はてなキーワード: 日本一とは
今度の日曜日に交通規制かけてマラソンを行う地区に住んでいて。
この交通局、赤字のために初乗り値上するとかで、初乗り料金が日本一高いと話題になったばかりじゃないか。
敬老乗車証も今後無くなる、病院にいけなくなると街頭演説していた人たちが居たが、どうなんだ?
20年ほど前、湯豆腐が有名な高級住宅地に自宅を構える会社の社長が
「敬老乗車証を貰えているからタダで働きに来ている」
と笑って言い放ったのを聞きドン引きしたが、その後のことまでは知らなかった。
広報がしたであろう「今度の日曜の小児運賃が●●になるキャンペーンの」ツイートに対してある神社が
「これくらいしてもらわないと」
ゾッとした。
「これくらいしてもらって当たり前」
それをリツイートしたところで●●のためだけに各地から人が集まるとは思えないが、
「これくらい」
https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20190104/1546561548
このコメントを書いた論者はなぜこんなにも経済に無知なのに、想像だけでこんなにも自信を持って経済を語れるのだろうか。まったく恐れを知らないとは恐ろしいことだ。
"ここ数年比較的景気が良かったのは,単に好調な世界経済の「おこぼれ」に日本経済も多少は与れたというだけのこと"
本当に飽き飽きとするのだが、外需の変動で国内経済の変動を説明しようとするのはマスコミによく登場する「俗流経済論者」の典型である。
国内経済の総供給よりも総需要が少ないとき、それが過剰在庫や失業という形で表れる。それを「景気が悪い」という。
たとえば外需が増えても、それ以上に内需が減少すれば景気は悪くなる
したがって時の政権が、外需の増加以上に内需を「減らさなかった」のなら、その経済運営は一定評価すべきことである。
たとえば外需が減ればその分内需を増やして「国全体の需給のバランス」をつり合わせるのが「正しい経済運営」である。
この手の論者はおそらく「世界経済は日本経済よりも遥かに大きいから、日本経済は世界経済に従属する」とでも思っているのだろう。
しかし、世界経済の取引のほとんどは日本経済と無関係であるというごく簡単な事実をわかっていない。
世界経済の中で、日本経済に関係あるのは、日本と外国の間の取引だけである。
"そして,世界経済がひとたび傾けば,日本経済は真っ先に奈落の底に突き落とされる運命にある。アジア通貨危機やリーマンショックの時と同じように。"
明確な根拠もなくいきなり日本経済の「運命」が名言されるとは驚くばかり。この経済予言者は自分の知能にずいぶんと自信があるようだ。是非論文を書いてノーベル経済学賞を取ってもらいたいものだ。
どうして経済については空想でものを決めつけることが許されるのだろうか。
"これだけグローバル化が進んだ世界経済に,日本経済もがっちりと組み込まれている以上,日本一国限定の経済政策で出来ることなど高が知れているし,世界経済の荒波に翻弄されるのは仕方のないこと。
今更グローバル化と訣別する訳にもゆくまい。「ソ連は大恐慌の影響を受けずに順調に経済成長した」とはよく言われるが,当時のソ連のような国になりたいと誰が思うだろうか。"
外需はコントロールしにくいが内需は政策的にある程度コントロールできる。
そして、金融政策の変更によって為替レートが変化すれば外需も変化する。
「グローバル化と決別」などと、相手が言ってもいないことを捏造しなければ、自説を正当化できないのか。
金融政策、財政政策を「適正」にして、国内経済の全需要と全供給のバランスを取れと言っているだけの話だ。
経済政策的「無作為」か、「グローバル化と決別」するかというのは「偽の二択」である。猛暑か極寒か選べというのに等しい。騙しのテクニックだ。
だいたいソ連を持ちだして論敵を貶めるのは冷戦時代の赤狩りのやり口ではないか。
"松尾匡など典型的で(マルクス経済学者だから当然だが),主著のタイトルが『不況は人災です!』だもの。"
この論者の無知が端的に表れている。
松尾がマルクス経済学者であるのはその通りだが、リフレ政策がケインズ経済学的政策であることは、経済学をある程度知っている人間であれば常識である。松尾が"不況は人災です"と言いだすのは松尾が"マルクス経済学者だから"などと言いだすのはこの論者が批判相手の主張さえ政策に理解していない証拠だ。 そもそもこの文章全体にケインズ経済学の「ケ」の字も出てこない。総需要管理政策を批判するなら「敵」はケインズ経済学だ。この文章を書いた人間は経済学を知っているのだろうか。だいたいこの論者はマルクス経済学をなんだと考えているのか。マルクス経済学は不況を人災とは言っていない。マルクス経済学では不況は「資本主義の矛盾」によるものであり、資本主義を続けている限り避けられないとされる、その点ではむしろこの論者に近い。上記の「ソ連」といい反共意識でお手軽に論敵を否定しようという安易さが見える。
"現実主義的な「リベラル」なら,『不況は天災,けれども「不況で人が死ぬ」のは人災です!』と唱えるべきだ。"
ろくに問題を学ばないで、ある政策が実行不可能であると決めつけるような知的に不誠実な人間が自称「現実主義的なリベラル」という人間なのだろう。ここだけはこの論者が全く正しいといえるだろう。
"経済無策と嘲笑された民主党政権下でも,金融円滑化法と地道な自殺対策が奏功して,高止まりしていた自殺者数を減少に転じさせた実績がある。
外的制約にがんじがらめで自由が利かない経済政策と違い,社会政策は国内政治の「やる気」次第で充分可能なはずだ。"
社会政策の問題は、経済政策の是非を論じているときに持ち出す話題ではない。
なおこのコメントはひどいものだが、それを理由にリフレが正しいとは言えない。もっと知的にも倫理的にも不誠実なリフレ派は沢山いる。リフレを賛成するにも反対するにも最低限の知識が要るというだけのことである。
私は東北で19まで育ち、今は東京で大学生をやっている佐藤だ。
東京に出て一番驚いたことの一つに、普通に「佐藤さん、」と呼ばれることが非常に多いことだ。未だに全然慣れないし、個人的にはすごく嫌だ。多くの佐藤さんは自分と同じように名前で呼んで欲しいと思っていると思う。
なんでこんなに違和感を感じるのかを考えてみた。
私は東北出身だが、小中高12年間で同じクラス(平均して30人程度)に僕以外に佐藤姓がいなかったことは1回しかない。同じクラスに佐藤が5人いたこともある。先生にも同級生にも苗字で呼ばれる機会は一度もなかった。
東京に出てきてかたくなに佐藤さんとしか呼ばれないので、東京の友人に質問してみてびっくりしたのだが、高校の同級生300人以上の中に一人も佐藤がいないというのだ。とてもびっくりした。
大学に入ってから自分以外の佐藤姓に出会うのに2年もかかったことにも非常に驚いた。
佐藤さんはいままで佐藤さんに囲まれて育ってきているし、データ上でも東京でも二番目に多い姓なので、親しかったら名前で、親しくなくても混同を避けるためにぜひフルネームで呼んでください。苗字で呼ばれると寂しい。