はてなキーワード: 振る舞うとは
もう1年半ほど経とうとしている。
もちろん、周りには言えない日陰の女だ。
周りに言ったところで
「彼女」
なる気はなかった。
なれる気もなかった。
なるべきではないと思っていた。
「みんなのものだよ」と振る舞う姿をみて、心が1ミリも傷まないほど、私は強くなれなかった。
その子たちに支えられて生きてることを知っている。
それが彼の生きがいであることもわかっている。
「糟糠の妻は堂より下ろさず」というが、それはお互いに厳しいと思う。
私が好きになった人はアイドルじゃなかった。
同じ方向を見つめて一緒に生きていくのがパートナーなのではないかと思う。
私はもう、そのステージには登れない。
潔く引いて、花道をいく彼を見送るのが私の最後の役目なのだろう。
私の立場が羨ましい子達もたくさんいるとわかっている。
そんな日々もあったなと、思い出として消化して生きていけるまで、私は強くならないといけない。
でも、ひっそり、世界の片隅で言わせてほしい。
「なぜ?」「どうして?」たくさん飲みこんだ。
そうやって、今の彼があるんだよ。
私がいなかったら、別の子がそばにいて、またちょっと違う姿の彼だっただろうね。
でも、今の彼を好きな女の子たち、私にちょっと感謝してくれてもいいくらいなんだぞ。
そんなこと、絶対言わないけど。
正しい人でありなさい。
それが、僕に課せられた唯一にして最大の教条だった。
幼い頃から、僕は常に「先生の家の子」であることを意識させられてきた。両親は僕を品行方正な模範少年に仕立て上げることに腐心していたし、周りの人(大人も子どももだ)は皆、僕の素行や成績の優秀さを褒めそやした。
今思えば、僕は他人の眼差しに見張られ、他人の期待に縛られて暮らしていた。だが、当時の僕は、それに不満や苦痛を感じることは(少なくとも意識の上では)全くなかった。むしろ、どんな時も「正しい人」として振る舞うことに、ある種の誇りすら感じていたように思う。
友達をえり好みするのは「正しくない」ことだ、という両親の教えに従って、僕は誰にでも人当たり良く接していた。その甲斐もあってか、ほとんどの級友は僕に好意的だった。先生たちも僕を気に入っていたようで、贔屓と言われるような特別扱いを受けることも少なくなかったが、誰も文句を言わなかった。僕は何の迷いもなく、己に与えられた特権を享受していた。それが自分の「正しさ」に支払われた報酬だと受け止めていたからだ。
そんな僕が、一人だけ「友達」と呼べない少年がいた。隣の小さな家に住んでいた彼は、見た目も成績もパッとせず、不器用でどんくさい、いわゆる劣等生だった。当時の僕にとって「優れていること」と「正しいこと」はほとんど同じ意味だったから、僕は「正しくない」彼のことをうっすらと見下していた(そしてそれを「正当な評価」だと信じていた!)。
だが、もし彼がただの冴えない少年だったら、僕は彼とも親しくしようとしただろう。僕に「誰かを嫌う」という悪徳を犯させた(当時は本気でそう思っていたのだ)のは、彼の蝶に対する異常な情熱だった。
あの頃の僕たちにとって、蝶の収集は最大級の関心事だった。少年たちは蝶を捕まえては標本を作り、互いに自慢し合っていた。
はじめのうち、僕はあまり熱心な収集家ではなかった。捕らえた蝶を完璧な標本に仕上げる作業は楽しかったけれど、蝶を捕まえること自体にはさして魅力を感じていなかったのだ。
だが、彼は違った。彼は「蝶狂い」としか言いようがないほど、生活のすべてを蝶捕りに捧げていた。「蝶を探していた」という理由で遅刻して先生に怒られるのは日常茶飯事で、彼の母親が夜に戸口の前で息子が戻ってくるのを待っているのを見たのも一度や二度ではなかった。
それほど蝶に入れあげているにもかかわらず、彼は自分の標本を他人に見せようとしなかった。標本を級友たちとの「社交」の手段と捉えていた僕は、そんな彼に不気味さすら感じていた。こいつは一体何のために蝶を集めているんだ? 遅刻の罰として教室の前に立たされている彼の、何を考えているかわからない顔を見るたび、僕は疑問に思わずにはいられなかった。
ある日、僕は虫取り網を片手に近所の森に出かけた。新しい標本を作るために蝶を仕入れに行ったのだ。あらかじめ目星をつけていた場所で狙い通りの蝶を捕まえ、さっそく家で標本にしようと帰りかけた時、近くでガサガサと物音がした。音の方を見ると、一人の少年が森の奥へ向かっていた。彼だ。彼は僕に気づくこともなく、上の方を見ながら歩みを進めていく。僕はほんの少し迷ったあと、彼の後を追いはじめた。誰かのあとをつけるなんて全く「正しくない」ことだと思いながらも、なぜかそうせずにはいられなかったのだ。
十分以上歩いただろうか。少し開けた川べりで、彼はようやく足を止めた。僕は木の陰に隠れて、彼の様子をうかがった。彼は静かに網を構え、宙の一点を凝視している。彼の視線を追った先には、一匹のコムラサキがいた。生きたコムラサキを見るのは、これが初めてだった。
彼はじっと、コムラサキの隙を狙っている。爛々とぎらついた瞳には、きっと蝶の姿しか映っていない。こんなにも獰猛な空気を纏った人間を、僕は見たことがなかった。
不意に、彼が動いた。突き出された虫取り網がひらりと宙を舞い、すぐに地面に伏せられる。彼はかがみこんで網の中を確認した。僕からは蝶の姿は見えなかったが、狩りの結果はすぐに分かった。彼が、長い安堵の息とともに、うっとりと微笑んだからだ。
彼が立ち上がる前に、僕は踵を返した。早足はいつの間にか駆け足になり、何度も転びかけながら、それでも走り続けた。「逃げなければ」という言葉が、身体の中に繰り返し響いた。何が怖いのか、そもそも全身に満ちたこの感情が恐怖なのか、何もわからないまま、僕は家まで走り通した。捕まえた蝶がいなくなっていたことに気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。
それから二ヶ月ほど経った頃、紙箱を手にした彼が僕の家を訪ねてきた。彼が何か言う前から、僕には箱の中身が分かっていた。彼はあの日のコムラサキを見せに来たのだ。僕は彼に気づかれないよう息を整えてから、紙箱の蓋を開けた。
箱の中のコムラサキは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。展翅には粗が多く、足も欠けている。褒められたものじゃないな、と思いながら顔を上げると、彼は得意げな笑みを浮かべていた。驚嘆と賞賛を欲しがっている顔だ。それに気づいた途端、胸の中にどす黒い感情が湧き上がった。
せっかくのコムラサキがこんな不完全な標本になってしまったことへの落胆、その粗雑さに全く無頓着で恥じる素振りもないことへの呆れ、そして何よりこんなやつに一時でもおそれめいた感情を抱いてしまった自分への怒り。そういったものが渾然一体となった感情だったと、今にして思う。だが、子どもだった僕は、それらを「不快なもの」として一括りにすることしかできなかった。そして、その不快感を、標本への批判という形で吐き出したのだ。
僕は、彼のコムラサキの欠点を、ことさら辛辣な言い方で並べ立てた。彼の顔はみるみるうちに曇っていき、最後にはすっかり不機嫌な表情になった。
紙箱をひったくって部屋を出ていった彼の後ろ姿を見て、僕はかすかな罪悪感を覚えた。人を傷つけるのは、明らかに「正しくない」ことだ。
違う。僕は彼を傷つけたわけじゃない。僕はただ事実を述べただけなのに、彼が勝手に傷ついたのだ。直すべきことを指摘するのは「正しい」ことだから、僕は何も恥じる必要はない――
僕は自分にそう言い聞かせた。都合の良い言い訳だと、心のどこかでは分かっていたけれど、気づかないふりをした。僕はただ、「正しい人」でいたかったのだ。
彼のコムラサキの標本を見てから、僕は本格的に蝶の収集に取り組み始めた。少数の個体を完璧に仕上げることで満足していたのが、より多くの種類の蝶を捕まえたいと思うようになったのだ。
勉強や友達付き合いに割く時間を限界まで減らし、僕は蝶の採集に出かけた。珍しい蝶も、そうでもない蝶も、とにかく片っ端から捕まえた。両親は泥だらけの服で帰ってくる僕を見て顔をしかめ、級友たちは僕と遊べないことに不満げだった。採集自体も、楽しさより苦痛のほうが大きかったが、やめようとは思わなかった。
僕の目的は、彼よりも優れた収集家になることだった。彼が捕まえるよりも多くの種類の蝶を、彼が作るよりも美しい標本にする。それは僕にとって、ほとんど初めての私的な欲望だった。誰に求められたわけでもないのに、「正しい」ことでもないのに、せずにはいられない。自分でも理由のわからないまま、僕は取り憑かれたように標本作りを続けた。
時折、蝶を探しに行った先で、彼の姿を見かけることがあった。彼はいつでも心底楽しそうに野山を駆け回っていて、その姿を見るたびに嫌な気持ちになった。僕が彼に声をかけることはなかったが、彼が僕に気づくこともなかった。彼はいつも蝶しか見ていなかった。その事実もまた僕を苛立たせていたのだが、あの頃はそんなことは思いもよらなかった。
季節がいくつか過ぎる頃、僕は蛹の採集にも手を出していた。森に分け入って成虫を捕まえるよりも、自分の部屋でじっくりと蛹や繭を羽化させる方が性に合っていると気づいたのだ。時には予想外の成虫が出てくることもあったが、それもまた楽しみの一つだった。
そんななか、とんでもないことが起こった。偶然手に入れた繭から、クジャクヤママユが羽化したのだ。クジャクヤママユといえば、僕たちの間では秘宝のような扱いの、まさに幻の存在だった。ゆったり広げられた翅に浮かぶ特徴的な斑点を確認した時には、全身の震えが止まらなかった。
何も考えられない興奮状態の後に、真っ先に頭に浮かんだのは彼の顔だった。彼が教室の片隅で、級友のクジャクヤママユの話に目を輝かせていたのを見たことがある。あの様子だと、きっと彼はまだクジャクヤママユを見たことがない、ましてや持っているはずがない。
千載一遇の好機だと、僕は思った。このクジャクヤママユを完璧な標本にして、彼に見せるのだ。何が「正しい」標本なのか、誰が「正しい」収集家なのか、彼に見せつけてやるのだ。この思いつきは、僕をひどく高揚させた。
僕はこれまでにないほど慎重かつ丁寧に、クジャクヤママユの展翅に取り組んだ。その出来栄えは、今までのどんな蝶よりも素晴らしいと自負できるものだった。もうしばらくすれば、非の打ち所がない美しい標本が仕上がるはずだ。僕はすっかり舞い上がっていた。
常に地に足をつけていることこそ「正しい」。そう知っていながら、浮かれきった僕は級友にクジャクヤママユのことを話してしまった。噂はあっという間に広まり、大勢の少年たちがクジャクヤママユを見せてくれと押しかけてきた。
僕は彼らの頼みを「完璧な状態で見せたいから」と全て断った。それも嘘ではなかったが、一番の理由でもなかった。最初に見せる相手は彼だと、最初から決めていた。
僕は実のところ、彼がどうしてもと乞うならば、未完成の状態でも見せてやってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、彼は何も言ってこなかった。コムラサキの一件以来、彼が僕を避けているのは分かっていたが、彼の僕への嫌悪感がクジャクヤママユへの興味を凌駕していると考えると、妙に胸がモヤモヤした。
その日は、何ということのない平凡な一日になるはずだった。少なくとも、蝶の採集を終えて帰宅し、自室に入るまではそうだった。だが、そこで僕を待っていたのは、変わり果てた姿のクジャクヤママユだった。
翅がもげていた。触角も片方取れていた。展翅板の上には、粉々になった翅の残骸が散らばっていた。
どうして。何で。誰が。どうすれば。
絶望的な言葉の断片が、次々と頭の中に浮かんではぼろぼろと崩れていく。早く直さなければ、と震える手で修復道具に手を伸ばす。今までの経験は「これは無理だ」と告げていたけれど、その声さえ聞こえなかった。
日が落ちかけた頃、僕はとうとうクジャクヤママユの修復を諦めた。僕は絶望的な気持ちのまま寝台に倒れこみ、腕で目を覆った。このまま何も考えずに眠ってしまいたかった。そして朝になって、すべてが夢だったと気づきたかった。
そんな幼稚な空想を打ち砕くように、女中さんが僕の部屋の戸を叩いた。彼が来ていると言うのだ。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。
僕の酷い顔を見て驚いたのだろうか、彼は何も言わずにこちらを見ていた。僕は半ば操り人形のような心地で、クジャクヤママユが台無しになったことを告げた。すると彼は、それを見せてくれと言った。僕は頷き、彼と共に重い足取りで階段を上っていった。
僕はクジャクヤママユの残骸を彼に示した。ろうそくの明かりでも、彼の顔に全く血の気がないのがわかった。彼はしばらくクジャクヤママユを凝視していたが、ゆっくりと僕の方を向いて、言った。「ぼくが、やったんだ」と。
僕が凍りついていることに気づかず、彼は堰を切ったように喋り始めた。どうしてもクジャクヤママユが見たくて、僕がいない間に部屋に入ったこと。見ているうちに魔が差して、クジャクヤママユを盗んだこと。返そうとした時には、クジャクヤママユがつぶれてしまっていたこと。
彼の話を聞くにつれ、僕は胸がどんどん冷たくなっていくのを感じた。同時に頭に浮かんだのは「彼は裏切ったのだ」という言葉だった。何を裏切ったのかはわからない、ただ彼が裏切り者だという考えだけが、強く強く繰り返された。
「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」
そう告げた声は、自分でも驚くほど平板だった。こんなに誰かを軽蔑するのも、こんなに誰かに失望するのも、初めてだった。
彼は必死に許しを乞うてきたが、僕はありったけの皮肉を添えて彼の謝罪を切り捨てた。彼は一瞬、殺さんばかりの形相で僕を睨みつけた。そんな表情を誰かから向けられたのは初めてだったので、僕はほんの少したじろいだ。だが、彼はそれに気づくことなく、何も言わないまま、僕の部屋から出ていった。
僕はろうそくを吹き消し、再び寝台に横たわった。毛布に繭のようにくるまると、両目から涙があふれだした。
僕はどうして泣いているんだろう。当然、大事なクジャクヤママユを失ったからだ。でも、本当にそれだけだろうか。僕は、何を失ったんだろう――嗚咽の合間にそんなことを考えながら、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
次の日、僕は級友たちに、不手際でクジャクヤママユが駄目になってしまったと話した。彼らは、ぜひとも見たかったのにと嘆き、僕らしからぬ失態に戸惑った様子だった。だがそれも一時のことで、しばらくすると彼らの興味は別のものへ移っていった。
そして、その日以来、彼を野山で見かけることはなくなった。遅刻することもなくなり、真面目に授業を受けるようになった。ほどなくして、彼が蝶の収集を一切やめて、標本もすべて捨ててしまったらしいという噂が聞こえてきた。級友たちが、あいつとうとう正気に返ったのかとか逆におかしくなってしまったのだとか好き勝手を言っているのを聞き流しながら、僕は教室の隅でぼんやり座っている彼を盗み見た。
彼は罪を犯した、言い逃れできないほど「正しくない」人間だ。彼の罪を糾弾し、正当な罰を与えることこそが「正しい」行いだ。そう考えながら、僕はそうしなかった。彼をかばうためでも、ましてや許すためでもない。僕はただ、逃げたかったのだ。
あの夜、僕はまぎれもない被害者で、彼は明らかな加害者だった。誰もが、僕が彼を非難するのは「正しい」ことだと思うだろう。けれども僕はあの時、「正しい」ことをしようと思ったわけではなかった。正しいとか正しくないとかいう基準から外れた場所にあるむきだしの感情――「彼に裏切られた」という気持ちにまかせて、僕は彼を言葉で刺したのだ。
思えば、彼に関わる時の僕は、いつも「正しい人」から遠ざかっていた。標本箱の中の蝶のように完璧な優等生ではいられなくなり、破れた翅で不格好に飛び回る、身も心も薄汚れた自分になってしまうのだ。そして、その先にはいつも彼がいた。僕よりはるかに劣っているはずの彼は、森の中では僕よりはるかに美しく羽ばたいていた。にもかかわらず、彼は自ら泥の中に墜ちていった。それらすべてが許せなくて、耐え難くて、そう感じる自分自身を認めたくなかった。だから、僕は彼との関わりを絶ち、自分が「正しい人」でいられる場所へと逃げ出したのだった。
結局、僕は逃げ切れなかった。「正しい」ままで生きることなど不可能だということを悟り、自分の中の「正しくない」ものを受け入れて飼いならすことを覚えた。世間ではそれを「大人になる」と呼ぶのかもしれない。
彼とは、学校を卒業してから顔を合わせていない。今では蝶への興味もすっかりなくなって、作りためた標本はほとんど全て人に譲ってしまった。
それでも、一つだけ手元に残したものがある。翅のもげたクジャクヤママユだ。痛々しくて不完全で、なのになぜかひきつけられる。そんなクジャクヤママユこそ、僕にとっての少年の日の思い出なのだ。
面倒なのでAIちゃんに回答書いて貰いました、何度もやってる話題なので省エネ
皆さんは、みんなでご飯を食べる時、好きなおかずだけをたくさん食べたいと思うかもしれません。でも、みんなが同じおかずばかり食べていたら、他の美味しいおかずは残ってしまうし、お腹を壊してしまう人も出てきてしまいますよね。
社会も、みんながそれぞれ違う「おかず」を持っているレストランのようなものです。例えば、
みんなが持っている「おかず」は違いますが、どれも社会を豊かにする大切なものです。
例えば、「Aさんのおかずは、Bさんのおかずより美味しくないから、Aさんの意見は聞かなくていい」と言ったり、「Cさんの持っているものは、Dさんの持っているものより価値がないから、Cさんは大切にしなくてもいい」と言ったりすることです。
差別をなくすためには、みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことが大切です。
差別は、社会全体にとって良くないことです。みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことで、より良い社会を作ることができます。
現代社会における倫理的基盤は、人間の「尊厳」という抽象的概念に深く依存しています。人間は単なる物理的存在ではなく、意識と自己認識を持つ存在であり、その尊厳は一人一人が内包する不可侵の価値として社会の基本的な原則に組み込まれています。これを理解することは、知的な思考能力を持つ者にとって、社会の健全性を理解するための前提であり、個々人の行動基準を形成する上で不可欠な要素です。
社会の制度は、この「尊厳」を根底に置き、全ての人間が平等に扱われるべきであるという思想に基づいて構築されています。差別はこの尊厳を無視し、ある人々を不当に劣位に置く行為であり、その結果として社会全体の秩序が崩れる可能性があることを意味します。人間社会において抽象的概念を理解できることは、単に知識的なスキルを示すものではなく、社会全体の運営に対する責任感を伴う倫理的な能力を示しています。
抽象的思考能力が高い者は、「尊厳」や「平等」などの社会的概念を理論的に理解できるため、差別的な行為を避けることが期待されます。これは、知的能力が高い者が社会的なルールや規範を認識し、それを遵守することで社会全体の安定が保たれるためです。知的な成熟度が欠如している場合、その人物が社会で適切に振る舞うための教育的支援が必要であることは言うまでもありません。しかしながら、知識を持つことだけでは必ずしも倫理的行動が保証されるわけではなく、知識をどのように活用するかが重要です。
知的なものへの過度な憧れがある人物が抱える問題の一つは、知識を「優越性」の証として捉える傾向です。このような人物は、知識や学問を持つ者こそが社会的に価値があり、そうでない者は劣位にあるという誤った認識に陥りがちです。しかし、この考え方こそが差別的態度を助長し、結果的に社会の公正性を損なう原因となることを理解しなければなりません。知識は単なる道具であり、それ自体に優劣はないことを認識することが重要です。
差別が行われると、その影響は個々人にとどまらず、社会全体に波及します。差別を受けた側は自己価値を低く見積もるようになり、社会的な参加意欲を喪失することが多く、社会の一員としての積極的な貢献ができなくなります。これにより、社会の生産性や創造性は低下し、全体の発展が阻害されます。さらに、差別を行う側も、その行為によって倫理的な成熟を欠いた存在となり、最終的には社会的な信用を失うことになります。
抽象的思考に基づく社会的判断ができる者にとって、差別を避けることは単に倫理的義務であるだけでなく、社会的責任でもあります。社会における公正と平等の原則を理解し、実践することが、より良い社会の構築に寄与することは明らかです。
差別は社会秩序と個人の尊厳を損なう行為であり、その行為がもたらす不公平と不利益は社会全体の成長を妨げる結果を招きます。知的なものへの憧れを持つこと自体に問題はありませんが、その知識を用いる際に他者を不当に評価し、差別的行為に結びつけることは決して許されません。知識を持つ者は、社会全体の調和を維持するために、その知識を適切に活用し、全ての人々の尊厳を守る責任を負っています。
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関連増田:https://anond.hatelabo.jp/20230122083219#
この2つはすごく共感できる
>別にバカのやることに大した理由はない。ド詰めにして「真意」を吐かせたところで「ちゃんと働いてなくてけしからんから」とか、その程度のものしか出てこないだろう。
>むしろそういうことをしない者はなぜしないのか。
>同情心、共感能力があるから。それはそう。しかし「しない人」がみな生来優しい心の持ち主なわけではない。
>ひとつの理由は合理的判断だ。露見して罪に問われたら割に合わないから。
>もうひとつの理由は抽象的思考だ。どういう立場の人間の尊厳も尊重すべきというフィクションに現行社会制度が立脚しているのを理解しているから。
そもそも自分より下の階層があるのは安心できることだ、自分より下のものをバカにできるのは嬉しいことだという前提でモノ言ってるが、私はその前提を共有していない。
共感できないと言うか単純に間違っているのはここかな
ここが YES になっちゃうようなら、ペットと共生なんて出来ないし、人間に限定しても道徳も社会規範も刑法も要らないんだなぁ
○○をしたら自分が社会的に損をするってことを理解させることは可能だし、それが達成出来ればその人物の社会化に成功したと言える
動物にだって理解させることが出来るんだから人間が理解できないわけないじゃない
これを理解させることがすべて保護者の義務だし(なのでメンヘラや開き直りDQNは保護者として不適格なことが多い)、
フツーに文部科学省もそういう子どもたちがいることをちゃんと認識をしていて
『特別な支援を必要とする 児童生徒』として取り組み自体はあるよ。発達障害の枠組みに入ってるよ
CU特性
あと『知能が低い=共感性が低い』ではないし、『知能が高い=共感性が低くても"どういう立場の人間の尊厳も尊重すべき"の建前を守ることができる』わけじゃない
アインシュタインがド畜生だったの有名な話(https://anond.hatelabo.jp/20200706223440#)だし、
福沢諭吉の大学の出身者で世間を賑わせるド畜生発言している人(https://anond.hatelabo.jp/20210911095702#)たくさんいますよね?
あとアカデミアの人間なのに自身のバックグラウンドを明示した上で、140文字できゃっきゃやってる人らたくさんいるし、
それだけでも度し難いのに、単純に学術的に間違ったこと(少なくとも国内外の学会で同意が取れないこと)を言ってる人すらいますよね?
こういう人たちは一刀両断でバカで良いと思いますけど、別に知能が低いわけじゃあ無いと思います
ただただひたすらにバカなだけで
こういう人たちが増えないよう出来ることをしたいものですな
Chern-Simons理論は、特に3次元のトポロジカル量子場理論(TQFT)における中心的な役割を果たす理論でござって、その定式化は主に接続(connection)と曲率(curvature)という微分幾何学の概念に基づいておるのでござる。この理論は、特にゲージ理論とトポロジーの交差点で深い意味を持ち、リー群上の接続のトポロジー的性質を探るものでござる。以下では、厳密な数学的枠組みのもとで、Chern-Simons理論を詳細に説明いたすでござる。
Chern-Simons理論は、主束上で定義される接続から構築されるのでござる。ここで、P(E) を G 群の主束とし、G をリー群、𝔤 をそのリー代数といたすでござる。主束は次のように定義されるのでござる:
P(E) → M,
ここで M は3次元の多様体で、E はファイバー空間を表すのでござる。接続 A ∈ Ω¹(M, 𝔤) はこの主束上の1-形式でござって、各点でリー代数 𝔤 の値を取るのでござる。
接続 A は、接続を持つファイバー上の接続のトランスポートを表現し、リー群の基準を用いて測地線のようにデータを運ぶのでござる。接続 A によって定義される曲率は、外微分 dA と二次の項 A ∧ A を含む、次の形で表現されるのでござる:
F_A = dA + A ∧ A.
ここで、F_A は接続 A の曲率2-形式でござって、ゲージ群 G の接続が示す物理的な局所的な場を表すのでござる。
Chern-Simons形式は、主に接続の曲率を用いて定義されるのでござる。3次元多様体 M 上でのChern-Simons形式 CS(A) は、接続 A の曲率 F_A に基づいて次のように表されるのでござる:
CS(A) = ∫_M Tr(A ∧ dA + ⅔ A ∧ A ∧ A),
ここで、Tr はリー代数 𝔤 のトレースを取る演算子でござって、各項は外積(wedge product)によって形成されるのでござる。具体的には、A ∧ dA は接続 A とその外微分 dA の外積を、A ∧ A ∧ A は接続の3重積を意味するのでござる。
Chern-Simons形式は、ゲージ変換に対して不変であることが重要な特徴でござる。ゲージ変換は、接続 A に対して次のように作用するのでござる:
A → g⁻¹Ag + g⁻¹dg,
ここで g ∈ G はゲージ群の元でござる。この変換によって、Chern-Simons形式がどのように振る舞うかを調べると、次のように変換することがわかるのでござる:
CS(A) → CS(A) + ∫_M Tr(g⁻¹dg ∧ g⁻¹dg ∧ g⁻¹dg).
これは、Chern-Simons形式がゲージ変換の下でトポロジカル不変量として振る舞うことを示しておるのでござる。すなわち、Chern-Simons形式の値は、ゲージ変換による局所的な変更には依存せず、主に多様体のトポロジーに依存することが分かるのでござる。
Chern-Simons理論の量子化は、パスインテグラルを用いた量子場理論の枠組みで行われるのでござる。具体的には、Chern-Simons作用を用いた量子化は次のように記述されるのでござる:
Z_CS(M) = ∫ 𝒟A exp(i ∫_M Tr(A ∧ dA + ⅔ A ∧ A ∧ A)).
この積分は、接続 A に関するパスインテグラルでござって、Chern-Simons理論における量子場理論の構築に用いられるのでござる。ここで 𝒟A は接続 A の変分に関する積分を示すのでござる。
Chern-Simons形式は、特に3次元多様体に対するトポロジカル不変量としての性質が重要でござる。3次元多様体 M に対して、Chern-Simons不変量は以下のように定義され、計算されるのでござる:
Z_CS(M) = ∫ 𝒟A exp(i ∫_M Tr(A ∧ dA + ⅔ A ∧ A ∧ A)).
この不変量は、3次元の量子ホール効果やトポロジカル絶縁体などの物理的現象を記述するのに重要でござる。具体的には、Chern-Simons形式によって、3次元多様体のトポロジーを示す不変量が得られ、量子化されたゲージ理論における位相的な特性を理解するために利用されるのでござる。
老人と話をしてるとびっくりするぐらい感覚も認識もぜんぜん違う
・怒鳴って言うことを聞かせるのが普通。
・暴力は愛のムチ、獅子は我が子を谷に~を言い訳に好き勝手振る舞う。
・5~10年も働けば普通は給料が2倍以上になってるものだと思ってる。
・低所得者(主に高齢者)向けの給付金を全員もらえてるものだと思って「お前らはもらうばかりでいいな」と言っちゃう。
・今でも都内近郊土地付き一戸建てが3000万ぐらいで買えると思っている。
・医療は無料。タダみたいなもんなんだから行けばいいじゃない、とか普通に言ってくる。
・処方された薬を「こんなん行けばいくらでも貰えるんだから」といらないと言ってるのに「いらなきゃ捨てててもいい」と渡してくる。
・資産形成とかしなくても国が何とかしてくれる。でも国は信じられない。政治家は皆悪いことをしてる。とか矛盾してても疑問に思わない。
・政治家の給料を下げれば国のお金はいくらでも余ると思ってる。
・最近の若いのは全然働かない。と言いつつ同じ口で自分がどんなにサボっていたのかを武勇伝のように語る。
・額面≒手取りと思っている。この人たちのために取られている社保がどれだけ上がってるか知らない。
ルリドラゴンの登場人物たちがお行儀が良すぎるってのは俺も思うが、その代わりとして出てきた話が粗末すぎる。さてはマトモに読んでねえな。
まず青木ルリの能力は未知数かつ不安定、だがそのどれもが超人的であるため、露骨なイジメなんて怖くてできない。1話で暴発した能力ですら、近くにいた男子が酷い目に合ってるしな。作品の世界観的にあれくらいのノリで済んでるけど、実際あの時点で取り返しのつかない展開になってるだろうな。そんな相手にレイプとか性的暴行なんて無理。変な病気もらうかもしれないし。
それを踏まえた上で、お行儀悪いバージョンのルリドラゴンを羅列していく。当然100%妄想だが、元増田よりは体裁を整えた話にしてる。ただし「ルリドラゴンはあれでいいんだよ」って当てつけも込めてるので、ぶっちゃけ面白くない。
俺の考える『ルリドラゴン』は大まかに三部構成に分かれる。第一部は、ドラゴンの力に目覚めた青木ルリの日常が徐々に崩壊していく話だ。
最初のうちはクラスメートや周りの人も受け入れようと振る舞う。しかしルリは言い知れぬ“隔たり”を感じていた。今までマトモに接してこなかった相手から向けられる、好奇心や疑念入り混じる視線。以前から仲の良かった友達も、表面上は変わらないがどこか壁を感じる。決定的な衝突は起きないものの、真綿で首を絞めるような息苦しい環境。それは着実にルリの精神を蝕んでいく。
しばらく経ったが事態は好転せず、この頃にはルリはもうギリギリ。あとは誰がそのきっかけになってもおかしくない状態。で、マンガによくいるような粗野な馬鹿グループがやらかす。度胸試し的なノリで、ルリにちょっかいをかけるわけだ。そこでルリの友達が見かねて間に割って入るんだが……その後の展開は推して知るべし。
まあ、ここで死人が出てしまうとその後の展開が窮屈になるから、馬鹿グループは全治数か月の重傷ぐらいにしとくか。で、ルリを助けようとした友達は意識不明の重体にしよう。ちなみに友達がそうなったのはルリの能力のせいじゃなくて、馬鹿グループが「「邪魔すんじゃねえ」って突き飛ばしたのが原因だった……ってことが後に判明する。
何はともあれ、誰が悪いとか言ってられるような状況じゃなくなった。ルリは学校にいられないし、ルリ自身も行きたいと思っていないだろう。事態は学校だけで留まるはずがなく、周囲からの無知無理解に翻弄されてルリと家族はマトモに外も歩けない。こうして逃げるように引っ越したところで第一部が終了。
第二部は田舎での生活が始まる。マンガでよくある村社会的な展開で、ここでも居心地の悪さを多少は描いておきたい。
だが、それだけだと一辺倒なので、原作でもあったルリが天候操作をする展開をここで持ってくる。その力を目の当たりにした住民たちはルリを神格化する。で、ちょっとカルトじみた組織ができて、祀り上げたりする。「竜神ルリ様」なんていわれたりしてさ。
ルリは以前の学校生活のツラい経験もあって、その待遇を最初のうちは「自分が認められている」と満更でもなかった。だが、徐々に「なんか違う」って思い始める。そして組織の思想と活動がより強固になっていく過程で、もはやルリ本人の気持ちなんてどうでもいいんだと気づく。
この頃のルリは「もう自分の居場所は人間の世界にはないのかも」、「そもそも自分は何なのか」と思っていた。そのためには自分に流れる竜の血を、自分が生まれたルーツを、父親であるドラゴンを知る必要があると考える。そうして一人旅に出るところで第二部終了。
ちなみに第二部は『BLOOD-C』的な展開でもいいかなあとは思ってる。その場合でもルリは人間社会に絶望して、ドラゴンを探す旅に出るのは同様。ちなみにルリの親はこのあたりで死なせといていいかもな。狂信者が「龍神に人間の親などはいらない」とか言い出してやられるわけ。
ルリが各地を転々と巡ってドラゴンについての情報を集めていく。基本的には1エピソード数話の構成で、そういう漫画にありがちな悲喜こもごもな人間ドラマを描いていく。人間のどうしようもない情念だったり、めちゃくちゃ厳しい人達が不意に見せた優しさだったり。その過程でドラゴンの秘密が徐々に明らかになったりならなかったり。
色々な人たちとの一期一会を経ていく中で「人間は良いとか悪いとか、そんな単純なものじゃない」と思うと同時に「それって“人間”の話であって、じゃあ自分(ルリ)って何なの。やっぱり自分の居場所はココじゃないのでは」と思うのであった。
で、最終的に明らかになる真実は「そもそもドラゴンなんて存在しなかった」という展開。つまりルリはドラゴンと人の間に生まれた子供ではなかった。まあ人間とドラゴンがセックスして子供が生まれるわけないわな。生まれたとしても異形児だし、すぐ死ぬだろう。
じゃあルリがどう生まれたかというと、要は科学の力ですよ。マッドなやつらが「人類を更なる高みへ!」って感じで作ったわけ。数々の異能力も、とにかく超自然的なものを入れただけ。ルリの見た目も能力もドラゴンとは何の関係もない。
誤算だったのは、ルリは生まれてしばらく経っても人間とほぼ変わらない状態だったこと。失敗作だと判断し、処分することになるわけだ。でも、この時の担当者が処分するフリをして、自分の子供として育てるっていう……まあ、よくある話だわな。
このことを育ての親である本人の口から明かすって展開でもいいけど、第二部の終盤で死なせているパターンのほうがいいかな。真実を告げないままルリの親として死んでいった、ってのが後になってから分かる方がグッとくる。そして第三部で判明したころには手遅れで、ルリには帰る場所もなくて、かといって自分が進むべき場所も分からず仕舞いでより無常感がでる。
第三部の話を書いている間に飽きてきたんで、まあこの辺で。仮に第四部があるなら、他にもルリみたいなキメラが実はいるって話になるかな。
そいつらと共に「自分たちキメラの居場所を~」みたいなX-MEN的な話になるけど、如何にもな引き延ばし展開しか思いつかない。書いてる俺ですらウンザリしてるんだから、読んでる側はもっとウンザリだろ。だからルリドラゴンは、あれでいいわけだ。元増田の人生がどうとかルリドラゴンとは何の関係もないんで。
露悪的な物語や表現って、エログロナンセンスに片足突っ込んでると思うんだわ。激辛料理をダラダラ汗を流しながら食べるのも、それはそれで楽しいけどさ。それはあくまで刺激から得られる体験であって、そんなので腹を満たしてたら胃が荒れるって話よ。
元々毎日酒を飲み家にいる時は酒を飲んで陽気な状態か寝ている状態だった父。
ある日体調が悪いので病院で薬を貰ったそうなのだが、1番重要な薬を飲み忘れていて、母に薬飲み忘れているよ。と言われた瞬間烈火のごとく怒り出した。
そんなの説明されてない!
その薬の説明部分が紙で見えない!
病院が悪い!
と病院のせいにしていた。
キレそう!とぶつぶつ言っていたが、どう見てもすでにキレている。
母曰く、前日に病気をネットで真剣に調べいたらしい。なので余計に飲み忘れているのは何故なのか?と思ったらしい。
私もなぜ薬の一覧の紙を見ないのか?とか何種類あるなと確認しないのか?と思っていた。
身の危険を感じたのでこれ以上悪化する前に外部の人に相談した。
アルコール依存症か脳の病気かADHDかもしれない。また複数を複合的に発症してる可能性もと言われた。
父親は算数ができないし、役所の書類も読めないので手続きはほとんど母がしていた。
家電なども説明書も読まないし、組み立てなど上手く行かないと途中で投げ出して家を出て行く。
個人で使う物ならまだしも、共用部分もそうなのであとから私たちが物を直したりする。
親戚間の連絡も全く取らずに母が取り継いでいる。自分の兄弟にもキレるので、親戚から怖がられているらしい。
部屋が物で山積みになっていて、共用スペースまで物だらけである。
自分の物はどんどん共用部分にはみ出るが、私が少しでも共用部分に置きっぱなしにしているとキレる。
父は同居している祖母のことがあまり好きではないが、祖母の部屋の周りを自分の趣味のもので埋め尽くしている。
風邪を引いた時にトイレに近いテレビがある部屋で寝ていたら、その隣で寝てずっとテレビを見ていたり。
吐いてしまった布団をそのままにされたり。
皿を洗っていて体調が悪くなってきたので、後でするねと伝えたら、じゃあ洗ってから休んで。と言ったり。
母が家で事故に遭った時に父親は出かける寸前だったそうだが、そのまま出かけようとしたことを母の前で笑い話にする。
悪口ではなく平然と笑い話にする。
愛情がないとか父の幼少期は大切にされてなかったのかな。と考えたりもしたが
頭のつくりが違うと考えた方が1番しっくりくる。
昔はこういう人は男だからと家族が我慢してきて問題視されてなかったのかなあ。
兄弟の将来について悩んでいた時に、父親に話したら人生色々だからな〜まあ嫌ならお前が家出ればいいじゃん!と言われた。
これを聞いてから我慢の限界がきて、あ、この人が糞尿垂れてても血を流しても痛みに苦しんでも人生色々だもんねって助けないでおこう。と誓ったのだった。
妥当な点
1. 社会的圧力と道徳: 人が道徳的に振る舞う理由として、社会的な圧力や制裁の恐れが重要な要素であるという指摘は心理学的に妥当です。これは、社会的規範を守らなければ罰を受ける可能性があるという「社会的抑制」の観点に基づいています。特に、行動経済学や社会心理学では、他者からの承認や非難を避けるために道徳的行動をとることが広く認められています。ルールを破ると罰を受けるという考えが人々の行動を規律づける役割を果たしているため、この部分は現実に即していると言えるでしょう。
2. 利己的な動機による道徳: 自分が助けを必要としたときに他者からのサポートを得るために道徳的に振る舞うという発想も一部妥当です。互恵的利他主義(reciprocal altruism)という進化論的な考え方は、他者を助けることで将来的に自分も助けてもらえるという期待に基づくもので、社会的な結びつきや協力を促進します。
1. 道徳心の育成についての認識: 「道徳心は育たない」という主張は一面的です。実際、道徳は教育や文化、家庭環境によって大きく影響されるという心理学的な研究結果が多数あります。例えば、コールバーグの道徳発達理論では、道徳的判断は発達段階に応じて高度化していくとされています。つまり、道徳的行動は単に制裁を避けるためだけでなく、道徳的原則や共感に基づくこともあると考えられています。この意見は、道徳の多様な側面や学習のプロセスを見落としている点が問題です。
2. 反道徳的行動と道徳的要請の関係性: 「理不尽な苦難に見舞われている人間は道徳的であろうとし、他者に対し道徳的であることを要求する」という主張には一部妥当な側面がありますが、それが全ての人に当てはまるわけではありません。社会的に困難な状況に置かれている人が他者に道徳的規範を強く要求することもありますが、必ずしも全員がそうするわけではありません。道徳的行動や規範の要求には個々人の経験、文化、信念が影響を与えるため、この点も一面的です。
3. 道徳を嘲笑する行動についての理解: 「道徳が面倒を生じるときにその道徳を嘲笑し踏みにじる」という見解は、道徳の役割を狭く解釈しすぎているかもしれません。実際、多くの社会では複雑な道徳的ジレンマが存在し、場合によっては道徳的原則が対立することがありますが、それでも道徳自体を軽視するのではなく、問題の解決方法を模索しようとすることが一般的です。
この意見は、道徳が社会的圧力や制裁に強く影響されているという観点においては妥当な側面がありますが、道徳心の育成や道徳的行動の多様な動機を見落としている点で限界があり、一面的に解釈している部分が見られます。
親から聞いて、マンガで読んで、教科書を見ても、大したものは育ってはいかない
ではなぜ人は道徳的に振る舞うのかというと、社会の成員が道徳的であれば社会に問題が起こらず面倒がないので、社会の道徳的な状態を崩さないために自分も守る、という考え方をするからだ
ゆえに、道徳から外れた振る舞いをすると、制裁され、あるいは自分に理不尽な苦難が降りかかってきたときに助力してもらえなくなると薄ら信じている
だから、制裁をうまいこと回避できる、あるいは他人の助けなんていらないしイザとなれば誰かが助けてくれるもんだとタカを括ってる人間は平気で反道徳的な振る舞いをするし、理不尽な苦難に見舞われている人間はしばしばマゾヒスティックなまでに道徳的であろうとし他者に対しサディスティックなまでに道徳的であることを要求する
身体違和があるのはグラデの中でも濃い方ってブコメに共感する。私は女ジェンダーがしっくりこなくて性的指向も謎な女だが身体違和はなかった。幼少期も第二次性徴の時期にも男になりたいと思ったことは一度もない。
増田が納得してるならそれでいいが、女が男のように振る舞うことは男が女のように振る舞うことより社会に受け入れられやすいので、男になるリスクを取らなかった潜在的なFtMはそれなりにいるのではないかと考えている。女は女の肉体さえ持っていさえすれば女に分類されるので、女の性別の揺らぎは男のそれより軽視されやすい感覚がある。
私も、男も女もない世界にならねえかなと思っているクチだが、そういうことを全く思わない男や女が相当数存在することを考えると増田は生き辛い側に属しているのではと思う。私は、男でも女でもない性別があったらそれになりたかった。性別欄に「その他」がある時はいつも「その他」を選んでいる。
まあなんだろ、自分がその性別であるってことを意識しすぎたり強く押し出して周りに理解してもらおうとすると、やっぱ典型的なジェンダーロールをなぞるしかなくなるんじゃあないだろうか。
それってトランスジェンダーであるなしに関わらず起こることな気がする。
自分は女性である、とか男性であるってことを強く自覚したときに、じゃあ自分がどう振る舞うべきか?って考えたらやっぱ女らしい、あるいは男らしい振る舞いをしようとするもんじゃん?
フェミニズムはそういう行動様式に縛られて社会的な自由がなくなることを嫌うけど、トランスジェンダーの人はまずそれ以前に自分がその性であることを周りに認めてもらわないと自分が生きたいように生きることが、つまりその性として生きることができないわけで。
そこで女性(あるいは男性)として生きられるようになったトランスジェンダーの人が「女(あるいは男)はこうあるべき」って言い出すとちょっとおかしなことになるけど、そういうふうに言ってる人はあんま見たことないな…どうなんだろ。
逆にフェミニズムを一緒にやろうとして怒られてる人はよく見る。
幸せや充実に飢えてるだけの虫。
他者の幸せや充実の匂いに敏感で彼らの営みの上っ面だけでもなぞり幸せを感じようとしてもなかなか幸せというものは感じない。
だが幸せを感じることはない。
幸せというものは集団幻想であり、古代の人が考えた鵺や麒麟、龍のような幻の生き物の感情バージョンなんじゃないかと俺は思う。
しかし、まるで幸せというものが存在するかのように振る舞うヒト・モノ・情報、が多すぎて俺はいまだによく勘違いをしてしまう。
「他者には当たり前に幸せは存在していて、俺だけが『幸せ』という快楽状態で生きられていないんじゃないか?」ってね。
俺はバカだからよくこの前提を忘れて病んでしまうけれど、存在しないものと割り切ってください。存在しないんだから。
現代では幸せであることは一種のステータスと化しており、物的証拠がなくてもその人が幸せですとさえ証言すれば、他者から見てそいつは「幸せを感じている、幸せを知っている、満たされいる幸せな人物」となる。
性格、容姿、清潔感、配偶者や子の有無、趣味、年齢、性別、学歴、好み、社会的地位など。それらを複合的に見て他者の幸せを図られることが多いと感じる。
snsなどを眺めていてふと幸せでない人間を蔑むみ憐れむ傾向が人間にはあるのではないかと気づいた。
「幸せになる方法を知らない馬鹿」を「幸せを知ってる私」は哀れみ説教する資格がある。そういった感性を感じることが多い。
これに気づくとリアルの人間関係でもこのような仕草は他者への評価の節々から感じるものであることに気づいた。
このことから不幸であることや満たされていない存在は他者からの下衆な蔑みや哀れみをとても受けやすく、
つまり幸せであることで他者からの下衆な蔑みや哀れみの対象から外れることができ、人間としての名誉や尊厳を守ることができるのである。
幸せであるような振る舞いをするのは自己の尊厳を守ることに直結するとして、現代社会で『幸せな振る舞い』が力を持ったのだろうと考えられる。
存在しないはずの「幸せ」を人々が取り繕わなければいけなかった理由だ。
それによりまるで「幸せ」が実在し、身近に存在するモノかのような不可思議な存在になったのではないかと俺は考えた。
つまり他者からの評価などで被害を受けるような生活や仕事、性格などでなければ幸せになろうとする必要は全く持ってないのである。
噂に聞く「幸せ」はとても尊く気持ちのいい安らかな感覚らしく、自分も生きている間に手に入れたいと求めてしまうだろう。
彼氏さんは、日常的に風俗店を利用しています。「会社の人に連れられて」という部分は、より正確に表現するなら「どう?今日、行っとく(あの手)」「よござんすなあ!」と、このような塩梅です。また、「一度だけ」という部分は、「この日は一度だけ生で」といったところでしょうか。
たくさん調べられたとのことですから、釈迦に説法ではありますが、梅毒が蔓延していると言っても、一回でバッチリもらう確率はそう高くありません。よくゴルフのホールインワンに例えられます。あり得なくはありませんが、統計的に考えて、彼氏さんは3回から9回行った勘定になります。
それから、「なぜ男性は」という語り口でおいでですが、重要なことですが、人生で一度も風俗店を利用しない男性の方が多いのです。よく本屋さんに例えられますが、書籍を1ヶ月間で1冊以上購入する人は、日本では人口の1割と言われます。この1割の人が出版業界を支えているのです。
同様の構造が風俗業界にも当てはまります。1年間で1回以上風俗店を利用した男性は、1割程度と言われます。ネットで検索すると大きな数字が出てきて驚きますが、何が真実なのか、ご自身で考えてみてください。
重要なことは、あなたが風俗利用者層の男性とお付き合いしているということなのです。風俗利用者と交際している限り、いつか必ず経験することなのです。今の層から脱出したいと思うならば、世間を知り、賢く考え、主体的に選択しなければなりません。恋人をつくるとき、アプローチしてきた男性から相手を選んでいませんか?ご自身で判断して、アプローチしていますか?流れに身を任せれば、「1割」が圧倒的に有利な世界です。なにせ経験知が桁違いですからね。素敵に振る舞う術も熟知しているのです。あれよ、あれよという間に…なのです。その先幸福になるか、不幸になるかは相手の男性次第です。あなたの幸福を、あなたがコントロールする余地はありません。裏を返せば、あなたがご自身を責めても無意味ということにもなります。
幸い、まだ傷は浅いです。今回のことは残念でした。今はショックでしょうけれど、やがて立ち直れる時が来ると思います。その後には、ご自身の信頼できる男性を観察してみてはいかがでしょうか。例えばお父様。ご一緒に繁華街を歩いてみて、知っていること、知らないこと、聞いてみてはいかがでしょうか。
繰り返しになりますが、大切なのは主体性です。真面目で風俗通いしない男性は大勢います。女性がウェイwの世界から脱出するためには、賢く考え、主体的に選択することなのです。