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はてなキーワード: 一年とは

2024-07-25

Wikipedia小籔千豊の略歴がかっこいい

小籔は二つの夢を持っており、一つは芸人世界成功すること、もう一つは幸せな家庭を築くことだった[8]。しかし、小籔は芸人として売れる夢は潰えたと考え、芸人引退して警察官[3]もしくは普通職業[8]に転職し、交際中の女性結婚し、幸せな家庭を築こうと考えたが[8]、芸人仲間の野性爆弾ロッシーシャンプーハットこいで[3]、ケンドーコバヤシバッファロー吾郎[8]らに「絶対売れる」と慰留され[3]、こんなに気のいい人たちばかりの職場は無いと感動[8]。交際中の女性に「一年だけ」と約束し、芸人を続けることとなる[8]。

小籔は実は生活の安定を志し、バッファロー吾郎Aの勧めもあり[11]新喜劇入団したのであるが、吉本社員には「新喜劇芸人再生工場じゃない、辞めろ」などと言われ[13]、さら新人である小籔の月収は平均2万円程度に過ぎず、男が食わせていくものだと思っていた小籔にとっては相当に辛い状態であったが、ファミレスでのアルバイトとのかけもち、および妻の収入、そして趣味であった漫画カメラを一時辞めることで不遇の新婚生活を乗りきったという[11][8][14]。

かっこいい

マンガ主人公みたい

芸人さんが売れるまでは本当に本当に大変な道のりなんだなって

奥さんがいて子供もいて・・・すごいよね

もも小籔千豊になれるチケットがあっても使わないと思う

しんどそう

長身痩躯とトーク力を活かしてホストになりたいな

田舎で、車がないと生活ものすごく不便な場所で育った。電車は走っていたけど運賃がとても高かった。

14歳から自傷行為を始めた。母独裁機能不全の家と学校での孤立トリガー

19歳から精神科に通った。週1回の通院が必要状態。度重なる自傷行為で鉄剤を処方されるような貧血。母との関係は最悪。貧血精神科の薬の影響で、バイト半年も続けられない。

20歳で初めての自殺◯遂。トリガーお金がなく、国民基礎年金が払えないことだった。世間では社保庁の使い込みが話題だった頃。

24歳で発達障害が分かった。作業所に通うようになっていたけど、通院頻度は相変わらず週1回から減らない。自傷も不眠も続く。母との関係も変わらない。親が負担してくれるのは通院費と住民税やら市民税やらの公的なところ。

国民基礎年金猶予制度を使った。ハロワは家から遠く、片道800円の電車賃が出せなくて通えず。職業訓練とその給付金は親の収入がそれなりだったため利用できなかった。車の免許お金が出せず、また親の反対もあって取れなかった。

28歳で障害基礎年金受給し始めた。手続きは全部自分でやった。診断書料だけは母を拝み倒して受け取った。この頃は自分の口座残高が312円だった。

服もカバンも穴が空いて、下着サイズが合わないものを使っていた。親は海外旅行に行っていた。兄弟ブランド品を買っていた。

29歳でグループホームに入所した。元手は一年貯めた障害年金。通院頻度はまだまだ週1回。これでやっと生活を立て直せるはずが、ホーム運営がどうも杜撰

突然利用料が値上げされたり、面談の日にちや時間を間違われたり、無理やり引っ越しさせられたりした。いつ住む場所が変わるか分からないし、お金がないので1日1食、着るものも満足には揃えられない。衣食住すべてが不安定

身長163センチに対して体重は46キロしょっちゅう熱を出して風邪を引いて寝込んだ。住民税やら何やらの公的な分は払えるわけもなく、住む場所は離れても親の世帯からは出られなかったため生活保護も申請できなかった。

もとより親の職業社会的地位としてそれなりのため、申請しても通らなかった可能性のほうが大きい。

33歳でグループホームを出た。通院頻度はまだまだ週1回。軽量鉄骨のアパートに部屋を借りた。とはいえ名義は親だった。帰ってこいとは言われなかった。世帯を出ろとも言われなかった。この頃後の夫となる人と出会う。

最低賃金保証してくれる作業所に入れたが、法をかいくぐって弱者ビジネスをやっているような場所だった。生産性のない作業補助金を吸っているような場所。何度もいじめのようなことをされて状態悪化貯金体重も増えない。

35歳で障害者雇用枠のパートについた。通院頻度は週1回から抜け出せない。客からのつきまといに悩んだ。体重は少し増えたが貯金は全くできない。

37歳で「もういい、もう頑張ったよ。これからボーナスステージってことで、もういいじゃん」と言われて結婚した。その翌年、通院頻度は2週間に1回になった。体重も50キロを超えることができた。

42歳。現在洗濯をして、掃除をして、買い物に行って料理をするだけの毎日子供はいない。通院頻度は月に1回になった。

時々、この20年で縁が切れてしまった友人や、私と同じような状況で未婚の人のことを考える。余計なお世話かもしれないけど。

できるだけ簡潔にまとめようとしたけど、やっぱり難しい。20代の、文字通り血みどろの毎日と、30代の福祉制度に振り回された毎日はそう簡単にまとめられない。

書いてないけど結婚するまでの間は暴力給料未払い、20歳の時以外の自◯未遂も多々あった。必死に生きてきたというより、死なない(死ねない)だけの毎日だった。

今日、厚生遺族年金のあれこれを見て久しぶりに落ち込んでしまった。私のケースだと、週1回精神科へ通院が必要発達障害持ちの人間が、どうやって厚生年金に入れただろうかと思ってしまう。今だって睡眠薬がないと眠れない。

遺族年金が有期給付になって、夫がいなくなったら私はまた死なないだけの毎日に戻ってしまうのだろうか。せめてその時までに安楽死制度が整っていれば良いんだけど。

今は毎日穏やかだけど、時々、特に今日みたいな日は生きててごめんなさいという気持ちになる。

ごめんなさい、生きてしまって。

夏の暑い日。冷蔵庫。2Lの麦茶

もう残りがあまり多くなかったようで、「口付けて飲んじゃっていいー?」と妻の声。

良いよと返事し、それから仕事が一段落して飲み物を取りに行くと僅かに残った麦茶ペットボトル

これぐらいなら飲み切っちゃえよと思いつつ、その麦茶を飲み干そうとペットボトルに口をつけた。

かに残った口紅の味。

妻の味。

もうすぐ一年経つ。

今日あの時の麦茶のことをなんとなく思い出した。

妻はどうしているんだろう。

あっちでも、元気にしていると嬉しい。

ふと思い出したので書いてみる。

中学一年の時、クラスいじめられている子がいた。

彼女はいつもオドオドしていて、なのに変なところでスイッチが入って突然怒り狂うような人だった。

クラスから距離を取られ、無視もされていた。

◯◯菌が感染るなんて扱いもされていた。

私は彼女と関わらないようにしていた。

ある日、彼女が筆記用具を忘れて困っていた。

みんな気が付いていたが、ヒソヒソと囁き合うだけで誰も助けようとはしなかった。

彼女の隣の席であった私は、筆箱に入っていた使い古しのシャーペン彼女に渡した。

さなくていい、とだけ伝えた。

彼女はお礼を言い、その後度々私に話しかけてきたが、それらは全て無視した。

彼女がいない場所で◯◯菌のついたシャーペンなんか返してもらいたくないでしょ、と笑った。

その日の夜、彼女母親から家に電話がかかってきた。

彼女母親は、彼女友達から何かをもらうのは初めてなのだといたく感激した様子だった。

お返しをしたい、などと言われたが丁重お断りした。

正直に言って、気味が悪かった。

古いシャーペンを渡しただけでわざわざ母親からお礼の電話なんて。

なので、私はそれ以降も彼女に関わることはしなかった。

二年になり彼女とはクラスが変わり、その後彼女不登校になったと聞いたが、私は別に何も思わなかったし、今の今まで思い出すこともなかった。

私はあの時もっと関わって、彼女に手を差し伸べるべきだったのだろうか。

anond:20240724233611

専業投資家歴19年、資産10億超のものだけど、

あなたダメなのは中途半端に賢かったことだとかデイトレに手を出したことじゃないよ。勝つ戦略も持たないうちに相場に挑んだのがダメ

私の友人には相場でいろいろな形で稼いでいる人がいる。もちろんデイトレで稼いでいる人もいるけど、どの人にも言えるのはみんな勝つための戦略を持ってる。

勝つ戦略っていうのはこういう時に買えば期待値が高いってことね。

相場に勝つの必要なのは、まず勝つ戦略を持ってること、そこに適切な量の資金を入れることができること、損しても利益が出ても当初計画通りにイグジットすること、当初計画とズレたら調整すること、これぐらいだよ。

どんな投資法でも絶対勝つ投資法はないけど、期待値が高い投資ならいくらでもある。まずそこを見つけないと話にならない。そこを見つけないうちに相場張るのは単なる運ゲー

で、そういう投資法を見つけたとして、今度は適切な資金管理ができる能力がないとダメ簡単に言えば90%の確率で2倍になるけど10%の確率で0倍になる投資法はものすごく期待値は高いけど、もし毎回そこに100%の資金入れてたらそんなのいつかトンじゃうでしょ。だから期待値に対して適切なロット管理をすることが必要。もちろん、期待値の見極めってのは難しいけど。

で、インして想定通りに儲かればそれでよし、損した場合も想定通りの損ならそれもまた仕方なし、問題は想定と全然違う動きをした場合プラン修正するか、一度損切りするかを求められる。どうして読み間違ったのか考えて、修正がきくなら修正すればいいし、修正がきかなかったりわからない動きなら一度損切りする。

そういうことができれば長くやってれば相場でそうそう負けることはない。私も19年やってるけど、年間マイナスだったのは最初一年目だけだよ。

勝つ戦略も持たないうちに全力で相場張るなんて、とても正気の沙汰じゃないよ。相場だけじゃなくて、どんな仕事でも同じでしょそんなの。ラーメンの作り方がわからないうちにラーメン屋だす人っている?あなたのやってたのはそういうことで、やってるうちにおいしいラーメンが作れるだろうと思ってやってたの。で、今はラーメン屋なんて他にうまいラーメン屋がいっぱいあるから成功するわけないって言ってる。そうじゃなくて、ただただあなた相場に対して不誠実だっただけ。

まあみんなが専業投資家ラーメン屋をやる必要はないわけで、自分に向いた仕事を見つければいいだけだよ。仕事をして、長期投資をして、好きなラーメンを食べに行こう。

ドル円予測

アナリストやらエコノミストが、この一年くらいは、160円だ、180円だ、200円だって言ってたじゃん。

円高に振れ始めたから、そろそろ150円だ、130円だ、100円だって言い出しそう。

連中、現状の方向性でそのままずっと動いていくって予測ばっかりだしな。

2024-07-24

ChatGPTに成績表食わせたら褒めてくれた

なんやかんやあってなぜか学生時代の成績表が必要になり、

平均点の計算だるいのでChatGPTにぶん投げて計算してもらった。

そしたらやたらいい成績が出てきたので、根っからサボりである俺は怪しく思い

何度も「ほんとにー?何かの間違いだろ?」と確認してみたんだけど

「いいえ、合っています」と必死計算過程説明してくる。

俺も手元で計算してみたんだけど、まぁ合っているらしい。

そこで「彼はどんな学生でしたか?」と質問してみたんだけど

「全体的に非常に優秀な成績を修めています

「Cも目立ちますが、困難に立ち向かったことがわかります

コンピュータから法律自然科学に至るまで、幅広い分野に興味を持ち柔軟に学んだことが伺えます

と褒めてくれた。

そうだなー、あの頃は楽しかったな。世間的には有名な大学じゃないけど、好きなことばかり勉強できた。もう何も覚えてないけどさ。留学したくて一年から単位取りまくったんだった。せっかく留学できたのに全然話せなくて悔しかったな。受験は(はてなーには怒られるかもしれないけど)推薦だったから、入学後が人生で一番頑張った時期だった。嫁さんにも会えたし(これも怒られるかもしれない)。

ちょっとしんみりした気持ちになった。また大学行きたいなぁ。

anond:20240724000952

トップバリュの50枚入りコーヒーフィルタ、買ったの一年くらい前だった気がするけどまだ無くなんねえ……

2024-07-23

anond:20240723175402

占い師に「あなた誰とも一生結婚できませんよ」と言われたことがある。

一年後、俺はその占い師結婚することになった。

曰く「誰の姿も視えなかったので誰とも結婚できないと思ったのだが、そりゃあ自分自身から視えないわけだ」とのこと。

anond:20240723093802

これが40の誕生日になると、健康保険介護保険料が乗って絶望しか無くなるからあと一年震えて待て

anond:20240723112339

鳥山明が、ドラゴンボールが3巻か4巻くらいしか出てないころのラジオインタビューで、もう終わるつもりだとか、ドクタースランプは連載一年で飽きてたとか、語ってたのを憶えてるな。

2024-07-22

anond:20240722214906

ワイも、転職してきたら仕事しないおばさんとASDおじさん×2がいる墓場みたいな部署だったことあったで。

それなりに名前の知れた仕事バリバリ系の会社から予想もしてなかった。

一年半働いて転職したで。

anond:20240722155139

実際に支持を失ってるのかyoutubeの視聴回数をざっと見てみたが、有名になった直後で基本的10~18万、多いときは40万ぐらい。

一年前くらいが10万ぐらいが多くてそっから少しずつ下がっていってて基本5万前後都知事選関連の動画は15万ぐらいいくのもあって、この前地裁で負けたのが9.4万。

支持をやめた人もいるだろうが時間経過で詳しく情報追うのに飽きただけの人もけっこう多いんじゃないかと思われる。

正直トランプも爺さんすぎるから一年から世代交代の準備しとけば民主党当選もありえたと思うんだけどちょっと遅すぎるよなー

anond:20240722110412

さすがにこのレベルの知能じゃ馬鹿にされても致し方ないと思うが

社会科知識小学生以下、漢字ドリル一年からやり直した方がいいレベル

小卒なんか?目を疑うわ


都民からしたら国政はまた別の話って感じなのよな

は……??????

どこをどう理解したら国政…?^^;

ガラス張りの都政の意味理解できてる?^^;

マニフェスト読めてる?^^;

小池さん裏金友達から票もらえるけど、日本語読めない池沼相手にしなきゃいけない蓮舫さん可哀想^^;


小池が直前に子育て世代へのバラマキぶちあげたのはさすが選挙巧者感あったけど都民からしたらプラスイメージよね

選挙巧者ってIQが低く具体的に政策理解してるわけではないがイメージだけで投票するB層向けのプロパガンダだっけ


そういう政策でこれするぞっていうの蓮舫からはまったく見えてこなかった

マニフェストをご存知ない!?^^;

低脳すぎて^^;

から地方政治経験者の石丸の方がマシに見えるのは当然じゃん

都政と国会職務内容がなんなのかを理解してない!?議事録日本語読めないから読めないのかな?池沼すぎる^^;

2024-07-21

阿部監督、有能じゃね?

ま、一年目の成果なんて去年の持ち越しがほとんどだから何とも言えんが

それだけに原の末期は言い訳不能だった訳だけども

2024-07-20

でも医者って料金教えてくれないよね

https://togetter.com/li/2404460

↑の話。

Xで医療費のツケが話題になってるけどさ、

医者って金の話せずに急に施術し始めるよね。

こっちから「それっていくらですか?」と聞かないと教えてくれないし、聞いても医者自身は値段把握してなかったりする。

もう一年くらい前の話だからうろ覚えだけど

歯が痛くなって歯医者に行って相談してたら

特に虫歯とかではないですね。歯石取っときますねー」

とか言われていきなり歯石とろうとしてきて

慌てて「えっいくらですか!?」と聞いたわ。

大した額じゃないからやってもらったけどさ。

普通サービス業なら事前に金の合意なくサービスやるなんてあり得ないよね。

医療普通サービス業じゃないんだろうけど、ではなぜ医療現場では金の発生することを勝手にやることが許されてるんだろう。

そりゃ窓口で金がない人も出てくるわ。

2024-07-18

カンニングした理由からカンニングをやめるまで1

カンニング卑怯であり、姑息であり、やってはいけないことだ。大前提である

長いけど吐きたくなった。本当は墓場まで持って行くべきだと、ずっと思っていた。

だけどカンニングニュースを見て以来、ずっとモヤモヤしていた。過去清算をしたくなってきた。そんな年齢なのかもしれない。

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カンニングしたことがある。小学生中学生くらいまで。

私にとってテストの点数なんかどうでもよかった。友だちと遊べて、学校行事に楽しく参加できればそれでよかった。だけど親は違う。成績が全てだった。普段は優しくて褒めてくれるのに、点数を見たときは怒ってる。だから低い点数なんか取るわけにはいかなくてカンニングした。誰にもバレない上手いカンニングをしていた。

こんなことを言えば「カンニングをするなんてクズ」「性根が腐ってる」「カンニングした奴はぶん殴れ・退学」みたいな意見が出ると思う。そうだろう。自分もそう思う。そう思っててもカンニングはやめられなかった。やめたら点数が悪くなる。そうすると親に怒られる。第三者から指さされるより、自分の母に怒られるのだけは死ぬほど嫌だった。

「なんでこんな低いの?」「なんで勉強もっとしないの?」「遊んでいるからだよね?」と責められる。

でも当時の私はそれに「はい、ごめんなさい」しか言えなかった。小学生だった当時の自分は「なんで?なんでがわからない」としかならなかった。しかし言えば「ふざけてんの?」と絶対に怒鳴る。怒鳴らなかったとしても頭悪いと思われるという事実が嫌だった。怖くて怖くて怖い。母が自分否定してくるという事は、小学生自分にとって死ぬことの次に嫌な事だった。母がキレたときの金切り声が嫌だった。

そして勉強しようと机に向かう。何もわからない。何をどうすれば覚えられるのかわからない。あ、そうだ、聞けばいい、そう思っていたのは最初だけだった。今思えばやらなければよかった。

小3くらいの時、学校先生に「これがわからない」と聞く。先生は小ばかにしたように「こんなのがわからないの?!」と大声で驚く。クラスメイトに丸聞こえ。クスクス声が聞こえた。「わかんねーから聞いてんだよボケカス」と思った。「ひたすら書けばいい」と言われた。どうしても根本的な説明が欲しくて何度も聞いたが「あー、はいはい。これは教科書のここみて」と言われただけだった。先生はそのまま1軍のグループと一緒に遊んでいた。

また塾で算数範囲簡単でどんどんレベルアップして、学校で習っていない割り算に突入した時がある。初めてみる記号でわからない。いつも親切に教えてくれる信頼していた大人休みだったので、別の人に「教えてください」と言ったら「は?!こんなのわからないの?!」と言われたのが今でも鮮明に思い出す。「えと、初めてみる記号で…」と怯えながら言うと「ぷwwww割り算なんて簡単だよ。ほら6÷2は、鉛筆6本を2人で割るんだよ」と。明らかに面倒くさそうな態度だったから「あ、はい、わかりました」と切りあげた。"割る"という概念すらわからなかった私は適当に解いて採点に出す。全部バツだった。泣きたくなった。全部バツ人生で初めてだったからだ。

中学受験期、受験用の塾に通い始めた。わからないことを塾の先生に聞いた。「この程度で質問しにくるの?こんなとこスルーしていい」と言われた。「この程度もわかんねーから聞いてんだよ」と思った。教えてくれたけど「こんなの簡単。余裕だよ。試験になんかでないよ」と言う。私にとっては本気で悩んで本気でわからなかったことだった。それは簡単なことで質問する質じゃない。自分質問することは簡単すぎて馬鹿にされる。そう思うようになった。

親に聞く。「塾(または学校)の先生に聞きなさい」と言われた。怒られるかもと思い何度もお願いした。しかし母は上から目線で「ねぇ、なんでわからないの?こんなに説明しているのに?聞いてる?」と言った。私が「どうしてそうなるの?」「なんで?」と聞きすぎたのかぶち切れた。「理由より覚えろ!」

そこからかに質問するのをやめた。

積み重ねによって、わからない→この程度もわからない・簡単と言われるだろう→自分馬鹿→なら勉強したって意味ないじゃん。といったループになってた。

解説を読んで「なるほど」と思っても、何も見ていないと何もわからない。テキストを解いても見たことある問題だなで終わってしまう。そして解説を見て「あれと同じ問題だったのに覚えていない。自分記憶力はダメなんだ。自分馬鹿なんだ」と自分が嫌になる。もっと勉強が嫌いになる。自分も嫌いになる。間違えちゃだめだと普段勉強試験並みのプレッシャーを感じていた。そしてもっと勉強が嫌いになって机に向かっても宿題に答えを写す作業だけしてた。

また、父は「遊んでこそ人生。いろいろ遊べ!」そんな人間だったので、私は父親っ子だった。それもあって母に内緒で父と一緒に出掛けたり、買い物をした。バレたときは怒られたが父はヘラヘラしていた。母が父に怒らないようにカンニングをしていたのもあった。私の点数がよければ母は怒らない。父も怒られない。兄弟に飛び火がいかない。

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理科だけは楽しかった。星とか断層とか自然には興味があった。だから塾のテストでも理科だけは点数がよかった。全国順位も高かった。だけど一個だけ点数がよくても塾のクラスは上がらないし、母は「理科ひとつできたところでねぇ…」と言う。中学受験のメインは算数国語から特に褒められなかった。理科のみの受験なんてないからだ。

父は勉強のことを「お母さんに聞いてね」としか言わないのでテストの点数を見せても「点数なんて気にしちゃいけないよ」と言う。励ましだと思うけど当時の自分は母と父、どちらも点数を褒めてはくれなかった。

はいつも比べる。○○さんは、兄は、テレビのあの子は、同い年なのに、あんたも同じ塾通っているのに。そして仲の良かった友人を嫌がっていた。あの子のお母さん嘘つきだから、あの子貧乏で意地汚いから、あの子小学生テストすら0点だから別に仲いいなら良いけどというが、そんな言葉は嫌いだから言うのだ。

ある時、酷かった国語テストの点数を書き換えたこともある。先生と同じペンを使ってバレない程度に書き換えた。と思ったがうっすらとバレた。「こんなに間違えているのにこの点数なの?」その時の母の目を今でも覚えている。

母に疑われている。怒鳴られる。○○さんは×点なのにと比べられる。なんで?責めされる。また遊びが規制される。兄弟と比べられる。この子は頭がよくなくてと紹介される。こんな子に育てた覚えはないと言われる。塾の金が無駄だったと言われる。教えてもくれないのに勉強を傍で監視してくるようになる。趣味バカにされる。

そんなことがドッと脳内を襲ってくる。おぼれて死んでしまいそうな罪悪感と恐怖で吐き気が喉元まで来るが、飲み込む。「そ、そんなことないよ」と答える。大きなため息をされた。冷や汗が止まらなかった。塾のラウンジでみんなが帰宅だと盛り上がる中、テストを見られて責められていた。小学生の頃のある日の記憶だが、今でも思い出すと頭痛吐き気がする。

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カンニングがひどくなる。塾で一回遠回しに指摘された。親に連絡入っていなかったが、でもやめられない。「バレない方法は」と考え、バレない方法にたどり着いた。でもカンニングには限界があって多少は点数がよくなっても多少で止まる。

でも楽だった。カンニングさえすればちょっと点数が上がる。本当は自分の実力で勝負しようと勉強を頑張った。でもわからない。わからないのにやらなきゃいけない。怒られる。怒鳴られる。金切り声が響いてしまう。頭に全く入らない。やらないといけない何かをこなしているだけだった。

勉強する→わからない→宿題が進まない→進捗を見に来た親に「これしかやっていないのか」「なんで?」と責められる→わかんないと言えば「解説をみてもう一度解くの」と言われる→解説を見たとき理解する→また自力で解くがわからない→解説をみると同じ系統問題だと気が付き自信を無くす→やる気がそがれて進まない→進捗を見に来た親に…と責められる時間自己嫌悪時間になる。

勉強なんて嫌いで仕方がなかった。答えを微妙アレンジして写すだけの日々だった。勉強時間なんて写すだけなので10分で終わる。10分で終わると親が怪しむので、父が持ってた漫画を借りてこっそり読んでいた。自分の部屋があって良かったと思う。

「私、そばで見ているから」と母が監視しながら塾の宿題したことがある。しか問題を見てもまず何をすればいいのかすらわからない。ずっと悩んでいると「寝てる?」「集中しなさい」としか言わない。怖い。責めてくる。「全然進んでない。なんで?」「なんでわからないの?」と責めてくる。私は「ごめんなさい。わからない」しか言えない。解説バンと渡される。解説が難しすぎてわからないと母に言う。「文章の通りでしょうが!」と怒ってくる。ますます頭が痛くなって解説が頭に入らない。文字が嫌になる。責められる。そして私は限界に達し「わかんない!うるさい!ババァ!」と叫ぶ。母と喧嘩をして「親になんて態度だ!」と家をつまみ出される。そして「私が悪かった」と泣きながら家のドアをたたく。「勉強しないあんたが悪い」「勉強すればこんなことにはならない」と責めながら家に入れてもらう。そんなのばっかりだ。兄は第一子だから母は優しかった。弟は末っ子だったから母は優しかった。私だけいつもこんなんだった。

でも優しいところもあるからすべてが嫌いになれなくて嫌だった。誕生日は祝ってくれるし、お年玉だってくれる。私の好きな食べ物もわかっていて「あなたが好きな食べ物よ!」と夕飯を豪勢にしてくれることだってある。「男たちには内緒ね」と高級なお菓子をくれることもある。旅行にも連れて行ってくれる。だからなおさら怒らせたくないとプレッシャーがかかった。小学生の頃、勉強の話を家でしたくなかった。みんなで楽しく生活しているのに私のせいでぶち壊れる。勉強して追い込まないとと思っても全然できない。そして誰も見ていないお風呂で泣いてた。勉強のできない自分なんて。何で覚えられないんだ!バカだ!バカ!と自分が大っ嫌いだった。枕が濡れることもよくあった。

小学生の頃には戻りたくない。社会人になった今でも思う。社会プレッシャーの方が何倍もましだ。

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小学校テストは授業を聞いていれば簡単ですぐ解けたのでいつも満点だった。でも母は「学校のはあたりまえじゃん」と笑っていた。塾のテストだけを見て、塾のテストだけで怒っていた。

結局、中学受験面接が重視されるところに受かった。おしゃべりは得意だった。

他の筆記だけの場所は全部落ちた。筆記だけのところはカンニングしていた。でも落ちた。そんな程度の能力だ。私は。カンニングしておいて落ちる。クズバカだ。

親としては微妙ライン学校だったらしく「受かって良かった」と言う裏では明らかに嫌がっていた。反抗期がくっそ尖っていた時期に「やっぱそんな学校いれるんじゃなかった」と言われていたのを覚えている。私が大好きな学校のせいにするなと私は怒ったから覚えている。

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中学に入っても母はテストの点数を見てきた。英語が酷くてすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。英語は将来必要だとかどうでもいい必要性を1時間述べて、英語を教えてあげると言われたが上から目線だったので、案の定私はキレて断った。

そんな中、中学一年先生は優しかった。一年が終わる時の面談勉強が苦しいと相談した時こう言われた。

「君はどんなタイプの子でも仲良くなれる。これほどまでいろんなグループの人と仲良くなれるのは僕の教師人生40年で初めてだ。確かに成績は良くないけど、そこだけで落ち込まなくていいんだよ」そこで初めて勉強以外を褒めてくれる先生出会った気がする。

「君の友人の**って子は成績がいいから、その子相談してみたら?」と目から鱗だった。自分小学生のころから同級生と比べられていたせいで同級生に聞く=恥だと思っていた。人に質問する=恥だとも思っていた。

そこからカンニングをしなくなった。した記憶もないし、していないと断言できる。

成績は悪かったが、学校生活はとても楽しかった。先生たちは私の成績に頭を抱えていた時もあったが「まぁ、君は学校を楽しんでいるからいいか」みたいな感じで責める人はいなかった。学業以外で頼られることも多かった。追試会場でも追試仲間と一緒に先生に「授業が面白くない・わかり辛い。こうしてほしい」と相談することも増えた。そこの校風職員室がカフェのようなノリで入れるため、おしゃべりが好きだった自分先生に遠慮なく雑談を仕掛けた。そこからテストの点数が悪いぞお前→じゃあテストどうすればいい?→ここを山にして覚えればいいんだと教えられる→山なら授業のあそこがわかり辛いなどを相談する。

追々々々試くらいまでしょっちゅう行ったことがあるが、先生バカにしてきたことは一度もなかった。むしろ「君はよく逃げずに会場に来るねぇ」と感心していた。そこから追々々々試に来る、忍耐だけあるバカ共に一から丁寧に教えてくれた。ありがとう先生

そこから母への反抗期が激しくなった気がする。父方の祖母が亡くなったからのもあった。祖母戦争体験者で父と似ていて「自由笑顔であることが一番」な人だった。私はそっち派だった。母からしたら姑としていつも喧嘩していたのは覚えている。

から何を言われても「うっせぇんだよ!」で返した。小学生の頃は母に怒られたら怯えるしかなかったが、中学高校は「世の中は勉強だけで評価されるんじゃないんだ」と感じ、勉強のことしか言わない・認めない母と時には殴り合いになった。

後半→https://anond.hatelabo.jp/20240718233140

天使なんかじゃない

10年以上前の話、就活で病んで誰にも言わず最後一年留年して、当時LINEやってなかったからそのまま人間関係ごっそり消失した。当時もっと恥を忍んで周りの友人に自己開示して相談すればよかったという後悔が漠然とうっすら続いていたけど、友人たちも人生かかった必死な時期だったし余計な負担かけられないというのも当たり前だった。みんな自分人生に全力で向き合うために適度に周りをシャットアウトしていたし。それが正しかったと思う。

相談することでなんとかなったか問題ではなくて、周りに友人と呼べる人がいたのに傷つくことが怖くて心を開かなかったことがなんてもったいなかったんだろうと、その後数年くらいの孤独感の中で悔やんでいたんだった。

と、このまえお盆に会う予定を立てて久しぶりに話して思った。

天使なんかじゃないの8巻で主人公の翠が高校3年生の夏、仲間たちがいつのまにかはっきり目標決めて邁進してる中で自分だけ何になりたいのかもわからず迷走し、それまで熱い友情恋愛かましあってた仲間たちにも深入り出来ず、仲がいい教員も本人が自分で乗り越えるしかいからと翠をやんわり突き放す、という局面がある。そんな空回りの時期の翠が、親が作り置いてくれたご飯を食べているとふいに涙が溢れて止まらなくなるというシーンがあった。

あのシーンが矢沢あい漫画の中で一番印象に残っている。

天ないは絵柄が変遷しまくっていたけど、絵だけで言ったら2、3巻頃が好き。

なんか自分記憶と違うんだけど

翠は美大予備校では友達はつくらなくてなんとなく孤独感があって8/10の昼に予備校から帰ったときに親がいないか自分コーンフレークを用意して食べてるとき孤独感が表面に出て涙が出てくるみたいな話じゃなかった?

結局晃が誕生日を覚えててネックレスもらうんだよ

anond:20240719171824

このトラバが正しいです

元増田のは記憶違いでした!

最近知った違法なこと ホスト風俗の紹介をすること

職業安定法

六十三

次の各号のいずれかに該当するときは、その違反行為をした者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。

一 暴行脅迫監禁その他精神又は身体自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者募集若しくは労働者供給を行い、又はこれらに従事したとき

二 公衆衛生又は公衆道徳有害業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者募集募集情報提供若しくは労働者供給を行い、又はこれらに従事したとき

 

簡単に言えば、マインドコントロールや、色恋営業や、借金を返済させるために仕事を紹介するのが違法らしい

 

参考:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index_00037.html

 

昭和22年法律らしいが

昔はもっとたくさんあったんだろうな 

anond:20240718124308

この話はよく聞くけど、本当に豊胸手術が日帰りで済むなんてことは、普通の人はわざわざやろうとは思わない。特殊業界の人だけがやるってことは、それなりの理由があるんだろう。風俗とかグラビアのためにやるんなら、そりゃあ他の人には関係ない話さ。

それに対して、身長伸ばす手術なんて考えるだけで恐ろしいし、そんな危険なことをする必要があるのか?一年もまともに動けないって、それだけで生活が壊れるだろ。結局、社会要求してくる無理な基準に押しつぶされる弱者が出てくるだけで、誰にも得はないんじゃないのか?

人生どん底小学校とき

私の両親は6歳のころに離婚した。

ある日突然、父が私と姉を実家に連れて行った。

父は離婚したくて、両親に相談したところ連れて来いと言われたそうだ。

母は大変驚いて、何が何だかからなかったそうだ。

ところが、祖父母は「私ちゃんは育てられない」と言ったらしい。

父は祖父会社で働いていたし、両親の手がないと子供を育てられない、自分だけでは育てられないから、両親の言うことを聞くしかなかったらしい。

祖父(父の)は祖母(母の)に電話をして、「その家を三日以内に出ていけ、お前の娘(母)は大阪に連れて帰れ」といったそうだ。

母は私と姉を父の実家に迎えに来た。私はその時のことを覚えている。

祖父母母親の言い争う声、母の泣き声、今なら母が不憫で仕方ない。

母は当時28歳とかで、父は37歳とか、実家は遠方で誰も頼れず、誰にも気が付かれず、頭のおかしい義両親にいじめられていたのだ。

母の実家サラリーマン家庭であることを馬鹿にし、週に何度も小言を言いに訪問し、二人の娘のうち、一人だけをかわいがり、母は参っていたんだと思う。

そんな状況の中で子ども拉致られ、取り返しに来たら罵倒され、姉の方は絶対に返さないけど、妹の方なら連れて帰れと母は言われたのだ。

「私ちゃんは本当に息子の子どもなのかわからないわ。」

祖母が実際にそういったらしいが、隣にいた私の父は一言反論もしなかったそうだ。

母と私はこうして二人で暮らすことになった。

別居状態で姉の親権一年ほど争っていたけど、父から婚姻費用も貰えす、離婚は成立していないので母子家庭状態かつ収入もほぼないのに児童扶養手当も貰えない状況で、母は離婚に応じるしかなかったらしい。

父は私に毎週会いに来た。父は私のことが大好きで、一緒に暮らしたいとしきりに言っていたし、なんでも買ってくれて何でも食べさせてくれた。

私は父が大好きだった。

母との暮らしは極貧だったうえに、母は病んでしまってアル中、家はゴミ屋敷だった。

家の中にコバエが死ぬほど飛んでいたし、シンクはカビだらけ、家中めちゃくちゃだった。

怖いもので、私はそんな家の中でまともな感覚を失い、その状態に完全に慣れていた。細かいエピソード割愛させてもらうが、私も母もまともじゃなかった。

そんな中、母に彼氏ができた。(離婚後、男遊びはまあまあしていたみたいだけど、さすがに育児放棄はしてませんでした。毎日帰ってくるし、男を連れ込んだりもしてません。そんな中一人の男が彼氏になりました。)

これを読んでくださっている人の中には、ヤバイ!って思った人がいるかもしれないけど、そうです、やばいです。

この彼氏DV男でした。すぐ不機嫌になるし、すぐキレるし、機嫌を取ってあげないといけないタイプでした。なんでや!!!

母はこの男と付き合いだしてから、家にいるときはずっと電話していた。マジでずっと。

母はキッチンでずっと電話してて、私はリビングで一人でご飯を食べて一人でテレビを観て、母と会話なんてほぼしない生活になった。やば。

私が母と話したくて話しかけに行くと、あっち行ってて、って感じだった。なんかかわいそうになってきた笑

まあ当然私は不愉快まりないわけで、最悪!!って感じでした。

その男と初めて会ったのはいつだったかな、忘れたけど、私と母でその男の住む地域に遊びに行った。

その時、その男は私と母をいろんなところに連れて行ってくれたけど、私は終止不機嫌。

なんせ父が大好きだったし、母が違う男に夢中になり、無理やり連れてこられ、何もうれしくないんだから

その帰りの電車で母に叱られた。

私は何も反論できなくてぽろぽろ泣いた。なんか悲しくて悲しくて仕方なかった。

そのうち私と母の暮らすアパートに男は入りびたるようになった。最悪である

母とその男喧嘩は壮絶で、すごい怒鳴りあうし、母は携帯を折られるし殴られるしガチやばかった。

私は殴られたことないけど、なんで付き合ってるのかわからなかった。

夜、私に風呂に入ってこいって命令して、私が風呂に入っているときに子作りしていた。グロすぎ。ちょっと成長してからあの時のあれって...ってなった時吐きそうになったわ。

そのおかげで、私が小3のときに母に赤ちゃんができたので、母はその男結婚すると言い出した。意味不明だった。

引っ越すから父や姉と会えなくなるし、転校することになって、今度は私が病み散らかした。

私と母は、その男が住んでいる県に引っ越した。毎週のように会っていた父とも会えなくなり、友達もいない、親戚もいない、来たこともない土地連行された。

小4にして人生どん底、母しか頼れないのに、母は新しい夫の世話と赤ちゃんに追われ、私は人生でこのときが一番孤独だった。

私の反抗的な態度に腹を立てると、男はその文句を母にぶつけて喧嘩がはじまる。

喧嘩は私のせいだと母に怒られる。

(あと母のいないところで若干セクハラされたことある実は。忘れてた。)

私と母はこのころから毎日のように喧嘩していた。今思えば、私の反抗期(?)と母の余裕のなさがベストマッチだった。

私は母に殴られるし、物投げられるし、首絞められるし、髪をハサミで急に切られるし、児相案件では??って感じだった。

母も母で、めんどくさい男の機嫌を損ねるうっとうしい娘と生まれたて赤ちゃんを抱えた貧乏生活で、すっごい大変だったんだと思う。今ならわかるよ。

まあ自分で選んだんやろって昔は思っていたけど。

当時はマジで貧乏で、母は私に、「パパに電話してお金もらって」って言ってきてた。

正直これは本当にしんどくて、父は母にお金を渡したくないから、超板挟みだった。ちなみに母の再婚後に父は養育費を払うのをやめました。

母もわかっているから、私が欲しいものを買うお金をもらう体で頼めって言ってきた。あれが必要、これが必要、あれが欲しいこれが欲しいって言えみたいな。

私はその電話を本当にしたくなかったけど、母は絶対に譲らないから、電話するまで何時間でも迫ってきた。

小学生の私はそこで折れないほど強くなかったから、父に電話してた。

父にお金をせびるのは中学生くらいまで続いたかな、父には申し訳なかった。私もつらかったんだけどね。

私は本当に病んでて、小学生の頃は腕切ってた。笑


中学校に入ってから人生楽しくなってきて、部活勉強に忙しくしてて、私の中で家庭が占める割合が減ってきたから、そこまで病み散らすことがなくなった。

母と男と弟で普通家族なのに、私邪魔じゃねって思っていたことぐらい。

でも母との仲は最悪で、喧嘩ヒートアップしてた。私も体力がついてきたので普通に殴り合いしてた笑

そういえば母はなぜか友達と遊びに行くことをよく思っていなかったのがすごく不思議。その喧嘩すごく多かった気がする。

高校受験の時はそれなりにもめた。私は県外の高校に行って親元を離れたかったけど母は猛反対。

私も頑張って説得しようとしたけど、結局無理で戦意喪失勉強する気が失せて公立落ちて私立に進学することになった。


高校に入ったらもう無敵、親に何言われようが無視。なんでも強行突破できるくらいには私も強くなった。

バイトも早々に始めたけど、はじめの一年くらいは母管理だった。普通お金取られてたけど、ほんと大したことない。小学生の頃のつらさに比べたら屁でもない。

あ、高校自分のせいで私立なっちゃったので学費バイト代で払うと申し出た。

3か月に一度13万くらいの引き落としがあって、私は月3万母に手渡し。

補助金は後から振り込まれるので、いったん払う必要があり、私はバイト代を渡していた。

私立助成が月3万ちょいあるから絶対黒字だったけど、私そんなに払わなくてよかったけど払ってた。自分私立選んだんだし、母はいるって言い張ってたし。

あと携帯代も1万円渡してたから、毎月母に4万円手渡ししていた。

からいっぱいバイトしてた。友達出来てすごい楽しかたから、別に苦じゃなかった。

さあ大学受験!私は絶対実家を出るという強い意志があったので、都内大学に進学することを決めた。

ここでみなさん心配してくださったかな、お金あるの?って

父の出番が来ました。父です。私の父は先述の通り私大好きなので、私が上京するよと言ったら大喜び、生活費を出してくれることになりました。

父は都内に住んでいます

さすがに一緒には住まなかったけど、生活費(家賃光熱費、食費)を毎月定額で支援してくれた。

わたしってスーパーラッキーガールだと確信しました。なんて恵まれてるんや。

ちなみに学費は全額借金です。これは仕方ないし文句もない、私の責任において私がしっかり返済する。

大学行けただけで大感謝。ほんと素晴らしい人生ラッキー人生

大学入学し、一人暮らしがはじまると、お金に余裕は全然ないながらも、めっちゃ楽しい生活

ただ定期的に母から金貸してって言われることがだるいくらい。消費者金融かに借金してほしくないから貸してたけど返ってこないのであげたことにする。

母と距離を置くようになったらめっちゃ仲良しになった。最高。マジ友達

私と母は一緒にいろいろ乗り越えてきた戦友で、家事育児(弟)も完全ツーオペで、離婚再婚貧乏DVも全部一緒に一生懸命乗り越えてきた戦友。

母の苦労を一番わかっているのは私で、私のことを一番よく知っているのももちろん母。

母は立派な親じゃないし、立派な人間っていうわけでもない。

親なのに、母なのに、大人なのに、って私はずっと理想の母と比べていたけど、母は母でしかないことにようやく気が付いた。

母は母なりに一生懸命やったし、母もどうすればいいかからなかったし、申し訳ないとか本当はこうしたいとか、いろいろ考えてたはず。

から今恨んだりしない。文句全然言うけど母を断罪できるほど私は偉くないし。

ちなみにDV男はDVこそしなくなったけど、(何回か警察沙汰になってる笑)いまだにわがままくそ自己中男です。

でも昔に比べたらほんと丸くなった。ちなみに私のこと大好き。マジで帰省するの超楽しみにしてるっぽい笑

さて、ただちょっとだるいことがまだありまして、父です。

父は私を溺愛しているから、私と一緒に住みたいとか、将来は一緒に住もうとか、私と暮らすのが人生目標だったとかいろいろ言ってきます

皆さんどう思いますか。

どういった経緯で離婚に至ったのか思い出してください。

私はちょっと複雑なんです。

私と母をある日突然捨てておいてって思っちゃう。姉と突然引き離して。

離婚はどっちが悪いとかじゃないとはいえ手段は悪かったんちゃいますの。

父がいなければ大学に行けてないし生活もできてないか感謝はもちろんしているけど、私と母がどんだけ苦労したと思ってます???

ついでに姉も大変病み散らかして大変こじらせていて、ヲタク高校中退のフリーター

姉が父の実家でどんな思いで暮らしてきたと思っているの。ある日突然母親を奪って。

私は母に申し訳なくて父と一緒に住むことはとてもできない。でもはっきりそう言えない。今は父に生かされてるから

これはコンプレックスの話なんですけど、いとこの存在が私の家庭環境コンプを刺激するんです。

母の妹は二人いて、それぞれ結婚して子供がいて専業主婦

それぞれ大変なこともあると思うけど、私の目には普通幸せな家庭に写る。

いとこたちは両親がそろった家で、食べるものにも住むところにも困らず、お金の苦労も知らず、本当に大切に育てられている。

めっちゃいいことなんだけど、私がなんだか惨めで。

全くの他人ならこう思わないけど、身内だから...

誰かを恨んでいるわけじゃないけど、自分が惨めで仕方ない。

私が欲しくて欲しくて仕方なくてどんなに努力しても頑張っても望んでも絶対に手に入らないものを生まれながらに持っているじゃん。

普段は接点ないから感じないけどたまに関わると自分が惨めになってて。

そんな自分が一番だるい

そんなどうしようもないこと考えるなよって思うけど、ほんとに誰にも言えなくて、誰かに聞いてもらったらすっきりするかなと思ってこれ書くことにした。

長すぎて誰も読まないかもしれないけど、私の誰にも言えない話を読んでくれたら本当にうれしいしこの気持ちが晴れる気がする。

家庭環境系の話って友達にできないんだよね、重すぎて。

読んでくれて本当にありがとう。読んでくれる人がいたらまた思い出話させて。

2024-07-16

追記あり底辺非正規自炊マンの俺が毎日作ってる丼

自炊話題が盛り上がっていたので書いてみる。

材料

・米 食べたい分

ピーマン 1個

えのき  適量 1/5くらい?

キャベツ 適量 1/6くらい?

玉ねぎ 1個 あるいは半分

ツナ缶 一個


調味料

サラダ油

チューブ生姜

チューブにんにく

コショウ

醤油

・酢

四川ラー油


作り方:

玉ねぎ一口サイズくらいに切る。皮を剥いた段階でフライパンを強火にかけておく。

キャベツ一口サイズに切る。フライパンが温まってれば油を入れる。

ピーマン一口サイズに切る。油が温まってれば玉ねぎを投入。

えのきを縦に三等分に切る。根本はほぐれやすいように適当に刃を入れる。玉ねぎを軽く混ぜる。

フライパンチューブにんにくチューブ生姜を投入。この際特に生姜がよく跳ねるのですぐにキャベツで蓋をする。他の切った具材も投入。

ツナ缶を投入。混ぜる。

コショウを投入。混ぜる。この後少し放っておいていいのでまな板包丁を洗う。

⑧少し焦げ目が入ってくるらいが一番うまいので香ばしい匂いがしてくるまで少し混ぜては放置する。

香ばしい匂いがしてきたら酢、醤油ラー油を適量混ぜたものを投入。軽く混ぜる。

⑩1、2分たったら米の入ったどんぶりに上から乗せて完成。

うまい!!

キャベツはその時によって小松菜になったりほうれん草になったりする。一度スーパーで見かけたタァサイという葉物を使ったらうまかった。

玉ねぎ長ネギになるときもある。長ネギでもうまい

ツナを豚コマか何かに変えて玉ねぎにんにく生姜を入れた後に肉を入れ、その後酒と⑨の調味料を入れてから他の具材を投入して炒めたものを作ったら感動するほどうまかったが、ツナ缶のほうが楽なので2、3回ほどしか作っていない。

という飯を一年間ほぼ毎晩、誇張抜きで365日中350日ぐらいは作っては食べている。飽きはしない。むしろ下手にファミレス牛丼屋に行くくらいならこっちのほうがうまいし安いので余程疲れている時しか外で飯を食わない。

安さとうまさと手軽さだけで作ってるから栄養面とかもっとこうしたほうがうまいとかあったら教えてほしい。

以下追記

思ったより反応があって嬉しい。いくつか返事を書く。

>おいしそう

せやねん!作ってみて!

>作ったよ!おいしかった!

嬉しい!ありがとう

>糖尿になりそう

せやねん

玉ねぎ多くない?

せやねん。保存するよりそのまま使ったほうがうまいからそのまま使ってるけど、作りたい人はお好みで量調節してくれ。俺も本当はピーマン2個いきたいし、えのきももうちょい量があれば玉ねぎとの釣り合いがとれると思っているが、何分底辺非正規口座ボロボロリボ払い月20000円男なのでな。贅沢はできない。できないのだよ。

>卵入れたら?

なんか俺はいまいち卵のそのフライパンの端でやるやつが下手でな。卵食いたいとき卵かけご飯にしてその上にこの料理を乗せてる。でもそのやり方でやってみたいか研究してみる。

黄色野菜が足りない

なるほど黄色野菜盲点だった。人参入れてみようかな。

自画自賛になるが、この料理の最も素晴らしいところは自由カスタマイズに堪えうる懐の深さだと思っている。具材を細かく切ればそれこそ餃子タネになるだろうし、ナスとかもやしとか入れてもうまいはず。ごま油とか使ってもいいし、豚キムチレシピを調べて掛け合わせてもうまいだろう。この中で俺がやったことがあるのはナスだけだが。

興味を持ってくれた人は是非作ってみてほしい。キミだけのカスタマイズで最強のオリジナル料理を作るのだ!!

鬱だったのだろうか

ある時期を境にどんどん数学ができなくなってきた。

大学一年線形代数あたりは反復と気合いで乗り切ったが、物理数学単位を落とし力学明け方まで追加課題をやってどうにか単位を得た。

サボっていたわけじゃない。脳の論理的思考を司る部分がまるで動かないのだ。情報はその場限りで記憶が利かず、したがって情報を組み合わせて物事理解することが困難になった。それまでは法則公式は丸暗記というよりは毎回頭の中で図形やなんやらをイメージして導出するタイプだったので本当につらかった(今もつらい)。ワーキングメモリが小さくなった、いやゼロになった感覚

でも誰にも理解されなかった。私を軽い抑うつだと診断した医師ですらこの点をスルーした。

あれから2年経った。今はうつ状態の症状はワーキングメモリ消失以外にはなく普通に過ごしている。最近Twitter自分と似たような状態についてのつぶやきがバズっており、初めて鬱と脳の状態の関連に思い当たった。

このまま生きていっていいのか?もう元に戻る方法はないのか?周りに理解して欲しいのかしてほしくないのかもわからない。所詮うつ病とは診断されなかった程度だしなぁー。

20年以上、なんだかんだで一年に一回選挙があるとして20回以上投票権行使してきたと思うが投票した人が当選したこと数回しかないような気がする。

正直、投票権がなくなっても俺は困らない。

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