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はてなキーワード: ヒーローとは

2019-04-20

三行で映画感想

シャザム!観た。字幕

SHAZAM、そういう意味があったんだね

ヴィランヒーロー誕生と対比として、伏線はきちんとあって説得力のある展開だったと思う

・かなり笑いのシーンがあったんだけど、それは変身後の話で、前半はあんまり面白くない脚本だった

2019-04-19

イケメン

最近イケメンという言葉が指すものが、男と女で違ってきたと思う。

男の指すイケメン文字通り「見目が良い男」のことで、内面には言及しない。

一方女は、不良から老人をカッコ良く庇うだとか妊婦スーパースムーズに席を譲るだとか、ヒーローのような正義漢を指して「イケメンすぎる」というような使い方をする。

そもそも最近の女は「単に顔が良い」ということを表現したいなら「顔が良い」と言っている。女が「イケメン」と言ったらそれは内面イケメン度も内包している、もしくは「フィクションみたいなクサさがある」という事を意味している気がする。

からオタクの男がよく使う「ただしイケメンに限る」の意味も、なにやら意味がよく噛み合わず宙に浮いたまま、イケメンという言葉はそろそろ死語になっていくのだろうなと思った。

anond:20190418230310

登場人物が俺と俺しかいない時点で悲しいやつだなという感想しかならんのだが

ぐーたらなのが子供ヒーロー補正かかるってのはたしかにあるかもな

マスターキートンに出てくるやたら解説力のあるモブ

「空飛ぶヒーロー」で「空気だけで人を浮かすには直径15mの巨大な熱気球必要だ!」みたいなこと言ったおっさん

そんな数字がパッと出てくるって何者だよ

インチキだ!17世紀空気以外のそんなガスがあるもんか!」のおっさんもなかなかだけど

anond:20190419121641

三代目鬼太郎(30年以上前)の時点でヒーロー扱いだったろ、ってのはともかく

5,6年前に墓場鬼太郎アニメはやってたやろ

anond:20190418230310

鬼太郎アニメヒーロー化しちゃったもんね。

すぐビンタして、しんせい吸ってコーヒー飲んで女に弱いフーテン鬼太郎、最高だよね。

https://anond.hatelabo.jp/20190419100257

ちなみに加害者側だったとしても告発者は助かります

これまでの内部告発とは違います事件の内容、規模が違います。一企業不正とかのレベルではなく国家破壊レベルであり一方的戦争です。

ですので戦争を終わらせたヒーローになれますノーベル賞ものですので銅像を立てて賞金をお渡しできるレベルだと思います

2019-04-18

anond:20190418215541

ランクという言葉曖昧でした。簡単に言うと、所得のことで、美醜という意味ではありません。

個人的に、男性には自分より所得の低い、不遇な女性を助ける(= 庇護する)ことで満足感を覚える、

というようなヒーロー的と言うか、シンデレラ王子様的なものに憧れがあるのではないかな、と思ったのです。

ただし、元増田さんは違うことを指しているようですので、見当はずれなコメントになってしまいましたが。

anond:20190418104411

それミもフタもなく言って

海軍という国家権力に逆らってる反体制ヒーローから嫌いなんじゃない?

大学合格発表掲示板のように発表する

エックスキースコア被害者一覧と共犯者一覧は人類にとって最重要課題です。

これが見つかれば国家の建て直しは何とかなります。その真実基準にして人類選択判断をすれば良いんです。

被害者一覧と共犯者一覧を、大学合格発表掲示板の様に発表する方法があります。量が量ですのでボリュームがあります

知的財産強奪していたグループに限りますが…)

新聞雑誌にして販売しても良いかもしれません。これだけでも売れると思います

聖書以上に世界中人間に売れるかもしれません。告発者はヒーローです。

https://anond.hatelabo.jp/20190405194126

https://anond.hatelabo.jp/20190417085934

2019-04-16

ジャンプもそうだけど、王道ヒーローものってさ

「持てる者」のマジョリティ属性男が

「持てる者」のマジョリティ属性の男の野望を打ち砕くっつう

 

 

ぶっちゃけマッチポンプだよな

そう考えたらなんか白けてきた

拝啓奈須きのこ様へ

 あんたは僕のヒーローだった。自分の作り上げた世界のものを売り出して一大ムーブメントを作り上げた素晴らしい作者だったよ。

 今はそうじゃない。凋落堕落、怠慢。なんでもいい。とにかくあんたは劣化しちまった。

 最近あんたに出来たことと言えばどうだ。ほら、見てみろよあんたの辿ってきた道ってのをさ。

 枝葉末節は違っちゃいるがどれもかつての成功の焼き直しだ。リメイクだよリメイク。なにも作っちゃいないんだ。

 GrandOrderのキャラを見てみろ。同じ顔、顔、顔。単なる過去作品クローンどもだ。

 新規もいる? 中身が違う? なるほど確かに言い分は正しいとも。だが、本当に新造するならそいつらの知名度なんか頼らないはずだろ?

 なんならGrandOrderだけに限ったことじゃない。あんたが手がけたEXTRAだってそうだったじゃないか

 人気者のキャラクターを、しか殆どガワとカリカチュアだけを、再利用して。あの作品は結局のところstay nightのおんぶに抱っこだった。

 間違っちゃいないとも。再解釈ってのはキャラに限らずどんな作品にもありふれた手法だ。古典パロディ作なんかも山のように溢れてる。

 が、断言していい。再解釈ってのは自分世界と向き合うのをやめただけだ。産みの苦しみを避けて、妥協に勤しもうとする「逃げ」でしかない。

 楽だっただろ? 既成品を使ってもいいってのはさ。でも同じ見た目と、似たような性格。そんなものの何処が新しいキャラクターと言えるんだよ。

 扱うテーマだって同じだ。いつでもあんたは恋、恋、恋。ボケ老人の昔話みたいに恋の話ばかりしかしなくなってしまった。

 それだけじゃなかったはずだろう? あんたの世界にあったものは。恋とヒロインの他にも色んな輝きが渦巻いていた。

 今じゃどうだ。世界には恋とヒロイン。それだけ。まるでセカイ系流行ってた頃に溢れていた出来の悪い素人創作じゃないか

 2017年クリスマスなんかは特に顕著だったんじゃないか? あれは言ってしまえばただの構文だ。

 正直あれには呆れたよ。酷いもんさ。何も肉付けされず、あんたが手癖で使ってる恋とヒロイン定型文そのままだってんだから

 長い付き合いだ。恋とヒロイン文脈あんたの作風だってのはわかってる。わかっているんだよ。

 だがわかってるからこそ見えたんだよ、骨組みのまま出されたあのストーリーの中で。あんたの世界がどうしようもなく腐ってたのが。

 なぁ、奈須きのこあんたに僕は問いたい。あんたが作り上げた世界ってのは同じ顔した人間が溢れかえってるようなところなのか?

 同じ顔と似たような性格で笑い泣いて怒って叫んで。ちょっと違うだけの言葉を垂れ流すような。そんな世界だっていうのか?

 心底、気持ち悪い世界だ。

 こんな出来の悪いオープンワールドみたいな世界が本当にあんたの描きたかった世界だって言うなら、ああ。

 あんたは敗北者だよ奈須きのこ小説家だってのにキャラクター性とイラストに振り回されて自分世界を捨てた二流以下の小説家だ。

 言葉空想から世界を描いていたあんたは現実の何処にもいない。いるのは自作コピー・アンド・ペーストしか出来ない老いぼれだよ。

 だからこそ輝かしい栄光の背後に眠る物が見え隠れする度に僕は、本当に、嫌になる。厭になってくる。ああ、飽き飽きしてるんだこんなもの

 

 こんなこと、あんたには知ったことじゃないだろう。僕が勝手にガックリきてるだけだ。理想押し付けられちゃ迷惑なのもわかってる。

 ……やっぱり何も思わないかもな。だって、きっとあんたって人はファンなんて始めっからどうでも良かったんだから

 あんたの作品ファンへの思いやりなんて何処にもない。hollow ataraxia、いや、歌月の頃からその片鱗はあったかもな。

 気づいてはいたよ。奈須きのこって作者は過去作品大事にしないってことには。

 GrandOrderやEXTRAでも顕著だが、あんたは自作品を新作の材料くらいにしか扱った試しがない。

 それ自体は悪いことじゃあ無いとは思うよ。作品ってのは作者や、作者を取り巻く構造の持ち物であってファンのものじゃない。

 後付けや換骨奪胎描写の一部をなかったことにするなんてのも新たな作品創造するためには必要なこともあるだろうさ。

 けどさ。ファンだってあんたの作品に惚れたかファンになったんだ。なのにあんたは目先に吊られたピカピカの新品しか見えちゃいない。

 でも。でもだ。それでも良かった。良かったさ。あんたが本当に新しいものを作ってくれるなら幾らでも許容したよ。

 だけど違う。そうじゃない。あんたが最近やってることってのは古いピラミッドを崩して新しいピラミッドを作る繰り返しじゃないか

 何がサーキットだよ。あんたの作り上げた世界サーキットの他にも、幾らでも、楽しくて心を震わせてくれるものがあったじゃないか

 確かにあったんだ。あったんだよ。本当に、本当に、たくさんだ。いっぱいあったんだよ。あんたの世界の中には。あったはずなんだ。

 でも。もうだめだ。そこにはテーマパークも図書館映画館も残ってない。全部サーキットのために取り壊してしまった。

 サーキットは日々盛況だ。千秋楽も見えないのにいつ来ても満員御礼。すごいサーキットだよ。誰もが称賛する、歴史に残る名物だ。

 観客席の暗いところにはテーマパークを再建するお知らせが貼り付けられているけど、そんな古いポスターを眺める観客なんて滅多にない。

 眺めてるのは僕のような老眠ばかりで、本当はもうテーマパークなんて流行らないことなんてのもみんな薄々感づいてる。

 それでもみんな色あせて糊も落ちたポスターサーキットに来るたび補修しては、テーマパークが出来る日を夢に見ていたんだ。

 そうやって何年経っただろうか。僕はもう疲れてしまった。胸のうちに宿った失望から目をそらすことに、ほとほとうんざりしちまった。

 サーキットを嫌いになったんじゃない。テーマパークが再建されないことが嫌なんじゃない。世界が停滞してしまたことに耐えきれないんだ。

 僕は今まで黙ってきたよ。きっと僕はhollow ataraxiaの時にあんたを裏切ってしまった、あんたを失望させたファンの一人だから

 あんたに失望しても、あんたを変えてしまったのは僕たち自身だと思って目をそらし続けていた。だけどもう限界だ。

 決めたんだ。僕はもうあんたの作った世界から出ていくよ。歪みに歪んだまま発展を止めた世界になんて留まる価値を見いだせない。

 僕はあんたと同じ荒野に出て、自分世界だけを描いて、あんたが自分世界を捨てたことが間違っていたって証明してやるよ。

 傲慢だと、愚劣だと、そう思いたいなら思えばいい。今はあんたの足元にも及ばない小人でも、いつかあんたより高く飛んで見せる。

 それじゃあサヨナラだ。落ちぶれたマイヒーローあんたは地面に縛られたままサーキットで一生を終えるといい。

                                             貴方の描く世界が好きだった者より

 

2019-04-15

シャドバが流行った理由がわからない人がいるらしいか説明する

1・超有名ゲームからキャラクター流用  解説人間自分が全く知らない物にはあまり興味が沸かないが自分が知っているものにはある程度興味が沸く。逆に知りすぎてアレルギー反応を起こす人もいるが、基本的には知名度の高さと商業勝率は限りなく強く結びついている

2・レベリング不要  解説レジェンド(1パックから出る期待値は0.12枚)が必須カードになっている事が多いとはいえ引いてしまえばレベリングも重ねも不要であり他のソシャゲと比べて「環境最強」を用意するのがかなり容易。不要カードを砕くことも可能なので使うデッキを絞ったりすればかなり簡単に「環境最強」が用意できる。PvPゲーの中では圧倒的に敷居が低い

3・ギルドやフレンドによるプレイ強要がない  解説ギルドバトルやフレンドポイントなどが存在しないため人間同士の繋がりによってプレイ強要されることがない。ソーシャルゲームにおいてはトップクラスに緩い繋がりを持つ。

4・大会配信環境が充実しておりトッププレイヤーはヒーローに  解説課金額を競うような他ゲーのランキングと違って「実力(運も含む)」によって勝者が決まるので大会優勝をすれば文字通りヒーローになれる。またSNS動画面白いデッキプレイを紹介することでも他ゲーと比べればローコストで目立てる。誰かが目立てるということは、自分は目立ちたくないが目立っている誰かを肴にワイワイいいたい勢力にとっても住心地がよいことになる。

5・運とプレイングの勝負である  解説環境デッキに近づけている必要はあるものの、基本的にはプレイングと運のぶつけ合いであるため、廃人度を競い合う他のソシャゲとは一線を画する。一線を画しているというのは差別化が出来ているということであり、レッドオーシャンの中にあるブルーオーシャンという得当地に陣取っているということである。強い。

6・国産ゲームである。  解説洋ゲーは偉くて国産ゲーは一歩劣るという西洋かぶれの人間を除けば基本的には国産ゲーは海外ゲームよりも強い。情報や展開の速さは世界一だし、なにより最もソースに近い情報仕入れるのに母国語使用できる。流行っている界隈も日本が中心となるため様々な要素がスムーズに運ぶ。韓国語英語グーグル先生に訳してもらいながらの情報収集にならないという地味なストレス軽減が、意外と少しずつ効いてくるのだ。

7・壊れては治っていくゲームバランス  解説:完全なぶっ壊れが全てを破壊するゲームはつまらない。かといって完璧バランスが取れたゲーム流行らない。e-sports選手の多くがそこかしこインタビューでこのような事を語っている。そしてシャドバはゲームバランスが壊れることも多ければ、それが修正される機会も多い。カードゲームというジャンル全体でみればエラッタによる環境変動は激しい部類と言って間違いない。(まあ……シャドバがe-sportsなのかは置いていおいて(Hearthstonee-sportsなのだからシャドバもe-sportsだとは思うが、Hearthstonee-sports皮肉としての側面もあるためこれを軸にすると議論はいよいよ難航するが最もよい軸はこれなのだから困ったものだ。))

8・有力な対抗馬がいない時期に生まれた  解説:つHearthstone と言いたくなる気持ちもわかるのだが、Hearthstoneが生まれからそれなりに時間が経っており向こうに飽きたプレイヤーも多い時期であった。更にはHearthstoneによって切り開かれていったDCG新時代というフロンティアにおいて対抗馬になりうるゲーム誕生することが出来なかった状況で突然現れたのは本当に強い。他ゲーの知名度の低さからパクりなので叩いてもいいという空気も生まれたが、それが結果としてヘイト目当てで触るプレイヤーを生み出し、そのプレイヤーの一部の反転や炎上じみた喧騒により高い広告効果が生まれることになった。

9・叩いてもいいという許容  解説:前項で述べたようにシャドバには叩いてもいいという空気があった。これが結果として他ゲーと比べて開かれた空気を生んでうちわに閉じこもっていかずに済んだのである。汚れた河の流れの方が合う人種が今のインターネットには多かったのだ。

10・規模のパワー  解説流行りだしたら流行るというトートロジー。だがこれは重要だ。初手にコケたらその後は難しい。だがそれを最初に述べたようにグラブルやバハのキャラ流用やHearthstoneパクり騒動によって盛大に燃え上がる火の手としてスタートできた。スタートダッシュ成功必須であり、それが上手くいったのだからその後も上手くいくという話だ。

11・会社規模  解説:多数のユーザーを確保しても倒れてしまソシャゲがある。それはユーザーの多さに運営が耐えきれなくなるパターンがあるからだ。ソシャゲに限らず多くのビジネス自転車操業じみた側面を持っており、ビジネスの規模が大きくなるに従って会社のものの体力が求められていく。巨大なソシャゲ市場に大きな花火打ち上げるには、それに耐えられる土台が必要なのだ。それがサイゲにはあった。これが重要なのだ


まあこれだけ語れば「メンコゲーがなんで流行ってるの?」というアホも黙るだろう。

俺は別にシャドバは好きではないが、流行る要素がこれでもかと詰め込まれゲーム相手に「なんで流行っているの?」と言ってしま人達を見るのにいい加減うんざりしたので言いたいことを纏めてみた。

火ノ丸相撲高校相撲編まで」(が良かった)と言われる理由

・・・自分なりに考えてみた。

※だらだら書いたので恐ろしく長い。

あくまで「自分の周りでの評価」の話でこれは決して一般論でない。面白さの感じ方は人それぞれということも重々承知している。ごくごく個人的見解だと思ってもらえれば。

推敲もせず勢いにまかせて書いたので、多少ふざけている部分もあるし、すぐ脱線するし、色々な意味で所々間違っているかもしれないし文章も順序も何もかもめちゃくちゃだけどおおよその意味は通じると思うので堪忍してほしい。

小学生大学生あたりまでは欠かさずジャンプを買い続けてきたオッサンなのでいわゆるWJお約束アンケート事情等は踏まえている。

前置き

WJをずっと読み続けている友人が数人いるのだが、誰も火ノ丸相撲を読んでいない。読んでいない理由、ほぼ全員が口を揃えてこう言う。

大相撲からついていけなくなった」「高校相撲の時は面白くて毎週読んでいた」「ごちゃごちゃしてわかりづらくなり読むのをやめた」系統理由

自分原作連載時の初期の方だけは本誌で読んでいて元々相撲好きというのもあり、珍しい題材なのに巧みに関心を引く、驚くほど絵が上手くて話も面白漫画始まったなという印象だった。

そしてアニメをみているうちに改めてもう一度通しで原作ちゃんと読み直したくなったクチなので、彼らの評価を確かめるべく単行本最新刊まで読み進めた結果、なるほどそうか・・・と腑に落ちた。

火ノ丸相撲といえば・・・知名度のわりに本当に単行本が売れていない、アニメ化されても伸びない、掲載はいつもだいたい後ろの方。(これらはしばしば公式でも自虐ネタに使われているようだ) このような状況でありながら打ち切り危機を免れてきたのは、根強いタニマチ(後援者、ファン)の後押し、国技を題材とした作品である社会的評価少年誌作品とは思えない画力構成力、質の高さ、純粋作品としての魅力が高かったからに他ならない。

本題

大相撲編がイマイチ理由の一つとして「異様なほどの性急さ」が挙げられる。これはWJ連載であるりある程度しかたないことかもしれんが・・・

本来であれば、

A★→B→C→D★→E→F→G★ (★は物語の進行上外せない重要な話とする)

と進むべきところが、

★以外のエピソードをすっとばして読者を置いてけぼりにしている感がすごい。 つまりWJ特有事情で話を早くすすめたいがために最低限描かなければ成立しない部分しか描かせてもらっていない印象をうけるのだ。この流れは非常にまずい。なぜならばかつて打ち切られた作品で幾度も幾度も目にしてきた流れだからだ。

高校相撲編ではここらへんが比較的丁寧に描かれていたので余計に異様さが際立つ。

なお、この「すっとばし」はキャラクターにも多大な悪影響を与えている。

一人目は主人公火ノ丸。高校時代までの彼はどこか浮世離れしたつかみどころのないキャラクターでまさに相撲の申し子、ある種神聖視された存在だった。ところが大相撲編では詳細は省くが色々な意味で「人間」にまで「落ちて」しまった。神の化身(横綱)になろうとする者がそこから遠ざかってどうするんだ!?と首を傾げざるを得なかった。(もちろん無垢であること=神性というのが単なる概念にすぎないのは百も承知として)

極論ではあるが、親方に薦められるままにお見合い女性と所帯を持つ方がよほど彼らしかった気がする。それほど色恋には淡白なのが火ノ丸だと思っていた。

彼は一見他人にも自分にも関心があるように見えて実はかなり希薄に思える。かといって他者から本物の好意を向けられれば真摯に応える度量は持ち合わせている。相手によほどの理由がない限り彼は好意に応えようと努力するだろう。とかく恋愛経験値が低い者は猛烈な「押し」には弱いものだ。誰が主人公の心を射止めるかというのは少年漫画面白さの一要素でもある。そういう意味ではあの咲や景子ですらヒロインになりうる一種ワイルドカード的な魅力が無自覚の神性を有していた頃の火ノ丸にはあったように感じる。

さらに言えば、主人公を射止めたヒロイン(レイナ)のキャラが強く立っているにも関わらず、動機付けの弱さ、たまたま近くにいた異性、半ば成り行きのような、描写不十分でさほどの必然性がないように見えたことがとても残念で引っかかるのだ。

いささか潮火ノ丸というキャラクター幻想を抱きすぎた感はあるが、少年期の彼の印象はどうしても強いのだ。

二人目はヒロイン枠のレイナライバルらしいライバル千鶴子くらいのものだったので、これはまぁ順当ともいえるが(ちなみに自分1話での火ノ丸との運命的な出会いからずっと彼をひたむきに愛していた千鶴子推しであった…)、あまりにも性急に距離が急接近したのにはさすがに困惑しかなかった。彼らが後々恋愛関係になることは容易に予想できたし特に異存はない。ただあのような相思相愛関係?に至るまでのプロセスがあまりにお粗末すぎるのでは?何なら高校相撲編のレイナが火ノ丸の相撲魅せられていく名前のつけられないあの純化された感情を抱いた付かず離れずの関係性をもっと見ていたかった・・・

三人目はチヒロ。主人公国宝を脅かすほどの屈指の人気キャラでありながら夢を追うために渡米し実質的な退場となった時は「なんて潔いんだ!!」と感動したものだ。しかし彼は帰ってきた。それは別に良い。問題は特段なんの経緯も語られることなくいきなり彼がシングルファーザーとなっていたことだ。読者は大困惑しかない。あきらかに悪い意味でのサプライズといえる。

他にも数人いるが特に際立って目立つのはこの三人だろう。

実際この漫画きっかけで相撲に興味を持った子供もいると思うが、高校相撲編はともかく自分の子小学生以下なら大相撲編は読ませたいとは思わない。高校相撲編に関しては各種教育関連機関業界団体等(?)からの推薦も十分受けられそうな内容だと思っていただけに遺憾だ。

安易なお色気(下ネタ)、ギャグ、過度な恋愛要素に逃げる作品は総じてレベルが低い。(余談だがお笑いに関しても同様だ)そんなものに頼らなくても十分面白ものこそ本物の面白さなのだ。

火ノ丸相撲は今時珍しく「硬派」な漫画だと思っていたから(大相撲編での品格の落ち方、別方向への舵の切り方に)結構ショックを受けたとは友人の弁。

硬派イメージが強かったのは、高校相撲編までは極力セクシャル描写が避けられてきたからだと思う。

痴漢被害表現

1話満員電車で堀千鶴子痴漢被害に遭うシーンがあるが、彼女はあまりのおぞましさに心底怯えた表情をしている。一見流してしまいそうだが賞賛すべき点がある。痴漢という最低の犯罪行為を決して性的な興奮材料にしていないことだ。他作品には被害女性の顔を紅潮させたり目を潤ませたりといった不適切表現が見受けられるが、火ノ丸相撲はそのようなけしからん作品とは一線を画していた。

②景子の性癖

彼女は優秀な観察眼を持つ記者であることは言うまでもないが、若い男性(とりわけ少年)の裸体や尻に向ける欲望が度を超えておりセクハラまがいの行為が目につく。女性男性であるから流されがちだが本来はあってはならないことだ。ギャグとして笑い飛ばすにはどぎつすぎるし、もはやそういう時流でもない。

レイプ未遂

これは本当に驚いた。①であのような配慮を見せた作者とこれを書いたのは同一人物なのかと目を疑ったほどだ。事のあらましは、意気消沈して部屋に引きこもる火ノ丸をレイナがドアを蹴破り強引に拉致し車でラブホテルへ連れていき、彼の合意を得ないまま性行為を迫るという驚くべきものだ(結果未遂に終わったが)。

たとえ交際していても合意を得ない場合性交渉レイプである。これも女性男性から見過ごしがちだが、この立場を火ノ丸が女性レイナ男性だったとしたらどうだろうか・・・笑えねえよとなるはずだ。さらに悪いことに「成人が飲酒した状態未成年性交強制する」構図なのだ。これはオチウこわぁいどころの騒ぎではない!マジでどうしたんだ川田先生!いよいよウェンカムイに取り憑かれたか?(??)

主人公の魅力度が落ちた作品はその人気も下降の一途をたどるのはいうまでもない。高校相撲編での火ノ丸は他を寄せ付けない魅力があった。あの輝ける国宝たちの中にあってもだ。大相撲編になってからあきらかに精細を欠いている。主人公陣営(メインサイド)の話よりも童子切草薙大包平三日月等の敵陣営の話の方に興味を引きつけられるほどに。むしろそちら側メインの話を読みたくなるというのは相当問題に思える。

火ノ丸はまごうことな平成終盤生まれ平成の子だ。しかし彼の中に古き良き?昭和スポ根漫画主人公を見ていたのは自分だけではないはずだ。

不幸(両親を若くして亡くしており裕福ではない環境)、逆境(あまりにも小柄な体躯)、自己実現能力(自らを厳しく律し、徹底的に稽古で肉体を痛めつける)、黒電話携帯を持たない、機械音痴時代がかった物言い兄貴肌、相撲のことしか頭にない、私生活が見えないなどいかにも昭和ヒーロー感(?)満載である

潮火ノ丸の中に矢吹丈のような壮絶な最期を遂げる姿を夢見ていたのかもしれない・・・モブも言っていた「鬼丸ハッピーエンドが見えない」。決してハピエンが悪いわけじゃないしそちらの方が良いに決まってる・・・が、いかにもな予定調和エンドだけは勘弁してほしい。

ハピエンではなくとも「あしたのジョー」は不朽の名作だ。主人公最期勝利し真っ白に燃え尽きて生死すらどうなったかからないなんてこれ以上ハートが震えて痺れるラストがあるだろうか?ヒーローが完全に浄化され何者にも貶められない最上級存在になった瞬間だと思う。

取組を殺し合い、命のやり取りとまで作中で表現しているならそれくらいの危うさがあってもいい。昨今の少年誌では厳しいかもしれんが。

第1部を第2部以降がクオリティで上回る作品はほぼない。あってもごくまれである。(ちなみに続編が悉く期待外れだった作品としては東〇喰〇等が挙げられる。続編の一報を聞いた時は飛び上がるほどうれしかったものだが、完成度の高い前作とどうしても比べてしまい、しだいに期待は失望へとかわっていった。)少なくとも火ノ丸相撲に限ってはそうはなるまいと思っていたのだが・・・

WJの数多くの縛りや規制大人の事情に阻まれ駄作になるくらいならいっそしかるべき媒体アプリ、あるいはヤンジャンなど)に移籍してのびのび描いてほしい。青年誌の方が表現の幅が広がるだろうし。もし角界の諸問題(暴力八百長パワハラモラハラセクハラ等)の闇の部分に切り込んだりする気があるのならばなおさらだ。

高校相撲編のような神々しいまでの輝きを取り戻すことはもうないのかもしれない。それでも自分火ノ丸相撲という稀有作品に魅せられた一読者して、最終話まで見届けたいと思う。

総括

長々とかいてきてアレだが、要約すると

『あまり余計なことにページ数を割かずに相撲をじっくり見せてほしい。タイトルにおこがましくも相撲を冠してるんだからそれに恥じない内容にしてくれ!相撲で堂々と勝負せんかい!』

・・・だろうか。

2019-04-13

世界終末時計の針がカチリと音をたてて進むとき

私たちは固唾をのんで次の瞬間を待ち受ける。

ヒーローチームが針を戻すと、ブーイングが巻き起こる。

2019-04-12

ディズニーDXでアイアンマン2観るけど

最高の財力と知力と戦闘力を備えたヒーロー主人公のこの映画

果たして俺は感情移入できるのだろうか

2019-04-11

[]キャプテン・マーベル

キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ

総評

ほどよく100点。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。

MCU(マーベルヒーロー映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。

ゆえに以上で感想終了である

ヒーロー内面資格

というわけで、ここからさきは感想じゃなくて感想風になる。

キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点から全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。

でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃん言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。

いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。

ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者ヒーロー感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。

アイアンマンキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面孤独や、大切な人を失ってしま絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローヒーローでありつつ僕らと同レベル人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。

マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品性質上、ヒーロー専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。

その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係コンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。

そういう内面的な危機を乗り越えた「から精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。

言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。

この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。

この構造において、ヒーロー内面的な資格は「不幸とその超克」だ。

でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。

ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。

主人公キャロルダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女内面悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。

リー指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。

映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女内面的な意味ヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画破綻してないしちゃんドライブされている。

これってどういうことなのか? 内面葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーロー資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?

結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロルダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。

この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。

作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代記憶としてカートレース事故にあう。子供野球三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。

そして彼女はなんだかんだ人生につきもの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロットエリート象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。

その実験部隊トラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディローソン博士を助けるために飛行任務立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。

その実験部隊で同僚でもありキャロル親友黒人女性パイロットマリアランボーセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロット立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友主人公を思い返した言葉だ。

この立候補ときキャロルスーパーヒーロー能力を持たない普通地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである

能力のみならず、内面危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきもの特別悲劇経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷帝国に焼き尽くされたりしていない。

この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。

まりカートレース事故から負けん気で立ち上がったとき子供野球三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロルダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーロー資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルヒーロー能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのもの子供時代と変わらない。

あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。

それはつまり主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇喪失必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。

これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマ構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。

そのチャレンジがとても良かった。

ハリウッドアメリカロールモデル

アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さら子供ターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要ポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。

日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカアイアンマンがいる。

人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。

近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。

アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。

MCUにおける二大ヒーローキャプテン・アメリカアイアンマンは「能力を持つもの社会貢献」をめぐる物語対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。

その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。

困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇から、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。

主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰位置すると思うのだけど、政府超人兵士計画で生まれキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長発明家大富豪ちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。

その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。

2019-04-10

anond:20190410093945

その本物と偽物の境界とやらは紙一重だってことよ。まあ、致命的に論文パクリ認識が甘いのはどうしようもないが、じゃあ、論文パクリ認識が強ければそれで本物になれるか?と言えば否でしょ?

まあ、ヒーローとやらを求められている大人たちにパンダにされたというのはそうだろう。

小保方についてはだいぶ偽装が入っているか真実を断定するのは難しいが、細胞死の際になにかしら特異な現象が起きたのは間違いないだろう。それは別のアメリカでの試験でも確かめられているし。

そして、金なんざ悪いけど「素人にもすごいとわかるような」テーマじゃないと求められてないのはわかる。それでいて失敗は許されない。

細胞死の際に起きる現象がiPSに何か似ていて、「多能性を持つかもしれない」と考えたのかもしれない。本当ならすごかったし、まあ、金はとれたと、、、、。

実際は多能性まではいかなかった。

ならば細胞死の際に起きる別の現象を突き詰めていったらどうだったのか?多能性を持つとしてのSTAP細胞ではなく別の役立つ用途は見えたんじゃないかというのはあるね。

UPQ中澤も似たようなものでしょ。

どれか一つについてきっちり自分が関連する知識をつけて品質管理から全部やれば、その商品についての立ち位置をきちんと磨けたかもしれない。

結局商品が売れて利益が出ればそれで成功した社長様だ。その前に何でもかんでもあれだけ商品を出すのとか無理だわ。

そりゃ、「英雄様」になろうという人間なんか少ない。だって死ぬもんね。まあ、英雄様の卵なんてマグロ稚魚みたいなもんだとは思うわ。マグロ稚魚って素手で触ったらそれだけで死ぬんよ?成長したら何百kgという大物になるけどな。

から英雄様を増やそう」と「英雄になりかけのマグロ稚魚」に「パンダ」になってくれるように周りの大人たちは仕向ける。

ただ、まさに「腐ってやがる。早すぎたんだ」と、腐り落ちた巨神兵彼女はなってしまった。

でも本当に英雄様が現れないから、次々巨神兵の卵を産みだして、腐り落ちた巨神兵を量産する。若い奴はそれを見てるからますます英雄様」にはならない。うん。

英雄様」にも「巨神兵」にも「マグロ」にもならず、普通に暮らして、飯に困らず、一人ぐらい信頼できる人がいて、子供に囲まれ老衰死ぬほうがはるか幸せだね。

2019-04-09

anond:20190408230305

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います

けもフレ2における、人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

リョコウバトとトキ比較ですが、けもフレ1のトキ場合絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。

イルカアシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。

ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間動物関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカアシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。

イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。

詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。

マーベルやDC映画場合叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利ギミックビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。

結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思いますフレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。

けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます

そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。

「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラ面白いドラマを作ること」くらいの意味です。

けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。

そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。

まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます

それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。

思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランス問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。

優先すべきものイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。

キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語ドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。

さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラキャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います

キュルルが落っこちた回でニコ動アンケートちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。

しろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。

長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。

ただ、「スケッチブック最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。

イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。

作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメセオリーと呼ばれるものです。

けもフレ2の一般的評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。

もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリー無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

anond:20190408152438

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。

おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間フレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。

イルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える

元々の話は、人間動物ねじ曲げてしまたことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。

余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います

キュルルが、イエイヌ孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。

私なら、最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。

何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います

サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。

あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。

内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。

念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。

他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。

続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思いますけもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います

その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶ケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。

キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要がありますベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばちゃんミライフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。

ワカバ場合ワカバリン関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか姉妹達とはなんだったのか、という、キャラ動機起源世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います

そして「”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。

細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出脚本が失敗しているわけです。

初見ではわからいかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。

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