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2024-09-09

anond:20240909104136

常に他者との比較自分を測る日本人自分の高いポジション対外的に示すためには、国産車では無理。

クラウンなんて一昔前は中程度の企業部長さんが乗っていた車のイメージあるから、乗り心地や性能がどんなに高くてもダメレクサスも「=トヨタである以上ダメ

ドイツ車こそ我が地位を示すに相応しいってヤツ。

乳首が痒い

乳首が痒い。

唐突に、片方の乳首けが痒くなった。

しかし全く心当たりがない。

痒すぎてトイレに駆け込んだ。目視確認したけれど、ブラが擦れているわけでもなさそうだった。もちろん、変な液体も出ていない。

トイレで、会社Wi-Fiに繋げないように細心の注意を払いながらググった。

搔くな、冷やせとのことだった。

何食わぬ顔でお弁当用の保冷剤を取りに戻り、再びトイレで冷やした。冷やすと痒みが、キシリトールガムかなにかのCMのように、スーッと引いた。やった!やったぞ!!

しかし、仕事の机の前に戻ると再度痒くなり始めるのだった。嘘だろ。もうちょっと耐えてくれんか?禿げそうなほど痒いわけでもない。乳首をもぎりたいとも思わない……でも乳首って、もぎっても代替わりするらしいって聞いたけどほんとかな?試さないよ、試さないけどもさ。でもずっとうっすら、ちみちみと痒くて、仕事にうまく集中できない。

痒い。帰ってええか?

でもググった感じでは原因はホルモンバランス関連らしい。ネットには、生理が始まったら痒みが治るとあった。

来週の始めに生理が始まる予定なので、それまでずっと痒い可能性すらある。嘘だと言ってくれ、それは長いってば。

世の女性って、こんな、他者と共有できない悩みを抱えている場合もあるんだなぁ。みなさま、今日お疲れ様です。今日から私も仲間です。アラウンド30年女をしていますが、こんなことは初めてです。

あと、これを書くのに夢中になっていたので乳首の痒みから少し意識が逸れ、痒みを過度に受信しなくなりました。本当に良かったです。

2024-09-08

親にならないという決断をした話

【9/9 追記

反応いただいた方々、ありがとうございました。

かにめちゃくちゃ女々しくて気持ち悪いですね。

いか自分が幼稚か・自分本位だったか、というのを、はっきり指摘されてよくわかりました。ひとに指摘されるまで気付かないとは情けない。

難しい決断をしたつもりになっててハイになってただけなんだろうな。

もっと冷静になって、これから自分のことと妻のこと、そして子のことを、改めてもう一度よく考えてみようと思います

ありがとうございました。

いまさらながら大変恥ずかしく・情けなくなったので、この日記はいずれ消してしまうつもりですが、それまで、以下を、創作だと思ってお読みください。

【9/9 追記ここまで】



「おかあさんになりたかった」

そう言って妻はわんわんと泣いた。

〜〜〜

わたしたち結婚して数年。

お互い30代後半、二人とも会社員共働きである

わたしは、子育てというのは夫婦協力してやるものだと思っている。

「夫が稼ぎ、妻が家庭を守る」という時代過去のもので、いまはお互い支え合ってやっていくものだと。

ただ、実際問題「稼ぐ」「家事育児をこなす」ことのウェイトは夫婦で差が出るのは仕方ないと思う。多少であれば。

結婚する前から基本的にこの考えがあった。今も変わっていない。

結婚当初、子供をどうするかについて妻と話し合ったのだが、この考えと、当時わたしが考えていたさまざまな理由(以下)により、個人的には「子は不要」という意見だった。

環境理由

二馬力とはいえ都心で子を育てるのには金銭的、環境的に不安があった。一応わたしのほうが稼ぎは多いのだが、そのぶん労働時間も長くなりがちで、子育てに参画できる時間が十分にとれるか怪しかった。これは前述のわたしの想いと反し、結局のところ妻に家事育児負担押し付けしまう形になってしまう。

・心身健康な子が生まれてくれるのだろうか、そして、おおきなトラブルに見舞われることなく育ってくれるだろうかという心配が大きかった。(各自努力ではどうにもならない社会情勢や気候変化なども含む。)

感情理由

結婚時点ではまだ夫婦二人の関係性が円熟しきっておらず、いきなり「母と父」になってしまうのがいやで、「妻と夫」の時間もっと満喫たかった。

24時間をほぼ自分のため(と、妻のため)だけに使えていた生活ががらりと変わり、子供中心の生活になってしまうのがいやだった。自分時間夫婦時間を大切にしたかった。

そもそもわたし子供がそれほど好きではない、というか苦手なので、愛を持って接してあげることができるのか不安だった。

妻も妻で様々な意見を出してくれたし、わたし意見についても概ね同意してくれて、「じゃあ、やめておこうか」と一旦片付いた。

しかしあれから数年、妻自身の心身の変化や、他者からの「子供は?」の言葉に少なからず影響され、ときたまこの件が話題にあがった。

あれから数年でどのような変化や気付きがあったか

目線発見葛藤もいくつか教えてくれたが、わたし目線で大きなテーマがいくつか。

・どうやら妻の心身は不安定な状態にあるようだ、ということがわかった。回復傾向にはあるようで、それ自体はとても喜ばしいことではあるが、出産そして育児がどのように影響するか心配になった。(=妻の体調についての不安 ただし後述するがこのわたしの想いは妻には伏せた)

・そんな妻と最も近い距離で接することになる子は、はたして健やかに育つことが可能なのだろうか。なんらか歪な形になってしまわないか。(=子の体調についての不安 同様にこれも伏せた)

わたし自身メンタルが頑丈な方だと思っていたが、数年間妻の不調と付き合ってみて、引っ張られて自分調子を崩すことがままあるということがわかった。なんとか耐えてきたが、今後、どこまで寄り添えるか自信がない。(=自分の体調についての不安

・仮に、子が産まれたあとで妻が体調を崩してしまった場合、子と妻の、そして自分自身の面倒を見切れるのか、そこまで自分は頑張れるのか、という不安。(=自分の体調についての不安2)

夫婦二人とも40手前となり、自然に授かる可能性もどんどん低下するし、仮に授かったとしても子の心身に何らかの影響が出る可能性は高まってゆく。はたしてそんなリスクを負ってまで子が欲しいのか。

タイムリミットというものが迫っている以上、何らかの決断をする必要はある。

が、決断しなければ今の生活を続けられる、という想いから、ずっとずっと逃げ続けてきてしまっていた。

妻も妻で「本当に子供が欲しいのか」「人に言われたからそう思い込んでいるだけなのでは」「社会の維持発展のために必要なのではないか」といった点について何度も何度も悩んだらしい。

そして数回目の意見交換が行われた先日、妻から

「『40まで』という期限付きで子作りをしてみて、自然に授かるなら育てる、授からなければ諦める、というのはどうか」

提案があった。

不思議提案に正直戸惑った。

いわく「子供が欲しい気持ちと、そうじゃない気持ちが両方あって答えが出ない」「やってみたけどだめだったね、残念だねという結果が出れば気持ちの整理がつくかもしれない」とのことだった。

なるほどたしかにそういう悩みならひとつの答えがこれかもしれないなとは思った。

だけど「子供は欲しくないのに、諦めるために子作りをする」という姿勢(という風にもとれる)が、わたしには受け入れ難かった。

実際、子を授かった場合わたしは心の底から100%喜べるのか。

もしも授かった子に障害等があったら、「やっぱりやめとけばよかったのに」なんて絶対に思わない、と誓えるか。

子育て中に起こる様々な事件のたびに、同じように心のどこかで後悔し続けないか

そんな姿勢で、妻や子供幸せか。

ネガティブな「もしも」ばかり浮かんだ。

から、やっぱり、どうしても、「そうだね、やれるだけやってみようか」とは、言えなかった。

妻が悪いわけではなくて、あくまでも自分感情として、妻の体調以外のことについては伝えたつもりだ。

妻の体調については明言を避けた。

あなたの体調が心配からやめよう」というのは、転じて「あなた子供を産み育てられない欠陥品なのでは」と言ってしまうようなもので、それはわたしの本意ではなかったからだ。ただただ、妻のことが心配気持ちだが、正しく伝わらないなら言わないほうがいいかなという判断

この判断がよかったかどうかはわからない。

少なくとも、妻には、単に「ネガティブ理由ばかりを並べて嫌だと断った」と伝わったと思う。

そもそもこれは相当な覚悟提案だったと思う。

なのにそれを全否定してしまったのだ。絶望という言葉では足りないくらい、深く傷ついたと思う。

本当に、本当に申し訳ないことをした。

〜〜〜

そして、冒頭の言葉に戻る。

自分エゴで、妻にこんな酷い仕打ちをしてしまったのだ。

これでよかったのだろうか。

夫婦二人を守るためには、これでよかったと思うしかない。

そう自分に言い聞かせた。

妻には今後一生この決断を恨まれよう。

わたしが悪いんだ。

そういうことにする。

納得してくれたかどうかはわからない。

いや、おそらく全然納得してくれていないだろう。

それでも泣き止んだ妻は「わかった」と答えてくれた。

この話はこれでおわり。

そのはずだ。

〜〜〜

早いもので、それから数週間が経った。

からこの話題は出なくなった。私も、話題には出さないようにしている。

表面上は元通り、あの日のことはなかったかのような関係性、ただの仲良し夫婦関係を維持できている。

と、思っていたのだが、わたし自身に大きな変化があった。

外で子連れを見ると、心臓が締め付けられ、胃が捻じ切れそうになるようになった。

幸せそうな親子を見ると、「ああ、わたしはこれを諦めさせてしまったんだ」と改めて思い知らされるようになり、後悔が襲ってくる。

子連れ直視できなくなってしまった。

怖い。

辛い。

いや、本当に辛いのは妻だ。

妻は子供を望んだのに、夫に諦めさせられたのだ。

自分以上に、子連れを見るのが辛いはずだ。

「あのような幸せを手に入れられるはずだったのに」と、思うはずだ。

妻はさぞ辛いだろうな、と思うことが、さらに私を苦しめる。

わたしが全部悪い。それはわかっているつもり。

でも、この事実にどう向き合えばいいのか、耐えられるのか、まだ答えは出ていない。

このわたしの変化を、妻に言えずにいる。言うべきではないと思う。「苦しいのはこっちなんだ。お前が苦しむな、ふざけるな。」と言われるだろう。

から、ただ、どこかに吐き出したかった。

〜〜〜

この懺悔を読むことはないと思うけど、愛する妻へ。

ほんとうに、ほんとうにごめんね。

あなたのことを愛しています。大切に思っています

あなた身体が一番心配で、こういう決断しました。

わたし自身の都合と感情ゴリ押したと思われたでしょう。これからも、そう思っていてくれてよいです。そういう面も大いにあることは否定しません。

でも、一番の理由あなたことなのです。これは本当です。

わかってくれなくても、納得してくれなくても大丈夫。こそこそ吐き出すような女々しい真似してすいません。

こんなわたしですが、これからよろしくお願いします。

画像生成AI推進派の知的基盤のレベルが低過ぎる

末端ではあるがIT畑の人間として、新しい技術にはとりあえず触るし、肯定から入るつもりだし、実際そうしてきた。画像生成AIも同じでNovelAIから入り、StableDiffusion用にパソコンを新調したり、自作Lora作ったりもした。少なくとも1年以上は使い倒した。

しかしあれらの技術はどんなに真っ当な使い方をしようとしても、結局は他者著作物を取りれて切り貼りしたコラージュを作る以上のことは何一つできない。何一つだ。

少なくともSDXLでのPonyやAnimagineはそうだ。あれらは例えばポーズ一つにしても教師画像から少しでも外れたものは出せない。ControlNet使ってちょっと変わったポーズを取らせてみようとしてみろ。途端に肉塊しか出なくなる。

ControlNetを使ったところで、できるのは格納された教師画像の中から似たものを引っ張り出して、そこに指定のパーツを追加で当てはめることだけだ。ポーズ指定している訳ではない。

まりにも教師画像が膨大だから一見なんでも出力できるように見えるけど、所詮教師画像から1ピクセルもずらすこともできない雑なコラージュ装置だ。盗んできた画像からなる膨大なプリセットの中から適当に要素を組み合わせてそれっぽく合成しているだけだ。

それを良く理解しているはずの画像生成AI推進派が「学習無罪」だの「概念を学んでいるだけ」だの「モデルに元画像は含まれていない」だのといけしゃあしゃあと嘘を付き、そしてその嘘を指摘すれば「知的基盤のレベル合わせができていない」と嘲り笑う。

画像生成AIコラージュ以外、何の価値も生みだす能力がなく、他者権利侵害する以外の使い道がないことを認めない。

ああ、確かに知的基盤のレベル合わせができていない」な。お前らのレベルが低すぎて現生人類がその知的基盤のレベルまで降りていくのには相当な困難が伴いそうだ。法に基づいて他者権利を守ると言う概念を持たない原人が、せめて旧人知的基盤のレベルにまであがってくるのに何万年待てばいいんだ?

そこから事実を認める」、「嘘をつかない」、「間違っていたら謝る」と言う現生人類なら3歳児でもできる行為をお前らができるようになるまで更に何万年待てばいいんだ?

原人原人らしく野山で獣狩って暮らしてろ。現生人類テリトリーに入ってくるんじゃねえ。入りたければせめて人らしい振る舞いをしろ原人原人のまま過ごしていい場所じゃねぇんだよ。お前らの知的基盤のレベルじゃ理解できないだろうけどな。

2024-09-07

34歳童貞乙女に恋は難しいのである

私は34歳であり、身体的には男であるからして、まあ、おっさんである

しかし、幼少期にまわりからかわいいかわいい」と言われて「わ~!僕ってかわいいんだ!うれしすぎ~」となった結果、

未だにかわいいと言われたいし、かわいいと思っているおっさんになってしまったのである

思春期身体が男になっていくことが嫌すぎて、性器を切り落とすことや、ホルモン注射を打とうかとも日々考えていたが、

そうしたとしても自らの身体精神の不一致が解消することはないだろうと考え、なるがままに任せることにした。

私の心はずっと美少女なのだが、鏡に映るのはおっさんである。かなしい。

更に、同じく子供の頃に、理性的人間であることを旨として生きた結果、

性欲をある程度捻じ伏せることに成功してしまった。

これまで自慰したことはなく、いかがわしい妄想をすることもない。もちろん童貞である

アダルトコンテンツに対する忌避感などは特になく、他者に対して潔癖であるわけではない)

因みに性指向は基本は女性であるかわいいので。

あと知性的意志が強い人が好きである

そういうかわいくてかっこいい白馬王子様にさらわれるのが夢である

こうして拗れに拗らせた34歳童貞乙女が私である

さて、本題はこんな私が誰かと恋仲になることは現実的可能なのか、ということである

現在、私には気になる人がいるのだが、普通に考えてこんなやべーやつに想われるのこわすぎるだろう、と思うのである

自分は、素直でいいこ(かわいい❤)なのが長所なのだが、外見がおっさんというだけで全て短所に変換されてしまうのだ。

すべてを隠せば普通人間として扱われるのかもしれないが、自分はこうなってしまった自分も愛おしいのである

それに好きな人の前で素直に過ごせないのも辛すぎる。私が愛おしいと思う私も好きになってもらいたいのである

でもそうなると一気にハードルが上がるのだ。詰んでいるのではないか

まあ、まだ「気になる人」とも数ヶ月の付き合いなのでこれから発展するのかもわからないのだが、

この問題は今後も続いていくので、どこかで答えを出したい所存である

因みに、別に普段恋人がほしいとか結婚願望があるとかではなく、

好きな人ができると恋をするというスタイルなので、次が5年後か10年後かはわからない。(今回は3度目10年ぶり)

その頃には諦めもついているかもしれない。

anond:20240907055542

職場改善しようという段になって、経費~とか自腹~とか、あんまいいなさんな。

他者ジェントルに圧迫することを考えるべきだ。

我慢できません、これだと死にますという意思表示をするんだ。

そういうやり方を工夫といったんだ。

会社員はなんでもお膳立てしてもらうべきという考えは捨てるんだ。

上手に破壊するやり方を学ぶべきなんだ。

仕事できない困った人

自戒をこめて増田に吐き出している。

今後の為に、わかる人がいたら教えて欲しい。

仕事が出来ないのにやたらと高圧的で薄っぺら正論ばかり声高に叫ぶタイプの人がいる。今まで3人ほど出会ってきた。

人と比べて自分はいかに出来るのかマウントをとり、他者仕事に首を突っ込み、頼まれてもいないのに重箱の隅をつつくような指摘をしてくる。

肝心の仕事を任せてみても成果はてんでダメだが、言い訳三昧で他者責任を擦りつける始末。

責任を擦りつけられたものが驚異的に成長する事もあるが、潰れてしまう事もある。

指摘、批評批判冷笑はご立派だが、具体的な対案も提案もなく、自ら動こうとしない。

そのような人は、「仕事が出来る自分」の妄想と「仕事が出来ない自分」の実態がかけ離れているので、自分が出来ない事を認めたくないし、自分が出来ない事に気付かないのだろう。

仕事なんて、出来ない事を自覚して克服していく事で成長するのだと思っているので、失敗や叱責される事や恥をかいた時が成長のチャンスだと考えている。

また、自分一人では何も成し遂げられないので、みんなに助けてもらって何とかするしかいから、マウントとか意味ないんだよ。

出来ていない事に目を逸らし続けて、批判ばかりで逃げ続けて、どんどん仕事が出来なくなり、さら妄想実態乖離して、マウントエスカレートしていくのだろうな。

このような人物は、能力の低さからこうなってしまったのか。それとも性格の悪さからこうなってしまったのかとても気になっている。

2024-09-06

スキンケアルッキズム

https://anond.hatelabo.jp/20240904005812感想個人的な考えの羅列

この熱量の源泉はなんなんだろう

自分を含む多くの男性にとって、スキンケア日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止め化粧水乳液教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常ルーティンである

しかし、上記記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム社会的要求自己投資官能評価あいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。

美しい肌は恋愛市場ドレスコード

現代社会では、肌は単なる見た目以上の役割果たしている。

美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種ルッキズムを生んでいる。

(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)

スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。

スキンケア官能

スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュものであるスキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者評価依存せず、自分自身ケアする極めて個人的感覚的なプロセスだ。

定量的評価が難しい

容姿に関する特徴のひとつは、その定量的評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間試行錯誤必要であり、その過程で「暫定的解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまりスキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ

コミュニケーションの一部としてのスキンケア

興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割果たしている点だ。スキンケア女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。

肌は常に改善余地を持つ

最後に、肌は常に改善余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。

完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)

らい病・ハンセン病患者差別をゆるくモダナイズしたのが清潔感というワードによる他者の判定行為だよ

一連の清潔感増田を読んで分かったが、親身なようでいて根底にあるのは徹頭徹尾、穢れ思想に他ならない

いや、実際この増田は本当に純粋な親切心であの文量を書いているのは伝わるが、結局のところの発想が昔の皮膚病患者差別から一歩も進んでいないことに哀しさしか感じられなかったな

どうにかこうにかして差別心を正当化するために、理屈をこねくりまわしているに過ぎないことにいい加減気付くべきだ

それが本当に人類にとって普遍的ものならば、時代文化言語を問わず、「清潔感」というワードはこれほど多くの反発を受けることもなく浸透しているはずだ

なぜ未だに日本でだけそのような思想が大っぴらに振り撒かれてむしろそれが肯定されているのか考えた方がいい

2024-09-05

本当に日本女性のために思うんだけど

日本女性もっと自律して自立した方がいいよ。

本当に。まじで感情的になってヒスを起こす子供

生理から怒っていいとか

子育てしてるから怒っていいとか

旦那が好き勝手してるから怒っていいとか

全部自分で決めたことだから

生理は違うとか思うでしょ?

生理で辛いことは自分で決めたことではないが

その時に態度に出すかどうかは自分で決められることだよ。

事実たいていの女性女友達にはそういう部分出さないし。

男性パートナーに怒りをぶつけるのも

親には本音を言えるのと一緒で本質的には甘えだよね。

旦那を選んだのも子供を作る決断をしたのも自分でしょ。

そういう自分を認められないか他人に当たるわけで。

海外掲示板に、日本人妻と結婚した人たちが相談しあうコミュニティがあるんだが

総じて話し合いができずすぐに感情的になるので子供あやしてるようだというのが結論だった。

かに幸せにしてもらおうとせずに

嫌なことがあれば自分にできることを改善して

経済的にも情緒的にもいつ一人になって生きていけるという自信を持って欲しい。

全て自分責任だと思って生きてほしい。

そうしないと心の中はいつも他者に対する不平不満だらけで

本当の幸せなんてものは遠ざかるだけだよ。

 

追記削除

anond:20240827141027

生きていることを楽しもうよ。ゲームやネトフリが楽しいなら、それで良いし、退屈ならほかの趣味を見つければ良い。

毎日食事嗜好品だって、楽しめば良いし、物足りなければいろいろ試してみればいい。

日々の仕事も、大変かもしれないけれど、それも改善して、なにか小さな一つでも進歩があれば、それは楽しいはず。

人間にとって、自分や周りの他者 (もしくは「推し」)の成長や変化こそ最大の娯楽なので、小さなチャレンジをして、小さな成長や変化を楽しめば良い。

人生意味を求める必要は無い。大切なのは死ぬまで人生を楽しむこと。

by 還暦定年退職後も普通に働き続けているオジサンより。

anond:20240905030725

女性は、男性割引は格差公正措置だって理解できるから特に問題視しなかったんやね

男性特権意識が強すぎて他者利益まで考えてないやね

ファシストから日本にいない方がいいよね

2024-09-04

anond:20240904174100

この夢は、自己の願望や内面的な欲求を反映していると考えられます。以下の要素を分析します。

別の世界への入れ替わり

夢の中で「別の世界自分と入れ替わる」という儀式は、現実逃避や新しい体験への渇望を示しています特にアニメゲーム世界に行くことを望むことは、現実ストレスプレッシャーから解放を求めていることを意味します。

長老の反応

長老が「ハイハイ…」と呆れ顔で反応する部分は、自己評価他者から評価に対する不安示唆しています。この反応は、夢の中の自己他者にどう見られているかを気にしていることを示しています

望みの世界への到達

儀式を通じて望みの世界に行くことができるのは、希望や願望が実現する可能性を示しています。これは、現実の中で自分理想を追求する意欲を反映しているとも解釈できます

この夢は、自己内面や願望を探求するための重要な手がかりとなります

anond:20240904130809

セックスしたがらないメスに対して「他者自身人生嫌悪」まで言い出すのがオス丸出し

オスは状況も相手も考えず片っ端から種付けするのが生き物としての最適解だけど

出産育児に多大なリソースがかかるメスは種を吟味して確実に育てられる時のみ発情するし

発情してないメスはオスを拒否する

それが生き物として当たり前の生存戦略

ヒトもいつ何時でも発情してんのはオスだけでメスはそうじゃない

いつ何時でも発情してるメスの方がむしろ壊れてる

anond:20240904133802

知性は弱者じゃないつもりなんだろ?

リベラルと違って知的ものにこだわりもなければ、リベラルフェミニスト他者への話に耳を傾ける存在ではなく党派性イデオロギーありきの存在であることはよく知ってるので真面目に説明する気もないよ

anond:20240904123035

状況がセックスしたい感じじゃない(状況が許せばセックスしたい)

  

 

セックスしたくない、にまとめるの良く無いと思う。

性の嫌悪、引いては他者自身人生嫌悪に繋がるし。

anond:20240903225615

数人から犯されそうになったことあるけど(結局こっちもその気になってしまうから、和姦に移行する)

好きっていうよりも、お勤めご奉仕することが人生の一部に組み込まれてるみたいな人も居た気がする

いや、普通に気持ちいからやりたいって人も何人も居たか

経済的には自立してても、男(他者)に依存する人は依存するし

逆にSEX嫌いって人のほうが、壁(自分ルール)作って好きにならないように無理やりしてるような

それまでの相手が合ってなかったってのもあるんだろうけど

2024-09-03

社会幼稚園教室も一緒なんだと割り切ったら耐えられるようになった

自己啓発本定番フレーズである相手にも赤ん坊だったことがあると思えば許せないか?」が長年全然さらなくてさ。

赤ん坊だった所から何十年もかけて成長してコレかよ!成長してませんって顔ならともかく、「俺って成長したなあ」って面して結局書きのままな所こそが許せねえんだよ!死ね!」って感じでさ。

からもういっそ相手は成長なんて一切してないし、成長したつもりになってる大人ぶった子供なんだって割り切る切ることにしたの。

でも小学生程度のものだって考えると「この程度のことも出来ねえやつは小学校でも廊下に立たされてるわ!クラスハブられてるわ!小学生未満だろうが!」みたいな気持ちが吹き上がってくることがあってさ。

もう諦めて幼稚園だと思うことにしたの。

ずっと悪口言ってる奴→ あーそんな奴いたわー

ずっとなんか食ってるデブ→ あーいたいた

噂話大好きだけど嘘ばっかの奴→ いるねー

化粧のこと気にしすぎな女→ いるわー

ナルシストだけどイケメンって程じゃない男→ ありがちありがち

誠実キャラっぽい癖にピンチですぐ嘘つく→ もはや定番

なんかもう全部「あるある~~」で終わるんだよな。

だって幼稚園児の中にそういうのがいるのはもう自然の理みたいなものもの

大人なんだからさあ・・・」という概念を完全に諦めるだけでなんかもう全部許せるのな。

三つ子の魂百まで」とも言うけどさ、結局ちゃんとしてる人間幼稚園の年中ぐらいでもう本当にちゃんとしてる片鱗があるし、キチガイはその頃からキチガイ性格ネジ曲がってる奴はその頃からネジ曲がってるじゃん?

成長による社会適応は実際あると思うんだけど、それって結局は「他者自分とは違う」とか「他人自分と同じように痛みを感じる」とか「世界観が人によって違う」とか「俺の見えている世界は俺中心の世界だけ」とかを知識として理解するに留まるだけでしょ?

そういうのを超えた所、結局人の痛みが分かるようになった所で「でも、俺は痛くないよね」と考えるサイコパスとか、「こんだけ痛めつけてやったと思うと胸がスッとするぜ!」ってゲス野郎とかは、3歳時の頃に見せたクズの片鱗を開花させる方向にしか進まんわけじゃん。

ゆーて人前でクズムーブしすぎるとアカンって感じるから、大部分はある程度隠すように努力するようになるけど、それでもふとした時に性根のカスっぷりが社会で滲み出たり、弱い相手の前でだけ見せつけることで鬱憤を晴らしてるカスがいたりするわけで。

そういうのに対しての苛立ちを抑える方法として俺と相性が良かったのが「ここは幼稚園教室で、俺達はみんな幼稚園児なんだ。年齢の差なんて年少と年長ぐらいのものしかないんだ」と割り切るようにしたこと

いわゆる「他人に期待しない」って奴を自分流に解像度を高めた形として俺にはこれがシックリ来た。

俺が通っていた保育所がほどよく世紀末かつほどよく秩序があったから、実社会をそれの相似形とするのに都合が良かったのはありそう。

もっとずっと世紀末社会が成立しない所に通っていたら「いやいや流石に社会幼稚園じゃないよ」と感じてただろうし、もっとちゃんとしてたら「社会幼稚園未満だ!デカ赤ん坊が暴れまわるこの世の終わりだ!滅ぼそう!」とか考えていたかも。

俺が今働いてる職場とか、住んでいるマンション治安が、ちょうどいい具合に「先生の目が光っていれば大人しく、自由時間になればモラルなぞどこにもなくなる幼稚園の1クラス」というイメージに当てはまるだけな所もあるね。

anond:20240903091430

もっと言えば、地雷属性がなぜ地雷属性かというと、素直にそれが好きなのではなく、他人理想に沿う形で己の好きを捻じ曲げてるからなんや

そういうやつは、他者にも己を曲げることを求める。

共同体の変遷と推し

日本社会における共同体形態は、時代とともに大きく変化してきた。かつての故郷を中心とした共同体から会社中心の社会、そして現代の「推し活」に至るまで、その変遷は日本人生活価値観の変化を如実に表している。本稿では、これらの変化を考察し、各時代共同体が持つ特徴と、その基盤となるものの変化について探る。

まず、最も古い形態共同体として、「故郷」に焦点を当てよう。故郷という共同体の最大の特徴は、その「大地」に根ざした不変性にある。人々は同じ土地で生まれ育ち、その土地文化伝統を共有することで強い絆を形成していた。この共同体は、地縁血縁に基づく強固な結びつきを持ち、相互扶助精神根付いていた。自然災害飢饉などの危機に際しても、互いに助け合い、乗り越えていく力を持っていたのである

しかし、明治以降近代化と、特に戦後高度経済成長期において、日本社会は大きな変容を遂げる。地方から都市部への大規模な人口移動が起こり、故郷が担っていた共同体としての機能は徐々に失われていった。その代わりに台頭してきたのが、「会社」という新たな共同体である

会社は、故郷が担っていた共同体機能代替し、終身雇用家族経営など、日本独自の特徴を持つ相互扶助を実現する場となった。ここでの結束の軸は「生産である社員会社生産活動従事することで、安定した収入社会的地位を得ると同時に、会社を通じて新たな人間関係を構築した。会社という共同体は、個人生活を支える基盤となり、そこでの人間関係は時に家族以上に親密なものとなった。

しかし、バブル崩壊後の経済停滞と新自由主義の台頭により、会社という共同体の力は徐々に弱まっていく。終身雇用制度崩壊成果主義の導入により、会社個人関係性は大きく変化し、かつてのような強固な絆は失われていった。日本人は再び連帯を失いかけたのである

そんな中で台頭してきたのが、「推し活」を中心とした新たな共同体である推し活とは、特定アイドルアーティストキャラクターなどを熱心に応援する活動を指す。この新しい形態共同体は、80年代オタクカルチャーとは異なり、より「共同体的」な性質を持っている。

オタクカルチャー個人趣味や嗜好を強調し、それが結果的既存共同体からの逃避や代替の場として機能していたのに対し、推し活はむしろ個人を再び共同体的な枠組みに引き戻す役割果たしている。推し活を通じて人々は、共通の関心を持つ他者との連帯感を感じ、コミュニティ形成している。このコミュニティは、かつての故郷会社が持っていた連帯感に似た役割果たしているのである

しかし、ここで注目すべきは、これらの共同体がそれぞれ何に根ざしているかという点である故郷は「大地」に、会社は「生産」に、そして推し活は「消費」に根ざしている。この変遷は、共同体としての強度が徐々に弱くなっていることを示唆している。

大地に根ざした故郷は、よほどのことがない限りなくならない。生産に根ざした会社も、人が生きている限り必要不可欠なものであり、個々の会社栄枯盛衰はあれど、会社という制度自体はなくならない。会社を移動することで共同体を失うリスクは最低限担保される。

しかし、消費に根ざしている推し活は、消費するための財がなければその共同体に参加することはできない。財とは個人的なものであり、財を失ったときに補完してくれる基盤はほぼない。生活保護などのセーフティネット存在するが、それを受給することは推し活に回す余剰がほぼない状態意味する。

したがって、推し活による共同体は極めて脆弱な基盤の上に成り立っているため、その財を得るために無茶な行為を働きかねないというリスクにつながる。これを読んでいる皆さんの周辺でもそのような現象枚挙にいとまがないであろう。

このように、日本共同体の変遷は、社会近代化個人主義化の過程を反映している。大地から生産、そして消費へと基盤が変化する中で、共同体の強度は弱まり個人が抱えるリスクは増大している。

推し活という新しい共同体の形は、現代人のニーズに応える一方で、社会の安定性という観点から課題を抱えている。今後の社会は、この新たな形の共同体がもたらす利点を活かしつつ、その脆弱性にどう対処していくかが課題となるだろう。

私たちは、これらの課題に対して、どのような社会システム価値観の変革が必要となるのか、真剣に考える必要がある。消費に基づく共同体脆弱性を補完する新たな社会セーフティネットの構築や、消費以外の要素で人々を結びつける新たな共同体の形の模索など、様々な角度からアプローチが求められている。

日本社会が直面するこの構造的変化は、単なる社会現象ではなく、私たち生き方幸福のあり方に深く関わる問題である共同体の変遷を通じて私たちが失ってきたものと、新たに獲得したものを冷静に見極め、より強固で持続可能社会の構築に向けて、一人一人が考え、行動していくことが重要だ。そうすることで初めて、推し活に代表される新しい形の共同体と、伝統的な共同体の良さを両立させた、真に豊かな社会を実現できるのではないだろうか。

どんな属性人間であれ、なるべく他者依存しないで済む方向に、心身を磨いていかなければいけない。

かつ、必要な助けは積極的に請うための心の柔軟さは持っておかなければならない。

両方やらなきゃいけないのが現代人のつらいところだな。

2024-09-02

anond:20240902184908

顔は普通

スタイルはあまり良くない

性格は悪くて他者を許容する心が狭い

若さがないとどうにもならない(あってもどうにもならないかも)タイプ

無理ぽ

自身容姿が好印象を与えることが、人生においてプラス作用を齎していたかもしれないと今更気づいた話

自身容姿が好印象を与えることが、人生においてプラス作用を齎していたかもしれないと今更気づいた話。

自身容姿を良いと捉えるナルシシズム発言が多々あることを承知の上で読んでください。

きっかけは、Xで見かけた女性活躍に関するポストだった気がする。詳細は覚えていないが、「女性活躍などで台頭し意見を述べる女性は見目が華やかなことが多い。それは、意見を聞いてもらえる・発言やすい土台があったからではないか」といった内容だった。

これには心当たりがある。仕事柄、社会一定程度の地位を獲得している女性出会うことが多いが、同性として魅力的だと感じることが多かったからだ。

勿論、皆優秀であり努力も重ねられている人々で、容姿のお陰で登り詰めたと言いたいわけではない。

ただ傾向としてそういったことはあるかもしれないとは思った。

一方、自分自身のこと。

振り返ると、褒められることは比較的多い方ではあった(そのほとんどは世辞、というかコミュニケーションの一環だとは思う)。ただ幸か不幸か、そうした褒めを糧に優れた容姿を持つ女性といった自意識を持ち、自分を磨くということをしてこなかった。

卑屈に受け流していたわけではない。褒められればその時は嬉しいので素直に反応したり、人が多い場では困惑し流したりしていた。いずれもその場限りの反応だった。

メイクファッションは好きだし、自身で鏡を見て「今日は盛れている」と気分が上がることもあったが、なぜかそれと他者評価は結び付かず、すべてが自身の中の絶対評価で完結していたように思う。

それは私が子どもの頃からオタクであったからかもしれない。今でこそ市民権を獲得し、オタク非オタの垣根は随分なくなったものの、当時のオタクは隠れるべき存在でありどこか恥ずかしいことと捉える風潮があった。

日陰のものである、日陰の人格内包している、という感覚女性性を意識する自意識の育成を阻んでいたのかもしれない。

そんな状態であった自分自己を顧みたのは、先述のXのポストを見た時に、以前オタク友達に言われたことを思い出したからだ。

オタクは隠すものと述べたが、自分はそうではなかった。隠すことがあまり得意ではなかったので、非オタの友人の前ではわざわざ話題を持ち出さないだけで隠してはいなかった。

そうしたことを友人に伝えたら「それは隠さなくても立場が揺らがない容姿や自信があったからでは」と言われた(親しい友人であり、糾弾されたわけではない。あくまで一意見である)。

そして、「それはあなたから言えるんだよ」といったようなことを言われたことは、この時、この友人からだけではなかったことを思い出した。

それが、自身を顧みるに至った経緯である

私は昨今の自己責任を強調する風潮には反対であり、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義正義か?』なども共感を覚えながら読んだ。機会は均等ではなく、どのような環境に生まれるかといった運による要素も考慮しなくては、能力不足は努力不足=自己責任といった風潮が加速する。

こうした思想を持つ自分にとって、容姿という運による要素に対し無自覚でいるのは問題なのではないかと今更思い至った。

美醜の価値観時間場所により変動するものであり、絶対的価値があるとは思わない。ただたまたまその場所では良しとされる傾向があるのではないかと思う。

それが優位に働いてきたかもしれないと気づくことは、ナルシシズムという悪性の萌芽であると同時に、「運良く、要領よくやってきたから」と考ええいた自分への驕りを見直す機会でもあった。自分が運だと思っていたものでさえ、更なる運により齎された可能性があるのだ。

とはいえ容姿に関する話題は非常に繊細であり、この話を人にすれば不快にさせることは理解している。だからこれは匿名投稿することにする。

しかたらこ問題を突き詰めると自身も人も不快にさせる可能性があるとわかっていたので、これまでの人生自覚的にならないようにしていた可能性さえあると気づく。

自身発言はどこに立脚しているのか、無自覚の驕りはないかを疑うことは、してもし過ぎることはないのかもしれない。

最後に、これまで無遠慮な発言をしてしまっていた人々には申し訳なくなる。自己責任主義のようになりたくないと思っていたが、近い傾向が自分の中にもあった。多分まだ沢山あるのだと思う。自戒

論理的だ」と自称する人のほとんどは性格スリリンなだけだ

論理による他者否定

まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者批判し、無知であるかのように見せかける戦略である

彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。

その結果相手不快感を覚え、自分意見が無価値であると感じることが多い。

こうした行為論理思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。

他者感情無視現実世界無視

さらに「論理的だ」と自称する人は自分感情を抑圧し、他者に対しても感情無視するよう強要することがある。

感情論理の敵として扱いすべての問題冷徹解決しようとする。

しか人間関係社会的問題感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実無視することに等しい。

感情排除した論理はただの冷酷な行為正当化に過ぎず、その背後には他者への共感理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。

より広範な論理(For the Greater Good)

また、彼らは自分論理絶対的正義であると信じて疑わないことが多い。

この信念に基づいて他者意見価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。

論理本来柔軟であり異なる視点価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理自己中心的な道具であり、他者支配するための手段に過ぎない。

このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理思考とはかけ離れている。

彼らの行動は、他者批判し、感情無視し、自分意見押し付けることである

論理であることを誇示する前に他者への共感理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。

ソフィスト誤謬

論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。

ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的真実倫理無視し表面的な論理だけに依存していた。

現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。

彼らは、自己の主張を支持するために論理誤謬を巧妙に組み込むことがある。

たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。

ソフィストたちのように、これらの自称論理的」な人々は、自分議論正当化するために論理武器として使う。

しかし、彼らの目的真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利目的とした議論技術と非常に似ている。

さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者反論無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識絶対的ものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的性格の表れと言える。

しかし、ソフィストたちの手法古代ギリシャ知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論一見効果的に見えることがある。

それでも、こうした誤謬依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理である自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。

結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代ソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。

ソフィスト対策(闇の魔術に対する防衛術)

論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。

彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。

まず論理誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛第一歩となる。

これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。

次に、感情倫理無視されないように自分立場を守ることが肝要だ。論理冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。

さらに、議論目的を見失わないことが必要だ。相手ソフィスト的な手法自分論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。

こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることな健全議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。

結論

論理武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。

冷たさと強さを兼ね備えたスリリン特質を持つ者は時にその論理自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。

我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理思考である

しかしこれはスリリンに向けたスリリンからメッセージである

闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。

おわかりかな?

anond:20240901204225

1. 共感普遍性に対する洞察

人生で感じる後悔って、多分自分だけじゃなくいつかのどこかの誰かの数多くが感じてる。」

この部分では、後悔が個人に限られたものではなく、多くの人々が経験する普遍的感情であることを認識しています。これは、後悔が人間本質的経験であり、時代場所を超えて共感できるものであるという洞察を示しています

2. 言葉限界体験重要

「失敗を恐れずに挑戦するとか。情熱を持って生きるとか。でもそこに納得がなければその言葉は何の重みも持たない。」

ここでは、一般的な助言が言葉だけでは意味を成さないことが指摘されています言葉重要メッセージを含んでいるかもしれませんが、それが実際の体験や納得を伴わなければ、その重みや価値は薄れてしまます。この部分は、表面的な言葉よりも実際の経験がどれほど重要かを強調しています

3. 自己経験を通じた学び

「それは自分の身を以て初めて感じられる事であって、チャリの乗り方や楽器の弾き方のように言葉で受け渡す事は出来ない。」

この部分では、学びは言葉だけでは伝わらず、実際に経験することで初めて本質理解できるという考えが表現されています自転車の乗り方や楽器演奏のように、特定スキル言葉で伝えるだけでは不十分であり、実際にやってみることでしか得られないものがあると述べています

4. 人間の苦悩と普遍性

「ある種の人類は変わらぬ苦悩と永遠に直面し続けるんだろうなって思う。」

ここでは、人間の苦悩が時代を超えて続くものであり、解決することが難しい普遍的問題であると考えています人間存在に根ざした苦悩は永続的であり、どの時代にも存在するだろうという哲学的視点表現されています

5. 他者経験や助言への懐疑

「でも他人の納得を借りて生きてたって実感のある生というやつは得られないんじゃないかとも思う。」

この部分では、他者経験や助言をそのまま受け入れるだけでは、自分自身の生き方に対する実感を得ることはできないという懐疑的見解が示されています自分経験や納得がなければ、他人言葉に頼るだけでは真の満足感や生きがいを感じられないという主張です。

6. 後悔と行動の関係

「お前の後悔におれの納得は存在しねえし、それを押し付けんじゃねえよ。」

この部分では、他者の後悔を押し付けられることに対する拒否感が表現されています他人の後悔を受け入れることはできず、自分自身の納得を優先する姿勢が示されています。この主張は、他者の失敗や経験から学ぶことの限界示唆しており、自分自身の選択経験を重視しています

7. 自己反省葛藤

「そんなヒネた生き方をして結局まあ多くの大人と似たような、ありきたりな道を辿った昔のおれに、お前は間違ってたよとは言いたくない。」

この部分では、過去自分に対する複雑な感情表現されています過去自分が選んだ道を否定したくない一方で、その選択自己弁護や現状の正当化であるかもしれないという自己反省が見られます。これは、自分過去選択に対する葛藤や、それに対する評価がまだ定まっていないことを示しています

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全体として、あなた文章人生の後悔とそれに対する個人的な視点を深く掘り下げたものであり、他者経験言葉に対する疑念や、自分自身の納得を重視する姿勢が貫かれています。このような要素が織り交ぜられた文章は、単なる感傷にとどまらず、自己探求と自己認識の一環として後悔を捉えていると言えます

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