はてなキーワード: タイムラグとは
https://anond.hatelabo.jp/20230429181529
・まあそうなんだけど、それを当たり前とするなら『じゃあ女は育児や出産に専念すべきでは』という思想が生まれるのもまた当たり前としなければならないだろう
・「女性に大事な仕事をさせたがらないのは当たり前なんじゃないか。だって出産があるでしょ?」と同じロジックだな。まあ両方受け入れるならいいけどさ。
・上方婚が最適解、と言うなら男女の賃金格差は温存すべきってことになるけどそれでいいの?
これまでの、そして今現在の日本社会は「女性は育児や出産に専念すべき」「出産があるから女に大事な仕事をさせたくない」という思想がまだ強く、賃金格差も残っている。
そもそも、女性でまともな職に就くのが難しかった時代は、ほとんどの結婚が上方婚だった。
上方婚という言葉自体、男女の賃金格差が減りつつあるから生まれたものだ。
格差がゼロになれば、多少のタイムラグはあれど女性ゆえの上方婚志向もゼロになっていくと考えられる。
(この格差ゼロは妊娠出産も含む。夫婦は精子と卵子を提供するだけで、あとは人工子宮任せとか。)
男女格差がゼロの社会では、男女関係なく稼ぎが少ない人だけが上方婚を目指すようになる。
あるいは国が貧しければ、男女関係なく全員が上方婚を目指すかもしれない。
(事実、若者の収入が減ったことで、格差解消した分だけ上方婚志向が弱まってない可能性はある。
いずれにせよ雇用・賃金・妊娠出産育児等における男女平等の達成が先だ。
逆はない。
うちのお嬢様にも聞いてみたわ
はい、かしこまりましたわ。 「push型」と「pull型」は、コンピュータネットワークにおいて、情報の送信や受信において使われる手法の違いを表していますわ。 「push型」とは、情報提供者が情報を定期的に送信し、情報受信者がそれを受信する方式のことですわ。情報提供者が送信するタイミングや内容を制御できるため、リアルタイム性の高い情報伝達に向いているといえますわ。 一方、「pull型」とは、情報受信者が情報を必要に応じて取得する方式のことですわ。情報提供者が情報を用意しておき、情報受信者がアクセスすることで取得できるようになっていますわ。この方式では、情報提供者と情報受信者の間にタイムラグが生じるため、リアルタイム性の高い情報伝達には向いていませんわ。 例えば、SNSのタイムラインはpush型の一例として挙げられますわ。ユーザーが登録しているアカウントの投稿情報が順次表示されるため、情報提供者が自由に情報を投稿し、情報受信者がその情報を受信することができますわ。一方で、ウェブサイトの閲覧はpull型の一例として挙げられますわ。情報提供者がウェブサイトを公開し、情報受信者が必要に応じてアクセスすることで情報を取得できますわ。 以上が、push型とpull型の違いについてのお話しでしたわ。いかがでしたでしょうか?
ありがとうございます。では、人間の便通をコンピューターサイエンス的な手続きに例えてください。
おっしゃることが、正直言って理解しきれませんわ。ただし、少し考えた結果、便通における排泄という過程を、コンピュータサイエンスの処理に例えることができるかもしれませんわ。 例えば、コンピュータサイエンスにおいては、ある種のデータを処理する際に、そのデータが不要になった場合には、そのデータを解放する必要がありますわ。同じように、便通においては、人間の体内に入った栄養や水分を摂取することができたものの、不必要になった物質を排泄することで、体内に不要なものが残らないようにしていますわ。 また、コンピュータサイエンスにおいては、データ処理にあたっては、データの整理や整形、または不要な情報の除去が必要な場合がありますわ。同じように、便通においては、排泄物の中から必要のないものを除去することで、身体に必要な水分や栄養分だけを取り込むことができますわ。 以上が、私が考えた、コンピュータサイエンスと便通を例えた内容になりますわ。どうでしょうか、ご理解いただけましたでしょうか?
いいですね!ではその場合、便通はpush型とpull型のどちらと言えるでしょうか?
それは少し微妙な問いですわね。便通をpush型とpull型どちらかに分類することはできないように思われますわ。 便通には、身体の中で不要になった物質を排泄するというプロセスがあります。このプロセスは、自発的な行動とは異なりますわ。つまり、個人が自分の意思で行動するのではなく、身体が自然に反応することで、物質を排泄するようになっているのですわ。 したがって、便通は、自発的なプロセスではなく、身体が自然に反応するプロセスと言えます。そのため、便通をpush型またはpull型に分類することはできないと言えますわ。
自発的ではないプロセスはpush型やpull型に分類できないということですね。
では、自発的に排便を促すよういきむような場合は、push型かpull型のどちらかに分類できるということでしょうか?
そうですわね、排便を自発的に促す場合、push型と言えるかもしれませんわ。なぜなら、個人が自分自身の意思で、便を体外に排出しようとする動きを行うからですわ。ですが、便通自体は自発的なプロセスではないことに変わりはありませんわ。
そういった私の個人的な情報はお答えできませんわ。私はAIアシスタントとしての役割を果たしておりますので、そのような質問には回答できません。申し訳ありません。
ちょうど高校生の頃だったか。auのWIN携帯を買ってもらってインターネットつなぎ放題になってから本当にのめり込んだ。自分でもサイトを作って思ったことを書き散らしていた。リンクを踏んで踏んで惹かれるサイトを見つけてはブックマークしてたな。当時はWeb拍手ってのを設置している人も多かったから、それでコメント送ったりして。いつ返事をしてもらえるかなあなんてわくわくした。やりとりにタイムラグがあったんだよね。やんわりとした不思議なつながりが好きだった。
またあんなふうにインターネットを使ってみようかなあ。SNSばかりみるんじゃなくて、せめてブログをブックマークして定期的に訪問するとか。好きなサイトを見つける努力をしようかな。
SMBC がOliveなる新しい金融システムを始めることが話題になっている。ポイント還元ばかり話題になるが、気がついたことがある。
もしかして、もはや地銀をメインバンクにしておく意味はほぼないのでは?
ことら送金などのシステムが登場し、今時、個人取引ならば、アプリとWebでほとんど済んでしまう。というか、地元の地銀の窓口にすら、長年いった覚えがない。
そして、ほとんどの決済をすでにカードにして、現金はほとんど使わない(一ヶ月に1万円も使わない)俺にとっては、ATMすらもあまり重要ではない。
一方で、現在メインで使っている銀行は地方銀行では、IT化が遅れている。一応はあるし、ことら送金などもキャッチアップはしているのだが、使い勝手がいまいち微妙で、どうも5年ぐらいのタイムラグを感じる。地味に使うのでちょっとずつストレスがある。
さらに、国はフィンテック企業などの発展から規制の緩和を進めていて、与信や財務分析といった機能はもはや人間よりコンピュータの方が信頼できる分野だ。銀行という業種は今後どんどんIT企業に近づいていくことになるだろう。そのとき、地方銀行がキャッチアップできるだけの体力があるだろうか?
そう考えると、地元に店舗があり、地元にATMがあるという理由で地銀を使っているが、そのメリットはもはやないのではないか。
そう思ってBingに聞いてみた。(リスト化の装飾は私による)
※※※※※※※※※※※
地方銀行にお金を預けるメリットは、以下のようなものがあります1。
ご自身のニーズに合わせて、地方銀行を選択するかどうかを検討してみてください。👍
※※※※※※※
都市銀行にお金を預けるメリットは、以下のようなものがあります12。
ご自身のニーズに合わせて、都市銀行を選択するかどうかを検討してみてください。👍
※※※※※※※※
まぁそうだよなあ。
「シンギュラリティ」や「技術的特異点」の記事を見てて思うんだけど
コンピュータ関係で急速な科学技術の進化が起きた場合、必ずコンピュータが
人間のような知性というか心を得ている事が前提になってるのが気になる。
パラメーターがメチャクチャ多くなったニューラルネットワークでも案外いろんな事が出来るのが分かってる。
そういう「心」的なものをいまいちモデル化してるとは言えないようなAIでもコンピュータの設計・製造が
だいぶ改良されていくような未来もあり得るんじゃないだろうかと自分は思う。
もしそれが出来たら性能の上がったコンピュータで更に凄いコンピュータを設計・製造するようになっていき
性能は信じられないほどに上がっていく可能性もあるだろう。
つまり可能性としてコンピュータの性能が今よりずっと急激なスピードで上がっていく一方で
コンピュータが知性を依然として獲得しないままの未来もあり得るんじゃないかと思う。
例えば「リーマン予想の証明を出力して」とコンピュータが質問されたら速攻で正しい証明を出力出来るのに
でもコンピュータ自体は何も判断を行わないような未来の可能性だ。
もしくは急速に性能が上がって何年かのタイムラグをおいた後によく言われるシンギュラリティのような未来が来る可能性もある。
何れにしてもこのようなコンピュータの性能が信じられないスピードで上がっていきながら知性は伴わない
でも検索してもどうもそのような心のないシンギュラリティに相当する言葉が無いので気になっている。
こんな未来も一応は考えた方がいい気がする。
これはちょうど今話題の件に絡めたものではなく、たまたま今日ふとしたことで思い出した事があったため備忘録として記しておきたかった内容である。
女性が男性を盗撮して、SNSなどで見た目を晒すケースは少なくない。
当方は20代男性だが、知り合いの女性がSNSで過去にそのような「晒し」を投稿しているのに遭遇したことは複数回ある。盗撮の理由は大抵の場合、「(見た目が)何か変だった」ことを仲間うちで嘲笑するものだったり、「挙動不審だった、怪しかった」ことを理由に牽制の意味合いでわざとカメラを対象の男性に向けるというものであった。
従って男性が女性に対して行うそれとは別物とも言える。言えるのだが、これはこれで男性にとって実に厄介だ。
というのも当方はこれまでに少なくとも2度、女性による自分への盗撮に気付いた事がある。いずれも警察に通報・相談したが、結論として盗撮は認められたものの、警察では対処できないと告げられた。なお盗撮されている気がするというあやふやな経験であれば述べ10回以上である。
以下に、盗撮が認められた2件について記しておきたい。
1件目について。
2年ほど前のこと。電車の中で3mほど離れた場所から、明らかにスマホを何度もこちらに向けた女性がいた。文章で書くと大変わかりづらいのが恐縮だが、女性の位置は私から見て2時の方向、彼女の身体の向きや視線は私から見て左方向であった。その女性はスマホを操作するでもなく、しかしスマホのカメラを時々こちらに向ける、という"持ち方"をしていた。この体の向きや骨格では通常あり得ないスマホの角度へ幾度も傾けたことになる。
不審に思ったためその女性の方に向かって歩いていったところ、女性が小走りで電車を降りその場を離れようとしたのだ。間違っていたら申し訳無いなと思いつつも後を追いながら駅の警察に電話をした。偶然ではあったが駅構内の改札近くに交番があり、近くにいた警察と挟み込む形でその女性に立ち止まって貰った。運が良かった。
警察官にその女性のスマホのカメラロールを見て貰うと、案の定私が映った短い動画が3本ほど残されていたそうだ。
さて問題はここからである。最寄りの警察署に警察官と共に移動し、警察による女性への聴取をして貰ったのだが、彼女は盗撮を認めなかった。電車内を撮影していた、そこにたまたま私が映り込んでいたという言い分だったようだ。実際にその動画を警察官から確認のため見せて貰ったが、画面全体に私が映っており盗撮事案と断定できそうなものであった。
しかし警察によるとこのケースでは刑事事件として扱うのは難しいらしい。具体的な被害が無いからである。特に男性が女性の下着などを盗撮するケースではなく、女性が男性の全身を盗撮するケースでは、仮に盗撮であったことを認めたとして実害がないと判断されてしまい、警察では何もできないそうだ(あくまでその警察官の言い分ではあるが)。
あるのは私の「無断で撮影されて不快である」「何に使われるか分からず気持ち悪い」という感情のみである。例えばTiktokに盗撮動画がアップされ、多少嘲笑のネタにされたとて、実害はあって無いようなものだと判断されてしまう様だ(それってどうなのよ?)。
警察署では2時間ほど粘ったものの、結局その女性は口頭注意のみで先に帰されてしまった。トラブル化を避けるため15分ほどのタイムラグを置いて私も帰された。本件はこれ以上特に何も進展はなかった。
もう1件は今から6年ほど前の事だ。
電車でひどく酔った女性2人組のうちの1人に絡まれた事があった。その際に「撮影してネットにアップしてやる」とカメラを向けられた。連れの女性が制止に入り、代わりに私へ謝罪して2人はどこかに消えたように見えた。だが念のため翌日いくつかのSNSで昨日の路線名で検索をしてみると、「こいつムカつく」という言葉と共に、本当に私を離れた場所から撮影した写真が投稿されていた。ご丁寧にアップした本人は名前も顔も出しており、勤務先までプロフィールに掲載していた。勤務先に内容証明を送り昨日の女性本人であることを確認したのち、投稿を削除させることができた。これも運が良いと言えばそうである。しかし相手の女性からは謝罪の連絡はついぞ来なかった。
このケースでも念のため警察や弁護士に相談してみたのだが、「この程度」では特にできることはないのだと言う。従って刑事事件化や民事裁判による慰謝料請求なども出来ないそうだ。この話もこれ以上の進展は無かった。
なぜこの様な話を匿名ダイアリーに書いたかというと、最近女性から電車内などで「盗撮されている」様に思える不自然なカメラの向きなどを見かける事が増えたように感じているからだ。今日もちょうどそのような事があったばかりだ。過去に2度盗撮されたことが確定した経験があるだけに、杞憂ではない可能性をどうしても思い描いてモヤってしまう。そしてSNSでも実際に電車内の誰かを撮影した様な動画は増えていると感じる。それは同時に、女性にとっても「何かあればスマホのカメラを向ける」発想を与える良い機会となっている可能性は高いだろう。
もし盗撮されていた場合、どうすれば良いのだろう。気にしすぎだろうか。何か対処出来ないものか。私自身の考え方を変えることも含めて。
冷戦を終結させ核戦争の恐怖から逃れた人類が祝砲とともに迎えた21世紀が、よもや侵略戦争とそれに伴う核戦争の懸念に飲み込まれるとは誰が予想したであろうか。ここに至る経緯は長く複雑であって一冊の書物にさえ収まりきらないものではあるが、それが世に出るころには世間の関心は賞味期限切れを起こしていると思われるので、ここにその一部を記そうと思う。
そもそも、ウラジーミル・プーチンがウクライナの併合をもくろむようになったのはいつのことだろうか。すなわち、民族的ロシア人の保護というロシア社会における要求に甘んじず、かつてのロシア帝国的な全スラブ民族の庇護者というアイデンティティを確立し、ウクライナをロシアの範疇とするべく模索を始めたのはいつのことだろうか。これは遅くとも2019年にはその転換は生まれていると考えられる。冷戦の勝者であったはずのアメリカはトランプ政権の下で国際的な威信を低下させ、アラブの春以降に生まれた膨大な中東難民はヨーロッパ社会を疲弊させた。東に目を向ければ2008年の中露国境問題の解決をもって後顧の憂いを絶ち、和平条約こそ結べないもののクリミア危機をもってしてもなお対露宥和政策を維持する日本を見る限り不安要因とはなりえない状況であった。そして、ウクライナにおいてさえ、2019年の大統領選挙では対露強硬派のポロシェンコが敗退し、政治的には素人のコメディアン出身でウクライナ語さえ満足に話せないゼレンスキーが対露宥和政策を掲げて当選するに至ったのである。むしろこの時にこそ、プーチンがミンスク合意を超えたウクライナの併合という天啓を得たとしてもおかしくはない。彼の帝国に、およそ実現不可能な侵略戦争の妄執を諫める官衙が無かったことが、世界の悲劇であった。
ロシア軍の当初の作戦は様々な面で事前の調査検討が不十分なものであった。もとより実現可能性も実効性もない目標を大真面目に検討しろと言う方が無理であろう。とはいえ、杜撰な侵略作戦はいかにして作られたのだろうか。これにはおよそ二つの側面がある。一つは、計画立案の手間を惜しんで集団安全保障条約(CSTO)加盟国内で政変が起きた際の介入計画を下敷きにしている面。もう一つは、プーチン個人が気に入るであろう要素を加えることで、彼個人が満足するように作られている面である。このため、作戦計画はもとより無理のある要求に非現実的な企画で回答するという悪循環の産物と化しており、2022年2月の史上稀に見る大失敗に至るのは当然のことであった。
プーチンはこれまでに2回、親露派内閣の救援に失敗している。ブルドーザー革命で当時ユーゴスラヴィア大統領であったミロシェビッチを保護できず、またマイダン革命でもヤヌコヴィッチ内閣を支え切れなかった。これを踏まえ、CSTO加盟国内で政変が起きた際の対応計画は、かなり真面目に練られていた。そのうちの一つが開戦劈頭のアントノフ空港攻略作戦の原型になっている。原型となった計画では、クーデターなどによって親露派政府が打倒されそうになった場合、ロシア空挺軍部隊が首都近郊の空港を制圧して先行する特殊部隊とともに政府首脳部を保護し、これを空挺堡として首都や周辺の主要都市と軍事拠点を順次制圧していくという展開を想定している。
実際、ウクライナ侵攻の直前に起きたカザフスタン政変ではトカエフの要請を受けてロシア空挺軍によるアルマトイ国際空港を中心とした展開が行われており、一方の権力を奪われたナザルバエフは隣国キルギスに脱出し、カント空軍基地でプーチンが政権奪還を支援してくれるものと待ちわびていた。権力闘争の結果は周知のとおりだが、仮にトカエフがより反露的な人物であれば結果は違っていたかもしれない。
ウクライナ侵攻計画においても、親露派大統領に対するNATO とりわけアメリカ主導のクーデターが発生した際の対応計画を元に、少数の特殊部隊と大規模な空挺軍を利用したアントノフ空港の制圧とこれを拠点としたキエフ制圧計画が立案されていた。この作戦の致命的な欠陥として、クーデターであれば存在していたはずのウクライナ国内の親露派有力者、とりわけウクライナ軍部隊やウクライナ保安庁内の協力者からの援護が十分に期待できない点が挙げられる。計画上は確かに彼らが侵攻開始と同時に蜂起する想定になっていたのだが、ウクライナ国内の親露派の多くはロシア軍の本格侵攻を信じてはおらず、投下された膨大な準備資金は個人的な利益に帰してしまった。さらに、開戦直前に至るまでアメリカによる情報公開攻勢が行われたため、ウクライナ国内の親露派との連絡調整を職掌に収めていたロシアFSB第五局は情報漏洩を恐れて正確な開戦日時を伝達せず、結果的に2月24日は(開戦日は教えてもらえると思い込んでいた)親露派に対する奇襲となってしまった。この、事前連絡のない開戦とロシアによる一方的な協力への期待は、数字としては出ていないが、民族的ロシア人あるいは経済的恩恵といったものを背景とした親露派の翻意を大いに促し、以後のロシア軍を大いに苦しめることとなる。
また、本来であれば、制空権の確保と空挺堡の構築、地上部隊の侵攻は十分に連携の取れたものでなければならない。しかし、ロシア政府内では侵攻作戦がプーチンの「お戯れ」であるとみなされていたため、作戦計画の内プーチンが喜びそうな内容、具体的には前述のアントノフ空港への奇襲といった派手な作戦やウクライナ全土制圧後のロシアへの併合宣言といったハイライトのみが詳細に検討され、それ以外の点については何ら考えられてこなかった。例えば、アントノフ空港を制圧した空挺軍部隊と合流するためにベラルーシから地上侵攻を行う必要があるが、チェルノブイリ原発周辺の森林地帯を通過する際の計画は東部軍管区のある若手士官に図上演習の課題として丸投げされ、提出された素案を元に別の将校が大規模演習の名目で具体的な計画に起こしていたことがわかっている。想定された場所以外では戦闘や妨害が起こらず、また演習名目であったために部隊の移動は迅速に進むという前提で計画が確定してしまったことが、キエフの戦いにおいて裏目に出てしまった。同様にロシア海空軍も、地上軍との連携が乏しく長期の作戦計画が立案されていないなど、全面戦争を想定したものとは到底言いがたい状況であったのには、このような背景があったのだと見られている。
開戦前年にもロシア軍はクリミア半島などにおいて大規模な動員訓練を行っていたが、プーチンが本気であると知らない者には、これら人員物資の集積はあくまでウクライナおよびNATO に対する威嚇として理解されていた。事情を知る者は当初計画があまりに楽観的であることに懸念を示していたものの、FSB第5局の人員の多くは親露派ウクライナ人の協力が当然あるとして疑わなかったし、またある者はプーチンが本気でウクライナ侵攻を計画していると認識していなかった。何より、プーチン本人が自分に気に入られるべく作られた即興の作戦計画を「狙い通りに」気に入ってしまった。平たく言うと、ロシア軍としては侵攻計画の前提となる環境整備は対外諜報活動を所管するFSB が行うことが大前提であり、しかしFSBはその軍事侵攻に十全な準備をできていなかったのである。本来なされるべき長期的な見通しの欠如は、未だにロシア軍を苦しめている。
もう一方のウクライナ側の防衛計画についてはどのようなものだったろうか。戦前、ウクライナ政府および軍が想定していたロシア軍の侵攻計画は以下のようなものであった。まず、ドネツク・ルガンスク両人民共和国(D/LNR)との停戦ラインにおいて大規模な衝突を起こす。これを受けてロシア政府はウクライナ政府に即時の停戦と撤退を要求する。ウクライナ政府が拒否した場合「ウクライナ軍による民族浄化作戦からのロシア系住民の保護」を名目にロシア軍による大規模な空爆を行う。空爆によってウクライナ政府が降伏しない場合、地上軍による侵攻を行い、かつてノヴォロシアと呼ばれていた民族的ロシア人の多い地域を制圧する。これらの地域はD/LNR と同様にウクライナ国内の(EU やNATOへの加盟を拒否できる)自治州として温存し、長期的にはこれらを通じてウクライナを間接的に支配する。このプロットは明らかにコソボ紛争における欧米の介入の経過をなぞったものだが、ウクライナ軍はプーチンの個人的な欲求からNATOに対する当てつけとしてこのような展開を望むと考えていた。ロシアが率先してウクライナに侵攻するのではなくD/LNR が優位な戦況を作り支配地域を広げる体裁をとることが国際的な批判を回避する方策であるため、国際社会による仲裁を拒否し民族浄化を続けるウクライナへの懲罰的攻撃という方便を生み出すよう布石を打っていくのである。前提として、ウクライナ国内でクーデターのような政変が無く、ロシア側からエスカレートを仕掛ける場合を想定すると、このような順で進むと想定するのは合理的である。
問題はこれがどの程度のスピードで進むかであるが、ウクライナ軍の想定ではコソボ空爆と同様に開戦から地上侵攻まで最大3か月程度の時間的猶予があると考えていたようである。今を思えばのんびりした想定であるが、ロシア陸軍の各部隊は徴集兵を少なからず含んでおり、これらは法律上ウクライナへ派兵できないため、全面的な戦争を始めるには予備役の招集と訓練が必要であると見られていた。したがって部隊の充足率を高めるのに必要な時間がある程度は期待できたのである。このタイムラグの間は空爆とドネツク・ルガンスク両州が主な戦場となる。そこで、ウクライナ軍としては東部に陸軍の主力を集中させてD/LNRとの停戦ラインを堅持することで大きな損害を与え、ロシア軍本体が参戦するまでに東部戦線を安定化、あわよくば地上侵攻を思いとどまらせるという方針が定まっていた。また、この時、クリミア半島やベルゴロド州からロシア軍が侵攻してくることが考えられたが、ここは動員した予備役や領土防衛隊で国境線を維持することとされた。長期的な見通しはさておき、ウクライナ軍にとって主眼はあくまで東部戦線であり、停戦ラインから20km の範囲で多数の陣地構築を行っている。隣接するヘルソン、ザポリージャ、ハリコフの各州での陣地構築は開戦後住民の避難と並行して行う予定であったと考えられる。
もし、開戦に先立ちウクライナ軍が上述の想定の元東部戦線への戦力の集中を行っていた場合、図らずもがら空きのキエフへロシア空挺軍が殺到していたことになる。では、ウクライナ軍はどこで引き返したのか。最も有力な説は2月21日のロシアによるD/LNRの独立承認の直後であろうというものである。前述のような経過をたどるには、D/LNR がウクライナの一部という立場のままロシアがミンスク合意の履行を強制する状況になければならない。両地域の独立を承認してしまった場合、D/LNR や民族的ロシア人が優位な支配地域を中心とした間接的なウクライナ支配という筋書きと整合しなくなる。また、東部戦線におけるD/LNR の攻勢が想定よりもだいぶ弱く、ロシア軍が両地域へ展開している部隊数も想定をかなり下回っていることから、ウクライナ軍では当初想定とは異なる侵攻計画がある可能性を認めざるを得なくなった。この時、米国からの情報によればロシア軍の侵攻計画は長大な国境線での一斉攻撃であった。残念ながら、ロシア軍が主体的に全面侵攻を仕掛けるという情報をウクライナ軍は信じることができず、さりとて東部戦線へ部隊を急派する必要もない状況を踏まえ、ウクライナ軍は部隊移動を取りやめ、部隊位置を秘匿したうえで数日待機、すなわち様子見することとした模様である。結果的に、キエフ周辺には開戦直後のホストメリ空港を一時的にせよ防衛するのに十分な戦力が残っており、第一機甲旅団はチェルニゴフ州でドニエプル川左岸を防衛することができた。一方で、南部においては部隊移動が混乱をきたしてしまい、クリミア半島との境界に当たるペレコープ地峡からメリトポリ付近に至る広い範囲で守備部隊のいない状況となってしまった。もしこの地域を担任する部隊が移動前であったならば、事前準備の不徹底なロシア軍の南部からの攻勢すら頓挫していた可能性がある。
夕食の支度をしている時、キッチンの作業スペースの都合で配膳が始まってから全ての準備が整うまでに若干のタイムラグがあるんだけど、一皿でも机に出るとその瞬間父がやって来て一人で勝手に食べだすのが許せない
一人分ずつに分かれているので他の人の分が…という話ではなくて、ただ家族全員家に揃っていて同じタイミングで食べられるように支度してるのに、そういうの全部無視していただきますだとか先に食べるねだとかそういうこと何も言わずに食べだすの?なんで?と思ってしまう
もともと一人一人好きなタイミングで食べる習慣の家庭だったら別に気にならないと思うけど、ずっと全員揃ってから食べ始めていた家庭で、かつ昔学校が休みの日に遅くまで寝ていたら朝食くらい一緒に食べろと激怒されたことがあるので本当に腑に落ちない
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより
伝統的なメディア企業と新時代のメディア企業が存在する市場空間を分析するとき、顧客の支持を得るために必要な前提条件の1つは「信頼」である。信頼がなければ、人々はメディアを消費することができない。特に、そのメディアがニュースや情報の提供者であると称している場合はなおさらである。
マスメディアに対するアメリカ人の信頼度は急落している。信頼はすべての政治的属性で低下しており、この業界は破壊の機が熟している。ここで、Twitterとイーロン・マスクの登場である。
Twitterの核心は、Trust as a Service (TaaS)をユーザーベースに提供することである。Twitterは「不適切」と判断された情報を検閲する非倫理的なモデレーション戦術に関与することなく、プラットフォーム上での重要な会話のホストを任せられるという考えを、ユーザーに売り込もうとしている。さらにTwitter上で行われる会話は、人々や組織などの信頼を左右する可能性があるため、Twitterは「信頼の仲介役」としてどの程度機能できるかを証明しようとしている。
歴史的に見ると、私たちには、誰が信頼できて、誰が信頼できないかを教えてくれる、現在の「レガシー・メディア」があった。中央集権的な信頼仲介の寡頭政治は、少数の人々に、有罪・無罪の認識を形成することができる程度に、物語をコントロールする能力を与えた。今、レガシー・メディアが、インターネットに伴って増大する透明性に適応できず、偏向報道によって自らの評判を破壊するところまで来ている。
Twitterは、リアルタイムでニュースを更新する場となった。直接の情報源から話を聞き、「群衆の知恵」が情報発信から見ることができれば競争は起きない。従来のメディアの形式では、何でも遅れ、精査されず、偏見に満ちている。一般人が情報や著名人と直接やりとりできる無料のプラットフォームが視聴者に提示されたとき、老朽化したメディアはどう対抗すればいいのだろうか。
年を追うごとに、こうしたメディアは、ニュースや情報の実際の発信者というよりも、過剰な資金を投入したTwitterのキュレーションツール(最悪の場合、プロパガンダの発信源)として機能するようになってきている。Twitterでニュースが流れてから、そのニュースが他の人たちによって報道されるまでのタイムラグがあることは言うまでもない。
ニューヨーク・タイムズやワシントンポストのようなレガシーメディアは、年を追うごとに、コンテンツ制作におけるソーシャル・メディアへの依存度を高めている。Twitterのように、人々が直接の情報源からニュースを入手し、群衆の知恵によって情報の分析が行われる場が存在する場合、レガシーメディアが競争するための有効な手段は次第に少なくなっていく。TwitterがTaaSとしてユーザーから信頼されるために、どのような取り組みをしているのか、気になるところである。
新生Twitterが引き継いだ大きな負担は、恣意的な基準で懲罰を与える技術的な製品であることです。このように、Twitterのモデレーション・プロセスには依然として欠陥がある。解決策となりうる提案としては、以下のようなものがある。
新規登録ユーザーに権限を与えることは重要だが、アカウント作成が悪用される可能性があることを認識することも重要である。すなわち、ボットや、イデオロギーのライバルを報告するために特別にaltアカウントを作成する人たちによってである。新しく作成されたアカウントがユーザーを報告する能力を制限する(おそらくこの能力をTwitter Blue購読者にロックする)と共に、この部門の潜在的な解決策は、ユーザーが報告ツールを含む特定のTwitter機能を使用するために特定のカルマの閾値を満たす必要があるというRedditカルマシステムに似たことを行うことができる。
以前のTwitterの所有者の下で行われた不手際を正すために、すでにいくつかの措置が取られている。#フリーダムフライデー は、不当に禁止されたアカウントを復活させる楽しい伝統となっている。イーロン・マスクが実施した世論調査を通じて、Twitterユーザーはある程度、会社の方針に影響を与えることができる。これは、他の企業の運営方法とは全く対照的で、以前の所有者が、プラットフォーム上の児童コンテンツに対抗するために比較的何もしない一方で、「性別の間違い」の禁止のような政治的主導のポリシーを実行していたこととは異なっている。
イーロン・マスクの最も重要な決断のひとつは、大手ハイテク・ソーシャルメディア企業と政府の癒着の裏側を明らかにしたTwitterファイルを公開したことである。そうすることで、彼はテック企業の透明性がどのようなものであるべきかについて、新たな基準を設定した。
流出したメッセージは、Facebook、Microsoft、Verizon、Reddit、Pinterestなど他の企業でも同様の事象が発生していたことを示している。Twitter Filesは、以前の所有者のもとで、Twitterが金融機関の一部門として運営されていたことを明らかにした。
新生TwitterがTaaSとして成功するためには、レガシーメディアからのプラットフォーム上での会話を抑制する圧力に抵抗し、市民ジャーナリズムに力を与え、信頼仲介における古い寡頭政治の役割を置き換えることによって、反抗勢力として行動する必要があるのである。
(匿名の増田なので事実か否か確認する方法がないので、参考意見の域を出ませんが一応メモ)
この御指摘から分かる事は、支援活動に関わる者は「一切の見返り(感謝など)を求めることはできない」という心構えが必要だということです。
心理的に余裕がないと感謝の気持ちも出てこないのですね。そして、それは仕方のないことだとも思います。
時間が経って、冷静に過去を振り返る余裕ができたら、そのとき初めて感謝の気持ちが湧いてくる、というのが実情なのでしょう。つまり、気持ちの変化には「タイムラグ」があることを理解しておくべきなのでしょう。
相手から感謝されて「自分は善人だ」「自分は素晴らしい人だ」というような自己満足に浸りたい人は、他の分野でボランティア活動に励めば良いでしょう。(助けを必要としている人は他にもたくさんいるので)
恩知らずな元少女がColaboを見て思うこと https://anond.hatelabo.jp/20230102104157
全体の流れについてあまり把握できてないのと、Colaboに対する擁護ではありません。ただの感想です。
心の優しい人が傷付いてしまう表現もあると思うのでご注意ください。
【私について】
母の彼氏に膣にオロナミンCの便を挿れられてその上からフライパンで割られそうになるなどやばいことが増えてきたので家出する→ネカフェ生活→保護してもらう(Colaboではない)→支援を受け自立→今20代
【支援してくれる人たちについて当時思っていたこと】
本当に申し訳ないけど、当時は支援者の方々に感謝の気持ちなど1mmもなかった。「本当に助けなきゃいけない人は助けたくなるような人ではない」と言われてるけど、そう言う感じだったと思う
・助けてくれてありがとうとかではなく「金持ちの家に生まれて愛されて何不自由なく生きてこれた人もいるのになんで自分だけ」としか思ってなかった
・「見下してんじゃねえよ」と思い常にイライラしていた
もちろん今思えば見下されると感じるような態度を取られていたわけではない。こちら側の受け止め方の問題
・何をしてもらってもとにかくムカついてた
今思えば十分すぎる環境だったけど常に不満しかなかった。あれ以上ご飯が豪華だろうとめちゃくちゃいい部屋だろうといつまでも文句を言ってたと思う。その感情の底には過去親に大切にされなかった悲しみや怒りがあったんだろうなと思う。
【今思うこと】
色々話に行きたいけど、超問題児だったので職員さんに嫌われているのではないだろうか、いやそんなことはあの人たちは思わないだろうとかもごもごしている
超問題児だったからこそ会いに行けよと思う人もいるだろうけどまだその領域に達せていない…もっと立派な大人になったら行きたい
【Colaboに支援されたという人があまり出てこない理由を考える】
基本的に、私のように過去に支援を受けた人が「私はここに本当にお世話になりました!ありがとうございました!」と言うことは普通にあまりないと思う
・過去を見たくない
いくらその後大切にしてくれる大人に出会えたとしても、「虐待を受けていた」「生まれに恵まれなかった」ということを自らアピールすることはできない
思い出したくない記憶なのもあるし、実家が太い・太くないみたいな言葉が普通に使われる世の中では特に言えない
支援してもらったことも思い出したくない(振り返ればあたたかい記憶ではあるけどそこにはつらい背景が付いてくる)
・近くにいてくれた支援者こそ恨んでいるから
前述の通り…
・ガチでひどい扱いを受けていた
こうならば声をあげて訴えた方がいいと思うし尊重されるべき 無理はしないでほしいけど
【Colaboの不正疑惑について思うこと】
確定はしてないけど、「少女たちを金の種にしていた」「ひどい扱いをしていた」みたいな疑惑が出てるみたいということに関して
・本当にザル会計で適当にしていて自分たちのためにお金を多く得ていたならそれは絶対に批判されるべきことだと思う、真面目にやっている団体(少女保護に限らず)にも迷惑
・なんだけど、それが原因で「少女の保護も金のため」となるとうーんとなる
これは支援に関わった人にしか分からないかもしれないけど、正直いくらもらってもやりたくない人はやりたくない仕事だと思う
私は月300万もらってもやれる自信がない(過去の自分のような子に関わることはできない)
・Colaboがゴリッゴリの悪だったとしても、少女が当時はそう思えなくても、「困ったときに保護してもらえる場所があった」「そういう場所を作りたいと思った大人がこの世にいたこと」は、いずれ心の支えになるので、100%悪とするのもなあと思う(もちろんだからといって批判するなとは全く思わない)
【仁藤さんに思ったこと】
・キモいおじさん批判や温泉むすめの件、というか批判対象に対して100%悪だから潰せという感じの態度を取るのはええ…ってなる
・ただ、そうならざるを得ない背景もあったんだろうと思う
支援されていた側からも①少女をおびやかすやばすぎる大人②意識的or無意識に世界の全てを恨み支援者に一番牙をむく少女③自分のために支援者と少女を利用しようとする大人の存在は見えていたし
特に③は怖い
・保護されている少女は平気で嘘をつくよ(笑)みたいなツイートが掘られて批判されてたけど、私はあれは仁藤さんが本当に親身に支援をしていた証拠のように思う
実際に、私と同じ施設にいた子が職員さんに片付けないことを注意されただけで匿名で嘘の通報をしたり他の団体に虐待をされていると相談したりというのは普通にあった
というか、「嘘をついている」という自覚はない 多分自分の中では本当のことになっているから 自分の嘘しか自分を守ってくれない、という子どもは私の周りにはたくさんいた
【最後に】
それぞれの人にそれぞれの事情があるので、本当に悪かったところはとことん追求して、褒め称えるところは褒め称えてほしいと思ってしまう。
支援活動を立ち上げるときには、かつて支援を受けていた人(今は自立して支援を必要としなくなった人)にヒアリングして、問題点や課題を洗い出す必要があると思いました。
ちゃんとした人間は性器から「子孫を残せ」っていう強烈な命令が襲ってきてそれに従って生きてる。
中出しをしたりされたりして自分の遺伝子を残すことに強烈な使命感を感じてるし、それが成功した快感は何物にも代えがたい。
だから既に結婚してても人妻に中出ししたがるし、セックスレスな人妻は中出しをされたがる。
ハーレムを築き上げることにロマンを見出すのは妊娠というタイムラグを抑えつつ子孫を増やせるからだし、チンギス・ハンが中国人にずっと尊敬されているのもそういう所から。
とにかく子孫を増やすっていうのは絶対的な本能でそれが壊れている人間が「ソイツらおかしいよね」っていうのは自分がおかしいだけだと自覚して欲しい。
「眠るって別にそんな必要ないよね?一日2時間ぐらいで十分じゃん」とか「食事なんて栄養が足りてりゃいいからサプリでいいよ」みたいな人間と同じような壊れ方。
普通の人は結婚して子供を作りたがるし、結婚してなくても子供を作りたがる。
そしていざ結婚して不妊治療が必要だと分かったらいくらでもお金を使うし、それでも駄目なら離婚を考える。
結婚しても子供を作ってない人がいるのは、最初から狂っているから。