はてなキーワード: リョウとは
なんやかんや一番ありそう。iPhoneじゃないとダサいみたいな風潮も世の中にはあるわけで、国民のイメージを考えるとiPhoneは無難だろう。
ハイエンドモデルは高級機でありながら庶民にも普及していて嫌味も無い。
作っているのがゴリゴリの米国企業なのが難点ではあるが、Androidを選んでも結局OSはアメリカが作っているわけで、だったらハードのメーカーに拘る必要もなかろう。
おれはApple嫌いだけど、俺が天皇なら流石にiPhoneを選ぶと思う。セキュアなイメージもあって天皇が使うにふさわしい。そう、iPhoneならね。
日本企業のSONYが作ってるのがデカい。俺が天皇ならiPhoneを選ぶが、お付きの者に「陛下、外国製品はさすがに...」と言われたらXPERIAを選ぶ。
Xperiaは見た目的にもかっこうがいい。ノッチやパンチホールのようなデザイン的に不完全な機構を採用していないのがいいよね。
SONYは国産のわりにはけっこう頑張ってるけど価格競争力が無くてグローバルのシェアが壊滅的だから一生報われないメーカーなんだよな。天皇にはぜひXperiaを使ってほしい。だから私は、Xperia。
AQUOSは技術力で言えば正直に言ってAppleやSamsungに三歩くらい劣る。だが攻めたコンセプトで味わい深い製品を生み出し続けているメーカーでもある。
たとえば軽量を売りにしたAQUOS zeroシリーズや、大型イメージセンサーを搭載したAQUOS Rシリーズなどでガジェット界に話題を供給し続けている。
どちらも完成度はそれほどでもないのだが、カタログスペックは見事なものだ。天皇がガジェオタならAQUOSを選ぶ可能性もあるにはある。山田リョウもAQUOSを使っているし。
シャープは日本企業と言って良いのか微妙(台湾・鴻海傘下)だし、国産ならSONYのほうがどう考えても強いのであえて陛下がAQUOSをお選びになるとは考えにくいが、まあ天皇だからって常に最適解を選ぶわけじゃないだろうし、ありえなくはない。
逆にありそ~。コスパモデルのPixel7aとかなら「国民の税金で10万超えるスマホ買うな!」みたいな批判をかわしつつ、それなりのユーザー体験を確保することも可能である。
とはいえPixelシリーズは伝統的にGoogleっぽいプラスチッキーで遊び心に溢れたポップなデザインが多いので皇室のイメージにはさすがに合わないと思う。地味めなカラバリもあるっちゃあるけど、ポップさは隠しきれていない。
日本ではSAMSUNGのブランドイメージがあんまり良くないから、流石にGALAXYは無い気がする。技術力は確かなんだけどねえ。俺が仮に予算度外視でスマホ選べる立場で、なおかつ天皇じゃない立場だったらGalaxy買うんだけどなあ。
●京セラ
●FCNT(富士通)
アアアッレグザフォン使ってる人がいるウウゥウウwwwwwwwwwwwwwこの人は購入前から情弱フッフゥウウwwwwwwwwwwwwwwwwこんな端末買わなくてよかったァアwwwwwww
https://anond.hatelabo.jp/20230326003519
の続き
https://www.marymond.jp/post/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%87%E3%81%AA%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B :<マリーモンドからの大切なお知らせ>]
マリーモンドを応援してくださっている皆様、ありがとうございます。
既に韓国では公表されているのでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、マリーモンドは2021年11月をもって、活動を休止することになりました。
マリーモンドは2013年に韓国の若者たちが立ちあげました。「慰安婦」にされた女性たちの尊厳を取りもどすために、一人一人の人生を学び、彼女たちを象徴する花を選び、その花をモチーフにしたアイテムを販売し、その利益を「慰安婦」問題の教育や支援に寄付していくというスタイルで、多くの人々に支持されるブランドとして成長してきました。また、その活動は「慰安婦」問題にとどまらず、児童虐待の被害者支援、性暴力被害者支援へと拡大し、暴力のない、人権が尊重される社会を実現するために行動する企業として歩みを進めてきました。
2018年にマリーモンドジャパンをたちあげ韓国の運動に連帯してきた私たちも、今回のマリーモンド本社の活動休止を、辛く悔しい思いで受け止めています。
マリーモンドが休止に追い込まれた背景には、フェミニズムに対するバックラッシュ、人権や平和を守ろうとする運動に対するバックラッシュがあります。「慰安婦」問題に取り組み続けてきた団体への理不尽な攻撃や、メディアによる誹謗中傷にも関係者は苦しめられてきました。それはマリーモンドが継続できなくなるほどの力となっています。
そのバックラッシュの空気は、「慰安婦」問題に関わり続けてきた私たちには痛いほどわかるものです。だからこそ今、韓国のマリーモンドが切り拓いた希望や、意思を絶やさずに継続させ、韓国との連帯の意思を表明するための取り組みを、日本から発信したいと思います。そのため2022年以降、当面の間、マリーモンドグッズの販売は日本を中心に行っていきます。
(略)
新しい商品の制作の準備や、韓国の休止に伴う商品の整理などにしばらく時間を要しますが、これからのマリーモンドジャパンの活動を、多くの方のご協力をいただきながら進めてまいります。韓国のマリーモンドと共にある、これからもある、という思いでブランドを大切に守っていきますので、今後ともマリーモンドを一緒に育てていっていただけるよう、心よりお願い申しあげます。
マリーモンドジャパンは2018年12月にはじまりました。3回目の冬は、すこし寂しいお知らせになってしまいましたが、新たな出発の月にもなりました。
皆様への感謝を込めて、ポップアップショップ・セールを開催します。東京と大阪で同時開催です。ぜひ皆様、ポップアップショップにいらして下さい。
ところが法人が解散してしまった。するともう韓国のマリーモンドどころか、人身取引組織の支援者である希望のたね自体も再生が課題となってしまった。
JudyさんはTwitterを使っています: 「@himasoraakane @YouTube 「あの団体」御一行様ですが… 3月22日 正義連の水曜集会に参加していました。 https://t.co/okcohd1eWW」 / Twitter
https://twitter.com/SXMKPQtD7a4OB2F/status/1639586449044672512
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23.03.21 16:32l最終更新23.03.21 16:33l
ユン・ソンヒョ(cjnews)
希望種子基金日本青年たちは3月20日に陽山を訪れ、「キム・ボクドンの道」を通った
日本の青年たちが日本軍「慰安婦」被害者であるキム・ボクドン(1926~2019)、祖母の慶南(キョンナム)量産生家を探して22日、ソウルで開かれる「水曜集会」にも参加する。
21日、キム・ボクドン平和公園陽山市民推進委員会(下記推進委)は、希望のたね基金(代表ヤン・ジンジャ)が日本の青年20人余りと一日前日(20日)の陽山を訪問し、「キム・ボクドンの道」を歩いて関連活動を行ったと明らかにした。 。
2017年6月に日本で結成された「希望のたね基金」は翌年から韓国で青年ツアーを進めてきている。 コロナで中断されてから3年ぶりに日本の青年たちと一緒に訪れたのだ。 この団体は2015年慰安婦関連した日韓合意以後、日本で「若い世代に事実を正しく知らせよう」という趣旨で結成された。
「キム・ボクドンの道」は、メギドゥル村学校で量産を人文学の観点で体験するために開発した地域化教育プログラムの一つで、キム・ボクドンおばあちゃんの生家から小説<スラド>の中の日本軍慰安婦共出場所である土橋まで続く区間だ。
特に非営利団体の「キム・ボクドンの希望」が民主化運動記念事業会とともに昨年10月末に「キム・ボクドン希望学校」を開き、量産を訪れて「キム・ボクドンの道」を回答しながらさらに知られた。
ヤンジンジャ代表は「コロナ19で青年期が中断されている間に状況が変わった。 なくなった」とし「これまでおばあちゃんたちはずっと帰ってきて、もう直接会える方を見つけるのが大変な状況になった」と話した。
ヤン代表は「生存者に会えない世代として記憶を継承していくためにどんな活動をしなければならないのか考えなければならなかった」とし「そんな中、「キム・ボクドンの道」の存在を知り、記憶を継承する良い事例だと思った」と付け加えた。 。
青年たちはこの日ソウルからリョウサンに来て、推進委執行委員・会員たちが出て歓待した。 パク・スヨンさんは、金の祖母の生家で故人の生涯を日本の青年たちに聞かせた。
当時通っていた住民も関心を見せて応援した。 参加者たちはキム・ボクドンおばあちゃんも歩いた道に沿って量産南部市場サムジ公園に移動した。
サムジ公園には日本軍慰安婦被害者を称える「少女像」がある。 推進委はここで「金福洞平和公園、平和の少女像」を市民の手で作ろうとする意義と進行経過を話した。
この時、日本のある青年は「どんな力が市民をこう動かせるか」と尋ねた。 これにイ・ホンスさん(ヤンサン)さんは「あまりに遅く分かるようになったごめん」とし「キム・ボクドンおばあちゃんの訃告」を新聞で報告書だと量産での日本軍慰安婦の病気の歴史を知ることになってごめん、故郷で一緒に戦わずキム・ボクドンおばあちゃんだけ 苦軍奮闘させた申し訳ない」と答えた。
続いて参加者たちは春秋公園にある春秋園寺を訪れた。 ここはキム・ボクドンおばあちゃんが1947年帰郷して壊れた体と心を療養したところで、おばあちゃんが療養される前には母親が石火を持って置いて引かれた娘が無事に戻ってくるためにいつも訪れた場所として知られている。
当時、キム・ボクドンおばあちゃんの母親が持っていた石仏は、まだ法廷の隅にある。 日本の青年をはじめとする参加者たちは石仏の前にお寺に参拝もした。
イ・ジヤン執行委員長は「切る姿は痛みを一緒に覚えている人々の切実な祈りだった」とし「春秋原師を出る道には天理香の香りがいっぱいだ。 同行する私たちの心が天理万里に広がり溢れることを望む心だったはずだ」と話した。
希望のたね基金青年ツアーは最後の場所として通道士白蓮がんを訪れた。 ここにはキム・ボクドンおばあちゃんが立てた石などがある。 彼女は1992年に公開証言を皮切りに日本軍慰安婦問題解決のために国内外活動し、以後釜山にしばらく拠点を置いてここに石などを建てた。
李執行委員長は「おばあちゃんが証言し、日本軍の戦争犯罪証拠が生きて証言するにも日本は認めようとしなかったし、日本軍慰安婦問題は解決の兆しがなかった」とし「おばあちゃんは休息のため釜山に降りてきて、その年が 1999年だ。1947年の帰郷ほど体も心も疲れただろう」と話した。
彼は「釜山に降りてきて、おばあちゃんは通道師白蓮岩に石灯を見た」としながら「石灯を見てどんな心だったのか私たちは推測すら難しい。 ソウルに行った」と説明した。
キム・ボクドンおばあちゃんを最後まで祀ったキム・ドンヒ「キム・ボクドンの希望」運営委員も青年期行に共にした。 彼は「おばあちゃんは「私は希望を持って生きています。私に従ってください」と言われました。 心を読む"と目を覚ましたりもした。
希望のたね基金青年ツアーは推進委に平和公園の造成に使ってほしいと20万ウォンを寄付し、推進委は「平和の少女像」が描かれたバッグと「キム・ボクドンバッジ」をプレゼントした。
推進委は22日から今後毎週水曜日午後4~6時の間、量産イマートの前で「キム・ボクドン平和公園、平和費少女像作り水曜活動」を繰り広げる。
去る18日韓国を訪問した希望種子基金青年たちは22日景福宮見学に続きソウルで開かれる'第1588次水曜デモ'に参加した後日本に帰る。
김복동 생가터 찾고 소녀상 앞에 선 일본 청년들 - 오마이뉴스
20万ウォン?不正送金としか言いようがない。事故がなかったのが幸いだ。もし事故が起きたらアイセックのように誰が責任を取るのかよくわからない状態になっていた。
またこのお金はどこから出しているのか。法人はもうないのである。本来は法人の名前では出せないはずである。
登記をこのままにして活動することはできない。会社のような法人と違い、税金はかからないのだろうが。
契約はすべて取り消すことができる。なぜなら、法人格が存在しないからである。おそらく課税されないから放置しているのだろうが。
しかし、その一方で登記を再生するには、まず過料に処せられる可能性がある。
募金をいくら正確に扱っていようが、そもそも韓国国内の活動が違法である。
認知プロファイルすると、この団体の法人登記住所には誰もいないため、法務省からの通知も気づかなかったのだろう。つまり実態のないペーパーカンパニーであることがわかる。
ということであれば、韓国へ旅行している以上、希望のたね基金は全く実体がなく、양징자が寄付金を一人で使っていたにすぎないということになる。
オーマイニュースには希望のたね基金のツアーと書いてあるので、個人的な旅行だという主張は無理である。
さらに正義連は批判されこそすれ、同情する余地は全くない。慰安婦をかわいそうだとか、なにか支援したいと思うときには絶対に正義連の関係者と取引してはいけない。こいつらは完全にクズだ。
以上から、この団体には実態がまったくないうえに、代表者が個人的にお金を使い込んでいる可能性が高い。
以上から、寄付したり、マリーモンドの製品を買ったりしてはいけない。
HPにもある通り、もはや慰安婦とは関係がないことが明らかである。
さらにもとの正義連自体が韓国で刑事告訴されている。他ならぬ慰安婦の証言をきっかけに、である。したがってファクトチェック以前に直ちに謝罪すべきなのである。
でなければ慰安婦の告発を無視する以上、慰安婦なんて本当はどうでも良くてお金儲けの道具にすぎないという連中でしかない。
また、法人格はない以上、現時点では契約したり、お金を受け取ったり支払ったりはできない。例えばマリーモンドの商品を買おうとしてお金を支払っても商品は来ない。なぜなら、法人格がないのでそのお金がどこに行くのかがわからないからである。
リヒトかな? と思ったけどもっと面倒そうな名前かもと思い聞いてみたよ
カオル・フォン・ブラウンシュバイク (Kaoru von Braunschweig)
タケオ・メルツ (Takeo Mertz)
ノリコ・ミュラー (Noriko Müller)
ユウタ・フィッシャー (Yūta Fischer)
Q. 日系ドイツ人の名前ではなくて、ドイツ語の単語であって、日本人のファーストネームにもできそうなのを教えて下さい。例えばリヒトとか。
A. いくつかのドイツ語の単語から日本人のファーストネームを作る例をいくつか挙げます。
カッツェ (Katze) → カッツェ
ゾンネ (Sonne) → ゾンネ
シュトルム (Sturm) → シュトルム
トレーガー (Träger) → トレーガー
モラトリアム期間に慣れ親しんだオタクコンテンツから離れて早10年。久々に時間ができたので話題の「ぼっち・ざ・ろっく!」を見ました。
驚きました。面白い。
ストーリーやギャグの魅せ方が上手い。作画もクオリティが高くて、何より音楽が良い!これが現代アニメか……(「Hot knows...」 や「私の恋はメガラバ」みたいな二次創作が見当たらないところにも時代を感じました)。もちろん手放しで礼賛できるコンテンツなどこの世にはなく、作品独特の違和感・矛盾は存在します。それらのほとんどは「脱臭」の一言に集約され、きらら系コンテンツの宿命か、すでに論考がいくつも転がっていたので論をそれらに譲るとして、私がここで語りたいのは曲中歌の歌詞。メロディーラインや編曲のクオリティの高さはリョウ先輩が天才だからで済みますが、ぼっちちゃんが悩んだ末の自分らしさにしては歌詞の踏み込みが足りない。経験に裏付けされたリアリティがない。フレーズがふわっとしていて、今の流行りにおもねったファッションみを感じる。真のぼっちは、ロックは、孤独は、そんなものではないはず。
久々に孤独に浸りたくなったおじさんが、酒に酔った勢いで自分の好きなぼっちな曲を残します。おじさんは自分語りが宿命なので仕方ないね。なぜ全てボカロ曲か? 10年前の孤独なオタクは友達がいないのでロックを知る機会がなく、ボカロしか聴かないんです(偏見)。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/25096.html
作詞:nyanyannyaさん
ぼっちちゃんがぼっちをこじらせてリスカしだしたら書きそう度:★★★★
さっそくロックではない曲から紹介。ほぼ同名の梨本Pの曲とは別です。どっちも知らない? 10年前寝てました? ぼっちは精神が崩れるし、不健全なオタクなので、自分の気に入った自傷フレーズをメモして歌詞に並べてしまいます(偏見)。厨二病感あふれる歌詞の中で最高に孤独を感じる一節が
『生まれる以外何か悪いことした?』
彼女(彼)は自分なりに他人に迷惑をかけないように人生をかけて頑張って、努力して、その終点がこれだったのでしょう。作者の生き様が透けて見えるところがお気に入りです。「善いことをしてきたはず」というエゴが、最高に孤独ですね。
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/25140.html
作詞:Neruさん
作者のNeruさんは「ロストワンの慟哭」や「脱法ロック」が有名なのでみなさんご存知ですよね。知らない? 初等教育受けました? ぼっちは常に厨二病で、人から見られることを気にする自意識過剰な異常者なので、人生を劇場に例えがちです(偏見)。人生の一番底感あふれる歌詞の中で最高に孤独を感じる一節が
『教室の隅で読書をする 凛とした長髪のあの子は 僕が恋してると囃し立てられて いじめに遭いました』
歌詞は基本的に抽象的・婉曲的なのに、ここだけリアリティが突出しています。これ絶対作者の体験談だろ。いじめた方かいじめられた方か、傍観者か。ぼっちは社会と無関係でいることすら許されない。他人が傷つけられて自分が傷つき、孤独を深めていくところが最高に孤独ですね。容姿端麗な作中のぼっちちゃんは絶対に書かない歌詞ですが。
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/3300.html
ここでいきなり重音テト(≠ボカロ)曲を紹介。UTAUはジェネリックボーカロイド? 死にたいようだな? ぼっちは常に社会的弱者で、虐げられているのに反抗できない精神的弱者なので、いじめエピソードに事欠かない(偏見)。色とりどりのヤンキーヘイトの中でも最高に孤独を感じる一節が
『法律が許すのなら 何度だって殺してやる 大げさに聞こえるなら 君は今も理解ってない』
「怒ってない」から「許されてる」わけではないのは作中の歌詞のとおり。前段だけなら「ファッション孤独」でしょう。後段の独特な凄みがこの歌詞の真骨頂。加えて1:36からの歌詞はとても辛くてとても好きな歌詞なので、ぜひ動画で確認してください。
結局のところ作中のぼっちちゃんは設定上、いじめや「病み」と無関係な美人さんなのでこんな歌詞は書かないでしょう。ただ、歌詞はもう少し、作詞者の「ぼっち」な実体験、言ってしまえば「こじらせ」がにじみ出た方が好みです。私の。ちなみに私が結束バンドに10年後に歌って欲しい曲は「ナンセンスの塊」(はるふりさん)です。
https://w.atwiki.jp/utauuuta/pages/3699.html
もっと孤独を感じたいので、みなさんの好きな孤独な歌詞があればジャンルに関わらずどんどん教えて下さい。「生きてる」を実感しましょう。
BECKはその昔薦められてブックオフで全巻買ったのだが、結局全部読んでもイマイチに思った。
ぼざろのおかげでバンドモノを読む下地が整った気がしたので読み直した。
答が出た。
BECKは「日本生まれのバンドがロックの本場で勝利をするまでの物語」なのだ。
それはまるで「とあるスポーツの日本代表が世界大会を勝ち進むまでの物語」のようであった。
個々のキャラクターにはそれぞれの背景があるが、それらは「最強ロックバンド誕生のために必要なパーツ」としてこの世界に生み出され、それがリアリティを失わない程度に自由に走り回った結果でしかないように映る。
最強の日本代表チーム、それに相応しい者達、主人公の「自分の才能にまだ気づいていない強い芯を持った普通の人」という設定さえも、「日本人が望む日本代表」の物語を注ぐための器のように思える。
この物語の目的は結局の所「日本生まれの日本人によるチームが、世界で通用する姿を描く」という作品なんだ。
悲しいけれど、コユキという少年自身の人生が描く軌跡は、そのための手段へと埋没していると言って良い。
恋さえも試練さえも音楽に縛り付け音楽表現を身につけるための過程だ。
よくスポーツ選手に気持ちの悪い評論家が「恋とかしたら人間として幅が広がって成長するよ♡」みたいな馬鹿げたコメントを投げかけるが、コユキの恋愛もまさにそういったものに見えてならない。
BECKの世界には分かりやすい悪役が登場し、分かりやすい仲間たちがいて、分かりやすい物語があり、分かりやすい勝利がある。
本来は複雑怪奇なそれぞれのジグザグ道を進むはずのバンドマンの物語を、適度な紆余曲折を織り交ぜつつのどストレートな栄光までの一本道に舗装し直したのがBECKだ。
紛れもなくBECKは名作だ。
序盤こそややとっつきにくいし、若干冗長なパートもあるが全体としてはとにかく目先のニンジンに向かって突っ走っていくだけの物語で、誰もが読み解いて味わえる。
音楽物によくある小難しい知識論や、歴史的背景への理解を強要するかのような態度もない。
万人向けに仕上げられた適度に壮大な物語だ。
ぼざろは違う。
ぼざろの主体はキャラクターであり、それぞれの自己実現のための手段として結成されたバンドの物語だ。
何者でもなく本人たちであり、挑むべき敵や超えるべき明確な壁があるわけでもない。
自己実現のために今あるバンドの形を守り抜くという決意によって結びついてるが、それは物語の意思というよりも彼女たちの意思、というよりも彼女たちにそのような決意をさせることこそがこの物語の意思なのである。
バンドとして成長していく姿は物語の過程や手段であり、それによって描きたいのは勝利や栄光ではなくてそれぞれの願いなのだ。
ぼざろの本質は音楽ではなくキャラクター、成功ではなく交流だということが、BECKとの比較でよくわかった。
後藤ひとりに植え付けられたギターヒーローというマクガフィンは、結束バンドを高みへと誘うだけの装置ではなく、急激に登り続ける高みでそれぞれの心の中に嵐を起こす機能を持っている。
分かりやすい誰かの陰謀によって結束に危機が訪れるのではなく、それぞれの心が持つ自由意志の中で育った不安と行き違いが内側から世界を破壊していく。
敵や目的が世界の外側に存在するサクセスストーリーの世界ではなく、それぞれの心の内側を主戦場とするヒューマンドラマがぼざろの本体だ。
ぼっちちゃんがイカれているから、リョウがヤベーから、虹夏が天使だから、郁代は……コイツが多分一番ヤベーから、読み手がその行く末を追いかけたくなる。
作品のためにキャラクターがいるのではなく、キャラクターのために作品がいる、バンドはシチュエーション・コメディの題材のようなものであり、大事なのはこの4人を中心とした数々のイカれたメンバーが集まっていることだ。
BECKはそうではなくて、物語のためにキャラクターがいて、バンドとして勝利するのだからバンドでなければ絶対に駄目だったのだ。
この違いがやっと分かった。
漫画って難しいな。
どう読めば良いのか誰も教えてくれないんだぜ?
ぼっちざろっく アルバム 「結束バンド」オリジナル曲の女性成分を調べた
TVアニメ『#ぼっち・ざ・ろっく!』の劇中バンド・ #結束バンド が、女性グループ初の4週連続デジタルアルバム1位を獲得しました🎸🥁🥳
(略)
https://twitter.com/oricon_ranking/status/1615464101102198790?s=61&t=IXTKfpbDdkg_drAYPf2DwQ
「女性グループって設定だけどおっさんが作詞しておっさんが作曲しておっさんが演奏してるじゃん」
といった趣旨の意見を見たので、実際はどうなのか知りたかった。
→樋口愛、ZAQ、中嶋イッキュウ、音羽-otoha-、北澤ゆうほ
男性8%
→谷口鮪
女性53%
→草野華余子、中嶋イッキュウ、音羽-otoha-、北澤ゆうほ
男性47%
→三井律郎、akkin
→ドラム:比田井修、ベース:高間有一、ギター:akkin・三井律郎
→喜多郁代(長谷川育美)、山田リョウ(水野朔)、伊地知虹夏(鈴代紗弓)
編曲は少数の人がやっていることで、バンドとしての統一感をコントロールしてるんだなあと思った
眠いので、何かネットフリックスで再生して、音だけ聞きながら目を閉じて、面白そうだったらちゃんと見よう、と思うじゃないですか
本当はナイブズアウトとか見たいんだけど、俺は断然字幕派で、しかし英語力が低いので、洋画を音だけ聞いても多分1割も話がわかんない
なので、まあ邦画でも見っかあ!となったときに、ちょっと前に話題になってた「花束みたいな恋をした」が目に入る
俺は恋ってそもそも嫌いなんで(理由:顔や体型がキモくてモテず、恋愛にコンプレックスがあるから)、流行ってた当初からもうエンガチョボックスにインして、無視してたんだけど、しかし、"マジでどうでもいい"ではなく、"エンガチョ"というのがポイントなんですよね
俺にとって、そもそも、「花束みたいな恋をした」は、"道に落ちてる軍手"ではなく、"道に落ちてるフレッシュな人糞"だったんだ
ゼロじゃなくてマイナス、見る前から反感を覚えるタイプのものだった
己と向き合うっつうかさあ!
そんで、まあプレビューを見るわけですよ
ネットフリックスにおけるプレビューっていうのは、よく分かんなくて、なんか本編をテキトーに2分くらい切り出して、こんな感じやで〜ってのを見せてくれるやつなんだけど、見るたびにシーンが違ったりして、見せられるシーンもよく分かんなかったりして、全体的によく分かんねえの
花束…のプレビューもまあよく分かんないシーンだったんだけど、そのよく分かんない2分くらいの間でも、十分に不快だったのだった
まずね、男の名前が"麦"らしいんだけど、こっからもうハナに付きますねえ!
うおーーー いや いるか いるんだよ いるにはいるんだけどさあ なんかこう、なんつうか、サブカル映画の主人公の名前が都合よくそんなちょっとハズしたオシャレネームになるわけねーだろ
田舎の出なんだろ?だったら弘大(こうだい)とか亮太(りょうた)になるハズなんだ コウダイとリョウタだったら俺の田舎に2人ずついるからよお 許してやるわ
リョウタなんていいじゃん響きもさあ 耐えてんじゃん これがゲンキくんとかだとちょっとワンパクすぎるけど、リョウタはまだサブカルの文脈にのりうる
何?麦って
ナメてんのか?
堪え難い マジでムカつく
そんで女も絹ですか 絹はまあ、いねえけど、個人的には、単体としては許せる
でも麦と絹って組み合わせになってくると話は違うなあ!くせえんだよーッ
イケてんだよーッ! でも実際そんなにイケてるわけねえだろ
俺はせめて亮太と唯くらいにしとけって話をしている 唯も田舎に3人くらいいたからよ〜っ
麦と絹にするな コモン・センスとして、それはダメだろ サブカル大好き男女の名前が麦と絹なわけがない ありえない
この一点だけでホント5分くらい文句を並べ続けられると思う マジで受け付けない 殴るなら顔だな、という気持ちになる
そんでなんかさあ、夜の飲み屋街で、麦クンと絹チャンがさあ…… ああ〜マジで許せんこれ 麦くんと絹ちゃんじゃないだろ ありえないんだ
亮太と唯がさあ、夜の飲み屋街で、押井守がウンヌンつって意気投合、みたいなシーンなんだけど、なんか、女の子の方がトイレットペーパー両手にもってんのね
そういうのがムカつくんだよな〜ッ 知らねえけどさあ なんか、アレだろどうせ、「わたしたち、出会ったときトイレットペーパーなんか手に持っててさあ、締まらなかったよね〜!」みたいなコトなんでしょ
殺すぞ
恣意性が目につくんじゃ
いや文脈知らないけどさあ 文脈知らないからこれ以上文句言うのはやめとくか……
で、なんか押井守がどうこう言ってさあ!
知ってますよ押井守!おおかみこどもの雨と雪(?)の母親描写がキモくて炎上してた人でしょ! 的な、イジワルな言及をしたいんだけど、よく考えたらべつに作中でも押井守の評価はいったん置いとくとして、居たねえ!みたいなノリだったな ムカつく〜 居るなよ
そのあとなんか、キモい東京の地名出して会話してるシーンがあって俺は限界を迎えた キモい東京の地名を出すな 耳が腐るからよ
スニーカーがお揃い!みたいな謎シーンでプレビューは終わった どーでもええんじゃ
真のサブカルオタクなら、スーパーセンタートライアルで買った1800円の靴を履け! それが本当のサブカルチャーってことだろ 超マイナーだぜ〜 俺以外誰も履いてない
とにかく全体的に許せないが、さすがにエアプで批判するのは良くねえから、本編も見てやるかあ!と思って再生押したら、イキナリ、デカデカと「テアトロ東京」みたいな配給会社の名前が出てきて、俺は本当に「ウグッ!」とうめいて再生をやめた
テアトロ東京のこと何も知らねえけど、イチバン嫌いなタイプの社名だ なーにがテアトロじゃ テアトルだっけ? 梅田にもそんなんがあったなあ!
俺も行ったよ!彼女とさあ、なんか、イタリアのエクソシストのドキュメンタリー映画見に行ってさあ!
覚えてるセリフがいっこあるぞ!"Vattene, Satana!”
サタンよ、出ていけ!
俺はこの先、見切ることができるんだろうか?
できなくてもいいや という気持ちがある
それがお互い幸せだろう
会話の頭に必ず「あっ」って付けてしまう極度の人見知りで陰キャな少女。
友達がいないため、一人で毎日6時間ギターを弾く中学生時代を過ごすことに。
上手くなったギターの演奏動画を“ギターヒーロー”としてネットに投稿したり文化祭ライブで活躍したりする妄想なんかをしていると、
気づいたときにはバンドメンバーを見つけるどころか友達が一人も出来ないまま高校生になっていた……!
ある日“結束バンド”でドラムをやっている伊地知虹夏に声をかけられたことで、
そんな日常がほんの少しずつ変わっていく――
全然違うだろ。
チャンネル登録者数3万人のネット界のカリスマ投稿者"ギターヒーロー"。
誰も知らないその正体は、友達の1人も居ない陰キャ少女、後藤ひとりだった。
ひょんな事からギタリストを失った"結束バンド"に加入した後藤ひとりは、その天才を白日の下へと遂に晒すのであった。
だろ
俺は5話まで気付かなかった。
漫画的な補正をかけているだけで顔ぐらいは流石にブサイクなんだと思ってた。
だってそうじゃん?
子供が自信をなくすのって基本的に自分の容姿が優れてないときじゃん。
運動が出来ないとか、話すのが下手とか、成績が悪いとか、ギターするまでは特技もなかったとか、そういった理由付けは想像できなくはないけど、結局それでも「容姿は優れている」ってのがあったら全部なんとかなるじゃん。
少なくとも子供の世界って強烈にルッキズムなわけで戦隊ヒーローだって「ブサイク戦隊キモイマン」とかだったら幼稚園児だって悪役を応援すると思うわけだよ。
だからぼっちちゃんがコミュ障の見て俺は「なるほど、実際にはブサイク、少なくとも美人ってほどじゃないんだろうな」と思ったわけ。
でも違うの。
虹夏がお世辞で言ってるとかじゃなくて、基本常にクレバー(辛辣)なリョウがそれを売りにする手段を考えるレベルで顔や体つきがいいわけ。
もうね完全に裏切られたよ。
このルッキズム社会じゃ究極顔さえ良ければどうとでもなるわけじゃん?
何も持ってないコミュ障が底辺から這い上がる話じゃなくて、単に自覚がないだけの強者が更に強くなるだけの話。
突然猛ダッシュを始めたウサギが光の向こう側に辿り着くまでの話じゃん。
は?
そんな話でしたか?
ってなるじゃん?
お前らはどこまで騙されていた。
ぼっちちゃんの可愛い絵をたくさんかいてくれてありがとうございます!!!
いくつか気になることがありますので、こちらを気を付けていただけたらと思います。
ぼっちちゃんはサウスポーじゃないよ。ぼっちちゃん(と他の人たち)はネックを左手でもっているよ
ぼっちちゃんの使っている、レスポールはペグ(弦を巻き上げるネジみたいなの)は両サイドにある奴だよ
片側に6個ある奴はストラトキャスターとかのフェンダーのギターになっちゃうよ。
山田リョウのベースはフェンダー ジャズベースなので片側にペグがある奴だね
レスポールのヘッドはネックとくっついている所でちょっと曲がっているんだよ
まっすぐじゃないよ
ギターにシールドケーブルがつながっていないと音が出ないんだよ
だから、ライブ中の絵とかはシールドケーブルがつながっているように描いてね
上部についているピックアップセレクターっていうスイッチはぼっちちゃんはいつも下に入れているよ
どのピックアップで音を拾うかという設定スイッチで、下だと音が重厚になるということで、ロックなどに向いているんだよ
スイッチはどこに入れているかはどれでもいいけど、ピックアップセレクターの存在は忘れないでね
ピック持たせてね
ぼっち・ざ・ろっく!第8話の作中で演奏された楽曲「あのバンド」が好評を博している。
これは演奏に至るまでのアニメの話運びと演出・描写の素晴らしさによるところが大きいが、
実はこの楽曲の歌詞も物語に深みを与えるような内容になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=L2i0i9gWE00
歌詞の1番では、“あのバンドの歌”に対する“わたし”の忌避感がつづられている。
今まさに“列車が来る”“踏切”を前にして“背中を押すなよ”と懇願するような
恐怖感(巻き込まれたら〇んじゃう!)にも近しい拒絶反応である。
そんな怖い音から逃れるため目を閉じ耳を塞ぎ、自分の鼓動だけを聞いてやり過ごす。
2番では、しかし他の人は“あのバンドの歌”をとても好意的に受け入れていて、
それを拒絶している“わたしだけが”異常なのだという自己認識が示される。
この世から“わたしが放つ音以外”が無くなれば、こんな疎外感に苛まれないのに。
そうやってまた目を閉じ耳を塞いで、殻に閉じこもる。
ラスサビ前のBメロでは一転して“わたし”が“列車”に乗る側となる。
これは“わたし”が音を出す側になるということだが“乗客はわたし1人だけ”。
1番の状況と立場が反転していると推測するなら(そして2番の自己認識のとおりなら)、
他の人々は“踏切”のそばにいて、つまり“わたし”の音は拒絶されるのだろうと仄めかす。
ラスサビでは、そんな悲観的な状況に“目を開け”て向き合っている。
自分が“孤独”なのは間違いなくとも、自分の音を“孤高”に鳴らし続ける。
これまでは受動的に聞いていた“鼓動”も、自分の音として能動的に“確かめる”。
もう他の誰がどんな音を鳴らそうと“わたしが放つ音以外”には耳を傾けない。
「孤独な自分を受け入れ、他人に拒絶されても自分の音楽を追求する」という意志を歌っている。
字面としては全く同じフレーズが、1番2番ラスサビでそれぞれ違った意味になるのは
プロ作詞家の技巧であり素人女子高生が書けるわけねーだろ、というツッコミは置いておく。
ここで述べたいのは、もしこの歌詞をぼっちが書いたものだとしたら物語としてどういう意味を持つのか、だ。
ぼっちは第2話において青春コンプレックスを刺激する歌は無理だと吐露しており
これは1番2番の歌詞の内容と符合する。普段の(これまでの)ぼっちの心情だ。
ラスサビ前Bメロで歌われる、自分の音楽が他人から拒絶される予感と不安は
第4話において陰キャな歌詞を書いてもよいものか逡巡してたことと一致する。
その気持ちを払拭し背中を押したのは喫茶店でのリョウの言葉であり、ラスサビは
そのリョウの言葉を受け止めたぼっちからの返答だと解釈できる。
すなわち「私も、自分の個性を捨てずに音楽をやっていく覚悟をしました」という決意表明である。
ぼっちの個性とはまさにぼっちであることだが、ぼっちというあだ名=”孤独の称号”を与えたのも
面白いのは、このラスサビに秘められたメッセージは(喫茶店で会話した当人である)
それを踏まえると、第5話でリョウが「ぼっちの書いた歌詞みてたら浮かんできた」と
あえて言葉にしたことにはメチャクチャ重みが増して尊みが爆発する。
さらに続く場面で「ほめてつかわす」と言ってスキンシップまでしてるのも
ぼっちが歌詞に秘めたメッセージをきちんと受け取ったことを暗に伝えており
そしてもう1つ、第6話の路上ライブ。
何を演奏するか完全に委ねられていた状況においてぼっちはこの曲を選んでいる。
ダンボールかぶってた初ライブと違い、初めて観客に面と向かって演奏する不安のなか
何故この曲を選んだのか。
それは自分がこの詞に込めた覚悟をウソにしないため、その想いで自分を奮い立たせるためではないか。
ぼっちを表立って助けるシーンの乏しいリョウだが、音楽に向き合う姿勢についてだけは
誰よりもぼっちの支えになっているのだ。
上掲の公式MVで使われている、踏切の前で振り返るリョウのイラストも、それがぼっち視点だとすると
2人が同じく踏切の前に立っている=音楽性を共にする仲間である、ということが示唆される。