はてなキーワード: 1982年とは
クインシー・ジョーンズは、音楽史において最も影響力のあるプロデューサーや作曲家の一人です。以下は彼が関わった代表的な10曲です:
1. 「スリラー」マイケル・ジャクソン - 1982年のアルバム『スリラー』のタイトル曲で、ポップ、ロック、ファンクを融合させた曲です。このアルバムは史上最高の売り上げを記録し、ジョーンズのプロデュースが際立っています。
2. 「ウィ・アー・ザ・ワールド」USAフォー・アフリカ - 1985年にマイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーと共に制作したチャリティソングで、アフリカの飢饉救済のために多くの有名アーティストが参加し、世界的な団結の象徴となりました。
3. 「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」ジョージ・ベンソン - 1980年に発表されたこの曲は、ジョーンズの滑らかなプロデュースが光り、ベンソンにとってジャズとポップを融合させた代表的な作品です。
4. 「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」フランク・シナトラ - 1964年にジョーンズがアレンジを担当したこの名曲は、シナトラのキャリアを象徴するジャズのスタンダードとなりました。
5. 「ソウル・ボサ・ノヴァ」クインシー・ジョーンズ - 1962年のインストゥルメンタル曲で、映画『オースティン・パワーズ』で使用され、ジャンルを超えたジョーンズの創造力が示されています。
6. 「イッツ・マイ・パーティ」レスリー・ゴア - 1963年のこのヒット曲はジョーンズが手掛けた初期の代表作であり、彼のポッププロデューサーとしての名声を確立しました。
7. 「オフ・ザ・ウォール」マイケル・ジャクソン - 1979年にリリースされたアルバムで、ファンクやディスコ、ポップを見事に融合し、ジャクソンをスーパースターへと押し上げた一曲です。
8. 「スタッフ・ライク・ザット」アシュフォード&シンプソン、チャカ・カーン - 1978年のアルバム『サウンズ・アンド・スタッフ・ライク・ザット!!』に収録され、ファンク、ジャズ、R&Bを融合させたジョーンズらしい楽曲です。
9. 「P.Y.T. (プリティ・ヤング・シング)」マイケル・ジャクソン - 『スリラー』収録のこの曲もファンキーな曲調で、ジョーンズの緻密なプロデュースが光ります。
10. 「アイアンサイドのテーマ」クインシー・ジョーンズ - 1967年のTV番組「アイアンサイド」のテーマ曲で、特徴的なサイレン音と迫力あるホーンセクションが印象的です。
ジョーンズの影響はジャンルや世代を超えており、彼の代表作はポップ、ジャズ、R&Bといった音楽を形作る一端となっています。それぞれの曲が、彼の独自の音楽スタイルとトップアーティストとの協力を表しています。
試合の内容の是非というよりは、後世に残した影響の強さを重視して選出しました。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』でもお馴染みだが「プロレスとは何か」を深淵の底に落とした試合である。この試合の真実に関しては諸説あるが、ともかく力道山が木村をシュートで潰したことは単純に眼前の事実である。「プロレスとは八百長ではなかったのか?」日本プロレス史における「プロレスとは何か」という問いへの解答がこの一戦で全て分からなくなってしまい、今もその謎が解けたとは言い難い。また、当時のプロレス界は柔道出身が多かったものの、木村がこのような形で潰されたため、もし木村が勝っていたら今のプロレス界は柔道の系譜がもっと強くなってまるで違う別物に変わっていた可能性が高い。当時の日本の強さの象徴といえば柔道であり、その柔道をプロレスが上回ったのだから当時の衝撃たるや、である。少なくとも逆水平チョップという技がこれほどスタンダードな技として使われる(アメリカなどはナックルが主流)のは間違いなく力道山の影響だろう。
言わずとしれた世紀の凡戦であるが「猪木・アリ状態」が発生しただけでこの試合は人類史に残す価値のある試合である。この辺はあらかた語り尽くされているので多くは書かない。また、試合を実現させる猪木マジックとも呼ぶべき「巻き込み力」はエネルギッシュだった昭和の世相を反映していると言えよう。
初代のタイガーマスクがデビューした試合で、今見ても全く色褪せない。漫画のキャラクターが実現するメディアミックスという手法も新しかったが、マスクを被った佐山の才能は20年ほど時代を先取りしていた。四次元殺法とも評されたその戦いぶりは軽量級レスラーに偉大な影響を残した。
選手としてはピークを過ぎて会社内での立場も危うくなってきた馬場が、自身のレスラー生命の生き残りを懸けて行われた一戦。ハンセンはこの当時、選手として全盛期であったため馬場は殺されてしまうのではとさえ言われていたが、試合開始直後に放った16文キックがクリーンヒットし、会場の空気が一気に馬場一色となった。この試合は引き分けという不透明決着に終わるも、馬場はその人気再沸騰で会社内でのイニシアチブを取り戻すこととなる。レスラーはリング上でこそ輝きを取り戻すという、レスラーの原点を示した一戦。個人的には倒れているハンセンの左腕をガッツリ踏み潰すキラー馬場が滲み出た瞬間が一番アツい。
公私ともに何もかも上手くいかず、自暴自棄になっていた時期の猪木が行った一戦(元々の発案者は藤波であったとも言われているが、なぜか猪木がやることに)。猪木と巌流島に立てられたリング上で時間無制限、ノールール、レフェリー無し、無観客試合という前代未聞の試合に付き合えるのはマサ斎藤くらいしかいなかった。後年、この試合を振り返るマサ斎藤のインタビューがあるのでこちらも読んで欲しい(https://number.bunshun.jp/articles/-/842688)。試合は2時間を過ぎたところでマサ斎藤が裸絞めで失神し、猪木が勝利した。観客を排して一切のしがらみを捨て、レスラーが純粋に二人のためだけに試合をしたらどうなるのか、という後年でも見られない極めて前衛的な試合になったと言える。
プロレスを守るためにプロレスをした武藤と、プロレスを強くするためにシューティングをした高田の一騎打ち。新日本とUWFインターの対抗戦として行われたこの興行のメインイベントは、新日本4勝、UWFインター3勝で迎えられた。高田としてはこの試合に勝てば4勝4敗で終われるが、この試合に武藤の保持するIWGP王座がかかっていたため、4勝4敗でもベルトが動いた分UWFの方が上を取れるという状況であった。お互いのスタイルをお互いが貫き合い、武藤の持つドラゴンスクリューという極めてプロレス的な技が、高田の多用するキックへのカウンターとして機能することが勝敗を分けた。最後も足4の字固めというプロレスを代表する固め技で武藤がギブアップを奪った。戦いのスタイルが全く違っても、そのスタイルを両者がいかに主張できるかで試合は面白くなる、ということを示した貴重な一戦。
橋本の1勝3敗で背水の陣を敷くべく「負けたら即引退」を掲げて小川へのリベンジを臨んだ一戦。この二人のシングルマッチで一番面白いのはやはりこの5戦目である。橋本はジャンピングエルボーを炸裂させて小川の肩を脱臼させるも、その後の三角絞めで腕を取った際に外れた肩を偶然嵌めてしまうという珍事も小川に味方し、最終的には小川がSTOの連発で橋本をKOした。完敗した橋本は本当に引退するも、折り鶴兄弟(詳細は省略)の助力もあり復帰。最終的には小川とタッグチームを組み、親友となった。戦いの末に友情が生まれるというジャンプ漫画でありそうな展開は現実でも起こるという、プロレスにフェイク無しを魅せつけた一戦。
既に引退していた長州をなぜか大仁田がストーキングとも言える言動を繰り返すことで呼び戻すことに結果的に成功し、大仁田のお家芸である電流爆破デスマッチが実現した。プロレスは「ネバー・セイ・ネバー」(絶対に無いということは絶対に無い)という矛盾を孕んだ言葉のまやかしを大仁田の執念が証明してみせた一戦。試合は長州の勝利。なお、この大仁田が長州へしつこく対戦を要求する様子は当時のプロレス番組で放映されており、それをレポートする真鍋アナウンサーとのやり取りも「大仁田劇場」として注目された。最初は大仁田からの理不尽な扱いに「サラリーマンって大変だなぁ」とファンに同情されていたほどだったが、最終的に真鍋は大仁田へ「電流爆破、見たいです!」と直言するまで成長し、この試合の実況も大仁田に傾倒する内容で行った。
2000年はプロレス界激動の年だった。6月に全日本プロレスから選手がクーデター同然に大量離脱し、残った選手は川田利明と渕正信の2名だけとなった。全日本はなんとかして起死回生を図らなければならず、鎖国状態にあった同じ老舗団体である新日本プロレスとの交流に活路を見出した。8月11日、渕がスーツ姿で新日本のリングへ上がり「(鎖国状態にあった)壁をぶち破りに来ました」と話し、新日本の現場監督である長州力と固い握手を交わしたところへ抗議しに現れたのが蝶野だった。乱闘をしかけようと興奮する蝶野だったが、渕は冷静に受け流し、蝶野が落とした帽子を「蝶野、忘れ物だ!」と帰ろうとする蝶野へ投げつけるシーンが完全にプロレスファンの心を掴んだ。これを受けて行われたのが全日本のリングでの二人のシングルマッチである。結果は蝶野の勝利であったが、全盛期をとうに過ぎた渕が堂々とした態度とマイクで第一線を張ったおかげで全日本は辛うじて生き残ることができた。いつ誰がどんな形で主役を張らなければならないかは分からない、運命の数奇というものがプロレスにはあり、渕は突如訪れたその大役を果たすことができたから今も全日本という団体は存続している。
一方、全日本プロレスを大量離脱した選手たちによって旗揚げされたプロレスリング・ノアは、旗揚げして1年足らずで日本テレビの中継がつき、ほどなくして日本武道館興行が行われるなど、ハッキリ言って順風満帆だった。試合のクオリティも高く、当時の2ch・プロレス板で「ノアだけはガチ」というフレーズも生まれた。この試合で三沢は小橋を花道から場外マットへタイガースープレックスで投げ飛ばすという荒業を敢行。実況していたアナウンサーが「死んでしまう!」と絶叫した。しかし最後は小橋がバーニングハンマーを繰り出して逆転勝利。ベルトの価値、そして団体の価値というものをどうやって高めるのか、を方舟に乗ったレスラーが探し求めて辿り着いたのがこの試合である。純プロ路線でありながらその究極系を突き詰めた結果という意味において、選出すべき試合であることは間違いない。
以下、選外
この当時、最も権威のあったNWAヘビー級ベルトを日本人で初めて戴冠した試合。
全日本プロレスで開催されたこの年の最強タッグリーグ戦の優勝決定戦で、ブロディの親友であるハンセンがセコンドに帯同。場外戦にもつれ込んだ際、ハンセンが試合にラリアートで介入し、ブロディ、スヌーカー組の優勝をアシストした。この暴挙に馬場が怒り狂い、試合終了後にハンセンと乱闘を繰り広げ、前述のシングルマッチへ発展する。
故意か事故か、川田が三沢に対して垂直落下式パワーボム(通称:三冠ボム)を敢行した試合。勝利した川田だったが、試合中に実は腕を骨折しており全治3ヶ月となった。
ハヤブサ(FMW)、新崎人生(みちのくプロレス)というインディー団体のレスラーでもメジャー団体のベルトを巻けることを証明した試合。この当時のインディー団体の立ち位置は非常に弱いもので、これを覆すのは至難の業だった。この両名はインディー団体の中でも頭2つ抜き出た存在で、全日本プロレスの至宝を獲得することに成功した。なお、このコンビは米マット界でも活躍しており、日本を代表するタッグチームと呼んで良い。
犬猿の仲となり、顔を合わせるのもNGであった二人のシングルマッチが、みちのくプロレス創立10周年という大舞台で実現。ホーム戦であったサスケが敗れ、試合後のマイクで弱音を吐いたところ、客席より「みちのくプロレス50年化計画はどうなるんだ!」という野次に勇気づけられ、顔を上げたサスケは「みちのくプロレスは永久に不滅です!」と改めて宣言した。客もまたプロレスを作り上げる1人であることを明示した試合である。
デスマッチの「やれるところまでやる」をやり切った試合。頭の中に引退がチラついていた葛西が後楽園ホールのバルコニー席からテーブルダイブ攻撃を浴びせるなど、デスマッチの限界を攻めた試合となった。30分1本勝負のところを29分45秒で葛西が勝利し、この年の週刊プロレス大賞ベストバウトを受賞した(デスマッチが受賞するのは極めて珍しい)。試合後のインタビューで葛西は現役続行を宣言したことから、デスマッチというジャンルにおいて次の時代への扉を開けたワンマッチであったと言えよう。
今もなお語り継がれる衝撃映像のアレだが、そもそも試合ではないことと、別に重要ではないため選外。
10選じゃなくて10戦にすればよかったなぁ。でも検索に引っかかりにくくなるからいいか。
・全日本プロレス軽視では?
⇒そういうつもりもなかったが、全日本は良くも悪くもプロレスというものを護ろうとして頑張っていた保守団体なので、地道な積み重ねをしていて変革が起きる瞬間というのが限られていたので仕方ない。逆に全日本があったから新日本はハチャメチャでも許されたのだと思ってるし、ハチャメチャし過ぎた結果、何度も会社ごとハチャメチャになりかけていた点をプロレスファンは忘れていない。選外には全日本が多いのでご容赦を。
⇒自分が最近の試合を追いきれていないのもあるが、どちらかといえば後年振り返ってみて「アレがあったからだよなぁ……」と思わされる要素があるかどうかで選出した。タイガーマスクがいなければ今のジュニア戦線はヘビーの焼き直しかルチャのマネごとレベルになっていた可能性もあるし、渕があそこで全日本を崖っぷちで踏みとどまらせたから後々の団体交流戦の活性化が生まれたのだと思う。歴史を紐解いた時に外せないかどうか、って感じ。例えば「猪木vsホーガン」みたいな試合は事件としてはとてつもなく大きなものだけど、じゃあアレが後年に何か影響を与えたかって言ったら、そういう種類の話ではないので。
・総合格闘技戦について
⇒自分も桜庭和志には胸熱した世代ではあるものの、さすがにPRIDEリングでの試合を選出するのは違うだろうと思った。そもそもアレは総合格闘技という競技をたまたまプロレスラーと柔術家がやっていただけである。桜庭が勝ったのはもちろん嬉しかったが「プロレスラーは強いんです」と言われたのは複雑で正直、気持ちとしては受け入れ難かった。それは桜庭個人が総合格闘技という競技に向かい合って努力した結果であって、プロレスラーというものに一般化してしまうのは危険なのでは……と思っていたら翌年、普通に永田がミルコに負けていた。
・女子プロレスは?
⇒女子は女子で深いジャンルなので、もうそこまで踏み込んじゃうと10選じゃ足りなくなるので恐くなって考えるのを止めました。そもそも女子はそこまで詳しくないので。というわけで、これを見ている増田! 書かないのか!? 今しかないぞ、俺達がやるのは!
・信彦じゃなくて延彦な
正直すまんかった、正直ポカした。
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日本最古の漫画とされる文字通りの国宝。800年この宝を守り残してくれた高山寺に感謝しよう。
果たして現代の漫画の原画は800年後も無事に守り伝えられているであろうか?
手塚治虫の長編デビュー作。諸説あるものの当時にして40万部を売り上げたとされる革命的な作品。
この漫画に衝撃を受け、多くの若者が漫画家の道を志したとされ、藤子不二雄などもその偉大さを強く伝えている。
酒井七馬との共作であったため、それに伴うトラブル等からその出来を手塚自身は認めていなかったとされ長らく封印されており、完全に書き直したバージョンも存在する。現在ではオリジナル版が復刊され電子書籍でも手頃な価格で読める。これはよほど状態の良い初版から丁寧におこしたらしく非常に鮮明な素晴らしい出来だぞ。
(ただオリジナル版は印刷の都合上、手塚の絵を職人が手でトレースして出版したものらしいので筆使いみたいなものを論じる意味はないぞ)
手塚はここから本格的に出発し、約40年間で15万ページの漫画を書いたという。
手塚治虫やトキワ壮グループのカウンターになるようなシリアスな表現を極めていく劇画の礎となり、漫画表現の幅を大きく広げる道を作った。
当時の劇画としては、白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」が傑作として名高く今読んでも抜群に面白いが、パイオニアとしての黒い吹雪の地位は揺るがない。
劇画黎明期の様子は、同じく辰巳が晩年に描いた「劇画漂流」という漫画に詳しい。
また辰巳は海外での評価が非常に高く、例えば「黒い吹雪」もWikipediaに日本語版はないのに英語版は存在している。
劇画といえば手塚との対立が面白おかしく語られがちだが、劇画の始祖辰巳は中学生の時から手塚の自宅に出入りし、終生手塚を敬愛して二人でフランスを訪れたりもしていたことは覚えておいてくれよな。
藤子不二雄が、おばけのQ太郎に始まり、手塚治虫とはまた違う新しい読者層を開拓していった活動の頂点に位置する作品。短編と大長編を合わせて膨大な作品群を形成し、その影響は漫画界よりもその外部に大きく広がり、多くの人の人生や、現代に溢れるkawaiiキャラクターものにまで現在進行形で強く力を与え続けている。
いまだにアジアで愛され続けるそのレガシーの大きさはとても一言では表せないが多くを語る必要はないだろう。
旧来の少女漫画が描いていたステレオタイプを打破する作品を矢継ぎ早に発表した萩尾望都の出世作。
少女漫画誌に次々と新しい手法で圧倒的な画力と文学性を持ち込み、後の多様性の形成の礎となった。
世界の中で少女漫画市場が現在でもきちんと維持されているのは日本だけであるとされるが、その中興を成した作品の一つである。
萩尾望都は花の24年組というくくりで呼ばれることが多いが、近年出版した自伝で当時のトラブルを語り、萩尾先生自身はこの名称には肯定的ではないようなので、令和の漫画読み諸氏はアップデートしていこうぜ。
立体感と漫画らしさを融合させた絵作りで後世に多大な影響を与えた鳥山明の出世作。
第一話の扉絵を見ただけで、当時別次元の漫画であったことが分かると思う(ジャンプ+で今すぐ読めるぞ)。
鳥山明の登場は手塚以降で最も衝撃的であったという事はプロアマ問わず多くのものが口を揃えて語っている。
鳥山明においては、Dr. スランプとドラゴンボールどちらを選ぶのか好みが真っ二つに分かれるところであろうが、世界的な評価やバトル漫画への影響を重視する人は遠慮なくドラゴンボールに入れ替えてくだされ。筆者も個人的にはドラゴンボールに思い入れがある。
鳥山明に並び、並外れた表現力で後の漫画界のレベルを一気に引き上げた大友克洋の代表作。
フランスに生まれたメビウスという天才漫画家の開拓した表現が大友を通して日本の漫画界に合流し発展することにもなった。
後に大友が連載する「AKIRA」においては連載途中に、作者自身が監督として超一流のアニメーターを集め、巨額の予算をかけ同名のアニメ映画を作り、そちらも歴史に残る大傑作になったのはご存知の通りである。
ちなみに大友がAKIRAに書いた最後の最後の言葉はなんだったか知ってるかな?答えは、『そして、手塚治虫先生に…』だったんだぜ。
現在、大友作品は、電子書籍版が出版されず現代の若者に対しての間口が狭いのが少し残念であるが紙で読んでくれということなのだと思う。
独自の出自を持つ作品であり、日本一のアニメーション監督が全盛期に描いた本気のファンタジー漫画として、ナウシカの前にナウシカなし、ナウシカの後にナウシカなしという唯一無二の完成度の高い作品。
途中に「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」の映画制作を挟み、全59回の連載を15年かけて終わらせた。時間を節約するため連載第2回目からしばらくはペン入れをせず、鉛筆で仕上げた原稿を掲載したことは語り草となっているが、画力が限界突破しているので読んでも違いに気付かないぞ。
100年後も古典として読み継がれているのはこの作品ではあるまいかと思わせる風格を漂わせている。
連載当初はダイヤの原石であったが、6年間の執筆の中で画力、構成力の凄まじい向上を見せ、人気絶頂のまま連載終了した伝説の作品。
従前から繰り返された「天才」たちの活躍という題材ではあるが、漫画表現のリアリティという点で飛躍的な進歩を示してみせた。
大きな流れで見ると、手塚治虫が平成元年、すなわち1989年、60歳でその生涯を閉じた翌年に、時代を大きく動かすこの大傑作が連載開始した形であり、新しい元号とともにさらに大きく発展を遂げていく漫画新時代の象徴となる作品となる。
東アジアでの人気は凄まじく、アニメ版の聖地巡礼で鎌倉を訪れるものも未だ後を絶たない。
突然変異的に登場し、それまでの漫画の常識を覆した2000年以降最大の問題作。
少年漫画が天下一武道会以降繰り返してきた自己模倣を打ち破り、新たな可能性を存分に示した。
この漫画は終わらないだろうという世間の心配をよそに、諫山は数々の伏線を回収しつつ、一度も休載せず堂々と完結まで導いた。そういった点でも未完のまま停滞した名作たちが越えられなかった壁を打ち破り、その名声を比類なきものにした。
実は諫山は福岡の専門学校のマンガ学科出身であることをご存知だろうか?その授業の一環として、生徒が東京の出版社に持ち込み旅行をするという企画があり、19歳の諫山がいくつかの出版社を周った際に、講談社で当時新入社員の川窪慎太郎に進撃の巨人の原案を見せたことが巨人の物語を始めたとされる。
少年ジャンプはなぜ進撃の巨人を逃したのかという点ばかりセンセーショナルに語られがちだが、社会人生活4ヶ月目にして諫山の才能を見抜いた川窪の目には一点の曇りもなかったことをただ賞賛すべきだろう。
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ジャンプ( https://anond.hatelabo.jp/20241012181121 )と
スピリッツ( https://anond.hatelabo.jp/20241014232424 )で
やってくれたなら、同じ月曜発売の週刊漫画誌、講談社のヤングマガジンでも挙げてみたいじゃあないですか。でも、5には収まらなかったので10作品
一作者一作品、ヤンマガ内でよりも、他に与えた影響の大きさを考慮
増刊連載作品だが、1993年時点でフルダイブ型VRMMORPGを活写した「ライトニング・ブリゲイド」の先駆性も見逃せない
【追記】
攻殻機動隊は1巻こそ増刊連載だけど、1.5と2には本誌連載部分があるので、本誌に掲載されたこともある、という事で許して欲しい。
あと、ヤンマガはギャグ作品も特異だったり良いのが多いのは確かなんだけど、後進に影響を与えたか、と言われると微妙なんだよね
上に挙げてないのだと
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
タイトル | 掲載誌 | 巻数 | 刊行期間 |
---|---|---|---|
キャプテン翼 | 少年ジャンプ | 全37巻 | 1982年〜1989年 |
キャプテン翼 ワールドユース編 | 少年ジャンプ | 全18巻 | 1994年〜1997年 |
キャプテン翼 ROAD TO 2002 | ヤングジャンプ | 全15巻 | 2001年〜2004年 |
キャプテン翼 GOLDEN-23 | ヤングジャンプ | 全12巻 | 2006年〜2008年 |
キャプテン翼 海外激闘編 IN CALCIO | ヤングジャンプ | 全2巻 | 2010年 |
キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA | ヤングジャンプ | 全6巻 | 2010年〜2012年 |
キャプテン翼 ライジングサン | グランドジャンプ | 全20巻 | 2014年〜2024年 |
キャプテン翼 ライジングサン FINALS | キャプテン翼WORLD | 2024年〜 |
2024年9月15日 YOUTUBEチャンネル 『令和の虎CHANNEL』主宰などを務める、株式会社MONOLITH Japan代表取締役 岩井良明氏が死去した。
彼のことを高く評価する向きもあるようだが、私は彼に対して否定的な評価を有している。
今回、彼の死去を機に、岩井良明氏が団長を務めていた同志社大学応援団でおきたリンチ事件について書こうと思う。
※お断り。岩井良明氏は死去しており、死者に対する名誉毀損は「虚偽の事実を摘示した場合」にのみ刑事上処罰されます。また、民事上も概ね同様です。よって、本記事が名誉毀損等にあたることはないものと考えています。死去により、生存する人物としての保護の対象ではなくなり、歴史上の批判にさらされることになることをご理解ください。
まず、問題の「同志社大学応援団のリンチ事件」とはどのようなものであるか、当時の新聞記事(1982年5月23日朝日新聞朝刊)では以下のように報道されている。
『同志社大学(松山義則学長)の応援団で、新入生が団員にしごきの「リンチ」を加えられて全身打撲の大けがを負ったことが22日明るみに出た。大学側は事態を重視して同日、応援団と同部に所属する吹奏楽部の対外活動を禁止するとともに団関係者から事情聴取を進めている。
大学側の調べによると、20日夜から21日未明にかけて、京都市上京区烏丸上立売下ルの同大大学会館別館(学生会館)の応援団部室で、商学部に今春入学した団員の一年生A君(18)に対し応援団の二年生部員五人が「応援方法を指導する」と言って、殴るけるなどの乱暴を加えた。A君は21日朝、自分で近くにある同大学の厚生館診療所に行き治療を受けた。全身に打撲傷を負っていたため、不審に思った医師が尋ね「リンチ」がわかった。事態に驚いた大学側はA君をタクシーで下宿へ送る一方、応援団関係者から事情を聴くとともに29、30日に西京極球場で予定されている伝統の対立命館大戦にも応援団を出場させない方針を決めた。新発足した関西学生野球リーグで同大にとっては二位をかけた大事な試合。
27日夜には京都の繁華街・四条河原町に同志社、立命館の両大学の学生がそろって繰り出し、応援団が主役を演じる恒例の「同立前夜祭」が行なわれる予定だったが、これも中止される見通しになった。
同大学応援団は一般学生の応援の指導をするリーダー部と、伴奏の器楽演奏をする吹奏楽部に分かれており、団員は百人を超える。大学側はこの不祥事で、リーダー部だけでなく吹奏楽部の自粛を決定。これに伴い同吹奏楽部は22日京都市・岡崎で開かれた京都府内八大学の合同演奏会への参加を辞退した。
同応援団は数年前にも暴力事件を起こし、大学側から団の活動を二年間に渡って禁止されたことがある。
同志社大野球部OBの一人は「伝統の同立戦を控え、立派な応援ぶりを期待していたのだが…。勇ましいのは結構だが行き過ぎは困る」と残念がっていた。』
これに対して、岩井氏はブロク(2006年に掲載した記事、現在は削除)で、リンチ事件は実在しない。リンチ被害者の狂言である、自分の背中を自分で叩いたのだ、と主張している。
令和の虎CHANNELにおいても「冤罪」などと述べている。
これについて
・まず、当時の新聞記事からわかるように、被害者とされる人物が何者かからリンチを受けたというのは「医師の診断」により発覚し、同志社大学側が把握したとされている。
医師が全身の傷を検査し、加害による負傷に間違いないと診断したのである。そこに疑いの余地はない。
・岩井氏はブログで「あれほど暴力はあかんって言い続けて来たのに。」と述べている。しかし、岩井氏のブログでは、自身が下級生時代先輩団員から暴力を受ける様子が克明に記録されている。例えば、1981年の出来事として「その後、我々三回生はリーダー部長にどつかれ、二回生は三回生にどつかれ、一回生は二回生に半殺しにあった。」との記述がある(2006-11-24岩井氏ブログ記事)。暴力、しかも「半殺し」が横行していた応援団で「暴力はあかんって言い続けて来た」というのは無理がある。
・当の応援団自身が、リンチ事件の存在を歴史上の事実として認めている。同志社大学応援団は現在は復活して存在するが「リンチ事件は存在した、二度と発生させない」という見解を有しており、代々悪しき事例として語り継いでいる(同団ではこれを「継承」と呼んでいる。)。(なお、私が応援団に関わっていた当時、岩井氏が「同志社大学応援団の総監督に就任したい」との意向を有しており、他のOBらがそれを阻止していた、という話を見聞きしたことがある。)
これらの事実にも関わらず、岩井氏は結局最後までリンチの事実を認めることなく、被害者を貶めて来たのだと評価せざるを得ない。
岩井氏自身がリンチの実行行為に関与していないとしても、応援団の最高責任者として監督責任を有していたことは明らかであり、責任があるはずである。にもかかわらず稚拙な論理で冤罪を主張し、死ぬまで事実を認めなかったのは、残念である。
ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ / ジョン・アダムズ / 東京都交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=wFYCISMlqfI
現代最高の作曲家の一人 ジョン・アダムズ が都響 を、すなわち日本のオーケストラを初めて指揮した歴史的公演より、彼の代表作として絶大な人気を誇る《ハルモニーレーレ》を 特別配信!当時の感動と興奮が色鮮やかに蘇ります。
指揮/ジョン・アダムズ
アメリカ合衆国が生んだ現代最高の作曲家の一人であり、指揮者としても活躍する。東海岸はニューイングランド地方で生まれ育ち、ハーヴァード大学卒業後に本拠地を西海岸のサンフランシスコに移す。そして1982年にサンフランシスコ交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンスに任命されると、《ハルモニウム》(1981)、《ハルモニーレーレ(和声学)》(1985)など斬新で華麗な管弦楽曲を次々と発表し、以来マイケル・ティルソン・トーマス、サイモン・ラトル、ケント・ナガノ、エサ=ペッカ・サロネン、アラン・ギルバートら著名指揮者がこぞって取り上げる人気作曲家であり続けている。
初期こそ、ライヒ、ライリー、グラスらミニマルミュージック創始者たちに続く世代の旗手として注目を集めていたが、彼の音楽は当時から交響的かつ新ロマン主義的だった。そうした作風から、オペラとオーケストラ曲を得意としており、いずれも現代の重要なレパートリーとみなされている。中でも、『中国のニクソン』(1987)、『クリングホーファーの死』(1991)、『ドクター・アトミック』(2005)や、《魂の転生》(2002)など現代の事件や世界情勢を扱った作品は、現在でも上演のたびに物議を醸している。
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タイトル | リリース年 |
---|---|
THE BEST OF DETECTIVE CONAN | 不明 |
ユリイカ (ジム・オルーク) | 1999年 |
ラプソディ・イン・ブルー (山下洋輔) | 1986年 |
ターミネーター2 サウンドトラック | 1991年 |
さんだる (たま) | 1990年 |
空と君のあいだに (中島みゆき) | 1994年 |
情熱の薔薇 (ブルーハーツ) | 1990年 |
フレンズ (REBECCA) | 1985年 |
TEAM ROCK (くるり) | 2001年 |
マトリックス サウンドトラック | 1999年 |
四季 (ヴィヴァルディ) | 不明 |
NEW JERSEY (Bon Jovi) | 1988年 |
マニアマニエラ (ムーンライダーズ) | 1982年 |
もう恋なんてしない (槇原敬之) | 1992年 |
夢であるように (DEEN) | 1997年 |
Teenage dream (DEEN) | 1997年 |
time goes by (Every Little Thing) | 1998年 |
夢を信じて (徳永英明) | 1990年 |
キミがいるから・・・/Twinkle Trick (奥田綾乃) | 2000年 |
ロビンソン (スピッツ) | 1995年 |
BLUESEED キャラソン | 不明 |
CYCLE HIT1997-2005 (スピッツ) | 2006年 |
COLORS (宇多田ヒカル) | 2003年 |
ムラヴィンスキー指揮6枚組曲集 (メロディア) | 不明 |
Tremolo e.p. (My Bloody Valentine) | 1991年 |
You’re living all over me (Dinosaur Jr.) | 1987年 |
奇跡の海 (坂本真綾) | 1997年 |
IMPRESSIVE (T-SQUARE) | 1992年 |
時の河 (FENCE OF DEFENSE) | 1989年 |
永遠の孤独 (小坂由美子) | 1992年 |
はじめてのC | 1987年 |
アウトラン セガS.S.T サウンドトラック | 1986年 |
「不明」とすまんけど1957年と2019年の外れ値は除いてExcelでカウント。
年 | 人数 |
---|---|
1970 | 1 |
1971 | 1 |
1972 | 0 |
1973 | 0 |
1974 | 1 |
1975 | 0 |
1976 | 0 |
1977 | 1 |
1978 | 0 |
1979 | 1 |
1980 | 0 |
1981 | 0 |
1982 | 1 |
1983 | 3 |
1984 | 3 |
1985 | 5 |
1986 | 10 |
1987 | 9 |
1988 | 18 |
1989 | 10 |
1990 | 20 |
1991 | 12 |
1992 | 14 |
1993 | 11 |
1994 | 12 |
1995 | 11 |
1996 | 15 |
1997 | 20 |
1998 | 8 |
1999 | 11 |
2000 | 4 |
2001 | 3 |
2002 | 1 |
2003 | 6 |
2004 | 2 |
2005 | 1 |
2006 | 3 |
2007 | 1 |
25~40年前の1985年~1999年頃リリースのCDが多い。
Copilot => 小中学生(文献:https://gakumado.mynavi.jp/freshers/articles/10920 )
◯選定基準
•高齢者政治の是正から、蓮舫より10歳以上、年下であること。(1977年以降生まれ)
•過去に「男なら泣くな」などの性差別発言がなく、社会的に弱い立場におかれる人々に寄り添う資質が推測されること。
•米国シカゴ出身。蓮舫と同様に二重国籍を批判されたが、自身や蓮舫への批判を「差別主義者」と見なす意見を「分断を煽る」と分析し、自ら戸籍謄本を公開した。
•2023年に子宮筋腫となり子宮を全摘するも、2024年より外交防衛委員長を務める。
•沖縄県出身。感音性難聴の息子を持つ母で、「電話リレーサービス法」「読書バリアフリー法」など、障がい者支援政策の実績が多い。
•故郷である沖縄の振興や、女性のDV被害者支援に力を入れている。
•北九州出身、米国で外交政策の修士号を取得したウイグル系日本人。
•まだ当選回数一回なので実績は乏しいが、人権外交を超党派で考える議員連盟で事務局次長を勤め、台湾やトルコなどの外交や、不同意性交罪などについて活動している。
•AV出演被害、ホスト被害、不妊治療、乳がんなど女性の人権と健康に関する業績が多いが、ロスジェネ支援にも強く関わっており、今後さらなる活躍が十分に期待出来る。
•福島県出身。共産党内から「ブラック企業キラー」と呼ばれるロスジェネの元会社員。
•雇用問題では、違法を繰り返す企業名の公表を実現した。奨学金による負担を軽減するための活動や、反戦活動にも積極的に関わる二児の母。
ある島で密かに「人間狩り」を楽しむ狩猟家と、その島に漂着した主人公が殺し合うことになる。
当時人気を博して「マンハントもの」というジャンルを築いた作品であり、ひいては「デスゲームもの」の元祖とも言える。
『最も危険なゲーム』の影響を受けて書かれた作品で、近未来の政府が運営する一対一の殺人ゲームが描かれる。
シェクリイの作品では『危険の報酬』(1960年)も似た設定で、そちらは手塚治虫の『火の鳥 生命編』(1980年)や、スティーヴン・キングの『バトルランナー』(1982年)の元ネタとして知られる。
ゲームを管理する権力者と、ゲームをリアリティショーとして楽しむ観客の存在が特徴である。
孤島に漂着した少年たちが殺し合うことになる。『十五少年漂流記』(1888年)をダークにしたような作品。
少年たちが極限状況に放り込まれるという点では『死のロングウォーク』や『バトル・ロワイアル』などの先祖と言える。
「ロングウォーク」と呼ばれる競技に参加した100人の少年たちが最後の一人になるまで歩き続ける。
少年たちはルールに基づいて死んでいく(運営者によって殺される)が、少年同士の殺し合いではない。
殺人トラップが仕掛けられた謎の建物に閉じ込められた人たちが脱出を目指す。
極限状況・閉鎖空間を舞台としたデスゲームで、暗号解読などの頭脳戦的な要素がある。
ここまで海外。
作中で行われるのが「限定ジャンケン」「Eカード」などオリジナルのゲームであることが特徴。
危険な独自ギャンブルを描いた作品としては『LIAR GAME』(2005年)や『嘘喰い』(2006年)などが続く。
日本において「デスゲームもの」というジャンルを確立したと言える大ヒット作。
死んだ人間たちが謎の黒い球体に呼び出されて宇宙人を倒すように命じられる。
超常的なゲーム運営者、ゲームを行うための特殊な空間、協力型のミッションなどが特徴。
13人の仮面ライダーたちが最後の一人になるまで殺し合うという、仮面ライダーとしては異色の設定で話題となった。
殺し合いそのものは超人たちによる異能バトル的なもので、戦闘能力のない一般人が無残に死んでいくような趣向は薄い。
『ローゼンメイデン』(2002年)や『Fate/stay night』(2004年)などの後続作品から「バトロワもの」が確立されていった。
VRオンラインゲームに参加する1万人のプレイヤーがログアウト不能になり、ゲームの中で死ねば現実世界でも死ぬという状況で、ゲームクリアを目指すことになる。
ここでの「デスゲーム」は「(本来なら死ぬはずがないのに)本当に死んでしまうコンピュータゲーム」という意味であり、他とは意味がやや異なる。
2009年に愛知県で起こった、男子生徒が女性教師を流産させる目的で給食に異物を混入させた事件をモチーフにして、
「実話を基にした物語」というのを前面に押し出して2011年に公開された映画で、実際の加害者は男子生徒だったのに映画では女子生徒に改変し、
実際の事件について調べもせずに映画だけを見た人が「妊娠できる身体になりつつある女の子が妊娠を嫌悪した結果として先生を流産させようとした」という事件が現実に起きたものだと誤解して、
「思春期の女の子に特有のメンタリティ。女の敵は女」みたいに受け取っていて、あれが本当に最悪の出来事だったし、あれよりも最悪な女体化や男体化は無い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E7%91%9B%E4%BA%AE
ないとう えいすけ
内藤 瑛亮
https://lightnovel.jp/blog/archives/2024/0616.html
いやさあ、あれがないこれがないってのはキリが無いてのはよくわかるんだけど、それをいわないとこういうのって楽しめなく無いか。
特にこの記事はこの人の趣味みたいなのを色濃く出してますよって路線なので特にね。
新しいのはしらないので途中でおわっちゃうけど。
ラノベ論者ってまあ例によってキリがないからなんだろうけど直接の隣接領域であるゲームやアニメはまだ言及しても一般の小説やら映画とかにはあんまり触らない方向なんだよな。
このブロックだと時代というか朝日ソノラマというレーベルの範囲でいうと言及がそこまででもない部類だと剣の聖刻(ワースブレイド)シリーズと藤原征矢か。
TRPGブームとかだったんだけど、みんなその雰囲気わかるかな。
■1984年 なぎさボーイ・多恵子ガール /氷室冴子 /コバルト文庫
ここらへんはそれこそ「新井素子しか読んでない」だったのであんまりなにかいえることはない。
「絶句」は大好きです。
■1988年 聖エルザクルセイダーズ /松枝蔵人 /角川文庫
『宇宙皇子』とかアルスラーンとか。あとラノベ史的には最大の大物と言っても過言ではないロードス島か。
このあたり、ちょっと前から続くTRPGブームを少し頑張っていて、枠外扱いとしてドラゴンランスとかがやっぱベースになるんじゃないかなあ。
語らないのはちともったいない気がする。
リナインバースが斬新だとされたのはレイストリンがガリガリで血を吐きながら魔法を放っていたからというのはやっぱあったわけで、そこらへんは重要じゃないかなあ。
■1989年 ハイスクールオーラバスター /若木未生 /コバルト文庫
読めてない領域だなあ。
■1991年 ユミナ戦記 /吉岡平 /富士見ファンタジア文庫
野性時代とかスニーカーはまあとして、富士見ファンタジア大賞とドラゴンマガジンというサイクルを作ったという点で大きいのかなとは思った。
例のアレでサイト落ちてるけどドラゴンマガジンってまだ続いてるんだよな。すげえよ。
このブロックで言及されてないのだと「ザンヤルマの剣士」が好きだった。
この記事だと言うまでもって感じだが、やっぱ「フォーチュンクエスト」はエポックだったのでは。
ゲーム文庫って体裁だったのでブギーポップはマルチエンド構成なんだよね。
こんなやりかたあったんだ、って当時は思った。
ブギーポップのヒットから現代物が増えたってのは確かにそうなんだろう。
現代人にはわからんだろうが当時はエロゲーがサブカルの最先端で、学園ものとかが強かったのよ。
あとまああえていうまでもないけど「ジョジョ」ね。
マリみてはいまおもうとなんであんなヒットしたんだっけとおもうところはある。
フルーツバスケットとかもこのあたりだっけ。
カレカノもこのあたりか。
そういうタイミングだったのかな。
こう書いてるやん
したがって、現在の日本の法律上の貨幣とは、1948年(昭和23年)以降に発行された五円硬貨、1951年(昭和26年)以降の十円硬貨、1955年(昭和30年)以降の一円硬貨と五十円硬貨、1957年(昭和32年)以降の百円硬貨、1982年(昭和57年)以降の五百円硬貨と、1964年(昭和39年)以降に記念のために発行された千円硬貨、五千円硬貨、一万円硬貨、五万円硬貨、十万円硬貨を指す。貨幣の一覧については、通常貨幣は「日本の硬貨」を、記念貨幣は「日本の記念貨幣」をそれぞれ参照のこと。
2021年(令和3年)現在の日本における法令用語としての「貨幣」は、もっぱら補助貨幣の性格を持つ硬貨のみを指し、「紙幣」及び「銀行券」とは区別されている。
「ちはやふる」を載せてた雑誌は「BE・LOVE」だよ。少女漫画誌じゃなくて、レディースコミック誌。
BE・LOVE - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/BE%E3%83%BBLOVE
1979年9月に発行された『週刊ヤングレディ増刊 漫画特集BE・LOVE』が前身。1980年10月、月刊漫画雑誌として創刊。1982年5月、月2回刊となるが、2019年現在は月刊に戻っている。一時、誌名も『BE in LOVE』(ビー・ラブ)だったが、後に現在の『BE・LOVE』へ。大人の女性を対象とする作品を掲載しており、講談社は2006年時点で30代・40代女性の読者が多いと謳っており、2020年現在の読者は40代・50代女性が中心となっている。
あとは、よくある間違いで「のだめカンタービレ」を載せてたのは「Kiss」。これもレディースコミック誌。
Kiss (雑誌) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Kiss_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
本誌は「読むと恋をする」をキャッチフレーズとしており、恋愛漫画を中心に大人女性の王道を目指すという編集方針が掲げられている。掲載作品には、仕事や恋愛について、働く女性の「リアル」と「本音」を描いた作品が多く、20代から30代の女性をメインターゲットとしつつ、それ以上の年代の女性にも親しまれている。
「ちはやふるっていう少女漫画」っていうのは「攻殻機動隊(ヤングマガジン別冊掲載)って少年漫画」っていうのと同じぐらいヘンだよ。
なんで男性は女性向けまんがっていうと少女漫画に括りたがるの? 元増田だけじゃなく、トラバもブコメもだよ多すぎね? 女性=少女なの? それ(以下略)。
対象の読者層もジャンルの傾向もわからずにお気持ちを開陳するのは、エロいまんがはけしからんっていうのと同レベルだと思うわ。
新自由主義が流行ったというのは要するに小泉純一郎政権期のことだろう。
在任期間は2001年〜2006年だから、氷河期世代(1970年〜1982年生まれ)が主に20代の頃である。
https://www.crs.or.jp/backno/old/No569/5691.htm
20歳代 | 30歳代 | 40歳代 | 50歳代 | 60歳代 | |
---|---|---|---|---|---|
全期間 | 42.5 | 44.8 | 44.2 | 47.5 | 56.7 |
田中更迭以前 | 62.2 | 61.0 | 61.1 | 63.9 | 67.9 |
田中更迭以降 | 37.5 | 39.0 | 38.4 | 41.8 | 52.3 |
20代だけが特に小泉を支持していたとは思われない。むしろ若干低めである。
ただし他の政権ではもっと低かったので、相対的に小泉政権は若者の支持率が高かったとは言える。
https://www.mdr-j.co.jp/jisyu/seiji/index.html
若者の政治に対する意識2「小泉内閣を支持しますか」(2002年2月)
https://www.mdr-j.co.jp/jisyu/seiji2/index.html
https://www.kkc.or.jp/data/question/00000034.pdf
◆それが将来実を結ぼうと結ぶまいと、意思のあるフリーターには賛同いたします。何か目的があり、そのためにがんばっている今のフリーターは全く問題がないと思います。そうではなく、楽な道を選んだ結果のフリーターが増えるようならば、後々大きな社会問題としていろいろな方面で顕在化してくるように考えます。確かに、近年老若問わず「我慢」することに耐性がない人が増えているのは事実のように感じていまして、その大きな原因は個人的に(1)親の教育、(2)学校・企業の教育、(3)それを許容している社会環境・制度にあると思っています。ある意味、法で取り締まれる分野でなく、モラルで守られてきた範囲であるがため、余計に難しい課題のように感じるのですが。
◆今の会社は正社員減少を進めることによって企業を建て直している。一方フリーター・パート・派遣社員等の流動的な労働力を歓迎している。現時点だけを見ればいいのかもしれないが、将来的には問題は大きいと思われる。新しい安定した雇用を生み出せたらと強く思う。
◆この春から、新入社員として「働く」ことになりました。仕事があるだけマシという思いもありますが、入ってみて技術や知識の面でまだまだな自分を突き付けられた思いです。日々の出来事に追われ、余裕のない自分がやっていけるのか、スキルを高め、役に立てるのか不安いっぱいのスタートです。大学時代、自分としては一生懸命勉強していたつもりなのですが、仕事で必要なものとの分野としてのギャップも感じます。昔、大学は出たけれどという言葉がありましたよね。時間に余裕のあるうちに、何が必要なのか情報を得ていれば、少しは違ったのかなと思う新入社員です。
◆若年のうちは気楽にフリーター生活でもやっていけるが、将来を考えると不安が大きい。
◆企業の人件費を抑える為に、派遣を多く採用してしまい、そのため社員にならないフリーターが多くなってしまったりと悪循環ではあると思う。最近、がんばっても給料も上がらないし、評価もされないし、給料体系は学歴で決められてしまうので、社員としてのメリットがないと感じています。
◆現在大学3年生で就職活動を行っているが、希望する企業はどこも募集人員が少なく、面接をする前の書類選考で落とされているところがほとんどで、紙面でしか判断されていないという
ことを悲しく感じる。やりたい仕事があるのに“できない”ということで、どんどんやる気がうせる。このまま希望している職業に就けなかったら、妥協して別の仕事を探す人もいるが、私はバイト・パートという形でもやりたい仕事を選ぶと思う。しかしこの考えは親は反対で、何でもいいから就職しろと言う。現在もまだ進路は決まらない。
◆昨年就職活動を行い、この4月から社会人としてスタートを切りました。就職活動を始めるまでは、若年のフリーター増加や早期退職には否定的に考えており、本人の働くことに対する意識の低さ、忍耐力の無さが主な原因と思っていました。しかし就職活動を通して、自分の希望する会社に入社できる学生は一握りという現状を目にし、学生の意識を変えるだけでは問題は解決しないと実感しました。
◆私自身、新卒で入社した会社を1年で辞めており、今回のアンケートは興味深いです。私について述べれば、会社を退職した理由はやはりがまんが足りなかったという事だと感じておりま
す。
◆私も小さい頃から、両親共働きの家庭で育ちました。そのためか、大学卒業後は働くのが当たり前だというように思っていました。やはり、親の姿を子供に見せる(コミュニケーション)
ことが、とても大切だと思います。
ソースを出してくれ。