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はてなキーワード: 情報量とは

2017-07-28

映像表現的な観点から考察するシャドウバース問題点

 以下の文章シャドウバース映像表現的な観点から個人的考察したものです。

まず最初結論を書いてしまうと、

「出し得やトップ解決となりえるパワーカードが多すぎて自律神経が疲れる。」です。

言ってしまえば、フィニッシャーが多すぎるわけで、何ターンもパワーカードによる応酬が続くのは映像演出的には好ましくありません。

 全てのデザインには、必ず「疎と密」という概念があります

アニメ漫画イラストドラマ映画WEBデザイン、などに使われる言葉ですが、ゲームにも使われます

簡単に言えば、盛り上がる場所とそうでない場所情報量を分けて、差別化する。というものです。

全部クライマックスだと、見る側も疲れるし、盛り上がりどころも分からなくなってしまうんですね。

 だからこそ、カードゲームを題材にしたアニメなども、「切り札」と称して、パワーカードを出すことによって、

盛り上がりどころを作り、展開を熱くしています販促目的商業的な理由もありますが、少なくとも、

ポンポン複数回切り札を出して、わざわざ見せ場を混濁させるアニメはないでしょう。

アニメからそりゃそうだろ。と思った方は、一度頭の中でシャドウバースアニメ化してみてください。

そのアニメで、一試合の間に特殊演出の入るパワーカードが何度出てくるか想像すると分かりやすいかもしれません。

 高コスト帯ではこのパワーカード対決が原因で、一部では、萌え萌え坊主めくりやメンコバースとも揶揄されていますね。

このゲームでは盤面を一枚のカード簡単にひっくり返せますが、本来そういうのってカードゲーで一番盛り上がる場面ですよね?

それが毎ターン続くようなカードゲームやってて疲れて当然ですし、冷めれば真剣プレイすることも出来ないと思うんですね。

このビジュアル的なゲームデザインの悪さが、アクティブユーザー低下を招いている原因の一つではないかと思います

地味なりにもチクチク刺さるカードが多ければもっとマシになったかもしれませんが、

個人的にはサタンかいカード最初実装した時点で大体こうなることは想像できてました。

 

以上、映像表現的に考えた、シャドウバース問題点でした。

2017-07-20

Splatoon 2 は何が変わったか

Splatoon 1 とは何だったか

GEO で Splatoon 2 のダウンロードカードと Pro コントローラを買ってきたので Splatoon 1 がいったいどのようなゲームだったか区切りをつけてみたい。

Splatoon 1 を遊んでいると、インクを塗ることで自由な行動範囲を広げているような気がするが実際はあまりそうなっていない。

2014 E3 のこの動画。開発者インタビューでは次のような要素が紹介されている。

https://www.youtube.com/watch?v=F05Kp1_-_vQ

”ヒトで撃って、イカでアクションの幅が広がる。インクを塗ることで行動範囲を広げるって目的があって、行動範囲を広げたあとに、イカになって塗られたインクの状況にたいして様々なアクションをする。”

インクは通常の弾丸と違って見ることができるので、角の向こうからインクを撃っているのを視認すると敵の存在を事前に察知することができる。”

インクを塗りかえて道を分断すれば、敵の進路を壊して戦略をつぶすことができる。”

E3 で初めてこれをみたときSplatoon は本当に独特に感じられた。独自のアクション、独自の戦略があり、ほかのシューティングゲームとは一線を画しているかのように思われた。実際に発売された製品は、はたしてこれらの要素を満たしていただろうか。

インクを塗ることでしか到達できないような場所が意外なほど少ない。そして塗り広げたとしても、そこではイカのアクションもほとんど要求されない。さらにイカ自体のアクションも、かなり幅がない。多くのステージでは、裏とりのための細い通路を壁登りから侵入するが、そこから到達できる場所は大部分がヒトの状態でもたどり着けてしまう。塗ったところで裏とりの細い通路から小規模な空間前進するだけであって自由ではない。ステージ構造に戦略をあまりにも誘導されすぎている。たしかに動ける範囲は拡大しているが、そこを起点にどのルートを選んでもいいような自由な選択肢は少ない。塗ることによる行動範囲の広がりは円形が望ましく、できれば高さの概念があればさらに良い。細長い棒状ではない。

Bバスパークの中央高台が楽しいのは、そこがイカの固有アクションである壁登りを、かなりの高さがあるゆえに X ボタン連打を含めて行う必要があるだけでなく、いったん登ったあとはそこから周囲を見渡してどの方向へ進むか判断できる自由があるからだ。モンガラキャンプ場が味気ないのは、インクを塗って行動範囲が広がったとしても、直線的な進軍しかすることがない不自由さがあるからだ。

Splatoon の開発インタビューでは勝敗に関係のない壁を塗る行為はどうすべきか長期にわたる議論があったという。結果として壁が登れるようになり、壁塗りに意味がうまれ、壁を泳ぐことは Splatoon 独自のアクションとなった。だが実際に遊んでみると、壁を塗ることに意味はあるが、塗ることに意味があるような壁は驚くほど少ない。

Splatoon 1 はその基幹となる遊びにたいしてステージの質が追いついていない。

素晴らしい可能性を秘めたシステムにたいしてマップの設計が応対していない。

インクを塗ることで選択できるルートが格段に増え、しかも選んだ道を進むにはイカ固有のアクションが必要で、ルートを進んだ先にも多様なアクション選択肢が用意されている。そんな自由度Splatoon に必要なステージの設計であって、限られたどのルートを選んでもイカのアクションが必要ない普通のシューティングゲームと膠着状態しか楽しめない状況を用意することでは決してないはずだ。Splatoon 1 は楽しいシューティングゲームとしては完成度が高かったが、アクションゲームには成り得ていなかった。インク塗りを起点としていままでには存在しなかった多様なルート開拓され、プレーヤーはその選択肢にイカのアクションで応える。こうした設計のアイデアヒーローモードではすでに実現していた。

ヒーローモードはバトルのための入門用、訓練用とされていたが、それはシューティングゲームとしてのトレーニングであってバトルに役立つアクション教科書ではなかった。ヒーローモードには多様なアイデアによるイカにしか出来ない緊密したアクションが散りばめられていたのに実際の対戦マップではそれが全くといっていいほど反映されていなかったからだ。オンラインバトルとヒーローモードは断絶されていた。スポンジ、インクレール、水平の回転軸をもつ動く足場、落下死を誘う反復する網。連続するこれらのギミックに対処するにはヒトとイカの切り替えを頻繁に繰り返さなければならない。磨き上げられた気持ちいいアクションの応酬だ。だがこうした要素は後期に追加されたマップ部分的採用されているだけにすぎなかった。初期、中期のマップはイカのアクションの幅が少なすぎた。タチウオパーキングヒラメが丘団地はまだいい。塗るべき壁が多く存在し、それぞれに意味がある。どの壁を塗るべきか選択を要求してくるからだ。そして高さがあるため、戦闘が立体的になる。すべてのステージには高さの概念があるが、それは侵攻を阻止するためだけのものであり、戦闘を立体的にする構造でなかった。ただ、既存の多くのマップではいくつかの箇所で立体的な戦闘を誘導しているものの成功には至っていない概念がある。

それは金網だ。有利な場所に到着するには金網のうえを渡らなければならない。あるいは有利な場所そのものが金網の場合もある。リスクとリターンの関係があり良さそうに思えるが「インクを塗ることで行動範囲を広げるって目的があって、行動範囲を広げたあとに、イカになって塗られたインクの状況にたいして様々なアクションをする」この要素のいずれもが金網のうえでは無効化されている。アクション性が全くないにもかかわらず Splatoon 1 では金網を渡るよう強制するステージが多い。ここには手応えがない。金網はたいていの場合、足場としてしか使われていない。デカライン高架下では柵が金網になっていて通行するのにイカのアクションが必要だが、こうした金網の使い方はほとんどない。

Splatoon 2 ではこうした不満が解消されている。スポンジやインクレール、回転するイチョウ切りの壁といったギミックが初期マップから採用されている。

これらのギミックインクを塗ることでルート選択肢が大きく増える。そしてどれもイカのアクション必須だ。インクレールはイカになることで走行できる。レール上のどの地点から降下してもいい自由があり、勢いをつければ驚くほど大きくジャンプできる。インクレールを起点に行動範囲が大きく広がった。プレーヤー選択肢が大きく増えた。戦場は新しい高さを手に入れたことで戦いはより立体的になった。たった一箇所を塗るだけで、その後の可能性が大きく広がった。これが Splatoon の本来あるべきステージ設計だ。

ギミックを使わない例もある。海女美術大学では敵のリスポーン地点に侵入するには貝の形をしたオブジェに飛び移らなければならない。ジャンプの性能とオブジェ位置絶妙で、勢いをつけてのイカジャンプが必要となりプレーヤー精度のあるアクションが要求される。他にも単純な壁登りで侵入できるルートもあるが、こっちは微妙だ。Splatoon 1 のヒーローモードではジグザグに壁登りをしないと倒せないボス戦があったが、壁登りの途中で横移動が求められるステージはあまり多くない。そういった構造を導入してもいいと思うのだけど。

インクは通常の弾丸と違って見ることができるので、角の向こうからインクを撃っているのを視認すると敵の存在を事前に察知することができる。” これは Splatoon の非常に素晴らしい点だ。だがこの要素もマップ構造が邪魔をしている。Splatoon 1 のマップは窮屈すぎる。

Splatoon の魅力は圧倒的なわかりやすさだ。Bバスパークの中央高台に登る価値があるのは単に射撃に有利というだけではなく、戦況を確認したり敵の姿をいち早く発見できる場所だからだ。しかしホッケ埠頭のようないくつかのステージでは道幅が狭く、巨大な障害物が大量で、死角が豊富にあり、視認性が悪くなり、出合い頭の戦闘が非常に多い。3D マップ自由自在に走り回るのではなく、適時あみだくじの上を進んでいるかのような気分になる。なぜこのようになっているか色々理由がありそうだが、ひとつは GamePad を頻繁に確認するよう促すためではないかと思う。死角を増やすことでひと目見ただけでは 8人のプレーヤーがそれぞれどのように動いているのか分かりづらくなる。死角を徹底的に増やすことでプレーヤーに GamePad の地図を逐次見るように誘導しているのではないかWii Uハード特性を活かすためだ。だがジャイロセンサーを使えばカメラを凄まじい速度で回転させられるので、いったん前線を上げてしまえばそこから侵攻する敵はマップよりも TV で確認したほうが早いし、上位プレーヤーは移動量とスピードが高い次元にいるため 2本程度のルートならひとりで封鎖できてしまう。実際のところ GamePad はどの程度視線を移されているのだろうか。あまり多くないのではないか。それとガチヤグラルールによる理由も考えられる。ガチヤグラはタワーの位置によってホットスポットが連動するが、おそらくは防衛側有利にするためか狭い通路を通過させて集中砲火をさせやすくなっている。これは膠着を招く。

こうしたマップ構造は 2 ではかなり少なくなっている。

視認性だが、一部の遮蔽物がガラス製になったことで向こう側が透けて見えるように変化した。フジツボスポーツクラブの壁は 3月の体験版では普通のボルダリング壁だったが、E3 のバージョンではリスポーン地点に侵入する唯一の経路の壁がガラス製になっている。また海女美術大学では中央彫像展示が、コンブトラックでは左右のクラゲが入ってる箱がガラス製になっている。これによって、やたらめったらポイントセンサーを投げたり、カメラを無理やり壁の向こうに回して様子をうかがったり、臆病になっていちいちマップを見るといったゲームテンポを落とす行為をする必要が減った。敵が TV 画面で視認できたから警戒するのであって、常に慎重になったりあるいは なりふり構わず脳筋プレイ突撃したりする前に十分な考える余地を与えている。つまり鷲巣麻雀の要素を取り入れることで、Splatoon 2 では状況判断がいくらか容易になった。サーマルインクもそれを指向しているし、塗ると体積が減り空間が広くなるスポンジも同様の効果をもたらす。攻め側からすればスポンジを縮小することで視界を広くするとともに敵の取りうるルートを減らし、守り側ではより有利な位置に移動できるようスポンジを膨張させたり、膨らんだスポンジを防御壁としても活用できる。

マップ中央の広さが圧倒的に拡大した。それは平面としても広くなっただけでなく、視覚的にも開放的になった。Splatoon 1 では中央の高台は基本的に狭い空間で、しかも垂直に切り立っていた。中央高台の取り合いを活発にするためだと思われるが、垂直だったため真下の敵に反応するのが困難になっていた。Splatoon 2 では中央高台の空間が広いだけでなく、その壁がゆるやかな傾斜のついたものになっている。Splatoon の視認性の高さが最大限発揮されるようになった。

だが平面的にも視界的にも広くすればいいというものではない。サーモン・ランではむしろ狭く、窮屈なステージを志向している。サーモン・ランは一応オンラインに対応しているが主軸はオフラインモードだ。ボイスチャットを嫌うひとは多いが、実際に集まっての対面プレイなので当然会話による意思疎通を最大限活用するよう仕向ける設計にしなければならない。そのために死角を増やして現在どのような勢力がどの規模できているか分かりづらくしている。足場を狭くして戦闘を激しくしている。夜になったり霧で覆うことでその効果をさらに増やしている。サーモン・ランではプレーヤーの視覚情報量を制限しなければならない。

ヤグラに関する戦闘も変化した。ヤグラはその位置のよって戦闘のホットスポットが常に変化し続けるが、それを特に激化させたいとき開発者は細い通路上をヤグラが通過するよう設計することでそれを実現させていた。だがこれはプレイヤーの過剰なまでの密集を招いた。ヤグラを取り囲む戦闘も参加できるスペースが少なく、それぞれのポジションは凝固し、戦況は膠着した。2 では関門を用意し、インクレールやスポンジを配置することで、横にも縦にもの広い空間という環境下でも、激しさを保ちつつ全員がより多彩な角度から戦闘に関与できるようになった。素晴らしい改善だ。


インクを塗りかえて道を分断すれば、敵の進路を壊して戦略をつぶすことができる」

動画では敵インクの一部分を塗り替えすことでイカダッシュを妨害しているが実際はこのような戦略は成立しづらい。一部分を塗り替えすよりも、全体を塗ってしまったほうが有効だからだ。だがインクレールやスポンジのギミックはあえてそれを不能にすることに意味がある。タチウオパーキングにいる固定チャージャーは自分ポジションに最速で突っ込んでくる左手のレールに常に気を配っていなければならない。敵がインクレールの始点付近にいるだけでレールをシャットダウンするかどうかの選択を迫られる。スポンジも同様である。戦略に選択肢があることでプレーヤーは自由を感じることができる。Splatoon 独自の戦略がうまれてくる。




ハコフグ倉庫ホッケ埠頭、こういったステージは素晴らしい。まずモチーフが素晴らしい。自分の頭の中のアウトロー小学生が「こういう場所にこっそり忍び込んでサバゲーやったり、自分たちだけの秘密基地にしたりしたかったんだよナー!」と声高に叫んでいるのが聞こえる。ヒラメが丘団地もいい。遮蔽物が、なんと室外機や干してある布団になっている。室外機に隠れてたチャージャーに撃たれたりする。すげぇ。めちゃくちゃ団地で遊んでる感ある。めちゃくちゃごっこ遊びしてる感ある。戦闘のためだけに配置されているものなのに、めちゃくちゃステージに溶け込んでいる。それに比べてネギトロ炭鉱はやばい。背景が軍艦島なだけで、実際のマップは全然炭鉱感がない。朽ちたレンガと錆びた金属があるだけ。廃墟としても弱いし、炭鉱の要素がない。例えばボロボロになった生活用品や古い家電が遮蔽物として設置されていたり、かつてガラス張りのドームだった場所が朽ち果てそこらじゅうに植物が生い茂っているような場所なら、機能と世界観が融合しつつ、よりいっそう廃墟感があったのに軍艦島の港という舞台にしてしまったので中途半端になっている。Splatoonスーパージャンプというゲーム展開的にも映像演出的にもインパクトのあるシステムがあるので、完全に屋外か、体育館のような天井の高い場所しか舞台モチーフとして選択できないことになっている。これはステージモチーフとしての多様性に、窮屈な制限を設けてしまっている。これによって逸脱したのがアンチョビットゲームズで、私はこれをみてゲーム開発会社だと言われても正直困ってしまう。このような見た目のオフィスで戦っても、全くワクワクしない。クラゲ社員は階下にいるし、ゲームらしいモチーフも、部屋の隅にアーケードの筐体がポツンと置いてあるだけだ。床を上昇させるとサーバールームのようなものがせり上がってくるが、ファンを撃っている自分自身にはそれが見えない。射線を防ぐために天井からぶらさがってる謎の看板も、これがゲーム開発会社を直接想起させるものではなく、印象がチグハグで、ここがいったいどのような場所なのか截然としなくなっている。ごっこ遊びが出来なくなっている。例えばだが、雰囲気は同様のまま、これが大学図書館だったらわりと良かったと思う。

で、Splatoon 2 だが、わりとイイ感じになっている。ガンガゼ野外音楽堂は障害物が PA機器になっててステージっぽさがよく表現できている。海女美術大学は彫刻用の岩石だったり放置された台車だったり、クラゲの守衛が障害物になっていて雰囲気がある。だけどバッテラストリートダメだ。橋のうえに置いてある謎の木箱は無味乾燥中央橋の下の壁面はオシャレな場所に不釣合いな黒いビニールで全面が覆われている。マップ構造を記号化しすぎて世界観雰囲気が大きく損なわれている。これがアロワナモールではどうだったかというと、塗れない壁はガラスのショウウィンドウだったりブランドロゴが大きく印刷された垂れ幕だったり、射線を防ぐ構造物もヤシの木や看板だったり花壇だったりしてショッピングモール感があった。バッテラストリートは「こだわりのセレクトショップが軒を連ねるこの界隈には、流行の最先端を行くイカの若者が集まるらしい。」と説明があるのにマップのあらゆる場所になぜか運送会社の広告がある。大量にある。運送会社だぞ。運送会社がおしゃれなのか?

https://twitter.com/SplatoonJP/status/856435220693766144

さすがに意味不明からこの運送会社の大盛りっぷりにも理由があると思うけど、Co-op ゾンビモードであるサーモン・ランの報酬としてイカテン急便の作業着が入手できることからクマサン商会とイカテン急便には強いつながりがあると想像している。しかも回収対象の金イクラは設定上、石油のような燃料だというのだからこの運送会社は格安で得られた高出力のイクラ燃料を用いることで高い輸送能力を発揮しているのではないかと考える。というかヒーローモードかなにかで設定を回収してくれないと困る。

そして細かい素材ではなくステージ全体のモチーフについてだけど

インクを使ったナワバリ争いは、

あの世界ではスケボーのような

やんちゃ”な遊びというイメージなのですが」

https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/agmj/vol1/index4.html

インタビューで言及がある。Splatoon 1 の初期マップはまさにこれを体現していた。高架下だなんて、まるでウェストサイド物語みたいじゃん。すげぇ良いじゃん。だが後期に追加されたマップリゾートだの、美術館だの、キャンプ場だの、健康的な大衆レジャーに成り下がっている。おいおい。イメージが壊れる。Splatoon 2 の初期マップでは健康的な印象のステージと、不良的な印象のステージ、半々採用されている。だがもっと極端にしてもいいと思う。アップデートで追加されるステージも、おそらく健全モチーフと不良モチーフがセットで増えていくと予想している。Direct ではアップデートで追加される帆船ステージが一瞬映ったけどパッと見た感じ従来型の狭くて窮屈なステージみえる。不安だ。

UI はかなり改善されている。これは開発者が実際の競技シーンをよく把握しているということだ。海外の野良トーナメントをみていると「dynamo dead, dynamo dead」と、しきりにやり取りしている。不憫でならない。やられたら「Nice」を押すのも慣習となっている。Splatoon 2 ではこうした意志の疎通を解決している。敵の使用武器は上部に表示され、死亡すると this way が ouch... に変化する。

任天堂には新しい構造ゲームをつくる際立った高い開発力はあるが、そのコンセプトを活かすステージの作成についてはバラツキが多すぎる。マリオサンシャインの「ふしぎせいぶつ マンタ しゅうらい!」は神がかり的な面白さなのに「村の裏のヒミツ」ありゃ一体なんだったんだ? 任天堂アクションゲーム界の KING であり続けているが、Splatoon 1 はイカのアクションを活かす場面が少なく、普通のステージで戦う「めちゃくちゃ分かりやすシューター」の域に留まっていた。だが Splatoon 2 ではマップ構造改善され、そのデザインが秘めたポテンシャルが発揮され、シューティングゲームアクションゲームの高度な融合が実現している。プレーヤーの行動には自由があり、戦闘の激しさは膠着から混沌へとその姿をより楽しいものへと変えた。

Splatoon 2 の大手海外批評サイトレビューを確認するとわかるが、彼らはジャイロコントロールをまったく使用していない。そんなものだから信憑性がなくなるのだ。そして Splatoon 1 の発売後インタビューで、ディレクターの阪口さんは「ラスボス戦のあとに響いている不気味な環境音の正体について教えていただけますか?」と質問があったのに明確な答えがない。ありゃ一体なんだったんだ。

https://www.youtube.com/watch?v=OhHRmToy500

Direct や体験版を遊んで得ただけの情報による着目だが、これが本当にそうなっているかは、数時間後に配信される Splatoon 2 が証明してくれるはずだ。

レクリエイターズつまんない

さら5話まで見たけどつまんない。

「もし創作キャラ現実に現れたら―」って話なのに、作中リアル世界いかにも深夜アニメバリバリなノリなせいで現実アニメギャップがないから作中創作キャラとの対比に全然面白みがなくてただのオリキャラクロスオーバーアニメしかなってない。なんだ自衛隊が急に突入って。あと最近は「非現実的事象に対してやたら話のわかる政府役人」みたいなのを出せばリアリティが増すってことになってたりすんの?

その上それぞれのキャラが出てる作品がどれもつまんなそう。なんかどのキャラも各ジャンルのざっくりしたイメージをまとめた最大公約数的なキャラって感じで個性が薄い。全然元の作品スピンオフで見てみたいとか思わない。

だいたいなんでどれもオタク向けなバトル系のキャラなんだよ。バリエーションが少なすぎるでしょ。ただでさえ全部同じキャラデザがやってるせいで見た目に面白みがないのに。

魔法少女。なんかアイツ死ぬらしいけど。いちおう作中では「女児向けアニメ魔法少女」として設定されてるのに描かれ方がどう見ても「女児アニメパロディ」の更にパロディって感じだよね。村上隆か。3話だかで司書キャラ自分の出たゲームプレイして「造物主自分のいた世界に対して真摯で誠実でいてくれてい良かった」とか言わせてたけど。このアニメスタッフがそれできてねーじゃねーか。

そんでこの司書キャラ喋りすぎだろどんだけ喋るんだ物知りキャラからって説明を全部こいつに丸投げするなよしかもそれでいて説明の内容そのものはセリフ量に対して薄いなこいつは情報量の話とか大崩壊の話とか言い回しや話し相手や状況が違うだけで同じような話何回か繰り返してないかコイツ。大崩壊の件とか仮定仮定って感じで現実に何か影響を示す描写もなくてほんとにセリフでひたすらたいした根拠もないまま仮定を喋ってるだけだし。

6話で新キャラ出るみたいだけど「あー絶対西尾維新ぽいキャラでクソウザ言い回しで喋るキャラなんだろうなー」って感じで見る気が起きない。リアルタイムはもう15話だっけ?まあでもつまんないんだろうな。

2017-07-18

最近「書く」ことを始めた

家にいるときは筆が進まない。この事実に対していくつかの仮説を立てる。

今日たまたま疲れている。実際に今日は朝から思考活動が常に活発化していて、不快場所にいる時間もあった。(反論)一昨日のほうがストレスは強かったのではないか不快場所で過ごした時間今日よりもずっと長かった。

反論)一昨日はまだ文章を書くという習慣は始まっていなかったので比較対象にすることが間違っている。(余談)一昨日に起きた出来事不快な人混み、サピエンス全史、ギャンブル宗教的体験自殺願望

アルコール摂取した。

そもそも一文目の記述自体が正確ではない。昨日書いていた文章の続きは書くのに難航したが、今日書き始めたこの文章については比較的滞りなく書き続けている。

(新しい解釈)「筆が進まない」という言葉が指すのは文章全般についてではなく、ある程度の一貫性を持った文章のことを指しているのではないか

そろそろ思考スピードに筆記が追いつかなくなってきた。一度、喫煙に行く。

喫煙中に考えたこととその続き。

この文章を誰かに見せたいが、いい「解決方法」が思いつかなかった。

実際には頭のなかで「かいけつほうほう」とは発音せずに「ソリューション」と発音していた。

何故わざわざその語を選んだのか。そして何故文字に起こす段階で「解決方法」に表現をかえたのか。どちらも根底にある理由は同じだ。それは情報量圧縮である

私は物事を頭の中で考えるとき、音声言語思考している。

かいけつほうほう」が8音節なのに対し「ソリューション」は5音節だ。ネイティブ英語なら「so-lu-tion」で3音節で更に短いが、残念ながら頭の中で使っていたのはカタカナの方だ。

文字に起こすときに「解決方法」が選ばれたのも同じで、「ソリューション」や「solution」よりも少ない文字数表現できる。

何故無意識になるべく少ない情報量表現しようとしているのかについては、はっきりした理由は分からない。

本題からは逸れるが、文字に起こす上でコンピューターが扱う情報量においては「解決方法」は2バイト言語で4文字なので8バイト、「solution」は1バイト言語で8文字なので同じく8バイトである。だからどうした。

まだまだ(一貫性があるかはさておき)話を続けることはできるが、キリがないのでこの辺りで止めておく。

実は『この文章を誰かに見せたいが、いい「解決方法」が思いつかなかった。』という部分を書いたころには増田投稿するというアイデアが浮かんでいた。

しかし、その時点で投稿してしまっても大して面白くないな、と思ったのでもう少し量が溜まってから投稿しようと考えた次第である

幸い、ある程度まとまりのある話が書けたので、そのまま投稿するよりも少しは興味を惹ける内容になったかと思う。

最後にこの文章ルーズリーフボールペンで書いたものである。つまり投稿するためには電子データに清書しなければならない。この時点ではパソコンの電源すらついていないので、先が思いやられる。

2017-07-11

https://anond.hatelabo.jp/20170710234008

「読んでもいない調べもしない人間が口を出すな」かな

前提となる情報量が少なすぎて、とんちんかんなことしか言えない人がおおすぎて逆に話がこじれてる

2017-07-10

Webアプリを作るときにどの言語/WAFで書くべきか

使ったことあるモノもないモノもごちゃまぜにして経験雰囲気で書いてる。

PHP

Laravelは結構好き。DSL過ぎず、それなりにフルスタック生産性もいい。

何よりLaravel本体ソースコードが読みやすいのがいい。

まともな日本語情報が少ないのは弱点だけど、気になったところは本体コードを読めばすぐに分かる。

最大の欠点PHPってことだ。他のLL言語に比べてPHP自体生産性は低い。セキュリティ面の不安も大きい。それに安心して後を任せられるようなPHPerは一握りしかいない。

Perl

Mojolicious結構好き。これもDSL過ぎず分かりやすい。CPAN豊富ライブラリ群もある。

Perlは可読性が悪いなんて言うけど、ちゃんとしたライブラリ普通に読みやすいよ。

最大の欠点Perlってことだ。長期的に開発者を集めることを考えたら茨の道だろ?

Python

今でこそ機械学習Pythonが人気になっているけど、Web系はまだまだマイナーだ。

Djangoプロジェクト/アプリケーションという構成単位の考え方が好きじゃない。理論的な利点は分かるけど、現実問題それが必要になるケースが浮かばん。

Django以外でフルスタックのWAFが出てくればいいんだけど。Tornadoはフルスタックじゃないのでちょっと違う。

Python3で安心して開発できるならアリだと思うけど今はどうなの?使いたいライブラリが3系に対応していないとかで躓きたくないよ。

あと単純に速度が遅いよね。いや書き方を気をつければマシにはなるんだけど、書き方を気をつけなければいけない時点でつらい。

Ruby

Railsは便利だ。周辺ライブラリの充実度もすごい。情報玉石混交だけどまともな情報もたくさんある。

ただあまりにもDSL過ぎる。Railsプログラミングではなく、一つの巨大なDSLだ。

Railsプログラマの何割が、少しでもいいかRails本体ソースコードを読んだことがあるのか。めっちゃ読みにくいんだけど。Rubyは可読性が高いなんて嘘だろう。Perlと一緒でちゃんとしたコードは読みやすいけどそれはプログラマ依存する話で、言語自体に可読性の高さはない。言語思想の通り書くのは楽しいよ。でも読むのがつらい。

Rails自体DSLみたいなもんなのに、RSpecやらRakeやら周辺ツールDSL意識高すぎる。

問題があった時にググらずにコード読んで解決できるRailsエンジニアはどれだけいるのか。情報量が多いからググれば解決すると答えるやつは、底辺PHPerと大差ないからな。

あとバージョンアップ追従するのが面倒過ぎる。でも放置したら負債になるし。意識高くRailsで開発したやつの大半はバージョンアップやらの保守に入る頃にはもうそプロジェクトはいないんだろ?だからそのつらさを知らないんだろ?

散々罵ったけど、このDSLを覚えれば生産性が高いのは事実だ。だから結局ついていく確率が高い。モテ男なんだよ結局こいつは。

Java

SIerさんに敬礼

Scala

Playが王道だけど最新バージョンになるほど情報が少ない。このあたりがRailsと違う。公式(英語)とか本体コードを読める人じゃないとつらい。

そもそもJava、というかJVM周りの知識がないと本番運用はつらいだろう。LL言語運用経験しかない人は特につらい。LL言語でいうhot deployみたいなことがしたい時のやりかた分かってる?

コンパイルの遅さに耐えて開発し、運用時のGC問題を乗り越え、黒魔術を味方につけてライブラリコードリーディングが出来るならいいんじゃないか

動作は早いし、言語のものは強力だ。

Scalaを好むプログラマ関数型やらDDDやら意識高い人が多い。別にScala自体にそれらは必須ではないけど、そこら辺を意識しないならJava8でいいんじゃないかとも思う。

Node.js

非同期処理で開発することの難しさに耐えられるの?

ベストプラクティスがなく、移り変わり激しいJS界隈に流されてオレオレで書いたコード保守する自信があるならいいんじゃない。俺はない。

Go

API単体ならともかく、画面も担う普通Webアプリを書くような言語じゃない。少なくとも今は。

正確に言うと書けないことはないけど、Webアプリに関する周辺ライブラリの不足を乗り越えてまで書くメリットほとんどない。

ClojureとかElixirとか

運用実績ノウハウが少ない中で、自分で乗り越えていく気概があればいいんじゃない

結論

完璧選択などない。

2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

2017-07-03

https://anond.hatelabo.jp/20170703220552

もう既にツッコミが入っているけど,会話のほうが単純な情報量としては二倍なわけで,納得しがたい理由である

2017-06-30

やほおニュースはてブツイッター

ネットニュースとか見るようになったのって最近のこと。

数年前まではちゃんと新聞読んで、ニュースステーション見てた(ちゃんと?

んで、思う。

鮮度ってか情報信頼度ってか、民意ってか。

情弱のうちまだマシなほうはyahooニュース見てる。(テレビ新聞情報源な人に関しては論外)

知り合いのおっさんとかでもソースはヤホオニュースみたいな感じで他のおっさんに対しては優位に立ってるが、若い層には情報量や正確性でコテパンにやられてる。

「え? それソースどこですか?」「いや、ヤホオで見たけど」「そのソースは?」って感じで。

はてブ層は

多分自分達は情報最先端に近いところを走っているに違いないと思ってるんだろうけれど、結局ははてブ民の民意やらはてブ民に選ばれしニュースしか目にしてない、ある意味情弱であって。

ツイッター民は、各人の意識にかなり左右されるけど

情報を精査して信頼性を鑑みつつ最新情報なり大多数の意見なりを入手してるなーって思った

デマに惑わされるやつらが多過ぎてツイッターってオワコン化しとるとも思われてるけど

http://www.kijikiji.com/toko/air/alitalia.htm がツイートで流れてきたのを見て思いました。

2017-06-26

好きなものを語るときに嫌いなものの話をするのも意味のないことではない

好きなものを語るときに嫌いなものの話をされて困る人って、自分の好きなものがそのとき批判されていたら自分が傷つくから嫌なんでしょう?

よくわからないのは、なんで自分の好きなもの批判されたくらいで傷つくのかということ。べつに他人がどう思ってようが関係ないし、ふーん、あなたは嫌いなんだね、程度の話でしかない。すべての人が自分とまったく同じ好きを共有して自分とまったく同じ嫌いを共有しなきゃいけないわけじゃない。好きを共有していても嫌いを共有しないことはあるし、嫌いだけを共有して仲間になってしまうこともある。

「あたしはマグロ赤身が好き。大トロは嫌い」

こんな発言は世の中普通にあるし、これで大トロファンがいちいち切れるとしたらそれはかなり頭がおかしいと思う。「大トロ批判するな!」

しかに「赤身が好き」という情報を伝える際に「大トロは嫌い」は必要ないように思える。つねに肯定的に語るのもいいだろう。

しかしこの「大トロは嫌い」はまったく無価値情報というわけでもない。つまり「大トロは嫌い」が「脂っぽいネタは嫌い」を含意するということは容易に想像つくしマグロ赤身は脂っぽくないということも周知の事実。このことを勘案すれば、「大トロは嫌い」という発言はたしか否定的な語り方ではあるものの、「赤身が好き」という情報を補強するだけの価値を持っているということになる。それは単に「赤身が好き」というよりも、より説得力があり、話に立体感生まれる。世の中には赤身が好きでも、「赤身が好き、かつ大トロも好き」という人と、「赤身が好き、しかし大トロは嫌い」という人がいる。「大トロは嫌い」と発言することによってどっちのタイプ人間なのかが確定される。「赤身が好き」と「赤身が好き。大トロは嫌い」といったときでは情報量に明確な差がある。

好みを語るときに、「あれは好きだけど、あれは嫌いだなー」というのはごく普通の会話でしかない。それに対して、「えー、うそー、あたしはまったく逆だよ!」「えーうそー」「すごーい」みたいにして会話は続いていく。こんな程度のささいな受け流しができずにいちいち傷ついてしまう人は社会生活まともにできているんだろうか。自分の好きなもの批判されるとまるで自分自身否定されたように感じてしまう人というのは生きにくいのだろうなと思う。べつにあなた否定しているわけではないのです。

2017-06-24

ラジオって面白い

映像がない分だけテレビに比べて情報量は少ないけど、だから面白いのかもしれない。

2017-06-18

https://anond.hatelabo.jp/20170617205907

なんでわざわざ三行に要約せにゃいかんのか分からん

俺は必要と思った情報量を含ませてるだけだ

2017-06-16

スマホの普及でカメラオワコンなのか

個人の願望を多分に含むが、答えはノーと言いたい。

まずはフルサイズ*焦点距離50mm*f1.2写真を見て欲しい。

http://ganref.jp/photo_searches/result?keyword=50mm+f1.2&parent_category=&category=&term_pattern=&ganref_point=100

これをファインダー越しで見たときに、世界はえらく綺麗に見えた。そして呪いに掛かった瞬間でもあった。

果ては物理的なプリントに終わらず、デジタル二刀流リバーサルフィルムを年間何10本と消費するウンコ製造機が生まれることとなった。

勿論後悔はしていない。そしてまだ存在意義があるこの呪いに、少しでも多くの人が掛かってしまえば良いと思っている。

デジカメ撮像素子センサーサイズ由来の画質の違い

フィルムに相当するセンサーサイズである

面積が大きいほど、光学的な情報量が増えるため、

故に画質や、光の少ない暗所での性能を決める要素のひとつとなる。

スマホで主流なのは対角線1/3inchのものであり、

スマホ写真との質の違いが体感やすくなる1inch以上のもの

デジカメ市場では今後主流となると考えられる。(3万円後半〜)

1inchを超えると固有名詞、タテヨコ寸法でセンサーサイズを表す通例となる。



Bokehの強さ

ピントが合わないボケている部分のことで、写真に立体感を与える。

撮像素子サイズが大きく、焦点距離あたりのレンズ口径が大きい(低F値)ほど、

ピントの合う範囲が狭くなり、ボケが強くなる。この点は現時点ではデジタル補正/加工で再現しきれない。

スマホカメラ被写界深度が浅い(ボケない範囲が多い)。

全体にピントを合わすパンフォーカス撮影の際には利点になるのだが、

フルサイズセンサーカメラで絞り込み、パンフォーカス設定にすることもできる。

この「大は小兼ね」モードだと絞り込む分、ISO感度を上げることになるが(シャッタースピードは変えないとして)、

センサーサイズが元より大きいため、スマホカメラとイーブン以上の質になる。

被写界深度F値まわりの詳細は図解が必要なので割愛する。

その他

その他機械シャッター光学モジュール由来のオートフォーカス

RAW現像ネガフィルムの自前現像ポジフィルム鑑賞など、語り尽くせない面白みがある。

最後に、スマホカメラ否定している訳ではないことは伝えたい。

30年前のインスタントカメラ時代以上に1億人総写真家なのはポジティブではなかろうか。

その分カメラ業界にも商機はあると思っているので、今後を楽しみにしている。

https://anond.hatelabo.jp/20170616181138

レンズ径の大きさがそのまま情報量の差につながるので、

2万円でもレンズ径の大きなデジカメの方が、画像を等倍で見たときにはきれいだよ。

ただ、撮影した写真印刷もせずに、縮小して液晶画面で見るだけの用途に限れば、

違いは分かりにくくなってきている。

2017-06-15

https://anond.hatelabo.jp/20170615211612

なに勘違いしてるのかわからんけど

報道では「こんな服を着て、こんな荷物を持って、こんなセリフ児童の家に行けば入れる」なんて書き方はしてないわけだ

しかクジラックスはそれをすべて書いてしまった

事実報道と、過剰な情報量を同列に語るな

それに報道被害者に近い立場にも等しく伝えられるわけで防犯にも役立つ

しろそのために報道されているといってもいい

エロ目的ではないんだよ

2017-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20170613190122

学校社会ギャップだな

情報量があまりにも少ない資料説明不足の講師作業没頭型のやつ、誰の発言にも否定してくるやつ、「残業はするな」と言うくせに突然の修正要求してサービス残業をさせる上司

とっても、ふつうのことです

これが現実世界です

出来るだけ早く体と頭を慣れさせて、自分価値基準を上書きしましょう

人生ドロップアウトコースに入ると更なるハード生存競争が待ってるので、

そういうプリミティブな世界に魅力を感じない人は尚更早く切り替えた方がいい

anond:20170613190122

情報量があまりにも少ない資料説明不足の講師作業没頭型のやつ、誰の発言にも否定してくるやつ、

残業はするな」と言うくせに突然の修正要求してサービス残業をさせる上司

そらもう、実際の案件に投入された状況を疑似体験しているわけだ。

よかったね。

納品・締めなどは研修にはないのだから、ただ時が過ぎるのを待てばよい。

入社して間もないのに会社がつらい

大卒新卒(男)

4月IT企業入社して研修を受けている。

先日から始まった開発の研修がつらい。

情報量があまりにも少ない資料説明不足の講師作業没頭型のやつ、誰の発言にも否定してくるやつ、「残業はするな」と言うくせに突然の修正要求してサービス残業をさせる上司

丸投げにもほどがある。

IT企業研修だとよくあるカリキュラムなのかもしれないけど、長期間にも及ぶ開発の研修がつらすぎる。プログラミングができないというわけではなくて、資料が分かりづらかったり上司が不親切だったりで不明点を解消しようとしても上司によりけり回答がまちまちで矛盾が生じている。

こういう研修で、プログラミングができるようになるというよりは、不親切な上司がいて、不親切な資料から何かしら読み取って成果物納期までに作らなければならないという理不尽を学ぶことになるのかな。

何にもできないくせにプライド高くて自分から誤らないようなやつは褒めておだてておくことで仕事をさせられる、おとなしい指示待ち人間には逐一指示を出す、何が何でも定時で帰りたがっている女には帰っていいよと笑顔で見送る、なんかそういうのに疲れた

まだ何も成果を上げていない人間が何を偉そうにと思うかもしれないけど、残業するなら残業代をつけてほしいし、フォローをお願いしたとき上司質問に答えてほしい。

はてなの人たちはつらい研修をどうやって乗り越えてきたんだろう

http://anond.hatelabo.jp/20170613040600

情報量問題じゃないんだ。

自分が納得できる1枚の写真を撮りたいだけなんだ。

そのためには、少なくともレンズは交換できたほうが良い。それだけなんだ。

2017-06-11

アナウンスが下手な人が陥っている状態

最初要件要件必要最低限の情報を伝える」。これは今日日、大抵の人が出来ているか、出来ていなくも知っている。

問題はその次。「関連する情報」「人によっては必要になるかもしれない情報」「基本知らなくてもいいが省略するわけにはいかない情報」。これらの扱い。これらを詰め込むと情報量が一気に増えるわけだが、その量が多いことは問題本質ではない。本当に問題なのは相手にその情報が「必要情報」なのか「必要になるかもしれない情報」なのかが伝わっていない点。両者の線引きがきちんとされているならば、必要最低限の情報だけで事足りる人はそれだけを読んで残りは読まなければ良い。また、追加の情報必要になれば該当する部分を探して読めばいい。だが、線引きがされていないと全部を読んで情報を選り分けなければならなくなる。

まり必要なのは情報ユーザ志向ラベリングすること。どの情報がどういった人に向けたものなのかが分かれば情報の総量が多くても問題にはならない。この手間を惜しんで、ただ情報を詰め込んだ形で通知しようものなら、質問対応の手間が生じて結果的に能率を悪くしてしまうことだろう。

2017-06-07

http://anond.hatelabo.jp/20170607135112

一般的広告は、売りたい対象の良いところのみを伝え余り良くないところは伝えたくない、という意図のもとにつくられることが多いです。売りたいので当たり前の行動ですね。

この行動原則に則ると、一般的には、売りたい人と買おうと考えている人の間には情報量に差が発生します。売りたい人が持つ情報量の方が多い状態になりやすい。情報の非対称性という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、まぁだいたいすごく雑に言えばこんな感じです。

一方で私たち消費者バカではありませんので、広告=売りたい人が出しているのだから不都合情報をなるべく出さないようにしてる可能性があるよね、という共通認識があります。なので、例えば「これは広告ですよー」と明記することで、先に申し上げた情報の非対称性はある程度は解消される可能性が高い。「これは広告です」という表記は実は割と濃い情報を持っています

それと同時に私たちは、そのような商品情報が「報道的」であれば、より真実に近い客観的密度の濃い情報である、と考えやすいという傾向を持っています

消費者は、販売者あの手この手広告によるなだめすかしをすりぬけつつ、その商品自分にとって必要性が高いかどうかを判断します。広告はその判断材料の一つでもある重要情報源ひとつですが、それ以外にも情報消費者に届ける方法はあります

それがいわゆる記事広告PR記事などです。あとクチコミサイトなんかもこれにあたりますが、某べログなどがクチコミデータ改ざんをやったりやらなかったり、問題になっていたりしますし、少し前に大騒ぎになったDeNAWELQ問題なども、問題の質はまったく異なります構造は似ています

広告であることが明確なら、受け取り手は「都合の悪いことがあらわされてない可能性があるな」という心構えで対峙できますが、まるで広告じゃないようなフリをしていると、報道的に(真実味をもって)、その実は金を出している販売者側に有利になる恣意的情報のみを発信する、ということが起こりやすくなる。

恣意的情報によって都合よくコントロールされている可能性があるという状態は、市場原理主義的に考えると「悪意の手心を加えられた状態」の市場となっている可能性が高い、というのが、PR表記問題本質です。

嫌儲的な発想とは似ている、でもちょっと違う。他人が儲かっているのがムカつくということではなく、どちらかというと騙されるのがムカつく、それによって恣意性が産まれるのが健全じゃない、というのが問題

健全じゃないよね、ということで多くの既存メディアではPR記事には「広告です」と明記してその広告メディア情報対称性担保しているのです。

広告ではない形で広告しようとする」という行動は、消費者販売者側の情報の非対称性を広げ、健全市場原理を働かせにくくなる悪意のある行動、という風に捉えられているわけです。

これは、情報の発信者(今回のケースだとヨッピーさんですね)が、仮にいか真摯情報を取りまとめていたとしても、「作り手から金貰ってるでしょ」という一点で、市場健全性が損なわれうる、「そういう構造になってしまっている」こと自体が、危ぶまれるべきポイントです。

ヨッピー記事はおもろいなー笑うわーと思って読んでいるけど、いつどんな時でも真摯に誠実な態度を取り続けてくれる保証は、本人含め誰にもできないですし、そもそもそれは、一個人押し付ける類のものでもない。

からPRならPR明記する方が、本当はヨッピーさん本人にとっても良い効果をもたらすと思うんですけどね…。

目先に積まれた金にくらくらっときていたりして、それでポジショントークしてるんですかねぇ…。

↑こういう風に受け取られてしまうこともある「構造」ということです、金貰ってPR記事書いて広告じゃない顔をするということは。

このように邪推されてしまうこと自体、「メディア」としてのヨッピー価値を下げることになってるんだよね、ああいう戦い方をしている人にとっては結構ダメージデカいんじゃと思うんですが、どうなんでしょ。分からんその辺は。

2017-05-30

http://anond.hatelabo.jp/20170530171240

優秀さの尺度なんて環境が変われば全然違う。学問的な話での優秀さで言ったら、幅広く全方位的に抜け目なく情報処理・・・という話なら定形に劣るかもしれんが、集中力を発揮できる特定分野を短期的に膨大に情報処理・・・っていう事だったり、そもそもその分野がクリエティティを発揮すべきものだったりすると、定形さんはADHDに勝てないよ。

ワーキングメモリが少ないっていう認識は間違いで、「ワーキングメモリ侵食している処理が多すぎる」が正解。無駄が多いだけで処理してる情報量としては多いし、クリエティティを発揮するべき分野ではその無駄が「発想力」になる。あと、コントロールできないけど過集中中は、無駄に使ってた処理リソースを一気に集中の対象に注ぎ込む上にリミッターも外れてるから、その時の処理能力の高さは定形さんには真似出来ないよ。

統計的な話なんだろうが、ADHD一般的な人に比べて知能指数は高い・・・って人は結構多い。多分、淘汰されやす世界で生き残るには、そもそも平均より有能である必要があったんだろうなとマジレス

2017-05-29

大学の授業が薄っぺらすぎる

東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿からそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。

今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。

単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。

けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画言及した企業マーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。

自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。

せめて、商品販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。

授業に出席しないものは、いかなる知識保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである

そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからいかである

教授ゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。

適当面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである

こうやって教授批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。

しか東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから

やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人資格肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。

つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ

私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。

企業大卒要求していて、大卒給料が高いかしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。

しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。

私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコン祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。

そして大学ではこれまた運がいいことにビジネス精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。

情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。

私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。

アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである

このことからアドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。

彼ら助言をする人間最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身人生正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ

確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。

私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。

結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているかなのだ

から教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。

大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術社会のために使うのを目的とした教育機関だ。

特に能のない私のような人間大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である

学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。

まり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間から採用するというのが前提にあって学歴フィルター機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。

ハックされていない採用基準意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。

起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。

まり学歴フィルター大卒区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)

そうすれば無駄大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。

私が問題提起したいのは以下の2点。

・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう

企業大卒学歴フィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。

こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。

私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。

確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回り生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業研究させてもらえばいい。

まり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。

そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。

何度も書いている気がするけれど、その大学競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒フィルタリングする企業だ。

個人を見ないで、自分人生訓を元にとりあえず精神アドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。

こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺら大学の授業の減少につながる。


以上が大学の授業が薄っぺらいと感じたことから私が考えたことでした。

2017-05-27

人間なら何歳っていう表現

例として、下記を御覧いただきたい。

金魚、ご長寿「32歳」 人間なら100歳超

http://www.asahi.com/articles/ASK4F42S6K4FPPTB001.html

動物等の生き物の年齢を表現する際に、"人間ならxx歳"というのがあるが、いつも違和感しかない。

人間寿命で換算した場合にこれくらいって言いたいのだろうけど、そうしたところでこれといって得がない。

しろ、同一のものに対して、異なる基準数字をわざわざ持ち出す分、わかりづらいとしか思えない。

同じ情報量で何かを表現するのであれば、上記の記事の例で言えば、むしろ

"金魚、ご長寿「32歳」 平均寿命はxx歳" とするのが筋ではないか

人間なら”って一体誰が言い出したんだ。

ずっと疑問に思っているが、未だ社会から根絶される気配はない。

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