はてなキーワード: キーワードとは
役所といえば「たらい回し」のイメージが付きまとう。実際にたらい回しにされた経験がある人も少なくない(私も何度もある)だろうが、もちろん役所側も好きでたらい回しをしているわけではない。
また、慢性的な人手不足から、役所全体の業務を横断的に把握して的確に問い合わせ対応できる人材も今後ますます減ってくると思う。
そこで、お互いの不幸な時間を減らすためにも、問い合わせる側の留意点をまとめてみた(役所側にたらい回しを防ぐ努力が必要なのは言うまでもない)。
はてな民ならこの点については心得ている人が多いと思うが、市の業務について国や県に問い合わせても答えられない(逆も然り)。国の下に都道府県、その下に市町村というイメージがあるが、法律上三者は全く別の組織で、業務も別々である。
ここを間違えてしまった場合「お住まいの市にお問い合わせください」などと言われて終わり、たらいすら回されない。
ちなみに現在は、一般市民が関わるような事柄は大体市町村が担当している(昔は都道府県が所管していた業務も多かったが、市町村への権限委譲が進んだ)。
役所に連絡を取ろうとしたきっかけはなんだろうか?手紙だったら手紙に、WebページだったらWebページに必ず代表電話ではない担当の直通電話ないし内線番号が書いてあるはずだ。イベントなど臨時の事業の場合は専用ダイヤルを設けていることも多い。
代表電話はどこを見ても担当が不明であるときの最終手段にしたほうがいい。代表電話の人は、問い合わせてきた人が話すキーワードを元に手探りで所掌を特定して振り分けるので、どうしても担当違いが起こりやすい。
ちなみにギャンブルなのは、代表でも担当でもない関係ない部署に直接かけてしまった時。ベテランの職員がすぐに取り次いでくれるかもしれないが、経験の浅い職員が電話を取った日には、長時間保留ののち更に無関係の部署を案内されるかもしれない。
役所の人手不足は深刻で、ある事業について職員一人で担当し、隣の職員は全く知らないということもザラだ。なので直通番号にかけているのに、なお担当外の職員が電話に出るということが起こる。長々と話をしたのに最終的に担当は隣の職員だとわかり、また一から説明というのは骨が折れる。そこで、手紙やWebページのタイトルなど「今何を見て連絡をしているか」を役所側に伝えるのをおすすめする。「〇〇っていうのが届いて、それについて質問があるんですが、担当の方お願いします」といった具合だ。
役所は一つの事柄に対しても様々な角度から関わりを持っている。
例えば一口に「障害者(児)に関すること」と言っても、手帳の交付、施設に関すること、差別解消への取り組み、バリアフリーの推進、特別支援教育など、業務は多岐にわたる。その一つ一つについて、担当が細かく分かれているのだ。
問い合わせの際は、できる限り具体的に内容を伝えてみてほしい。
まとめると、たらい回しを避けるためには、①正確な部署に連絡し、②具体的な内容で問い合わせることが大事だ。
先述した通り、役所は人手不足であり、職員は自分の所掌事務で手一杯で、曖昧な問い合わせがたらい回しされるリスクは減らず、むしろ今後増えていく気がする。
面倒だと思うかもしれないが、少しの準備でその後の時間(電話なら電話代も)が節約できると考えてみてほしい。
最後に補足だが、役所の業務についてchatGPTなどの生成AIに聞くのだけはおすすめしない。特に法令が関わるような事柄について、生成AIが答えた内容を信じて間違っていても役所は責任の取りようがない。面倒でも、わからないことは役所の公式の情報※を調べるか、直接問い合わせるべきだと思う。
※Webページについて、サイトURLが「go.jp」や「lg.jp」で終わるものは、役所しか取れないドメイン(goが中央官庁、lgが地方自治体)なので公式情報として信頼できる。ただし誰でも取れる汎用ドメインで運用されている役所HPもあるので、「go,lgは公式、そうでないものは公式情報かしっかり確認する」のがいいと思う。(12/7修正:地方自治体では非lgドメインで運用しているところもあるのですべてlgドメインという書き方を修正しました。ブコメでのご指摘ありがとうございます)。
どうやら実在しないようだぞと人々の考えが変わったのはいつ頃の出来事なのだろう
これらは大昔は実在していると信じられていたはずだと思うのだけど
これを調べようと思ってもなかなかいいGoogle検索キーワードが思いつかない
もちろん伝説の生き物それぞれでその時期は異なるだろうけれど
例えばユニコーン、イッカクやセイウチの牙がユニコーンの角として売られていた時代
獲る側売る側はともかくとして、買う側はユニコーンの実在を信じて買っていたはず
江戸時代にイッカクの牙がユニコーンの角として輸入されたとWikipediaにある
じゃあだいたい1600~1900くらい……ちょっと期間が広いが
世界がだいたい探索されたくらいで人々の考えが変わったのかな~と予想していろいろぐぐっている
世界が探索されたANDその結果を人々が広く知ることが出来る時代……
現代のツチノコくらいの温度感で「多分いないけどひょっとしたらいるかもね」なのか
「前人未到の地にはきっといる」「遠き異国にはきっといる」くらいの温度感なのか
「昔はいたけど今は数が減って見なくなったらしい」くらいの温度感なのか
こういう「当時の市井の人々がどう思っていたか」って調べるの難しいなあ
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昔の動物図鑑的な文献にユニコーンなど伝説の生き物の記述があるかもしれない
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以下の本を読む
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』amazonに在庫あり、近隣の図書館に蔵書あり/20231128時点貸出中
『ヴィジュアル版 一角獣の文化史百科』amazonに在庫なし、近隣の図書館に蔵書なし、近隣の紀伊国屋書店に在庫僅少
amazonのプレビューで見れる範囲を見る限り、昔の人々がどのように幻想生物を認識していたかが書かれているかもしれないと少し期待できる
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メモ:関連して「昔は虹が生き物だと認識されていた」についても調べる
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メモ:関連して「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」についても調べる
おそらくそうではない 勘
言い換えると「昔の人は月を何だと思っていたのか」
昔の日記に同様の疑問を書いたまま調べるのを忘れてしまっていた
いい機会なのでまとめて調べよう
copilotを英語ネイティブはコピロットではなくコパイロットとすんなり読めるのかどうか
気になる
co-pilotって書かれてたら「あーはいはいコ・パイロット」ね」と日本語モノリンガルの自分も気付けるのだが
copilotと書かれていると「コピロット……コピロート……コパイロット?」と読みを考える時間が発生してしまう
いや、この疑問は別の論点が眠っている気がする
なんでiをイではなくアイと読んでいるんだ
likeのように末尾がeのときじゃないとアイと読まないルールではなかったのか
もちろん例外はあるのだろう、これもその例外の一つだというのか
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・ドイツ語だとpilotはピロートと読む 流石ドイツ語だ、ここら辺の発音ルールは厳格なイメージがある
・英語で末尾e(というか母音)じゃなくてもiをアイ発音する単語は結構ある 例えばvirusとか 日本語だとウィルス……英語だとヴィールス……と思いきやヴァイルスと発音しているようだ
・そういえばislandもアイランド……いや、この単語はそもそもsなんやねんって話にもなってしまう 「大母音推移」というキーワードがひっかかった これを調べてみよう
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ドイツ語なんかも過去に大母音推移が発生したが綴りも発音に合うように変化したらしい
「羽生結弦」電撃離婚が大波紋…「バイオリニスト妻」の地元が抱く「違和感」の正体
羽生結弦が結婚した一般人の妻は、山口県光市出身のバイオリニストの〇〇さんだったという実名報道を地元紙・日刊新周南がしてしまったのが離婚の起因とされているけど、さっき調べてみたら山口県光市って人口4.8万人の小さな市だった。
光市の著名な出身者で知っているのは伊藤博文(初代兵庫県知事、初代内閣総理大臣)と松陰寺太勇(お笑い芸人、ぺこぱ)だった。
これくらい小さな街で歴史に残る偉人とトレンド芸人を輩出してるだけでも異例だけど、
羽生結弦と共演できるようなプロのバイオリニストは郷土の有名人として扱うには十分な地位だ。
田舎では、中央でデビュー出来た作家、ミュージシャン、プロスポーツ選手、芸能人等はたとえ端くれだったとして地元の英雄だ。
羽生結弦と結婚したバイオリニストなんて地元の英雄の中でも上位に位置すると言って良いと思う。
今回の離婚の要因として上がっている「有名税」というキーワード。
離婚報道では羽生結弦の有名税ばかりが注目されているけれど、妻も地元では有名人なのだから、当然、妻の方にも有名税が発生していた。
羽生結弦サイドは妻の有名税に対してどう捉えていたのだろうか?
自分の有名っぷりばかりを気にして、妻も故郷では立派な有名人である事実を蔑ろにしていたのではないだろうか?
妻の有名税を踏み倒した結果、妻の地元紙の実名報道に繋がってしまったように見える。
国民的英雄が郷土の英雄を一般人扱いするなんてのは、その地方に対してのリスペクトが無さ過ぎると思う。
もちろん、今まで地元を背負ってきた妻も、「結婚するので一般人扱いして下さい」なんてのはこれまで応援して来た地元に対して無責任だと思う。
結婚を期にバイオリニストを引退するに当たって地元のマスコミ各社にしっかり挨拶をしていたのだろうか?
○ご飯
朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:カロリーメイト。玄米ブラン。夜:人参と大根のスープ。目玉焼き。ナポリタン。間食:チョコ。プリングルス。
○調子
○和階堂真の事件簿 TRILOGY DELUXE
抽象化されたドット絵で謎解きの雰囲気を演出する短編ミステリアドベンチャーゲーム。
スマートフォンで展開していたエピソード3作に加えて新作エピソードを追加した移植版を遊んだ。
昭和の世界観なレトロな雰囲気を演出するためだけでなく、この作品独自の演出やストーリー展開のためにもドット絵の表現が生かされているのが面白かった。
タバコの煙が醸し出す昭和の空気感に、キャラクタの顔がわからない程度のドットなど、なるほどこの作品はこのビジュアルじゃないと成り立たないなと腑に落ちるのが心地よかった。
システム面はオーソドックスな探偵もののADVらしく、人への聞き込み、証拠品や現場の調査を繰り返してキーワードを集めていき、それらから正しい選択肢として選んでいくお馴染みのそれ。
かなりサクサク進み、とんとん拍子に証拠品証言が集まっていくので、いっさいだれずに捜査を進めることができた。
ほとんどミスリードや捜査が空振りする展開がないため、悪く言うと遊びがないとも捉えれるが、僕は無駄なく綺麗にまとまっていると感じた。
とはいえ文量のボリュームは少な目なので、ある程度は、そういうものとして前提を飲み込まないといけない部分もあった。
それが欠点ではなく、物語に良い意味で余白を残していたからだと思う。
表情がわからないほどに荒いドット絵ながら演技の表現が入るため、そこに見入るような熱があったのが余白を感じれた理由の一つ。
そして何より、今作最大の魅力である捜査終了後のサプライズ要素。
4作品全てでこのサプライズ展開が徹底しているのはお見事だった。
短編だからこそ“お約束”として触れないと思っている部分に容赦なく触れていく、どんでん返し系の構図は驚かされた。
流石に3作目や4作目になると身構えるので、ネタ自体は予測できたものの、魅せ方の工夫が効いていて面白かった。
どのエピソードも良かったけど、あえて一番を選ぶと、2作目の「隠し神の森」。
狭い村の人間関係を調査するパートが楽しいし、恒例のサプライズ展開もそこをズラすかあ、と感服した。
あと孫がいる年齢の男女が老いて尚お盛んな描写がエッチなんだけど、ビジュアル面がドット絵なのでイヤラしくないのも抑え目な表現がいい味。
勿論他のエピソードも面白く、1作目ながらシリーズの魅力が詰まっている自己紹介的な「処刑人の楔」、虚構と真実の境目で迷う主人公を俯瞰する楽しみがある変格っぽさもある「影法師の足」、オーソドックスな館物ながらシリーズを通して遊んだ後のご褒美的な側面も嬉しい「指切館の殺人」と、どれも楽しかった。
どのエピソードも、短編ながら捜査の楽しみと、謎解きからのサプライズ展開と、文量という意味ではなく、体験という意味でのボリュームはしっかりあるので、プレイ時間(4時間ほど)の割には満足度は高い。
ただ、謎解き部分はかなり真っ直ぐな構成であり、謎らしい謎が少ないところは、少し僕の好みではなかった。
道中の捜査の楽しみも、勘所は抑えられているとはいえ、流石にボリューム的に遊びの文章が少ないのも惜しかった。
以下は、自分が把握している範囲の裏紅白歌合戦2023元ネタ。面白さを解説しているものではないことに注意。
(続く)
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131004/13024123/
・そのため相席はデフォ。
・なにより美味い。
テレワークばかりしていたので、久しぶりにこういう店に行ってワクワクした。
他のお店も調べてみよう、と思ったんだが、上手なキーワードが見つからない。
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
ここ最近、ブロガー界隈でGoogleの検索結果が過去一でおかしいのでは無いか?というのが話題になっている。
事の発端は、10月に行われたコアアップデートと呼ばれる検索アルゴリズムのアップデートから始まっている。ブロガー達のリアルに生きるか死ぬかが分かれるイベント?とも言える。
ブログで飯を食っているようないわゆるアフェリエイターなどが、その検索結果の変動のせいで悶絶している状態だ。
まぁ、そんなアフィカスが悶えてるだけであればざまぁwだけで終わりそうなんだが
ただ、今回のアップデートについては、ちょっと様子がおかしく、何故か検索結果が一般的な利用者にとって「害」でしか無いコンテンツだけが優遇されて表示されている状態だ。
ここ最近、グーグルの検索を使っていて、コレジャナイ感が増えた気がしないだろうか?
わかり易い例で言うと、何かしらのモノレビューが、企業が有するWebサイトが優先的に表示され、実際のディープなレビューはすべて検索のランクを落とされている状態だ。
これは"商品"として売り出されているモノすべてに当てはまっており、大手メディアや老舗サイトの薄い情報がとにかく優先的に表示をされている。
他にも、技術的な検索に対しても、これが起きている。例えば、プログラミングなどのテクニカルなエントリーを探しても
一番上に表示されているのは、目的を解決するためのシェアウェアのレビュー。そしてそのページはシェアウェアの開発元が作ったテクニカルエントリーに見せかけた商用記事だ。
技術者ならば「ググれカス」が一般的なところ、ここ最近のGoogleの検索はマジで信用に値せず「ググンなカス」にマジでなっている。
若い技術者なんかは今はマジで「ググンなカス」を肝に銘じたほうが良いと本当に思う。
で、なんで増田なんかにこんな事を書いたかと言うと、今の現状を広くフラットに知ってもらうツールとして増田ぐらいしか思いつかなかったからだ。
例えばこの状況はX(Twitter)などのSNSや、コミュニティでも多くの人がつぶやいているのだが、その半分ぐらい胡散臭いエセネット成功者が、自分の商材を売るキーワードとして使っており
自分のサイトも持っていないようなレベルのゴミがコアアップデートの攻略法みたいな事を書き込んでいる。マジでTwitter上は、コアアップデートで嘆いている人達の傷の舐め合いか、詐欺師しか存在しない。
ある程度権威性のあるSEOフォーラムなどでも、Googleという言わば神のみぞ知る世界なので、我々人間達は粛々とコンテンツを作るしかないのです…
みたいな、宗教みたいなノリになっている。なんじゃそりゃ。
今のこの状況をもっと広く知ってもらうためには、独特なアルゴリズムを持つ増田ぐらいしかないんじゃないか?ぐらい個人的に思い詰めて書いた駄文である。
とにかく、今のGoogleの検索はマジでおかしい。これは完全に自分の妄想ではあるが、他社のAIサービスなどに抵抗するため
めちゃくちゃ基幹的なレベルでの改修を行ったが、それがGoogleも意図としていない結果になってしまっているのでは無いだろうか。
実際に、10月のコアアップデート後に異例とも言えるスパンで追加のアップデートを行っている。それに対してGoogleは言い訳とも言えるようなユーザーFAQページを作るなど
イレギュラーが続いている。
ソート順とは、ある集合の要素を一定の基準に従って順序づけることです。例えば、書籍をタイトルや著者名、発行年などで並べ替えることができます。ソート順は、情報の整理や検索に役立ちますが、同時に、ソート順によって情報の重要性や優先度が変わることもあります。例えば、検索エンジンの結果やランキングサイトの順位などは、ソート順によってユーザーの注目や選択に影響を与える可能性があります。
権力者がソート順を操っているというのは、権力者が自分の利益や目的に沿ったソート順を作り、それを他者に押し付けるということです。例えば、権力者が自分の関係する商品やサービスを検索エンジンの上位に表示させたり、自分の支持者や同調者をランキングサイトの上位に持ってきたりすることが考えられます。このように、権力者がソート順を操ることで、他者の意見や選択を操作したり、自分の地位や影響力を強化したりすることができます。
権力者がソート順を操っている証拠は、ソート順の作成や変更のプロセスや基準が不透明であったり、ソート順に不自然な偏りや矛盾があったりすることで見つけることができるかもしれません。例えば、検索エンジンの結果やランキングサイトの順位が、権力者と関係のあるキーワードや要素に偏っていたり、権力者に不利な情報や評価が隠されたり、権力者に都合の悪い時期や状況に変わったりすることがあれば、権力者がソート順を操っている可能性が高いと言えるでしょう。
喝落とせ 笛鳴らせ パンティナイ
吐こう ライ ライ ライ みんなで踊れ!
Hate-Labo ピーポー 付けてよミリオンBookmark
喝落とせ 笛鳴らせ パンティナイ
吐こう ライ ライ ライ みんなで踊れ!
Hate-Labo ピーポー 付けてよミリオンBookmark
Hate-Labo, Q&A, Blog, antenna, haiku, Star… Hate-Labo!!
今を苦しみたいんだね Let's Hate-Labo!! Here we, Here UNKO!!
ヘイトJD! 煽れ hate hate hate 義憤情動↓↓の
呑もう ライ ライ ライ みんなで踊れ!
身にまとって踊り明かす がむしゃらなままで
喝落とせ 笛鳴らせ パンティナイ
吐こう ライ ライ ライ みんなで踊れ!
Hate-Labo ピーポー 付けてよミリオンBookmark
ヘイトJD! 煽れ hate hate hate 義憤情動↓↓の
呑もう ライ ライ ライ みんなで踊れ!
農業を知ってる風の人によく言われること。プロ農家としては「ポカーン」となるので注意。その理由を解説
農協を悪者だと思ってる人が多い。農協にはいろんな人がいるし古い仕組みもあるが使いたくなければ使わなければいい。こういうことを言う人は農家は農協には搾取されているから、農家はITリテラシーを高めてスマホアプリやWebサイトで作物を売れば儲かると思っているのだろう。家庭菜園レベルならいいだろうがプロ農家の規模になると個配送で販売できる量は限られるし、ECでの需要というのもまだまだ小さい。
最初にA品について聞かずにいきなりこういうことを聞いてくる人がいて開いた口が閉じなくなることがある。A品の話をせず、買いもせずに我々の失敗作や不良在庫について知ったかぶりで話をしてくるなんて農家という仕事を舐めてるからできる発言だと思う。大谷翔平に対して負けた試合の話から始めるようなものだ。
これも農福連携などキーワードだけ知ってる人がよく話してくる。障害者を活用すると確かに費用は抑えられるけど目指してるのはそんなところじゃないんだ。効率的にやってそれなりに生活ができる水準を目指してるんだ。アドバイスしてくれなくていいです。
農家=穀物野菜全部作る人みたいなイメージがあるらしい。これは調子こいてるからとかの発言じゃないだろうけど、言われるとびっくりする。農家としては他の作物は別のスポーツみたいな感覚があるので、これを聞かれると「逆になんで??」って思う。野球やってる人に「サッカーはいつやるの?」とか聞かないですよね。でも聞かれた方はそんな気持ちになります。