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はてなキーワード: 安心感とは

2018-09-24

anond:20180924222343

レスありがとうございます

10danceから遡って読んだ他作品が期待と違ったというレビューがあり、気になって踏み切れず、という感じでした。

違和感まり無いんですね、じゃあ読んでみようかな。

絵柄が変わらないというだけでもかなり安心感があります

anond:20180915214027

NEC研究提案会議テーマリーダープレゼンを行い、研究所長と中央研究所長が審査するものです。件の研究テーマも、江村氏の責任の下で承認されたもののはずで、それを「まだ~」という発言は極めて無責任だと感じました(私もその場にいました)。また、私がその分野に明るくないことを差し引いても、当時の技術水準であの研究テーマは極めて先端性を有しており、今後20年間のSIビジネスをけん引できる可能性に満ちているものだっと思います。それこそ、「企業の基幹システムAWSマイグレーションNEC見積もりも含め、一番仕事が早く、安心感がある」、というようなステータスにすることは可能だったと思います。江村氏はCTOになる以前は、常々からNECSIをもうやりません」と公言していましたが、NECSIビジネスレベニューの増大は不可能でも、規模としてのシュリンクが非常に困難です。そのため、最低限のSIビジネスをやっている人たちが、それで食っていくための武器必要です。特に外部リソース活用が不得手なNECにとって、NEC発の技術なのかどうか、非常に大きな意味をもっています。私がかかわるところでは、顔認識世界でみれば3流ですが、それでもNECであることを最重要視して商流に乗せています

専門性をもってビジョンを示すことは研究者として重要であることには同意しますが、それは提案を聞く姿勢がある場合に限っていえることです。江村氏の経営では、「わからんから却下、再提案」ということが横行していました。その分野のビジネス判断として事業部ネゴシエーションテーマリーダは実施してニーズ特定し、ビジネスチャンスを示すこと。そしてリスク要因として将来そのビジネスを取り巻く環境変化を示しても、江村氏はそれらを理解できず、却下することがしばしばありました。無論、配下研究所長がリーダーシップを発揮し、責任をもって推進する、と援護があれば進むこともありますが、NECではそのようなリーダーシップをはぐくむことは不可能でしょう。なぜならNECリーダーは、自身責任明確化しないまま、YesともNoとも言わずに、上位のポジションが空くのを待つことが基本姿勢からです。結果、研究者が優れた業績を上げればそのウマに乗ってポイントを得るし、却下した研究テーマで他社が優れたポジションを獲得しても、そのテーマ投資しなくて正解だった、などと宣うのです。

また、CTOブログ言語道断な内容という主張についても、元の増田同意です。研究資金獲得において、江村氏の発言は全く参考になりえません。資金投入の考え方として、客観指標主観指標の2つの側面があります。まず、エビデンス世界情勢への理解といった点で、客観指標としてガートナーレポートに遥かに劣ります。一方、主観指標として役に立つかといえば、意思決定として、NECが注力すべき研究テーマもぼやけており、責任をもって推進する、という姿勢は全く見えません。元の増田氏は江村氏をIT音痴と評していましたが、私はそれに加えてビジネス音痴でもあると思っています。江村氏が重要視し、集中投資したすべてのテーマ競争優位性を確保することができていません(劣化診断や農業ICT、そして漏水検知は試験プレスは出ているのに、正式に導入されたプレスは出ていないことからもわかります)。それを踏まえれば、キャピタリストとしてのCTOに対する評価は、落第も良いところかと思います。それでも江村氏がそのポジションについていることは、単に大チョンボやらかし研究出身の國尾氏の後釜という意味合い以上のものはないでしょう。

先日の増田以来、研究所内でも重役に対する評価が変わってきたことは喜ばしい点でもありますリーダーシップを発揮しようとしない所長に対するレポーティングは省力化を優先するようになりました。彼らはビジネスを動かすことも、資金調達することも存在感を発揮できないだろう、という見方が強まってきています。この、影響力がない仕事コストを下げようという試みが機能するかどうかは、彼らのプライド次第という面もありますが、うまくいかなければ転職しよう、という現場の考え方が出始めているように感じています

そうしたきっかけをつくってくれた元増田氏には最大限感謝と、そして今後のご活躍を祈念しております

2018-09-23

九大の放火事件大学教員無責任

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/

九大でなんともいえない陰惨な放火自殺があった。46歳、元院生非常勤雇止め経済的困窮…多くの大学教員が彼に感情移入して色々なことを語る。いわく「他人事とは思えない」、いわく「自分が彼だったかもしれない」など、など、など。だけど、特にテニュアを持った教員たちが彼にばかり感情移入しているのに違和感が募る。

あんたが彼だったかもしれないだってテニュア持っててそりゃないだろ。あんたは彼じゃなかったんだよ!

業績か、人柄か、助けてくれる周りの人か、はたまた運か。なんであれ、彼にはなかったものあんたにはあったんだ。彼か彼のような人間を蹴落としてポストを得たんだろう?思うように書けず、書いても今ひとつうだつが上がらない。そうこうしているうちに同年代は職に就いて輝いてみえる。同情してくれる人もいるが解決自分で探さなければならない。研究会に出ればキラキラと光る年下がいて、その彼・彼女就職していく。そんな中で自分をみてしまう。顔向けできない。バイトも忙しいし、研究室には夜にそっと行こう。そんな彼の心象や悩みと、テニュアを得たあんのものが一致することはもはやない。

自分もそうだ。危うくキャリアが途切れそうになったことはある。しかし、結局、年上の任期助教がいるのに旧帝の教授だ。科研費に落ちることもない。今後は大学ともども酷い目に遭うだろうが、それは九大の彼とは全く違う類いのものだ。どっちが悲惨かはともかく。

自分が今後立つこともない地平に立っていた彼に感情移入して、甘美な感傷を味わうのも、その裏からそっと染み出てくる安心感を味わうのもまあよい。

だけど、他にやるべきことがあるんじゃないか。我々が彼に接するとしたら、彼の元指導教員であり、なんとなく薄暗いものを感じつつ関与を避けてきた周辺分野の教員であり、相談を受けて同情と困惑の入り混じった反応を返す先輩同業者であり、あるいは研究室不法占拠する輩を追い出す教員や、焼けた肉片を前に後始末に追い回される教員なのである。いや既に2人目の、あるいはもっとおとなしい彼にそうした立場出会っているかもしれない。その時に、ある種の覚悟をもって彼に別の進路を勧め、占拠している研究室から追い出して彼に引導を渡し、巻き込まれかねない他の学生や周囲の人間を守れるのか。それが彼のような人を蹴落としてポストについた人間責任ではないのか。なぜこっちの立場に立って想像しないのか。

しょせん、安全地帯に立ちつつ抑圧される側の夢を見て、世の中のひどさを嘆きたいだけなのか。心優しい誠実な無責任跋扈する自分業界を見たようであった。

2018-09-22

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術

12話の最終回まで見終わった。

エッチなシーンも多かったが、作品としては12話で上手くまとまっている気がした。

無茶な展開も少なからずあるけれど、おおむね分かりやす伏線が張られて、

後半できっちり回収されてゆくスタイルアニメは見ていて安心感があるね。

2018-09-21

いのちの電話が繋がらない事に安心感を覚えた

俺以外の誰かが電話してるか、24時間対応なんて看板は嘘っぱちで夜中はちゃんと休んでいるか、そのどっちかという事だ。

ふふふ、24時間対応しますなんて言って本当に対応することになるようなブラックばかりじゃないなら素晴らしいじゃねえか。

俺以外にも死にてえ奴がいるってならいい事じゃねえか。

ポジティブだなあ俺は。

こうやって考えられているうちはまだ大丈夫だってことだ。

安心したぜ。

いのちの電話、始めて使ってみたがなかなかいサービスだな。

チクり入れてパワハラ加速させるだけの企業カウンセラーより万倍役に立つな。

良く出来てるなあ。

2018-09-20

やっぱり寒い方が好きだな〜なんて思ったりね

じっと毛布にくるまるこの安心感

2018-09-18

ヤバいエロが読みたいかゾーニングはして欲しい

 ゾーニング論争はエロ嫌いvs.エロ好きの戦いではないし、さらに言うならオタク嫌いvs.オタクの戦いでもない。少なくとも私にとっては。

 何故ならエロ好き&オタクの私もゾーニング派だからです。

 エロ絵そのものはいいんですけど、エロ絵を日常に持ちこむ人、それを当り前だと思っている人の感性が怖いですよね。たとえば猫虐待してる絵が表紙の本が本屋にずらっと並んでたらどうですか。ツイッターで「猫いじめさいこー」とか盛り上がってる人たちがいたらどうですか。猫の飼い主、怖くならない?

 以下、個人的な話なんですが参考までに読んでみてください。

 私はかつて小学生だったときネット彷徨い偶然エロテキストサイトをみつけてしまい、最初はあまりの衝撃に速攻ブラウザを閉じたけど徐々に好奇心が湧いてきて一通り読み漁ったという過去があります

 ここで良かったのは私が元々本好きでフィクションに慣れていたので、『これは架空物語であり特定欲望を満たすための都合のいい展開である』ということを認識できたことと、文字媒体なのでどぎつい描写モヤモヤ~とした映像しか頭に浮かばなかったこと。

 小学生が明らかに18禁小説を読むのはよろしくないことですが、ともかくそんな感じで私は『女性性的に辱められる』『極端に男性に都合のいい設定』『とにかくエロだけを追求した話』『びっくりするほど下品であけすけな隠語』というもの嫌悪感はなかったのです。だってそれはそのサイトいかなければ読めないものだったし、自分が読みたくないときは読まなければいいのだし。

 それは刺激的で、斬新で、背徳的で、ジャンクフードのような中毒性がありました。普段は見ないけど、たまにひたすら頭の中の興奮ボタンを連打したくなったときに一気読みして、はー楽しかった、終わり、ってすっきりしてました。

 しかし同時に、私はネットでしばしば予期せずでてくるエロ広告嫌悪していました。私はあくまで刺激が欲しい時にエロ摂取したいのであって、いきなり飛びこんでくるエロはお呼びでないのです。むしろ「女を都合よく辱める創作を女に見せつけてもいいと思ってるんだ」と屈辱的な気持ちになりました。

 おわかりになるでしょうか? 「私が見たい時だけでいい、あとはいらない」と言うとわがままのように思う方もいらっしゃるかもしれません。

 これも本音なんですが、本質はもうちょっと深いところにあります

 エロテキストサイトとどこにでも湧くエロ広告の違いは、受け取り手能動性の差です。

 エロテキストサイトを見る場合、私は「荒唐無稽現実離れしてる刺激的なエロい文が読みたい」と意識してからサイトを開きます。私がそう思って行動しない限りサイトは開かれません。そして、サイトにはエロい話ばかりが集まっていますエロくない話の中に騙し打ちのようにエロい話があるわけではないので、そもそもこれはエロくてヤバい話を読みたい人向けのサイトだとわかります。つまり、「今から読む話では女性人権が滅茶苦茶に蹂躙されてるけどみんなこれが架空だってわかった上のお遊びだから大丈夫」という安心感があります

 ところがエロ広告は、求めてもいないのに突然バン!と現れますしかも絵なので防ぎようがありません。日常なかに現れたドギツい描写こちらは面くらい、そして、「こんなヤバいエロ日常なかに放り込むなんて、この発信者もしかしてヤバいエロ日常を別枠だと思ってないのでは?」という恐怖を味わいます

 まぁ、今思うとエロ広告はむしろ不意打ちをこそ狙ってるんでしょうね。エロなかにあれば目立たないエロも、日常なかにあれば目立ってありがたがられますからね。ジャンプ過激化するお色気系漫画とかもそうなんでしょう。エロ漫画としてはそこそこでも少年誌の枠内では超エロ、っていう。

 でもね、人間、慣れるんですよ。

 嫌がってる人はなかなか慣れませんが、好きな人特に気にしてない人は普通に慣れますロリコン公言とかハイエースとかね、最初は「俺たち過激なこと言ってるぜ」っていう昂揚感、ヤベー奴スゲーみたいなとこから始まって、今ではすっかりネットミームでしょう。

 小学生恋愛対象に想定するタイトルとか、女の子がめちゃくちゃ露出してるとか、そういうのがありふれ過ぎて、日常浸食している。意図せず目に入ってくる。そういう状況は怖いです。

 ラノベは昔からエロ絵あったとかい意見もわかりますが、さすがにここまで多くも露骨でもなかったですよ。ホライゾンの表紙はラノベの中でもわりと異色だったように思います。少なくともエロい絵として喜ばれるぐらいには。今、特にオタクの中で話題にならないじゃないですかエロい絵の表紙。もう当たり前になっちゃったんですよ。

 露出の多い女の子が恥ずかしそうにしてるとか、乳首が浮いてるとか、パンツ見えてるとかの絵、女の子性奴隷に、だの、ロリがなんちゃら、だのいうタイトル、が『女性性的に辱められる』『極端に男性に都合のいい設定』であり、『日常とは隔離された架空のおままごとである』という認識が薄れてきていますだって日常にあるんですもの

 大人になってから触れた人はまだいいですよ。それなりの分別はあるでしょうし、もし影響されて何かヤバいことしたとしても本人の責任です。それが大人ってものです。

 でも子供のうちにあれが日常と地続きにある環境は確実に問題があります。ただでさえ子供のうちは架空現実の境目が曖昧なんです。自分で言うのもなんですが私は特殊例で、ヤバいエロに触れるずっと前に親から子供の生まれ方や性的に気をつけなければいけないことを教わっていましたし、架空物語との付き合い方をわかっていました。だから女性人権が滅茶苦茶に蹂躙されているエロ』という箱を脳内に作り、これは日常とは絶対に交わらないものとして区分けできたのです。

 でも無視できない程度に日常ヤバいエロ浸食していくようになるにつれ苦痛を感じるようになりました。エロ広告ぐらいならまだ対処しようがありました。ネットを使って行くうちに、なんとなくエロ広告が出そうな場所を察知するようになり、それを避ける術を身に付けたので(もちろん取りこぼしはあります)。

 でもアニメ漫画ラノベツイッター動画サイト、ありとあらゆるところに蔓延ヤバいエロ思想オタクをやってると避けて通れない、どころか今やオタクじゃなくても目に飛び込んでくる数々の女体エロ絵。

 かくして私は『女性人権が滅茶苦茶に蹂躙されているエロ』を読めなくなりました。もはやそれは日常の地続きにあるからです。「お話の中ではとことんヤバいけど私は安全」とは思えないからです。

 何故ヤバいもの日常に持ちこみたがる人がいるのか、私にはわかりません。まぁ彼ら怖くないんでしょうね。女体持ってないから。でも、自分達にとって『日常にあっても怖くないし楽しいもの』が他人にとって『日常にあったら怖いもの』だということはわかって欲しいです。

 言われそうなので先に書いときますけど私は少女コミックとかもどうかと思ってます。今は知りませんが数年前に読んだときは「え~……?」と思いました。エロ描写自体はたいしてないですが、安易に性行為突入する展開が多く、さすがに注意書きとかレーティングとかがいるのでは、と。あれは表紙は無難なのでその点はラノベエロ表紙よりはましですが。

 BLの表紙も、扇情的すぎるのはキツいです。中身はエロくていいから表紙はやめてくれ。私はBLも嗜んでるんですがやっぱり日常に現れるエロは嫌です。エロ広告とかも最近はたまにBL系のやつをみかけることがあり、エロ広告の常として過激なとこを抜き出してくるので無理矢理描写とかが多いんですよね。日常人権無視思想を入れて来ないで欲しい。私は心構えをして、人権無視した話が読みたいと思って、自分で専門の場所にいったり専門の書籍を買い、そして初めて人権無視創作を楽しみたい。

 要は「これは人権無視している」という認識を確かに持った人々が愛好する人権無視創作じゃないと、「ひょっとしたら人権無視だと思わないでこの創作を楽しんでいるのでは?」という恐怖に苛まれるんです。被害妄想じゃないですよ、私結構な数の「ロリとつきあって何が悪い」って言ってる人見ましたからね……思い出すだけでキッツい。

 だからゾーニング(○歳以下禁止、表紙にエロやら辱められてる人間やら未成年との恋愛示唆する内容は出さない、コーナー作る)したいんですよ。日常とごっちゃになってるのほんと無理。殺人事件の本はあるじゃんとか言いますけど、本の表紙が首絞められてるとことか眼球に針刺されそうなとこのアップとかだったらぎょっとするでしょう?

 しかも今のネットだと「人の眼球刺すのすげぇいい」の場合

「え、刺したことあんの?(こいつヤバくない?)」

マジレスやめろよ、あくまフィクションだって

「えぇ……(大丈夫かな)」

 でしょうけど

小学生エロい、さいこー」の場合

「わかる」「それな」「JCBBA

かになりかねないわけで、この人らが内心「もちろん冗談だけど」という気持ちだったとしても字面だけ見れば既に倫理崩壊してるんですよ。正直眼球刺されそうな絵より可愛らしい絵柄の「ロリが俺のこと好き」みたいなタイトルの本の方が怖いです。これ(https://twitter.com/traductricemtl/status/1039259936453283841)の「今日から俺はロリヒモ」ってやつ、さすがに萌え絵エロ本かと思ったらMF文庫でヒィッってなりました。マジか……。

 元ラノベ読みなので別にラノベみんなこうなわけじゃないのは知ってますが、各社サイト行くと恥ずかしそうな顔で露出したり胸と股強調された服の女の子の絵ほんと多いなぁと思いますMF文庫特にヤバいな。

 露出過多で恥ずかしがってる女の子可愛いって言うのぶっちゃけいじめっ子の感覚だし、纏足して足が小さくなったせいで転んでしま女の子可愛いって言ってるのと同じですよ。

 頼むから皆さんヤバい思想には自覚的に向き合ってくださいね……。

 私はなんの心配もなくヤバいエロが読みたいです。

2018-09-17

パチンコで3日で2万負けた

うつ病がきた。秋になったからだ。10年前の秋にあまりに異常な仕事精神を病んだ。それ以来秋になるとそのとき自分脳内ロードされる。

僕は、うつ病になるとパチンコを打つ。自傷行為に似ている。パチンコのすごいところは、当たってまったくうれしくないところだ。単に安心するだけだ。緊張から開放される、不安から開放される。安心感だけがある。

パチンコにはなにもない。ひとりだ。僕とパチンコ台だけ。なにもない。意味もない。金と時間無駄のきわみだ。それを3日間くりかえした。そして2万まけた。ソシャゲ時代の今となっては大きな金額でもないようにも思う。僕はソシャゲをしないけれど。

そして、こうして、ここに負けたと書いている。果てしなく意味がない。2万あればいろいろできただろう。そう思う。ただ、それができないかうつ病なんだ。別に熱くもなってない。ただ、なにもしなくても結果が出てくるパチンコは気が楽なんだ。巧くいけば、巧くいったと喜べる。単純に。なにもしていないのに。偶然なのに。自分がそれを導いたかのような錯覚が得られる。負けてもいい。負けても得るものがある。傷が残る。

毎年のことなんだけど、どうしようもない。助けて欲しくもない。

2018-09-11

あの時私はフォロワーさんに恋をしていたのかもしれない

先日、この掲示板での投稿を見てみて、ほほう世の中にはこんな便利なものがあるのかと思ったので使ってみることにした

書きたいことはあるけど、それの為にいちいち個人ブログを立ち上げたりするのも面倒だし、そうなると書く場所とかってなかなか思い浮かばないしで。こういうものがあるなら使ってみたいなと思ってやりました

信じられんかもしれないがこういう事もあるんだぜ、っていうのを読んだ人に「ほーん、そうなんすか」って気持ちで眺めて貰えたら嬉しい。ちなみに結構長いです

で、本題に入る前に少しだけ注意

今の私は20代の女だ。そして、一応腐女子です。知ってると若干分かりやすくなるかな?と思うので言ってみたけど、まぁそういう人種

何を隠そう、腐女子の方がここで書いた記事を読んで、私も自分のことを話してみたくなったのだ

けどこの腐女子ってことは別にそんな本題には絡んでこない。腐女子からどうだ~ってことは無いので、ぶっちゃけそんな気にしなくても大丈夫

んで、この話は私が高校生の頃のこと。結構前なようでまだ全然前じゃない気もする。少なくとも数年前に遡るので、元々記憶力が皆無な私の中で抜けてる記憶が多々あるんですよ

から思い出せない部分は「確かこうだったか…?」って感じで継ぎ接ぎしていくので、多少フィクションも入ると思っといた方が良いと思う。そうじゃないと万が一当時の関係者に見つかった時に「おまえの言い分全然違うじゃねーか!!」って言われても困るし。ごめんよ私の頭がニワトリ以下なために

星の数ほど腐女子なんざ居るだろうけど、万が一ね

前置きが少し長くなりましたが、ここからタイトル通りの本題に入ろうかと思います

記憶を手繰り寄せながら書いていくよ


当時、私は今とは全然違うジャンルに居ました。マイナージャンルだったので、数少ない同志様達との距離は他よりも近かった気がする。やっぱ数が少ないと更に仲間意識が強くなっちゃうから

その中で、私が彼女に会った経緯はそんなに覚えていない。腐女子の繋がり方なんざ、タグやらフォロワーさんのフォロワーさんやらと、とにかく色々あるのだ。とりあえずそういうののどれかで、私は彼女と初めて繋がった

彼女名前はNちゃん。私より年下で、多分中学生くらいだったと思う。とにかく私より年が下で、妹のような感覚だったのを覚えている

そんなマイナージャンルだったからか何なのか知らないけど、当時フォロワーさん同士で「嫁」と「旦那」を決めて更に仲良くなる~みたいな遊びが流行っていた。

この時点で意味が分からない。いや、そもそもコレ意味あんのかな

決め方は適当特に仲良しの人同士で役割を決めてプロフに書いたりしてた。何でそんな事やってたのかは今思うとわからん。そのジャンルしか当時居なかったから分からないけど、もしかして腐女子共通の遊びだったのか?

コレ、他の人から見たら意味分かんないだろうな…私も今はやろうと思わないし

でも、今にして思うとコレが最大の誤算だったのかもしれない。こういう役割を下手に決めてしまたから、私はあそこまでにはなってしまったのかも

で、その嫁と旦那という遊びを、私とNちゃんはやることにした。Nちゃんが嫁で、私が旦那。何でそれになったかあんまり覚えてない。まぁ事の成り行きで?

とりあえず、そこからお互いプロフに嫁とか旦那とか書いて、周りのフォロワーさん達からはあそこ仲良しなんだなーくらいの認識で見られてた(と思う)

勿論お互い他のフォロワーさんとも繋がってたけど、この「夫婦制度」のおかげで私とNちゃんものすごく仲良しになった。言ってしまえば毎日ラブラブなような日々を過ごしていた、というか

楽しくなかったと言えば嘘になる。いやホントはめちゃくちゃ楽しかった。毎日のようにお互い好きだー!愛してるー!とリプ上でイチャイチャイチャイチャ

外野から見たらキモいだろうが、少なくとも当時の私達は楽しくて仕方がなかったのである

そこからどれぐらい経ったか、私達は二人から四人になっていた

私達の他にも夫婦が居て、その二人と仲良くなったのだ

名前は…ゴメンぶっちゃけあんま覚えてない。アイコンは覚えてんだけどな…あとフォロワーさんってポンポン名前変えたりするからさ…

まぁ、嫁の方をSちゃん旦那の方をOちゃんとしておこう

四人になってからは、更にそのグループで固まっていた気がする。他のフォロワーさんとも皆仲良くしているのに、その四人で居るのは別格だった。要するにグループが出来ていたのだ。誰にも入り込めないような、そんな結束力のあるグループ

多分その頃が全盛期だったんじゃないかなー。楽しかったもんめちゃくちゃ。この四人で、そして私の大好きなお嫁さんが居ればそれで幸せだった

幸せだった筈なんだけど

ある時から、私には良くないものが生まれ始めた

簡単に言ってしまうと、嫉妬心である

Nちゃんが他のフォロワーさんと話しているだけで、ものすごく嫌な気持ちになってくるのだ

Nちゃんは私のものなのに、私のお嫁さんなのに、どうして私以外と話したりするの。みたいなことを本当に思っていた。

同時に「お前フォロワーさんと話すな言われても無理だろムチャ言うなや」とも思っていたので、まぁ理性と本能のせめぎ合いが毎日始まった

加えて、Nちゃんには私よりも仲良しそうな神絵師と、リア友でもあるフォロワーがそれぞれ一人居たのだ。私には到底到達のできない画力を惜しみなく使う神絵師とめちゃくちゃ仲良さそうに話すNちゃんも、私には分からないリアル学校の話をするNちゃんも嫌で仕方がなかった

けど、私は年上で、Nちゃんは年下だった

そのことが、私の嫉妬心を何とか抑えていた

だって年上の女が年下の女の子に対してそんな醜い独占欲を顕にするなんて、到底考えられないだろう。少なくとも私はそうだった。だから全部を隠してNちゃんと一緒に居た。そうすれば、彼女は私のお嫁さんで居てくれるから

Nちゃん失望されるのが、一番怖かった

ここで一つ言っておくと、別にNちゃんはめちゃくちゃ絵が上手いとか超絶美少女かいうわけではない。ちなみに何度かリアルで会ったことはありますホント本人が見てたら申し訳ない。けど事実

その上で、私はNちゃんものすごく大好きだった

絵師とかじゃなくてもいい、普通女の子でいい。実際会って話をしたらもっと好きになった。これで私も名実ともにリアルにお友達になれたと思って、めちゃくちゃ喜んだ

ただ、Nちゃんのことがとてもとても好きなだけだったのだ

けれどさすがに、私は少々おかしいのではないか?と思う気持ちが、私を苛み始めていた

だってこんなのおかしいだろう。相手は年下の女の子なんだぞ。年下で、フォロワーさんで、会ったのは数回程度で、そんで、女の子

私も女だ

ホラおかし

もしや私は同性愛者?レズっていうよりバイ?いや、そもそもコレは恋なのか?お互いが一番と決めてしまたから、そうじゃないと嫌なだけなのでは?

そんな事を色々と、延々と考えた

一つ言っておくけれども、決して同性愛をする方々のことを侮辱するつもりは無い

でもね、やっぱ初めてそういう気持ちにぶち当たるとね、こういう気持ちなっちゃうもんよ。しか高校生だったしね。素直に受け入れるのは難しかったんだ

今なら、好きになる気持ちにやっぱ性別関係ないんじゃないかなー、と思う。相手女の子なのを悩むのと同じくらい、女の子かいうことを差し置いて好きだ!ってなってたから。女の子でも男の子でも、中身がNちゃんならそれは私の好きになったNちゃんなんだしさ

今まで散々推しカプに言わせていた「男とか女とか関係ない!お前だから好きなんだよ!」という言葉が改めて理解できた瞬間であった。なるほど、こういう気持ちなのだな。うんうん分かるよ分かるよ

が、それとこれとはまた話が別である

その時ハッキリしていたことは、この気持ちを決してNちゃんに悟らせてはならないということだった

私が逆の立場なら、とりあえずビビるビックリする。そしてその後は、好きの度合いにもよるけど、もしかしたら気持ち悪いってなるかもしれない

そう、ドン引きされて、気持ち悪いって思われるのなんて無理だ。心が壊れる

なので私は、毎日毎日湧き上がる嫉妬心を抑えて、少しでも私の存在彼女に焼き付けようと日々頑張っていた。もう私以外と話したりしないでほしい、私だけ見ていてほしい、なんて気持ち悪いことを思いながら

そして、私を驚かせる事件が起きる

なんと、旦那のOちゃんが、離れた場所に暮らす嫁のSちゃんに、クリスマスに会いに行ったと言うのだ。リアルで。

聞いた時は「ええええマジで?!」と思った。ウッソだろお前。逆ならまだしも、Oちゃん学生だぞ?!っていう

Sちゃんは既に成人していたかその間近だったと思うので、逆ならまだ分からんでもない。だって大人もの。けど、Oちゃんはまだまだ学生身分。多分私とそんな変わんないぐらいだったと思う

しか結構距離を離れて暮らしていたと思うのに、Oちゃんは自らの足でSちゃんの元へと向かったのである

しかも、しかもだ

Sちゃんの頬にキスをして、Oちゃんは帰ったと言った

もう衝撃とかい問題ではない。マジで?という感想しか出てこなかった

私は、素直に羨ましいと思ってしまっていた

実際にクリスマスに会って、頬にキスまでして、お互いラブラブで帰って

そんなの、本当の恋人同士のようではないか

なんて羨ましいんだろう

みたいな、そんな気持ち悪いことをひたすら考えてしまった

私はひっそりとお互いに聞いてみた。もしかして、本当にそういう仲なの?と

二人は、「うん」と答えた記憶がある

私は「そんな事が本当にあるんだな…おめでとう!」と祝福したのを覚えている

羨ましい、羨ましい、私もそうなりたい。他の誰でもない、お嫁さんのNちゃん

本当は、心底そう思っていた

けど、言えるわけ無かった

だって本当は分かっているのだ。お嫁さんだの旦那さんだの何だのと言いつつ、私達は二人のような関係にはなれないことを。何より、そんな事になったら、Nちゃんのこれから人生に陰りを落としてしまうと思った。こんな私とそんな仲になったなんてこと、Nちゃんにとっては汚点でしか無いと思った

だってNちゃんと、私の好きは違うんだから

当時の私は、本当にNちゃんのことを女の子として好きだったのかどうかは理解できていなかった。そもそも喪女だし、人を本気で好きになったことなんかほぼ無いし

つまるところ、好きの感覚が分からない

しか相手女の子。好きかどうか考えるより、この気持ちをどうにかして無くしたいとも思っていた

そうすれば楽になれるのに、と

私とNちゃんの好きが違うことも、私が望んでいることは決して実現出来ないことも、全部全部承知の上だった

から私は最後までNちゃんに、本当の本当に気持ちを打ち明けることはしなかった

私って気持ち悪い、気持ち悪い、こんな疚しい気持ちがあるなんて、彼女恋人同士になってみたいと思うなんて、と、毎日考えて自己嫌悪に陥ることばかりしていた

そんなこんなで日々は過ぎていくのだが

陰りは私達以外の夫婦にも、実は見えていた

嫁のSちゃんが、私に頻繁にLINE相談をしてくるようになったのだ

内容はあんまり覚えていない。確か、Oちゃんの束縛が酷いとか怖いとか、そんなんだったか?みたいなレベル

話を聞いてなかったんじゃなくて私の記憶力が無いだけです。すみません

けど、私はNちゃんのことも好きだが、この二人のこともそれはそれは大好きだったのだ。Nちゃんに向ける気持ちとは全く違うが、二人には二人の幸せを掴んでほしかった

私とNちゃんでは到達できない所に、私の分まで行ってほしかった気持ちもある

二人の存在に助けられたりすることもあったのだ。主に、「そういうことを考えるのは私だけではないのだな」という安心感に関して

そんで、Sちゃんには相談されるけど、同時にOちゃんにも相談され始めた

内容は…とりあえずSちゃんの事ばっかだったな、うん。もう記憶忘却の彼方だよ

Sちゃんから相談が来ればその後Oちゃんから相談が来る、それが終わればまたSちゃんから……終わらない無限ループである

けど、私は二人に頼られていると思って、必死にお互いの仲を取り持っていた。もう別れる!無理!と言いつつも翌日にはラブラブになっている二人を見て、「良かった、仲良しに戻った…」と安心していたし、私のおかげかと思って嬉しくもなった

しか

私は大抵、自分の言いたいことを押し殺して誰かと誰かの間に入るのが癖だった

中立で居たいんだよね。どちらかに偏って、一方だけを贔屓にするの好きじゃないんだ。まぁ、他人と争う勇気がない臆病者なのだろうとは思うけど

そしてその降り積もった「言いたいこと」は、押し殺せば押し殺すほど途端に爆発してしまものであるということを、私はあまり理解していなかったのだと思う

その日は、明日大事用事があるから早めに寝よう、と思っていた。何の用事だったかは知らない忘れた。とりあえず、その日の私は十分な睡眠を求めていた

そして眠りについたが、深夜2時くらい

LINEが来た

何だ何だ…と思いながら見ると、旦那のOちゃん

またしても喧嘩したらしい、Sちゃん

たかよ。というか今何時だと思ってんだ。と思ったけど、私は話を聞いた。早めに切り上げたらまだ全然寝れるだろ、と思ったか

しかし、思いの外話は終わらなかった

正直寝たくて堪らなかった。そもそも私は三度の飯より睡眠が大好きなのだ邪魔されてはたまったもんではない

でも今回の話を聞いているとなかなかに切羽詰まった印象を受けたので、出来る限りのことをしてあげたかった。なので私は最後まで話を聞き、きちんとアドバイスをした

ほんと寝りゃ良かったのにね。「今話したいんだろうなぁ…じゃあ今聞いてあげないと」とか思ってたからこうなるんやで自分

Oちゃんは、「ありがとう。○○に話したら何でも解決する。本当にありがとう」と言って、結局Sちゃんとはお別れをするという結論に至ったらしい

まぁSちゃんとOちゃんから同時に別れる!別れない!別れる別れない!の話を連日聞かされていたし、今回ばかりはこの子も懲りただろう…と思ったので、これでようやく終わった…と私は安心して眠りについた

その時刻はもう夜明けだった

翌日、眠りはしたものの、全然十分じゃなかった私のコンディションは酷いものだった

しかし頑張った

そりゃネット上の友達もかけがえのないものだが、リアルだって大事なのだ

だが、その後私に送られてきたLINE

「やっぱりヨリを戻すことにした」

というものだった

そこで、堪忍袋の緒が切れた

ハ?私はあれだけ睡眠時間を削って話を一から十まで聞いてお互いが相談したり愚痴ったりしてることを悟らせないように上手く立ち回って、しかしどちらかの味方は良くないからそれも考慮しつつその結論に共に至ったというのに、コイツらはまたこうなったのか?そしてまた今後も私はコレに振り回されるのか?

一気に怒りが湧いてきて、Oちゃんに怒りのLINEを返した

降り積もった我慢が遂に崩れたのだ

こうなると、私は最早怒りを抑えたり相手を許したりするタイプではないと、自分でも分かっていた

Oちゃんから謝罪が来た。まぁ怒ったからな私。けど許す気も無かったし、また仲直りした所で同じことが起きるのは明白だった

私は、このジャンルから逃げ出してしまいたいと思った

もう嫌だ

こんな事に巻き込まれるのも、全然まらない怒りも

ずーっと胸の中で燻っている、Nちゃんへの感情

全部全部無くしてしまいたいと、心の底から思った

結果的に、私は全てのことをTL上でバラして、そのジャンルから姿を消した

文字通り、全部ブチ壊して

簡単に言うと、LINEの内容全部バラして言いたいこと全部言って一方的に消えた。そんな感じ

そのジャンルから離れる時って、まぁキャラに飽きるってこともあるんだろうけど、私の場合人間関係が多かったかもしれない

そこにある人間関係が嫌になって、全部ブチ壊して去ってしまうのだ。その時は自分に悪い所などは無いと思っていたけれど、今となってはなんてTL上の方々にご迷惑をお掛けしてしまったのだろうかと自責の念に駆られている

それでも、本当に頭に来ていた。とにかく何か仕返しをしてやりたかった、相手迷惑な行動を晒し上げてやりたかった。大人気ないと今でも思います。ごめんなさい。

旦那のOちゃんとは、険悪な雰囲気のまま別れた

けれどコレに関しては私も我慢限界だった。ので、謝る気は今も無い

Sちゃんとは、またどこかで会えたらいいねと、若干お互い気まずいまま別れた

Nちゃんとは

正直なところ、あんまり覚えてないんだよね。どうやって別れたっけ

離れる前、夫婦を解消しようってちゃんと言ったのは覚えてる

そんで、思いの外アッサリ、いいよって言われたのも

その時、私は本当に、この子と私の好きは最初から最後まで別だったことを実感した

引き止めてほしかったのか?行かないでと、一人にしないでほしいと言われたかったのか、どうなのか私には分からないけど

ただただ、寂しい気持ちが残った

私は彼女が居なければ当時生きていけないくらい、彼女が好きだったけれど

多分、彼女はそうではなかった

私が居なくたって、きっと私じゃなくたって、誰かが一緒に居てくれるのだろう

それを最後に痛感しながら、私はそのジャンルから卒業したのであった


とは言っても、腐女子から卒業できるわけも無いので()相変わらず別ジャンルで元気に腐女子をやっているよ

もうあれから何年も経ってしまったし、あの時の自分について落ち着いて振り返ることも出来るぐらいにはなった

好きの感覚がわからないとは言ったものの、恐らくこれは恋と呼べるものだったのではないかと、今更ながらに思う

あれからジャンルを移行しても仲良しの人を作るのが怖くて、意識的に人を避けていた。フォロワーさんは居るけど、絶対大事な人は作らないように心がけた。またNちゃんの二の舞になってしまっては自分が困るからである

けどまぁ、続けていればそれなりに付き合いの長い人も出てくるわけで。特定の仲良しさんを作らない!という私の決意は時間と共にどこかへと行ってしまったわけなんですけど

でもそれのおかげで、Nちゃんに向けてた想いを改めて考えることができました

私には現在、お互い別ジャンルをやってるけどめちゃくちゃ仲が良いっていうフォロワーさんが数人居ます。単純な仲良し度で言えばNちゃんと多分変わらない。

でもね、当時彼女に感じていた凄まじい独占欲愛情はその人達には全然向けてないし、ましてや『そういう関係』になりたいと思ったことなんて一度も無いのよ

から、ああやっぱりあれはそういう事だったのか、と。

けど今ではその気持ちも薄れてるし、なんといっても昔のことなので、全ては推測でしかない。だから、恋してたのかも、というレベルに留めておこうと思う

私が彼女に今思うことはただ一つ

あの時はありがとうね。今はもう私のことなんて忘れてるかもしれないけど、それでも良いんだよ。幸せになってね。ということだけです。

以上、ここまで読んでくれてありがとうございました。当時のことを振り返りながら書けて楽しかったです。

今じゃネット恋愛もそんなに珍しくないけど、当時は、というかその時の私は自分感情を本当にアブノーマルだと思って否定し続けていました。今ならまだもうちょっと落ち着いて受け止めることができる…かもしれない

ずーっと自分語りで申し訳ないと思ってます。でもスッキリしたよ。

それでは、閲覧ありがとうございました。

2018-09-10

駅のトイレかいうこの世でもっともアテにならないもの

通勤時間便意というものは、毎日労働に勤しむ諸兄姉ならば一度は経験したことがあるだろう。

意に反し、ブツ肛門から排出されようものなら、我々の名誉マントルを超え、内核に至るほどに失墜し、人間としての尊厳を保つことは到底不可能だ。

数週間前、某SNSにおいて電車内で排泄してしまった男の写真晒し上げられた。目にした方も多いのではないだろうか。

ただ電車内で排泄してしまっただけならば、SNSバズるほどには至らなかったはずだ。彼が話題になったのには理由がある。

写真から推測するに、彼は電車内で極度の便意を催した。そしてあろうことかその場でパンツおろし、排泄の実行に至ったのである

常識では考えられない行為かもしれない。しかし実は彼の行動は賢い。

パンツを履いたまま液体状になったブツを排泄しようものならば、車内で軽蔑眼差しを向けられるうえ、電車から降りた後も茶色に染まったケツは芳醇な香りを纏い、公衆面前を移動し続ける。

お気に入り一張羅も二度と日の目をみることはなくなってしまう。

しかし、その場でパンツさえおろししまえば、車内で軽蔑眼差しを向けられるだけで済むのである。一時の恥を凌げば、何事もなかったかのように一日を優雅に過ごすことができる。

腹もスッキリして絶好調だ。

だが人生はそううまくはいかない。SNS晒し上げられたのは誤算であっただろう。彼の気持ちを汲み取れば、写真を撮ってSNS晒すなどという残酷まりない行為はできないはずだ。拡散に加わった人間も含め、猛省していただきたい。彼の擁護はこの辺にしておこう。

誰もが行う生理現象にもかかわらず、閉鎖空間での便意は恐怖の対象となる。しかし、その恐怖から我々を救ってくださる存在もある。近場のトイレだ。

近くにトイレさえあれば、短時間我慢と引き換えに自身尊厳を保つことができる。幸い、一部の小さな駅を除けば、駅にはトイレが併設されているのが一般的である

「次の駅で降りればいい」

その安心感が、極度の便意すらも和らげてくれる。

はいかない。人生はそううまくはいかないのだ。

次の駅で降りたところであなたスッキリすることはない。

通勤時間の駅のトイレあなたと同じ便意支配された人間が直線状の先入れ先出しコミュニティを築いている。

ここであなたは考える。残りの通勤時間と、コミュニティに加わる時間を天秤にかけるのだ。

そして大抵の場合通勤継続したほうがよいという結論を得る。

駅のトイレはすぐに救ってくれない。その事実を、ほとんどの人間理解している。あなた理解していたはずだ。

から緊急時に立ち寄ることはほとんどないし、緊急性がなければ薄汚れた駅のトイレを使おうなどとは考えない。

存在意義はあるのか。

2018-09-07

anond:20180907232401

俺の記憶が正しければ、女性専用車過去に二度地裁裁判の争点になっていて、

どちらも合法って判決だったんだけど、最初の一回では効果があるみたいに断じてたが、二回目では安心感がどうのって言ってたと思う。ううむという感じだ。

オレ個人電車それほど乗らないのもあって、あまり義憤も募らないが、四両のうち一両が女性専用車? ってまあキツそうだね。女性専用車増田活動は偉いと思っているが、対話している二、三人? の中には罵声がヒドい奴がいるようだ。専用車増田は無理はしないでほしい。論理性やら説得力で負けてるとは思わないので静観しているよ。

anond:20180907231808

ま、こうなるだろうとは思ってる。

男性差別問題根深い。

痴漢から避難という意味女性たちに安心感をもたらすという公益性がある」

「いちじるしく合理性を欠くとは言えない」

この予想は多分正しく、そして男性差別価値観如実に表してる。

女性安心感」を重視する一方、差別される男性気持ち物理的損害を無視してるし、女性専用車両の効果すら定かですないのに「合理的」扱い。

JR集団訴訟を仕掛けたらどうなるだろう

専用車両差別ではあるよね派だ。

集団訴訟してみるというのもアリだとは思うが、しかしこれは勝てない気がする。

痴漢から避難という意味女性たちに安心感をもたらすという公益性がある」

「いちじるしく合理性を欠くとは言えない」

などと言われて切って捨てられると思う。

ところで被害の声が多いか否かで差別かどうかを決めるべきではない。もしそれが許されるなら、差別を「解決」する有効方法は、被差別者を抑圧して黙らせるということになるから

2018-09-06

主役が出てくる事の安心感がイヤ

映画アニメの何が面白いって、やっぱり予想を超える展開だよね。ドキドキハハラな、あの感覚

ヤバそうな廃墟や夜道で敵を追うシーンで「うわぁ~殺られるかも~?!」って目が離せなくなる。

しかし、どの作品にも共通して、(作り手側はドキハラを意図しているんだろうけど)全く(悪い意味で)安心して観れるシーンがある。

それは主人公単独で窮地に陥るシーン。主人公絶対死なないし、例え捕らえられたり怪我を負っても、死ぬことはない。生存100%

こうした毎回起こる「主人公から大丈夫」という安心感で熱が冷める。

これが主人公と仲がよい相棒や部下が単独で追う展開だと死亡フラグが立ち興奮する。実際、大体死ぬ

(非主人公の)子供生存率が高いが、それでも100%じゃない。そしてたまに殺されるとショック。

いずれにしても、この「主人公大丈夫ルールを打ち破ってくれる強烈な作品いかねーと強く願う(最後に殺されるのは想定の範囲なのでX)。

2018-09-04

知人、友達親友定義

知人:

 世間話が出来る

 上辺だけの関係

 今後一生会わなくても大丈夫

 気を遣って疲れる

 基本愛想笑いを浮かべている

 沈黙が苦しい

 とにかく丁寧語

 時々名前を忘れる

 

友達

 世間話が出来る

 遊びに誘うことも可

 何年か会わなくても大丈夫

 ふとした瞬間に「あいつどうしてるかな」って思う

 お互いにあまり踏み込みすぎない

 愛想笑いはたまにする

 ケンカせずに仲良く居ようとする

 とりあえず友達の話にあわせたりする

 気を遣って少し疲れる

 沈黙が怖い

親友

 気軽にLINEをする

 よく遊びに行く

 異性だったら恋人になっていただろう

 価値観、好きなもの、悩み事、嫌いなもの、やりたいことなどが合う

 くだらないことで笑いあい、泣くこともある

 テンションが一緒(盛り上がるのも落ち着くのも一緒)

 年に何回か会いたいと思う

 一緒に居て苦痛を一切感じない

 沈黙しても安心できる

 何を言っても受け入れてくれそうな安心感がある

 上記項目全て[お互いに]思いあっている


さぁ、どうかな?

2018-09-02

今夜はセックスしました


夫婦10年目です。挿入は里帰りのような安心感セックスは良いものですね。

2018-08-31

anond:20180831132026

DVは「頼れるという安心感」どころか「殺されるという恐怖感」しかないわけだが…

anond:20180831121751

「憧れてるあの葡萄だって酸っぱいかも知れんぞ?」と言われてもなぁ。

そら甘い葡萄も酸っぱい葡萄もあるでしょうよ。

俺はその前段階で葡萄を一度も食べた事ないんだよなぁ。

別に夫婦カップルという存在神格化するつもりはないけど

どんな夫婦カップルでも孤立した人間よりは確実に幸せだと断言はできるね。

極貧だろうが倦怠期だろうがDVがあろうがね、何故なら頼れるという安心感があるから

孤立は無保険・無免許・無整備・ノーヘル原付毎日高速に乗ってるようなもんよ。

頼れるものがないってのはこういう状況。一発で即死に至る可能性が極めて高い。

毎日そんな状態から緊張感や焦燥感で頭おかしくなってくるって。

友達という友達ができない

てか嫌われる。いじめの標的になりやすい、そんな感じ。

てなわけで、三年間仲良くしていた人たちから見事に嫌われまして、正直幼いときから散々繰り返されていたことなので今更かよって平気なのだけど。平気なのだけど、これ、本来は持つべ感情ではないのだがな。ああ、やっぱりって安心感でいっぱいで、かなしいという感情はそりゃあるけれど、どう処理すればいいのかわからない。

どういう過程で嫌われるというと、グループの中心人物が私が悪口愚痴を言う。そこからの私の悪口祭りで、しだいに盛り上がってしまって、結局私を排除へと突き進む。おおまかにだがこんな感じ。

なぜわかるかっていうと、順番が私に回る前は別の人物愚痴悪口で盛り上がって排除していたからだ。ただ傍観していたので、私にも悪いところはあるだろう。そこは認める。まあそのせいかな。それとちょうどよかったのだろうな。

当てる的を失った悪意は私に跳ね返り、見事いじめっこの誕生。まあ実際いじめられていないので安心してほしい。

変化はというと、昔は馬鹿笑いしてたが、今はない。会話するにも冷めた様子で業務連絡をするような関係

人並み以上に感受性がつよいので、相手が冷たいオーラを出しているのを敏感に受け取ってしまう。そしてストレスを過大に受け取ってしまうので、できれば会話はしたくない、と悪循環が繰り返してしまう。

って会話をしなくなるのもあって、お互いが爆発。絶交状態をなんどもなんども繰り返した。今回もそうだ。

正直言うとはぁっ~~~~~めんどくせえ~~~~~~~~~~~~~。

飛び出た釘は打たれるとか、まじでそんな感じにはじき出されてるんで、地獄です。生き地獄。きっとこれからもそれの繰り返しなので、どうすればいいんですかね。友達は欲しいんですよ。でもできない。嫌われる。そんな毎日

anond:20180830230747

社会保障とか終身保険的な意味でいざというとき助け合える、世話しあえる関係の人がそれなりの距離にいるんなら別に何も困らないよね。自分若いうちはあんまりピンとこなかったけど、アラフォーになると寂しくはなくても独り身の物理的な危険は感じるからね。寂しいという感情よりも、誰にも邪魔されない踏みにじられない穴倉の安心感の方が先に来る人からすれば、元増田みたいなフツーの感覚の方ががむしろ不思議ものに思えるんじゃないかな。

2018-08-28

ちびまる子ちゃん」の連載開始時、私は『りぼん』を既に読み始めて

いただろうか?

さくらももこ氏の訃報を聞いてふと気になったが、どうにも思い出せない。学齢で言えば小学1、2年生の頃だが、どちらかというと幼い頃は『なかよし』に夢中になっていたような気がする。

当時の『りぼん』は、『なかよし』に比べて恋愛要素の強い作品が多いイメージだった。とは言え対象年齢的には、自分のような田舎女児ぼんやり理解してドキドキできる程度の、恋の入口やもどかしさを描いた作品が多かったのだと思う。

その『りぼん』で、明らかに異質だった作品が二つあった。

言わずもがなの「ちびまる子ちゃん」と「お父さんは心配症である

私は、ひたすらに「お父さんは心配症」の父・光太郎が怖かった。ハイテンションで誌面の中を飛び回り、典子への行き過ぎた愛情から北野くんとの恋愛どころか自分自身まで自虐でぶち壊しまくる光太郎が、ひたすらに怖かった。ページを開きたくなくて、作品ページをホチキスで止めていたかもしれない。他の怖い本はそうしていたから。

逆に「ちびまる子ちゃん」は癒し作品だった。恋愛もの息切れした女児オアシスのように、まる子はただただ普通に家族と友人と、そこで暮らしていた。あるあるネタと少しだけ古い時代背景と共に、穏やかに、時にシニカル空気を携えて、毎月私の所へやってきた。

そう、「ちびまる子ちゃん」は連載時に既にレトロだった。私の知っている人気アイドルヒデキではなく光GENJIだったし、百恵ちゃん引退していた。アニメ放送を母と見ながら解説を受けるまで、私の中でヒデキと西城秀樹は繋がっていなかったし、百恵ちゃんはまる子が憧れる女の子のままだったのだ。

お父さんは心配症」の異質性が『秩序の破壊』だったとすれば、「ちびまる子ちゃん」のそれは『虚実を織り交ぜた過去』だったと私は思っている。

乱暴な括りだが、私にとっての当時の『りぼん作品は、基本的には未来指向した現在進行形のものだった。ドジで失敗ばかりの現状であっても、これから自分はどうしたいか、どうなりたいのか、主人公は常に考え続ける。人の自然成熟過程をなぞり、周囲の支えを受けながら、成功も失敗も糧にして成長していく。

そういう理想の学園生活キラキラと眩しく、同時に私にはどこか息苦しかった。

女の子はいつか好きなひとが現れる」

「今よりももっとかわいくなれる」

その語尾に、私は「…なくてはならない」という言葉を感じ取っていたのだと思う。

作品世界に憧れることと、自分の身に置き換えることは決してイコールではないのだが、拙い想像の中であっても「私はこうなれないだろうなあ」と諦めることは、大人になった今思うより苦しかったのかもしれない。

その点で、「ちびまる子ちゃん」はラクだった。

前述の時代背景と共に、まる子が作者の子ども時代モデルにしているということは知っていた。つまり、すでに「結末が確定していること」であり、「私ではないひと」の話だった。

まる子も成長し、恋愛や友人関係自分コンプレックスに深く思い悩む日が来るのかもしれない。しかし、それは永遠小学3年生の「ちびまる子ちゃん」のまる子には当てはまらないし、モデルとなっている作者はマンガ家という進路を選択済みなのだ

私は、まる子でもたまちゃんでも丸尾くんでも花輪くんでもはまじでも永沢でも藤木でもなく、ただの読者として、安心して「ちびまる子ちゃん」を楽しむことができた。

勿論リアルタイムで読んでいた小学時代にこんなことを意識していたわけではなく、単純に『りぼん』の中で一番楽しんで読むことができた作品だったのだと思う。

クラスのどのカースト女子でも「ちびまる子ちゃん」は必ず読んでいた。あの頃の共通言語になっていた作品代表格だった。

その後私はくるりと掌を返し、破壊度の増したあーみんギャグに恐ろしい程はまった。「こいつら100%伝説」は現在本棚に置いてある。「ちびまる子ちゃん」はもう手元にはないが、「心配症」の方のまる子×心配コラボ掲載巻は実家にあると思う。

成長していく私は、いつの間にか自分がまる子ではないことに安心するだけでは物足りなくなってしまったのかもしれない。けれど、久々にニュースで見た「ちびまる子ちゃん」の表紙には、やはりとてつもない懐かしさと安心感があった。

そして散々言われているが、彼女の初期エッセイは最高に面白い読書慣れしていないひとに「おすすめの本は?」と聞かれた時に挙げる1冊に必ず含めていた。

私にとってさくらももことは、この4000バイト強の文字の分しか接点がないひとではある。

しかし、訃報を聞いて、居ても立ってもいられず匿名アカウントを取るおばさんを生み出してしまう、そういうひとだったのだと思う。

どうか、ご冥福をお祈りいたします。

ただ、訃報に触れて思い出してしまった「ちびまる子ちゃん おこづかい作戦!」。

てめーはお年玉をつぎこんでしまった元小学女児として許さねえよ……という気持ちは、今も捨てられないようだ。

2018-08-25

おかしいっていわれるのはわかってるんだけど「がんばったね」とか「えらいね」とか、そういう言葉を目にすると泣いてしま

面と向かって言われても「フーン」って感じなのに、文字になってるとストンと飲み込めるからかな

人とだいぶ違うから、苦しいとかつらいとか、そういうときに誰にも共感してもらえない

なにをいっても「おまえはおかしい」だったし、「おまえだけじゃない、もっとつらいやつがいる」だったから、優しくされることに餓えてるんだろうな

なんにも成し遂げられてないのに褒められたいなんて虫が良すぎると思うし、もっともっと頑張らなきゃ人並みになれないのに

優しくされたい。褒められたい。ここにいてもいいんだってから思えるような

こうやって自分気持ちを打って、また泣いてる

もっとがんばらないといけない

もしこの文を読んで思うことがあったら、身近な人の気持ちに寄り添って、優しくしてあげて欲しいな

わかってくれる人がいる、ここにいてもいいんだ、そんな気持ち安心感になるらしいからさ

2018-08-24

anond:20180823162846

歴史だなんだという話は散見されるのでいうまでもない。

冒頭に脱線するがヤクザ様式についてマインドセットを準備したい。

第一に、ヤクザはなぜ金ぴかファッションで高級外車なのか。

個人価値を見てわからせるためである

金持ち服装に金をかけないという話は自己啓発本セミナー系の情報で見かける。

実際金のかかった服はあるだろうし平均以上であるかもしれない。

しかしよくわからない模様の布地で金のチェーンをして黒塗りの高級外車を乗り回さない。

金持ちであることをわざわざ毎回広告する必要がないし、外見と存在で金を稼いでいるわけではないためだ。

ではななぜヤクザは見た目で高級感を出すのか。それは高級感が目的ではなく「1番」であることを主張したいがためである

実際の統計で数値的に1番というものではない。庶民や噂などを流布する層の一般想像しうる「一番のもの」を選択する。

それは使用者必然的に「1番」になるためである

ここにタトゥー入れ墨問題もつながってくる。一旦派手の話はここまで。

二番目に、ヤクザというのは実際金があるからそういうものを買っているだけ、ではない。

商売の種類として見た目でするものであるから広告業者が広告を出しているのとおなじ。

ラーメン屋の賄いがラーメンなのと同じ。一番をコレクションしている人間である必要のために持ち物が一番なだけなのである

商売としては不人気商売被差別商売問題解決非合法)、貸金業非合法)などを行ったりするにあたり、問題解決に使うのが「1番」である

1番高級な服を着て、1番高級純金アクセサリをして、1番高級外車に乗っている1番のおやっさんの言うことが、なぜ聞けないという交渉方法

1番がものを言っているのだから黙れよ、1番の下には2番以降が控えているんですがそれらが何番かわからないあなたの上にのしかかってきますよ、困りませんか?という方法だ。

それはもちろん困らせに来るのだから困るだろう。

しかも1番と言われて実質なにかしら1番(実質の1位ではなく想像できる最上位の類のもの)を身についけている人間、ほぼ人物として1番であるという人間との交渉だ。

貸付金の取り立てや問題和解商売の風説などは実際に商品価値が高ければとか確実であれば法に則って正規解決ができる、というものではない。

関係者の譲歩を引き出したりした結果、合意を得られた時点でのもので、合意の後の責任も果たせる範囲強要されることはない。

強引に法的に取り立てたりすることはできるが法的回避方法がないわけでもない。

それを逃がさず大きな取り立てで強制的回避できない方法で介入してくるとなると、それは太刀打ちできると判断される相手では物足りない。

「1番」がそれを執り行ってくるのだから、勝てないという精神的な屈服感を与える必要がある。

ここまでの「1番」や「高級」はイメージ問題で、その価値基準一般市場に支えられているものから庶民から目線でそうみえるようにということである

この話を私がしたところで、「私に」それがどうしたんだ、意味のない、という意見は寄せられるだろう。私もおなじ庶民なのでそう言われても仕方がない。

では実際にそういう格好をしている人に言えばいいじゃないか、と私が同じ庶民として進言すると、できるだろうか?

アルマーニスーツきて純金の喜平ぐるぐる巻いてでかいベンツ乗ってるけどなんなん?借金の取り立てを明らかに回りに迷惑がかかる方法でしてくるのは違法ってわかってんの?水商売とかくだらん仕事しやがって」

といえるかどうかである。言えないような仕組みのために、その仕事で幅をきかせるためにそのような恰好をしているのである

ここで服は借りて着まわせばだれでもそのポストにつくことはできる。それよりも上の人としての価値(前述までの高級感)を上げるにはどうするか。

入れ墨である。体に特徴を持たせるのである顔面の傷などもそうである。指がないといったものもそうである

ここでまた話は脱線するが、僧侶坊主である。なぜか。特徴をなくすためである個人ではなく組織としての一部であるためである

また、僧侶結婚しない社会的生産をしない、継続をしない。するために自分資産、持ち物を必要とする社会生活をしない。そのために自分の行動や行為独善的ものをできるだけ排除してある。

僧侶が親切をしてくる、教えを説くのは独善的ものはできるだけ含まれていないという証明のためである

何々をしなさい、という教えは僧侶収益をあげ資産を築くためではない。個人として利益を得るためでもない。宗教収益を与えるためではなく歴史の蓄積と人としての最善な選択への補助であることのためである

この意味がもはや失われ自由化されているが、人がわざわざそのような立場に置かれる必要性もなくなっているためこの習慣が失われるとともに、人がそこに位置する意味理解も失われている。

これとまったく逆が、超個性化であるファッションで一番めだつ、はだかになってもだれかわかる特徴をもつ、莫大な財産を築くことである

ただのマークではなくそこにメッセージを込めるというタトゥー入れ墨がその立場を示すというだけであればファッションとなりえる。

海外ファッションになっているのは、人がどんな命を込めたメッセージでも、簡単否定もできるし批判される側もその程度だと理解している。

個人がどれだけ大切に思って居ようが他人からしてみればゴミ同然なことが相互理解されているのだ。

なので大事だというもの相手にとっては大事なのだろうという理解もある。

主義主張否定されると、日本では囲まれボコられるという最終結果についてその順位と内容を吟味する必要がある。

外国人入れ墨個性の主張がなぜ自由なのかというと、最終的に銃撃戦で決着をつけることができるからだ。

入れ墨問題があるか、入れている名前バカにされたり、すてきだと言われたりする。その個人に踏み込んで問題がおきたとき最大の解決方法は殺し合いである。

最終的に相手を殺すことで決着するというのは対人の交渉でほぼ最大にして最終的に近い。これを緊急的にとはいえ選択できる状態、銃の携行があるということは、各個人自由はかなりの広さで主張できて、相手もそれをまず認める方向になりえるし、ならざるを得ない。

その二番手である「かこんでボコる」ができるというのは組織力、どこに組織しているか組織を指摘してくるかということである

タトゥー入れ墨を入れることができる、入れている、そういう側というなんとなくの組織感と、個人特別な主張をしているという表現、これに銃を持たない入れ墨をしていない服装ふつう人間が並んで立つと、どうなるだろうか。

どうもならなければ問題がないが、一旦会話が始まってしまったり交流したり、交渉が発生したときにどうなるかは考えないだろうか。

隣に立っている人間だとしても、一生なにも関係性は発生しないという安心感を持てるだろうか。

いま現時点でとなりにいる時点で因縁を感じざるを得ないしなんらかの問題が発生することを危惧されないだろうか。

そうなったとき、見た目やファッション、そしてタトゥー入れ墨個人発言などに影響を及ぼしてくると想像される。

「おまえの一番愛するもの名前をきざんでもいないやつがそれ本当に大事といえるの?ちょっと貸してくれや」と交渉をされたとき

「命を賭してまもると決めてますんで」といえるだろうか。そしてまもるための最終手段を持っているだろうか。

持っていないという不安につけこんで、最大限安全な退路の選択をさせられ不利益を与えられる可能性が危惧されないだろうか。

「されない、どんな暴力にも屈さないし9条が守ってくれる」というならそれで守れるだろう。

しかし、実際ここで殴られた、引きはがされた、もっていかれたを解決できないかもしれないという不安が一瞬よぎったら、そこにあらゆる1番が押し掛けてくる。

たたみこんでくるように準備されているものと、突発的に不安事象と遭遇する一般人、これで平等交渉がなされるだろうかといえば不安ではないか

からタトゥー入れ墨ダメなんだ、という現状はある。しかし私も完全否定はではないし、好みで選択すればとは思う。

それについてはその不平等交渉の発生のために自分を飾るということが無ければという前提のもとにだ。

メメント、などである。忘れてしまうから体に刻んだなどである

先般のりゅうちぇるについても、親が龍を背負っていたか自分はどうなった、というわけでもなく、龍をせおった父親はほかの父親の息子に対する愛よりふかかったのか、といえるわけではないはずである

入れ墨をいれていない父親はよわいのでくじけておれるだろうが、芸能人になれた僕の父親ドラゴン入れ墨をしていた、と言えるのか。

どうしてパパは僕を応援するために入れ墨をしてくれないの?などと子供が言い出したりするような言い回しでなければ、だ。

パパは弱くて忘れっぽいので、みんなとずっと一緒であることを忘れないために刻んだんだ、といえば、私も同情の念を抱かざるを得ない。

https://twitter.com/Miyki_Ono/status/1032259138384887813

まさにこれ、強くてパワーがあるのを嫉妬してるんでしょ、一番が怖いんでしょ、うらやましいんでしょ、という輩がでてくる。

こういった威力を感じて有用性を感じる人間が、ただ自分が満足するために体にほった名前ではない、人にみせて何かに使うため、少なくとも羨望や嫉妬を招くためにしているという前提を持つことが問題である

それを交渉につかう、少なくとも現在SNS自己の優位性主張のために利用しているという、この利用のために使われるべきものではないという事である

それを使うから否定され敬遠さえるという事自体に気が付くべきだ。

個人の思いれだけの話である、という相互理解入れ墨を見て、ほんとに守るべきと感じたならだれでも最終手段を持ち出せる、それが自由平等立場である、という環境からこそ広くタトゥー入れ墨が公に一般化している社会もある。

いまの日本では、より強い主張というものがあり、より多くの人間威力としてあるぞという主張のために使われたり、それを手段として準備をするという優位性を感じて満足しようとする部分がある。

その差別性についての精神に、差別を指摘され差別されるべきところではある。結果として人には差があるという主張にブーメラン差別をされるべきという平等性がある。

なぜなら個人暴力によって解決をするという手段がもとより否定されはく奪されているかである。銃や武器の携行の否定復讐や実被害未然の防衛のための無力化攻撃否定などである

日本タトゥー入れ墨するなら、自分が弱いからという主張か、絶対に見せないという前提がなければむつかしいという現状くらいはわかったうえで

それでもなお入れざるを得ないという状況に自分差し迫っているということでもなければ主張はできないだろう。

タトゥー入れ墨をしているほかの人間もみな平等自分の思いを主張しているわけではない。

隠していたり弱さゆえだったり、知らないところに入れている人間はいるだろう。それらを全員掘り起こして否定したいわけでもない。

主張をするなら、日本では反発をうける、その理由は前述のとおりで、それを超えて受け入れられ主張をしたいのではれば、方法としてなくはない、ということである

子供になぜパパは一番じゃないの?最高はあらゆる高級品と体に印があって家族を愛してくれてるけど、うちにはなにがあるの?と聞かれて、答えるすべを庶民に残しているかということである

そして現状、主張をするほとんどが、否定される方向で努力をしているということでもある。

2018-08-23

なぜ性はタブーになったのか

30歳を過ぎて初めて風俗というものに行き、思春期以後はじめて女性身体に触れた

それから何度か風俗へ行った

綺麗な絵画を眺めるような美しさ、友と膝付きあわせて語り合うような楽しさ、布団の中でまどろむような安心感

行為によってそれらすべてをませたような体験をした

結局、性行為楽しいから


始めての性行為をしたとき、こう思った

社会必死タブー視してきた体験はさぞかし気持ち良いのだろうと思ったがたいしたことはないのだと


人と握手するのも、性行為するのも密着度が違うだけで異質な行為じゃなかった

行為はそれ自体ポジティブ行為なんじゃないかと思えた

それなら、なぜヒトは性を特別タブーとしたのか?

2018-08-21

100万もらっても貯蓄以外の価値がない時代

お金を使って物やサービスを購入するよりも、「将来なにかあったときのための安心感」を得るほうが価値が高い時代が続いている。


100万もらったところでほぼほぼ貯蓄だろう。趣味で100万なんてすぐなくなる!と言うが、将来の不安感のほうが勝つのではないだろうか。

人を安心させるよりも不安にさせる方がコストが安いし、人を不安にしたり不幸にするほうが儲かる人がいる。


不安にならないところまで株や資産増やしたら使うようになるやろ!とマネーは増えたが、不安を煽る人が金額を上乗せしただけだった。

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