はてなキーワード: 他者とは
常に他者との比較で自分を測る日本人が自分の高いポジションを対外的に示すためには、国産車では無理。
クラウンなんて一昔前は中程度の企業の部長さんが乗っていた車のイメージあるから、乗り心地や性能がどんなに高くてもダメ。レクサスも「=トヨタ」である以上ダメ。
乳首が痒い。
しかし全く心当たりがない。
痒すぎてトイレに駆け込んだ。目視で確認したけれど、ブラが擦れているわけでもなさそうだった。もちろん、変な液体も出ていない。
トイレで、会社のWi-Fiに繋げないように細心の注意を払いながらググった。
搔くな、冷やせとのことだった。
何食わぬ顔でお弁当用の保冷剤を取りに戻り、再びトイレで冷やした。冷やすと痒みが、キシリトールガムかなにかのCMのように、スーッと引いた。やった!やったぞ!!
しかし、仕事の机の前に戻ると再度痒くなり始めるのだった。嘘だろ。もうちょっと耐えてくれんか?禿げそうなほど痒いわけでもない。乳首をもぎりたいとも思わない……でも乳首って、もぎっても代替わりするらしいって聞いたけどほんとかな?試さないよ、試さないけどもさ。でもずっとうっすら、ちみちみと痒くて、仕事にうまく集中できない。
痒い。帰ってええか?
でもググった感じでは原因はホルモンバランス関連らしい。ネットには、生理が始まったら痒みが治るとあった。
来週の始めに生理が始まる予定なので、それまでずっと痒い可能性すらある。嘘だと言ってくれ、それは長いってば。
世の女性って、こんな、他者と共有できない悩みを抱えている場合もあるんだなぁ。みなさま、今日もお疲れ様です。今日から私も仲間です。アラウンド30年女をしていますが、こんなことは初めてです。
あと、これを書くのに夢中になっていたので乳首の痒みから少し意識が逸れ、痒みを過度に受信しなくなりました。本当に良かったです。
【9/9 追記】
反応いただいた方々、ありがとうございました。
いかに自分が幼稚か・自分本位だったか、というのを、はっきり指摘されてよくわかりました。ひとに指摘されるまで気付かないとは情けない。
難しい決断をしたつもりになっててハイになってただけなんだろうな。
もっと冷静になって、これからの自分のことと妻のこと、そして子のことを、改めてもう一度よく考えてみようと思います。
ありがとうございました。
いまさらながら大変恥ずかしく・情けなくなったので、この日記はいずれ消してしまうつもりですが、それまで、以下を、創作だと思ってお読みください。
【9/9 追記ここまで】
「おかあさんになりたかった」
そう言って妻はわんわんと泣いた。
〜〜〜
わたしは、子育てというのは夫婦協力してやるものだと思っている。
「夫が稼ぎ、妻が家庭を守る」という時代は過去のもので、いまはお互い支え合ってやっていくものだと。
ただ、実際問題「稼ぐ」「家事育児をこなす」ことのウェイトは夫婦で差が出るのは仕方ないと思う。多少であれば。
結婚する前から、基本的にこの考えがあった。今も変わっていない。
結婚当初、子供をどうするかについて妻と話し合ったのだが、この考えと、当時わたしが考えていたさまざまな理由(以下)により、個人的には「子は不要」という意見だった。
・二馬力とはいえ、都心で子を育てるのには金銭的、環境的に不安があった。一応わたしのほうが稼ぎは多いのだが、そのぶん労働時間も長くなりがちで、子育てに参画できる時間が十分にとれるか怪しかった。これは前述のわたしの想いと反し、結局のところ妻に家事育児の負担を押し付けてしまう形になってしまう。
・心身健康な子が生まれてくれるのだろうか、そして、おおきなトラブルに見舞われることなく育ってくれるだろうかという心配が大きかった。(各自の努力ではどうにもならない社会情勢や気候変化なども含む。)
・結婚時点ではまだ夫婦二人の関係性が円熟しきっておらず、いきなり「母と父」になってしまうのがいやで、「妻と夫」の時間をもっと満喫したかった。
・24時間をほぼ自分のため(と、妻のため)だけに使えていた生活ががらりと変わり、子供中心の生活になってしまうのがいやだった。自分の時間と夫婦の時間を大切にしたかった。
・そもそもわたしは子供がそれほど好きではない、というか苦手なので、愛を持って接してあげることができるのか不安だった。
妻も妻で様々な意見を出してくれたし、わたしの意見についても概ね同意してくれて、「じゃあ、やめておこうか」と一旦片付いた。
しかしあれから数年、妻自身の心身の変化や、他者からの「子供は?」の言葉に少なからず影響され、ときたまこの件が話題にあがった。
妻目線の発見や葛藤もいくつか教えてくれたが、わたし目線で大きなテーマがいくつか。
・どうやら妻の心身は不安定な状態にあるようだ、ということがわかった。回復傾向にはあるようで、それ自体はとても喜ばしいことではあるが、出産そして育児がどのように影響するか心配になった。(=妻の体調についての不安 ただし後述するがこのわたしの想いは妻には伏せた)
・そんな妻と最も近い距離で接することになる子は、はたして健やかに育つことが可能なのだろうか。なんらか歪な形になってしまわないか。(=子の体調についての不安 同様にこれも伏せた)
・わたし自身はメンタルが頑丈な方だと思っていたが、数年間妻の不調と付き合ってみて、引っ張られて自分も調子を崩すことがままあるということがわかった。なんとか耐えてきたが、今後、どこまで寄り添えるか自信がない。(=自分の体調についての不安)
・仮に、子が産まれたあとで妻が体調を崩してしまった場合、子と妻の、そして自分自身の面倒を見切れるのか、そこまで自分は頑張れるのか、という不安。(=自分の体調についての不安2)
・夫婦二人とも40手前となり、自然に授かる可能性もどんどん低下するし、仮に授かったとしても子の心身に何らかの影響が出る可能性は高まってゆく。はたしてそんなリスクを負ってまで子が欲しいのか。
タイムリミットというものが迫っている以上、何らかの決断をする必要はある。
が、決断しなければ今の生活を続けられる、という想いから、ずっとずっと逃げ続けてきてしまっていた。
妻も妻で「本当に子供が欲しいのか」「人に言われたからそう思い込んでいるだけなのでは」「社会の維持発展のために必要なのではないか」といった点について何度も何度も悩んだらしい。
「『40まで』という期限付きで子作りをしてみて、自然に授かるなら育てる、授からなければ諦める、というのはどうか」
と提案があった。
いわく「子供が欲しい気持ちと、そうじゃない気持ちが両方あって答えが出ない」「やってみたけどだめだったね、残念だねという結果が出れば気持ちの整理がつくかもしれない」とのことだった。
なるほどたしかにそういう悩みならひとつの答えがこれかもしれないなとは思った。
だけど「子供は欲しくないのに、諦めるために子作りをする」という姿勢(という風にもとれる)が、わたしには受け入れ難かった。
実際、子を授かった場合、わたしは心の底から100%喜べるのか。
もしも授かった子に障害等があったら、「やっぱりやめとけばよかったのに」なんて絶対に思わない、と誓えるか。
子育て中に起こる様々な事件のたびに、同じように心のどこかで後悔し続けないか。
ネガティブな「もしも」ばかり浮かんだ。
だから、やっぱり、どうしても、「そうだね、やれるだけやってみようか」とは、言えなかった。
妻が悪いわけではなくて、あくまでも自分の感情として、妻の体調以外のことについては伝えたつもりだ。
妻の体調については明言を避けた。
「あなたの体調が心配だからやめよう」というのは、転じて「あなたは子供を産み育てられない欠陥品なのでは」と言ってしまうようなもので、それはわたしの本意ではなかったからだ。ただただ、妻のことが心配な気持ちだが、正しく伝わらないなら言わないほうがいいかなという判断。
少なくとも、妻には、単に「ネガティブな理由ばかりを並べて嫌だと断った」と伝わったと思う。
なのにそれを全否定してしまったのだ。絶望という言葉では足りないくらい、深く傷ついたと思う。
本当に、本当に申し訳ないことをした。
〜〜〜
そして、冒頭の言葉に戻る。
これでよかったのだろうか。
そう自分に言い聞かせた。
わたしが悪いんだ。
そういうことにする。
いや、おそらく全然納得してくれていないだろう。
それでも泣き止んだ妻は「わかった」と答えてくれた。
この話はこれでおわり。
そのはずだ。
〜〜〜
妻からこの話題は出なくなった。私も、話題には出さないようにしている。
表面上は元通り、あの日のことはなかったかのような関係性、ただの仲良し夫婦の関係を維持できている。
外で子連れを見ると、心臓が締め付けられ、胃が捻じ切れそうになるようになった。
幸せそうな親子を見ると、「ああ、わたしはこれを諦めさせてしまったんだ」と改めて思い知らされるようになり、後悔が襲ってくる。
怖い。
辛い。
いや、本当に辛いのは妻だ。
妻は子供を望んだのに、夫に諦めさせられたのだ。
「あのような幸せを手に入れられるはずだったのに」と、思うはずだ。
妻はさぞ辛いだろうな、と思うことが、さらに私を苦しめる。
わたしが全部悪い。それはわかっているつもり。
でも、この事実にどう向き合えばいいのか、耐えられるのか、まだ答えは出ていない。
このわたしの変化を、妻に言えずにいる。言うべきではないと思う。「苦しいのはこっちなんだ。お前が苦しむな、ふざけるな。」と言われるだろう。
〜〜〜
この懺悔を読むことはないと思うけど、愛する妻へ。
ほんとうに、ほんとうにごめんね。
わたし自身の都合と感情でゴリ押したと思われたでしょう。これからも、そう思っていてくれてよいです。そういう面も大いにあることは否定しません。
わかってくれなくても、納得してくれなくても大丈夫。こそこそ吐き出すような女々しい真似してすいません。
末端ではあるがIT畑の人間として、新しい技術にはとりあえず触るし、肯定から入るつもりだし、実際そうしてきた。画像生成AIも同じでNovelAIから入り、StableDiffusion用にパソコンを新調したり、自作Lora作ったりもした。少なくとも1年以上は使い倒した。
しかしあれらの技術はどんなに真っ当な使い方をしようとしても、結局は他者の著作物を取りれて切り貼りしたコラージュを作る以上のことは何一つできない。何一つだ。
少なくともSDXLでのPonyやAnimagineはそうだ。あれらは例えばポーズ一つにしても教師画像から少しでも外れたものは出せない。ControlNet使ってちょっと変わったポーズを取らせてみようとしてみろ。途端に肉塊しか出なくなる。
ControlNetを使ったところで、できるのは格納された教師画像の中から似たものを引っ張り出して、そこに指定のパーツを追加で当てはめることだけだ。ポーズを指定している訳ではない。
あまりにも教師画像が膨大だから一見なんでも出力できるように見えるけど、所詮は教師画像から1ピクセルもずらすこともできない雑なコラージュ装置だ。盗んできた画像からなる膨大なプリセットの中から適当に要素を組み合わせてそれっぽく合成しているだけだ。
それを良く理解しているはずの画像生成AI推進派が「学習は無罪」だの「概念を学んでいるだけ」だの「モデルに元画像は含まれていない」だのといけしゃあしゃあと嘘を付き、そしてその嘘を指摘すれば「知的基盤のレベル合わせができていない」と嘲り笑う。
画像生成AIがコラージュ以外、何の価値も生みだす能力がなく、他者の権利を侵害する以外の使い道がないことを認めない。
ああ、確かに「知的基盤のレベル合わせができていない」な。お前らのレベルが低すぎて現生人類がその知的基盤のレベルまで降りていくのには相当な困難が伴いそうだ。法に基づいて他者の権利を守ると言う概念を持たない原人が、せめて旧人の知的基盤のレベルにまであがってくるのに何万年待てばいいんだ?
そこから「事実を認める」、「嘘をつかない」、「間違っていたら謝る」と言う現生人類なら3歳児でもできる行為をお前らができるようになるまで更に何万年待てばいいんだ?
原人は原人らしく野山で獣狩って暮らしてろ。現生人類のテリトリーに入ってくるんじゃねえ。入りたければせめて人らしい振る舞いをしろ。原人が原人のまま過ごしていい場所じゃねぇんだよ。お前らの知的基盤のレベルじゃ理解できないだろうけどな。
私は34歳であり、身体的には男であるからして、まあ、おっさんである。
しかし、幼少期にまわりから「かわいいかわいい」と言われて「わ~!僕ってかわいいんだ!うれしすぎ~」となった結果、
未だにかわいいと言われたいし、かわいいと思っているおっさんになってしまったのである。
思春期は身体が男になっていくことが嫌すぎて、性器を切り落とすことや、ホルモン注射を打とうかとも日々考えていたが、
そうしたとしても自らの身体と精神の不一致が解消することはないだろうと考え、なるがままに任せることにした。
私の心はずっと美少女なのだが、鏡に映るのはおっさんである。かなしい。
更に、同じく子供の頃に、理性的な人間であることを旨として生きた結果、
これまで自慰をしたことはなく、いかがわしい妄想をすることもない。もちろん童貞である。
(アダルトコンテンツに対する忌避感などは特になく、他者に対して潔癖であるわけではない)
そういうかわいくてかっこいい白馬の王子様にさらわれるのが夢である。
さて、本題はこんな私が誰かと恋仲になることは現実的に可能なのか、ということである。
現在、私には気になる人がいるのだが、普通に考えてこんなやべーやつに想われるのこわすぎるだろう、と思うのである。
自分は、素直でいいこ(かわいい❤)なのが長所なのだが、外見がおっさんというだけで全て短所に変換されてしまうのだ。
すべてを隠せば普通の人間として扱われるのかもしれないが、自分はこうなってしまった自分も愛おしいのである。
それに好きな人の前で素直に過ごせないのも辛すぎる。私が愛おしいと思う私も好きになってもらいたいのである。
でもそうなると一気にハードルが上がるのだ。詰んでいるのではないか。
まあ、まだ「気になる人」とも数ヶ月の付き合いなのでこれから発展するのかもわからないのだが、
この問題は今後も続いていくので、どこかで答えを出したい所存である。
因みに、別に普段は恋人がほしいとか結婚願望があるとかではなく、
職場を改善しようという段になって、経費~とか自腹~とか、あんまいいなさんな。
そういうやり方を工夫といったんだ。
会社員はなんでもお膳立てしてもらうべきという考えは捨てるんだ。
上手に破壊するやり方を学ぶべきなんだ。
今後の為に、わかる人がいたら教えて欲しい。
仕事が出来ないのにやたらと高圧的で薄っぺらい正論ばかり声高に叫ぶタイプの人がいる。今まで3人ほど出会ってきた。
人と比べて自分はいかに出来るのかマウントをとり、他者の仕事に首を突っ込み、頼まれてもいないのに重箱の隅をつつくような指摘をしてくる。
肝心の仕事を任せてみても成果はてんでダメだが、言い訳三昧で他者に責任を擦りつける始末。
責任を擦りつけられたものが驚異的に成長する事もあるが、潰れてしまう事もある。
指摘、批評、批判、冷笑はご立派だが、具体的な対案も提案もなく、自ら動こうとしない。
そのような人は、「仕事が出来る自分」の妄想と「仕事が出来ない自分」の実態がかけ離れているので、自分が出来ない事を認めたくないし、自分が出来ない事に気付かないのだろう。
仕事なんて、出来ない事を自覚して克服していく事で成長するのだと思っているので、失敗や叱責される事や恥をかいた時が成長のチャンスだと考えている。
また、自分一人では何も成し遂げられないので、みんなに助けてもらって何とかするしか無いから、マウントとか意味ないんだよ。
出来ていない事に目を逸らし続けて、批判ばかりで逃げ続けて、どんどん仕事が出来なくなり、さらに妄想と実態が乖離して、マウントがエスカレートしていくのだろうな。
このような人物は、能力の低さからこうなってしまったのか。それとも性格の悪さからこうなってしまったのかとても気になっている。
https://anond.hatelabo.jp/20240904005812 の感想と個人的な考えの羅列
自分を含む多くの男性にとって、スキンケアは日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止めや化粧水、乳液は教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常のルーティンである。
しかし、上記の記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム、社会的な要求、自己投資、官能、評価のあいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。
美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種のルッキズムを生んでいる。
(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)
スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。
スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュなものである。スキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定の行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者の評価に依存せず、自分自身をケアする極めて個人的で感覚的なプロセスだ。
容姿に関する特徴のひとつは、その定量的な評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間と試行錯誤が必要であり、その過程で「暫定的な解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまり、スキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ。
興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割を果たしている点だ。スキンケアは女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題を提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。
最後に、肌は常に改善の余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。
完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)
一連の清潔感増田を読んで分かったが、親身なようでいて根底にあるのは徹頭徹尾、穢れ思想に他ならない
いや、実際この増田は本当に純粋な親切心であの文量を書いているのは伝わるが、結局のところの発想が昔の皮膚病患者差別から一歩も進んでいないことに哀しさしか感じられなかったな
どうにかこうにかして差別心を正当化するために、理屈をこねくりまわしているに過ぎないことにいい加減気付くべきだ
それが本当に人類にとって普遍的なものならば、時代文化言語を問わず、「清潔感」というワードはこれほど多くの反発を受けることもなく浸透しているはずだ
生理は違うとか思うでしょ?
その時に態度に出すかどうかは自分で決められることだよ。
海外の掲示板に、日本人妻と結婚した人たちが相談しあうコミュニティがあるんだが
総じて話し合いができずすぐに感情的になるので子供をあやしてるようだというのが結論だった。
経済的にも情緒的にもいつ一人になって生きていけるという自信を持って欲しい。
追記削除
この夢は、自己の願望や内面的な欲求を反映していると考えられます。以下の要素を分析します。
夢の中で「別の世界の自分と入れ替わる」という儀式は、現実逃避や新しい体験への渇望を示しています。特に、アニメやゲームの世界に行くことを望むことは、現実のストレスやプレッシャーからの解放を求めていることを意味します。
長老が「ハイハイ…」と呆れ顔で反応する部分は、自己評価や他者からの評価に対する不安を示唆しています。この反応は、夢の中の自己が他者にどう見られているかを気にしていることを示しています。
儀式を通じて望みの世界に行くことができるのは、希望や願望が実現する可能性を示しています。これは、現実の中で自分の理想を追求する意欲を反映しているとも解釈できます。
セックスしたがらないメスに対して「他者や自身の人生の嫌悪」まで言い出すのがオス丸出し
オスは状況も相手も考えず片っ端から種付けするのが生き物としての最適解だけど
出産育児に多大なリソースがかかるメスは種を吟味して確実に育てられる時のみ発情するし
それが生き物として当たり前の生存戦略
ヒトもいつ何時でも発情してんのはオスだけでメスはそうじゃない
知性は弱者じゃないつもりなんだろ?
リベラルと違って知的なものにこだわりもなければ、リベラルとフェミニストが他者への話に耳を傾ける存在ではなく党派性とイデオロギーありきの存在であることはよく知ってるので真面目に説明する気もないよ
自己啓発本の定番フレーズである「相手にも赤ん坊だったことがあると思えば許せないか?」が長年全然刺さらなくてさ。
「赤ん坊だった所から何十年もかけて成長してコレかよ!成長してませんって顔ならともかく、「俺って成長したなあ」って面して結局書きのままな所こそが許せねえんだよ!死ね!」って感じでさ。
だからもういっそ相手は成長なんて一切してないし、成長したつもりになってる大人ぶった子供なんだって割り切る切ることにしたの。
でも小学生程度のものだって考えると「この程度のことも出来ねえやつは小学校でも廊下に立たされてるわ!クラスでハブられてるわ!小学生未満だろうが!」みたいな気持ちが吹き上がってくることがあってさ。
もう諦めて幼稚園だと思うことにしたの。
ずっと悪口言ってる奴→ あーそんな奴いたわー
ずっとなんか食ってるデブ→ あーいたいた
噂話大好きだけど嘘ばっかの奴→ いるねー
化粧のこと気にしすぎな女→ いるわー
ナルシストだけどイケメンって程じゃない男→ ありがちありがち
なんかもう全部「あるある~~」で終わるんだよな。
だって幼稚園児の中にそういうのがいるのはもう自然の理みたいなものだもの。
「大人なんだからさあ・・・」という概念を完全に諦めるだけでなんかもう全部許せるのな。
「三つ子の魂百まで」とも言うけどさ、結局ちゃんとしてる人間は幼稚園の年中ぐらいでもう本当にちゃんとしてる片鱗があるし、キチガイはその頃からキチガイ、性格ネジ曲がってる奴はその頃からネジ曲がってるじゃん?
成長による社会適応は実際あると思うんだけど、それって結局は「他者は自分とは違う」とか「他人も自分と同じように痛みを感じる」とか「世界観が人によって違う」とか「俺の見えている世界は俺中心の世界だけ」とかを知識として理解するに留まるだけでしょ?
そういうのを超えた所、結局人の痛みが分かるようになった所で「でも、俺は痛くないよね」と考えるサイコパスとか、「こんだけ痛めつけてやったと思うと胸がスッとするぜ!」ってゲス野郎とかは、3歳時の頃に見せたクズの片鱗を開花させる方向にしか進まんわけじゃん。
ゆーて人前でクズムーブしすぎるとアカンって感じるから、大部分はある程度隠すように努力するようになるけど、それでもふとした時に性根のカスっぷりが社会で滲み出たり、弱い相手の前でだけ見せつけることで鬱憤を晴らしてるカスがいたりするわけで。
そういうのに対しての苛立ちを抑える方法として俺と相性が良かったのが「ここは幼稚園の教室で、俺達はみんな幼稚園児なんだ。年齢の差なんて年少と年長ぐらいのものでしかないんだ」と割り切るようにしたこと。
いわゆる「他人に期待しない」って奴を自分流に解像度を高めた形として俺にはこれがシックリ来た。
俺が通っていた保育所がほどよく世紀末かつほどよく秩序があったから、実社会をそれの相似形とするのに都合が良かったのはありそう。
もっとずっと世紀末で社会が成立しない所に通っていたら「いやいや流石に社会は幼稚園じゃないよ」と感じてただろうし、もっとちゃんとしてたら「社会は幼稚園未満だ!デカイ赤ん坊が暴れまわるこの世の終わりだ!滅ぼそう!」とか考えていたかも。
俺が今働いてる職場とか、住んでいるマンションの治安が、ちょうどいい具合に「先生の目が光っていれば大人しく、自由な時間になればモラルなぞどこにもなくなる幼稚園の1クラス」というイメージに当てはまるだけな所もあるね。
もっと言えば、地雷属性がなぜ地雷属性かというと、素直にそれが好きなのではなく、他人の理想に沿う形で己の好きを捻じ曲げてるからなんや。
そういうやつは、他者にも己を曲げることを求める。
日本社会における共同体の形態は、時代とともに大きく変化してきた。かつての故郷を中心とした共同体から、会社中心の社会、そして現代の「推し活」に至るまで、その変遷は日本人の生活や価値観の変化を如実に表している。本稿では、これらの変化を考察し、各時代の共同体が持つ特徴と、その基盤となるものの変化について探る。
まず、最も古い形態の共同体として、「故郷」に焦点を当てよう。故郷という共同体の最大の特徴は、その「大地」に根ざした不変性にある。人々は同じ土地で生まれ育ち、その土地の文化や伝統を共有することで強い絆を形成していた。この共同体は、地縁・血縁に基づく強固な結びつきを持ち、相互扶助の精神が根付いていた。自然災害や飢饉などの危機に際しても、互いに助け合い、乗り越えていく力を持っていたのである。
しかし、明治以降の近代化と、特に戦後の高度経済成長期において、日本社会は大きな変容を遂げる。地方から都市部への大規模な人口移動が起こり、故郷が担っていた共同体としての機能は徐々に失われていった。その代わりに台頭してきたのが、「会社」という新たな共同体である。
会社は、故郷が担っていた共同体の機能を代替し、終身雇用や家族的経営など、日本独自の特徴を持つ相互扶助を実現する場となった。ここでの結束の軸は「生産」である。社員は会社の生産活動に従事することで、安定した収入と社会的地位を得ると同時に、会社を通じて新たな人間関係を構築した。会社という共同体は、個人の生活を支える基盤となり、そこでの人間関係は時に家族以上に親密なものとなった。
しかし、バブル崩壊後の経済停滞と新自由主義の台頭により、会社という共同体の力は徐々に弱まっていく。終身雇用制度の崩壊や成果主義の導入により、会社と個人の関係性は大きく変化し、かつてのような強固な絆は失われていった。日本人は再び連帯を失いかけたのである。
そんな中で台頭してきたのが、「推し活」を中心とした新たな共同体である。推し活とは、特定のアイドルやアーティスト、キャラクターなどを熱心に応援する活動を指す。この新しい形態の共同体は、80年代のオタクカルチャーとは異なり、より「共同体的」な性質を持っている。
オタクカルチャーが個人の趣味や嗜好を強調し、それが結果的に既存の共同体からの逃避や代替の場として機能していたのに対し、推し活はむしろ個人を再び共同体的な枠組みに引き戻す役割を果たしている。推し活を通じて人々は、共通の関心を持つ他者との連帯感を感じ、コミュニティを形成している。このコミュニティは、かつての故郷や会社が持っていた連帯感に似た役割を果たしているのである。
しかし、ここで注目すべきは、これらの共同体がそれぞれ何に根ざしているかという点である。故郷は「大地」に、会社は「生産」に、そして推し活は「消費」に根ざしている。この変遷は、共同体としての強度が徐々に弱くなっていることを示唆している。
大地に根ざした故郷は、よほどのことがない限りなくならない。生産に根ざした会社も、人が生きている限り必要不可欠なものであり、個々の会社の栄枯盛衰はあれど、会社という制度自体はなくならない。会社を移動することで共同体を失うリスクは最低限担保される。
しかし、消費に根ざしている推し活は、消費するための財がなければその共同体に参加することはできない。財とは個人的なものであり、財を失ったときに補完してくれる基盤はほぼない。生活保護などのセーフティネットは存在するが、それを受給することは推し活に回す余剰がほぼない状態を意味する。
したがって、推し活による共同体は極めて脆弱な基盤の上に成り立っているため、その財を得るために無茶な行為を働きかねないというリスクにつながる。これを読んでいる皆さんの周辺でもそのような現象は枚挙にいとまがないであろう。
このように、日本の共同体の変遷は、社会の近代化と個人主義化の過程を反映している。大地から生産、そして消費へと基盤が変化する中で、共同体の強度は弱まり、個人が抱えるリスクは増大している。
推し活という新しい共同体の形は、現代人のニーズに応える一方で、社会の安定性という観点からは課題を抱えている。今後の社会は、この新たな形の共同体がもたらす利点を活かしつつ、その脆弱性にどう対処していくかが課題となるだろう。
私たちは、これらの課題に対して、どのような社会システムや価値観の変革が必要となるのか、真剣に考える必要がある。消費に基づく共同体の脆弱性を補完する新たな社会的セーフティネットの構築や、消費以外の要素で人々を結びつける新たな共同体の形の模索など、様々な角度からのアプローチが求められている。
日本社会が直面するこの構造的変化は、単なる社会現象ではなく、私たちの生き方や幸福のあり方に深く関わる問題である。共同体の変遷を通じて私たちが失ってきたものと、新たに獲得したものを冷静に見極め、より強固で持続可能な社会の構築に向けて、一人一人が考え、行動していくことが重要だ。そうすることで初めて、推し活に代表される新しい形の共同体と、伝統的な共同体の良さを両立させた、真に豊かな社会を実現できるのではないだろうか。
自身の容姿が好印象を与えることが、人生においてプラスの作用を齎していたかもしれないと今更気づいた話。
自身の容姿を良いと捉えるナルシシズム的発言が多々あることを承知の上で読んでください。
きっかけは、Xで見かけた女性活躍に関するポストだった気がする。詳細は覚えていないが、「女性活躍などで台頭し意見を述べる女性は見目が華やかなことが多い。それは、意見を聞いてもらえる・発言しやすい土台があったからではないか」といった内容だった。
これには心当たりがある。仕事柄、社会で一定程度の地位を獲得している女性と出会うことが多いが、同性として魅力的だと感じることが多かったからだ。
勿論、皆優秀であり努力も重ねられている人々で、容姿のお陰で登り詰めたと言いたいわけではない。
ただ傾向としてそういったことはあるかもしれないとは思った。
一方、自分自身のこと。
振り返ると、褒められることは比較的多い方ではあった(そのほとんどは世辞、というかコミュニケーションの一環だとは思う)。ただ幸か不幸か、そうした褒めを糧に優れた容姿を持つ女性といった自意識を持ち、自分を磨くということをしてこなかった。
卑屈に受け流していたわけではない。褒められればその時は嬉しいので素直に反応したり、人が多い場では困惑し流したりしていた。いずれもその場限りの反応だった。
メイクやファッションは好きだし、自身で鏡を見て「今日は盛れている」と気分が上がることもあったが、なぜかそれと他者評価は結び付かず、すべてが自身の中の絶対評価で完結していたように思う。
それは私が子どもの頃からオタクであったからかもしれない。今でこそ市民権を獲得し、オタクと非オタの垣根は随分なくなったものの、当時のオタクは隠れるべき存在でありどこか恥ずかしいことと捉える風潮があった。
日陰のものである、日陰の人格を内包している、という感覚が女性性を意識する自意識の育成を阻んでいたのかもしれない。
そんな状態であった自分が自己を顧みたのは、先述のXのポストを見た時に、以前オタク友達に言われたことを思い出したからだ。
オタクは隠すものと述べたが、自分はそうではなかった。隠すことがあまり得意ではなかったので、非オタの友人の前ではわざわざ話題を持ち出さないだけで隠してはいなかった。
そうしたことを友人に伝えたら「それは隠さなくても立場が揺らがない容姿や自信があったからでは」と言われた(親しい友人であり、糾弾されたわけではない。あくまで一意見である)。
そして、「それはあなただから言えるんだよ」といったようなことを言われたことは、この時、この友人からだけではなかったことを思い出した。
私は昨今の自己責任を強調する風潮には反対であり、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』なども共感を覚えながら読んだ。機会は均等ではなく、どのような環境に生まれるかといった運による要素も考慮しなくては、能力不足は努力不足=自己責任といった風潮が加速する。
こうした思想を持つ自分にとって、容姿という運による要素に対し無自覚でいるのは問題なのではないかと今更思い至った。
美醜の価値観は時間や場所により変動するものであり、絶対的な価値があるとは思わない。ただたまたまその場所では良しとされる傾向があるのではないかと思う。
それが優位に働いてきたかもしれないと気づくことは、ナルシシズムという悪性の萌芽であると同時に、「運良く、要領よくやってきたから」と考ええいた自分への驕りを見直す機会でもあった。自分が運だと思っていたものでさえ、更なる運により齎された可能性があるのだ。
とはいえ容姿に関する話題は非常に繊細であり、この話を人にすれば不快にさせることは理解している。だからこれは匿名で投稿することにする。
もしかしたらこの問題を突き詰めると自身も人も不快にさせる可能性があるとわかっていたので、これまでの人生で自覚的にならないようにしていた可能性さえあると気づく。
自身の発言はどこに立脚しているのか、無自覚の驕りはないかを疑うことは、してもし過ぎることはないのかもしれない。
最後に、これまで無遠慮な発言をしてしまっていた人々には申し訳なくなる。自己責任主義のようになりたくないと思っていたが、近い傾向が自分の中にもあった。多分まだ沢山あるのだと思う。自戒。
まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者を批判し、無知であるかのように見せかける戦略である。
彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手の感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。
その結果相手は不快感を覚え、自分の意見が無価値であると感じることが多い。
こうした行為は論理的思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。
さらに「論理的だ」と自称する人は自分の感情を抑圧し、他者に対しても感情を無視するよう強要することがある。
感情を論理の敵として扱いすべての問題を冷徹に解決しようとする。
しかし人間関係や社会的な問題は感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実を無視することに等しい。
感情を排除した論理はただの冷酷な行為の正当化に過ぎず、その背後には他者への共感や理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。
また、彼らは自分の論理が絶対的な正義であると信じて疑わないことが多い。
この信念に基づいて他者の意見や価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。
論理は本来柔軟であり異なる視点や価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理は自己中心的な道具であり、他者を支配するための手段に過ぎない。
このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理的思考とはかけ離れている。
彼らの行動は、他者を批判し、感情を無視し、自分の意見を押し付けることである。
論理的であることを誇示する前に他者への共感や理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。
「論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャのソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。
ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的な真実や倫理を無視し表面的な論理だけに依存していた。
現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。
彼らは、自己の主張を支持するために論理的誤謬を巧妙に組み込むことがある。
たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠や論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。
ソフィストたちのように、これらの自称「論理的」な人々は、自分の議論を正当化するために論理を武器として使う。
しかし、彼らの目的は真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利を目的とした議論の技術と非常に似ている。
さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者の反論を無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識を絶対的なものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的な性格の表れと言える。
しかし、ソフィストたちの手法が古代ギリシャの知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論は一見効果的に見えることがある。
それでも、こうした誤謬に依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理的であると自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。
結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代のソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理的思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。
「論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。
彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識と洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。
まず論理的誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である。相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛の第一歩となる。
これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。
次に、感情や倫理を無視されないように自分の立場を守ることが肝要だ。論理は冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情や倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。
さらに、議論の目的を見失わないことが必要だ。相手がソフィスト的な手法で自分の論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実や理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。
こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることなく健全な議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。
論理は武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。
冷たさと強さを兼ね備えたスリザリンの特質を持つ者は時にその論理を自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。
我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理的思考である。
しかしこれはスリザリンに向けたスリザリンからのメッセージである。
闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。
おわかりかな?
この部分では、後悔が個人に限られたものではなく、多くの人々が経験する普遍的な感情であることを認識しています。これは、後悔が人間の本質的な経験であり、時代や場所を超えて共感できるものであるという洞察を示しています。
ここでは、一般的な助言が言葉だけでは意味を成さないことが指摘されています。言葉は重要なメッセージを含んでいるかもしれませんが、それが実際の体験や納得を伴わなければ、その重みや価値は薄れてしまいます。この部分は、表面的な言葉よりも実際の経験がどれほど重要かを強調しています。
この部分では、学びは言葉だけでは伝わらず、実際に経験することで初めて本質を理解できるという考えが表現されています。自転車の乗り方や楽器の演奏のように、特定のスキルは言葉で伝えるだけでは不十分であり、実際にやってみることでしか得られないものがあると述べています。
ここでは、人間の苦悩が時代を超えて続くものであり、解決することが難しい普遍的な問題であると考えています。人間の存在に根ざした苦悩は永続的であり、どの時代にも存在するだろうという哲学的な視点が表現されています。
この部分では、他者の経験や助言をそのまま受け入れるだけでは、自分自身の生き方に対する実感を得ることはできないという懐疑的な見解が示されています。自分の経験や納得がなければ、他人の言葉に頼るだけでは真の満足感や生きがいを感じられないという主張です。
この部分では、他者の後悔を押し付けられることに対する拒否感が表現されています。他人の後悔を受け入れることはできず、自分自身の納得を優先する姿勢が示されています。この主張は、他者の失敗や経験から学ぶことの限界を示唆しており、自分自身の選択と経験を重視しています。
「そんなヒネた生き方をして結局まあ多くの大人と似たような、ありきたりな道を辿った昔のおれに、お前は間違ってたよとは言いたくない。」
この部分では、過去の自分に対する複雑な感情が表現されています。過去の自分が選んだ道を否定したくない一方で、その選択が自己弁護や現状の正当化であるかもしれないという自己反省が見られます。これは、自分の過去の選択に対する葛藤や、それに対する評価がまだ定まっていないことを示しています。
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全体として、あなたの文章は人生の後悔とそれに対する個人的な視点を深く掘り下げたものであり、他者の経験や言葉に対する疑念や、自分自身の納得を重視する姿勢が貫かれています。このような要素が織り交ぜられた文章は、単なる感傷にとどまらず、自己探求と自己認識の一環として後悔を捉えていると言えます。