はてなキーワード: 観念とは
ハチミツに精液を混入させた事例って、現在の刑法でも性犯罪にカウント出来ると思うけどね
次々新犯罪を増やしていたらキリがないじゃん
実際の適用は必ずしも杓子定規ではなく、条文の解釈を加えた上で柔軟に適用されている
「暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。」
となっていて、「暴行」の定義は一般的には「人の身体に対する不法な有形力の行使」とされている。
だけど、
判例は狭い室内で日本刀を振り回した事例でも暴行の成立を認め、過失致死罪ではなく傷害致死罪を成立させている。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/665/050665_hanrei.pdf
そして、刑法174条以下のわいせつに関する罪では「わいせつ」という言葉が用いられているけれどこの言葉の定義も条文上は明らかではない。
判例は、「徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と言っている。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/650/054650_hanrei.pdf
この定義で言うならば、他人が飲食するハチミツに精液を混入させる行為は、普通人の感覚からすれば、「わいせつ」に当たるのが妥当だろう。
だって普通の人が見たらどう見ても、「正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為なんだから。
あと、強制わいせつ罪の成立について、判例は以前は行為者の性的意図を必要としていたけれど、
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/256/087256_hanrei.pdf
昔々ある所に、DIYで古い家をリノベするとき、見よう見まねで下水の配管をたした男がおったんじゃ。
たしかにのう、凄く安くできて大満足だったそうなんじゃが、使い始めてしばらくして、トイレの吸い込みがおかしくなり始めたんじゃ。
水を流しても一気に流れず、いったん滞留してからゆっくり入っていくようになったのじゃ。
詰まったのかと思ってスッポンを使ってもなおらず、しかし時間をかければ流れるのでとりあえず放置にしたんじゃが、それでも気分が悪い。
そこで、ある日の年末大掃除の時、きっと大きな配管が詰まっているんだと考えた奴は、ネットで見たつまりを流す方法を試すことにしたんじゃと。
つまり、便器の出口を塞いだ状態で水を一杯にためて、一気に栓を抜くことで一気に押し流そうというやつじゃな。
やったら、一気に水が流れて、つまりは解消、うまくいった!と思ったが、何か様子がおかしい。家中から悪習が漂い始めたのじゃ。
とうとう観念した男は配管工を呼んだじゃ。そうして調べた所、なんと、下水の配管が途中で外れて、床下に溢れていたんじゃと。
勾配は強すぎても弱すぎてもだめなんじゃと。そうして上手く流れず内容物が配管内に詰まっていた状態の所に、一気に水を流したもんだから、配管が外れてしまったのじゃ。
結局床を引っぺがして再工事、床下の消毒・悪習の処理などをして、200万円ぐらいの出費に。泣く泣くリフォームローンを組んだそうな。
Youtubeの立花孝志の動画は、NHK単体を狙っているのではなく、ほとんど警察全体を攻撃することができるように技術的に構成されたものであって、当該動画が攻撃しているのは
お前であり、NHKではないと解するのが相当である。検察官の所論は、立花孝志の動画は、NHKを目標としたものであると論じているが、浅見にすぎるのであり、一般人の社会見解にも
合致しないし、一般人が当該動画を閲覧したときに観念することとして、その電磁的動画媒体物(概ね、24分間、30分間にわたる、パート1,2,3と題された電磁的動画で、
大阪市にあるNHK天王寺受信料特別対策センターに突撃すると題された動画)に写り込んでいる建造物や職員などの諸種の公共物の概要外観などからして、立花孝志が本件の動画を
構成して使用する目的として、行政施設全体を攻撃していると解するのが相当である。検察官の所論は表面的にみているだけであって、事実や現実に全く合致せず採用できない。
インターネットには女性が多く存在しており、メスガキという攻撃性の高い言葉は反発を食らう。リアルでもネットでも女性がどんどんと離れていくことになる。女性だけでなく少なくない人数の男性も離れていく。
そうして徐々に「メスガキ」という言葉の攻撃性が理解できなくなっていく。正統はこちらだと考えてしまう。過去はそうだったかもしれない。だが価値観をアップデートしなければどんどんマイノリティになるだけだ。
また、若い女性にメスガキだとかまんこだとか言うようなひたすら下ネタを話す男が一定存在するため、彼らの一種だと判定される。彼らは女遊びして女性を傷つけたりするクズ男よりも、ただ女性を傷つけることしかできないという点でガチクズである。手に入らないなら殺してしまえ、のような観念が見える。よって、1語話すだけでそういうガチクズのメンバーというレッテルを貼られる。
メスガキやらわからせるやらのことばには、女性を人として見ていないという尊厳の問題が含まれている。「女なんて」とか「女のくせに」とか「若いくせに」とか「アホのくせに」とかそういう気持ちを、自分のちんこや殴る蹴るとか社会的権力とかの暴力で従属させたいという欲求があるように見える。「いやあれはファンタジーだから」と言うが、そもそも人間を対等として見ていないのである。これは、普段女性たちから蔑まれていると感じていることへの反発かもしれない。だから、より弱いものであろう若い女性をメスガキという動物にカテゴライズしておもちゃにしている。
いわゆる旧時代の男尊女卑観を引きずっている男性たちであろう。今の世の中では相当生きにくいはずだ。
さて、明らかにしておきたいことだが、中年男性(または若くても非モテの男性)は若い女性よりも圧倒的に下の存在である。これは重要なので正しく認識をしなければならない。
若い女性には未来があり、美人のJKは専業すればP活で1億単位稼げることもある。わからせられるべきなのは中年男性なのである。若い女性は弱そうに見えはするがそれは物理的な腕力のみであって、社会の影響力は若い女性の方が絶大である。レア度が高いからだ。
一部の中年男性はそれを認めると死や絶望が待っているために、何かすがりつきたくてメスガキという信仰に染まっているように見える。普段わからせられているから、せめてファンタジーではわからせたいのかもしれない。
一部の中年男性らはそれについて「穴があるだけで偉そうに」と、ろくに女性のことを知りもしないのに、勝手に彼女らの努力や生きづらさをゼロのように考えて、楽して手に入れた地位のように見て嫉妬する。これは見苦しい。
とくに自分の容姿を棚に上げて女性の容姿をめちゃくちゃに批判する男が多い。現実が見えていない。
ラノベや同人エロ漫画ばかり読みポルノばかり見ているとモテなくなる。モテなくなったから読んでいるのか、読むようになったからモテなくなったかは定かではないが、女性観が歪んでいき現実と乖離していく。当たり前だ。唯一の女性との接触点がラノベやエロ漫画やポルノばかりになれば、女性とはそういうものだという考え方になる。リアルはクソだと。
メスガキという言葉を使わないほうがいい、というのは言葉狩りではない。メスガキという言葉を使う自由は保証されている。単にますます誰も相手にしなくなっていくだけだ。それは思想の自由だからだ。やがてただの社会から収奪・搾取されるマシーンとなり、一時的に感情を麻痺させるドラッグとして「メスガキ」やらを摂取して、日々の生をかろうじて繋ぐことになる。自由はなくなっていく。
女性は男性に向かって「ブスのくせに話しかけるな」とか「デブのくせに私と対等に話せると思うな」とか「不潔で臭いし見苦しいです」とか直接言うことはほぼない。恨まれたり、殴られたり、殺されたり、ストーカーされたりすることを恐れている。だからさりげなく離れるのだ。ごく一部の正直者だけが指摘してくれる。
「メスガキ」概念は、ますます堕ちていくためのドラッグでしかない。もしそれが嫌ならさっさとやめることを推奨する。余計なお世話かもしれないが。
あまり生意気に相手をからかって挑発し人を侮る態度で罵倒嘲笑し相手を苛立たせてはしゃいでいると、リアル側で堪忍袋の緒が切れた「メスガキ」に強制的に「わからせられる」ようになっていくだろう。
いや現に、すでにそうなっている。
昔からモテないけれどすべての女性に全く相手にされないかというとそこまででもない、というくらいのポジションにいる
よく話す間柄の女性というのも環境が変わるたびに1人か2人くらいはできて、ごくまれにデートする仲くらいまでに持っていけたりすることもある
でもできるのはそこまでで、それ以上の関係に発展させるのに何をやったらいいのかまったくわからない
告白するにもどうやってそういう流れにもっていくのか分からないし、このあたりでセックスに持ち込む人もいるらしいけど俺の中ではそれはなんというか犯罪まがいの行為に感じられてしまってできそうもない
そうやってうねうねしてるうちに相手がフェードアウトしたり、「友達」ポジションに収まってしまったりする
小学生のころから社会人にいたるまでずっとこれを繰り返しており、恋愛関係にまで到達できたことが一度もない
自分の中の何かしらの観念が吹っ切れるかもと思ってソープに行ってみたりもしたけれど、
肩書きが童貞から素人童貞に変化した以上のことはなかった(案外やったら普通にできたことに関してはよかった)
どうしたらいいんだろうなこれ
彼らの思考様式を理解するためには、そもそもの話として共産党員の世界観というものを理解する必要がある
彼ら(共産党員)にとって、今の日本社会は「間違っている(正しい形に修復されるべき)」社会なわけ
親米保守(とされる)自民党が長らく政権につき、日米同盟は今も健在どころか段々と強化されている
自衛隊は公然と米軍と連携しているし、さらに中国、ロシア、北朝鮮への圧力も隠そうともしない
彼らからしてみれば、そういう世界は「間違ってる」し、当然ながらそれを支持する国民も「間違ってる」わけ
基盤となる社会そのものが間違ってるから、それを土台に成り立つ法律や道徳観念といったものも守る必要はない、というのが彼らの基本的な思考様式
こういうのってほんと害悪だと思う。
152cmキンタロー。153cm人気女優との共演にファン二度見「遠近法ですか?」「脳がバグっちゃう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e1a8077c96f81eda6f38c074278cefb9babb5327
当人が気にしてないからいいとかそういう問題じゃないと思うんだよ
こういう記事が出回る事によって、同じように顔の、頭の大きい女性に対し、自分はこうやって嘲笑われて当然の劣った存在なんだという価値観を刷り込むんだよ
いい加減、自虐は当人だけでなくて同じ属性の第三者も傷付けるという観念が広まるべきだと思う。特に容姿に関しては。
メディアは若い女性の痩せ願望や整形依存を問題視するならまずはこういう記事を徹底排除しろよ
この記事に限らず、女性の顔を並べて写真を撮って「公開処刑」と騒ぐ風潮はずっと前からあるし。
同じ事を『黒人』や『障害者』でやったら駄目だって分かるくせに、どうして日本人の普通の女に対しては当たり前のようにやっちゃう訳?
で、こういうふうに顔の大きさで侮辱し、劣等感を植え付けられた女性は子供を産まなくなるんだよね。
一重まぶたと違って整形でもどうにもならないし。
小顔でなきゃ駄目、ブルベ色白じゃなきゃ駄目、骨格ストレートでは駄目、と、要求される水準が上がりすぎてて、「良いとされる容姿」の範囲が狭すぎる。
内面においては「発達障害」「グレーゾーン」と診断されるハードルがどんどん下がってる
この社会において、「存在していい人間」の範囲があまりに狭まり過ぎて、自分なんかの遺伝子を受け継がせたくないから産まないという人が増えて当たり前なのに
今のこの小顔至上主義が続くなら、佐々木希だって当人は良くてもその子供達が父親に似てたら多分結婚出来ない事だろう
あと、分からないのはフェミニストの人達もこういう小顔至上主義に対しては何も言わない点だな
「あらゆる話題に『でも女性は下方婚しませんよね?』と返信する人の心境には、いくつかの要因が考えられます。
### 5. 攻撃的な態度
### 6. 認知バイアス
こうした背景を理解することは重要ですが、同時にそのような意見に対して建設的に対応するためには、対話を通じてお互いの視点を尊重しつつ、偏見や誤解を解消する努力が求められます。
女性用の小便器とは…? 女性用の小便器など存在しない、ありえない!と憤るあまり、女性用小便器の提言者を「女性の体の構造を知らない愚か者!」と小馬鹿にする人たち
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2389654
はい、何…?との疑問なのでお教えしましょう。現物の写真つきで紹介されていますよ。
https://lupine.naganoblog.jp/e2540846.html
と、まさに元ブコメ欄で問題になっている女子トイレの行列を無くすことを目的に開発されたものなのですね。
と、日本が追いつき追い越せと目標にしていた盟主アメリカで大流行し、大々的に使用されてる実績もあったわけです。
日本人女性だけ体の構造が特殊という事情なら日本で消えてしまったのも仕方ないのですが…
「…なんたること!女子が立って用を足すなんて…!嫁入りのときに変な噂がたったらどうするのか!!!」というPTAからの猛抗議があってすぐ撤去されてしまったそうです。
オリンピックの通訳ボランティアをされていた女性に「サニスタンド」について伺ったところ
「わたくしはよく使っていたけれど、周りの人は落ち着かないって文句を言っていたわねぇ。普通の便器より背筋がのびてよかったわよ、膝も楽に伸ばせたし。個人的に気に入ってたわ」とのこと。
と、現在無くなった理由は「女性は立って小便できない」「身体の構造上無理」ということではなく、
「姿勢が乙女にふさわしくない」という保守的観念、および「ゆっくり落ち着けない」という不満からなくなってしまったようです。
アメリカで大流行したものが日本人女性達には受け入れられなかったその理由とは、日本人女性が特殊だったのは、体の構造ではなく精神の構造だったのですね…
チョットマテ!「トイレの個室の中でゆったり落ち着いて小便を足す」から時間がかかって女子トイレが混んでしまってるのでは!?
いやま、それが女性自身の望みなら良いのですがね… その「小便も落ち着いてゆっくりしたい」という望みのために「男性用トイレスペースを減らしてその分女性用に充てろ」なんて言わないでね…実際にリンク先のブコメ欄にも「男女トイレ間の仕切りを可動式にしてる事例がある」と男側に壁を寄せろと示唆してるブコメが複数あるしさ…
男性は小便を落ち着いてゆっくりするのを諦めるかわりに、高回転率を実現して混雑しないようにしてるのでね…その男性の自助努力にフリーライドして「男は回転が早いんだから女性がゆっくり小用を足すために場所を寄越せ」なんて我儘言われたらみんなキレるで。…いや実際には日本の男性の多くは「女性に優しくて」「配慮する」ので、黙って我慢すると思うけどさ・・・そういう態度って優しい家父長制、慈恵的差別って言うんじゃなかったっけ?女性に都合よければかまわないですか?そらあえらく便利なことで…
令和の現在、ドイツやオランダでは環境の配慮、当地の女性達からの要求(男性のように気軽に排尿させろ!という男女平等要求)に対応して、女性用小便器が増えてきてるようですよ(ニッコリ
https://en.wikipedia.org/wiki/Female_urinal (英語wikipediaの女性用小便器ページ)
まずわいせつ物について、最高裁判所は「その内容がいたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」ものと判示しました。(最高裁判所昭和32年3月13日判決・刑集第11巻3号997頁)。
他人を性的に興奮させたり、刺激させるような文書であることが認められれば、性的羞恥心を害しないなどの事情(芸術品等でしばしば問題となります。)がない限り、「わいせつな文書」等に該当する可能性が高いです。
わいせつ物であるかどうかの判断基準は非常にあいまいです。本人がわいせつ物ではないと思っていても捜査の対象となるケースもあるため、注意する必要があります。
これについて、最高裁は、刑法第175条にいう「わいせつ文書」が如何なるものかを判断する基準として、「わいせつ三要素」を示しました。
①いたずらに性欲を興奮または刺激
そして、ここで重要となるのが、わいせつ性は芸術的作品であることや作者の主観的意図に左右されることがないという点です。
「芸術作品だから、わいせつ性がなくなる」というわけではなく、わいせつか否かは「社会通念」によるというわけです。
最高裁は、これらの見解を述べたうえで、「公共の福祉」論を展開します。
「しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり…」
すなわち、すべての基本的人権は絶対無制限ではなく、公共の福祉の制約の下にあるとの立場を示します。
これは、いわゆる一元的外在制約説という考え方です。
ただただ、あなたの自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、
そんな地獄が、現世には顕現している
「もう無理なのに ですか?」
「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」
「そうかも しれません」
「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
「人」ができることは、本当に少ない、殆どない
神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い
半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ
だから、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ
「物」ではない、「人」として
それは非常に難しい
生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい
それに沿って生きる事が善いとされる
苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある
「やさしい」言葉がある
これも、また「正しい」のだろう
けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある
何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある
「裸も」
今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。
でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ
ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。
一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。
そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。
ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからはもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。
小さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要なものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。
時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。
追伸。今までありがとう。
出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。
正しくないことは悪いことだったのか?
それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?
諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?
善悪の果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという
どうか、本当の幸いを与えた給え
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
この大学生はキショいよ。それはわかる。
人気順にキショい。
miyauchi_it
増田は『彼女を作る』ことをゴールにしてるけれど、それって女性を個の人間として見れてなくて『女性』という属性しか見てなくない?
一足飛びに彼女を作るんじゃなくて、女友達を作るところからでは。
2024/06/01
あのさあ、そんなのなんだってそうだろ。
お前らが就職する時だってまずは「就職する」「定職を持つ」ってことがゴールだし会社を社会的ステータスや業種や待遇でしか見れてなかったはずだ。
就職活動中なら一旦入社がゴールになるなんて当たり前じゃねえか。
その先のビジョンを持ってたってそんなもんかなり妄想だしどうせ働き始めてから修正することになるし。
なのになんか就活生に「そんなんじゃ甘いよw」とか無意味な説教する20代前半社会人、
それお前が気持ちよくなりたいだけじゃんな?
もう何の世界でもこういう無意味で不毛なマウント説教する奴いるけど
そういう奴等の未経験者時代を一個一個ガン詰めしてやりたくなるんだよね。
どのジャンルでもこういう奴等が一番要らない。
nisinouni
彼女を自分の所有物と勘違いして、望んでないプレゼント渡して断られたら逆ギレしたり、別れたらストーキングしてきそうで怖い
2024/06/01
脳内で「キショい」と「悪」や「犯罪者」との区分けがあまりされてない。
こういう人類はよくいるがこれに☆つけて2位にするのはどうなのか。
俺もこの大学生凄くキショいしはったおしたくなるけど
「こんな奴はきっと犯罪者に~」なんてことは言えない。
nyankosenpai
自分が何を相手に提供できるのか考えてみてください。かっこよさ以外にも判断力とか趣味とかいろいろあるはず。
2024/06/01
あのさあ
性欲前提だと何がダメなの?
性欲前提じゃなく彼女作る若い男の方が圧倒的少数派だろ。バカ言ってんじゃねえよ。
これも就活に例えるなら
「待遇や給与額を気にするようじゃダメ」とか言ってるのと変わらねえだろ。
じゃなんのために働くっつーんだよ。金以外もあるけどまず金だろ?
ワタミかお前は?
と言うか
人間はちょっとでも自分が優位に立ったと感じると(こんなネット上ですら)
相手の切実なニーズを否定して頭踏んでやりたくなるってことなんだよな。
改行の少ないキショい長文ちゃんと読めばわかるようにこいつはもっと別の強迫的な観念で彼女を欲してるから
この元増田を性欲だと思った奴等は
この程度の文量の相手の話をちゃんと読む労力払えないけど説教はしたい
と言う欲望がむき出し過ぎるわけ。
結局アクセサリー的に欲しいだけなら上手くいかんだろう。男女性別は違うけど、相手はアクセサリーではなく人間です。
2024/06/01
「なんでほしいか」 はキショキショ長文で書いてるだろ。
当人の心の動きもかなり書いてあるだろ。
それでわかんねえって読まねえならそりゃわからねえよ。
こいつも食い逃げ犯だな。
ni_ls
ヤラハタを迎えてしまったときのぼくがいる… 女友達なんて人生で一度もできたことないけど今は結婚して子どももいるよ
非モテはとにかく数を稼ぐしかない。四の五の言わずに紹介とかネットとか片端から取れる手段を
2024/06/01
似た感じの境遇と感性から成功したやつの話を聞くのが一番だよな。
なんでかっていうとこういうやつは相談者のニーズを否定しないからだよ。
上に挙げた奴等は未熟な奴への説教欲やキショいやつへの嗜虐欲があるだけ。
toro-chan
大学がなんの専門か知らないがまず勉強したほうがいい。正確にはついうっかり行動できる、自分な好きなものは何か、自分を知ったほうがいい。話はそこからだ。女は不要
2024/06/01
否定するにしてもこっちだよな。
parrying 彼女が欲しい人間はどう考えても「彼女を作る」ことをゴールにした方がいいです。人間扱いだのなんだのは全く問題なく両立できます
俺もそう思う。どう考えても関係ない。
弱者男性の恋愛相談にやたら迂遠で効率悪いアドバイスする奴って
こいつらの話は聞いちゃだめ。
strange
「話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかける」なんてマナーはない。
自分が話しかけて次に相手が話しかけてこなくても嫌われていない。男女に限らず仲良くなりたい方がガンガンいかないと関係はできないよ。
2024/06/01
端的だよな。これが生かせるアドバイス。
やっぱ弱者男性キショいわ。