はてなキーワード: 半音とは
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
ホルンの元増田さんが追記で「ディスったつもりはない」と仰っておりますので、この議論に関してはこれ以上反論も補足もいたしません。
ただ一点、元増田さんには「あのような書き方をすれば尺八(またはマイナーな民族楽器全般)がディスられたと感じる読み手が私を含め一定数居る」ということだけはご認識いただきたいです。
それより私が驚いたのは、はてなの中でどのようなきっかけであれ尺八という楽器にここまで注目していただいたということです。
特に「面白い」「勉強になった」「尺八吹いてみたくなった」等のコメントは予想外で本当に涙が出るほど嬉しく、励みになりました。
これが元増田さんへのツッコミという形ではなく単発のエントリだったとしたら、たとえ同じ内容でもここまで反響を頂けなかったと思うのです。
こんなチャンスはもう二度と来ないと思うので、今回の件をきっかけに尺八に興味を持っていただいた方に向けて、もう少し書かせてください。
尺八がマイナーな楽器であることは十分承知していますが、少しでも楽器としての魅力をお伝えしたく、なるべく専門用語を使わずお伝えさせていただきます。
流派によって多少の違いがありますが、基本的にカタカナで縦書きに表記されます。
基本となる音は5種類で、順に「ロ、ツ、レ、チ、ハ(リ)」となっています。
このカタカナは音程ではなく指使いを表しています。ギターでいうところのTAB譜に近い表記です。ですので同じ音程でも指使いが違えば表記も変わりますし、逆に表記が同じでも尺八の長さが変われば出てくる音の高さも変わります。
音の種類は替え指や特殊奏法を全部カウントするとおよそ30種類です。殆ど全ての音が西洋音楽の12音に対応していますが、中には五線譜では表現できない替え指や特殊奏法もあります。
尺八の音域はおよそ2オクターブ半ですが、ホルンと同じく音域の高い音は正確に当てるのが難しいです。
しかも、高い音の中にたった一つだけ、なんと足(正確には太もも)を使わないと演奏できない音が存在するのです!足を使わなくても音自体は鳴ることは鳴るのですが、ピッチが上ずってしまい使い物にならないのです。
指使いや首振りだけではこのピッチのずれをカバーしきれないので、太ももで尺八最下部の息の出る穴を塞いでしまい、首振りのくだりでご説明した「開口端補正」を利用してピッチを適正な所まで下げているのです!
繰り返しになりますが、基本の尺八は指孔が5個しかありません。これによる最大のデメリットは「細かいパッセージが吹けない」ということです。
基本の音だけで構成されたパッセージなら吹けなくもないですが、半音や特殊音が混じってくると、かなり厳しいです。そう考えると5孔で平然とジャズを吹きこなすZac Zinger氏はマジで化け物です。
このデメリットを克服するために、指孔を増やした尺八が存在します。まとめて「多孔尺八」と呼んでいますが、メジャーなものは6孔と7孔で、多いもので9孔があります。
指孔が増えることで、本来であれば「首振り」や「指孔を少しだけ開ける」などの細かい動作を必要とする音も指孔の開閉だけで出すことが可能になります。
この多孔尺八を「邪道だ」と毛嫌いする奏者もいますが、私はこれにより尺八音楽の表現の幅が広がるのであれば良いのではないかと考えます。
プロの定義が曖昧なので何とも言えませんが、メディアに複数回登場したり、CDを出したり、定期的にリサイタルを開催している奏者に限定すれば、国内で100~150人くらいではないでしょうか。
最近活躍している若手プロはその多くが東京藝大の尺八科邦楽科尺八専攻出身です。https://hougaku.geidai.ac.jp/
そんな中、メディアへの登場頻度が図抜けて高い現役プロ尺八奏者が2人存在します。一人は「和楽器の貴公子」こと藤原道山氏、もう一人は「美人すぎる尺八奏者」こと辻本好美氏です。
辻本好美氏の演奏は、実は某テレビ番組で毎週必ず、それも何回も使われています。正解は以下の動画の1:55あたりから。
https://www.youtube.com/watch?v=2NfBpCQ5VYQ
お二人とも人気実力ともに申し分ないですが、私が個人的に一番好きなプロ尺八奏者は小湊昭尚氏です。彼の演奏がきっかけで尺八の世界に興味を持ったと言っても過言ではありません。
小湊さんがYOASOBIの「夜に駆ける」を尺八でカバーした動画は超絶オススメなので是非皆さんにご覧いただきたいです。先ほど紹介した「足を使わないと出せない音」や「首振り」も速いパッセージの中でバンバン使っていて、言葉がありません。
https://www.youtube.com/watch?v=LI0nzOKtTuk
尺八と聞いて多くの方がイメージされる「ブヒョ〜」という荒々しい音ですが、あれは口腔内や唇の形状を変えることで敢えて乱気流を発生させ雑音を含ませていて、専門用語で「ムラ息」と呼んでいます。
やり方は奏者によって様々ですが、基本的には舌の先端を下の歯の付け根あたりに巻き込んで通常より強めの息で吹き込むことで鳴らすことができます。
このムラ息、曲中であまり多用しすぎるとうるさい演奏になってしまいますので、ベースは綺麗な音で演奏し、ここぞという時に使用しています。ちなみに上記紹介の「夜に駆ける」動画の中では3:06あたりで使用されています。
本当はもっともっとお伝えしたいことがあるのですが、長すぎると逆に興ざめになってしまいそうなのでここまでにします。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
尺八に関する質問があればトラバやブコメにお寄せください!可能な限り追記で回答いたしますので。
2/26 追記
皆様ありがとうござます。これまでに頂いたブコメからいくつか回答いたします。
兎にも角にもまず楽器が無いと始まらないのですが、これには明確な回答がございます。
ズバリ、「プラスチック尺八 悠」の一択です。初心者用の尺八としてはこれ以外の選択肢は無いと言っていいでしょう。価格は約16,000円です(昔はもうちょっと安かったんだけどなぁ…)。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00P2FXKRS/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_VR20JYRNZ0YEQJ2QWS28
ヤフオクやメルカリなどで中古の竹製尺八が売られていますが、初心者には高確率で地雷となりますので絶対に手を出さないでください。実家の押入れに眠っていた尺八も避けた方が無難です。
理由として、竹製は太さがまちまちで本人の口に合わない場合があること、手入れがされておらず割れていたり調律されていない場合があること、作者がわからないのでクオリティが玉石混淆なこと、などが挙げられます。
その点「プラスチック尺八 悠」はその名の通りプラスチック製なので太さ、仕上がりが均一で、乾燥などによって割れる心配がなく、プロ尺八奏者による監修もされております。
もし竹製の尺八が欲しくなっても絶対に一人判断して買わず、信頼できる師匠、尺八奏者、製管師と一緒に選んでください。
尺八選びを間違えたために最初の段階でつまづき、「私には無理だ」「やっぱり尺八は難しい」と思い込んでリタイヤする人の何と多いことか。残念でなりません。
楽器以外に必要なのは譜面台、チューナー、露切り(管楽器でいうところのスワブ)、テキストくらいでしょうか。
譜面台は尺八用をお勧めします。蛇腹式で横に広がるので主に縦書きの尺八用楽譜を置くのに適しています。
https://www.amazon.co.jp/dp/B000WMCB94/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_HKHG69Q886CJS94SFZAP
チューナーは一般的なものであれば何でも構いません。スマホのアプリでも大丈夫です。
露切りは購入すれば間違いないですが、自作で手ぬぐいやハンカチに紐とおもりを結びつけた物でも大丈夫です。
練習後に露切りで尺八内部に付着した水分を拭き取って終わりです。簡単ですね。これも尺八の魅力です。
不可能とは言いませんが、できれば信頼できる尺八奏者から直に教わってほしいですね。
オンラインレッスンを開講しているプロ奏者も何人かいらっしゃいます。レッスン料は講師によって千差万別です。
各流派の師範などの肩書を持った方もいらっしゃいますが、師範=プロではないので注意して下さい。実際にその人の演奏を聴いたり体験レッスンを受けたうえで決めた方が良いでしょう。
最近はプロ奏者がYoutubeで解説してくれている動画もありますので参考になるかと思います。
https://www.youtube.com/channel/UCzD1bRWJ6o9ECnHRUVGctMw/videos
初心者用のテキストですが、個人的なオススメは「鳴るほどザ尺八」です。
https://www.amazon.co.jp/dp/4991014433/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_Q2V39NSKQTAXAGBANXCG
著者の菅原久仁義氏は現役のトッププロ奏者で、多くの若手プロ奏者を育成した実績もお持ちです。
もしあなたが大学生であれば、「和楽器サークル」または「尺八サークル」に入会してください。懇切丁寧に教えてくれるはずです。
もし自分の通う大学にそうしたサークルが存在しない場合、近所の大学のサークルに相談するのも手です。
社会人になってから尺八に出会った私としては、同年代が集まって切磋琢磨できる環境と練習時間がある大学生が羨ましくて羨ましくて仕方ありません。
一緒に練習できる仲間って、本当にかけがえのない存在です。小中高の吹奏楽部での経験があるからこそ、尚更そう思います。
ホルンの知名度のくだりでも少し話題になりましたが、国内唯一の和楽器専門誌「邦楽ジャーナル」によれば、現在の尺八人口は国内におよそ2万人とのことです。
他の楽器の人口がわからないので、この数字が多いのか少ないのか、私には判断できません。詳しい方いらっしゃいましたら教えてください。
ご想像の通り、曲の調や音域に合わせて随時最適な尺八を選択しているからです。そのため、曲の中で転調があると動画のような持ち替えが発生します。
尺八は一寸刻みで長さの違うものがあり、一寸長くなると出る音が全体的に半音低くなります。
最も一般的な長さは一尺八寸(D管)で、次いで良く使われるのは一尺六寸(E管)、二尺三寸(A管)となります。
ちなみにこの「一尺八寸」が「尺八」という名の由来になっているといわれています(諸説あり)。
そうです。大甲のツです。
「夜に駆ける」動画では結構な頻度で使われていましたがこれは極めてレアケースで、通常の曲で使われることはほぼ無いのでご安心ください。
尺八が合奏用の「楽器」として使われ始めたのは明治時代以降で、それまでは禅宗の一派である普化宗の虚無僧が修行の一環として使う「法器」でした。
そのため、他の楽器と合奏することが禁じられていたのが原因と思われます。事実、虚無僧が吹いていた曲はそのほぼ全てが独奏曲となっております。
箏と三味線と尺八が合奏する曲がありますが、あの編成が成立したのも明治以降で、それ以前は胡弓という楽器が今の尺八のパートを担っておりました。
さらに、当時の尺八は現代の尺八とは違い管の内部が漆で整えられておらず細かい凹凸があったため、音程や音量が不安定でそもそも合奏に不向きだったことも原因かもしれません。
それは「音を外すな」である。
それくらいホルンは、音が外れやすい楽器として世界的に有名なのだ。
それも「プルッ」という耳障りな音とともに、全音とか半音とか平気で外す。しかもしょっちゅう外す。
これは学校の吹奏楽部出身のアマチュアだけでなく、プロでさえ高頻度で外すため、純粋なクラシックのCDなど、OKテイクの継ぎ接ぎで作られるのが当たり前。
生演奏でホルンソロとか来た日には、他の演奏者はもちろん指揮者も観客も、揃って「外すなよ…」と神仏に祈ることになる。
というか「祈らせる」という意味では神父や坊さん以上に「良い仕事」してるので、これには神様も仏様もニッコリ?知らんけど。
ついには「世界一難しい金管楽器」としてギネス登録され、更にホルンで音を外すこと=「キークス」という名詞が用意されてしまった。
ではなぜホルンはそんなに音が外れやすいのか?可能な限り端的に言うと
「低い音が得意な楽器で、非常に高い音を常に吹かされているから」
ということになる。
もう少し詳しく言うなら
「ヘ音記号の音域が得意な楽器で、いつもト音記号の音域を吹いてます」
と書けばわかるだろうか。
つまり、ホルンの美点である「甘く柔らかい音」は「低音楽器で超高音を吹く」という無茶振りによって成り立っていると、こういうわけなのだ!
なので「管の長さを短くして音を当てやすくする」のは、音色的な意味であまり良い解決法じゃなかったり。
これはフルートを半分の長さにしたピッコロが、フルートと同じ音なのに全く違う音色に聞こえることと、ほぼ一緒の理由と言っていい。
とはいえ、プロでも音を外しまくる楽器なんて、これもう普通に楽器の欠陥じゃね?と思うわけ。
実際、上に書いた事情を知ってもなお、ホルンで音を外されるのは非常に不愉快だし。
なので、そろそろ現代のハイテクとやらで「管を短くする」以外の解決法を発明してほしいのだが、一向にそんな気配はない。
困ったもんだ。
おまけ
「世界一難しい」とか書くと必ず「尺八はどんくらい難しいの?」などと愚にもつかない事を訊いてくるアホがいるけど、
「世界的に無名な日本の民族楽器なんて、誰も難易度とか問題にしません。尺八を吹く虚無僧が世界中の街角で当たり前になってから、もう一度おいで下さい」
で終わりなんで、そこんとこよろしく。
おまけ2
更にフルートが取り立てて難しい楽器とされていないどころか、本邦ではアマチュアのフルート奏者が多数存在することを踏まえれば、自ずと難易度は把握できるわけで。
だとすれば
「だったらもっと管の短い、高音が得意な楽器を作ればええやん」
となりそうだが、そうするとフルートを半分の長さにしたピッコロよろしく、音質が大きく変わってしまってNGなのだろう。
実際チェロでト音記号の音域を弾いたときの美音を、ヴァイオリンやヴィオラでは絶対に出せないのと同様、
ホルンの美点である「甘く柔らかい音」は恐らく「管の長い楽器でハイトーンを吹く」ことでしか実現できないみたいな事情がありそう。
ということで、そんな無茶振りに等しい演奏が常態化していることも踏まえ、改めて「世界一難しい金管楽器」というのも納得である。
さて、そうなると金管楽器でホルンに次いで不満があるのがトロンボーン。
なんつーか
と言わんばかりの、騒音に等しい、潰れたような汚い音を平然と吹く人が多すぎな件。
欲しいのは力強く立体的な音なのに、そんな音に少しもかすらないのは、なんか勘違いしてんのか?と感じてしまう。
原理的には「長くて太いトランペット」である以上、そこまでノイジーな音なんて出ようがないと思ってるんだけど、なんでそうなるの?
ピアノは弾ける・楽譜は読めるけど、耳コピできない・やったことない・やってみたい・できるようになりたい、と思ってる人のために簡単な手ほどきを書く!
有名な米津玄師「Lemon」のコード譜(伴奏するのに最低限必要な情報だけのメモ)を、ボクと一緒に作ってみよう!
https://www.youtube.com/watch?v=SX_ViT4Ra7k
「♪ゆめな~」
この時最初に注目すべきなのは、「一番低い音」。左手が弾いているかなり低い「ソ#」の音だ。
このソ#が聴き取れたらコードは半分わかったようなものだ。一番低い音はたいていの場合、コードのルートだからだ(もちろん例外はある)。
ルートとは、その和音のスタート地点のことだ。根音(こんおん)とも言う。どの和音にもスタート地点があり、この「根」に枝葉が生えて多彩な和音になる。
コードの名前は必ずこのルート音を最初に書き、その後ろにバリエーションを書くことになっている。「根っこ+枝葉」だ。
たとえばCm7(シーマイナーセブン)だったら、Cがルートで、mと7がバリエーションだ。
つまり、レモンの一番最初のコードは、ルートはわかったけどバリエーションが不明なので、とりあえず「G#ナントカ」である。
さっそく俺たちのコード譜に鉛筆を走らせる情報が出てきたぜ? 早いだろう?
(ちなみにこのルートの音、低音で鳴っていると和音が安定するという特性を持っている。だから一番最初に低音を聴くわけよ。)
今のところ判明しているのはまだルート単音だけなので、次に枝葉を生やして和音にしていこう。
まず確実なのは、「5度」だ。完全5度という言葉を知っている人もいるかもしれない。
ドから始まるドレミファソラシドの音階で5番め、スタート地点から距離にして半音7個分上の音だ。ド+ソ、レ+ラ、ミ+シ(いずれもナチュラル)などが5度の和音だ。
大半のコードはこの5度の音を含んでいて、枝葉というよりはもはや「幹」に近い存在なので、ルートがわかれば5度も半自動的に決まる。
今われわれが注目しているG#ナントカの場合、ルートのソ#に対して5度の音はレ#だ。
ためしに、「♪ゆめな~」に合わせて、左手で低めのソ#を弾きながら、右手では鍵盤真ん中あたりのソ#とレ#の和音を弾いてみよう(ソ#とレ#どっちが上でも構わない)。
違和感はないけど、物足りなさを感じたかもしれない。ルートと5度だけじゃ何かが足りないのだ。
ルートと5度は半ば自動的にわかった。これにもうひとつ「3度」の音が加わると、三和音(またの名をトライアド)というコードの基本形が完成する。
さあここからがコード探しの入り口だ。なぜなら、3度はそれほど自動的には決まらないからだ。原音と楽器の音を比べながらの判断が必要になる。耳コピらしくなってきたぞ。
3度にはふたつある。長3度(ちょうさんど)と短3度(たんさんど)だ。
長3度はルートから距離にして半音4つ上、短3度はルートから距離にして半音3つ上を言う。
たとえば、ドから見ると、ナチュラルのミが長3度、ミ♭が短3度。
たとえば、ラから見ると、ナチュラルのドが短3度、ド#が長3度。
長3度を含んでいれば、そのコードは「メジャー」だ。ド+ミ+ソの和音ならCがルートのCメジャー。ただし、いちいちメジャーとは言わず「C」とだけ書く。明るい響きの和音だ。
短3度を含んでいれば、そのコードは「マイナー」で、ド+ミ♭+ソの和音なら「Cm」と書き、シーマイナーと読む。暗く哀しい響きの和音だ。
このように、生えてきた枝葉がコードの性格を決定していく。枝葉や前後関係に工夫をすると、メジャーほど明るい笑顔ではなくほほえみのようなコードとか、物悲しさの中に芯の強さを秘めたようなコードを作り出すことができる。
さて、では、今注目しているレモンの最初の「G#ナントカ」はメジャーなのかマイナーなのか?
曲に合わせてG#(メジャー)の和音、もしくはG#mの和音のどちらかを弾いてみればいい。しっくり来たほうが正解だ。
さっきのように左手で低い方のソ#を弾きながら、右手は真ん中へんで和音を弾く。
G#(メジャー)はソ#+ド+レ#。
G#mはソ#+シ+レ#。
「♪ゆめな~」
どっちがしっくり来た?
G#(メジャー)は「気持ち悪い!」っていう感じで、G#mのほうは「正解!」っていう感じだったでしょ?
つまり、米津玄師レモンの最初のコードは「G#m」で決まりだ。
このように、弾きながら「ドンピシャで合ってる!」とか「合ってる感じはするけど物足りない」とか「気持ち悪い」といった印象を聴き取ってコードを特定していくのが耳コピという営みだ。
さて次回は、トライアドの続きをやりつつ、3音じゃ表現できない和音も説明しながら、レモンのAメロくらいまで耳コピを進めていくぞ。
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松:
下手の横好きで、もう何年もピアノを独学で弾いている。
たまに好きな曲を耳コピで弾いて、そこそこ弾けるようになったころにちゃんとした楽譜を見てみると、実に調子っぱずれな耳コピをしていたことを突き付けられる。
そして外していた音は「ド#」とすべき音を「ド」で弾いていたり、「ソ♭」を「ファ」にしていたりと、決まって半音上げ下げの部分。正しい音を知るまでは違和感にすら気づけず、知った後には違和感しかない。
思えば、器用な生き方はできていない。正しいと思って発言したこと、正しいと思ってとった行動はいつもいつも絶妙に的を得ておらず、その事実に気づくこともできず、すべてが終わった後になってやっと「あ、自分ズレてたんだ」と思い返すことばかり。まるで話にならないわけではなく、ほんの少しのズレた言動。もう半分を上手に補正できていれば、大方のことはうまくいっていただろう。
今日もピアノを弾いた。きっといくつかの音は、調子を外しているんだろう。私の知らないピアノの上手い人は、その音を外すことなくきれいに弾いている。どれだけやろうとも、私はピアノが上手い人にはなれない。
12分割をさらに分割するとか、12分割以外というのは民族音楽にもあるわけだけど、
音楽理論を破壊再構築する現代音楽的な発想を面白く解説してたと思う
小山田氏の件で悪く言われてるけど、YMOも音楽理論の破壊と再構築をやってたみたいだし
ディープパープルのジョン・ロードだって半音ずらしの不協和音好きだし
ノンダイアトニックコードがないとドミナントモーションというか、
既存の音楽理論が、聴ける曲はこう作れ、という既成概念を作っているわけで、
それを敢えて壊してみるというのがまずあると思う
で、壊すととても聴ける曲ではなくなってしまう、壊すことが目的化しているからだけど、
それはまた新しい音楽理論だと思うんだよね
前半
https://anond.hatelabo.jp/20210104090522
グループ自体はジブラの娘がラップしてることしか知らなかった。流行ってるらしい。
驚くほど歌詞が単純なんだよな。「聴き手を笑顔にしたい」ってことしか言ってない。でもその直球の励ましが却って洗練された仕事に感じる。あどけない女子が直向きに踊って歌って「元気出して」って言ってる、アイドルって結局それで十分なんじゃないか。
こういう応援ソングが受けるのも不安な世相を反映しているのかなとも思ったり。
なんか全体的に見てNizi Projectってラブライブ!ぽい。ラブライブもそんなちゃんと見たことないから大それたこと言えないけど。パフォーマンスのバックストーリーとして青春群像ストーリーを展開してるとことか、わりとパフォーマンスの方向性がべたな「カワイイ系」の日本のアイドル像ぽかったりとかなんとなく雰囲気が似てる。単純に9人組だからそう錯覚すんのかな。
出で立ちとかパフォーマンスは日本人好みにチューニングされてる感じだけど、曲自体はJ-popであまり見られない作りだったのがヒットした一要因かもしれない。あんな一定のリズムやテンションでサビまで流れ込む曲は「サビで爆発する」J-popにはなかなかなくて、それを幼さが残る可愛らしいアイドルが歌う新鮮さがあった。
まあなんだかんだいってもNiziUが売れた最大の要因はJ.Y.パークのマネジメントセオリーが注目されたことだと思ってる。
ドルチェアンドガッバーナはNHK的にセーフか否かで一部盛り上がりましたね。
オーソドックスなフォークソングのスタイルを下地に、R&Bとかレゲエのエッセンスをなんの疑問もなく混ぜ込む、このバランス感覚は今どきの若者だからこそだろうなと思う。どこまで意図したかはわからないけど結果として長渕とか井上陽水を聴いて青春を過ごした中高年から、SpotifyやTikTokに浸る今の学生世代にもしっかり刺さる名曲ができてしまった。
「香水」みたいな同じリフを繰り返すタイプのアコギの弾き語りってエドシーランとかがやってるのと同じアプローチで、エドシーランはヒップホップとかとのミクスチャーのつもりで意図的にやってるんだよね。
ヒップホップ感覚で聴けるポップスがヒットしたことに時代の変化を感じる。
「ヒップホップは歌えない」って曲も出してるけど意外と瑛人はフリースタイルとか出来ちゃいそう。
当たり障りないけど誰にも一度は経験ありそうな普遍的なシチュエーションにLINEやドルガバなどの固有名詞を放り込む詩世界も素敵だ。
Perfumeもとうとうメドレーを求められるような境地に入ったのか。来年も紅白で見たい。
せっかくの別スタジオだからライゾマティクスに期待しすぎてしまった。
Perfumeに続けてベビメタが出るのは紅白出演者の世代交代のつもりだったりとか…じゃないよな流石に。
テレビ出演してないとまだまだ認知度も比較的低いのかともに見ていた母は認知していなかった。母はあまりにも情報量が多すぎてぽかんとしていたが曲タイトルだけは「そのまんまじゃんw」と笑っていた。
今回の紅白は無観客だったり別撮りだったりでカメラワークの制限が少ないから寄りのショットやボーカルでないメンバーを抜いたショットが多いかもしれない。
サポートメンバーは博多華丸の娘さんらしい。個人的には鞘師里保に出てほしかったけど、かっこよかったね。
筒美京平追悼メドレー。
なんかちょっと背中が丸まってて流石に郷ひろみも歳とったなーなんて思ったり。ベテランはそれが味だよな。
ヘアスタイリングはあれでよかったのか?スネ夫みたいになってた。
冒頭の司会とのやりとりからして癖が強い。立ち姿からして唯一無二。こんな奴見たことない。
こんな声が裏返ってたっけ?
セットに囲まれて360度カメラがぐるっと回り込むのは無観客ならではで感心した。
この人高橋真梨子みたいにこれからちょくちょく出演するんだろうな〜
山崎育三郎は安倍なつみの前でもあんなキザな顔をしているのだろうか。
視聴者がこの件で一番期待していたのはおそらくGreeeenの顔出しじゃなくて"岩城さん"が歌う「イヨマンテの夜」だった。
3曲メドレーそしてうち1曲はフル尺という破格の待遇だが、国内トップクラスの人気を持つグループなのは間違いないし、歴代の紅白司会者かつ東京オリンピックテーマソングを歌う歌手という功労者であることは拭い去りようがないので、これもまあ妥当な扱いだろう。
昨年と同じく新国立競技場からの中継。「カイト」の合唱は広いグラウンドの真ん中で5人だけで歌っていた昨年からここまで歌が世間に浸透したんだという感慨があってよかった。でもバック映像がちょっとくどかったかなー。テロップでポエム流すのとかちょっと寒かった。
Cメロ部分をまるまる口上にしていた。普段はこういうのファン以外は喜ばないからやってほしくないと思う達だけど、今回はこの瞬間だからこそわざわざいう必要があったしいい演出だったと思う。
こういういかにもアイドルっぽい曲調の応援歌を投入してくるところにサービス精神を感じる。
NiziUでもそうだけど今ニーズがあるポップスってやっぱ応援歌なのかもな。
オリンピック関係で求められる「カイト」、自分たちが世間へのエールとして歌いたい「君のうた」、自分たちの代表曲の一つで大衆に求められている「Happiness」で、3曲披露する意義をそれなりに示してた。
さまざまな記録を提げ鳴り物入りで登場。
舞台セットが累との戦いのイメージだったり背景映像が日頃見かける紹介VTRでは見ない映像だったり。スタッフがちゃんとリサーチして作ってるのか、そこまで「鬼滅の刃」が世の中に浸透しているということなのか。なんかわからないけどディテールが凝った演出。
去年もそうだったけど紅白だとすごく歌いづらそう。PAに嫌われてんのか?
管楽のサポートメンバーイントロしか出番ないじゃんと思ってたら合いの手とかハンドクラップもやってた。
ギターも出番少ないなこの曲。
去年までは音像とか音色とかの上物は洋楽に寄せてその代わり大枠はJ-popのセオリーに従った構成で大衆性も獲得するヒゲダンとかKing Gnuみたいなのが売れるタイプだったけど、
それとは真逆で、音やフレーズは従来からあるJ-popやフォークなのに、曲のアプローチそのものは現代的な洋楽のそれに肉薄してる「夜に駆ける」や「香水」が大ヒットしたのはパラダイムシフトかもしれないな。
真ん中のアリーナステージも上手いこと使ってたね。
歌い終わりにけん玉リレーが追いついてないの一番残念なパターンかもな。
CDを出さない。ネットでは普通に露出してるしバラエティ番組にも頻繁に出るけど音楽番組は避ける。曲もそうだけど活動自体に斬新さがまだまだあると思う。
この曲って一聴するとaccessとかfripSideとかの昔からあるザJ-popって感じのシンセポップぽいんだけど、基本的にベース部分はA♭→Gm→Cmの繰り返しで、そこにB♭やE♭のコードを場繋ぎとして差し込んだり細かい細工をして展開を作ってるんだよね。それでドラムパターンも一定でクラブとかで流しても違和感なく踊れるような作りになってる。
最後のサビで半音さがるっていう転調を行ってるんだけど、コード進行がシンプルなおかげでそこがすごく目立つ。やっぱ転調は肝心なときしかやっちゃいけない技だよ。
やっぱメインボーカル2人ともいなくなるのは痛い。
いろんな曲のフレーズが散りばめられていたけど世代的になんとなくわかっちゃう。伊達に16年前からやってるバンドじゃねえわな。
この時期に阿波踊りしてるの見せられてもなんとも変に思わない歌手は椎名林檎だけだな。
最後のウィスパーボイスセクシーだな。「母親か」ってすげえツッコミだなおい。
ゆずの曲をフルオーケストラで聴く機会なんてないからこれは面白いものを見た。
篠笛の人が妙に目立ってた。刺客みたいになってた。
おじさんのあいみょん好きは本当に謎。いやいい曲だけど。
吉沢亮が出ててあいみょんが主題歌の映画なんてあったっけ?と思って調べたら、吉沢亮って「空の青さを知る人よ」の生霊の役やってたんだ!観てたのに全然気が付かなかった。流石だわ。
「マリーゴールド」のイントロのギターのフィードバック音とか「裸の心」のぽんぽん鳴ってる音とか、これよく聞くと歌が始まってもずっとループで鳴り続けてる。普通のポップスって顔しながらこういうブレイクビーツぽいのを密かに延々と鳴らし続けてるのラナデルレイみたいでかっこいい。
We Are The World的なドリームチームをさくっと作っちゃったYOSHIKIのパフォーマンス。
ロサンゼルスと中継だとタイムラグがあるだろうによくオケに合わせてピアノ弾けたな。
凄いスケール感だったけどやっぱりこの曲はまだ歌われる時期ではないような気がする。
バロック調でのオーケストラアレンジは何回も聴いた「愛をこめて花束を」に新しい解釈ができて楽しかった。
普段のでっかい花束を抱えてくる様なパワフルなパフォーマンスもいいけど、ボッティチェッリのプリマヴェーラの様な軽やかを携えたこのバージョンも好き。
自分が歌いたいマイナーな歌を歌って見ている側にも響くものがあるのが凄いな。ミスチルというブランド力だな。
モノトーンで無機質なんだけどどこか暖かみがあるセットがちょっと丹下紘希ぽい。「IT'S A WONDERFUL WORLD」から「I ❤️U」の頃が僕にとってミスチルが一番身近だったのでなんだか懐かしい気持ちになった。
ギターはアンプ直刺しでドラムセットも簡素。サポートメンバーもストリングスとピアノにかぎっていて(コーラスは被せ?)、機材がなるたけシンプルなのが潔い感じでかっこいい。
1番の終わりのコードがマイナー調で暗いのが大サビの後で暖かい響きのものに変わってるのがベタだけど良いな。
いつもの「天城越え」だけど冒頭のピアノのアルペジオが繊細な印象。
当然のように上手い。
思うことは色々あるけど、「期せずしてYOSHIKIの「Endless Rain」へのアンサーになった。」ということだけに留めたい。書ききれない気がする。
メイク濃くなってから観月ありさと見分けがつかなくなってきてる。
「どうなっちゃうんでしょうね」
この曲カバーしてる人何人かいるけどかわいくみせてやろうって衒いがあるんだよね。本人は流石にすっきりしてる。
合唱やる人多すぎてここにきてなんか見飽きだしてたから、冒頭の演出で「またか」とはやとちりした、すまん。
「守ってあげたい」は名曲。カバーだと鬼束ちひろバージョンが好き。
20分くらいまえから時たま怒号が聞こえてた気がするけど、玉置浩二のスタンバイでなんかトラブルあったのかな?
「田園」だからベートーベンの「田園」をモチーフにしてるのか。Superflyのときも思ったけどオーケストラアレンジもいつになく拘ってたよな。
良くも悪くも星野源と対照的なパフォーマンス。星野源が月なら福山雅治は太陽みたいな人。僕みたいな日影者はなんか感覚が合わないな。嫌いじゃないけど。
まだ13回しか出てないのなんか意外だわ。
今剛は一瞬しか映らなくてもすぐわかるな。今剛とJマスシスぐらいだろそんなの。
MISIAは鼻腔共鳴が半端なさすぎてたまに何言ってるのかわからないときがある。でもそんなこと気にならないほど歌が上手いからなんとかなってる、圧巻。
サブちゃんの「今の若者は世界を歌ってる」っつうのは的確なコメントだったと思う。ただコメント全体的に長かった。
ジャニーズ多かった。2枠をJO1とDISH//に譲るべきだ。
優勝旗ってどこに保管されてるんだろうね。
音楽は聴いたときの体調とか周囲の環境とかでまったく印象が変わってしまうことがある
同じ曲を毎日聴くとしても、あれ?こんなに速かったっけ?と思うこともあれば、なんか遅すぎないか?と思うこともある
コンサートなどでメンバーに同じ拍子が電子音で聴こえる耳に装着する機器、クリッカーと呼んだりもした気がする、があるが、
あれがないとドラムやベースから加速していってしまうことがある
思うにずっと弾いていると色々と音の感覚が麻痺してくるというのもあるし、心拍数が上がるからでもあるんだろう
だから、最初から弾いていってアクセルが入って速くなっていくのは違和感がなくて問題がないが、
途中参加で演奏する人からすれば、こいつらなんでこんなに速いんだ?みたいに思うこととかあるのではないだろうか
商業音楽だろうがクラッシックだろうが何だろうが、すべての音楽の原点は原始人が炎の周りで踊るようなものだったはずである
それは基本的に太鼓がベースであり、音階はないがリズムがあり、規則性があった
規則性はリズムだけでなく音階にも当てはめられ、それが数学と音楽の関係に結びついた
しかし、なぜこの周波数の音が気持ちが良く、なぜ不協和音が不快なのか、
一方で半音ずれたことによる不快な和音が気持ち良く感じる人がいる、もしくはディミニッシュパッシングだっただろうか、
音が上昇、下降するときに半音で移動するというのは非常に心地よく感じられる、ことがある
これはベース音が単音であれば単なる半音であるが、コードとしての当てはめ方はいくつかあると思う
それがいわゆる5度進行であったり、ディミニッシュコードで補間するというものである
このディミニッシュコードは単体では深いな音に属するように思われるが、安定したコードの間に挟むと美しくさえ感じるのである
ある局所的なエネルギー最小値から別の最小値、凹みから凹みへ移動するには山を越えなければならない
音によって感情が作り出されることがある
逆にそのときの感情によって音に対する感想が大きく変わるのである
そういう点から考えるならば、職場に最適な音、音楽、食事中に最適な音楽、
フィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の…」のムードオルガンではないが、望ましい感情を音楽から作ることもある程度は可能であろう
レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスは外せない
あとブルー・オイスター・カルトとか
何をレトロなことを、と思うかもしれないが、
メタルの音楽的なルーツ、音楽理論的にもルーツなのは上の3つのバンドだと思う
(ロックとはなんぞや?みたいな音楽理論ネタはNHKの坂本竜一のスコラは本当に良かったと思う
話がズレるが、
メタルにおいて特にディープ・パープルのリッチー・ブラックモアやジョン・ロードの影響は大きかったのではないだろうか
いわゆるクラシカルフレーズとかそういう技巧的なものをロックに持ち込んだ
リッチーのギターは今からすると誰でも弾けるレベルになってしまったと思うが、
その発展形がイングヴェイ・マルムスティーンなどになる、
リッチー本人は結婚した奥さんの影響でジプシー音楽みたいなのに行っちゃったけどw
ブラック・サバスもとにかく5弦、6弦、パワーコード弾いとけば暗くてメタルっぽくなる、
みたいなノリはメタリカにも通じるように思う
とにかくアンチクライストっぽい歌詞を書いて、5弦6弦うだうだやって、半音全音下げチューニングしてれば、
寧ろ、あれは体力の問題だと思ってるw
いつもドラムが大変そうだよなあと思いながら眺めてたりする
というか、
甲本ヒロト氏が「今の人は歌詞を聞きすぎる」とか言ってたみたいだけど、
アンチクライストの歌詞だから聴く、という人はあんまりいないんじゃないの?
いや、まあ、いるかもしれないけど…
それより自分はメロディーというか楽曲自体の方が重要であって、
十字架のキリストを逆さにしようが、ご飯を床にぶちまけようが、だからこの曲が好き、
あと、メガデスの歌詞とかもアンチクライストっぽいものがあったりするけど、
大佐は癌?になったんだったかでクリスチャンになったんではなかったかな
クリスチャンに改宗したみたいなことを何かで言ってたのは覚えてる
筋弛緩剤で全身麻酔して生還すると何か宗教的な感覚に目覚めるよなwと思ったり
あと、これも書いとくか
たしかにブルースやロックンロールがハードロック、ヘビーメタル、パンクロックなどに発展して、
メタルの中にはアンチクライスト、アンチモラルな歌詞を含むイメージがあったと思う
アンチクライストといえば自分としてはまずブラック・サバスやブルー・オイスター・カルトが頭に浮かぶ
そこから派生して現在のブラックロックというか、デスやゴシックなどがあると思ってる
ブラック・サバスみたいな直球ネタは流石にダサく感じる気がする
ランディー・ローズ、ザック・ワイルドなどのギタリストも育て活躍しているわけだけど、
オジーだってアンチクライストを先鋭化してったわけじゃないし…
うーん、やっぱり今どきアンチクライスト直球ネタはないわー、と思ってしまう
歌詞にするにしても何か捻りがほしいと思う
瑛人「香水」はコード進行もメロも単調で工夫もクソもない、という批判に対する反応など https://togetter.com/li/1580838
YOASOBI『夜に駆ける』のラスサビはなぜこんなにエモいのか?曲の原型を予測しつつ「驚きポイント」が生まれた理由を考察
https://togetter.com/li/1590396
コード進行で言えば王道進行の繰り返しの域を出ていないのはどちらも同じなのに、転調が2回入ってるだけでこうも扱いが違うことを世のミュージシャンたちは肝に命じなければいけない。
瑛人おまえも転調しとくべきだった。ブレイク挟んで雑に調変えるだけでも驚きポイント言ってもらえるんだから。
あっギターの弾き語りだと半音の上げ下げはめんどいか。でもコードワーク変えて1音とか上げるのはできるし、そしたらまとめのコメ欄でめったにないと勘違いしてもらえるぐらいにはもてはやされる。
https://anond.hatelabo.jp/20150214223556
( ・3・) クラシック好きの上司がジャズを聴きたいと言いだして、から数か月後――
その朝、彼が職場に着くと、クラシック好きの上司は目を閉じて見えないオーケストラの指揮をしていた。腕の動きが激しさを増し、握った拳が垂直に振り下ろされる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11。
「なんだ、来ていたのか」と上司は目を開いて言った。「春の祭典の第二部なんだが、どうにも縦の線が揃わなくてな。リハーサル不足だ」
「高度に発達した空想は現実と見分けがつかないくらい不自由なものだ。ティンパニ奏者とシンバル奏者はもう何年も口をきいていない。――それはそれとして、ボブの件、明日の日曜はどうだ?」
ボブというのは、ボブ・ディランのことだった。上司の娘さんが英語の授業で「はげしい雨が降る」を習ってきたらしく、それ以来、上司は彼にディランについてのレクチャーを要請しているのだった。彼が娘さんに教えるのではなく、彼が上司に教え、上司が娘さんに教える。ディランのことならパパに任せなさい、と目論んでいるのは明らかだった。
明日。彼は断ろうとしたが、適当な口実が見つからなかった。高齢の親戚はひと通り殺してしまっていたし、このあいだ死んだ祖父にもう一度死んでもらうには、まだ少し時間が必要だった。
「じゃあ、決まりだな」
こうして、彼は休日をつぶして上司の家を訪ねることになった。どの作品を題材にするべきか迷ったが、一日でディランのキャリアを追いかけるのは無理だと割り切って、彼自身がディランを聴き始めた高校生のころに感銘を受けたものを選ぶことにした。『ブラッド・オン・ザ・トラックス』だ。このなかの数曲を検討するだけでも、一日まるごとかかってしまうだろう。たくさんのアルバムを持っていかずに済むのが救いといえば救いだった。
最寄駅に着くと、もう上司は車で迎えに来ていた。大きな声で名前を呼ぶので、きまりの悪い思いをしたのをわたしはよく覚えている。車に乗り、しばらく走ると、左手に惣菜とパンの店が見えてきた。看板にはアルファベットで DELI BAKERY と書かれていた。
「デレク・ベイリーのCD、今日こそは返していただきます」と彼は言った。
「そんなことを気にしていたのか」と上司は笑った。「大丈夫。おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう」
おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう。それはまるでデルポイの神託のように聞こえた。彼は運命のうねりが身に迫ってくるのを感じた。しかし、現実は物語とは違う。成就しない予言。読まれない遺書。途切れる伏線。それが現実だ。
「デレク・ベイリーというのは、あのヴェーベルン風のギタリストだな?」
「そうです」
「あれをかけると、猫たちが爪とぎを始めるんだ。何か感じるものがあるのかもしれないな」
「猫たち、とはどういう意味ですか?」
「猫たち、とは」と上司は言い、長めのフェルマータを置いた。「猫の複数形だな」
「また拾ってきたんですか?」
「いや、拾っていない。拾ったのはちーちゃんだけだ」
「猫の方から入ってきた?」
「いや、入っていないし、出してもいない」
「じゃあどうして増えるんですか?」
「さて、どうしてでしょう」
「ちーちゃん、ベルリオーズ、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、お客様にご挨拶だ」と上司は居間の扉を開けて言った。居間には母猫のちーちゃんと、三匹の子猫たちがいた。上司が公園で拾ったとき、ちーちゃんはすでに出産を間近に控えていたのだ。
「里子に出すまでの幼名だよ。正式な名前は里親がつければいい」
猫たちは来客には関心がないようで、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフに背後から跳びかかり、ベルリオーズは伏せの姿勢でおしりを振りながら取っ組み合いに加わる間合いを計っていた。
「みんな元気だな。よし、そっちに掛けてくれ。いまコーヒーを淹れてくる」
( ・3・) まずはバイオグラフィからだな。ボブの経歴をざっとまとめてくれ。
――いえ、それをやっていると時間がなくなるので、今日は『ブラッド・オン・ザ・トラックス』というアルバムだけを聴きます。
( ・3・) それにしたって、そのアルバムの位置づけくらいは踏まえないと。
――では、Rate Your Music のページを見てください。
https://rateyourmusic.com/artist/bob-dylan
――アルバムが発表順に並んでいますね。デビューしてまもなく、1963年に最初のピークが訪れます。このころのディランがお手本にしていたのはウディ・ガスリーで、ギター、ハーモニカ、歌というフォークのスタイルで世に出ました。
( ・3・) 「はげしい風が吹く」か。
――「はげしい雨が降る」と「風に吹かれて」です。ディランは1941年生まれなので、22歳前には代表作を発表していたことになります。
――1965年から66年にかけて、二回目の、そして最大のピークが訪れます。演奏はフォークからロックへ変わり、詩の内容も変わります。
( ・3・) どう変わるんだ。
――初期の詩は、一言でいえば真面目で、真面目な人たちに支持されるものでした。そこに、散文的な感覚では理解できない要素が入ってきます。「イッツ・オールライト・マ」「デソレイション・ロウ」「ジョハンナのヴィジョン」といった大作が次々に書かれるのがこの時期です。
( ・3・) 理解できない要素というのは?
Inside the museums, Infinity goes up on trial
Voices echo this is what salvation must be like after a while
( ・3・) 「ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に倚りかゝりて如何に滑かなる没食子が戯れるかを見よ!」
――どうしました?
( ・3・) 西脇順三郎だよ。よく分からない詩には、よく分からない詩で対抗だ。
――なぜ対抗しなくてはいけないんですか?
( ・3・) ただなんとなく。
――はい。続けますが、1960年代後半は、ロックが急成長する時代です。しかし、ディラン自身は、その運動の先頭に立とうとはしません。1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』は、カントリーのアルバムでした。
( ・3・) 帽子に手を添えてにっこり。
――捉えどころのない人である、というディランのイメージは、このころにはできあがっていたと思います。そして、三回目のピークが訪れるのは、1975年。
( ・3・) 33歳。――それだけ?
――伝記的な情報はいろいろあるのですが――というか、常に伝記を参照しながら語られる作品なのですが――今回は知らないふりをします。「この女性は誰々がモデルだから」といったアプローチはとりません。捉えどころのない人、謎めいたよそ者であることを行動原理にしている人が、久しぶりに本気を出したらしい、くらいで結構です。
( ・3・) そう、じゃあ聴いてみようか。1曲目は――
――1曲目は後にして、2曲目から始めましょう。「シンプル・トゥイスト・オブ・フェイト」。「運命のひとひねり」という邦題がついています。
( ・3・) なんで? 有名な曲なの?
――ほかの曲より易しめだからです。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、おそらく50位以内には入ると思いますが。
https://www.bobdylan.com/songs/simple-twist-fate/
She looked at him and he felt a spark tingle to his bones
――ディランの歌詞は本人のサイトで公開されているので、それに基づいて進めていきましょう。では最初のスタンザから、どうぞ。
( ・3・) 訳すの? 俺が?
――訳ではなくてもいいので、どういうことが歌われているのかを説明してください。
( ・3・) 夕暮れの公園に男と女がいた。女に見つめられると、男は体の芯に火花が走るのを感じた。彼が孤独を感じたのはそのときだった。彼は思った。まっすぐに歩いていればよかった、運命のひとひねりに気をつけていればよかったと。
( ・3・) そうだな。恋人たちがいい雰囲気になっているのかと思いきや、なんだか雲行きが怪しい。急に孤独を感じちゃったりして。
( ・3・) そうなの? で、まっすぐに歩いていればよかった、というのは比喩的な表現だな?
――もちろん。
( ・3・) われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き公園のなかにありき――
――?
( ・3・) ともかく、この男はあるべき道を見失って、運命の力が自分に働きかけているのを感じているわけだ。でも運命って、注意していれば回避できるものなんだろうか?
――次のスタンザに進む前に、脚韻の形式を見ておきます。2小節ごとに改行を加えると、以下のようになります。
She looked at him and he felt a spark
( ・3・) 1行目・2行目・3行目の park, dark, spark で韻を踏んでいるな。4行目・5行目の bone(s), alone もそうだ。それから6行目・7行目の straight, fate も。
https://twitter.com/kedardo/status/1241415360672219137
――ついでにコード進行も確認しておきます。これは実際に鳴っている音ではなく、説明のために簡略化したコードです。元のキーはEですが、ここではCに移調しています。 [1]
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
――まずは1小節目から8小節目まで。何か気づいた点はありますか?
( ・3・) 見たままじゃないか。ド、シ、シ♭と半音ずつ下がっていって、ラに落ち着く。
――はい。ラはサブドミナントのコードであるFの構成音です。しかし、まだラは終点ではありません。
( ・3・) 半音下降は続くよどこまでも。
( ・3・) Fの構成音は「ファ・ラ・ド」で、Fmの構成音は「ファ・ラ♭・ド」だ。長三度のラが短三度のラ♭になる。なんだか言うまでもないことを言わされているようだが、どこに誘導しようとしているんだ?
――ラからラ♭へ半音下がることによって、コードに影がさします。その箇所ではどんなことが歌われていますか?
――はい。彼が孤独を感じるのは、サブドミナントのコードがメジャーからマイナーに変化するときなんです。
( ・3・) ああ、それが言いたかったのか。つまり、コード進行と歌詞の内容とが結びついている、と。
――そうです。それから、もう一点。この曲は、コードが頻繁に変わる曲でしょうか。それとも、あまり変わらない曲でしょうか。
( ・3・) また誘導が始まった。1小節目から10小節目までは、2小節ごとにコードが変わる。C7からFへの進行を除けば、コードの構成音のうちのひとつが半音下がるだけだし、曲のテンポもゆっくりだし、あまり変わらないんじゃないか?
――はい。11小節目から12小節目、"and wished that he'd gone straight" と歌われるところはどうでしょう。
( ・3・) ここは2拍ごとにコードが変わる。あまり動かなかったコードが動きだす感じだな。
――"and wished that he'd gone straight" の "straight" は、この曲の旋律で最も高く、長く、強く歌われるところです。コードの動きと旋律との関係を見ると、11小節目に助走が始まって、12小節目の頭で大きくジャンプするようにできています。
( ・3・) ……ハーモニック・リズムと言えば済む話じゃないのか?
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
( ・3・) はっさく食べる?
相対音感 ある音の高さを他の音との関係において識別する能力。
ヒトには音の高さを感じる能力があります。内耳の蝸牛に聴覚細胞が並んでいて、周波数によって興奮して信号を発する部位が違っています。これが脳の聴覚野で処理されて音の高さとして認識される。
長さに例えると長短は比較できますが「ものさし」がありません。何㎝と分かるには、単位を決めて物差しを作らないといけません。作成したものさしを基準点に合わせて長さを測ります。
音の高さはラ=440Hzの基準を決めます。周波数が2倍の880Hzの音を人間は「同じ音」に感じます。この音程・音の高さの間隔を1オクターブといいます。合成された波形の周期が元の周期と一致します。音の高さには「トーンハイト」と「トーンクロマ」という2つの考え方があり、トーンハイトがオクターブ単位で違う音はトーンクロマが同じと感じられます。
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周波数が2:3の音程は美しく響き合うと感じられます。合成された波形が単純な繰り返しになります。音楽ではこの音程を完全五度と名付けています。
2:3の関係で音の高さを決め、1オクターブの範囲を超えたら周波数を半分にして折り返します。こうしてできる12音の音列を半音階といいます。この方法をピタゴラス音律と呼びます。ピタゴラス音律では13音目が最初のラと「ほぼ同じ」なのですが、このために和音の響きが濁ります。不快な「うなり」が発生します。この音程の誤差をピタゴラスコンマと呼びます。
これを補正するために、様々な音律・半音階の周波数比が考案されてきました。ピタゴラスコンマを分散させています。
ピタゴラスコンマを均等に割り振ったのが平均律。きんとうに和声が濁ります。
ラ=440Hz と 平均律の音程 を 覚えて、半音階上の位置を判定します。これが相対音感。ラの周波数は可変です。半音階の音高に「音名」をつけます。が、ドレミファソラシは7音・全音階に命名されていて、半音階は♯♭をつけて表されます。
絶対音感は訓練によって、半音階の音の高さを記憶して、絶対的なものさしとして使います。記憶には短期間で忘却する短期記憶と長期間保持し続けることのできる長期記憶があります。短期記憶を繰り返すことで、長期記憶として定着すると考えられています。絶対音感・音の高さの長期記憶は、幼児期でないとできないとされています。脳の発達により能力が失われる。相対的な音の高さを思考できるようになると、単純な記憶をする訓練が妨げられる。諸説あります。
色覚はたくさんの色を認識することができます。これは光の周波数・波長を感じています。日本の文化では、赤橙黄緑青藍紫が波長の順に命名されています。
絶対色覚……という用語はありません。緑と青の間にも無数の色があり、これを明確に区別することができないから。
絶対音感は、ドレミファソラシの周波数を固定的に記憶しています。
ドとド♯の間の音は「わからない」 精度が低ければ近い方に誤認します。ドに近い・ド♯に近いと分かるために、相対音感で補間をします。
赤~紫の光は、赤・緑・青の3つの合成で作ることができます。0~256の強さで表すと256*256*256の色を表現できます。
音には1秒間の振動数で表すHzという単位の他に、音楽では1オクターブを1200分割して1セントとする単位があります。
可視光を7分割するのは、日本の文化。文化によって色名の数は異なります。
絶対音感があると、音がすべて「ドレミに聞こえる」という誤解があります。音感があると音の高さが「ドレミで分かる」だけです。もし「ドレミファソラシ~♪」という音声が聞こえていたら、それは脳が作り出したもの。生活に支障があるならばそれは「幻聴」という病気。
絶対音感で記憶している半音階に拘りがありすぎると、強迫性障害を発症します。長さが1cm刻みぴったりでないと許せないと言い出したら病気ですね。
人には聴覚から入ってくる情報を取捨選択して無視できる能力が備わっています。これを「カクテルパーティー効果」といいます。言語の音声を多数同時に処理できるほうが稀な能力ですし。雑踏の話し声がすべて頭に流れ込んでくるとか、どこからか話し声が聞こえてくるとか言い出したら病院へ
音感があっても複数のパートを同時に処理し記憶することは容易ではありません。そのような優れた音感・記憶力は「絶対音感」と誤解されていますが、音感の種類である絶対・相対とは関係ありません。