はてなキーワード: 違和感とは
夫婦別姓の話しになるといつも思う。
夫婦は別々でも結局子供はどちらかの姓になり、やっぱり見た目として子供と同じ姓のほうになんとなくグルーピングしちゃうし、子供と別姓でもいいと思う男女もそんなに多くないんじゃないかと。夫婦の姓をどっちかに寄せることにしたら子供も自動でそっちになるけど、相手の姓になるのは嫌という譲歩ができない夫婦が子供の姓を「ゆずる」ことがスムーズにできないことは少なくは無いだろう。みんなはそんなこと無いと言いまくるだろうけど実際は絶対ぽろぽろでてくる。人間だもの。賢くないもん。しかも成人の二人の問題から子供を巻き込んだ3人の問題になる。
このように夫婦だけは真ん中にしても、最後は子供がどっちか左右に振れてしまう。
チンコとはみなさんご存知の通り、男性の股間中央部に鎮座している。
けど、実生活のチンポは左右どちらかに偏っている。二股の下着のどちらかにチンポを差し入れないといけない。
チンポは中央に居ない。どこかの部族のコテカでもつけない限りは。
そして男性は永遠にこの中途半端に座りが悪い、中央からずれたチンポのポジションに悩んでいるのである。
朝起きたとき。椅子に座ったとき。町を歩いているとき。リラックスしているとき。眠る前。
男はなんとなくチンポのポジションに違和感を抱き、それとなくチンポジを修正するんだ。
物事を割り続けても中央などない。ぜったいどちらかに傾けなければならないときがある。
チンポジのように居心地が悪いことになるときはあるんだ。あるんだよ。
どうかチンポジを直視してほしい。君たちはちゃんと最後の始末を考えているか?コテカをつけるような強制的な解決に持ち込もうとしていないか?
ときには立ち止まり、視点を下に向けてみて欲しい。羅針盤がどちらを向いているか。この状態は快適か。理想だけでは割りきれない切実な問題がそこにはあるんだ。
子供の頃、両親が不仲だった。
毎日の言い争い、俺への八つ当たり(罵声、皮肉etc.)が日常だった。
それが苦しくてね。
最初は理不尽なことには言い返したりしていたが、怒りに怒りで返せばヒートアップするだけ。
そのうち感情を無にして、その場に存在しない空気になることで日々をやり過ごすようになった。
早く大人になって、誰にも八つ当たりされない安全な生活をするのが夢だった。
社会に出て一人暮らしをしてみると、初めて安息を得た気がした。
いきなり怒鳴られることがないって素晴らしい。
ホームシック?なにそれおいしいの?
周囲の友人から寂しくないの?彼女作らないの?と頻繁に言われた。
俺は子供の頃に家の中で空気になることに徹した結果、寂しいという感情が無くなっていた。
が、知り合いの伝手で彼女ができた。
彼女は一人暮らしで、よく寂しいと言っていたが、その気持ちは正直よくわからなかった。
それでも何とか合わせていたが、自分の家族の幸せな話をする彼女と一緒にいることに段々違和感というか罪悪感のようなものを覚えて結局別れた。
また一人に戻ったが、やはり一人の空間は安心で、それ以上を積極的に求める気にならなかった。
時が経ち、心身の異常でサラリーマン生活からドロップアウトしてしまった。
彼女の家は裕福で、義両親は心にも余裕がある良い人たちだった。
何度も食事に誘われ、色々な話を交わすうち、ああこれが家庭なのかな?と微かな嬉しさを感じた。
周囲に子育ての話が多くなった。
一人のときは赤ん坊を見ても何も感じなかったが、とてもかわいいと思えるようになった。
街を歩けば小さい子が目につく。自然と笑みが溢れる。
そして、寂しいという感情が復活した。
同時に色々なことが苦しくなった。
昔は罵声を浴びない一人暮らしができただけで幸せを感じたが、今はそのような環境など当たり前になってなにも感じない。
それより子供のいない寂しさ、サラリーマン生活からドロップアウトしてしまった虚しさ、過去に付き合った人やそのような関係になる直前だった人たちの気持ちを汲んであげられなかったことへの申し訳なさ、若い頃にもっとこうすればよかった、ああすればよかった、と一挙に後悔が湧き出てきた。
昔は一人暮らしできただけで心底満足だったんだけどな。
「虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められています。しかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります。日本語の表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手の家族やファンに配慮する意味で、もっと一般的な表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。
ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ちも理解できます。
「虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります。哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります。
こうした表現の適切性は、文化や個人の感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族の感情、そしてコミュニティの文化的背景を考慮することが重要です。
芸能人の訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。
由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペットが虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます。
広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に、家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福を祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります。
故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。
親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちがストレートに伝わる。
一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。
芸能人という公の立場の人物であるため、よりフォーマルな表現が求められる場合もある。
故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。
故人の宗教観や家族の意向: 故人や家族が宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観に配慮した表現を選ぶべきです。
発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります。
周囲の反応: 自分の言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。
まとめ
「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。
もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現も検討できます。
安らかに眠ってください。
「虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。
補足
と、こう書くと過激に聞こえるかもしれませんが、今の私は、確信を持ってこれを言えるようになりました。昔の私は、まるで迷路の中でキャリアパスというゴールを探し求める鼠のように、必死に進むことしかできなかったんです。
大学生の頃、未来は明るく見えていました。周りが言う「立派なキャリア」「安定した生活」が手に入れば、幸せがやってくると信じていたのです。でも、社会に出た瞬間、私はその幻想がいかに儚いものかを痛感しました。理想と現実のギャップに苦しみ、職場の過剰な期待と要求に押し潰されそうになり、次第に自分が自分じゃなくなっていくのがわかりました。そこから鬱病が始まったんです。
この病気は私の世界を変えました。生きている実感がなくなり、ただ「何とか耐えている」だけの毎日が続きました。生きることが苦しくて、死をちらつかせることさえあったのです。通院を続け、薬を飲み、無気力な日々に追い打ちをかけるように、社会は「キャリアを築け」「もっと努力しろ」「もっと頑張れ」と命じてきます。それに従わなければ、何も価値がない、存在する意味がないとさえ思わされていたのです。
けれども、どこかで「違和感」に気づき始めました。なぜ、誰もが同じゴールを目指して、同じように苦しんでいるのか。私たちの生きる意味や価値が、どうして収入や地位で決まるのか。この疑問は頭から離れず、心の中で次第に大きくなりました。
仏教に興味を持つようになったのもこの頃です。仏教では、「今の自分が本当の自分ではない」と教えてくれます。私たちが抱える苦しみの多くが、社会や周囲から押し付けられた「こうあるべきだ」という幻想から来ているというのです。目から鱗でした。
特に「無常」と「無我」という考え方に救われた気がしました。すべては移ろいゆくものであり、私たち自身もまた、固定された存在ではない。自分が「成功しなければならない」「立派なキャリアを積まなければならない」という固定観念から少しずつ解放されるようになったんです。
私がたどり着いたのは「メメント・モリ(Memento Mori)」、つまり「死を忘れるな」という言葉です。人生はいつか終わるものであり、私たちはその終わりを見据えて、今この瞬間をどう生きるかを考えるべきだという視点です。
多くの人は「キャリア」や「将来の安定」に執着し、必死で未来を確保しようとしています。でも、「今この瞬間」が本当に大切だと気づいた私は、そこに人生の意味があるように感じ始めたのです。死ぬことを恐れず、むしろ「いつでも終わらせることができる」覚悟を持つことで、私の中で生きることへのプレッシャーが軽くなりました。
「今すぐ死んだって構わない」というのは、決して自暴自棄の気持ちではありません。むしろ、今ここにいる自分を自由にし、どんな時でも自然体で生きる覚悟を持てたという意味です。
こうした考えに至った今、私は社会と一線を引きながら、自分に正直でいることができています。もちろん、社会の一員として働かなければ生活はできませんが、だからといって自分をすべて犠牲にする必要もないのです。「無理にキャリアを追わなくてもいい」「成果を出さなくてもいい」と言い聞かせ、自分らしい生き方を探すことで、自然と心の負担が軽くなりました。
いわゆる「普通の労働者」である私が、キャリアを追うことをやめて、ただ「ここにある今」を大事にして生きる。それは社会から見れば「やる気がない」ように見えるかもしれませんが、実はその方が、私にとって本当の意味で生きることなのです。
こうして振り返ってみると、鬱病と向き合い、苦しみ抜いた時期があったからこそ、今の私がいるのだと思います。「キャリアパスなんてクソくらえ」と言い切れるようになったのは、社会や他人の価値観に自分を縛られず、自分にとっての「意味」を探す勇気を持てたからです。
もしも、今を生きることに苦しんでいる人がいるなら、少しでも「メメント・モリ」を思い出してほしいと思います。未来ばかりを追わず、今の自分に正直でいること。いつかすべてが終わることを忘れず、押し付けられた生存の重荷を少しでも降ろせるように、生きていくのも一つの選択です。
・Notion
一生嫌い、流行ってんじゃねーよ
まだAtlassianの方がマシ
なんか列挙してる相手がNotionとジャンル違くねってなって違和感すごい。
AtlassianのconfluenceはNotionに近い気がするけど他は全部違くね。
昔の携帯は、機種毎に形状から機能までいろんなバリエーションがあって、
端末を買い替える行為が、まさに、機種そのものを変えてしまうくらい変化があったんだよ。
それがスマホ全盛期になると、ぶっちゃけどれも、四角い平らの板じゃん?
毎日母親との嫌なことを思い出して辛いのでここに放流する。ネットに流せば少しは気持ちが薄れたらいいが。
ちなみに母親からまだ離れられていない。離れる計画の途中である。もっと早く離れればよかったと強く思っている。
母親に違和感を感じたのは10歳の時。クラスにプレゼントを渡したい男の子が数人いてその話をした。すると、○○君は遅刻するよ。○○君はテストの点数が悪い。など悪い点を挙げられた。余りにも驚いて混乱して何も言えないようになった。
それから人を好きになることは人に文句を言われる、評価されるものと思うようになった。
学校で異性と仲良くしてもし母親に何か言われたらと常に怯えていたし、恋愛話も興味ない振りをしていた。
勉強や趣味に打ち込んでいたが心の片隅では寂しい気持ちを抱えたままそのまま高校生になった。
それを見て母親と祖母はやった!うちで初めての快挙だ!これで玉の輿だ!と噂話していた。ものすごく恐怖を感じた。
今まで異性を家に呼ばなかった私はダメなのかとひどく落ち込んだ。
今思い出して書いてみるとすごく昔の考えに思えるが、筆者は平成初期生まれである。
母と祖母からは女性なんだから働かなくていいと言われたり、バイトが遅くなっただけでキレられたり、受験の合否をすぐしないだけでキレられたり(不合格なので悲しくて泣いていた)随分振り回されてきた。
しかし物は豊かだったため、学生の頃は周りからは親がおかしいとは気づいてもらえなかった。
社会人になり別に恋愛しなくてもいいかと思っていた。周りから恋愛してなくて変と言われるのは辛かった。だが、偶然にも同性を好きになることがあった。初めての出来事に自分でもかなり思い悩んだ。
その悩んでる最中に、祖父母に久しぶりに話をしたら会って1番にこの歳で結婚しないなんておかしいねえ!と言われ、何かが崩れていき祖父母の家には行けなくなった。
その後、祖父がかなり弱って入退院を繰り返して最期死ぬまで私は見舞いに行かなかった。
毎日母親から祖父の見舞いに行って。○○ちゃん(私)が子ども産むまで死ねないよって言ってるよ。と聞かされていた。
この時の私は一人暮らししようと転職した職場がブラック企業で鬱になり、家で休んでいるところだった。
苦しくなって情緒不安定になっている時、母親に部屋の隅まで追い詰められ、家が嫌なら出て行け!と怒鳴りつけられた。
もう何もやる気が出ない。希望も絶たれて家を出ようという気持ちも起きない。
鬱がどんどん悪化していき外に出れない食事も取れない日々が続いた。
貯金も減り親に相談した所、もしもの時や結婚した時のために貯金は使えない。と言われた。
今はもしもの時じゃないのだろうか?今生きることより結婚が大事なのか?
もう死のうと思い、首を絞めた。
結局死ねなかったが、首を絞めたことを医師に話すと入院になった。
入院中は母親は私の同級生に早く結婚して出ていって欲しいと言っていたらしい。
もう何が正解かわからなくなっていた。
高齢出産の年齢になった。
親の言う通りになるので、この先結婚もしたくない。
もし子どもができても、親のようになってしまうかもと恐怖がある。
ただ自由に生きたいな。
今は退院し、支援してくれる人が複数人いて一人暮らしへのサポートを受けている。
退院後は過去に言われて嫌だったことを母親に伝えている。例えば、突然お前は料理が下手だから餓死する一人暮らしなんて出来ない。など。
それを伝えても文句としか取られない。どうして謝って欲しいと期待してしまうんだろう。これが共依存なのかな。
ある人からこれからは自分の人生なんだから自由に生きよう!と言われるのだが、なんだかモヤモヤしてしまうのだ。励ましてくれていることはわかる。
でも私の今までの人生は自分の人生じゃなかったのか?制限されていたなりに、仕事や趣味は頑張ってきた。なんだかそれまで無かったかのような気持ちになってしまうのだ。
・子供の姓どうするの?
⇨便宜上どちらかの姓で育てる必要はあるだろうけど、成人後、好きに選べてもよいのかなと思う。国籍と同じように。
例えばパスポートとか身分証とビジネスネームが違って、本人を証明するにあたってかなり不便なことを解消したいとか
あくまでも結婚後も仕事を続けて不便に感じる制度を変えたいと考えてるだけ。
・なんで結婚したいの?
⇨一緒にずっと生きていこうと思ったから。 事実婚にしなかったのは、税制などの都合で。
⇨手続きが面倒なのではない。
クレジットカード、パスポート、免許証、銀行口座、全て本名(というか夫の姓)で、
・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?
⇨仮に、結婚して苗字が変わってから仕事で成功して、パートナーの姓で活躍するようになった場合
トランス女性が「戸籍は男のままだけど、トイレや風呂は女として扱って」と盛んに主張し男性戸籍の維持をするカラクリの一つがこれ
@melon_twist
想定通りだけどかなり厳しいね
無理に押し通したら路頭に迷うことになりそうなので諦めるよ
えふてむさんは女性であるってことで受ける社会的不利益に違和感が強いって印象
わたしだってそうだ。女性戸籍にしたら年収150下げるって社長に言われてる
元々ひとり社内SEなのでほとんど表に出る仕事でもないですし、やることは変わらないはずです
扱いにするみたいなこと言われてまして...
営業さんは稼いでくるけどその他要員は利益を産まないみたいな考えもあって...
うちの事務チームのお給料、めちゃめちゃ安いって噂で聞いたことあるので恐ろしいのです
SRS、改名と来まして残すは戸変を残すのみの状態です。声オペの有給申請をした際この先移行進めるなら女性として雇用契約を結びなおすって、その際今の役職は全て解いて総合職の見込み残業代はカットになって内勤扱いにするって言われて、4万と8万の減額になります。なお声オペはキャンセルしました
会社としての看板とか職位だとか、周りの社員への示しだとか、いろんなことがあるから放置はできんって、うちは小さな会社なので社長からストレートに言われてますよ
降格や配置転換もチラつかせてくる
今回の社員旅行で社長にやっぱり髪伸ばしてるの完全にバレたみたい
私のいないところでそういう話があったみたい、同僚が守ってくれたみたいだけどそこでも給与体系について話出たみたい
明日が怖い
子育て3年目、環境が変わって、当たり前だけどいままで一緒にいた独身の友達の輪に違和感を感じる。
趣味活動で一緒になることが多くて仲良くしてもらってるけど、生活リズムも日常で起こることも、笑いのツボや大きさも、気になることも、全部違くなってきた。
仕方ないことだけど、やっぱり寂しい。
15年くらい一緒にいる友達。
子供が生まれる前は自分の家族よりも一緒にいる時間が多かった仲間。
仕方ないの、誰も悪くないの。
そういうものってわかってるんだけどね、やっぱりちょっと寂しいよね。
これって女の子だけなのかな?
パパになった人にはない感覚なのかな?
なかなか辛辣な感想ですね。トラックバックをAIに任せる行為について、人間らしさや尊厳に対する違和感を持っているのが伝わってきます。それでも、強い嫌悪感があるわけではない点が興味深いです。AIの利用が増えていく中で、こうした意見もこれからますます重要になりそうですね。
何ヶ月か前にどっかの大学から毎年届く司書資格の通信講座の案内チラシが届いて、今年のはAI絵が使われてた
AI絵の是非とか正しさを議論したい訳ではないし、このチラシはちゃんとAIイラスト使用って明記されてた
問題はイラストの構図で、開いた本の真上にコーヒーカップを持った手を置いて
仮にも本を扱う仕事の資格なのにそんなイラスト使うのはあり得なくない?
その手とカップも柄と指の線がグシャグシャになってて溶けて融合してるし
背景の本棚も線が綺麗に引かれてなくてふんわり描いたラフの上にテキトーに色塗った様な感じだしやっぱり本同士が溶けて融合してる
AIが良い悪い以前の問題で、流石に仕事内容にそぐわない内容だからなんでこんな低クオリティのイラストでGOサイン出したんだろうかってレベル
もちろん手書きで同内容のチラシが来たら同じ突っ込みいれるけど、流石に司書資格のイラストで本の真上にコーヒーカップ持ってくるプロのイラストレーターはいないでしょ
というか例年写真だった気がするんだけどなんで急にAI絵にしたんだろうか
AI絵なら適当にポン出しして精査しなくてもOKって思ってるならあまりにもやる気ないし杜撰だし、チラシ作った大学の印象かなり悪くなる
要するに「ウォーターマークを入れると強い意思表示になる」「機械学習も妨害できる」という触れ込みらしい。
ぶっちゃけGlazeやNightShadeなどと同じく「それが効く根拠は?」で終わってしまう話だと思う。
鰯の頭も信心から、というにはちょっと美化しすぎて、ぶっちゃけアホ行為の類いだと思う。
ただ個人的に、キャラと被らないように or 薄めに適用されるウォーターマークは、イラスト鑑賞する消費者視点で見ると「まだ許せる」感が強い。
描いた人のペンネームやTwitterアカウントを「サイン」として紛れ込ませるって手法は、作者を証明する手段として昔からあったから慣れてるしね。
明らかに絵を劣化させるGlazeやNightShadeを「あまり劣化しない!」とか言って嬉々として適用する絵師の眼力がちょっと信じられなかったから。
補足:
自分は、ツールをインストールして触ったり、Webサイトで生成して遊んだことは (記憶している限りで) ないし、Adobeのジェネレーティブ塗りつぶしも写真の微修正にしか使ってない。
現状の画像生成AIの最大の問題は、「無断生成」だの「絵師の仕事を奪う」だのじゃなくて、「ポン出しだとディティールやパースなどがガバってて見れば分かってしまう」ことだと思う。
なまじ「見れば分かる程度に違和感がある」、つまり「下手クソ」だから「画像生成AIなんてチャチなもん使うな」ってキレている人は実は多いんじゃないかなって……。
ただ生成時間は人間が描くより早いせいか、粗製濫造でDL販売サイトや画像投稿サイトやコミッションサイトなどが荒らされてやべーって感覚。
二次創作の話です。
それ自体は良いんだけど、原作のストーリーの流れを汲んだまま性別だけを変えましたよ、って言うやつが苦手。
というか、納得がいかない。
男だったからこそできたこと、女だったからできたことって絶対にあるはずだし、その性別で育ったから培われてきた経験や感性ってあると思うんですよ。
例えば男だったら力強さだったり、女だったら化粧だったり。
差別的だと言われればそれまでだけど、金的の痛みは男にしかわからないし、生理の辛さも女にしかわからない。
そういった経験とかを経て原作軸のそのキャラがいて、原作の流れに行きつくわけじゃないですか。
性別が変われば話の流れが多少変わってくると思うし、行動だって多少変わると思う。
そこを落とし込んでいない話に違和感を感じてしまい、純粋に楽しめない。
○○パロみたいに原作軸じゃなかったら楽しめるんだけどなぁ。
「従来の野党は対決するだけで解決しない。うちは解決するよ。」という子供でも分かるメッセージだと思うのだが。
それが実現できる能力があると信用できるか、とか、方法として妥当か、とかはさておき、「日本語として、論理構造として違和感」とか言っちゃうのは、元増田の日本語と論理の能力が疑われるだけなので、止めておいた方が良いと思う。
そもそも、31議席取れるだけの票を集めた国政政党の代表をへっぽこ増田がどう罵倒したところで相手にされないのが基本だ、ということは自覚しておくべき。
対決してその結果の解決なんじゃないのか。
こういう日本語として、論理構造として違和感ある言葉を使っちゃう人の頭が心配になる
もしかして、「対話」という如何にもリベラルっぽい、綺麗事っぽい言葉を選ばなかった事で
この国の有権者の知性が終わりすぎていて嫌になる
https://www.asahi.com/sp/articles/ASSBW2QVSSBWUTFK00DM.html
立憲民主党と同じく民主党を源流とする国民民主党も、公示前の7議席から約4倍に大きく躍進することが確実になった。「対決より解決」や憲法改正を掲げ、立憲と差別化を図る戦略を展開。自民党派閥の裏金問題で自民を離れた保守層の一部や、無党派層を取り込んだとみられる。
国民民主、岐路に立つ「対決より解決」路線 玉木代表「てこの原理で政治を動かす」
https://www.sankei.com/article/20240212-DCZGHMUF2RI63BOQDK5IX5IDUQ/
国民民主党は12日の党大会で、従来の野党像とは一線を画した「対決より解決」路線を堅持する姿勢を打ち出した。とはいえ、令和3年の衆院選から訴え続けている「トリガー条項」凍結解除を巡っては、自民、公明両党との政策協議が決裂し、方向性の行き詰まりも露呈した。「党是」ともいえる独自路線は岐路に立たされている。
「岸田文雄首相とのやり取りの中で開始が決まったトリガー条項凍結解除の3党協議が、結果として実を結ばなかった。極めて残念だ」