしないように
ちなみにAppleユーザーでないならGarminでもなんでも構わないがとにかく考え得る一番高いものを身につけよう
「オーダーのスーツとか?着る場面がないけど」
という意見も良く聞くが、たまにしか着ない衣服の値段を高くしても自己投資にならない
デカデカとブランドロゴが入っているようなモノは高くても「下品」と思われるリスクをはらんでいるため
茶碗、皿、カップ、箸、スプーン、フォークなどの食器もできる限り高級な食器を使う
これも食器棚に眠らせて
というようなことはしない
ちなみに食べるモノはなんでも良い
ただし食器は必ず高級なモノを使う
例えばグラスのボールにカット野菜と安物ベーコンを放り込んでドレッシングで混ぜるだけでかなり高級サラダになる
住居はできる限り高額なところに住む
ただし自己投資としては最大額を突っ込むレベルで高額なところに住む
例えば風呂は良ければ良いに決まっているが、拡張自我としてどうか、というのを自問自答する
人によっては風呂が好きな人がいるのでそこに投資するのは間違いではない
他にもキッチンやリビングが拡張自我としてどうか、をよく考える
簡単な判別方法は、上司に叱られたときに「でも俺の家は檜風呂だしな」と思ってストレスがなくなるなら拡張自我である
などという触れ込みが多いが、大半は意識が無い状態なので拡張自我としては希薄である
例えば英語を学習することで昇給や昇進、転職が約束されているような状況であっても
これは
という動機があるのにも関わらず
という行動に移せない状態になっているためで
内的動機付けは自発的に内面から出てくる動機付けのことで、よく「やる気」「モチベーション」などと言われる
一方で外的動機付けは他人から怒られたり、英会話教室の案内が届いたりするようなことが当てはまる
これらの動機付けに関するものに積極的に投資することで、高いリターンを期待できる
上の節で説明した拡張自我に基づいた自信への投資は自己の価値向上に繋がっている
ただし、自分が自分に感じている価値とApple Watchの価格が見合っていないと感じると、そこがギャップになる
そして人はそのギャップを埋めようとして自己の価値を高めようという「内的動機付け」が完成する
新入社員に「高いペンを買え」などという指導が昔は良くあったが
基本的に成長や成功のチャンスは何度でもあるのだが、内的動機付けができていないとそのチャンスを逃す
自己投資によるリターンを得るためには内的動機付けをしておくことは必須である
自己研鑽としてこの手のものが多いが注意したいのは外的動機付けに繋がるかどうか、である
例えばジムに通うときに高い年会費を払うと、それがそのまま外的動機付けになる
他にも週に一回のヨガを予約すると、行かざるを得なくなる
これが「安い」「いつでも気軽に」となると外的動機付けにならない
安物買いの銭失いと同じである
そもそも得られるリターンが投資額に見合ったものであるのかはよく考えた方が良い
チャンスはいくらでもあるとは言ったが、増やせるなら増やした方が良い
例えば古い友人関係、大学関係の付き合い、旧職場の付き合いなどには積極的に投資する
これは何も金銭に関するものではなく、時間を消費するという投資も含まれる
こういうときに
「あいつは目ざとい」「付き合いが悪い」
などという話に付き合う必要はない
もう既に子供部屋おじさんと呼べるのかもしれない。
妹と話をしているとなんだか懐かしくなって、会いたくなったんだ。
それで今度の土日、遊びに行っていい?と聞くと妹は二つ返事で了承した。
だから妹のマンションに着くと既に夕方で、妹は苦笑するように笑って俺を出迎えた。
リビングは清潔で掃除が行き届いており、実家の部屋とは大違いだった。
妹は料理をテーブルに広げ、すべて手作りだというので俺は驚いた。
独り暮らしをするようになって、自然とできるようになったのだと妹は言う。
身バレを防ぐために料理の詳細は伏せるけれど、どれも美味しかったのは確かだ。
そして一緒に晩酌した。妹は21になったばかりだった。
妹は正月にも帰っては来なかった。
こうやって一緒にお酒を飲むのは初めてだった。
それからはお互いの近況なんかを話したり。
「毎日楽しいよ」と妹は笑って言い、それを聞いて俺は安心した。
次第に夜も更けてくるとそろそろ寝ようかという話になり、その前にお風呂に入ってくると妹。
先にいい?と聞くので俺は首肯し、周りに目をやりぼぉーっと待っていると妹が風呂から出てきた。
ラフな白シャツに丈がごく短いショートパンツという格好で、「あーいいお湯だった」と言いながら俺の隣に座る。
いい匂いがした。
前より、胸が大きくなっているように見えた。
妹のこういった姿はこれまで何百回と目にしてきた格好だった。
その事実が、見慣れないこの周りの光景と酔いが俺を惑わせたのだと思う。
微かに勃起し、それを隠すように立ち上がるとトイレへ向かった。
風呂から出るとお茶を飲みながら軽く談笑し、それから寝ることにした。
妹は寝室で、俺はリビングで。
予備の布団と毛布で床に着き、それでもなかなか寝付けなかった。
眠れないまま刻々と時間が過ぎていき、すると足音が聞こえた。ひたひたと、ゆっくりリビングの方へと向かってくる足音が。
次第に、すすり泣く声が聞こえてきた。
その声を聞いて、俺は昔を思い出した。
中学の頃、妹は俺の部屋に入ってくると戸口でいきなり泣き出すことがあった。
妹を宥め、理由を尋ねると、たいていは大したことではなく、友達と喧嘩したとか、テストの点が凄く悪かったとか、そういう類のことが原因だった。
そういう行為は妹が高校生になってからもたまにあり、妹は俺の部屋に入ると突然泣き出すことがあった。
俺は妹の悩みを親身になって聞き、アドバイスをして、協力することもあった。
悩みが解決すると「ありがとう、お兄ちゃん」と妹は小さな子供みたいな笑顔で俺に言う。
その顔が、俺は大好きだった。
頼ってくれることも正直嬉しかった。
寝たふりを続け、すすり泣く声を聞きながら俺は当時のことを思い出していた。
泣いているのはきっと妹だ。それでも俺は目を開けない。
妹はもう21だ。子供じゃない。
俺は寝返りを打つ振りをして背を向けた。
すすり泣く声はしばらく続き、それから諦めたようにゆっくり遠のいていく足音を聞いた。
翌日。もう朝だよと妹にたたき起こされるとパンを焼くいい匂い。
既に朝食は出来ていて、手作りの朝食もまた美味しく、妹はご機嫌だ。
昨夜は何もなかったかのように。
食べながら「今日はどうするの?」と聞かれ、どうしようかなと言うと「せっかくなんだし観光していけば?」と妹。
でも一人で回るのもなぁ、そうつぶやくと「私も一緒に行くよ?」と言ってくれた。
俺はインドア派で出不精なこともあって、なにかイベントないと遠出することはあまりない。
そう言う意味では今回はいい機会だし、じゃあ頼むよと俺は妹にお願いした。
妹は満面の笑みを見せた。
テレビやSNSで見るような場所を二人で回り、妹は楽しそうだった。
大学には友達がたくさんいて、毎日とても忙しくて、とっても楽しいのだと、妹は口癖のように言っていた。
観光地巡りは最終的に妹に振り回されるような形となって時間が遅くなり、結局その日も泊まっていくことになった。
その夜、俺は妹と結ばれた。
どこの部屋に付けるかによる
リビングは調理時に発生した油分も吸い込んでクソ汚れるのでぶっちゃけエントリーモデルの+1サイズにして業者に頼むのは必要経費と割り切ったほうがいい フィルターお掃除機能は不要
ただネックなのが、省エネ性を高めようと思うと必然的にランクの高いモデルに手を出さざるを得ないこと、当然お掃除機能が付いてくるということ
寝室や子供部屋は逆にホコリ汚れがメインなのでお掃除機能は付いていたほうがいい。狭い部屋だからエントリーモデルでいい、だなどとは言わず、最低限お掃除機能は付けたほうがいい。部屋の湿度状況にもよるが運転後送風をしっかりしていればカビはほぼ発生しない
自分は2年近く髪も切れておらず髪が胸の長さまで伸びて 無精髭も酷いほどの姿の引きこもりだが、6日ぶりにシャワーで髪や体を4時間近く洗って、17:45までに近場の接種予約した病院へ行ったら、受付の人から3回目の接種券が必要である事を知った。接種券も持って必要な持ち物は用意してきたはずなのに。
自分の持ってる接種券は1~3回分使える物であると自分はてっきり思い込んでいて、2回目分までである事に受付の人に指摘されて初めて気付いたのだった。
受付の人から「3回目の接種券は本来郵送されている」と言われたが 身に覚えがなく、今日までに家族からそれが届いていた事をについて何も言われなかったり目立つ所に置かれてなかった。(郵便受けを管理しているのは家族なので3回目の接種券が家への郵便物に混じっていたかどうかも自分は知らない。日常で喋らないし顔も合わせていないぐらい家族と自分は不仲であるし。)
それから、「一旦家に戻って接種券を探して来ます」とも受付の人に言えず、「待たせると迷惑になるだろう」とか世間体な漠然とした圧に負けて、なぜかもう折れて接種を諦めてしまって帰った。(その病院は18時半に閉店だったので諦めなかったらギリギリ接種できていた可能性はあった。しかし一時帰宅後に家のリビングで接種券を探すとなると家族から色々思われたくない事にも負けた。)
(話は変わるが 自分は10日前に、2回目までの接種券に載ってた予約番号で「3回目以降WEB予約のページ」でログインしていて接種予約してたが 今になって思えば本来は、3回目の接種券に載っている予約番号で「3回目以降WEB予約のページ」でログインできないとおかしくないか? と思ってしまった。ある意味バグじゃないだろうか?
もし2回目の予約番号で 3回目以降WEB予約のページをログインできなかったら、今日のようなヒューマンエラーに事前に気付く最後の砦だったのではないかと 今日の事のような失敗は防げたのではないかと 思ってしまった。はあ。)
ワクチン接種とかコロナウイルス感染とかどうでも良くなった。ましてや自分の人生も。
(ちなみに、最後に2回目を接種したのは2年前ぶり。高校中退からずっと10年以上ひきこもり。)
もう自分の予約番号と生年月日ここに晒そうかな。
引っ越ししたおかげで、同居人との個室と距離が出て、流している音楽や口笛がお互いに聞こえなくなった。それと、リビングが広くなったので、リビングで一緒にご飯を食べれるようになった。家賃が2倍になったけど、生活の質が上がった。しかしながら、新しい家に越してから、夜な夜な不可解な現象に悩まされるようになった。深夜、家の隅々を埋め尽くす静寂の中で、何かがゆっくりと階段を上がる音が聞こえる。最初は風のせいかと思っていたが、その音は日に日にはっきりとしてきた。それだけでなく、リビングの広さが、今ではまるで私たちを観察する何者かにとっての絶好の舞台のように感じられる。夜になると、暗闇の中で何かがちらつくのを感じることがある。見たくないものを見てしまいそうな恐怖から、目を逸らす日々。家賃が高くても生活の質が向上したとはいえ、この不可解な出来事には、金額では解決できない何かが潜んでいるようだ。
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
旦那が先月の終わりくらいからリビングでFF7 リバースをプレイしている。あまりにも楽しそうにプレイするもんだから、隣でしばらく見ていた。
最初は洋画のようなストーリーや映像ですごいなーくらいにしか思わなかったが、登場人物との会話が選択肢によって変わってきたり、クエスト(?)で登場人物の新たな一面が見れたりと掘れば掘るほど色んな要素が出てきて、私はプレイしてないかつFFのことを全く知らなかったのにハマってしまった。
原作のストーリーが気になったので、ひとまず今は原作の方を慣れないながらもプレイしている。ゲームは小学生以来なので、旦那に教えてもらいながらなのだが、原作のシステムでさえとても面白いと思った。装備やアイテム(マテリア)の組み合わせによって、使える攻撃が変わり、敵の倒しやすさにめちゃくちゃ影響されるのだ。旦那がプレイしてる時は気が付かなかった。これはすごい。
旦那に「これよくできてるねー!考えるのが面白い!」と言ったら、なぜか少し嬉しそうだった。(可愛い)
登場人物もみんななんやかんや悩みながらも一生懸命なので、応援したくなってしまう。
なんだか久しぶりに夢中になれる趣味?がみつかったので嬉しい。
仕事にかけられる時間が短くなってしまったのが唯一のデメリットだけど、それはそれでやりがいがあるから良しかな。
まずは原作クリアしてから、FF 7リメイクとリバースもやっていきたいなと思う。操作が難しそうだったから時間かかるかもだけど。続編もとっても楽しみー。
そりゃ新築の時はスタイリッシュでいいかもしれないけど、戸建てって修繕しながら30年40年と暮らすのに対して、家電の寿命ってせいぜい10年で10年もすると部品が廃盤になって修理もできない。
うちの実家はコンロ一体型のオーブンレンジがついてたけど、壊れて修理もできなくなった。一体型で全部機能がまとまっていた分、他の家電を置くスペースが全く用意されていなかったし、オーブンレンジだけを取り外すこともできなっかたので完全に無駄空間となり、リビングにIKEAで買ったステインレスの台を置いて、その上にオーブンレンジを置くこととなった。
スタイリッシュさの欠片もない。
後年、コンロが壊れて修理不能になってIHに切り替えたんだけど、コンロに比べて2周り程小さくなったので無駄空間ができた上、コンロを取り外した所は壁紙がないので、ホムセンで売ってるアルミの衝立で油ハネ対策をした超絶ださい空間となっている。
大型リフォームをする余裕があるならともかく、そうでないならビルトイン家電を使うより、家そのものには最低限の機能しか持たせず、広い空間を用意しておいて、その時々に必要な独立した家電を置く方がいいと思うんだけど、どうなんだろうね。
ドア横とリビングにあるけど、玄関にもう一つつければよかった。
玄関にいるときに電気をつけようとすると、ドア横のスイッチは玄関を上がったところから手が届かないから、リビングのドアを開けてスイッチを入れないといけない。
まれに一緒に消される時がある。
トイレの中につければよかった。
食洗機の音
リビングの隣の部屋で妻と娘が寝ている。
戸が引き戸なので、夜中に食洗機を動かすと音が気になるらしい。
ロールスクリーン
カーテン一式を頼んだときにカーテン屋から勧められて何も考えずに2面くらいロールスクリーンにしたけど、視線が気になるところだったので後日カーテンに作り直した。家全部でいくらのパックだったから安いロールスクリーンを勧められた気がする。
駐車場の目地
結論としては、まぁTwitterがあって良かったな〜ってくらいの話。
なので被災地のように大変な経験は全然してなく、安全圏で生活をしていた。
地震が起きたその日はテストが終わり、部活も休みなので普通に帰宅していた。
歩いていると揺れってなかなか分からないと思うけど(私だけかもしれない)、周りの方が「やだ地震?」って声で私も立ち止まった。
反対車線にあった電線が少し揺れていて、確かに揺れてるかもと思ったその時、下から突き上げるようなズシンとした大きな揺れ。
立っているのが難しく、近くにあったフェンスに捕まった。
その時印象的だったのが、わたしの近くに自転車を押していたご婦人がいて、揺れの最中に「あああああああ」って言いながら道端に自転車をガシャンとぶっ倒してどこかへふらふらと歩いて行ってしまった。
人は自分よりパニックになる人を見ると冷静になれると感じる一件であった。
自転車は道の真ん中に倒されてたから他の人と一緒に端に寄せた。
3.11の事を思い出すと未だにあのご婦人はあの後大丈夫だったのだろうかと考える。
早く帰らなきゃと思いながら歩いていたら、近くの人が「東北で震度7だってよ」って話しているのを耳にしてゾッとした。
今思うとそこで情報を拾えたのは幸いだったと思う。通っていた学校が携帯持ち込み禁止であったのと、あの時は今ほどすぐに情報を拾えない。
(実際携帯がない人は何が起きてるか分からなかった人も多いと聞いた。
あと持ち込み禁止だけど普段はこそこそ持って行ってた。この日はテストなので不携帯でした。持ち物検査されてもいやだし)
家に帰り母親と合流。
幸い家の中はそこまでひどくなく、食器棚も倒れたりはしていなかった。
そしてもう一つ幸いだった事は、私がTwitter利用者であったこと。(てかツイ廃だった)
Twitterをみたらそれはもうありがたい情報がたくさん流れていた。何をしなければいけないとかね。
母親と共に近くのコンビニに行ったが食べ物はなく、少しだけあったカップ麺を買って帰り、お米を5合炊いておにぎりをつくり、浴槽やペットボトルにしこたま水を貯めた。
地震が起きたその日はリビングで母親と交互で寝ようと提案して夜を明かした。
テレビもずっと付けていたと思う。
当時16歳とかそんなもんの高校生がここまでできたのは情報をくれたTwitterのおかげだった。
父親は仕事で千葉におり、帰ってきたのは震災が起きた翌日の昼頃であった。道路は全く動かず、車で夜を過ごしたという。
メールが繋がらず、職場がわりと臨海地域なのもあり、帰ってきた時は安心したのを覚えている。
電車が止まっているので集まった人数はクラスの3分の1以下で、返却後すぐお開きとなった。
私はバスで通学していたため利用していなかったが、電車は駅への入り口がすべてシャッターで閉ざされていたのを覚えている。
駅を利用したいために並んでいた人に説明している駅員さんもいた。
連日被災地のニュースが流れ、計画停電もあったが私の住む地域は病院などの社会サービスを提供するような施設が集まっていたのもあり、計画停電は行われなかった。(実際の理由はわからないが)
そして徐々に日常に戻って行った。
そしてTwitterありがとう。あの時いっぱい情報をくれたから色々動けた。情報を得る手段を知っているのは強いね。
2月の半ばにあなたが咳をし始めてから、それとなく「死」の一文字を思い浮かべることが多くなった。
それ以前、あなたが散歩を厭うようになったのを感じ始めてから、考えていたことが明確に姿を見せたともいえる。
日に日に食欲が失せていき、妙におなかが膨らんだのを見て、なにとはなく「あぁ」と思った。
2月14日まではたしかに芋を食べていたが、以降はそれも徐々に食べなくなって、それから一週間ほどでほとんどなにも食べなくなっていたと思う。
26日に薬を飲み出してからも、あまり改善したような様子はなく、そればかりかとうとう水も飲まなくなった。
それからというもの、いつものようにそのつもりはなくソファで夜を明かした私が朝方することといえば、あなたの部屋のドアを開けてあなたが出てくるのを確認することになった。
でもしばらくしてあなたは部屋の中だと苦しそうに呼吸するようになったので、私は一度部屋に入ったあなたを独断で出すことにした。
そうしたらあなたはいつもの場所で伏せて、静かに寝息を立てたので、私は安心してその日はベッドで寝た。
翌朝、部屋にいるはずのあなたが出ていたことを両親が驚いたと言っていたので、昨夜のことを話した。狭い場所がいけないのだろうとみんななんとなく思ったのでしょう。その日からは、夜になってもあなたを部屋に入れなくなった。
たしかそのころは夜が妙に眠かったので、私はたいてい日が回るより先に眠っていたと思う。
けれど3月1日から3月2日の夜中、私はたしか3時くらいまで起きてリビングにいた。1時頃にソファでタブレットをいじっていたら、こたつの向こうであなたが吐いた音がした。黄色いドロドロした吐しゃ物で、幸い敷いたペットシーツから漏れてはいなかった。あなたの足にもかかっていたのでウェットシートで拭いたけれど、だいぶしつこくて5枚は使った。空腹由来の嘔吐だったので、注射器でミルクを飲ませた。ほんの雀の涙程度だっただろうけど。
3月2日から3月3日にかけての夜中、その日はちゃんとベッドで寝ようと思って、夜中の2時に一度布団に入った。けれど、眠気が強くなる前にリビングに降りた。いつも父が明かりを点けたまま寝落ちているので、そうであれば明かりを消さないといけないと思ったし、前日の夜中にそうだったように、あなたがまた吐いていたらいけないと思ったからだ。
そうしてみたら、案の定明かりは点いていたけれど、予想と違って父は起きていて、リビングのドアの近く、あなたがいつもいる場所(それよりは少しドアに近かった)にあなたがいて、突然降りてきた私を見ていましたね。
事情はわからなかったが、あなたを父が構っていて、でも危惧していたことはなかったので、私はあなたの頭を撫でてベッドに戻った。
そうして翌朝の8時ごろに私は目を覚まして、すぐには起き上がれずにいたら、8時24分に一階から大声で母が私を呼んだ。
私はそのとき、至極冷静に「逝っちゃったかな」と思った。そんな気がした。そうだった。20分に逝ったらしかった。すぐに起きていればよかったかとも思ったが、そのおかげで私が記憶している最後のあなたは穏やかだった。
あとひとつなにか悔いがあるならば、兄に伝えなかったことだ。母はそう思っていなかったようだけれど、私は正直なところ、死ぬのだろうと思っていた。積極的には思っていなくて、痩せて骨の浮いた背を撫でて「そのうち戻るかな?」と考える頭もあった。けれど、意識的に先のことを考えたときは、やはり死ぬのだろうと考えていたように思う。
命日の約一週間前が私の誕生日だったので、兄は実家を訪れていた。そのころはまだなにかしら食べていたころだったと思うので、ある意味ではまだ元気なころだったと思う。それを良しと捉えるか悪しと捉えるかは人によるだろう。
離れて暮らしていることを思えば、命日の一週間ほど前に会っていたのはよかったといえるのかもしれないが、なんにしても私が決めることではない。ただ、それらを自己決定に委ねるのであれば、一緒に暮らす者の所見としてその可能性を事前に提示すべきだったとも思う。
だからきっと、あなたが近く亡くなることを高い可能性として最も想定していたのは、実のところ私だったんじゃないかと思う。あなたが息を止めたとき、私はその場にいてもあなたを蘇生しようとはしなかったでしょう。あなたが咳をし始めてから二週間と少し、あなたがものを口にしなくなってから一週間弱、それだけ続いた苦しみがようやく終わったんだと安堵した。死んでほしくはなかったが、それ以上に苦しんでほしくなかった。
そう、3月2日の午後に、母があなたに薬を飲ませようとしたとき、あなたはそれをいつも喉に押し込むようにして与えられていたので、それを嫌がったのか、やや機敏に立ち上がって逃げようとしましたね。でも窓を向いていたの180度回って、ドア側に歩こうとして失敗して、こたつの布団に倒れ込み、再度立ち上がってカーペットを降りて、けれど結局テレビの前で伏せましたね。
それを見て、たしか私は先が短いことの確信を得たんだ。次の日とは思わなかったけれど、日曜の特に用事がない日の朝8時に、母が私を一階から大声で呼んだ、ただそれだけであなたの死を覚る程度には。
犬の寿命だとかを思えば覚悟をするべきだと思って、この数年、特にこの一年間はあなたをすぐに撮るようになっていた。そのおかげで、写真と動画は私が2018年あたりから撮ったもので800個以上ある。
ただ、私が一番好きだったのは、あなたがあったかくて、重くて(12kg~13kg程度だった)、大きかったことだ(体長はきっと85cm~95cmほどあった)。けれど不思議なことに、あなたの寝床を用意して、そこに入ったあなたの身体が敷き詰めた氷のように冷たくなったのを、私は良いことだと思った。亡くなったのは8時20分、兄が来たのは昼ごろ、それから寝床に入るまで、あなたの腹はあたたかかった。あなたが朝まで生きていたことの証明で、あなたがこのままでは傷む一方であることの証左だった。
そのほうがらしいからといって、あなたの舌を少し出しておくことになった。はじめ1時間くらいはいつものピンク色だったけれど、それ以降は紫色になった。目は昼ごろになってようやく閉じた。鼻が乾くのは早かった。散歩中、エチケット袋が開かないときによく借りていた鼻だった。
きっとそのうち、こういう些細なことは思い出せなくなる。思い出さなくなる。人間の脳みそはそういうふうにできていて、当たり前のことだから、悪いこととは思わない。ただ、残しておきたかったのでそうする。
命日当日中には兄のほかに父方の叔母と祖母が来た。近くに住んでいる近親者が全員来たということだ。叔母は手紙を残してくれた。住所を書いたそうなので、一緒に燃して、あっちで読んだら来てもらうそうだ。
3月4日の19時に火葬することになった。祖母は祖父の看病が終わり、さらに退職して自由な時間を持て余しているようで、参加してくれた(たとえそうでなくともきっとそうしてくれたと思う)。義姉も参加してくれた。叔母は仕事が空けられないので参加できなかったが、予期しておくことなどできないのだから仕方がないという外にない。
車の店でもらったひざ掛けのサイズがちょうどよかったのであなたの冬のブランケットにしていたが、最期までこうも役立つとは思わなかった。あなたの身体を寝床に入れたり、火葬のための設備に収めたりするときに、担架のように使った。焼かずに残っているが、なにかにリメイクでもしたほうが良いのだろうか。
あなたの骨は思っていたよりも丈夫だった。納骨袋の側面に小さな遺影を入れられるスペースがあって、けれど遺影ではなく、火葬の直前に切り取った遺毛を入れることになった。アクセサリを入れるための小さなジップつきクリアポーチに入れたが、サイズがちょうどよかった。桐の箱などに入れたほうが保管状態としては良いそうだ。検討したほうがいいかもしれない。
火葬した日の夜中に、私は遺骨ペンダントを注文した。驚いたことに翌日には届いたので、あなたのおそらく爪と目の周りの骨を少しもらった。由来のわかる(想定できる)骨のほうがなんとなく良い気がした。目の周りの骨は大きかったので少し砕いた。あなたに私が行く先を見ていてほしかったので、目の周りの骨にした。
これを書いているのは3月7日の夜1時だ。あなたが逝ってもうすぐ4日になる。私は泣くとき、いつも喉になにか手のひら大の球が詰まったように痛くなる。けれど、あなたを惟て泣くときは、喉は痛くならずにただ熱い涙が出る。理由はわからない。悲しいわけではないと思う。どうなんだろう、あなたがいないことを考えるとそうなる。これを悲しいというのかもしれない。
書いているそばから嘘になったかもしれない。今は少し喉が痛い。けれどそれでも息ができないほどではないから、やはりなにか違うらしい。
こたつの中で足先になにか触れると、一瞬あなたかと思う。私はいつも発作的にあなたに飛びついて構い倒す癖があったので、今もふとした瞬間に無意識にあなたの名前を言いそうになる(すんでで止まる)。私がいつもの椅子に座っていたり、廊下や洗面所やキッチンでしゃがみこんでタブレットをいじっていたりすると、いつの間にかあなたが足元にいましたね。あれがとっても好きだった。あなたは私によくついてきてくれた。
これからは私があなたを連れまわす。一緒に行けなかった旅先にも連れて行くし、3月いっぱいで契約満了を迎える今の出向先にもひっそり連れていってみよう。遺骨ペンダントは失くしてしまいそうで怖いが、そうなったときはあなたがきっとそこを気に入ったということなのでしょう。そもそもあなたは昔から衣服やらカバンやらに毛として引っ付いてきていたので、今さら真新しいことはなにもないのかもしれないけれど。