はてなキーワード: 仏教とは
日本の方が米好きで仏教信者多いから「米国」「仏国」に相応しいだろ?
だから、アメリカは「肉国」、フランスは「スイーツ国(ス国)」にするべき
ついでに他の国も考えた
語られる教訓はアイドルに限らず、普遍的な、いまの自分と未来の自分をどう捉えるかという内容である。
プリンセスプリキュアの「プリンセス」があえて曖昧な概念で、子どもが持つそれぞれの夢や目標と重ねやすいようにしているのと同じだと考えるとわかりやすいかもしれない(わかりにくい)
ともかく、アイカツ!にどういう教えがあるかというと、
未来の自分が振り返ったときに、自慢できるような過去の自分でいよう。だから、今を精一杯生きよう。
この一貫性が見事で、初期EDのカレンダーガールの歌詞から、10年後を描いた劇場版まで全くブレない。
それがぶっ刺さってしまって、人生が大きく変わった。きっとそういう人は他にもいると思う。
卒業も決まり、暇になって夕方テレビをつけるとアイカツ!というアニメがやっていた。
第121話「未来に約束!」だった。ちなみに、アイカツおじさんはサブタイトルではなく話数で言うことが多い。
留学生が帰るタイミングの話のようだった。自分から見る自分と他人から見る自分の折り合いをつけるような話だった。
1話見た瞬間ピンと来た。これはすごいアニメなんじゃないかと。人生で最も正しい判断であった。
はてなー一同ご存知の通り、ほとんどなにもしないのと同義のような仕事をしていた。
もちろん定時で帰れていたので、1話からアイカツを追いかけた。
仕事にも慣れてきたころ、125話に到達した。(アイカツおじさんはサブタイトルではなく話数で言うことが多い)
125話は初代主人公のいちごから、2代目主人公のあかりに、話のバトンを完全に渡すという話だった。
そして、ライブパートでの、Good morning my dream。。。
(簡単に説明すると、私がもっている大切な「夢」、私のことを選んでくれてありがとう。きっと叶えるからね。という歌)
そしてそして、OPがLovely Party Collectionに変わった。
(簡単に説明すると、今日の自分にリボンをかけて(未来の自分にとっての)宝物にしよう。という歌)
これが決定打となった。
あの時の自分、あの時の毎日、振り返ったら宝物にできるだろうか。
できないと思った。
こうして会社をやめて、違う道に進むことにした。
具体的には、博士課程に進学した。
3代目主人公も登場し、トークショーなどイベントも盛り上がり、まだまだアイカツ!は終わらない。
そう思っていたら、翌年突然アイカツ!は終わった。
しかし、アイカツ!を全話視聴した者にとっては、この別れが新たな始まりであると立ち直ることができる。
アイカツ!がなくても、アイカツ!を好きになった自分が、アイカツ!のことを考える自分がある限り、その自分を拠り所にして立つことができるのである。
仏教でいう自灯明法灯明の教えだと思えばわかりやすいかもしれない(わかりにくい)
こうして、アイカツ!のない期間も、未来の自分に恥じないように毎日をがんばって過ごしてきた。
アイカツ!の展開としては、新シリーズの次のシリーズの次のシリーズまでやったあと、
アイカツオンパレードという、まあPIXARの映画のEDで流れるNG集みたいな感じのファンサービスがあった。
ただ、アイカツ!の本質というべき思想はどれにもなかったかな。
アイカツ10周年ということで、突然完全新作の劇場版が製作された。
それも、同窓会的映画ではなく、完全にTV版が終わった直後からそのまま続くストーリーである。
しかも、新シリーズを経るごとに変わっていったキャラクターデザインや3DCGのクセもガラッと戻し、
「あのときからのアイカツの10年」を完全に捉えた映画であった。
アバンでのいちごの「ただいま!」から始まり、終盤での観客への語りかけ。
「アイカツがなくても、アイカツを好きな自分を信じて」と考えていたのが、自分の暴走的妄想ではなかったと、今までの期間のがんばりが正しかったんだと認められたようで、本当に嬉しかった。
これからまたアイカツ!のない世界が続いても、振り返れば、がんばってきた過去の自分がいるじゃないかと、送り出されるような映画だった。
こうして、突然打ち切りにあったようなTVシリーズも7年越しに卒業式を迎えることができ、我々もアイカツ!から卒業したのである。
アイカツ!で進んだ博士課程、そこから続くアカデミアの道。(簡単に言うと、ポスドクから大学教授まで進むルート)
あるいは、企業に進むAcadexitの道。(Brexitのようにアカデミー+EXITを組み合わせた造語)
アイカツ!がなかったら今の自分はなかっただろうなと本気で思う。
肉まんを食べるとかコーヒーを飲む?そんなものを幸福の基準にしていたのか。つらくなるわけだ。
言っておくが、ドーパミンやオキシトシンの放出を幸福と捉えるようでは、仏教で言うところの四苦八苦に振り回され、安息にたどり着くことは絶対に無い。
ヤク中と一緒だ。満足は次の枯渇を引き起こす。得れば、もっと欲しくなる。
アランの幸福論には「警察署で書類仕事に追われているあの男は幸福である。次の仕事が絶え間なくあり、休むヒマがない。能力を発揮し、過去や未来への恐怖一切から解き放たれている」という主旨のプロポがある。
彼は恐怖は病気であると述べ、幸福を得る方法について考察した。
令和3年にたかとしが最初に黒い車で出てきたのは司法の事を言っていたら関係者の死体が誓敬寺(仏教寺院)にあるのでそこに行けという趣旨だったように思う。
令和4年2月28日に大手町のサブウェイの閉鎖に伴い、ままがシェアハウスを閉鎖した。
住宅相談員の鈴木が、 ファインズコート6丁目、TOP志村の順に検討したが、 最終的には、小さいものがいいのかしらということで現在のところになった。
なお、住宅相談員の鈴木や、不動産会社の男が、令和4年2月25日頃に、様々な案内をしていたことに関しては、CWの中谷が記録していなく、CWは、年度末で小俣に変わり、
すぐに藤原に変わった。民生委員は従来から決まっていたが家に来ることはなく、民生委員が、見目とみ子になってから、障子に目あり、といわれるようになった。
そもそも仏教は、生きることは、生老病死、即ち苦しみであると説いている。
これね、「生きていると、老いや病や死という苦しみがつきものですよね」ではないんですよ。
生も苦しみなのだ。生きてるだけで当然苦しい。苦しいのがデフォ。
そこは近代以前において説明不要なのよね。貧しいし、人権とか無いしさ。
なので仏教ってのは、苦しみしかない現世をいかに乗り切るか、という話をしている。
これは、いわゆる伝統宗教は、だいたい全部そうなのだ。キリスト教もイスラム教も、いまめちゃくちゃ苦しくても死後は天国に行くって話が基礎だし。
ところだが、俺ら実際、生きていて苦しいか?
ハッキリ言って、そうでもないんだよ。
何か我慢して苦しみをのりきったり、将来の天国に期待をかけたりする必要は、必ずしも無い。
だって今が苦しいとしても、それってのは、例えば金さえ手に入ったら解決してしまったりするんだ。悟りとかいらねぇし、悟りよりも積み立てNISAのほうがはるかに救済に近いのよ。
しかもだ、なんなら老・病・死さえも、適切なタイミングで来るなら、この現代において苦しみではない。解決策ですらある。性欲に悶々とするの面倒くさいからさっさと枯れたい人たちがいる。今の人生が苦しいから、安楽死を望む人たちがいる。なんつーか、生の苦しみの質が変わってるんだよね。人生が50年から100年になって、終わりは突然くるものではなく、いつかくるものになった。90近くなってボケてしまう予定が既に立っているならば、その前に死んだ方が楽という考え方が確かに芽生えている。
現世が苦しいですよね? 悟りを開けば苦しみが取り除かれますよ?
いや、別にそれほど苦しくはないな。っていうか苦しみが無いだけの人生を100歳までやるほうがかえって辛くない?
みたいな。
信者数が減って当然の状況ではあるんだよね。
だからもう従来の意味での宗教を信じる人は、世界からどんどん減っている。イスラムだけ名簿上は増えているが、それは発展途上国の人口増が効いているだけで、欧州に出てきたイスラムの子供とか、産油国の新世代とか、どんどん信仰をおざなりにしていってるから。
本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
仏教はよく知らんが、ブッダとの目的意識の違いがその疑問になっているのでは?
ブッダは若い日に酒池肉林贅沢の限りを尽くし、「満足は渇望を生む」的なことを悟ってそのループを断つために修行を始めた……みたいな話じゃなかったか。子供の名前もひどいもんだし
例えば、犬を飼っていたとする。当然犬に執着する。ずっと一緒にいたいし、出かけていれば早く犬に会うために帰りたくなるだろうし、病気になったらこの世の終わりが来たかの如く絶望するし、死んだら悲しみのどん底。つまり執着してる。
この一連の流れがあることを知っていながら、次の犬をまた飼う。死んだらとてつもなく悲しいことを知っていながらね。何故なのか?
答えは、犬と一緒にいる時間がとても幸せだからだ。神様が与えてくれたその幸せな時間を満喫するためとも言えるかもしれない。そして神様が与えてくれた寿命が尽きる時が別れの時だ。それはとても悲しいし言葉にはできないレベル。
では執着がなければどうなのか?犬を飼いました、家に犬がいます、かわいいっす。でも執着してないから。病気になったとしても、「そんなこともあるよね」と。「だって生き物なんだもん」と。亡くなりました、「そんな事もあるよね、生き物だから」と。
犬とずっと一緒に生活をしていて、こんな考え方になれるかどうかは別として、仮にこのような考え方になれたとして、それって幸せなのかなと思う。だってこれってあまり好きではないと言う事じゃね?と言う事は、本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
ブッダはこうも言ったとされている。この世は虚しいと。何故虚しいのかと言うと、死んだら全てがパーだからだ。もちろんそうかも知れない。死んだら全てパー。しかし生きている時間を少しでも幸せにしようと努力し、そして幸せを感じる事は無駄ではないんじゃないかな。
ちなみに仏教の勉強をしていると色々な説があって、微妙に違ったりする部分があるし、なんなら僕自身の解釈が間違っている可能性もある。ただ、仮に僕の解釈が正しければ、ここに書いたような疑問を持ってしまう。
こんにちは。外国人として、日本人のスペースに入って失礼しますが、
日本語の授業を取っています。期末試験だから、教科書から習ったトピックの中で一つ選んで発表することになりました。
宗教的な迷信の発表したいと思っているんだけど、日本の迷信はあまり知らなくて。。
もちろん、インターネットで調べられるけど、日本人の日常の知識から学びたいから、ここに聞きに来たんです。
有名も有名じゃない迷信は知れば、できれば、この三つの質問に答えてください。
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1) 短く説明してください。
(でも、詳しい説明は必要であれば、詳しく書いてもいいです!)
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(これに答えなくてもいいけど、)
3) その迷信を信じるなら、どうしてですか。
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よろしくお願いします!ありがとうございます!