はてなキーワード: 原作とは
毎クールのように大量のアニメがTV放映される時代だけど、やはり気になるのはその「出来映え」。様々な制作スタジオが請けているので、当然だがバラツキがあるわけで。
特に緊張するのは、生粋のアニオタではなく別ジャンルのオタが、「推している作品 (原作) がアニメ化したので観る」場合。
その作品を知らない人がアニメを観る場合はまだマシなんだ、アニメ自体が面白ければいいから。問題は原作ファンが観る場合で、「媒体の差」によって良さがオミットされたり、そうでなくとも「思ってたのとは違う」みたいな感想を抱きがち。
もちろん、媒体が違うんだから出力を見て感じる印象は別だし、「絵が動く」というインパクトはアニメなど映像媒体じゃないと味わえないものではある。前述したように「その作品を知らない人」への入り口として機能するのも良い。
ただ、オタクってやつは「良さがオミット」される部分について敏感になりがち。だから盲目的に「原作そのままで」と叫ばれるわけだけど、そうもいかない要因の筆頭に来るのは……恐らく「1クールアニメとしての尺」。
2クールアニメが (そのクールに放映されるアニメの量に対して) 稀になっている現代だと、「30分×12~13話」というフォーマットに収まりきらないものは実質的に「アニメ化できない」。じゃあどうするかというと、シナリオを削ったり改変したりまとめたりして、そのフォーマットに収まる分をアニメ化することになる。
まあ、漫画や小説の原作だったらまだいいんだ、「1巻」「2巻」という単位で区切れるから。問題なのはゲームのアニメ化で、ノベルゲーにせよソシャゲーにせよ、「原作」の尺をそのままアニメに落とし込むと2クールあってもキツかったりする。「30分×12~13話」は要するに「6時間~6時間半」ってことだけど、「短いからすぐ終わるよ」と言われるノベルゲーのプレイ時間目安が「10時間」とかだったりするからね、どうしても編集が入る。
だから思った、「じゃあ1クールアニメにこだわる必要ないじゃん」って。原作全部アニメ化するのは無茶だけど、例えば序盤の……ノベルゲーで例えると「OPに入るまで」みたいな、区切りの良い位置までアニメ化したOVAにすればいいんじゃないかって。こうすることで、「原作から変に改変されて良さが削られた」とか「1クール分尺を確保するために大部分がアニオリです」とかがなくなっていいと思う。
昔だったらいざ知らず、今ならネット配信という媒体があるから、宣伝すれば観てもらいやすいはず。1クールアニメよりコストは掛からないし、悪くないプランだと思うんだけどな……。
追記:昨今だと「クラウドファンディングでお金を集めて5分アニメで1クール放映します」ってプロジェクトもあるよね。嫌いじゃないけど、5分アニメって実質2.5分しか本編ないし、5×12=60分ってことは、通常の (30分の) アニメを2話分、きっかりOVAとして組めば良くない??
数日前に書いてたテキストファイル捨てるの勿体無いと思ったので張る
例のあのフォーマットに乗ってWeb漫画の話をしようかと思ったがWeb漫画は山ほどあるし別に網羅的に読んでる訳でも無いので単に自分の好きな作品を書くことにした人が居たので便乗。
消えてる作品以外はブックマークが残ってるので探しやすくてよかった。
2012か13ぐらいから読み始めた人。それ以前も知らないし、最近も知らないしひどく偏ってるはず。順不同
みんな大好き(なはず)。転生元の(中途半端な)知識と超絶魔力持ちでチートではあるが、虚弱常識知らずなど、情熱と人脈でカバーしてく。
これと謙虚ぐらいしか男性向けっぽいの読んでなかったし、読んでも合わないの多い中(ゴミ拾いのとかテイマーのとかは読んでた)、何度も読み返した名作中の名作。
言い過ぎだけど、パトレイバーや銀英伝レベルで社会に出てから有用な知識が得られる。
(パト、銀英伝信者からしたら言い過ぎ、そうではない人からしたらそんなもんかってなる?)
現実世界への巻き戻り。細かいこと(と重要なことのほとんど)は忘れたが、サッカー選手になれなかった大人がサッカー始めた日に戻ってやり直す話。
確か戻るのはその一回ぐらい。戦術等の知識が大人レベルなのと、コツコツ努力できる(練習の目的がはっきり、効率もよい)のと、あとなんか鷹の目みたいな俯瞰視点だけで頑張る。
雰囲気は週刊少年誌のサッカー漫画みたいなの(ジャンプっぽさはなく、サンデーマガジンのどっちか寄り)。恋愛要素が少なくて物足りなかったような、中学生編ぐらいまでで終わったのとかで悲しかったような。
これと続編(サブアカウント)のセット。アイリッシュスナイパーは含まない(好きだけど)
VRMMOは二大ジャンルのひとつだったり、転生、転移に次ぐ第3のジャンルだったりしたが、あまり人気作が無かった(当時の個人的な印象)中、(根底に)デスゲーム要素もなく、描き切りつつ、VRMMO系で不足しがちな現実世界にも重点を置いたのが本作。
MMO要素は各キャラのなりきりに由来するコメディ要素やストーリーの本筋に絡む仕掛けであって、中身は群像劇要素も強く、主人公以外の成長物語でもあり、半沢みたいなのとかでもあり、ミックスグリルみたいな作品。あえて大げさに言うと、大長編ドラえもん詰め合わせみたいな。
章ごとに目標が変わってたりしつつ、最後でどかんと一気に色々纏まるのがめちゃくちゃ気持ちよかった。主人公大人だし、なろうっぽくない(なろうっぽくないことはないが)
主人公も一応精神的に色々成長します。地の文の好き嫌いは分かれそう。
クソゲーとして名高いバグだらけのゲームの中に入ってしまい、バグ(仕様()も多い)を駆使して気持ち悪いことを沢山する。
読んで知って欲しいのだが、全方向を騙していくのとか、サブキャラとかが立ってるのとか、一応色々吹っ切れてるのが面白すぎた(作者的にはセーブしてるのかも)
本作作者の他作品も少し系統違ってても面白いので、他作品挙げたいが完結してなかったりするので、出会いの本作をエントリー。
タイトルそのまま。ちんちくりん系の女子と普通の女子のコンビに、個性的なパーティメンバーなどで冒険する。
基本的にはテンポよく成長していくし、仲間も頼りになる。地の文とかほのぼのした雰囲気も好きだし、ちょっと年齢層高め向けのギャグとかも合ってた。作中でどういう扱いだったかは忘れたが馬は脳内でひんべえ(いつもいっしょのおうま)になる。
真剣なシーンでも気が抜けるような描写が多くて好きだったかも。
終盤SF過ぎたのとか好みが別れるところか。SF方面だったかは定かではないが
時代がずれてたら防振り(途中までしか読んでない)ぐらい売れてたかも。コミカライズされてたの今知った
頭おかしなった。突っ走ればよかったのにと思ったような。
おもろい。
これも流行った。
きつね可愛い。同作者の他作(沢山あったはず)も読んでみたけど、これがなんか時期的になのか、一番ハマった。
その他の候補作
影響は受けたが、読んでないので
色物かと思ったら意外としっかり面白かった。アニメ見て、原作一気読みした。
転スラ
すごいのはみんなわかってるが、重要度は低い。
このすば
どこにも書いてないが、これ系では他作品のほうが影響受けたので除外。
宝くじで40億
ある、というか、30年以上経つうちに、本歌取りされすぎてあたりまえになっちゃった。
広まってより過激に工夫されたものをみてから本家をみるとなんか味が薄いみたいなやつ。
・リアルな世紀末日本と政府の抑圧とヤク(貧困の中の東京オリンピックの予言)
・画面がだいたい夜
いろんな人に影響をあたえてて、インタビュー時に本棚うつすとこれの原作本とナウシカが並んで刺さってるみたいなのが多かった。
今俺が好きなのはアニメーターのすしお。それもまぁ画面だっていうならそうだろう。
な、なるほど。
確かに思い出してみれば、ドラマの原作の先生の自殺も、自殺の重みを重視したからこそ(意には逆行したけれど)、ネットの原作改変炎上が凄まじく燃え上がったとは言えますね・・・。
絶賛したい。
実写の正解を毎話叩き出しているゴールデンカムイ。
監督がひとりひとりにキャラ考察ノートのようなものを渡していると言うので(萩原聖人のように脚本自己解釈で挑みたかった役者のスタンスによるが)原作解像度が異常である。
ドラマでは映画より改変も結構ある。もともと映画脚本時点で原作をよく覚えていないと分からない程度の短縮が見られたが、そのカットに違和感がなく、前後につながりをもたせることに成功している。
漫画的嘘の表現を、リアルに落とし込んでいるのもまた違和感がない理由だろう。
もちろん、だからこそ期待値が上がり「あのシーンを実写で見たかった」という声も出てくるのだが…。
親分と姫回もよかった。大自然を味方につけた夕焼けのハイライトと無茶苦茶な耽美展開。なぜ実写化できているのかもはや分からない。
実写化して改めて気づくことも多い。原作やアニメのアイヌ描写は頭の中でリアルに変換しているのだが、やはり自分の中での解像度が低い。その分実写だと、多くの協力もあってリアルなアイヌ文化が伝わってくる。
毎話放送後にメイキングが公開されるが、最新話のアイヌ料理描写はとても面白かった。
役者たちもなにを食べてるのか分かっていない新鮮なリアクション。フキが足りなくなれば山に入って採ってくる。アイヌの食文化を引き継いだ人が、料理監修の人に一から教えていく。ぜひ劇中料理本を出してほしい。
そしてまた気づいたことがある。
二階堂は映画版では編成都合上クライマックスの敵役で、実写序盤でかなり目立つ位置にいる。
映画だとまだ正気を保っていたが、ドラマでは無事第二形態まで進んで、みんなの知っている二階堂になった。一つの作品で役柄をあんなに変えていくのはすごい。しかも原作から抜け出したかのような演技なのだ。
そこで改めて二階堂という人に注目してみることになったのだが、彼の哀愁と愛憎を見ていくうちに、二階堂は杉元に愛してほしかったのかもしれないと思うようになった。まぁ、この熱量の感想で触れる部分ではないのかもしれないが…。
勿論ここは実写違うんだよ、という原作ファンは居るだろう。でもそこで平和に話題ができる。こういう感じで原作読者が見ても楽しめる作品はあまりないので、ゴールデンカムイを見てしまった今、今後の実写他作品を楽しめるのか不安すらある。
今年で10周年を迎える老舗ソシャゲ、グランブルーファンタジーのセールスポイントのひとつに「最新のキャラには及ばずとも、ある程度の性能が担保されたキャラクターが全ユーザーに無料配布されること」があった。
人気コンテンツとのコラボは、長い歴史のあるグランブルーファンタジーにおいて新規ユーザーを呼び込む絶好の機会。
これまでのグラブルの歴史の中でもそういうムーブメントが確かにあったし(e.g.鬼滅の刃コラボ)グラブルはこの文化を大事にしてるんだろうなぁって思ってた。
そしてその配布されたコラボキャラが所謂強キャラではないことで企業系攻略wikiの最強キャラランキング!!にコラボキャラが並ばないことでグラブルの世界観が保たれて、まさにグラブルへの導線としてコラボが機能していたように思える。
しかしそんな老舗ソシャゲにも変化は訪れるもので、今年からついにコラボガチャが実装されてしまった。
どうしてそうなったのかは分からないけど、そんな私の頭でもお金のためであることは流石にわかる。そうじゃなかったらビビる。
それ自体についての是非はもう論じていても仕方ないので受け入れはした(してない)が、そのコラボガチャの内容には驚愕した。
まずグラブルのガチャシステムについて軽く話をさせてもらうと、SSR確率が2倍・限定キャラ排出・新規キャラ追加のフェス方式のガチャが月に2回行われ、プレイヤーの99%がそのタイミングでガチャを回している。ちなみにSSR確率は恒常ガチャがSSR3%でフェスは6%で、9万円分引くと天井に到達して対象のキャラが1人もらえる。
じゃあこの度実装されたコラボガチャも当然フェスなのか?というと、まさかの恒常ガチャと同じ3%。
当然限定キャラも排出されず、肝心のコラボキャラピックアップ率は各0.5%の合計1%。
正直引いた。
事前のアナウンスでコラボキャラの有無で既存のコンテンツに差が生まれるような性能にはしないことが確約されていた以上、コラボ先のコンテンツに興味のない私みたいなプレイヤーはまず確実に引かない。
コラボ先のコンテンツが好きな既存のプレイヤーも、これから控えているガチャ(特殊な事情で1年間排出が止まるキャラの最後のピックアップやクリスマス、年末年始にある目玉ガチャ)に備えて蓄えたい時期で余裕があるとは言えない。
そして一番大事なコラボ目当てで始めた新規ユーザーも、いきなり数万円課金するのは流石にハードルが高いと思う。いくら恒常キャラの中にも限定キャラに近い性能を持つキャラがいるとは言っても、限定キャラが排出されない以上は副産物に期待ができるとも言い難い。
他のソシャゲだとコラボキャラって結構強かったりすることが多いイメージがあるけど、前述の通り別に強くはない状態で実装されてるキャラをわざわざ原作ファンが他コンテンツに課金して引くのか?そこもわからない。
ちなみに今回実装されてる転スラキャラはシオンとディアブロで、原作ファンなら強くあってほしい寄りのキャラっぽい気はしてる。
グラブルの良さのひとつをなくして実装されたコラボガチャがこんな出来になって、誰が喜んだんだろう。
陰湿な人達に「敢えて酷い出来にして既存のプレイヤーに炎上させることでこれから先のコラボガチャの存在を抹消する巧みな工作」なんて言われ方をしてるこのコラボガチャは誰が喜んだんだろう。
誰が私の好きなグランブルーをこんなにしちゃったんだよ。
正直言うと、ダンダダン漫画は素晴らしいが週刊漫画の中では中の中あたりだと思うんだよね
アニメはそれを全力で料理している、ここまで一歩踏み込んだアニメ化は久しぶりに見たと思う
鬼滅の刃に近いが、鬼滅よりも改変が多い、その割に上手くいってる
そこ変える必要なかったよね、みたいな部分が見当たらない
「アニメ良かったけどそもそも原作が良かったからこんなもんだよね」っていう良作アニメは沢山あるけど
それを一歩超えてる
まあこっから先は1個の話が長くなってくるからまた苦しくなってくるだろうけどね
あと8話作画既に怪しい
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このくだりマジで何だったんだろう
ニノを絡めることでアイドル2番の歌詞を原作展開に反映させて話題作ろうとしたけど特に具体的な展開思いつかなくてやめただけ?
おいおい、なんだよその愚痴!確かに気持ちはわかるけど、ちょっと冷静になって考えてみろよ。
まず、映画版『ルックバック』について言うなら、あの作品の本質は、「原作をどう再現するか」じゃなくて、原作を基にして、どう新しい視点を提供するかだろ。原作が持ってる「漫画の力」っていうのは、確かにすごいんだよ。例えば、手塚治虫が『ブラック・ジャック』で描いた「命の価値」だって、読者がそれをどう感じ取るかってところにこそ力があった。でも映画ってのは、原作に対する「解釈」を加えるものなんだよ。例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だって、タランティーノが歴史のifを描いたわけだろ?実際の歴史がどうあろうと、映画としての「物語」が成立してるから、並行世界が存在する意味が強調されるわけだ。
それに、映画で「並行世界の扉を開く力が足りなかった」とか言ってるけど、それがそもそもズレてるよ。映画っていうメディアは、漫画のようにページをめくりながら無限の詳細を積み重ねることができない。だからこそ、映画は「映像表現」によって観客にインパクトを与えるんだよ。例えば、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が革命的だったのも、彼が言いたかったのは「映画は映画でしか表現できないことがある」ということだからな。
それに、君が言ってる「インターステラー的な何か」が薄いってのは、もしかしたら君がその部分に過度に期待しすぎてるだけかもな。映画版『ルックバック』は、漫画と同じように時間軸や物語を複雑にしていこうとしたけど、そこに込めたテーマやメッセージは、むしろシンプルに伝わってきた方がいい。映画には映画なりの表現方法があるんだから、そこに深い解釈を求めるのは少し違うだろ。
それに、映画が「漫画の力」を再現するって言っても、漫画はやっぱりそのフォーマットにしかできないことがあるんだよ。『ルックバック』における一枚の漫画がどれだけ強い力を持っていたか、それは確かにすごい。でもその力を「映画で再現する」のは、根本的にメディアが違うから、どうしても限界があるんだ。
それにしても、お前が言うように「深く踏み込むべきだった」っていう部分も、俺は逆に言うと踏み込みすぎてなくて良かったんじゃないかと思うぞ。むしろ、映画があまりにも深くまで踏み込むことで、観客が原作と同じように個々の解釈を持ちづらくなったら、それこそ映画として失敗だろ。
まぁ、色々と感じる部分はあるだろうけど、映画を見て「足りない」って思うのは、そこに期待を持ちすぎたからだよ。芸術作品なんてものは、結局は鑑賞者の解釈によって完成するんだから、もうちょっと柔軟に受け入れてみろよ。
もう一つの可能性に対しての解釈多様性みたいなのが薄いんですよね。
漫画の世界においては「あの1枚の漫画によって世界は分岐した」というのが本当に確かな説得力っていうか、マジでそれぐらいの力があったんだと信じさせる何かがあったんだけど、映画だといまいち伝わってこない。
そもそもあの漫画はどこから来たのかについての解釈の余地というか、「インターステラー的な何かが起きた可能性」というのを感じさせるだけのパワーみたいなのがイマイチ薄いんだよね。
あの状況における作品世界自体で起きていることは「もう一つの世界が存在した可能性についての想像」なのは事実なんだろうけど、それが観客席からだと「本当にあったかもしれないもう一つの世界」として等価の存在として映る所がルックバックの醸し出す凄みの秘密だと思うんだよね。
「どこまでも都合が良いような世界、でもそれがもしかしたら本当にありえたのかも知れない」って事がより強い悲しみを生むけど、同時にそれが「いま自分たちが生きている世界はこっちなんだから前を向かなければ」という気持ちのトリガーになるっていうか。
元ネタであるワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドなんてまさにそういう映画だったと思うわけよね。
なんつうか「こういう空想の中で自分たちを慰めることも出来る。創作活動を続けるってのはそういうことなんだ。創作活動最高と言え」みたいなパワーがあるわけですよ。
そこがイマイチ足りてないっつうかさ、もっと深く踏み込めば、あの事件に対してどう向き合うかって話だった訳じゃないですか。
まあ映画版はそのへんについて「パクりやがってよぉ!」の言葉を入れてくれているので敬意は凄い感じるわけなんですけど。
それでもやっぱ足りないっていうか、根本的な構造としての「漫画の世界における漫画の力」と「映画の世界における漫画の力」だとやっぱエネルギー量に致命的なまでの差があるなと。
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドという映画が「映画の中で映されたハリウッドという土地の持つエネルギー」によってあの荒唐無稽さすらある並行世界を描いたことの再現は出来てないなと。
こんだけ頑張ってもらえるんだからタツキ先生も喜んでますよって感じましたよ。
でもやっぱちょっとだけ足りないんですよね。
観客の頭の中で「並行世界への扉」を開くだけのパワーが足りてなかった感じなんすよ。
なんつうんですかね、繰り返しになるんですけどワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドという映画の中においては、あの映画の中で起きたことこそが事実だったわけじゃないですか。
「俺達の住んでいる地球の事実」と「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの事実」はそれぞれ存在できていて、どっちが上か下かっていうのとは違ったと思うんですよ。
その等価性があったからこそ、「でも俺達の地球で起きている事実が俺達の生きる現実でしか無いんだよね」という読後感みたいのに繋がるっていうか。
ルックバックという作品のキモってどうしようもなくそのワンポイントに集約されていると思うんですよね。
「この作品のこのコマです」と明示してそのまま転載している分にはそこまで腹は立たないんだよね
宣伝にもなるっちゃなるしさ
二次創作も同様で、あくまで二次創作として描いて原作を明記している分には腹は立たない
それでもまだ「分かる人には分かる」いう逃げ道があるけれど。
勝手に使われて知る術がないっていうのが一番最悪
許せる度合いは
元ネタ明記のそのまま無断転載>元ネタ明記の二次創作>元ネタ明記しないそのまま無断転載>元ネタ明記しない改変無断転載>>>>(超えられない壁)>>>>画像生成AI
井上尚弥の試合の無料配信以外誰が見てるのか全く不明でお馴染みの動画配信サービスLeminoで
「欲望三部作」と題して大々的に宣伝してる作品の一つの原作にZ李を採用してしまう