はてなキーワード: 観念とは
窃盗罪にいう窃盗とは、窃取するという意味と観念されており、判例で、窃取とは、様々な意味が言われているが、権利者の意思を排除して物をその経済的用法に従い利用処分する意思
など色々言われている。自動車を4時間乗り回した事案について、自動車を4時間乗り回せばそのガソリンなどが減るから、事例判断として、上記の意思があったと認定される。
逆に自転車はいくら乗り回しても経済的に利用処分するものがない、つまり、安物なので、何も減らない、しかも、犯人に後日返す意思があれば、不法領得の意思が否定される方向に動く。
不法領得の意思は、窃盗罪に対する刑法38条の故意との間に生まれた概念で、この意思がないときは俗に、使用窃盗と呼ばれる。使用窃盗というように窃盗という名前がついているが
使用窃盗はそもそも窃盗罪にいう窃盗に当たらないのか、それとも故意が阻却されるのか、どちらの結果として犯罪にならないのかは判然としない。
判例では自転車について、3~4時間乗り回した事案を無罪としている古い判例があるが、最近の警官はバカなので昔出た判例の文字面をそのまま適用しているので、3~4時間なら
「AI絵はSkebと違って自分の思い通りに出力できてサイコ~」という言説を見た。
その通りだと思う。自分はクリエイターとしてもクライアントとしてもSkebを利用している人間だが、Skebはあまりにもクリエイター側の条件がよすぎる。
クリエイターとして利用するときは、こちらが有利すぎて申し訳なくなる。逆にクライアントとして利用するときはカスみたいなクオリティで納品してくるクリエイターにムカつくことが無限にある。
それと同時に、「クライアントよ、もっとリクエスト文は考えてくれ」と思う事もたくさんある。
絵のリクエストを送るノウハウなんてものが一切存在しないところに問題があると思う。もっとリクエストのコツみたいなのを共有したいが、Twitterでそんなことを言えばぶっ叩かれるので、こういうところにひっそりと投稿するしかない。
・質を要求するな
「〇〇と△△がセックスする絵を描いてください」というのがリクエストであって、「上手な絵を描いてください」と要求する奴はいない。
それなのに、「細かく描きこんでください」「たくさん描いてください」みたいなリクエストがしばしば来る。それはお前ごときが決められることではない。絵師様が値段を見て「ほんほん、この程度のカネならこんなもんでええわw」とお決めになることだ。
結局のところ、絵師様の機嫌を損ねないのが一番大事なのだ。キショいが、Skebはそういうサービスなので仕方ない。
「どうせ金払ってリクエストするなら、描いてほしいものを余すことなく書き連ねよう」という意図が見受けられるリクエスト文がたくさん来るが、基本的に逆効果だと思う。画面の向こうにいる人間はAIではなく精神が未熟な赤ちゃんであることを見落としている。
「1000円でこんな複雑なシチュ描いてください差分は〇枚描いてうんぬんかんぬん」みたいなリクエストが来れば、当たり前だがやる気がなくなる。
これでリクエストを辞退するクリエイターはだいぶ優しい。私は意図的にクオリティを下げて納品してしまうことがしばしばある。悪気があるわけではないが、描いてるうちに、ナメた依頼を受けたことを後悔し、ムカついてくるのだ。我ながら泣きたくなるほど幼稚だが、絵師は全員幼稚なので観念しろ。
かといって、「五億円で落書き一枚描いてください」とリクエストしても、落書きが一枚出力されるだけだ。安いとケチるくせに高くてもサービスはしてくれないものなのだ。
ではどうすればいいのかと言うと、
描く側としては、案をいくつか用意してもらって、その中から描きたいと思ったものを描く、という形式がいちばんやりやすい。
「この値段で以下に挙げるものを描けるだけ描いてください」というような具合だ。
それでも、カスみたいな納品物が来るときは来る。そのときは泣きながら「こいつには一生リクエストせんわ」と思う事しかできない。
自分は15年くらい前にレーシックの手術をしてメガネが不要になり、その後の見え方も順調ではあったけれど徐々に視力が落ちてきた。
手術前は世界の全てがぼやけていたので現在のほうが全然マシではあるのだけれど、左右ガチャ目になってスマホの文字の焦点が合わず読みづらくなった。
年齢的に老眼だと言われるかと思ったら、左が乱視で右が近視だった。
仮レンズを通して見る世界はかなりはっきりしていたので、あーやっぱりこんなに視力が悪くなってたのか……と実感した。
個人経営の専門店だったので客も少な目で、レンズもフレームも時間をかけて調整してくれたのでめっちゃ満足した。
久々のメガネだけどかけるのが楽しみだ。
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
法律とは何か? 立法者(官僚若しくは国会議員)が発見して構成した技術的なもの
道徳と何が違うのか? 道徳は、人道上、~してはいけないと言ったような小学校で習うようなことであるが、法律は、国家をしばるものであり、近代憲法は、たまたま個人の尊厳を
最大原理としたために道徳的になっているだけで、様々な理論が制定技術があり、さらに法解釈もあり、難しい。
→ 道徳なら小学生でも理解できるが、 法律をやるのにわざわざ法学部を出る必要性 → 法律は近代的技術だから、 現代国語、世界史、文系数学をこなすだけの知力がなければ
できない。
法律解釈上の原理原則とは何か? 結局は、公正公平、法的安定性、必要性合理性などの当たり前のこと。
アメリカ憲法にはなぜ刑法があるのか? 古代法から同じようなものはあるが結局必要だから。 古代法の例 盟神探湯(くかたち)、 かまゆでの刑
自転車の一時無断使用とは何か? 自分の自転車が壊れて修理するまでの間に借りるだけで修理が終わったら返還するつもりのこと。
警察や司法機関がどのように判断しようと、本人にそのつもりがある以上、返却期日がどんなに遅くなっても、不法領得の意思が存しなかったら使用窃盗である
本件ではなぜ被疑者は無施錠の自転車を品定めしてそれに乗って帰ったのか?
自分の自転車が脱輪したのでそれが治るまでの間に借りるため → 借りるとは何か? 民法上の賃貸借と同じ。
あくまで借りていると思っているため、刑法の規定する、 財物を摂取した、という文言から除外される (判例通説)
警察官の職務質問に対し、 借りているだけだ、と言われたら、警官側は、使用窃盗と観念する。 その際、警官側は、使用窃盗は犯罪にならないと説明しなければいけない
本件で、猪股辰之がとった行動。 被疑者の腕をつかみ有形力で任意同行。被疑者が放せと言っても離さなかった。 取り調べ調書における記載
逮捕の有無 無 窃盗 取り調べ内容 間違っているため読み上げる価値なし。
使用窃盗を観念する必要性 ・・・ 大学生が教室で横にある他人のペンを借りて使用しすぐに戻した場合
不法領得の意思 ・・・ 権利者の意思を排除して物を経済的用法に従い利用処分する意思
上の例でいうと結局、ペンを自分のものにしてしまう。返還のつもりは一切ない。
自転車が壊れたので修理の期間だけ借りて合理的期間内(三日以内)には戻すつもりであった場合 ・・・ 全体としてみれば結局使用窃盗である
本件の特殊性 ・・・ 犯人は当日に返しに行くつもりだったので不法領得の意思が認められない。また自分の直った自転車があるため不法領得をする必要性がない。
10年間統合失調症にり患 担当医師が統合失調症ではないと思っていても、統合失調症である。
任意同行時点で警察官が使用窃盗であると思ったにもかかわらず任意同行し、夜間2時30分~4時まで取り調べ、写真撮影、指紋採取をし、4時30分に犬現場検証に同行させ、
信長は革命者ではなかったというのは、歴史の見方によるところが大きい。
しかし、近年の研究では、信長の政策は中世社会の延長線上にあり、革新性は低いという見方が主流である 。
信長は、自らの権力を強化するために、室町幕府や寺社勢力と対立したが、それは中世的な権力闘争の一環であり、社会制度や思想に対する批判や改革を行ったわけではない。
また、信長が推進した「天下布武」や「天下統一」も、中世的な観念に基づくものである。
信長は、「天下」(五畿内)を支配することを目指したが、「日本国」全体を統一することを考えていなかった。
信長は、「天皇」や「将軍」という中世的な権威に依拠しようとしたが、「国王」や「皇帝」という近代的な権威を自ら名乗ろうとしなかった 。
https://twitter.com/lunuladiary/status/1650760975887503361
「息子ってヤツは」には、学校の情報(○○地方の○○○○○(宗教)系中高一貫校は一校のみです)も、息子さんのお名前も書かれていますけど、書いたのは「ツイフェミ」ではなく室井佑月さんご本人ですよ。
「おまえ、坊主になれ」 「は?嫌だよ」
「嫌だからする意味があるんだろ。反省した男は坊主頭になるんだよ」 息子は逃げ出した。
しかし、捕まえて延々と説得し、翌朝また散髪屋に連れていった。 今度は息子は観念したようで、大人しく坊主頭になった。 それから家に帰り、反省のポーズを教えた。椅子に座り、手は拳にして膝の上、頭は下げたまま。 そして、「二度とやりません」と何度も復唱させた。 今月末にある期末試験までは、小遣い停止。休日も遊びにいかず、独りで勉強することを約束させた。
さすが子宮破壊のバッキーと深いかかわりのある室井佑月さんだ。教育も一味違う。
米山なんとかしてやれよ。
興味を持ってくれてありがとう。
私が考える「つまる人生」すなわち面白い人生とは、一言で言えば内発的な動機と偶然性に彩られたものです。
内発的な動機とは何か。
人はそれぞれ違った関心や性質を持っています。度肝を抜かれるほどの変人や天才はほんの一握りだけれど、それでも誰もがそれなりにはユニークです。
大勢の人と社交するのが楽しい人がいれば、独りで黙々とこなすのが好きな人もいる。競争や勝負に燃える人がいれば、それらに興味のない人もいる。絵を描かずにはいられない人、気がつけば星空を見上げている人、なぜか魚類に深く心を寄せる人。
そのような、その人だからこそ持っているものを突き詰めたり、大いに発露している様をとても興味深く感じるのです。
たとえそのような生き方が、世間的に評価されず、まったく金銭的な価値を生み出さず、場合によっては呆れられたり白い眼で見られるものであったとしても。
なぜ登るのかという問いに「そこに山があるから」(正確には「そこにエベレストがあるから」であるようですが)と答えた登山家の話はあまりに有名ですが、内発的動機というのはまさにこれです。
私は登山どころかアウトドアに全く親しみがありませんが、彼が見事に言い表しているように「ただ、そうしたいからそうする」という生き方に心を打たれるのです。
もう一つ、偶然性とは何か。
人がそれぞれ違っているように、一人の人生の中で起こる出来事も様々です。何が起こるかを予測することはできません。
この時代に日本に生を享けたという出生の偶然性に始まり、実に様々な偶然性に晒されながら人生は進行していきます。そういう偶然性の一片に、人生全体を方向付けるものがあったりするものです。
重い病気に罹った自分や家族を治療してくれた人への感謝と畏敬の念から、医療の道を志すとか。ある芸術作品に衝撃を受けて、創作や研究活動にのめり込むとか。
もし、それに出遭っていなければそうはならなかったかもしれない、でもなぜかその出来事が起こって現にこうなっているという面白さ。似たような経験した人は他にもいるはずなのに、その人にとってはそれが決定的に働いて今があるという不思議さ。
偶然性そのものは何でも良いのですが、偶々起った出来事とか人や物との出会いによって人生が動かれていくというのが、また人生の妙味だと思うのです。
こうやって考えていくと、内発的動機も偶然性の一つと言って良いのかもしれません。
(なぜか分からないけれど、それをしたい。そういう性質に生まれた、あるいはそういう経験をしたという偶然性。)
「激レアさんを連れてきた。」という番組がありますが、そこに登場する人にはそのような面白さを感じることが多いです。(たまたま何度か見たことがある程度で、特に熱心に見ているわけではないですが)
そんなにレアではなく、経歴や属性だけ聞くと凡庸に思えても、内発的な動機に突き動かされて、そして不思議な縁に引っ張られて生きていれば、それはとても面白いものです。
なので、元増田の人生もつまらないものでは全くなく、とても面白いのかもしれません。普通の家庭を持ったサラリーマンとしての側面しか記述されていませんが、その仕事は(なんらかのきっかけで深い関心を寄せて)人生を捧げるようなライフワークとして取り組んでいるかもしれないし、あるいは賃労働とは別の社会貢献活動に情熱を注いだり、何らかの創作に精力を傾けているのかもしれません。
ただ、大多数のレールとしてある学歴を重ね、就職するものだからという常識で就職して、結婚した方がいいという観念で結婚して、子どもを産み育てるべきだという規範でそうする・・・そういう既定路線・予定調和的なものを逸脱するものを見出したいという思いがあります。
常識を逸脱するもの・普通を横溢するものを、(程度の差こそあれ本当は誰しも持っている・出遭っているはずなのに)無いことにした生き方を「つまらない」と思うのです。
そういうわけで、私は、ライフプランとか人生設計とかいう考え方が嫌いです。
何歳ごろに結婚して、何歳までに子供を何人産んで、それから家を建てて、教育費がこのくらいで、老後の生活費がこのくらいかかるから、貯金がこのくらい必要で・・・とか、そういうやつです。
(「一流のプレイヤーになる」とか「自分の店を持つ」とかの目標を持つことは良いと思いますが(持たなくても良いと思いますが)、それは志とか野心とか呼ぶべきもので所謂ライフプランとは別です)
中等教育くらいまではこの社会を生きていく前提としてレールの上を歩くということで良い(そうでなくても良い)と思いますが、そこから先は偶然性の織りなす世界で自分の心の赴くように生きるものだと思っています。
人生で何が起こるのかなど分からないし(極端に言えば明日死ぬかもしれない)、自分の考え方だって変わります。貯金とか保険とかある程度の備えは必要と思います(生き方によってはそれすら無くても良いけど)が、結局その場その時で決めていくしかないし、その方がきっと面白いはずです。
プランなど立てるのは偶然性を塗りつぶす所業であって、人生の醍醐味を毀損するものとしか思えないのです。
最後に「つまる」人生ということで、私が大好きな映画を紹介しておきます。
デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画です。
もちろんフィクションなのであまりにドラマチックなのですが、この作品には人が生きるということの面白さ(内発的動機と偶然性)が詰まっていると思うのです。
この映画の中で何度か主人公が口にするセリフ(それがこの作品のテーマでもあります)が、「人生、何が起こるかわからない(You never know what’s coming for you.)」です。
未見でしたらぜひご覧ください。
ITの情シスの仕事で自分が以前からずっとやりたかった仕事だし、大手企業で、給料も(以前と比較して)良いのだけど、耐えられなくなってきた。
精神的に締め上げる言い方、怒鳴りつけ、大勢が見ている前でミス(と上司が思ったもの)の叱責・晒し上げ。上司が全員そんな連中。現在いる情シスは他部署でも有名な強面揃いの部署。僕が入る前にいたプロパーは、現在いる役職者以外は全員退職している。上司曰く「前の部長についていけず退職した」らしいが、他部署・労働組合に寄せられた意見では、そうではない。現在いる役職者との人間関係で辞めているらしい。正直、間近で見たら分かる。毎日隣にいる人に罵声、怒鳴りつけ、精神を締め上げるキツい言い方を連日されたら、誰でも病む。
相談したこともある。「言い方がキツくてしんどい」と。答えは「そんな人はどこにでもいる。言い返せるかどうかだ。心が強くないと病む」と。では、今まで何人もの退職者を生み企業のITシステムを担う情シスを崩壊させるまでに至ったのは、全て退職者が原因だったと言うのか。スパルタの兵士並に戦えなければ認めない、と言ってるようなもので。そりゃあ、部署も崩壊するわな、と思った。
そんな部署は変化の兆しがない。360度評価や1 on 1 meetingを最近始めたので、改善する傾向はあるらしいが、現状は全然改善されていない。
話は少し飛ぶ。
大学卒業間近の時、就職できる自信がなく何となく大学院へ進んだ。プログラムで何か作ったり調べるのは超好きだったので、情報系は性にはあった(と思っている)。ただ、2年はあっという間で博士に行く気もなく(ポスドクとか見てたらしんどさしか感じない)、就職する道を嫌々選んだ。大手メーカー系のSIer、技術職に。
転職は2回したが(経験3社)、最初のSIerは本当に合わなかった。体育会系で、荒っぽい人間が多く、新人に対して「できる・できない、どっち」と高圧的に詰めていき、サービス残業、長時間労働、メンタル休職は普通の職場だった。結局7年在籍したが、僕が退職した時点で2/3の同期が退職していた。給料も安かったな。今のところに比べると100万くらい。
結局、最後にいた部署の上司と相当ソリが合わず、夜中21時に仕事を振られて23時まで仕事とか普通だったので、メンタルを病み、辞める。がむしゃらに深夜まで働かない部下は嫌いだったらしく、僕はそうじゃないから目をつけていたらしい。その上司は役員から「部下には愛情をもって接するように」と直々に指導されていたのだが、結局行動を改めることはなかった。体育会系っぽく言うことを聞かない部下には、相当厳しい上司だった。言い返したこともあるが、数倍ケチョンケションに言われ、病み、その後休職6ヶ月、次は決めずに辞めた。余裕全くなかったから。
離職後、1年ほど無職。何もかもが嫌になった。無職だが、福祉系の専門学校の通信課程に在籍していた。なぜ福祉? 人と接する仕事というか人間的な仕事が、次はそんな仕事がいいなと思っていたから。あと、通信制大学の経済学部にも在籍してた。正直、楽しくて、ストレスのない時間だった。スクーリングが超楽しかった。学友との交流があって。無職という不安はあったけど。だけど、いつか死ぬという観念はいつも頭のなかにあった。大学生の頃からずっとあったけど。自分はいつだって、一人で生きていける自信がない。高校生の時も、今だって。
2社目。福祉を所管する某省庁傘下の団体の情シス部門。ハローワークで見つけたような。ヘルプデスク、運用・保守。任期付職員だったけど、介護が必要な親の側にいたかったし、仕事の負担を減らしたかったから、それでよいと思っていた。公的機関なら無理強いされないという気もしたし。それに、情シスの仕事はずっとやりたいと思ってたから、願ったり叶ったりで、最初は嬉しくて2年ほどは本当に仕事が楽しかった。納期はあまり気にしなくていいし(善し悪しはあるが)、現場に振り回されはするけど、精神を追い詰められることはなかった。最初はな。
だけど、給料の割には仕事は詰込みだし、最初から決められた役割以上のことはできないから仕事はずっと同じことの繰り返しで。管理職は基本的に天下りなので、昇進は見込めない。公的機関の割にはパワハラが普通だったので、将来性がないと判断し、転職した。3年くらいいたか。
3社目。今。製造業。東証スタンダード。転職エージェント経由で、すんなり決まる。決め手は上司曰く「情シスの仕事をよく理解している」かららしい。まぁ、そうかも。キラキラしたものに憧れて、情シスになったら企画や設計をして人に指示を出すだけ・・・みたいな華やかなイメージだけを持ってる人は多いけど、実際はそうじゃなくて泥臭いし。加え、最初の会社で開発経験が多少はあったことも。僕が今の会社を決めた理由は面接での、面接官の人柄というか会話したときの感触。穏やかで優しそうだと思ったから。ただ、入社してイメージと違うとは思った。結構、荒っぽい。
今は入社して1年半ちょい。最初は良かったが、だんだんしんどくなってきた。何がしんどいか? 人間関係かな。とにかく、言い方が、きつい。精神にくる。あと、仕事の振り方。プロジェクトマネジメントなんて今まで皆目やったことないのに(職歴にもそう書いていた)、いきなり振られ、何をしていいか分からないし聞いてもまともな答えも帰ってこず、ただ怒られるだけ。なぜ怒られるのか、全然分からない。
今後を考えるとマネジメントに手を出したい気持ちはあるけど、自分には難しいのではないか。
相談しても、何にもならないし。怒られるだけだし。最近は上司に聞きに行くことはしなくなった。とにかく、しんどいから。何言われるか、分かったものではない。とにかく、しんどい。息切れするし、足は強ばるし、食欲はないし、頭は痛いし、思考は鈍いし。そう伝えているけど「それでも仕事を続けるか、投げ出すかがお前の今後の分かれ目」としか言われないし。上司曰く、自分もそんな経験をしてきたが乗り越えてきた、と。いや、体育会系のあなたと自分は違うし、としか言えない。無理なもんは無理。
で、無理って言った。
途端、職場で自分の居場所がなくなった感じがした。分かってはいるけど、でも無理なものは無理。もう俺に振れる仕事ないってことじゃね? だってシステム開発の仕事なんて長いことしてないもん。直近の仕事、ヘルプデスク、データ抽出・分析、とかそんだし。でも、居直っちゃえばいいじゃんと思う気持ちも半分。だって、いずれ戦力外通告されても、日本の法律じゃ首には簡単にできないじゃん。プライド投げ捨てでも、仕事してない人とか言われても、とりあえず居とけばいいんじゃないの。でも、人生詰んでるよね。自分の理想ではないよね。周りに迷惑かけたくないのが自分の本音なのだけど、かけてるもん。周りに迷惑かけてでも、自分は生きていくの? それがあんたの人生でしょ。あんたって、僕のことね。
頑張って働きながら通信制大学も出たし、資格もいっぱい取ったし(IPAの高度とか)、悪くない会社に入りはしたけど、俺、ゴミみたいなことしか実践できてない。周りの役に立ってない。むしろ、足引っ張ってる。
俺はマジで毎晩思うよ
いや、毎晩っていうのはウソで、翌日が休みの時なんかはそうでもないけどさあ
平日はマジで毎晩思うし、人生の70%は平日だから、まあ毎晩みたいなもんなんだ
イヤじゃん人生ってさあ
俺は目下、仕事がイヤなんだけどさ
毎日毎日、8時とかまでやってさあ、最近なんか11時までやってるからホントやってらんねえんだけどさ、それでも仕事おわんねえでさ、なんか罪悪感あんだよ
いや、これよく考えなくても俺悪くなくねえ?
定時に終わる仕事を振れって話だよなあ
でさあ、そういう感じが万事じゃねえですか
小学校のときはさ、周りの奴らがみんな貧困層と施設のクソガキでさ、暴力だけが共通言語、全然話通じねえし、まったく楽しくなかったな
周りのカスと話すより、校庭の隅の池にいるカエルでも見てたほうが楽しいんだ そのレベルだった
中学も似たようなもんで、高校は受験がめんどくさくて、大学に行ったらもう、2年くらいから、就活就活資本主義!って感じでサイアクだった
そしていまのクソ環境ってワケ
苦しい助走を経てゴミみたいな場所に飛び込まされるの、マジで何?
これ何のための何なんですか?
ホント何とかしてくださいよ
何とかならねえんだよなあ
なので、こうやって、いつも通りに寝てさ、そのまま、いい感じにコロッと死んでさ、もうおしまいっていうのがいいよな〜と思うわけ
・グレートキャニオン、エアーズロック、グレートバリアリーフ、深海、宇宙、水晶の洞窟、溶岩の海、いいなあ、見てみたい!
・とうとうティアーズオブザキングダムが出るぞ!プレイ映像見たけど、ありゃ〜面白そうだ!
早く消えてえんだよ俺はよ
自由にならねえじゃんどうせさあ
週の70%以上クソ労働に従事させられんのが人権侵害じゃなかったら何なんだよ
俺はさあ、全ての存在はね、生存なんてものに縛られずに、もっと自由に、こう、ハツラツとさあ、元気に楽しく、なんでもやって、何のことも考えずに、やっていく権利があると思うんだよ
そんで、その権利ってのはさ、これまで、誰に対しても、いちども確保されてこなかったと思うわけ
なんでかっていうとお、
それはあ、
呪われてるっていうのはさあ、ファラオとか平将門とか、そういうみみっちいハナシじゃなくてさ、こう、もっと観念的なものとしてさ、祝福の反対っていうんですかね、あり方として悪い・まずい・ダメってことですよ
嫌いなんだよ生命がさあ
生命って好きですか?
ゲームのラスボス とか見てさあ、ねえだろこんな思想、滅んでどうすんだよ!と、子供の頃は思ってたけどさあ
俺、絶大な力手に入れたら、たぶんラスボスになるわ
でもさあ実際それをやろうとしてるときはすげえ楽しいだろうなあ
生きてるのも悪くない!とか思っちゃってさあ
生きるっていうのも悪くないものだな!ハハハ!とか言いながらさあ、全ての生命を抹殺してえよ
なぜなら、生きるっていうのは、実際悪いからな
早く死にて〜 早く死にてく〜ねえスか?
あくまでこれは私の経験とか聞いた話に基づくものなのだけれど。
漫画とか小説ではそれが逆転してて、だいたい一番最初に付き合った相手と
その後、別れることもなくそのまま結婚するのがハッピーエンドみたいになってるのが
っていう疑問をChatGPTに打ち込んでみたら
・一つの理由として、漫画においては、物語の展開をシンプルかつわかりやすくするために、キャラクター同士の関係性をシンプルにしていることが挙げられます。特に、初恋や青春といった学生時代の出会いは、多くの人が共感しやすいストーリーとして定着しており、漫画においてもそのような展開が多く採用されています。
・また、日本の文化的背景においても、学生時代の出会いが結婚につながることが多いとされており、それが漫画にも反映されていると考えられます。さらに、日本の結婚制度や婚姻観念も、学生時代の出会いを大切にする文化が根付いていることが、漫画においても反映されていると言えるかもしれません。
・一つは、漫画においては、読者がキャラクターたちと共感することが重要であるとされています。そのため、読者が自分自身をキャラクターに重ね合わせやすいように、学生時代の出会いという共通点を設定することが多いのです。
・また、漫画においては、長期連載が多く、キャラクターたちの成長や変化を描くことが重要な要素となっています。そのため、学生時代の出会いから始まり、時間の経過とともに関係が深まるという展開が自然な流れとなりやすいという点も挙げられます。
・さらに、学生時代の出会いから始まる恋愛ストーリーは、ドラマチックでロマンチックな展開が期待できるという点もあります。それが、漫画の読者にとって魅力的な要素となり、キャラクターたちが学生時代の出会いを経て結婚する展開が多く採用される理由の一つとなっています。
入り口がホスクラってのは好奇心とか寂しさドリブンなんで、同年代の普通の友達とか彼氏とかいたら入っていかない世界だと思う。
一方、入り口が金欲しさからのパパ活とかJKビジネスで、そこからホストにハマる子もいるから、経済観念が違う子との付き合いを避けるのは案外大事。
純粋培養にしたくて頑張って名門の中高一貫行かせた結果、周囲が金持ちばっかりでお金欲しさに転落する子が結構いる。
お金に限らず、自分の周囲に自分とは及ばない文化資本力があって一周回先を走ってるような子がいるということを知り、劣等感をこじらせて病む子もいる。
そういう子は頭も回るし、親も安心してる分、かなり進行するまで騙し通せたりする。
くれぐれも無理に背伸びさせないことが大事。良くも悪くも、その子がバカにされたり逆に浮きこぼれないような身の丈にあった環境を用意することが大事だと思う。居場所なくなると横道にそれやすいから。
進路は可能であれば理系か男子がそれなりにいる方向に進ませる。女子校には行かせない。身近に同世代の男がいて普通に仲良くしてたらホストになんか走らない。
あと、親の愛が足りない説は半分本当で半分嘘
親の愛が足りないとしても、思春期になって友達とのコミュニティの中で自分の居場所があり周囲から承認されてたら普通に自己肯定感は育つ
逆に、親が可愛がってチヤホヤ育てても、思春期になって「え、私ってそんなに可愛くなかったんだ、よその親はもっと子供に金かけてるんだ」みたいな事実を知ると、子供によると親に騙されてたって思うからね。
親の承認だけじゃ社会でやっていけないって事実を知った時の反動がけっこうやばい。
ちゃんとしたお家のお嬢さんがホストとか変な男にハマるのってたいていこれ。親からの評価と世間からの評価の乖離で傷ついてるから、高く評価してくれる親以外の他人についてっちゃう。
この前手術で鎮静剤打ちました。
まあその気持ちいいこと、久しぶりにさび付いた感情が揺れ動きました。
しかも目を覚ましたらお医者さんが「増田さん?手術終わりましたよ~」って、え?マジ?
この時ね、不覚にも思ってしまいました。「鎮静剤打った後、首の動脈切ればめっちゃ幸せに死ねるんじゃね?」と。
僕は隠すまでもなく弱男です。だーれも僕に興味ないし、なんならほんのちょっと女性社員に嫌われてるかな?(笑)
上司も評判の悪い人で毎日いびられっぱなしですよ。怒鳴られたり嫌味言われたり。ま、誰も気にしてないだろうけど(笑)
そんなこんなでちょっとだけ希死観念があるんです。検索しすぎて心の相談ダイヤル覚えちゃいました。
まあ痛いの怖くて行動に踏み切れないくらいの、ほんの小さな希死観念なんですけどね。
そんな中出会ったのが鎮静剤という魔法の薬。打たれた瞬間がここ最近のハイライトで、今でも忘れられません。もうひとめぼれです。
そんなひとめぼれ相手と一緒に人生最期を迎えられるなら、間違いなく僕の人生は幸せだと断言できます。
なのになぜ安楽死制度を国は認めてくれないんでしょう。働く肉ロボットが突然消えたら困りますか?(笑)
鎮静剤を打った後に、首の動脈をピッっとやるだけでいいんですよ?(笑)
もう僕はね、疲れたんです。