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はてなキーワード: 言論とは

2018-02-19

anond:20180219220546

でも喫煙問題とか

20~30年前くらいだとポイ捨てに目くじらを立てるような人が心の狭いバカ扱いだったんですから

言論の力って侮れないと思うんですよね

anond:20180218204936

業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。

理系研究者を名乗るには必ず「まだ誰もやっていない新しいこと」を研究する必要がある。

文系でも同じですが。研究という営みの本質文系理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているか相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラル上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)

もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線研究をしていることが前提だ。

いや、レビューオリジナル研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナル研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナル研究成果だ。博士論文書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチオリジナル研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナル研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。

ひょっとして文系研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)

理系から視線として、博論を除けば日本語レビュー啓蒙しか書いていない三浦瑠麗は「最先端研究者」とは見られない。

から、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者彼女学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田最初和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わずレビューしか書いてないなんて研究者はいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。

いずれにせよテレビ研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。

そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PD東大講師、あるいはテレビ出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビ問題言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者リテラシー問題でしょ。理系学位肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由開放的性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。

文系増田日本研究者日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用アピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中学者言語習得に苦労するだろう。

うんだから文系研究者が色んな外国語勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語ドイツ語研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。

これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語地位を高めていくべきだ派と、日本アカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本文系研究者多様性は、アメリカイギリスほどじゃないにせよフランスドイツロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史英文学からアフリカ人類学オセアニアの少数言語中央アジア歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人フランス人ドイツ人がそうできるように、自分たち言語でそれらの分野の最先端研究成果を手にすることができる。東アジア中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語博論を書いて自国教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。

もちろん、日本研究を専門としていない欧米人日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたもの翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。

こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文アメリカ人日本語翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀フランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別にからずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産動物種の研究だと英語論文和文論文引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。

いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田感覚はわかるんだよ。というかそれは文系研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端研究成果を自分たち言語で読めて、どんな地域研究だって自分たち言語遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマ研究ホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史研究する上で西洋史探究されてきた研究モデル概念意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国政治についてなんの情報もなしに、自国政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツール必要なんじゃないか? ジャーナリスト政治家欧州統合アフリカ経済アメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本EU研究者アフリカ研究者アメリカ政治研究者がみんな英語論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。

2018-02-17

anond:20180217113424

概ね論旨には同意するんだけど、それってべつにフェミニズムに限ったことではない案件だよね。低所得者に対する経済政策なんてのも「目の前の得」ではあるわけでしょ。「パット見の利権が与えられてて弱者も、弱者を取り巻く言論も分断されている」というセンテンスは女性主語にしなくても成立するし、事実社会にはそういう状況が散見される。

にもかかわらず、フェミニズムのひとはフェミに限った問題でもないのにフェミだけを主語にしようとする。相対的にそれは他の弱者を蹴落として自分が優先的に蜘蛛の糸を登る行為(すべての弱者がそういう状況でもフェミニズムだけに注目させようとする行為)なわけだから、当然全く同じ論法フェミ論者が女権だけを拡大しようとするのならば、他の弱者差別解消論者が自分自身の選んだ特定弱者だけを優先救済しようとして何が悪い?)で蹴落とされるよね。

フェミニズムにだけこんだけアンチが湧く理由ひとつは、(ラディカルを中心とした)フェミニズムの言うことがあんまりにも隙きだらけでわたしぶって状態だっての、あるとおもうよ。

元増田のように「安易女性だけを主語として語りだす」っての、隙きなんだよ。

anond:20180217130531

あらら増田自由言論を守りたいって意思はその程度なんだ。

anond:20180217112617

差別」という概念マウンティングをするのは、キチガイ常套手段から、みんなも相手の悪意を見抜く練習をしておこうw

 

なぜ我々は「人権」という美名の下に拝跪してしまうのか?

世に人を黙らせる言葉がある。平和民主主義、そして人権…。だが、それらははたして本当に正しいものなのか?

巷に横行する愚昧な言論を嗤い、あらゆるタブーを排し、真実を口にしよう。「人権」は、裸の王様に過ぎない、と。

 

本当に差別があるというのなら、その利害関係を全て白日の下に晒せば良い。

電車内において、男が女を痴漢する自由を確保することが、男に対する差別とどのように連関しているのか?

差別」という言葉を出した以上、この問題は見過ごすわけにはいかないだろう。

痴漢男 VS 鉄道会社のバトルに、国際人権団体召喚しよう!(誰か英訳してw)

2018-02-12

anond:20180211174218

ダサい」「ダサくない」という主観的感覚のもの差別性はないかもしれないが、それを言論根拠として引き合いに出してるところと実際の彼らの攻撃性には差別性のような断絶が存在する。

2018-02-10

音楽系の反差別界隈の特徴

知ってる人は知ってると思う。

反差別というものを語っているのに、物事の考え方が「ダサい」「ダサくない」が基準なのがやばい

ダサい」「ダサくない」で判別するにあたり、そこで絶対的な線引きが出来ていると思っている節があるのだが、まずそんなひどく感覚的で漠然とした基準かつ詰めることも出来なさそうな定義で語ってるのが言論として脆いし危うい。

さらにここが一番大切なのだが、「ダサい」「ダサくない」がかなり差別的ニュアンスを含む価値観だと気付いてないのが一番マズイ。

政治的主張思想的傾向、それらを「ダサい」か「ダサくない」かで語るのが、真摯言論だとは到底思えないが、彼らは「ダサい」「ダサくない」でそれらが語れると思っている。

これは音楽系だからこその特徴がある。

音楽系の反差別界隈、政治的言論界隈の方たちは、ファッション音楽クラブなどの遊びといったもの最先端であることを求め、そこに価値見出している。

かにそれらの趣味問題先進性を求めて、「ダサい」「ダサくない」で語るのは許されるだろう。

しかし、彼らはそれを政治的思想的な主張においても適用してしまう。

たかも、思想にもモードがあり、「ダサい思想と「ダサくない」思想があるという見方物事を見てしまう。

界隈はよく反差別政治フェミニズムなどについて語るのだが、二言目に出てくる言葉は「ダサい」「ダサくない」だ。

よく思考し、言葉を尽くして肯定するなり否定するなりすればいいものを、「ダサいよね」「ダサくないよね」で済ましてしまう。

こんな感覚的でバイアスがかかりまくった基準で主張を切り分けている界隈の言論が真面目に受け取られると思っているのだろうか?

特にこの界隈は海外モードに先端性を求めるため、日本の大多数の一般人は「ダサく」見えている傾向にある。

そういった日本海外のシーンの音楽モードと全く異なる政治的思想モードを同じ価値基準で判定し、「ダサい」「ダサくない」と捉える希薄さ、そこに孕む差別性に無自覚なのだ

彼らにとって、J-POP日本音楽シーンはダサく海外ヒップホップブラックミュージックベースミュージッククラブミュージックがダサくないのと同様に、社会における、高齢者、おじさん、時代遅れ人物オタク特定思想、それらすべてが「ダサい」のである

そしてその感覚的に「ダサいものは「ダサい」ことが理由に拒絶され見下されることになる。

彼らは「日本もっと政治的話題が語られたらいいのに」とも言う。

ダサい」「ダサくない」で主義主張感情バイアスとともに切り捨て、一方に何ら言葉を尽くそうとしない状況で、誰が口を開くと思うのだろうか。

もっと政治的なことを語ろう」と言ったあとに、「○○○(政治的思想的論題)はダサい」と言い出す。それが「語る」ということなのだろうか?とてもそうだとは思えない。

そして、こういった状況だということに、かの界隈の誰一人として気づいてなさそうなのが、一番の特徴である

政治性、思想性を重んじるのは大変結構ではあるが、趣味に用いてきた「ダサい」「ダサくない」という感覚的で漠然とした基準万物の全てに当てはめて全肯定全否定しようとする差別性、攻撃性にはもっと自覚的になってもらいたいものである

私自身、反差別思想リベラルスタンス自体に一切文句はないということには最後に念を押しておきたい。

2018-02-05

日本情報操作言論封殺スタイル

両方の当事者から事情聴取しないと、適切な判断材料が得られない。

これで納得するのが、現代日本人の気質なんだよね?

(籠池さんも黒だろうけど、安倍夫人も黒だろう。権力があれば逮捕されない。それが日本ジャスティス。みんな知ってるw)

サイコパスに絡まれると危険から、なるべくババを引かないように慎重に生活しようw

 

てかさ、頭の悪い自称普通の日本人」たちは何にそんなに怯えてるの?

韓国ディス、意味わかんないんだけど。

だってさ、仮にも味方の味方、対中ロの肉壁なんだよ?経済的にもおいしいおやつだよ?なんで大切にしないの?

慰安婦像なんか無視しとけよ。

あとさ、頭の悪い自称憂国の士」気取りは何でそんなに無謀なの?

日本首都だけじゃなくて国内いたるところに世界最強の軍隊がいるんだよ?

沖縄に核が配備されていたことは事実だし、米軍基地関連で不安気持ち理解できるんだけど、

地位協定見直しとか米軍撤退wとかさ、東京ドーム5000兆個分のお花畑じゃねえかよ。

じゃあ自前の9条縛りの軍隊国益を守る外交担保できるとでも思ってんの?

一升瓶持って話し合いに行くとか言ってたハナタレもいたっけね。

アメリカとの軍事同盟がなければ、日本の富は今以上に周辺国に吸い上げられまくられるよ?

日本が貶められるような言論に腹立つ気持ち、分かる気はするけどさね、

もっと現実を見てくれよ。地に足つけてさ。周りを見てさ。

そうしたらわかるでしょ、富国強兵こそ独立の道だってさ。

科学技術リソースをぶっこんで、世界から資源をかっぱらい、工業力を上げて軍事力を固める。

それしか国内の憂慮を取り除く方法はないの。

その先?世界の警察でも気取ってりゃいいんだよ。

クソみたいな気分で他国悪態つく前にできることあんじゃんかよ。

エネルギーの自立、食料の自立、何より先にこの二つを達成するべきで、

余計なことにかまってる場合じゃないんだよ、頭冷やしてこい。

anond:20171023143926

今の言論の勢いで増やしても、後で多すぎて潰れる、お金かかり過ぎで批判される、みたいなことはあるかもね。何年か前に老人ホーム倒産があったように。

軽率新規参入を受け入れても、質が確保できるか不安もあるし。無いよりはマシだが、いじめとか虐待とか放置とか問題になりそうだなあ。

2018-02-03

anond:20180203150324

こういうまともな言論は300こえることはないから、ダイアリーに書いた方がいいのでは

2018-02-01

anond:20180130220409

前向きな言及ありがとう

でも、「オタクと呼ばれ続けてきた人」達は全く共感しないと思う。

例えばね?

君がリアルで「僕は増田に書いてる」って宣言して、悪い人間ばかりじゃないと公言したとする。

でも、そこで返ってくるのは「増田って何?」だとか、「ああ、あの2ちゃんねるっぽい匿名日記ねw」だとか、「えー?www オマエあんなとこ使ってんの?ww」みたいな言葉で、そういう認知が定着している(とする)状態で、「増田を悪く言わないで欲しい」なんて言っても笑われるだけなんだよ。

仮に誰か一人が悪意を持っていたとして、「ほら、やっぱり増田ってああいう奴が多いだろう? 気にしなければいいのに」って陰で言ってたらどう対処する? 多数派になれると思うかい

メディアに関わる人間自身が「ネガティブソースの方がポジティブニュースより注目されやすい」って言ってるし、分かってるハズなんだよ。

その上で法に触れてしまう個ではなく、場合によって定義も変わるような集団として黙らせてきている。

オタクはうるさい」ってね。

もし仮にオタクって言うのが禁止になっても、元増田意図とは真逆な言論封殺に近くなるし、今度は既存メディアのほうが畏縮していくかもね。

どちらにしてもこのままじゃスポンサーけがやりたい放題になっていくだけだよ。困ったもんだ(笑)

2018-01-31

ポリティカル・コレクトネスをおべんちゃらにしないために

だいぶ乗り遅れてしまったのですが、まあいいかと思いつつ済ませていたら、悶々と思いを抱き続けることになったので、もし同意していただける人がいらっしゃったらと思って書くことにします。

はあちゅうさんの告白年末放送された「ガキの使いやあらへんで」の特番の影響もあって、日本においてもポリティカル・コレクトネスについてだいぶ議論されるようになってきました。議論が起こること自体は、自分としてはいことなんかじゃないかと思っています

そして、ポリティカル・コレクトネスによって提起されている思想信条についても基本的自分賛同しています人種民族によって差別をしないこと、性的差別をしないこと、セクハラパワハラやその両方をしないこと、LGBTQの人も同等の権利が認められるようにし、偏見を解消していくこと……私はこうしたことについては賛同しています

けれど、日本でのポリティカル・コレクトネスの語られ方――こういう言い方だと大雑把過ぎるかもしれませんが――例えば、以下のような記事を見て、すごく違和感を覚えたのです。

http://shiba710.hateblo.jp/entry/2018/01/09/073000

ぜひ読んでもらいたいのですが、簡単に言うと年末放送された、ダウンタウンさんの年末恒例の番組ガキの使いやあらへんで」の特番浜田雅功さんがエディー・マーフィーの顔真似をするために「ブラックフェイス」をしたのが「笑えない」と述べておられます音楽ジャーナリストの方のブログなので、まあそういうこともあるかなと思っていましたが、先日、朝日新聞の論壇時評の委員を務めていらっしゃるような方もこちらのブログを参考文献として挙げていたので(ちなみに私は朝日新聞批判論者ではありません。肯定派でもありません)、そこまでなのかと思いました。ポリティカル・コレクトネス日本でこうやって語られてしまうのは、私としては「どうなんだろう」と思ったのです。

先に挙げたブログについては大きく言って二つ、違和感の覚えることがありました。一つ目は「笑えない」と断じていることです。自分は笑えない、その意識を持たないとダメなんじゃないかとおっしゃっているように私は読みました。けれど、ポリティカル・コレクトネス海外提唱されることになった背景を考えてみれば、すぐに分かることだと思うのですが、いじめやいじりが「笑えない」のではなくて「笑えてしまう」ということ、その残酷さを考慮しないと、本当の意味ポリティカル・コレクトネス提唱するものは、そこに根付いていけないのではないかと思うのです。もちろんのことですが、「笑っていい」ということではありません。でも、日本では「笑えない」という啓蒙的なアプローチをすること自体が本当の意味での理解を生まないのではないのでしょうか。

それに関連して二つ目ですが、こうした記事が分断のマッチポンプになっているのではないかということです。ブラックフェイスは様々な視点で見て多くの人に誤解されうる表現です。私はそれが今回、指摘されることになったのはいいことだったと思っていますし、日本民法テレビとしては不適切だったと思います

では、あのシーンが、もしくはあの番組自体が、人種差別的なメッセージがあったかというと、そんなことはないというのも大抵の人は分かっているのではないでしょうか。重ねていいますが、だからブラックフェイスをやっていいということではありません。でも、あのシーンで「笑った」人はそれなりにたくさんの方がいると思うのです(松本さんは後日「浜田が悪い」と言っていましたが、らしいコメントだと思いました)。そして、そういった人々が人種差別意識を持っているかというと、そういうことではないと思うのです。

けれど、先に挙げたようなブログ掲載されて話題になることで、笑った人と「笑えない人」の分断を生むことになります。私も笑った人間の一人です。ブラックフェイスから、即座にアレルギー反応のように自分感情拒否したわけではありませんでした。罪を犯した側からこうしたテーマについて提起するのは分かる気もするのですが、自分は罪を犯さなかったとわざわざ言う人の言論には正直、違和感を覚えてしまます。そして、結果として、そういう意見人種差別意識がまったくない人に対しても線を引き、分断を増加させていくことになるのではないかと思うのです。

一昨年のアメリカ大統領選挙について海外から報道を見ていましたが、私はなぜドナルド・トランプ大統領が勝つことになったのか、腑に落ちていませんでした。けれど、今回の一件を見ていて、すごく分かる気がしました。「ガキの使いやあらへんで」の特番ブラックフェイスに笑った私は、いわゆるポリティカル・コレクトネス陣営から見れば、人種差別主義者ということになるのかもしれないと思ったのです。

そして、先ほどのブログ執筆者と別の方が対談されている原稿掲載されていて、更なる違和感を覚えました。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54106

引用します。

——

柴 テレビ話題では、2017年大晦日放送された『絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時』でのブラックフェイス問題が、年明け早々、世界中の主要メディアで報じられるという事態が起こってますね。

宇野 うーん、あれに関する国内擁護コメントとかを見てると、ちょっと絶望的な気持ちになってくる(苦笑)。

柴 というと?

宇野 簡単に言うと、あれを擁護するということは、「これから日本文化的鎖国をしていこうぜ」って話でしょ?

かに文化的鎖国をしたところには様々な既得権存在していて、そこで生活をしてきた人はその構造を変えたくないんだろうけれど、さすがにもう無理なんじゃないかな。

柴 ネットによって一瞬で世界に広まっちゃいますしね。

宇野 それもあるし、多くの日本人が誤解しているように思えるのは、ポリティカル・コレクトネス問題って、別に政治的社会的問題だけじゃなくて、逆らうことのできない商業的な要請でもあるんですよ。

好成績を続けている『スター・ウォーズ』の主要キャラクター女性黒人若者なのもそうだし、去年世界で最もヒットしたアメコミ映画が『スパイダーマン』でもヒーローが総結集した『ジャスティス・リーグ』でもなく、単独女性ヒーローの『ワンダーウーマン』だったのもそう。

ポリティカル・コレクトネス配慮しない作品が、だんだんお客さんから見向きされなくなってきてる。

――

引用ここまでです。

アメリカではもう白人だけのアイドルグループはありませんし、映画ドラマにおいて人種的多様性を反映させることは前提になっています。それを日本安易に当てはめようとすること自体が私としては拙速過ぎるのではないかと思うのですが(将来的にはそれを考えないといけない事態もあると思います。そして、『ワンダーウーマン』の議論についても割愛します)、一番違和感を覚えたのは「ちょっと絶望的な気持ちになってくる」という言葉でした。

例えば、日本におけるヘイトスピーチを見た時、確かに私も「絶望的な気持ち」になります。けれど、それを第三者に伝えるときに私は「絶望的な気持ち」という言葉を使いません。いろんな人がいますし、どんな可能性があるかも分かりません。もっと複雑で込み入ったニュアンス、嫌な言葉で言えば、玉虫色言葉を使うのではないでしょうか。隣人を含めたテーマです。ポリティカル・コレクトネスはそれを変えていく運動でもありますが、本当に自分問題になった時に「絶望的な気持ちになってくる」といったような“威勢のいい”言葉を使うことはないのではないでしょうか。けれど、「ガキの使いやあらへんで」や『スター・ウォーズ』といった、自分からは飛距離のある場所では、そうした言葉を使ってみせる。それっておべんちゃらのように聞こえてしまます

伊藤詩織さん、ひいては司法問題LGBT婚姻についての問題――程度の問題ではないですが、「ガキの使いやあらへんで」よりも私たちが考えなきゃいけない問題はまだまだあります

ガキの使いやあらへんで」の特番でのブラックフェイスはやってはいけないことでした。けれど、もっと語りにくいけれど、考え、話し合って、変えなきゃいけない問題があるのだと私は思っています。そこには時間軸も入ってくると思います明日からすぐに変わることはありません。1年後にかわっている保証はありません。では、いつ変わるのでしょうか? そのために必要なのは威勢のいい言葉ではないと思います

2018-01-30

増田の言うことも一理ある

anond:20180130123047

まり増田が言いたいのは、思う存分言論で人を殴りたいということなんだけど、それは思考を発展させるために必須の段階。とうことでは。

ホリエモン再犯率が高い理由犯罪者の身勝手な言い分を傾聴するプロセスなしに反省を強いるからだ、みたいなことを書いてた。人間はまず話を聞いてもらわないと相手の話を聞く体勢に入れない。でも無批判に話を聞いてもらうという経験はあまりに少なすぎて、たぶんほとんどの人にとって反省というのは上から押し付けられる建前に成り下がっていると思う。理論的に尊重される体験の多いはてな村に住むような人にとっては実感が沸かないかもしれないけど、理論思考は圧倒的な自分中心思考からしか発生しえない。

あいつはブス、と言うことで自分の中に沸いた感情自覚できる。そしてその行動はなぜ俺はあいつをブス呼ばわりしたくなったのだろうという思索入り口となる。

逆に、あいつはブス、と表明しないといつまでたっても自省できない。

誰にも読まれないオフライン日記に書け、という向きもあるが、それでは駄目なんだよ。フロイトやワロンが言ってるように、感情は共有されることではじめて成立する。あいつはブス、そうなんだそう思うんだ、という会話があってはじめてあいつはブスという気持ちが発生して自省への入り口に立つことができる。

ディベート道徳不要

は、まず幼稚な自尊感情を表明し共有されることで理論が発生するということが言いたいのでは。

そういう意味で私はいわゆる昔のインターネットのような無法地帯必要だと思っている。もちろんそこでの言論現実に影響を及ぼさないように注意深くコントロールする必要はあるが。

anond:20180130123047

元増田氏が追記されてるみたいだけれども、

個人的に飲み込めない部分があるので書きますね。


非道徳な言論が許された場合議論の例を追記されてますが、少なくとも自分はこの例文の中に「非道徳」な発言は無い様に感じますこれは普通議論されて良い無い様なのでは?


②例文の中で「共同体価値観に敬意」「ルールを崇拝」という記載がありますが「共同体価値観ルールを守ること」は「共同体に参加する為の条件」だと思います。それは「崇拝」でも「敬意」でもないと思います。どうしても納得の行かないルールがあるのであれば、筋を通して疑義を発するのが正しい在り方だと思います


③例文の中で「LINEグループから漏洩」の例がありますが、その場合は「故意に漏らした者の悪意」が追求されるべきだと感じます


④例文の中で「バレるバレない」という記載がありますが、少なくとも日本では、個人思想信条自由保証されています私的に紙に書いた不適当な言説が当該者を傷付ける事態が起きた場合には、それが故意でない場合は、きちんとした議論必要になる話しだと思います


例文の中での話しについては、あくまで「例えば」の話しだと思いますが、一応。

それから元増田氏が度々危惧している「過剰な言葉狩り」は、

当然個別にその善し悪しが議論されるべき問題だと思います

自分は「不当な言葉狩りだ」と感じる出来事には都度反対したいと思います

この辺の判断に関しては「簡単な線引きなど無い」のだろうと思っています

人間歴史は、この線引きを押したり引いたりし続けて来た歴史なのだと思っています

人間とはその程度に「メンドくさい存在なのだと思います自分は。

文章下手でごめんね。

今伸びてるアレもそうだけど

結局さー法律をうまく利用して気に入らない言論排除してやるってだけだよね

インターネットで言いたいことを言えなくなる

先日、どこかの掲示板プロ野球選手の嫁をブスだと書きこんだOL名誉毀損で訴えられてニュースになった

これはもうインターネットに気軽に書き込むことが許されなくなるってことだろうなと思った

僕はインターネットを弱音とか愚痴とか、たまには悪態をついたりする場所として依存してきた面があって

辛い時にけっこう救われてきたと思う

こんな使い方が出来たのは掲示板が小さなコミュニティだと思っていたからだが、今はそうではないらしい

トイレ落書きでは使えないようだ

また、ネット道徳に縛られない考えを書き込むことで発想に広がりが出る場所だとも思っていた

ディベート的な議論において道徳ってほんと邪魔なんだけど、現実日本だとそれは難しい

ネットならそれが出来たけど、もう無理だろうな

インターネットが開かれた空間になり、テレビと同じ空間になり、相互監視になり、モラル押し付け言葉狩りが強化された

増田と言えどもどこから訴えられるかわかったものではない

僕らはすべての発言責任を持たなければいけなくなったし、道徳に目配せして書き込まなければいけない

多くの人にとっては当然のことなんだろうが、インターネット無法地帯に救われてきた身としては鬱屈とした日々に戻らなきゃいけなくなって非常につらい

ブクマ皮肉芸やってる人たちもそろそろ気をつけたほうがいいよ

「ブス」程度の発言でも気軽に訴えられるようになったのだから、これからいろんな人が訴えを起こすようになる

今のうちに言いたいことを言っておこう

王様の耳はロバの耳!

王様の耳はロバの耳!

王様の耳はロバの耳!

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ブクマを見ての感想

1: ブスと言わせろと言っているのではなく、ブスで名誉毀損になる時代になったので

  その他の発言についても締め付けが厳しくなり、客観性のない発言や、客観的でも誰かを傷つけると判断されれば

  名誉毀損で訴えられる可能性が強くなったという趣旨です

2:  怒っている人もアウトのブコメしている人がいます。ふと気が抜けて、感情的になってしまったり、非論理的憶測をすることありますよね

  それが名誉毀損になるかもしれないということを言っています

  普段きわどい発言をしている人もいるようですが、自覚がないようです

3:「ディベート道徳不要」について

  罵倒させろという意味ではありません。ディベートの態度ではなく、論理の展開に道徳によるブレーキ必要ないという話です

  人前でディベートをするとなると、道徳的に疑われるような仮説を引っ込めなければなければなりません

  ディベートからと言っても現実ではある程度のコードがあるわけです

  例えば「戦争は勝てるならするべきだ」「いかなる理由があってもするべきではない」というディベート

  現実では難しいと思います

  (道徳倫理区別されていて、道徳というのは時代場所制限され共有されたローカル価値観のことです)

  「ネット悪口を言うべきではない。傷つく人がいるのだから」というのも道徳です

  道徳的世界だと「そうですね」と言うしかありません

  反論すれば人でなしになるからです

  ネット上のブコメを見ても非難うごうですから

   しか非道徳的な言論が許されれば以下のような議論もできます

  A 「絶対にバレないLINEグループ等なら自由に言っても良い」

  B 「それはバレなければ赤信号を渡ってもいいという理屈ではないか

  A 「その通りだ。事故が起きるか起きないか問題なのだ。来もしない車を待つことに何の意味がある」

  B 「ルールというものは、個別存在するのではない。共同体価値観に敬意を持てるかどうかが大事なので、小さな例外も認めるべきではない」

  A 「ルールがあって共同体があるのではない。我々個人があって共同体があり、共同体があってルールがあるのだ。個人よりルールを崇拝するのは本末転倒だ。本題に戻ろう」

  B 「本題に戻るなら、やはり悪口を言うべきではない。LINEグループの誰かが漏らして、本人に伝えるかもしれない。そうすれば本人は傷つく」

  A 「それは私が書いた悪口ではなく、本人に伝えた人が傷つけたことになるのではないか

  B 「いや、悪口を書いた先に起きうることを考えなかったあなたが悪い。ネットではなく日記帳にでも書いていればいい」

  A 「しかし、紙に書いたとしてもそれがどこかで漏れれば本人が傷つくことになるだろう。紙に書くのも問題ではないか

     ほら見ろ、やはり結果論ではないか。バレなければいいだろう」

  B 「いいや、そもそも悪口を書こうと思う精神がよくない。他人だけではなく自分を貶めることになる」

  A 「違う、私達はそもそも貶められ苦しんでいるのだ。どこかでもやもやとした感情を発散しなければ生きていけない人もいるだろう」

  B 「発散するのは自由だが、それによって他人を傷つけるのは生贄と変わらない。他の方法を考えるべきだ」

  A 「だから、バレなければいいんだって他の方法簡単に探せると思うな。悪口が一番効率的なのだ

  B 「いや、バレれば訴訟のおそれがあるのだから、余計に苦しくなる。もっと生産的な方法があるはずだ。スポーツとか」

  A 「どうしても見つからない人もいるかもしれない」

  B 「それはその人が悪い。そのような底意地の悪い人の気持ちまで考えてやる必要があるのか?

     いや、そもそもそんな不満がたまるような社会が悪い」

  A 「確かにストレスがなく、お互いを承認しあえる美しい社会であれば、私も彼らも他人中傷せず、誰も傷つかないかもしれない(きれいな目)」

・・・と、現実的議論がしやすくなる

4: 「悪口でもなんでも自由に言わせろ」と書いているのではなく、過剰にビクビクせずに書き込みが出来る「民度の低い村」だったインターネットが終わったんだなあという、そういう話です。

  終わって来ていたのは認識していたけど、決定打が来たなという話ですね

2018-01-29

自由とは数多の不自由の上に成り立っている

お前さんのその罵詈雑言はもはや言論とは言わんし、言論の自由に行動の自由は含まれてねえのじゃ

2018-01-28

自称"思想"運動家 渡邊臥龍氏の思想なき言行不一致

渡邊臥龍氏は、牢人新聞なる街宣右翼組織主幹を務める右翼活動家である

まずはこの記事を読んでほしい。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00023233-kana-l14

http://biz-search.net/archives/542

"被告渡邊臥龍)は昨年3月、自身ブログに「有田芳生天誅(てんちゅう)を加えむ」などと書き込み、1960年に日本社会党浅沼稲次郎委員長右翼の暴徒に刺殺された事件写真掲載して脅した、とされる。有田氏が翌月に刑事告訴し、警視庁が10月に書類送検していた。"

どう考えても、テロリズムの実行現場写真を示して「天誅を加える」と言えば、脅迫罪に該当することは自明の理であり、そこは議論余地がない。

しかし、これに対して、彼自身はどうやら自身行為違法性はなく、正当な言論であり、自分に対する刑事訴追は"思想犯"だと思っているようなのだ

例えば

"だが、物事道理筋道はきっちりと明かす。こんなことがまかり通る世の中は暗黒の社会である。もし、仮に愚生が警察に身柄を拘束されるようだったら、留守中の後の運動は頼む。"

"しかし、今回の取り調べをきっかけに世の中に道理を通したい。その為に一切の駆け引きも打算もなく嘘偽りなく正直に供述調書を述べてきた。"

http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55629412.html

http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55630161.html

彼の主張には全く賛同しないものの、自分の信念を貫き、捜査機関による身柄拘束、場合によっては懲役刑を食らうことも覚悟して、法廷の場で自分の主張を述べ、争うというのだ。

そこまで闘う覚悟があってやってるのであれば、右翼はいえなかなか骨のある活動家だな、と当時は思ったものだ。(もちろん彼の主張に全く賛同しないが)

ところが戻って、最初新聞記事である

記事を読んで目を疑った。

"罰金10万円の略式命令を出したことが分かった。"

と書いてある。

わず突っ込まずにはいられなかった。

何故なら略式命令(略式裁判)とは

被疑者に異議のない場合(罪を認めており、略式裁判を開くことに異議がない)

正式裁判を開かず。

検察官の提出した書類のみ(もちろん被告人裁判所自分の主張を行うこともない)で命令を出す。

そういう手続きからだ。

要するに「正式裁判なんてやるまでもありません。罪を認めて罰金払うのでさっさと終わらせてください」

という制度なのだ

これのどこが「世の中の道理をただす」のだろうか。「駆け引きも打算もなく」なのだろうか。

正直、道理をただすことを放棄して、さっさと罰金払って終わりにした以外の何物でもない。まさにこれこそ駆け引きと打算だろう。

この略式命令について、渡邊氏は何の説明もしていない。彼も思想家なら、どうして自らの発言を翻し、闘いを放棄して権力に屈したのか、社会に対して、支援者に対しても示す必要があるだろう。

そういえば、渡邊氏は2014年に、デモ行動中カウンター行動の学生から全治二日の傷害を受けたとして被害届を出し、学生逮捕されていた。

あの時の学生は「自分無罪不当逮捕だ」と全面的捜査機関と争い、救援組織組織され、逮捕に対する抗議デモも行われていた。

あの時の学生は立派だった。自分の信念を国家権力に対して示す姿を、渡邊氏にも見習ってほしいものだ。

http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/54884418.html

http://www.libertine-i.org/?p=1069

2018-01-24

自殺しても仮に一秒後に死ぬ人であれば、十分生きる時間は変わらない

西部邁はもうこんな国嫌だとか自分人生無駄だと嘆いて入水自殺した。

でも、自殺ベストな答えだったのだろうか?

言論人だから、何か行動で訴えないから、無駄になってしまったという面もあるが、

選挙の時期をずらしてこの時期を選んだというのが本当であれば、迷惑をかけないで死ぬという選択自殺だったという事なのだろう。

しかし、仮にそうだとすると、自らの論を死ぬ気で張れない人であり、また、人に迷惑をかけない程度の言論無駄に終わるというようなものだ。

人に死んででも成し遂げろというのは特攻を想起するし、やるべきではない。特にまだ先の長い若い人はそうであると思う。しかし、仮に一秒後に死ぬ人であれば、十分生きる時間は変わらないとして、自爆テロでも死亡率が高い偉業でもやってもいいのかなぁと思ったりもする。

どう死期を悟るかだが、

死に至る主因を財力や体力の条件下で排除する努力をすれば、どの程度の時間が残されているかは本人も体感で分かると思う。これが見積もれればそれに向かって体とかがいつまで動くかとかを考え計画を仕込めるだろう。場合によっては数ヶ月とかでなく、数十年前から計画する事だって可能だ。 もちろん、一秒さえ惜しいというなら心停止になったら起動すると言った仕掛けも準備できる、はず。

そう、考えているとイスラム原理主義者自爆テロで死んでいく人や特攻した人って死期の見積もりの主因が狂ってるよなと思うなあ。

女性だけの街でも有形無形の暴力が生じることはミサンドリスト言論から明らかです

現場からは以上です

2018-01-23

あなたの言う「寛容」って何?

https://anond.hatelabo.jp/20180120101421

  

元増田は「リベラル他者不倫行為に対して寛容であるべき」と述べているが、寛容という言葉意味が分からなかった。

  

今の法律は、不貞行為離婚事由になっていて、もし不倫をやったら慰謝料を取られてしまう。

これは不倫に対して寛容ではない。

から、寛容をめざして法律を変えろということだろうか?

  

それとも、ただ単純に、「他人不倫でいちいち騒ぐな」と主張したいのか?

しかし、「いちいち騒ぐな」という主張は、それもまた道徳規範の押しつけだ。騒いでいる連中を沈黙させたければ、プライバシー権根拠報道言論制限をかけたり、マスコミ賠償責任を負わせるしかない。

(無論、そのような形で表現規制を強化するとすれば、有名人不倫報道で騒ぎたい人たちの自由と衝突する。)

ももクロについて

連日、誰かが書いたブログだったり、ここ増田だったりでももクロに関する言論が上がっている。

納得できたりなんじゃこれと思ったり、まあ意見は人それぞれだろうけれど、傍観していても良かったけど、個人的意見を書かせていただく。

卒業について。

これについては、古参モモノフの意見尊重したい。

とか言いながら、あくまで、自分見解として、一番しっくりきた意見は、有安は根っからクリエイターだったということ。

締め切りを守ってしっかりと毎日コツコツ仕事しているクリエイターさんも確かに存在しているだろう。

だが、クリエイターもっと大事なのは自由であるという表現が、不器用で生真面目な有安さんにはぴったりだと思った。

よほどの才能に恵まれていないクリエイターは、どこかでクライアント要望をそのまま受け入れたり、納期関係で納得のいかないまま仕事を終わらすことに慣れていくのではないか

それは、感覚が鈍るということでもあり、経験で補っていくということでもある。

若い時の感性を失わずに、とは誰しも願っているだろうが、やがてアイデアの泉は枯れて行き、過去貯金を切り崩すことになるだろう。

有安さんは、まだ若く、そのような状況とは遠いはずだが、そこへ繋がる道が見えてしまったのではないか

縛られ続けることが怖くなり、それがストレスとなった。

思う存分やりたい自分表現できない辛さ。

逃避ではないのだろうけれど、それが普通女の子になるということへと繋がって行ったんではなかろうか。

まれつき表現をすることを定められ、それに対して全力に向き合ってきたからこそ。

一旦リセットして、クリエイターとしての想い、自分自身の想いと向き合う時間を欲したのだろう。

納得できるというより、納得してしまえば有安さんがいつか帰ってくるという希望に繋がるため、こういう意見に流されてしまったのかもしれない。



ももクロファンについて

かつてのアイドルといえば遠い存在。それこそ偶像だ。テレビの中に居るだけの存在で、一部熱狂的なファンコンサートに行ったりしていたようなイメージ

非オタクでもアイドル好きを名乗れていた時代があった。

モー娘。ライトAKBファンもそういう感じのイメージだ。

もちろん、ライトももクロファンも。

だけど、かつてと違うのは、これだけ娯楽が溢れている世の中でも、ライトももクロファンモノノフ自称し、年に数回、時には遠征までしてライブに行く。

それはももクロがまだまだテレビ等への露出が少なく、またライブが異常に楽しいということがSNS等を通じて広まってしまたことも原因だろう。

そして、ももクロファンははたからみればアイドルオタクである

自称モノノフが、自分ドルオタではない。などと表明する滑稽な事態も起きているが。

ももクロ握手会を止め、国民アイドルを目指した段階で、一部のオタクを切り離しにかかった。

ももクロ最近の良くあるタイプアイドル像を求めるオタクは、妹分や別のグループに流れ、それでもももクロのことを気にしつつ。

最近握手会なんてないことが当たり前の、かつてのアイドル像に近い感覚応援しているファンが増えてきた。

モノノフの大多数は、芸能人、遠い存在としてももクロを見ているだろう。

それは、はっきり言って今のアイドル産業からすれば異質のことだ。

それこそ、パヒュームベビメタしかやっていないこと。

そして、ももクロさらにその先を目指している。

偶像としてのかつてのアイドル

偶像でありながら触れ合える現代アイドル

その向こう側。

偶像でありながら、生身の人間であるアイドルへと。

大多数のファンはそれを好ましいと思っているはずだ。

彼女らの人生彼女らにとって素晴らしいものでなくてはならない。

エゴではあるが、彼女人生の伴侶を見つけた時、子供をもうけた時に、人生で一番素晴らしい体験をした時に、アイドルとしての経験と比べ、両者ともにかけがえのない幸福経験だと思って欲しいという思い。

もちろん結婚出産の喜びが勝っても構わない。

それでも、アイドルをやっているからこそ、その喜びに繋がったと思ってくれそうな。

そんな彼女らを望んでいるのではないだろうか。


別の場でも書いたが、思春期アイドルとして過ごした経験は、それを体験したものしかからないだろう。

過密なスケジュールや、厳しいレッスンは辛い事でもあったと思う。

が、夢は叶う、苦労の先には幸福が待っていると、自らの体験で知った彼女である

人生アイドルとしての自分に捧げるための準備は出来ていると思っている。

これも勝手妄想ではあるが、ライブでの彼女ら、テレビでの彼女ら、舞台裏(よく放送される)での彼女らと、まったくプライベート彼女らにそんなに差はないんじゃないかな。

差が無くなっている、10年という月日と、元々素直で正直な子達であるということと、運営がそれを望んでい事、そうあるべきように誘導たこと。

それらの結果が出ようとしているのではないだろうか。

たまに、出合う根っからのいい人。裏が無さそうな人。

そういう四人がアイドルとして1グループでまとまって活動していくんじゃないだろうか。

そりゃ裏では凹んだり落ち込んだりすることもあるだろう。

でもそれを見せないっていうのは、普通の人でもやっていることだ。

ももクロはこれから、一人の人間であることと、アイドルであることを完全に巧く両立させて、その姿を見せてくれると信じている。


幸せを運ぶ四葉奇跡は、また新たな一歩を踏み出した。

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