はてなキーワード: 愚者とは
某メンタリストが、まるで「力のある人」しか善を為せないかのようなことを言っていました。
例えば結婚した夫婦は家事を手伝い合うことで負担を分担します。これは一つの善です。
あるいは落とし物をした人がいれば、警察などに届けることができます。これも善です。
確かに、金をたくさん持った人がプロの慈善団体にたくさん寄付すればそれは立派な善をなせるかもしれません。
しかしそのこと自体を、庶民が行う身近な善を無価値にする理由にはなりません。
某メンタリストも、箴言の言うところの「舌の罪」を犯していると言えますし、ホームレスを侮辱するようなことを言っていたのが印象的です。
私はいっときのプライドのために吐く愚者の言葉というのは、本当に邪悪だと思っています。
なぜ「力のある人しか善を成し得ない」などと言うのでしょうか。
それは自身を「力ある者」と見做し、「弱者男性」などを見下すといった傲慢が存在しているかもしれません。
確かに、募金先を決めるといったシナリオでは、誰に募金すべきかを決める審美眼が必要になるでしょう。
そのことを指して「力ある人を見極めよ」と言っているのであれば、それは立派なことかもしれません。
しかし「力ある人のみが善を成し得る」というのは全く間違っています。
私も舌の罪を犯してしまいがちですが、「ソーシャルメディアでの発言を慎む」というのも、一つの善ではないでしょうか。
その場のプライドで他者を見下し、いい気分になるのは賢さではありません。傲慢です。
だとしてなんで介入しようとするんだよ
そこが分からない
一部精神的ショックを受けて奇行に走る人がいる、それも人類の仕様じゃないのか?
そういうものを無理矢理に覆い隠して歪ませて、そういう生物的習性が存在しないように見せかける
それは不健全なことじゃないのか?
過剰な反応をする人が発生することを正しく認識するというのも、人間が社会認識を得ていく上で重要なことだ
覆い隠してしまえば人間は学習しなくなりむしろ脆弱な精神性がアップデートされなくなってしまう
その「お節介」によって短期的にはお前の主観的に「無駄死に」(何様だと思うが)する人が減るかもしれないが
長期的には人類に悪影響だと思わないのか?
お前が著名人の死に精神的ショックを受けるのが馬鹿らしいと学習できて、同じ穴の狢に落ちなくて済んでいるのは
違うか?
残酷かもしれないが、人間や社会がエラーを起こすことを厭いすぎてはダメなんだよ
覆い隠せばいいという考え方こそ、全体主義かつ権威主義的な思考であり、昭和以前の古い考え方なんだよ
現代は適度に淀みを見届けてタフで賢い人間に育てていく考え方であるべきだ
だからすでにタフになった人間が自分のタフさ基準で他人を庇護してやるべき愚者かのように考えて
タフになる機会を奪っちゃいけない
他人を推し量りすぎて繊細チンピラ化する流れは、ネット社会で加速しつつあるが、本来それは時代に逆行した野蛮な考え方だ
成長して解像度があがった自分基準の精度を他人にも押し付けていることに他ならないからな
でも現状のカリキュラムほど割くべきでは無いと言うてるの
公教育では古文漢文の入り口、さわり程度で、こーゆーものもあるんだよ
興味があるならこれを専門に学ぶ方向にいってもいいよ程度の導線で十分じゃね?
こーゆー提案なの
ここんところにはなーんも答えてない。
日本語能力大丈夫?古典漢文やりすぎて2周くらい回っちゃった?
でも義務教育でここまで時間かける合理性を数字で立証できますか?
いやいやいや、やるなら是非やって欲しいの
古典漢文をカリキュラムから抜いたグループと長期追跡のコホートやればいい
やっぱ古典いるわ、よくわからんけど漢文ガチでやらせたグループの方がスコア高いわ
ならばこっちはなにも言いませんよ
でも、少なくとも、アホみたいに古典漢文をやり続け日本は経済停滞してる
「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」と語ったといわれており[629]、竹下登はその言葉を座右の銘にしていた[630]。
ただし、この言葉についてビスマルク自身が残した記録は知られておらず、さらにビスマルクが語ったとされる言葉が文献に登場した初期の内容、その後にドイツ語や英語で広まった表現、現在日本語で翻訳されているもの、それらは互いに異なるものである。その時々の訳者や引用者の解釈が影響を与えながら社会的に作り上げられてきた可能性がある[631]。
10年以上インデックス投資を行ってるので、暴落や株価下落についての経験を書いておきます。
マイナスの一瞬の最大値としては、半額(-50%)を想定してます。
1年以上続くマイナスとしては、1/3減(-33%)を想定しています。
暴落で資産が一時的にマイナスになっても、積み立て・保有を続けられた方は、10年単位で見るとしっかりと資産を増やしています。
私は、一時的なマイナスの経験・含み益・投資の勉強の3つで心に余裕ができました。
投資を始めた当初は、評価額がマイナスの状態が数か月以上続くと(少ない損失でも)、心がとてもしんどかったです。
最大許容損失は事前に検討していましたが、心の動揺を防止するのに役立ちませんでした。できるだけ資産額を見ずにやりすごすしかありませんでした。
時間がたって資産が大きくプラスになる事を何度か経験して、徐々に一時的な損失に慣れてきました。
また、含み益が増えてくると、暴落に対して自動的に耐性が付きます。
現在、保有している投資信託のほぼすべてが+50%以上(1.5倍)、平均すると+100%(2倍)、昔から持っているものだと+200%(3倍)以上になっています。
こうなると、5割減の暴落が起こってもプラスを維持できます。このおかげで、暴落に対する恐怖心が激減しました。
ちなみにNISAで一番人気のeMaxis slim 全世界株式(オール・カントリー)は、2018年10月にできた商品です。
2018年に買っていれば、この5年間で評価額は2倍以上になっています。
この5年間にコロナの暴落などはありましたが、気にせず保有するだけで、それだけのリターンが得られたわけです。
最後に、長期的なデータやインデックス投資についてきちんと学ぶことも重要かなと思います。
ウォール街のランダム・ウォーカーもいい本ですが、ダメな投資をけなす話が多くてちょっと無駄が多いと思いました。
---
(追記)
◆シーゲルについて
シーゲルの本は客観的データが多くて良書と考えますが、高配当やバリューに偏った投資は好きではありません。
全世界インデックスで良いと思いますし、一般投資家がそれを上回るリターンを狙う事はしない方が良いと考えています。
過去には、コロナ、大震災、リーマン、ITバブル崩壊、ブラックマンデー、株式の死の時代など様々な事が起こりましたが、それぞれが違う事象です。今後も新たな事象が発生するでしょうし、1つの暴落の経験の有無だけが重要なわけではありません。
リーマンショックを経験したからといって奢るのではなく、様々な過去の事象を学びより謙虚になる事が好ましいと考えます。
ちなみに私自身は、海外投資を楽しむ会(現在の橘玲氏)の影響で投資をはじめ、リーマンの頃はイーバンク銀行で外国株式のインデックスファンドを保有していました。
私は頭が悪いので「頭が良くなる方法」とよく調べることがあります。
なぜかというと、数学やチェスが趣味であるというのと、仕事がプログラマーであるのとで、頭をメンテナンスしたいからです。
そして最も重要なのは「睡眠食事運動」であることがどの情報にも書かれています。
睡眠に関しては、努力はしています。夜更かしをしないようにしていますが、目が覚めてしまう場合もあります。
食事については疎かになっているかもしれません。こどおじなので、両親が作ってくれますが、朝は食べないことが多く、昼は卵かけご飯ぐらいしか食べていません。
そして最大の難点が運動です。私は過去に「美しいお尻になりたい」といって運動をしたことがありますが、1ヶ月しか続きませんでした。
苦しいと思うことを習慣にしようとしても続かないらしいのです。
しかし運動が足りないことを補うために、部屋の中でぐるぐると歩き回ることがありますが、このような運動でも効果があるのでしょうか。
東京の人は割と歩く距離が長いようですが、私は田舎なので、歩くことが極端に少ないのです。
いや、田舎だからというよりは、フルリモートの影響が大きいでしょう。
といってもフルリモートをやめるつもりはないですけどね。電車の時間が往復で2時間かかるから、それがないだけでQoLが上昇します。
しかし電車で通っていた時期もありました。その時はQoLの足しになるように、電車内での読書を必ずやっていて、毎月1冊は読破できたのです。
怠けた生活になってからは、読書さえも少なくなってしまいましたね。
増田やSNSなどのデジタルに費やす時間を減らし、それを補う形で読書ができれば良いと思うのです。
デジタル空間に「ソーシャル性」を持ち込んで、良かった試しがありません。きっと、聖書の箴言の言っていることが正しいのでしょう。
あぁーーピノコニー楽しみすぎるんじゃぁーー
花火ちゃん立ち絵ではなんとも思ってなかったけど動いてニヤッとするの見たら惚れたわ
甘雨みたいな恭順ボイスではないだろうし、グリッドマンの新条アカネ的な感じかね?
なんか崩壊3rdのセントソルトスノーで見たようなギミックだな
視差を利用するのは金リンゴのフィッシュル城でやったような感じかね
しかし夢追い人って……まもなく始まる3rd第二部の主人公の肩書が夢追い人なのと共時性を感じるな
もしかして1.5部ラストで出てきた謎の女って「調和」の関係者だったりするんかね
「記憶」と関わりありそうななのか似の女もヴェルトとキャロルの出航時にチラ見えしてたし
どこでどう繋がっていくのか見えそうで見えないわ
何年越しでやるつもりなんだミホヨ
今日は病院へ行きました。お注射です。お注射をしてしばらくは精神があまり安定しないようです。被害妄想を持ったりしてしまいます。
精神というのは、変動を検出すると不快感を持つような気がします。鬱の時も一定の心持ちであればそれなりに安定しますが、いきなり躁になったりすると錯乱するのかもしれません。
そういえば、私はインターネット上に残した自分の黒歴史の削除を試みました。
統合失調症+自分の名前で検索すると、誰かが勝手に私のYoutube動画(躁状態のときのもの)の音声をテキスト化したものが置いてありましたが、どうやらそのサイトは自然言語のアノテーションのサイトらしく、編集は誰でも行えるようでした。そしてその情報に「著作権侵害です」とラベルをつけて削除してきました。
そうそう、あと黒歴史ブログも残っていました。精神を錯乱して浮世離れしていた時のブログですが、「フロントカメラが不細工でバックカメラがイケメンなのは、介入する観察者が異なるからだ!」みたいな意味不明なことを書き、セルフィーまで載せていたのです。
このブログはまだ削除できていません。というのも、Googleアカウントのパスワードを紛失したからです。
Twitterにもいくつか精神錯乱時のアカウントが残っているのですが、それらも2段階認証を設定しており、ログインできなくなっているのです。
まあ、黒歴史というのはこのようにして、精神をおかしくしている時に生成してしまうものだとわかります。
ところで、インターネットを徘徊していたら、こんな文章を見ました。
つまり「人生の意味を問うても無駄。その代わり人生があなたに問うている」というものです。
もしそれが本当ならば、精神を錯乱して残した黒歴史を正常になってから振り返り、「この黒歴史、君自身はどう感じるのか?」と問うていることになります。
まったく、人生って本当に性格が悪いですね。私が嫌な思いをしていることがわからないのでしょうか。それともその嫌な経験こそが、哲学的深淵なのでしょうか。
私はその性格上、刺激を欲しがっているのです。SNSをやるのは、誰かから刺激をもらえないかというちょっとした期待に基づいています。
でも「いいねの応酬」はしっぺ返し戦略的、機械的なものになります。私が誰かにいいねすれば、その分のいいねが返ってくるというわけです。
そんなくだらない刺激のために黒歴史を残すなんていうのは、一体どういうことなんでしょうか。
SNSの繋がりなんて、所詮は浅い繋がりです。オンラインだと、相手がリアルに存在するものだと忘れてしまう人もいるようなのです。
やはり一期一会というのは、実際にオフラインで対面で会話したことのある相手の存在に対する「出会い」に感謝するような言葉であり、私をおもちゃにしようとしているネットトロールとの出会いというのは、そこまで感謝できるようなことではないと思うのです。
インターネットで発言すれば、好感を持たれたり、恨まれたり、見下されたりします。しかもその発言が、本来の私の精神状態ではないことだってあります。
「私」というものを、他人に誤解されることの恐怖が、SNSにはあります。もはや他人の目を気にして怯える場所です。
だから私は、発言する時は匿名性を重視するのです。箴言にも、愚か者が言葉数を増やしてしまうことに対する戒めがあるので、実名で語るシーンでは黙っておいた方が賢く見えるのです。
「話すは離す」という言葉もあります。結局、ネットであれカウンセリングであれ、悩みをぶちまけられる場所があれば、精神のデトックスになります。
そうやってぶちまけた内容というのは、恥ずかしい内容なので、やはり実名と紐づいてしまうと「目」の恐怖を感じます。
まあ、浅い繋がりの人たちに「見下すな」と言うのが、そもそも無理なのかもしれません。字下げ増田を「高学歴の愚者」などといって嘲笑う人たちがいますが、彼らは人の心を尊重することを軽視し、おもちゃにしています。
確かに、愚者は他人から見下されるような行動をしてしまいます。しかし、それが人間の弱さであり、弱さをお互いに認め合えるようになれば、「お前は愚かだ」などとインテリぶらずに優しい関係になれるのではないでしょうか。
「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
---
Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど
横から
金融資産は1億届いてないです
元々不動産やってる家系に生まれて、いい意味で自転車操業(借りては買う)やってきて
父親がなんか思考おかしくて、付き合いの深い取引先さんの(悪い意味の)餌にされてました
そんな状況とかが嫌でほぼ見て見ぬふりしてたのですが、祖父が亡くなって、関りを持たざるを得なくなったのが数年前
(だいぶ前から祖父は父に任せきり。暴力父だったので、幼少のトラウマから体力逆転してもできれば顔も見たくなかった)
金融系以外は共有財産になり、頭おかしい父と不動産なんもわからん私の同意がないと動かせないという状況
ですが、アホでも一人より二人がまだマシで、銀行さんやら不動産屋さんの中でもまともな方々とのお付き合いを重視し
(父時代はかなりひどいとこと深かった。あほみたいな接待とかまだあるんですよ。数千万とか億動かすのに、数十万、下手しい数万の接待で何判断狂っとんねん)
要らん物件整理しました(父は借金返したり変な保険入ったりしました)
私には背負った借金と同じくらいの現金と、その数倍の不動産があって、さてどうしようというのが今
とりあえず今年のNISAは使い切りました
アホなので積み立てなので、オルカンとなんちゃら500と新興国と日本株のやつ(どっかに連動のETF?)適当に
もうひと枠は、今までお世話になった強そうな企業の株にしました。(日本株は去年からちょこちょこ色々買ってて、買いそびれてたところとか)
一年分とかめっちゃすぐ使い切るというか全然足らず、2(3?)企業100株ずつと、30株のとこであと15万円くらい残ってるだけ
で、本題
何が言いたいかっていうと、他人の、それも何の責任もない匿名ブログを信じるなというのは真理
ただ、ブコメ(タイトルにしたやつ)が多分悪ふざけというか(どういうふざけ意図かはわからないですが)変にいじってるのも趣味が悪いし、言い方がよくないなと
人を貶さないと否定できないのってなにも言ってないのと同じなんですよね。(政治批判とかでもそうですが)
それと小学生じゃないのだから、いちおくえーんてのもなんだかなぁと
ただそういう言葉を使わないと、匿名ブログを信じて思考停止するな と伝えたい層には届かないとか深い意味があるのかも とは最近思ってます
どちらにせよ、金融資産が幾らだから真面目に考えて正解に近いところにたどり着きつつ、親切に本当のことをブログに書くことができるというのもおかしな話で
確かに、金融以外でも数+億ありつつ、遊ばしてる金融が1億以上ならお金持ちではあるのですが、将来のことを正しく見れてるかというのは疑問
かといってじゃあ他にどんな基準があるかって考えたらなんにもないので、結局は
人の言うこと真に受けるな と
金融資産1億もない小魚みたいな表現使う人のこともあんまり鵜呑みにしないほうがいいというのは当然として
小魚の一匹としては、色々分散、とにかく分散。そこは忘れずにノリとか勢いとか感謝の気持ちで投資をしていこうと思っております
これは何とか出来るやろ?
と粘られてしまう。
さっさとビビらずにNATOがフルコミットしておけばプーチンも負け戦を認めていた。
あからさまな敗北を強要せずにプーチンの面子を立てておけば、さっさと負けるための形作りに移行したのは間違いない。
負けるとわかりきっている戦いは絶対にしない。
核も使わない。
プーチンは負けるとわかっている戦いはしない。
長らくの間、外交面において米国に服従していたのはそのためだ。
そこからどうなるのか?
プーチンは考えた。
しばらくすれば西側の結束はいつものように崩れるのはわかりきっていた。
軍属とは違い、優秀で信頼できる経済官僚たちは西側の制裁を乗り切れる施策を次々と立案した。
ちょうどウクライナの小麦を必要としているようにロシアの石油は必要なのだ。
それを無かったことにすることは出来ない。
経済は試練を乗り越える目算がついた。
では戦いは?
これは結局、規模の比較になる。
それは動員力の違いだ。
質の面では士気も含めてウクライナに仮に劣っていたとしても、量では絶対に負けない。
どちらかが大きく劣っていれば勝てない。
これは過去の戦訓にもよる。
(賭博としかいいようがないマッカーサーの作戦が成功しなかったら韓国の領土はもっと小さくなっていたか存在していなかったかもしれない。)
そしてロシア軍は質の面でも大きくウクライナ軍に劣るわけではない。
少なくともイラク戦争のときのような革命防衛軍と多国籍軍ほどの顕著な違いがあるわけではない。
多少の優劣があっても僅差だ。
それならば量で勝てる。
それが残っている限りプーチンは戦い続ける。
もちろん難題はいくつもあった。