はてなキーワード: 1970年代とは
マホガニー、大豆、金、水力発電は、地球の敵!ヴィーガンはどうお考えで?
1960年代以降にはアマゾン縦断道路や横断道路が次々と建設され、アマゾン開発が本格化し始めました。
道路に沿ってまず木材伐採業者が入り、マホガニーやイペーなどの商業価値のある木を切り出しました。
裸地となった森の跡地に農地が次々と開かれていきました。
1990年代以降、アマゾンは、輸出用大豆栽培のための大規模農業開発地へと変貌をとげました。
アマゾン南側のセラード地域で1970年代後半から始まった大豆開発が大成功と評価された結果、「大豆開発前線」がアマゾンへと北上を続けたからです。
「法定アマゾン地域では農場面積のうち80%を森林として残さなければならない」という法律がありますが、
それはほとんど守られていません。ほかにも、巨大水力発電所の建設や金鉱山開発などの国家規模のプロジェクト、
https://moriishi.com/entry/nobel-prize-in-literature-early20c
面白かった。ウィンストンチャーチルも受賞してたの知らなかった。
日本人は
受賞講演 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%8F%E8%AA%AC
詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
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1903年 ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(ノルウェー)
その感化の鮮度と精神の希少な純度の両方において名高い、高貴で壮大、且つ多彩な詩に敬意を表して
プロヴァンスの言語学者としての重要な業績の他、自然景観と人々の土着の精神を忠実に反映した、彼の詩作の新鮮な独創性と真の触発に対して
1904年 ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ(同時受賞)(スペイン)
1906年 ジョズエ・カルドゥッチ(伊)
念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギー、スタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して
1907年 ラドヤード・キプリング(英)
真実のための本格的検索、思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生の理想主義的哲学を実証したこと
叙情詩人、作家そして世界的に知られた短編小説家としての長年の創作活動を通して世に送り出してきた、無上の芸術性、理想主義の浸透を賞賛して
多岐にわたる文学活動、特に戯曲の数々を評価して。豊かな想像力と詩的な空想は、時に御伽話の形を装いながらも、それぞれの作品が神秘的な方法で読者ひとりひとりの感性に訴え想像力を刺激する間、深い創造的発想を明らかにする
1916年 ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム(スウェーデン)
崇高な理想に触発された、彼の多様で豊かな詩に対して
1917年 ヘンリク・ポントピダン(同時受賞)(デンマーク)
1921年 アナトール・フランス(仏)
1926年 グラツィア・デレッダ(伊)
彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して
ブッデンブローク家の人びと
1931年 エリク・アクセル・カールフェルト(スウェーデン)
林檎の樹
呪われた日々、チェーホフのこと
1934年 ルイジ・ピランデルロ(伊)
月を見つけた
楡の木陰の欲望
1944年 ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン(デンマーク)
車輪の下で
1950年 バートランド・ラッセル(英)
哲学入門
バラバ
テレーズ・デスケルウ
我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して
1962年 ジョン・スタインベック(米)
1964年 ジャン=ポール・サルトル(受賞辞退)(仏)
静かなドン
1974年 エイヴィンド・ユーンソン(同時受賞)(スウェーデン)
1974年 ハリー・マーティンソン(同時受賞)(スウェーデン)
アニアーラ
偉
やあ(´・ω・`)
日頃ホッテントリ入りしたきのこ関連の記事を、気まぐれで解説しているよ。
「なめこ」の起源 “60年前に福島県で採取の野生の菌に由来”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220615/k10013672561000.html
ブコメで散々指摘されているとおり、あくまで日本で栽培されているなめこの99%は、
ってことだよ。無論、日本中でごく普通にみられる野生のナメコの起源が全て福島県産というわけではないよ。記事にもしっかり
引用:野生の菌では遺伝的な多様性がみられた一方、菌床栽培の菌は1つの系統に分類され、それぞれが遺伝的に極めて近い関係だと明らかになった
と書いてあるよ。まあ、見出しが誤読を誘っている感は否定できないけど。
じゃあ結局野生のナメコの起源はどこなの?って疑問が当然生まれると思う。
結論から言うと、実はよくわかっていないんだ。というのもナメコに限らず、菌類全般ほぼ化石に残らないので、どの種類がどの時代に分かれたのかって細かいとこまで、今のところ把握のしょうが無いというのが実情なんだ。
どんな自然科学の記事にも言えることだけど、せっかく論文が公開されているのにソースのリンクがないのは不親切だよね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mycosci/63/3/63_MYC570/_html/-char/en
なめこは、特に日本で人気の高い食用きのこの一つである。本種は白色腐朽菌の一種で、ヒマラヤ、中国から日本までの東アジアの冷温帯落葉樹林の枯木や朽木に生育する。記録によると、ナメコは1921年に東北地方で初めて人工的に原木栽培され、伝統的にこのきのこを食してきたという。近代的なナメコのおがくず栽培は、食用きのこのおがくず栽培のパイオニアである森本彦三郎によって1930年に確立された。その後、1960年代から1970年代にかけて木製トレー栽培が開発され、日本における選抜菌株の商業生産が拡大した。1980年代以降は、空調を伴うオガクズ栽培で通年生産が可能となり、日本での生産量の99.7%を占める主流となった。その後、1970年代半ばに中国遼寧省南部にナメコ栽培が導入された。それ以来、中国はその最大の生産国となった。最終的に、2012年には中国が70万トン以上、日本が2万トン以上のなめこを生産し、現在のアジア各地、北米、ヨーロッパへの栽培の広がりを引き起こしている。
もともと日本でしか栽培されてこなかったのに、今となってはほとんどが中国産なんだね。
そのため、食用きのこの栽培の歴史は、作物植物や家畜に比べて比較的浅いことが報告されている。例えば、最も古くから栽培されているきのこの一つである椎茸の栽培は、約800年前に中国で行われたようである。しかし、ナメコの栽培は約100年前から行われている。1929年に山形県で採取された野生子実体から初めてナメコの家畜化株が分離されたが、戦後の混乱期に消失したとする説が唱えられている。ナメコの家畜化過程に関する記録はほとんどない。しかし、現在オガクズ栽培に用いられている株は、1962年10月16日に福島県山都町市で採集された単一の野生株F27に由来すると考えられる。したがって、市販のナメコの大部分はこの厳しいボトルネック現象に由来すると推定され、その結果、遺伝的変異が非常に少なくなっている。栽培種と野生系統の遺伝的多様性の比較は行われていない。したがって、家畜化された種の遺伝資源を利用し、さらに品種改良を進めるためには、その進化史を正しく理解することが必要である。そのためには、家畜の自然集団の遺伝的多様性と集団構造に関する知識が必要である。
断片的な資料や口伝などでF27という株が起源ということは推測されていたものの、きちんと裏付けがなかったみたい。今後品種改良を進めて継続利用していくためには、そもそも今出回っている株がどこに由来しているのか、また多様性はどうなっているのかを調べることが大切なんだね。
本研究により、日本産オガクズ栽培株は自家繁殖または家族内交配に由来していることが示された。これらの結果は、日本のオガクズ栽培で生産される商業用ナメコは単一の祖先の子孫であるとする単一祖先仮説と一致する。したがって、日本の商業用ナメコは単一の家畜化事象に由来するため、遺伝的多様性が著しく低いと結論づけられる。
日本全国から収集されたナメコ野生株の中程度の遺伝的多様性レベルは、他の木材腐朽菌の野生株と同等かそれ以下であると報告されてきた。また、他のきのこの栽培株はいずれも複数の家畜化起源を持つことが研究で示されており、ナメコの自然集団は、おがくず栽培に有効な菌株を開発するための新たな遺伝資源となり得ることを提案する。
中国におけるナメコの生産は、日本からの始祖株F27の子孫が一部寄与しているものの、少なくとも一部の中国産品種は異なる家畜化過程を経たことが示唆された。日本以外での栽培履歴を明らかにするためには、中国における栽培ナメコの全体的な遺伝的多様性に関するさらなる調査が必要である。
他の栽培きのこには複数の起源があるのに、菌床栽培なめこは単一だから遺伝的多様性が極めて低いという評価なんだ。栽培の持続可能性や新たな品種を生み出すためには、野生株や世界中で栽培されている株の追加調査が必要なんだね。
現在国産なめこ種菌を牛耳っている種菌メーカー大手「キノックス」のサイトに詳しいよ。
http://www.kinokkusu.co.jp/etc/09zatugaku/hakase/ha-nameko_04.html
品種改良以前に、そもそも種菌の性能維持にもすごく神経を使っているんだね。
http://www.kinokkusu.co.jp/etc/09zatugaku/hakase/ha-nameko_05.html
きのこの分類にはまだまだ謎が多いよ。しいたけやなめこ級のメージャーきのこですらコロコロ変わってる。
http://www.kinokkusu.co.jp/etc/09zatugaku/mame/mame02-3.html
その後、引用した論文にもあるとおり、Pholiota microspora (Berk.) Sacc. (synonym P. nameko)というシノニムにnamekoという文字が残ったよ。
なんだかんだでwikipediaがそれなりに情報量も多くてまとまっているよ。
菌床栽培 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8C%E5%BA%8A%E6%A0%BD%E5%9F%B9
原木栽培 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%9C%A8%E6%A0%BD%E5%9F%B9
もしあなたがなめこを栽培したかったら、すでに植菌済みのブロック菌床(なめこ栽培キット的なやつ)を買うと1週間くらいはニョキニョキ生えるなめこを楽しめるよ。
原木栽培も、適当な雑木と、種駒(今の時期ならホームセンターにたいてい置いてある)と、ジメジメしたちょっとした林があれば簡単にできるよ。
http://www.kinokkusu.co.jp/saibai/sa-g-name.html
自分は過去に短木栽培、長木栽培いずれもチャレンジしたことがあるけど、シイタケよりもずっと簡単で収量も確実だよ。長木なら、駒打って日陰に埋めるか腐葉土たっぷりのジメジメした完全日陰に転がしとけばいいよ。シイタケでよく使われるナラやクヌギみたいな硬い木よりも、ブナ、シデ、サクラみたいな柔らかい木の方が菌の周りが早くて確実なんじゃないかなあ。
まだまだいろいろ書きたかったけど、夜も遅いしこの辺でやめておくよ。
またどこかで会えたらよろしくね。
ここまで読んでくれた聡明なあなた、もしかして「なんか物足りねーな」って思ったかな?
実はそうなんだ。業界的にはたぶん、正直そこまでニュースバリューのある話ではないんだよね。
というのも、おそらくごくごく一部の人たちの中では知られていたであろう「新しい品種作りたいけど、クローンみたいなのしかなくて掛け合わせできねー」「正確な記録は残ってないけど、たぶん全部F27が起源なんじゃねーの」ってことの遺伝的な裏付けが取れたってだけだからね。無論、優良株を持続生産するために必要な研究が一歩前進したってニュース自体は大変喜ばしいけども。
きのこがニュースになるのは嬉しいけれど、見出しにつられて勘違いした人が大量発生するのは嬉しくないし、だから私たちのようなきのこ好きが発信する必要があると思うのね。
当たり前だけど、今流通しているなめこは遺伝的に同じ(中国産については一部国産とは異なる可能性あり)と言ってもいいし、(福島を下げる意図は無いのだけど)特別福島県産のなめこが美味しいなんてことはないので、安心してなめこライフを楽しむと良いよ。
ちなみに、いまだに福島県産のきのこに放射性物質が残留しているんじゃないか、なんてことを心配する人がごくごく少数いるけれど、菌床栽培物については全国どこでも似たような産地の原料使っているので変わりないよ。
一方で原木しいたけやホダ木の生産は、まだまだ一部の市町村で出荷制限がなされていたりするんだ。
https://www.rinya.maff.go.jp/j/tokuyou/kinoko/qa/seigenfukusima.html
特にホダ木については事故以前に一大産地だった福島県産ホダ木がほとんど壊滅して、他県に流れてしまったという悲しい事態が起こってしまった。ホダ木の栽培は、20年サイクルくらいで林を皆伐しながら管理するので、一度生産を止めてしまうと再開するには膨大なコストがかかってしまうんだ。福島県のホダ木生産者の方の気持ちを思うと本当にやるせない。
1970年代のある時期、手塚にとって人間とロボットとの結婚は大きなテーマだったようで、『火の鳥』「復活編」の連載が始まるおよそ10ヵ月前の1970年1月、雑誌『プレイコミック』にもこんな短編を発表していた。
『聖女懐妊』と題されたこの物語は、土星の小惑星が舞台である。そこで通信員をしている南川という男と助手のマリアというロボット。ふたりはやがて恋に落ち、何とふたりの間に愛の結晶が誕生するというお話である。もしかしたらこの時得たヒントがふくらんで、『火の鳥』「復活編」の、さらに深い意味での人とロボットの結婚へとつながっていったのかも知れない。
『手塚治虫扉絵原画コレクション1950-1970』(2017年、玄光社刊、定価4,600円+税)より『聖女懐妊』雑誌掲載時の扉絵。この本は、手塚マンガの扉絵原画をオールカラーで収録したもの。『聖女懐妊』のようなモノクロ1色の扉も、ペンタッチやホワイト修正の跡などをカラーで再現している。2018年2月15日には『手塚治虫扉絵原画コレクション1971-1989』(定価4,600円+税)も発売。
ロボットのマリアを愛する南川。宇宙の神秘の力を信じたふたりに奇跡が起こることになる……。https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201802/column.html
https://www.smfg.co.jp/sustainability/report/topics/detail096.html
マグマから得られる地熱や、地表付近の地中熱は国内で安定的に得られる国産エネルギー源で あるにもかかわらず、これまであまり利用が進められてこなかった。しかし、エネルギーの在り 方が抜本的に見直される中、あらためて地熱資源に注目が集まり始めている。
東日本大震災や地球温暖化問題を機に、エネルギー政策の抜本的な見直しが議論されている。太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーが注目を集める中、新たな脚光を浴びているのが地熱資源だ。地熱資源は、マグマの熱に由来する高温流体を利用する地熱と、太陽熱に由来する地表周辺の地中熱の2種類に分類される。地熱も地中熱も実用化の歴史は長いが、国内ではあまり普及が進んでいない。本特集では、地熱発電と地中熱利用、それぞれの現状と普及に向けた課題、今後の展望を考察する。
地熱発電に利用されるのは、マグマから得られる熱エネルギーだ。火山帯の地下数キロメートルから数十キロメートルには、1,000℃を超える高温のマグマ溜まりがある。このマグマ溜まりで熱せられた岩石中に地下水が浸透すると、熱水あるいは蒸気を蓄えた地熱貯留層ができる。この地熱貯留層まで井戸を掘り、200~350℃という高温の熱水/蒸気を取り出してタービンを回すのが地熱発電の基本的な仕組みだ。その魅力は、24時間365日安定的に発電可能で半永久的に枯渇の恐れがないことと、発電時のCO2排出量がほぼゼロであることだ。
日本の地熱資源量は2,300万キロワット超で、アメリカ、インドネシアに次いで世界3位を誇るが、発電設備容量で比較すると、1位の米国が309.3万キロワットなのに対し、日本は53.6万キロワットで8位にすぎず、豊富な資源を生かしきれていない状況にある。
日本の地熱発電が普及しなかった主たる要因は、「立地規制」「地元の理解」「エネルギー政策」の3つといわれている。
「立地規制」とは、政府が1970年代から景観保護などを理由に国立公園、国定公園、都道府県立自然公園における地熱開発を制限したことを指している。国内の地熱資源の7~8割は国立公園内にあるため、これが事実上の開発制限となってしまっているのである。
「地元の理解」とは、地熱資源立地区域に隣接する温泉地区の事業者の理解が得られないことである。科学的な根拠や具体的な因果関係を示すデータはないが、温泉地に関わる観光事業者が温泉源枯渇を理由に開発を拒否するケースは全国で起きている。
「エネルギー政策」とは、政府による開発支援の問題と言い換えてもいい。1974年に始まった「サンシャイン計画」では、地熱発電は主要な発電方法の1つと位置づけられ支援策も充実していたが、1993年の「ニューサンシャイン計画」以降、研究費が削減され、1997年の「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法(新エネルギー法)」では、「新エネルギー」分野の研究開発対象に選ばれなかった。さらに、2002年の「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法(RPS法)」では、対象となる地熱事業は「熱水を著しく減少させないもの」という条件が付いたため、従来の発電方式では支援を得ることが難しくなってしまった。
そもそも地下資源は開発リスクの高い事業である。開発の際は、地表評価を行った後、地下深部に多数の坑井を試掘し、発電可能な地熱資源を掘り当てなくてはならない。試掘とはいえ、掘削には1キロメートル当たり約1億円のコストがかかる。地中にはマグマがあるのだから、掘削すれば必ず地熱資源を得られるだろうとの推測は素人考えで、事実はまったく異なる。重要なのは、マグマ溜まりの探索というよりも地下水が貯まる地熱貯留層を掘り当てられるかどうかだ。現代の高度な探索技術をもってしても、地下1~3キロメートルに分布する地熱貯留層を正確に検知することは極めて困難で、今も開発事業者の知見や勘に頼らざるを得ないというのが実情だそうだ。首尾よく掘り当てたとしても、高温蒸気を安定的に得られるのか、どの程度の発電ポテンシャルがあるのか、熱水の長期利用が周辺環境に影響を与えないのかなどを見極めるため、数年間にわたるモニタリングが欠かせない。そのうえ、資源を掘り当てても認可を得られなければ発電事業はできない。地熱発電の調査から開発までに10年以上の期間が必要とされるのは、このような理由による。ある意味、油田開発と同等のリスクとコストが必要とされながら、出口としては規制に縛られた売電しかないため大きなリターンも期待できない。こうした状況では、地熱発電事業への参入者が現れなかったのも、致し方ないといえる。
しかし、地球温暖化や東日本大震災の影響により地熱発電に対する風向きが変わってきた。地熱開発を阻んできた3つの要因すべてに解決の糸口が示されたのである。
まず、環境省が、地熱開発に関わる自然公園法の規制緩和に動き始めた。2012年3月21日には、第2種、第3種特別地域について、域外から斜めに掘り込む傾斜掘削を容認し、さらに関係者や地域との合意形成、景観に配慮した構造物の設置、地域貢献などを満たす「優良事例」であれば、技術的、コスト的にも負担の少ない垂直掘削も認められることとなった。これに加え、3月27日には「温泉資源の保護に関するガイドライン(地熱発電関係)」を都道府県に通知し、地元調整の在り方を具体的に示した。これらの施策により、立ちはだかっていた「立地規制」と「地元の理解」に関するハードルが一気に下がったのである。
さらに、経済産業省が、2012年度予算に地熱資源開発促進調査事業として91億円を盛り込み、地表調査費用の4分の3、掘削調査費用の2分の1を補助。資源開発のノウハウを有するJOGMEC(独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)による開発準備段階の民間企業への出資や、開発資金を借りる際の債務保証ができるよう、石油天然ガス・金属鉱物資源機構法を改正する方針を示した。そのうえ、「再生可能エネルギーの固定価格買取制度」により、売電開始後15年間の地熱発電の買取価格(1キロワット当たり)は、1.5万キロワット以上で27.3円、1.5万キロワット未満で42円という価格が提示された。こうした「エネルギー政策」の転換により、地熱発電事業を覆っていた分厚い雲の合間から、明るい光が射し始めた。
こうした流れを受け、10年ぶりに新たな開発プロジェクトが動き始めた。電源開発(J-POWER)と三菱マテリアル、三菱ガス化学は、秋田県湯沢市葵沢・秋ノ宮地域で地熱発電所の建設を進め、出光興産は他社と連携し、北海道阿女鱒岳(アメマスダケ)地域および秋田県湯沢市小安地域に地熱発電の共同調査を行うほか、福島県の磐梯朝日国立公園内に国内最大の地熱発電所をつくる方針を示している。
岩手県八幡平では、八幡平市と日本重化学工業、地熱エンジニアリング、JFEエンジニアリングが出力7,000キロワット級の発電所を2015年に開設すると発表している。JFEエンジニアリング エネルギー本部発電プラント事業部の地熱発電部長、福田聖二氏は、「弊社は、全国18カ所の発電所のうち9カ所で蒸気設備を建設してきました。その実績とノウハウを生かし、今後は発電事業への参入も視野に入れて開発に乗り出します。また、世界最大のバイナリー発電メーカーとも協業し、従来型より環境や景観に配慮した次世代型の地熱発電所の開発にも取り組んでいきます。地熱発電は、一度開発すれば半永久的に安定稼働が可能というメリットがあり、太陽光や風力などの再生可能エネルギーとともに今後重要な役割を果たすものと考えています」と話している。
福田氏の言うバイナリー発電とは、熱交換器を通して地熱流体(熱水、高温蒸気など)の熱エネルギーを低沸点媒体で回収し、それを沸騰させてタービンを回す発電法だ。使用した地熱流体を地上に放出することなく全量還元できるため、地下水減少のリスクが極めて少ない。また、発電設備から蒸気を排出せず、国立公園などの自然景観に配慮した発電所を建設できるため、環境省の定める「優良事例」に認められる可能性が高いとして期待されている。さらに、熱交換用の低沸点媒体の種類によっては、温泉水(70~120℃)の熱エネルギーを利用した温泉発電も可能だ。温泉発電は、既存の源泉と温泉井に手を加えずに発電ユニットを後付けするだけで実現でき、温泉地への影響も源泉枯渇の心配もない。JFEエンジニアリングでは、福島県の土湯温泉町で2014年に500キロワット級の発電事業を始めるべく、計画を進めている。これは、震災の影響により温泉収入が減った同地で、地熱発電を地域活性化に生かそうとする試みである。このようにバイナリー発電方式は、大型の地熱発電所だけではなく、小型の温泉発電所にも適しており、地産地消型の分散電源として各地に広まる可能性も秘めている。
新エネルギーとして世界的に研究が進む地熱発電分野では、高温岩体発電など新しい技術も生まれている。これは、水を圧入して人工的に地熱貯留層を造り、熱エネルギーを抽出する方式で、天然の地熱貯留層を掘り当てる必要がなく、開発リスクを減らすとともにさまざまな場所で地熱発電が可能になるため、大きな注目を集めている。しかし、人工的な地熱貯留層の構築が環境にどのような影響を与えるのかなど、検証データが揃っていないため、実用化にはしばらく時間がかかると見られている。
国際エネルギー機関(IEA)の試算によれば、世界の地熱発電量は2050年までに年間1兆4,000億キロワット時まで拡大すると予測されている(2009年の地熱発電量は年間672億キロワット時)。現在、日本企業は、地熱発電用タービンで世界シェアの7割を占めるなど、同分野で世界トップレベルの技術を有している。今後、世界規模で拡大が予想される地熱発電分野において、日本企業が存在感を発揮することが期待される。
第2部では、もう1つの地熱資源「地中熱」について考察する。「地熱」と「地中熱」の最大の違いは熱源である。マグマに由来する熱水や高温蒸気がエネルギー源の地熱に対し、地中熱は、太陽で暖められた地表付近の熱がエネルギー源だ。火山地域など対象地が限定される地熱と違い、地中熱は全国どこでも得られ、安定的に利用できることが特徴だ。
地中温度は太陽熱の影響により浅部では昼夜・季節間で変化するが、10メートル程度の深度では年間を通してほぼ一定の温度を保っている。その温度は、地域の年間平均気温とほぼ同等となっている。ちなみに東京の地中熱は年間約17℃で安定している。四季のある日本では、大気は夏暖かく冬冷たいが、地中の温度は一定であるため、この温度差を利用して冷暖房や給湯、融雪などを行うのが地中熱利用の基本原理である。
地中熱利用にはいくつかの技術があるが、現在主流となっているのは地中熱ヒートポンプシステムである。これには、地下の帯水層から水を汲み上げて熱交換を行うオープンループ型と、水や不凍液などの流体を地中のパイプに通して放熱・採熱を閉じた系で行うクローズドループ型がある。オープンループ型は地下水を利用するため設置場所がある程度限定され、主に大型施設で用いられているが、クローズドループ型は場所を選ばず設置でき、環境への影響が少ないことから、現在の主流となっている。
地中熱利用促進協会の笹田政克理事長は「地中熱ヒートポンプシステムは、省エネ・節電対策および地球温暖化対策に極めて効果的です。このシステムは、気温と地中の温度差が大きいほど、通常のエアコンに対する優位性が高く、真夏や真冬ほど高い省エネ効果を発揮します。地中熱を利用すれば、冷房使用率が最も高い真夏のピークタイムなどでもエネルギー消費を抑えられることから、現在問題となっている電力供給量不足の解決策として期待されています。また、地中熱利用はヒートアイランド現象の抑制にも効果があります。ヒートアイランド現象は、建造物からの冷房排熱が大きな要因とされていますが、地中熱の場合、冷房排熱を地中に放熱してしまうため、都市部の気温上昇を抑える効果があるのです」と語る。
地中熱ヒートポンプによる冷暖房システムは、オイルショックを機に1980年代から欧米を中心に普及が進んだ。アメリカでは、現在100万台以上が稼働している。また、中国も助成制度を整備したことが功を奏し、世界2位の普及率を誇っている。これに対し日本は、2009年時点の導入施設数は累計580件にとどまっており、海外と比べて普及が進んでいない。これは、地中熱が認知されていなかったことや、掘削などにかかる初期コストの高さが主な要因と考えられている。
しかし、2010年に政府がエネルギー基本計画で地中熱を再生可能エネルギーと位置づけたことや、2011年度以降に「再生可能エネルギー熱事業者支援対策事業」「地域再生可能エネルギー熱導入促進事業」などの支援策が相次いで打ち出されたことから、国内でも急速に認知が進み、さまざまな分野で導入が検討され始めている。
コンビニエンスストア、学校、東京スカイツリータウン(R)も地中熱を導入
支援制度の拡充や節電意識の高まりを受け、近年、さまざまな分野で地中熱の導入が進められている。たとえば、羽田空港の国際線旅客ターミナルビル、東京中央郵便局の跡地に建設されたJPタワー、セブン-イレブンやIKEAの店舗、富士通の長野工場、東京大学駒場キャンパスの「理想の教育棟」など、ここ1、2年の間に導入が続いている。また、旭化成ホームズやLIXIL住宅研究所が地中熱冷暖房システムを備えた住宅を販売するなど、一般住宅でも地中熱利用が始まっている。
今、話題の東京スカイツリータウンでも地中熱が利用されている。同地域のエネルギー管理を担当する東武エネルギーマネジメントの Permalink | 記事への反応(0) | 19:37
そもそも女だとバレたら叩かれるというのがない。KYで空気読めないメンヘラを標準にされても困る
エロゲなどがPCで出てたのはWindows95よりもさらに前の話だし
ホームページページビルダーが登場したのもYahoo!がホームページとか検索できるようにしたのもテレホーダイも1995年くらいの話だし
そもそも中学校にも高校にも図書館にも1999年以前からPCがあったのに上記のいずれにも触れる機会がなかったって
1980年代生まれですらなさそう(1970年代生まれなの?)なんだが、
もし1990年以降の平成生まれなら異常に感度低いor知能が低いのでは?ってのが一連のやりとり見てて思うこと
「日本語ロック論争」は、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが「議論」された。日本語はロックのメロディーに乗らないという説に、英語派であるミュージシャンは海外成功目標で英語は不可欠という論拠の内田裕也(と、その牽引していたフラワー・トラベリン・バンド)、グループ・サウンズ時代から活動するザ・モップスは英米追随ながら本物のロック音楽志向という立場である。日本語派はっぴいえんどは[注釈 1]、その前身エイプリル・フールから移行発展するなか[注釈 2]うたごえ運動の流れを汲むボブ・ディランらに影響を受けたフォークの岡林信康ら、日本語で歌うアーティストが次世代音楽(ポップス、またはニューミュージック)に進展する中起こった「議論」がある。
誰もが通った道なんや。
ジャズ音楽・ハワイアン音楽の要素を取り入れた「ムード歌謡」。美空ひばり・石原裕次郎の登場。
都会的なムード歌謡に対して田舎的な「演歌」が登場。プレスリーの影響を受けた「ロカビリー」ブーム。ビートルズの影響を受けた「グループサウンズ」ブーム。学生運動の盛り上がりから「フォークソング」ブーム。
反商業的だったロックやフォークが徐々に商業音楽に取り込まれて「ニューミュージック」に。吉田拓郎などシンガーソングライター(=レコード会社主導の分業制ではない)が登場。新御三家・花の中三トリオに代表されるアイドルたち。ピンク・レディー。
BOØWY・ブルーハーツなどのロックバンドブーム。YMOによるテクノポップブーム。おニャン子クラブ。
小室ファミリー・ビーイング系を中心とした「J-POP」。アイドルでは光GENIJI・SMAPなどジャニーズ系。モー娘などハロプロ系。宇多田ヒカルのデビューとR&Bブーム。X・GLAY・ラルクなどのヴィジュアル系。
宇多田ヒカル・浜崎あゆみなど女性シンガー(ディーヴァ系)の人気。Dragon Ashなどヒップホップブーム。BUMP OF CHICKENなどロキノン系。EXILE系の台頭。
AKB48と嵐の二大アイドルがCDチャートを席巻。ただし音楽販売はCDから配信へ。東方神起・KARAなど第一次K-POPブーム、BTS・TWICEなど第二次K-POPブーム。インターネットを中心としたボカロブーム。
両者は2本別々の作品だが、文庫化された当時、一冊にまとめられたもの。
共通するテーマは旅。いずれも見開き2ページで一話完結。さまざまなエピソードを収録している。
高度経済成長を経て経済大国となった70年代半ば、ブームになったのはハワイや香港などの海外旅行。
おりしもジャンボジェット機が就航し、高価だった海外旅行が庶民の手に届くようになった時代。
それまでの日本人の旅行といえば、熱海など温泉旅行。そして企業など慰安旅行が当たり前で、宴会どんちゃん騒ぎに温泉コンパニオン。
そんな温泉社員旅行のノリで、庶民たちが海外ツアーに出かけると、一体何が起こるのか。。。
バスタブを初めて使い、トラブルになる場面、当時のお土産の定番だったジョニ黒をネタにした作品、常磐ハワイアンセンターにダンサーを引き抜かれて本場のハワイではすっからかん、お土産にアロハシャツを棚ごと買い占める成金、といった当時の世相をユーモラスに描いている。
こんな客もいた。
英語をしゃべってみたくて、外人のスチュワーデスをコールするが、全く通じない。ワンスカッッチャンドワーラープリーズ!などと必死に連呼するも歯が立たず、添乗員を呼びつける。
スコッチの水割りを頼んでるのに英語が通じないんだと添乗さんに話すと、そばでその日本語を聞いていたスチュワーデスがオー!スコッチ・エンド・ウォーターのことね、とはじめて理解した、という。
全く英語のわからない外人スチュワーデスも困ったもんだねえ!と添乗さんに文句をいうオチ。
こういう人、いるよねぇ。。
安孫子先生の人間観察とそのユーモアあふれる描写の仕方は本当に好きでした。
海外旅行ツアーが大ブームになった70年代、一方、国内では、一人旅がブームとなっていた。
当時の日本の歌謡曲も、心の旅(1973)、岬めぐり(1974)、いい日旅立ち(1978)など一人旅をテーマにした曲が流行していた。
こちらの作品ではサラリーマン生活に疲れ、癒しを求めて一人旅にでた孤独な青年の旅先での小話が描かれている。
添乗さんが日本人の集団心理を切り取ったものだとすれば、こちらは日本のそうした組織風土に疲れて旅に出た青年を描いている。
モーレツ、と言われた時代が去り、しらけ世代という言葉が登場した70年代半ばというのは、どこかに誰も知らないところへ出かけたい、そういう時代だったのだろう。
なかでも印象深いのは、寝台列車に乗って、普段通勤していた駅に到着した朝、カーテンを開け、ホームで通勤列車を待つサラリーマンにわざと、お酒を飲んでくつろぐ姿を見せつけるエピソード。
線路わきでのんびり昼寝をしていたら、蒸気機関車の音にむっくり目が覚まし、
いまどきSLなんてめずらしいねーなどと、近くでのんきにSLを眺め、見送るエピソード。
驚愕したのは、朝からポジションを決めて待っていた撮り鉄たち。
線路わきから突如、人がにょきっと立ち上がって姿を現したため、予想外の出来事に動揺。邪魔だ、どけー!と叫んでも機関車の音で聞こえない。
「添乗さん」では、ホンモノをゲットすること、象徴的な意味での旅の証明としての戦利品を収集したり体験することが旅の重要なアジェンダとなっている。
例えば、マカオでニセモノに騙される日本人や、ビーチでナンパを試みたツアー客が間違えて日本人女性に声をかけながらも外人女性だけを探し求める姿などを風刺している。
一方、「さすらいくん」のほうでは、旅の目的は疲れ切った日常から逃避する場所を求めた癒しであり、ぬくもりだ。旅先の情報など何一つ収集しないし、旅の思い出を語る誰かもいない。
どちらも哲学的な意味での旅の本質をさらっと描いているのが秀逸だ。
この2作品は、旅というテーマを通じて、当時の日本人が何を思い、旅先にどんな夢を描いていたかを、
藤子不二雄Ⓐ先生にしかなしえないユーモアでもって簡潔に描写している、という点で同氏の傑作のひとつ。
どうもありがとうございました。
イチキュッパはともかく、むかしのチラシをみてると、
1960年代までは、数字の8が目立つことは無かったんだけど、
「通貨が下がったら」ではあるが、海外に売れるものを売れば通貨は上がりますな。そして、海外に売れるものを作るには企業の設備研究投資と、政府の基礎応用研究投資が必要。
デフレだと企業が設備研究投資をしない。だから、デフレであれば設備研究投資をしてインフレにするべきというのがケインズ。その後、インフレでも不況というスタグフレーションがあって、政府をスリム化させたほうが良い!という新自由主義が起きた。
しかし、スタグフレーションは1970年代のオイルショックや、欧州日本の戦後復興に相対的に負けたアメリカのように、需要が高まっても、合致する供給を自分たちが作れない問題。
今のロシアの経済制裁由来の石油・食糧・資源不足インフレに、金融収縮だとか金利上げなんてのが解になっているという馬鹿なことを言ってる。足りない品物を設備研究投資をして作るしか解はないのに
ホンダのASIMOが日本科学未来館を卒業するって言うニュースがホッテントリ入りしてて、“ASIMOを作れていた頃が、日本の製造業が一番輝いていた時期なのかも”ってブコメがついててそこその星が集まってんだけど、ああ、本当に日本の製造業が輝いていた時代を知らない世代が増えてんだろうなあ、と、なんだな切なくなった。
1970年代後半から80年代は、本当に日本の製造業が一番輝いていたんだよ。
ニコンやキャノンの一眼レフがドイツのカメラを市場から追い出したんだよ。
“コイツのせいで俺たちの仕事を奪ったんだ”と日本車がアメリカの労働者に叩き潰されたんだよ。
イヤホンでどこでも一人で音楽を聴くという、それまでなかった音楽の楽しみ方をSONYが広めて、“ウォークマン”なんていう、明らかな和製英語が英語として字書に収録されたんだよ。
ビデオデッキやビデオカメラは、日本企業同士の規格争いがそのまま世界のデファクトスタンダードを決めてをきめて、世界シェアの9割を日本が握ってた時代もあるんだよ。
“電子立国日本の自叙伝”なんていうドキュメンタリー番組が人気になって、半導体もバンバン作ってたんだよ。
あれは、“でも、でも、まだこれくらい夢のある技術がまだあるもん!”という、燃え尽きる前の最後の輝きみたいなもんだろ
今も残ってるのは車くらいか。
電卓もカメラも時計もウォークマンもビデオも、スマホ一台で事足りるようになっちまった。
今更ながら、なんでこんなことになっちまったんだろ。