はてなキーワード: 現代社会とは
現代の性は非常に多様化しており、特に「二次元」と呼ばれるイラストによる性表現の世界では、女性も含めた多才な人材が活躍しています。「エロゲ」や「エロ漫画」といった世界は、文明的な人々にとってもはやスタンダードな性生活の場になりつつあります。
私はAVを見ませんが、AVのようにプロ同士が性交渉を行うことについては、ボクシングが合法であるように、特別に違法性を阻却してもよいかもしれません。「二次元」では満足出来ないという人も、性的充足に至る選択肢は無限にあります。
それでもなお素人同士の対人性愛に拘らなければならないという欲求は、それは性欲ではなく別の欲求ではないのでしょうか。殺人欲や強姦欲のように、現代社会は、そのような欲求に応える義務はないと思います。
第九条の発案者であり時の総理大臣・幣原喜重郎のことを知らない日本人があまりにも多すぎる
彼がどのような考えで第九条を思いつくに至ったのか、それを議論せずにして憲法の議論なんかできるはずがない
なぜ政治家も、評論家も、社会学者も、そして我々国民も、九条を作った当人の言葉を話題に挙げないのか
彼の考えのどこが悪くて、どこに不満があって、現代社会に通用するのかしないのか、なぜ誰も語らない?
少しでも多くの人に、我々と同じ日本人が考案した第九条を、この埋もれてしまった歴史的憲法の成り立ちについて知ってほしい
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ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。
現代社会における男というシステムを上手く利用できていない女性なんだろうなって思う。
どう考えても結婚や子育てに向いてない人類は存在するわけで、そういう人たちを無理に結婚させたり更に子どもをもたせようとしても土台無理な話。であれば、すでに出産の実績のある夫婦により子どもを産んでもらうインセンティブを増やしたほうがいい。現代社会では子ども一人にかかるコストが膨大なので、まともに将来設計できる親ほど、3人目を持とうなんて考えられなくなる。むしろそういうまともな親にこそ、3人目4人目を育ててもらったほうがいい。ビッグダディで考えなしに子どもを産んでネグレクトする夫婦がいるじゃないか、と思うかもしれないが、そういう夫婦は金銭的なインセンティブがない現在でもすでに産みまくってるわけで。むしろ3人目以降は公的援助をガンガン入れることで、親がくそでも子どもが幸せに育てるようにしたほうが絶対にいい。
もちろん君の言うことは正しい。ただし、その場合障碍のある子を育てるための100%のサポートを社会が十全に保証している、というのが前提になるよね。現代社会はその前提を満たせているのか。
一般的に障碍は運次第なのだから、障碍のある子が生まれても自分達ではサポートしきれない…と悲観した親が中絶を選択したとしたら、彼らは差別主義者なのではなく、ただの社会的不公正の犠牲者だね。運次第で降りかかる状況を全体で引き受けてこその社会なのだから。ならば、そんな人たちを「差別主義者」と切って捨てるのは、正しいことではないよね。たとえば、障碍のある子は神の子である、と祭り上げる文化があり、もしそういう子が生まれたら社会が全面的にサポートするしその親も一生尊重される、そういう社会だったとして、それでも「いや、私は障碍ある子をもつことは認められない」と中絶を選択するなら、それは差別主義者と言われても仕方ないだろう。だが、そんな人が一体どれだけいるかな。そんな社会になれば、ほとんどの人は中絶を選ばないのではないか。ならば、彼らに中絶を選ばせているのは社会の方なのではないか?
だとしたら、あなたの提案する政策は、現実には差別主義者ではない人たちを差別主義者として糾弾するばかりか、現に社会自体、言い換えれば我々全員が暗にもっている社会的な差別の構造を覆い隠して、その責めを彼らだけに負わせようとするものですらあると言えるね。それは極めて邪悪だ。つまり、現に障碍のある子を中絶する親がいるとして、彼らの選択に自分がまるで関わっていないかのような顔をすることこそ偽善だってことだ。なぜなら、彼らにその選択をさせているのは、ほとんどの場合まさに我々が合意しているこの社会そのものなんだから。
だから、現状を憂えて解決策を考えるなら、行うべきは個々人に責を負わせるような改革ではなく、社会全体で可能な限りの福祉的政策を推進し、個人が中絶の決断をしなくてよい環境をつくる、という、地道で困難ながら真っ当な道筋だろう。それが、この問題の多い現代社会に生きる人間の負うべき責務というものであり、安易にそこから目を背けるべきではないと思うね。
生まれた子どもが社会をどう捉えるかなんて分からないからそんなこと気にしてもしょうがない。生みたければ産む、子どもの気持ちなんか知ったこっちゃないさ。とかも簡単に言えるけど。
自分は子どもが死にて~って思わないようにフォローしながら精一杯育てるけど反出生の言ってる人の話をお前個人が生を肯定できないだけだろって矮小化したり見て見ぬふりすんのはできないは。
自分の顔面ブサイクだなと思うし毛深いの遺伝させてるし現代社会は自分が事前に確認されたらお断りだなと思うような社会だしそれを子どもに押し付けてしまってるな、と日々感じながら過ごしてる。申し訳無さすごい。