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はてなキーワード: バラックとは

2019-10-16

川崎はいい街みんなもおいで

朝鮮人不法占拠バラックが水没したり武蔵小杉うんこだったりするけどいい街だよ

助けてサンレッド

2019-03-22

建築物の「種類の名前」を知りたい

建築物の「種類の名前」を知りたい。

自動車なら「セダン」「クーペ」「軽自動車」「コンパクトカー」「SUV」「ミニバン」「ワゴン」「オープンカー」「バス」「トラック」「キャンピングカー」のような「種類の名前」がある。

これの建築物バージョンが知りたい。

例えば

のような「種類の名前」を知りたい。

カテゴライズ方法や細分化などの都合で自動車のようにはいかないのだろうが……。

とりあえずは「日本」「現代」「商業施設でない」ものをメインに知りたい。

現代日本人が住むことのできる住宅の種類」はどのくらいあるのか知りたい。

増田の皆さん!お知恵拝借

2018-12-18

anond:20181218095443

これは真面目な話、バブル前後位にバラックハウスみたいな謎の空白地的な所に住んでた在日朝鮮人の人たちがある日一斉にいなくなった。

どっかに移動したのか知らんが、多分時期的にリアル北朝鮮がどうのこうのがあったんだとは思われる。

から政治が変われば割とそういう日本特別地域に住んでる人たちはサッといなくなるよ。

まあ、これは在日朝鮮人の人に限った話だろうが。

2018-08-06

架空恋人を作れ

大戦中にドイツ軍捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、

長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を作った話を思い出した。

そのグループ収容されてた雑居房バラック、その隅に置かれた一つの席は、

13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ

彼らグループの中で、喧嘩口論など紳士しからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、

その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。

着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、

食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、

予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自ささやか手作りプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。

・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、

監視ドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているもの勘違いして、

彼らの雑居房天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。

だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂自殺したりする中、

そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。

本当なんだろうか?

2017-10-06

バラック・オバマってバラックで育ったの?

何を考えて親はそういう名前付けるわけ?

2017-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20170221112040

横だけど、俺はアニメキャラ癒してもらう路線で良いと思うぞ。

捕虜勇気付けた架空少女の話もあるし、等身大抱き枕は最強の癒しとだけ…



捕虜勇気付けた架空少女

359: 03/31 17:52

大戦中にドイツ軍捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を作った話を思い出した。

・・・そのグループ収容されてた雑居房バラック、その隅に置かれた一つの席は、13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ

彼らグループの中で、喧嘩口論など紳士しからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。

着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自ささやか手作りプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。

・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、監視ドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているもの勘違いして、彼らの雑居房天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。

だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂自殺したりする中、そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。

2017-01-20

邪っ腐-Jap-

ゆとりの18番 迷惑かけることしか能が無え

没落一家プライドがない やることなすこと遊びだけ

奴等は大半○○○ガ○者 民度レベルは最低

ならず者下半身斬られても 腐った根性治らねぇ!!

ならず者も匙を投げるほど 穢れた仕来りは続く

偽善するしか能が無い 政治列車脱線

道義ある米国を ヤンキーだと嘘ついた

お前ら外道連中こそ 道徳も糞も無い土○連中!!!

中世ジャップランド ジャップじゃねえぜ邪魔!!

中世ジャップランド ジャップじゃねえぜ邪魔!!

ネオリベに吼えさせろ 田舎者の腐れた武士

昭和時代国民達に 顔抜けなどできぬだろう くそったれ!!

2000年代ですらそんな輩出てこなかった ところが2010年代

日本国内で出回る ゆとり世代暴走

奴等はマジで正気!? 憤怒扇動お祭り騒ぎ

それを喜んでいるのは キタナヰヲトナたちだけ!!

昔を嫌っているくせに 青春時代のように懐かしむ

日本全国各地で 通り魔犯罪起きまくる!

尊敬すべき両親を 私の敵だと虚言した

お前等偽善者野郎こそ この国に生きる資格は無え!!

ブラック日本国 ブラックじゃねえぜバラック!!

ブラック日本国 ブラックじゃねえぜバラック!!

ネット右翼に吼えさせろ 勝ち組落ちこぼれ

大東亜戦争勇者達に 顔抜けなどできぬだろう くそったれ!!

謎に包まれた 事件真相

死んで詫びたとて 許すまじ蛮行

中世ジャップランド ジャップじゃねえぜ邪魔!!

中世ジャップランド ジャップじゃねえぜ邪魔!!

ヘイトスピーカーに吼えさせろ 負け組のなり損ない

お前らの家族達に 顔抜けなどできぬだろう くそったれ!!

2016-12-04

死の収容所へ 1

ヨーロッパユダヤ人絶滅の準備

 ドイツ軍ソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組的殺作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルトハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。

「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」

 この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。

ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。

 1941年12月11日日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツ戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。

 ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録ニュルンベルク国際軍事法廷証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分ゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。

総統意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方追放し、その跡地に対して行われることになった…

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」

 ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域ユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツ占領国や同盟国とは別にイギリスソ連ヨーロッパ地域、また中立国ポルトガルスペインスウェーデンスイスアイルランドトルコといった、ドイツ占領する予定だった国も含まれていた。

 ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後証言で「ヒトラーユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所対応させる必要があった」。

 この会談の直後、アイヒマンアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。

 ガスを使った殺害ナチドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式組織として医師を擁する医療関係の諸機関大学研究所病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。

 かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。

 しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである

絶滅作戦

 絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊パイプ排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。

 「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連ドイツ占領地域では1941年12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。

 1941年12月8日。占領ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれ区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」

 「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれ場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。

 1941年11月ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議ハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人であるハイドリヒは1942年5月にチェコレジスタンス暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファーストネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツ東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者ウクライナ部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。

 ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。

 ルブリン近郊のマイダネク収容所ユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。

 強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国ポーランド南部シレジア地方建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランドオシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎敷地強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校政治犯収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍工業囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体ガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体ガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。

 アウシュヴィッツビルケナウ収容所絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所移送された。他に子ども双生児脊髄障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。

 生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。

 厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓さらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人バラックから毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。

2016-10-27

京都駅徒歩10分の七条河原町周辺には空き地が多い

なぜだ?

七条通から京都駅側は同和問題のあった地区

鴨川方向に進むとバラックが多かった地区に入る。

最近では高瀬川沿いで火事があった。

治安に関しては悪いとは言わない。夜は薄暗いが

特に問題はないはずだ。

ただし、あの地域はヤ〇ザは絡んでいるうわさがある。

鴨京不動産?はそうらしい

七條通り沿いは駐車場が多く駅の近くなのに空き地である

商業地としてのチャンスを逃している気がする

何か大きな建物を建ててもいいと思うが土地を持っている人はかたくなな態度をとりそうだ。

2016-09-11

君の名は。』について名古屋市民が思うこと

勅使河原という苗字愛知に多い苗字だと聞いてたけど飛騨にもいるのか。(由来は関東らしいので関東でも結構多いのかな?)

飛騨弁って名古屋弁混じってるよね?関西弁っぽくもあるけど。むしろ岐阜言葉名古屋に入ってるのかな?(河村市長が喋っているのは名古屋弁じゃなくて河村語です)

名古屋駅から飛騨って遠い。東京から行くんだったら実は富山経由のほうが便利なのでは?新幹線走ってるし

名古屋駅映ってたけど、構内が田舎くさい。大阪東京の駅はオサレなのに。でかい駅ビルは立てたくせにJR東海在来線の駅に投資してないよね。大曽根駅とか通路屋根バラック(?)になっててひどい

名古屋駅味噌カツ駅弁売ってるの初めて知ったわ。そんなもの映すより大名古屋ビルヂング映してくれ。三大都市名古屋田舎にみせる悪質な印象操作だ。

・やたら新宿を映してたけど、ぶっちゃけ梅田のほうがビルの密集度では勝ってるよね

2016-05-17

バラック特区

バラック特区はてな村にある、バラック住宅なら固定資産税がかからない、貧民層のための特区である

バラック特区”との一致はありません。

バラックトック

1 件 (0.25 秒)

2015-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20151118213435

鮎を食べたことがない人に、鮎を勧めてみようと思って筆をとることにする。

最初からこんなことを書いてしまうと勧める気あるのか?って感じだが、不思議な事に、鮎を都内にもって帰って食べても美味しくはない。

時間が経っているからというだけの理由ではない。

実家で食べる鮎は、冷えようと一晩経とうと二晩経とうとそこそこ美味しい。

いや、美味しいわけではないんだが、残ってればつい食べてしまう。

ということは自分滞在している限りまず残らないわけだが。

鮎を食べるのに重要な事は、そこの空気匂いだと思う。

田舎空気はどこか生ごみのような匂いがする。

都会の、ほこりっぽさや、水の塩素臭とはまた違った、植物が腐敗したような匂いがどこか漂っている。

鮎の匂い田舎匂いのものだ。

スイカ匂いとか、キュウリ匂いとか言われるが、まさにその通りで、カブトムシが寄ってきそうな匂いだ。

ネットで調べると、なんでも加齢臭と同じ成分らしい。

そうは思えないんだが、濃度と他の成分との混ざり具合の妙だろうか。

とかく、生き物臭さの匂いが鮎の匂いだ。そしてそれは田舎匂いだ。

水道水も、温泉も、川も、空気も、その辺じゅう鮎の匂いがする。あるいは鮎が田舎臭がする。

理由はよくわからないが、都内に戻って鮎の匂いを嗅いでも、それほど食欲がわかない。

都会にいると、鮎なんかよりもトンコツラーメン匂いが嗅ぎたい。

少し、美味しんぼ的なウンチクをたれると、天然鮎は体が赤黒く、いかりや長介みたいな下顎がシャクレた顔をしてる。

養殖鮎は、首の付け根から背中ゼラチンっぽいプルプルの透明な油の固まりがある。

しかし、鮎においての「養殖鮎」とは、一度も川に出ていない鮎を指し、一度放流されればみな天然鮎となる。(日本中の鮎のほとんどは、琵琶湖まれだ)

さて、そろそろ前置きを終えて、鮎の食べ方に移る。

鮎の食べ方だが、前エントリで書いたとおり、パサパサにすればするほど美味しい。

稚鮎なんかは落ちる脂もないので、天ぷらでも食えるが、稚鮎限定

田舎ではポピュラー食材なので、唐揚げや衣をつけてフライにしたりするが、一度も美味しいと思ったことはない。

食べ方は、串に刺した鮎をアタマを下にして、炉端に刺して焼くの一択

立てて焼く理由も、鮎から汁が下によく落ちるようにだ。

備長炭ではない普通の炭で、遠目の強火で一時間くらい焼き続ける。

時間の決まりも、焼き上がりの目安も、これはもう、経験しかなく、次々鮎を焼いていくが、焼き上がりの順番は焼きはじめの順番とは異なる。焼けたものから客に出す。

夏にバーベキューをするように、若鮎を食べ、秋に芋を食うように、ホクホクの卵が入った落ち鮎を食う。

塩焼きしたものを、研いだ米と一緒に炊きあげる鮎めしという料理もある。

さらに脂はすっかり抜けきってしまうわけだが、それも嫌いではない。

鯛めしなど、せっかくの鯛から脂が抜け落ちてしまうのですごく勿体無いと思ってしまうんだが、鮎だと許せる。

さてさて、炉端に限るなどと書いてしまったため、

「炉端でしかも鮎を出す店なんかねぇじゃないか。しかも焼き具合は経験しか言い様がないとか、都心じゃ食えねぇ」

とお嘆きのことであろう。

実際のところ、天然鮎のコースを出す店は都内でも新橋の鮎正くらいしか知らない。

ミシュランの星もついた有名な店ではあるが、高いし、移転して普通の小料理屋風の店になってしまったので、デートにも向かないと思う。

現実的なところだと、高速で栃木県まで行き、那珂川沿いの簗場で食べるのが一番安上がりだし、面白いと思う。

梁場とは、鮎を取る巨大な仕掛けをといい、隣に炉端焼きを食わせる海の家ならぬ川の家とも言うべきバラックが建てられている。

高級魚のようなイメージがあるが、田舎で食べるとそう高いものでもない。

簗場だと、塩焼きが1kg2000円くらいだった気がする。

何尾ではなくてキロ売りで塩焼きを出すくらいに、ご当地ではシシャモやメザシと同じくらい身近な食べ物だ。

具体的なデートプランはだな、とりあえず、彼女(友達)に果物のような匂い不思議な魚、天然鮎のウンチクと、値段の高さを語って布石を打っておく。

ドライブに誘って高速に乗って栃木県に行く。

宇都宮餃子が食べたいとかい彼女(友だち)に、簗場存在を教えて行き先を簗場に。

ごみのようなクソど田舎空気の下で、適当に2kgくらい焼いてもらって、塩焼きを食べる。

まあ、たいして美味しい魚じゃないからね。

不評だったら、鰻でも食わせて満足させるか、宇都宮餃子でも食わせりゃいい。

2014-12-02

僕はもうプログラミングしなくていいんだ

大学回生の夏、下宿の扉に「出入禁止」とチョークで大書し、親を呼ばれて精神病院に連れて行かれた。

 

パソコンを買ってもらったのは小学三年生の冬だった。今でも覚えている。1996年12月2日のことだ。Windows95発売で世間は揺れていた。インターネット回線がうちに来たのは翌97年の1月、これはそこそこ早い導入だったと思う。さらに翌々年の99年にはケーブルテレビ常時接続になった。親には先見の明があったが、しかしパソコンには詳しくなかった。PC-8001も確かそうだ。親はこれが次世代の必需品になると確信して買っていたが、買った一方で使い道が分からなくてオブジェとして放置していた。親はPC-8001パソコンだと言っていたけれど、僕にとってパソコンはおっきなテレビが標準で付属しているものだったし、マウスもなかったので、それがパソコンだとは到底思えなかった。でも親は言った。今度来るのは違うんだ、オフィスも入っているパソコンなんだ。僕は聞いた。一太郎っていうやつは入ってないの?テレビで言ってたよ、と。親は答えた。オフィスってのは一太郎より機能がスゴイんだよ。僕はへぇ、とだけ言った。どちらにせよペイントは入っているだろう。ペイントなら親戚の家で使わせてもらったことがある。パソコンお絵かきができるのだ。マウスをカチカチして、キーボードをカチャカチャするのだけが楽しみで、納品の日を一週間ひたすら待った。その頃、漢字宿題提出が滞っていて、そのままでは居残りでさせられることになっていた。僕は久々に奮起した。いつもは踏み倒していた宿題を、全部一気に終わらせた。家に帰るとパソコン電気屋さんの手で設置されつつあった。今は亡き、ニノミヤで買われたパソコンであった。

 

97年にインターネットを始めた。一日一時間まで。実のところ電話代の問題ではなく、一時間ほど使うとブルースクリーンが発生するからだった。一日一時間以上動かすと壊れるから。PC-8001キッチリ買った親なのに、それぐらいの(?)ITリテラシーであった。ただ別にそれを責めるつもりはない。僕はすぐにアングラサイトに入り浸った。人に飢えていたのだ。普通のチャットには人がいない。テレホタイムにならないと、誰一人ログイン氏亡いのだ。でも、アングラサイトなら四六時中書き込みがある。僕は思う存分厨房行為を楽しんだ。煽り騙りなんかは、小学生がやっても大人がやっても大して変わらないものだ。You is a big fool manという文句をリアルタイムで目にした人は、多くても数百人だっただろう。何千、何万のツイッタラーが押し寄せ、ブクマが1000以上付くような今の炎上とはほど遠い暢気さだ。当時の匿名掲示板とはそういうものだった。誰一人本気で投稿しなかったし、しかし誰一人面白くない書き込みをしようとはしなかった。トイレでもネタを考え、思いつけばすぐに投稿し、ワラタが付くのを待ち続ける。あやしいあめぞうあやしい、2ch。人の多いところから人の多いところへ。ワラタが多くもらえる場所へ。気づいたらインパクが終わっていた。

 

その一方で僕は中高一貫私立校入学していた。高校受験がないことから、ネット依存さらに加速した。しかし2000年を境にアングラ掲示板は衰退の一途をたどり、2ch一強時代を迎えていた。1ch.tvボコったりするなど楽しいネタがないわけではなかったが、匿名掲示板ネタの宝庫と言うより、本気でちゃんと議論することもできる場所になり始めていた。ちゃんと議論しようとしたらすぐさま崩しにかかるのが2ch隆盛以前の匿名掲示板文化であったが、2003年頃を境にはっきりと潮目が変わっていったように思う。まあその辺はどうでもいい。アングラと非アングラの境目は消え始めていた。

 

その狭間に、僕は生きていた。

 

自分掲示板を設置することにした。けれども何をして良いのか分からない。CGIレスキューに救援要請をして本も買った。Perlだ。Perlしかない。しかしPerlがどうして動いているのかは、全く分からなかった。何十行、何百行もの文字の羅列が、どこでどうなって、掲示板になるのか。インタプリタコンパイラ?訳が分からない。そもそもCPUがどうやって動いているのかも分からない。僕にとってプログラムとは、セットアップウィザードCD-ROMをギュンギュン言わせながらインストールするものであって、掲示板というものは、Teacupで借りるものだったからだ。でもどうやらそうじゃないらしい。コンピューター翻訳するのがコンパイラです。さっそくコンパイラを使ってみましょう……

 

お手上げだった。

 

コンパイラがないのだ。コマンドプロンプトにはない。Linuxを入れる?使い方が分からない。Vine Linux初心者お勧めだった頃の話だ。ボケッとしててもGNomeぐらいは動かせる程度には簡単になっていたが、そこからターミナルを開いてgccでコンパイルするなんて想像も付かないことだった。Hello, Worldはなんとか表示できても、それをGUIで動かす方法が分からない。僕はデスクトップに「Hello, World」のポップアップウインドウを表示させたかったのに。全然訳が分からなかった。

 

プログラムが動いている方法を知らなければならない。プログラミングを学ばなければいけない。しかし全体像を把握するにはあまりにもほど遠い……。絶望感が支配し始めていた。Hello, Worldはできたけれど、その先が全くわからない。どの参考書を読んでも分からない。ググってもググっても分からない。ポインタで躓く初心者が多いです!……どの本にも書いてあったけれど、僕はポインタどころか、変数の種類がたくさんあるところでお手上げだった。int?char?long???意味不明文字列が並び続ける。メモリメモリって、挿したらいいんじゃないの?確保?fopen????どんなプログラミング言語も、何一つ分からなかった。その頃インターネットは加速し始めていた。切るのが当たり前だったJavascriptが復権し、Ajaxと名を変えてやってきた。掲示板スクリプトもどんどん高機能化し、もはやPerlを知るだけでは何一つできないようになってしまった。苦痛の日々が始まった。どの言語も、全く分からなかった。分からなければならないという焦りが募っていった。

 

あるとき、一年間ほど、とりあえずお手上げのままにしておくことにした。大学受験が迫ってきたからだった。そして案外あっけなくそれは終わった。僕は某大学情報科学科に入った。

 

教授ガイダンスで説明したとおり、情報科学科のプログラミング演習はそれほど多いものではなかった。一回生の時なんか、キーボードを目で追って人差し指で打っている人もいるぐらいだった。学校の授業はアテにならない。そして大学受験でいったん引っ込んだ、とにかく十代でなにかしないと、という焦りが復活してきた。

 

大学キャンパスは広すぎた。何をして良いのか全く分からなかった。授業内容はひどくつまらなく、何が役に立つのかも分からず、ただただ苦痛で、キャンパスサークル活動に打ち込んで楽しく過ごせるほど社交的ではなく、かといってオタク集団に混じる勇気も無く、とにかく、とにかくここで四年間、四年間で何かしないと、何かしないと就職に間に合わない、大学院進学に間に合わない、十代のうちに何か大きな事を成し遂げなければならない。日々研鑽に励み、日々プログラミングスキルを磨き、日々勉強会に参加し、日々コードを書き、日々環境設定をし、日々本を読み、そして日々コードを美しく書かなければならない、そういう焦りだけがどんどん加速していった。大学生協で片っ端からプログラミングの本を買った。ド初心者向けのPerl本から、美しいコードは何か、みたいな本まで。でも、どれ一つ、僕のスキル向上には役に立たなかった。プログラミングスキルの向上=自分自身の地位=生活の保障、と思っていた自分には、悪夢のような現実だった。

 

とにかくインターネットと一緒に歩んできた僕にとって、ITスキルはすなわち力であり、むしろITスキル以外は何の価値も持たないもの、と思えるほど脅迫的な観念にとらわれていた。入ってくる情報さらに増えていった。Cができるのは当たり前、Ruby on Railsがアツい、Java、PHPはもちろんできるよね、MySQLは当然使えるよね、もちろんHaskellSchemeObjective-Cもやらなきゃね……何一つできないのに、習得すべき言語だけがどんどん増えていく。加えて美しいコードを書け!という文句が飛んでくる。クソッタレが。何が美しいコードじゃ。goto使ってもいいだろ。好きなだけ使わせろクソッタレが。全部getsで書いてやる。クソが。アルゴリズムアルゴリズム勉強会勉強会ビューティフルコードMacMacMacジョブズジョブズジョブズ……???????????????

 

それでもなんとか、そう、なんとかなった。友達が優秀だったのだ。僕には到底できないような、きれいに整理されたコードを書く人だった。聞けば在学中から外注プログラマをやっていて、それなりに稼いでいたのだという。性格ちょっとアレで、風俗に勇気を出して行こうかどうしようか迷ったけどその金でオナホ買ってシコってオナホを床に叩きつけたみたいなヤツだったけれど、そいつからもらったコードを、わざと汚く成形し、変数名も汚らしくし、提出し、なんとかなった。結局自分最初から最後までプログラムを作ることはできなかった。丸々コピペはしなかったけれど、コピペがなければ卒業は無理だっただろう。

そうして三回生の終わり、試験がどっと押し寄せてきた。一月のことだった。機械学習と……なんだっけ?そういう感じの試験が、2月の初日、行われることになった。三回生はただでさえ試験が多かったが、その大トリこそが機械学習だったのだ。

 

僕は試験放棄した。

 

まるで意味が分からなかった。推論、それは分かる、機械学習機械学習??やっていることは数式だしベイズがどうの……まるで分からない。泣きそうだった。三年間必死こいて勉強したり勉強会に行ったりプログラミングスキルを上げようとしたり本を読んだり色々したのに、何一つ得るものは無かったのだ。僕はあやしいわーるどオマンコ連呼していた頃から、何一つ成長出来なかったのだ。そしてそれは、間違いなく、疑いようがなく、自分のせいだった。自分頭が悪いせいで。自分の勉強不足のせいで。自分のせいで……コンピュータとともに、十何年も育っていた僕にとって、コンピュータに関するスキルこそが、全ての力の基準だったのに、その全てを否定されたような気持ちだった。プログラミングができなければ、死ぬだって友達はみんな就職して、SEになったりSIerで働いたりネットワーク管理者になったりしてるのに、僕はなんで、こんなところに。そいつらに取り残されるのに。みんな勉強会に出てMacを持ち寄ってハッカソンしてるのに。泊まり込みでプログラミングしたりしてるのに。なんで僕は、fgetsすらマトモに使えず、getsとscanfだけであなた名前を入力してください オマンコ オマンコさん、こんにちは!みたいなプログラムしか書けないんだ。

 

大学回生になった。研究室を選択する必要があったがしなかった。しないでは困るとのことで、適当に書いたらその一番上に配属された。でも一切研究せず、下宿に引きこもって何もしないをした。今日輪講はここまで進みました!という報告が毎週回ってくるが、まるで研究室では日本語でなくアラビア語公用語になっているのではないかと思えるぐらいの光景だった。この頃、近所の人の証言によれば、言動がおかしく、訪ねてきた人に暴言で返し、殺す殺すなどの声が聞こえ、時折モノを投げつける音が聞こえたりしたそうだ。まあよく知らない。僕は普通に何もせずぼんやりネットを見ていただけのような気がするけど。

 

それからしばらく経った。

 

結局僕は中退した。そして別の大学に入り直した。今度は、工学じゃない別の場所に。みんなキーボードの文字を読みながら指先でキーを叩いている。安心する光景だった。僕らはプログラミングを習わなくてもいい。これから習う必要も無い。タッチタイピングだって、できるに超したことはないだろうけど、できなくてもいい。ただ、そこにある便利なモノを使えば良いだけなのだChromeを使っていて、うっかり開発者向けコンソールを開いてしまっても、何も分からなかったことにして閉じて良いのだ。きっとマクロを書けば、楽ちんに勝手にやってくれるような作業を、人の手で何度もやる。それでいいんだ。マクロを考えるために必死になる必要なんか無い。マウス右クリックコピーペースト。それでいいのだ。キーバインドすら覚えなくて良い。メモ帳を使ってもいい。viやEmacsキーバインドを覚えなくてもいい。マウスも使えないようなエディタと格闘する必要は無い。Macを買っても、XCodeportsを入れる必要は無い。iTunesiPhoneを同期させて、音楽を聴くだけでいいんだ。

 

僕はもうプログラミングしないでいいんだ。

 

それが分かったとき、全てから解放されたような気がした。僕を苦しめ続けたプログラミングというものは消えてなくなった。パソコンでやる作業は、昔と一緒、匿名掲示板オマンコと書き込むだけだ。それ以上のことをしなくてもいいんだ。勉強会に出てハッカソンする必要は無いんだ。プログラミングスキルを錬磨しないと死ぬなんてのはウソだったんだ。美しいコードを書かないと天罰が下るというのはウソだったんだ。毎日毎日はてブホッテントリを見てると、プログラミングマスターしなければならないこと、何何する方法開発者必須スキル、便利ツール、Macでのアプリ開発、セキュリティ、通信、データベース勉強会ハッカソン、そういうもので溢れている。苦しくないのか不思議で仕方ない。もちろんプログラミングをしていて楽しい人もいるんだろう。けれど、僕みたいに、プログラミングという行為が苦痛で苦痛で苦痛でしかない人もいる。たとえ1000回の同じ操作でも、人力でやる方がマクロを書くよりも楽だという人も、ここに存在するのだ。そしてそのような人の存在も当たり前に肯定されるのだ。みんな苦しまなくて良いんだ。誰かが勝手にやってくれればいい。できる人にお金を渡して、僕らはそれを享受するだけで良いのだ。ここでプログラミングという言葉を連呼したけれど、コーディングという言葉との違いとか、そういうのを気にするような人とおつきあいする必要は無いのだ。いずれプログラミング必須スキルになるとか言われて何年も何年も苦しみ続けてきた。けれど、そんなことをする必要は無いんだ。

 

さようなら。僕はもうプログラミングしません。

 

 

 

 

それでぶっちゃけここからが本番なんだが、十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?誰かの承認を得たいという承認欲求を、同じ世代の誰かを使って満たすことができず、むしろ同じ世代の誰かを一緒に引き連れて、承認欲求を満たしてくれる「教祖」にすがりつく。NPOの大学生が「承認」を欲し、政治家が「承認」を与えているのだ。AO入試用の作文?図?みたいなものも見かけたが、「私はリーダーシップがあります!」とか実にくだらないことしか書いていない。しかしそういうものでさえ、学生団体とやらは「承認」してくれる。結局、オウム真理教が丸ごと開けたポジションに、バラックが建ち並び闇市が行われていて、コミュニケーションで自然と得られるはずの承認欲求が、法外な札束で取引されている、そんな感じのような気がする。

 

意外にブクマが増えていた。PC-8001は俺が産まれる前に買われたもので、ずっとオブジェだったのだ。動くかどうかもわからない。テレビに接続するコードがなかったから。

2014-09-08

http://anond.hatelabo.jp/20140908175533

消費なんか死んで構わないって言ってるのがなんでわからないの?

日本に足りないのは失業率移民貧困層ボリューム

しっかり格差をつけて、消費は上流に任せ

安い人件費生産を補っていく方が良いに決まってんじゃん。

ゴミに金を流すなんてことをするより

しっかり使える上流層が金を独占し、貧民はバラックで暮らせば良い。

世界的に見ても標準的なあるべき国の姿だろう。

インフレ自体がこの国にはそぐわない。

デフレこそが正義

2012-12-02

http://anond.hatelabo.jp/20121202173021

関西震災は「大」の付くような地震ではなかった。

実際、神戸市隣接(訂正:近接)する大阪市ではほとんど被害が出ていない。

だが、朝食の準備で火を使っている時間帯が悪かった。

戦後そのままの木造バラック在日住民を押し込めていた下町地区焼け野原になった。

死者五千人のほとんど(訂正:うち判明しているだけでも千人近くもの犠牲者)はコリアンタウンである生田(訂正:長田区)で発生した。

関西震災の被害は、外国人差別が生んだ。

大地震ではないのに、日本人差別意識から人災で大震災になってしまったのだ。

日本は、関東大震災の時期から何も変わっていない。

瓦礫処理の話をしよう。

関西本質的火災災害被災地域が極めて狭い。

市役所県庁被災せず、職員も被災しておらず、すぐさま復興の指揮を取れた。

瓦礫燃え残り程度しかなく(訂正:倒壊した建物もあったが燃えて嵩が減っており)、目の前の海に持って行くだけで容易に処理できた。

埋めていい海があり、経済的にも神戸空港大阪オリンピック会場と言う埋立の需要があった。

瀬戸内海津波被害を心配する必要もない。

生活の場ではないから、心情的にも、土壌汚染などがあっても、特に問題ない。

東北本質的津波災害被災地域が極めて広い。

町役場県庁まで津波が迫り、職員も被災し、政治中枢が完全に失われた。

町の全てが瓦礫と化し、山がちな三県では到底処理できない。

東北の海は大切な漁業の場で、経済的に埋立地需要もない。

津波災害後、外洋に面した海に埋立地を作るのも考えられない。

生活の場となる高台造成に利用するのは、心情的にも、放射能汚染対策上も、許されない。

大した地震でもないのに日本人による在日住民差別大惨事にしてしまった関西震災

すべての日本人に降りかかった戦後初の大災害である東日本大震災

瓦礫の質も、量も、意味も、全く異なる。

2010-03-26

Bridge Over Troubled Space 備考

<登場人物>

アラノレイウ:ステラコドランのワラワヘム(サルガッソー)研究員。※デブ

ホウイックラン:同上。※トンガリ

ヂスチスワガン:同上。※ヒゲ

メラスコニーヴェ:調査艇パイロット

ロリロルロゥウェ:同航法士。

タジルアラスキ:ステラコドラン戦闘艦艦長

バラック=マン:輸送船長

ダルー=カタリ:輸送クルー

ターニャ=クルバンスク:同上。

アッキーム=バザラム:同上。

ステラコドラン人について>

 ステラコドラン人は幼体のうちは上の二本の腕(陽腕)しかない。脱皮をする度に成長していくが、これを毛期という。8毛期まである。稀に長寿で9毛期を迎える者もいて、師父として尊ばれる存在になる。師父は一族の名付け親になることが多い。

 社会内の地位はいつ陰腕(下の二本の腕)が生えるかで決定される。標準は4毛期。5毛期からは「腕遅れ」とされ、基本的に生涯の地位は低くなる。ロロは5毛期。

 脱皮とともに突然生えてくるわけではなく、脱皮の前には肘を曲げた状態の組織が脇腹の部分に隆起している(オエ〜)。これを人前に晒すのは大変恥ずかしいこととされる。

 稀に脱皮しても隆起の状態で次の毛期まで腕として機能しない者もいる。地位のために外科処置で無理矢理腕化する場合が多いが、陰腕の発達が知能や体力に影響するために、結局能力の低い成体になる可能性が高い。ロロも4毛期の脱皮で腕化しなかったのだが、次の毛期を待ったので正常(むしろかなり優秀)に発育した。

 ステラコドラン人はなんと雌雄同体。というか雄しかいない。8毛期を過ぎた成体は子供を産むことが出来る。その時期はコントロールできない。ロロもそのうち産むかもしれない…。生殖器はあるが生殖機能はない(快感は、ある)。

 ものすご〜く大昔には雌もいたのだが、本星を失い流浪の民になってからは戦闘種族ということもあってか、力の秀でた雄だけで繁栄できるように進化していったのだという節が有力。現在は「巣」と呼ばれる巨大なコロニー船を繁栄の基盤にしている。巣は巨大な星間船でもあり、いくつもある。

 本能的に雌的なモノ(力が弱かったり可愛かったり)を愛でる感覚が残っていて、ペットを飼うことが文化として根づいている。だからどのようにペットを愛玩するかが文化としての高尚さに繋がっている。早い話がどれだけハァハァできるかってこと(生殖器はだから文化に対して用いられる器官なのだ)。

 寒さにはめっぽう弱い。一方で真空に数時間耐えられる身体の構造を持つ。血の色は赤い。

2009-03-27

おお、資料あったか。

http://anond.hatelabo.jp/20090326222016

あー、診療記録あったんだねー、てその方随分な目に合ってらっしゃいますが。

http://www.holocaustsurvivors.org/cgi-bin/data.show.pl?di=record&da=survivors&ke=7

隠れてたんじゃねーのこいつ。マイダネクからの知り合いの好意で。なんなのこの病院(つーかバラックてかいてありますが)。ドイツ人医師が巡回してきたらヤバイ、て書いてありますがなんなのこれ。おまけにすでに何人か殺されてるみたいですけど、なにこの病院。貴重な生き残りの証言と裏付け資料をありがとう。けっこう腹たってるけど、まぁいいや。

んー、提示されたサイト出産記録、て語句が見つからないんですが、どこらへんに有るんかの。あのね、前に2chでこの話題になった時にStanislawa Leszczynskaて方の証言が大元のお話だ、てことになったんですが違うかの。

http://www.seattlecatholic.com/article_20050104.html

これによると出産場所はバラックで、しかも生まれてすぐに樽に漬けられて殺された、てなっとるが違うかの。その写真赤ちゃんは、収容所職員の赤ちゃんではないんかの。うん、ちょっと腹立ててるけど。まぁいいや。

なんか色々エスパーしてる(論点先取りのことね)けど、なんかあなたの方が妙なベクトルが掛かってるように見えるんだがね。トラバに答えて「両論比較した」とか書いてたけど、比較した結果がコレなんかの。それとな、なんでこの記事で確実にあります、て言い切れるの。コレも比較したかい?>http://www.annesrosechurch.com/1995terezin.htm なんつかね、まぁいいや。

つまり、アウシュヴィッツてところは、病院施設が整ってて、収容者は病院に隠れ、見つかったら殺されて、倒れるまで労働して、ちゃんとした産婦人科病院があって、バラックで3000人の赤ちゃんが生まれて、すぐに樽の水に漬けられて殺されて、死の恐怖の怯えながら絵を描いた子供たちは、喜んで合唱団を作って歌って、一日平均91人もの人が(ある日は970人の人が)、優れた医師がいながら整った施設で死んでいく場所なワケかね。どんなとこなの、それ。なんか、俺の矛盾とか書いてるけど、あなたの思うアウシュヴィッツてコレ?

その死亡記録にせよ「ゴルバチョフ秘密で見せてもらった」てなに?これが信頼性高くて、歴史学記述が信頼性低い、てどういうことよ。

焼却炉が廃油で動いてた、なんてどこの学説ですかね。俺が提示した資料にキチンコークス、て書いてあるはずだがね。それに、グーゼンのタイムシートを見たね?焼却数の多少と燃料の消費は関係ありません。この焼却炉は連続式の焼却炉で、2体目以降は遺体の焼けた熱を利用して焼却するので、燃料消費を抑えられるんだよ。イェーリング技師の報告書にも、そう書いてあるだろ?

さっき書いたのに付け加えよう。天国みたいな収容所だけど、一日に5000体近く(カムレルのメモ基準)処理できる遺体焼却炉が必要だった、と。

なんかねー、俺はね、今はてなでちょっと問題になってる「否定論者を寄って多かって叩くのは魔女裁判と同じ」て話に興味もって、そんなエントリー書いてたあなたにトラバしたワケ。そのあなたは結局は、はてな村民と同じメンタリティーなワケだ。なんか色々、どうでもよくなってきた。

被害者総数について本を見ろ、つーのはめんどくさいから。長くなるけどヒルバーグの例だけ上げたる。

1 DEATHS BY CAUSE

Ghettoization and general privation: over 800,000

Ghettos in German-occupied Eastern Eu-rope: over 600,000

Theresienstadt and privation outside of ghet-tos: 100,000

Transnistria colonies (Romanian and Soviet Jews): 100,000

Open-air shootings: over 1,300,000

Einsatzgruppen, Higher SS and Police Leaders, Romanian and German armies in mobile operations; shootings in Galicia during deportations; killings of prisoners of war and shootings in Serbia and elsewhereCamps: up to 3,000,000

GermanDeath camps up to 2,700,000

Auschwitz 1 ,000,000

Treblinka up to 750,000

Belzec 550,000

Sobibor up to 200,000

Kulmhof 150,000

Lublin 50,000

Camps with tolls in the low tens of thousands or below: 150,000

Concentration camps (Bergen-Belsen, Buchenwald Mauthausen, Dachau, Stutthof, and others)

Camps with killing operations (Poniatowa, Trawniki, Semlin)

Labor camps and transit camps: 150,000

RomanianGolta complex and Bessarabian transit camps: 100,000

Croatian and other: under 50,000Total: 5,100,000

Note: Ghettos in German-occupied Eastern Europe, open-air shootings, Auschwitz figures are rounded to the nearest hundred thousand, other categories nearest fifty thousand.

2 DEATHS BY COUNTRY

Poland up to 3,000,000

USSR over 700,000

Romania 270,000

Czechoslovakia 260,000

Hungary over 180,000

Lithuania up to 130,000

Germany over 120,000

Netherlands over 100,000

France 75,000

Latvia 70,000

Yugoslavia 60,000

Greece 60,000Austria over 50,000

Belgium 24,000 Italy (including Rhodes) 9,000

Estonia 2,000

Norway under 1,000

Luxembourg under 1,000

Danzig under 1,000

Total 5,100,000

Note: Borders refer to 1937. Converts to Christianity are included, and refugees are counted with the countries from which they were deported.

3. DEATHS BY YEAR

1933-1940under 100,000

1941 1,100,000

1942 2,700,000

1943 500,000

1944 600,000

1945 100,000

Total 5,100,000

Note: Rounded to the nearest 100,000.

あああああ、めんどくせぇ~。大概みんなもメンドクサイんだと思うよ。

2008-03-26

[]

両親と私、弟二人は、昭和十年に移民団として南洋群島パラオ本島に行き、ここから私の人生が始まりました。

北海道から汽車で揺られ、横浜へ港から一週間の船旅で、小笠原諸島を通過する時は大シケで、全員が船酔いでぐったりして、ココール港に入港して下船し、旅館に落ち着き、二日後に連絡船で私たちの永住する朝日村へと三時間の旅で、ここから一時間歩いて草と小枝を切って前日区分した場所に着き、まわりを見渡すと大樹が多く、先ずは伐採から始め、そして草を刈り、住む所にバラック小屋を建て、火をたける場所を作り、原始的な生活から始まる。

入植をして半年を過ぎる頃には、どうにか農作物が作れるようになり、パイナップル畑を作り、苗を植え、次々と入植者も入り開けてきて、パイナップル工場も出来る。野菜波止場までかついで出荷をする。そのうちにリヤカを買い、運搬は楽になり、農家も安定をして、家畜を飼い堆肥を作り、私たちの住む住宅を建て、安定したのもつかの間で、昭和十八年、大東亜戦争が始まり、三月二十八日から三十日の三日間は大空襲で、ココールの町は火の海と化して、食糧及び燃料は壊滅状態で、これからが大変な生活で、内地からの定期船が入らず、自給自足で半年くらいまでは良かったのですが、その後は米が不足して、大人はどうにか我慢が出来るのですが、子どもたちが可哀想で見られず、毎日の空襲で農作業も思うように出来ず、結局は夜の仕事と変り、月夜は良いのですが、闇夜は手探りで作業を続けました。

ますます戦火も激しくなり、この最中に婦人と未成年疎開本国に引揚げることになり、私は十五歳で引揚げることが出来ずに残り、父は兵隊へ入隊をする。私は軍属として志願兵で入隊しました。この時に始めての体験、軍隊生活で親の有難さを痛感しました。夜は毛布の中で泣いた事が何度かわかりませんでした。

戦争は激しくなるばかりで、私の立ちは兵事部で。伝令でした。空襲の合間に書く分隊情報を届けるのですが、木のあるところは良いのですが、またま平野空襲出合い、何度か命拾いをしてきました。

その内に食糧の不足と共に栄養失調で亡くなる人が出始め、兵隊と一般の人と次々と亡くなり、いても立っても居られない気持ちでした。兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。

食事の方も、兵隊はサツマイモの葉のオジヤに、サツマイモ、そして米つぶが数えるほどしか入ってなくて、お腹だけがふくれて、髪の毛は抜け、痩せて可哀想でした。又、夜はサツマイモ畑を荒らす人が多くなり、夜警取締りが始まり、私も夜警に出たが、婦人と子どもたちは逃がしてやったことが記憶に残っております。

戦争は激しさを増して、引揚げたオフクロと弟たちの船が魚雷でやられたと聞いたので、あきらめていましたが、生きて帰りたい気持ちで一杯でした。

ある日、私と上官は、農民との集会の最中空襲に合い、私とひざを合わせていて、討たれ戦死をしましたが、人間とは運、不運があると思いました。人間的に立派な方で、私を弟の様に可愛がってくれ、この時だけは替われるものであれば替わってあげたい気持ちでした。その後に来た上官も良い方で、私の面倒を良く見てくれ有難かったので、感謝で胸が一杯です。

その内に終戦となり、引揚げる時まで一緒で、食糧が不足をして、栄養のあるものは口に入らず、上官と山鳩を取って食べ、命をつなぐことが出来ました。私は人との出会いの運が良く、引揚げる時は別でしたが、本籍が増毛町で、父と一緒に帰り、父の妹を頼りに行くことが、常夏の所から北海道の真冬には勝てずにネコのようにまるくなり、一ヵ月後には死んだはずのオフクロ、弟妹、全員無事に再会できる事は、この上ない幸せでした。

この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。このときも食糧に苦しみ、買出しに農家に米を買いに行き、随分足を運びどうにか生き延びることが出来ました。

その後父と母、弟妹たちも来て、開拓農家を始めて開墾をして農業をする。私も日曜日には手伝いに行き、苦労した甲斐があり作物がとれ、希望がわきました。

炭鉱も景気が良く、父は二、三年辛抱をしてくれ、身の振り方を考えると言われましたが、とうとう定年まで勤務をし、人生の半分が過ぎ、昭和四十九年八月十三日の運搬事故では九死に一生を得たことは、生涯忘れることはできません。今考えると運が良かったと感激で一杯です。闘病生活を振り返り、リハビリーの苦しみは忘れることは出来ません。人の三倍も努力を続け、玉の脂汗を流したことが良くてどうにかもとの体に戻り、所信をして長生きをしていきたいと肝に命じている今日この頃です。

このように体験したことは、私にとってはプラスとなり、今後は日本は二度と繰り返してほしくない戦争を、息子を始め、孫、ヒコの代まで続けてほしいと願っております。

この文を永久に残して、世界人類平和であってほしいと念願する次第です。

どうか、全世界平和にと、声を大にして、叫びたい気持ちで一杯です。

2006-12-17

AKIBA FUTURE -オタサイト秋葉原

はじめに

秋葉原現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェアコンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェアハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。

この記事は、秋葉原歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。

1 電脳都市秋葉原誕生

電気屋街としての秋葉原歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前秋葉原にも山際電気現在ヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生ラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。

この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野新橋渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原国鉄都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。

その後、GHQにより道路拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器テレビ冷蔵庫洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原電脳街となるのである。

2 オタク層の流入??趣都の誕生

秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタク聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。

秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌アニメグッズ、ガレージキットフィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原移転するまで吉祥寺渋谷新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャーショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。

3 社会最適化されたオタク??個のオタクから公のオタク

批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメ物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語メッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生ミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。

東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語アニメにおけるキャラクターロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」

この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティコミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクター好み、そうしたキャラクターが登場するアニメゲームガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術進化趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。

オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。

しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。

秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタク情報家電親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブパソ通などで、一部のオタクBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチ趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。

「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。

4 個の聖地秋葉原??インタラクティブ都市としての発展

秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバbloghttp://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在秋葉原オタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。

高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在秋葉原は評価されるべきだろう。

参考文献

「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹

http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm

秋葉原歴史

http://www.akiba.or.jp/history/index.html

オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思

http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php

伊藤計劃:第弐位相 - 学園祭の話

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1

秋葉原におけるメイド喫茶コスプレ喫茶歴史

http://sotokanda.net/his_cafe.html

註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。

コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博

カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介

動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ 幻冬舎 著者:森川嘉一郎

 
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