はてなキーワード: スマッシュヒットとは
移住してきた人で活躍している人って、元々増田のような境遇で仕事をしていて、身体を壊すなりなんなりしてドロップアウトして来た人が多い。
移住と言ってもいろいろあるが、人口1万人ぐらいの町。周辺の圏域人口10万人ぐらい。5大都市まで2時間でいける場所。
例と言っても3人しかしらんけど。
増田もどう?
まぁ、駄目でも責任はとれないんでアレだけど。
【ジョジョの奇妙な冒険】はアニメシリーズが始まるまで人気無かったという偽史が広まり始めている様子を察知して証言する皆さん - Togetter
「人気がある」「人気がない」というのは相対的なものであって、人気がなかったと言っている人も「まったく誰にも知られていないマイナー作品だったぜ」と主張しているわけではないと思うし、ジョジョファンも「社会現象になるほど人気があったぞ」と言っているわけではないだろう。
ただ、ファンのほうも個々でだいぶトーンが違ったりするので、実際のところどんなもんだったの?というところを調べてみたい。
ジャジャン研 - 『ジョジョの奇妙な冒険』少年ジャンプ掲載データ
平均順位 | |
---|---|
第一部 | 11.95 |
第二部 | 10.01 |
第三部 | 11.94 |
第四部 | 11.63 |
第五部 | 14.64 |
第六部 | 15.65 |
ジャンプの連載作品はおおむね20作品前後である。と考えると全体的に低空飛行ではある。ジョジョファンがよく言う「一部二部は低迷していたが三部で人気が出た」という傾向も窺えない。もちろん、ファンのあいだで第三部が高く評価されたことは間違いないし、結果的に超長期連載となって黄金期ジャンプにおいて独自の存在感を発揮していたことも確かであるが、コンスタントに上位を取れるほど爆発的な人気があったわけではなさそうである。
1999年10月 | ゲーム『ジョジョの奇妙な冒険』売上26万本 |
2000年5月 | 第6部『ストーンオーシャン』1巻発売 |
2002年7月 | ゲーム『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風』売上16万本 |
2004年5月 | 第7部『スティール・ボール・ラン』1巻発売 |
2005年3月 | ウルトラジャンプへ移籍 |
2006年ごろ | シリーズ累計7000万部 |
2007年2月 | アニメ映画『ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド』 |
2010年3月 | シリーズ通算100巻 |
2011年12月 | 第8部『ジョジョリオン』1巻発売 シリーズ累計7500万部 |
2012年10月 | テレビアニメ放送開始 シリーズ累計8000万部 |
2013年1月 | テレビアニメDVD・BD発売 第一巻は2.5万枚? |
2013年8月 | ゲーム『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』47万本 |
2016年12月 | シリーズ累計1億部 |
2017年8月 | 実写映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』 興行収入9.2億円 |
2022年ごろ | シリーズ累計1億2000万部 |
ネット上で検索するかぎりは2006年ごろからの数字しか拾えなかったが、2000年代後半はずっと「7000万部」で足踏みしていたようだ。100巻7000万部なら単純計算で巻割70万部だが、連載期間が2000年代後半に該当するSBR(全24巻)の前後で500万部しか増えていないと考えれば、その間は巻割20万部程度と推測できる。そして、そこからテレビアニメ放送開始以降に4000万部を積み増しているとすると、第一部から第八部まで合計131巻・1億2000万部なので、現在は巻割90万部まで回復していることになる。
ちなみに他のジャンプ作品でたとえると、巻割90万部は『封神演義』、巻割70万部は『家庭教師ヒットマンREBORN!』、巻割20万部は『魔人探偵脳噛ネウロ』くらいの売上である。
私は2000年以降しか知らないが、2000年代のジョジョは「ネットミームとしての人気」が先行しており、「作品としての人気」があるわけではなかった。古くからのコアなファンが支えているだけで、新規読者がほとんど入ってきていなかったと思う。ただ、ジョジョの名台詞だのコピペだのMAD動画だのはネットに溢れていた。「リアルタイムで人気がある作品」というよりは「重要な古典」として受動喫煙する機会が多い作品、という扱いだった。
また、第五部や第六部になると絵柄がさらにとっつきづらくなり、スタンド能力が複雑化して辻褄の合わない展開も増えてきていた。2chなどではジョジョを否定的に見る人もかなり多かった印象がある。平均掲載順位でも第五部・第六部でガクッと落ちていて、そのあとにジャンプ本誌からウルトラジャンプへの移籍をすることになるので、このあたりはジョジョにとって「逆風の時期」だったと言えるだろう。
しかし2010年代に入ってテレビアニメで新規読者の獲得に成功した。「興味はあるが長すぎて読む気になれなかった名作をあらためて一から履修する」ためにはうってつけのアニメだった。社会現象級ではないにしても売上も立派なものだったし、下降線をたどっていたジョジョという作品がそこであらためてグッと引き上げられたと思う。
まとめると、1980年代・1990年代のジャンプにおいては中堅作品の立ち位置ではあったがコアな人気に支えられて連載が長期化、2000年代は人気がやや落ち込むもネットの普及とともにパロディ元として存在感を高め、2010年代に遅ればせながらテレビアニメ化されてスマッシュヒットした、というくらいが妥当な説明なのではないか。それぞれの時点で「人気があった」と判断するかどうかは人によるってことで。
先日、スプラトゥーンはなぜ失敗したかという記事が拡散され、大いに共感を呼んだ。しかしあの話は的を射てはいるが、任天堂が狙っている的とは違う。その意味で極めて的外れな記事だったと言える。ボウリングで隣のレーンのピンを倒して喜んでいるようなものだ。
そもそもの話として、スプラトゥーンシリーズは任天堂的には失敗作という立ち位置になる。
よく知られた話だが、任天堂は「ゲームへの無理解、無関心の解消」をミッションとして掲げている、その点においてスプラトゥーンは全くの失敗だということだ。
「死ね!」などという暴言を繰り返しながら延々とゲームをし続ける、このようなゲームが任天堂的に「成功」とみなされるわけはないのである。スプラトゥーンを語る上でこの巨大な要素を無視して語る人が多いが、スプラトゥーンは「子供に与えてはいけないゲーム」になってしまったのである。これが全ての問題の核にある。
これはユーザーが悪いのではなく、マリオカートのようなパーティーゲーム路線に切り替えられなかったたスプラ開発チームの迂闊さである。つまりスプラ2で「軌道修正」できず、eスポーツ路線という名の「暴言、ヘイト満載ゲーム」を送り出してしまったのが第一の、そして取り返せない失敗であった。
2の時点でパーティゲームに切り替えられたら、スプラトゥーンは自己矛盾を抱えなくともよかったのかもしれない。
しかし今やスプラトゥーンは「任天堂ゲームとしてのミッション」と「スプラらしさ」と「ユーザーのニーズ」のトリカラアタックによって崩壊しつつある。
スプラ3は、開発終盤におそらく急激な路線変更を余儀なくされている。任天堂の「ちゃぶ台返し」だ。
ユーザーの暴言、ストレスを誘発させないことを第一に考えろと厳命が下ったのではないか。そしてもしかすると、スプラの抱える矛盾を解決できなければ「4」はない、というところまで追いつめられているかもしれない。
開発終盤なので大きな仕様変更はできず、そのためにステージをいじったりするのが精いっぱいだったのではないか。折しもサーバシステムの刷新も重なって、スプラ3開発チームは心身ともにギリギリな状態にあったのではないかと想像する。
よって、スプラ3が2路線に回帰することは考えにくい。リスキルや裏取りが起こりにくい、「敗因がわかりやすい試合」がスプラ3からユーザーに求められている試合なのである。
アラフィフ以上のジジイババアでないと分からないネタだろうが。
記憶が曖昧だったのでネットで調べてみたら、あれは1984年末の紅白歌合戦だったらしい。
当時の紅白は、まさに“国民的番組”で、視聴率は八割近かったはずである
当時、松田聖子と郷ひろみの交際というのは国民的な関心事で、このときの紅白のオープニングでは郷ひろみが松田聖子の手を引いて入場するという演出がなされていた。
歌唱順も当然のごとく、紅組の松田聖子と白組の郷ひろみが並ぶように組まれていた。
その直前がやはり交際が話題になっていた(そしてその後破局した)中森明菜と近藤真彦で、二組をステージに並ばせて“今、なにかと話題の二組”とかいって紹介してたと記憶する。NHKの番組で。
すごい時代だ。
(なお、このときの紅白の一番の話題は“都はるみ、紅白のステージを最後に引退!”であった。“あと1分時間をください!”と強引にアンコールを迫った鈴木健二アナウンサーとか、生方恵一アナウンサー、いちばん大事なところのナレーションで“みやこ”と“みそら”言い間違える事件とか、
で、年をあけてすぐの週刊文春(これまたネットで調べたら1月22日発売だったようだ)、松田聖子は郷ひろみとの破局を告白したのである。
当時は文春砲なんて言葉はなかったが、この記事は日本中に衝撃を与え、松田聖子は緊急記者会見を行う。
このときの泣きながら「今度生まれ変わって来たときには、きっと一緒になろうねって言いました」と語る松田聖子の映像は、飽きるほど繰り返しテレビで流れていた。
そして、このときも泣き顔なのになぜか涙は流れない、いつもの松田聖子だった。
(当時、松田聖子は賞レースで受賞したときなど、感激して泣くのに決して涙が出ないので有名だった。嘘泣き? 演技? いやよく知らんけど、“ぶりっ子”という言葉も松田聖子とともに流行った言葉ではある)
で、話はこれで終わらない。
この直後に、主演映画のポスター撮影のため、ハワイへ飛ぶ直前の松田聖子が、映画の相手役の男性と交際宣言をしたのだ。
これまたネットで確認したのだが、わずか10日後のことだったそうだ。
(なお、まだバブルも本格化する前で航空料金も自由化されておらずLCCなんて影も形もなかった時代、ハワイは日本人にとって、大スターがバカンスを過ごす夢の島であった)
映画は前年11月から撮影していたらしい。そして紅白、記者会見を経て翌年には交際宣言、である。
これ、昭和の価値観なら松田聖子はとんでもない悪女になりそうなものなのだが、なぜか彼女はこれを“致命的なスキャンダル”に貶めることなく、“自分に正直に生きる強い女”みたいなキャラを確立してしまう。
もちろん目黒の教会での挙式からホテル・ニューオータニでの結婚披露宴まで生中継。披露宴の司会は当時日テレの人気アナウンサーだった徳光和夫。
なぜか当時の日本では、大スターの結婚式というのはテレビの大イベントだったのだ。
その後、娘(神田沙也加)の誕生、神田正輝との離婚、“ビビビッときた”という流行語を生んだ再婚と離婚、さらには略奪婚とも噂される三度目の結婚と、話はまたまだ続いていくわけだが。
先日、亡き娘の位牌を手に、遺骨を抱えた元夫と並んで会見した彼女をみて色々とショックを受けた人も多いようだが、彼女のデビュー同時からずっと知ってる世代の人々は、わりと自然に“彼女らしいな”と受け止めたんじゃないかと思う。
ただ、そんな彼女の“昭和のスター”な振る舞いも、なんだか時代とはずれてきてるのかな?という感じもする。
なお、元彼の郷ひろみはその後、二谷友里恵と交際。交際中に二谷友里恵の書いた『愛される理由』がベストセラーになったり、結婚披露宴が古舘伊知郎の司会でテレビ中継されたりしたのだが、このふたりも離婚してしまった。
二谷友里恵はその後、「家庭教師のトライ」の創業者と再婚している…という話を聞いて以来、あの「トライさん」のCMを見るたびに、なんとなく余計なことを思い浮かべてしまう。
いまや紅白歌合戦で、松田聖子と郷ひろみは大ベテランで、かつての華やかで派手で、だけど歪な芸能界の空気をまとった数少ない出演者になっている。
今年も何事もなかったように、“松田聖子”と“郷ひろみ”を舞台で炸裂させるのだろうが、そろそろ時代との乖離が覆い隠せなくなってきたような感じはしている。
【追記】正式に松田聖子の辞退が発表されたようだ。一部スポーツ紙の報道を信頼して、“まあそりゃ松田聖子なら出るだろうな”という確信の元、駄文をしたためたが、やはりどこか自分の中に“昭和バイアス”があったのだなぁと感じている。
来年以降、復帰するのは難しいかもしれないな。なにかスマッシュヒットでもあれば別だが、しれっと復帰しても“そういえば去年は…”となりそうだし。
好きなアーティストがいるんだよ。
それがアイドルなのかバンドなのか芸人なのか作家なのかは言わんでおくけど。
少し前にスマッシュヒットしたときはマジで注目されて話題性がキラキラだったし、今だって面白い作品を出してるんだけど、しかしジリジリと人気が落ちているのがはっきり感じられる。
SNSで話題にしている人間は見知った濃いファンの比率が徐々に高くなり、本人のツイートへのRTやいいねの数がへり、売上のランキングみたいなのも「前回より3ランク落ちて、1ランク上がって、前と同じで、2ランク落ちて」みたいな感じで推移している。
だが、幸福になってほしい。
かつての注目は去ったが安定して活動していけそうなポジション(たとえば失礼だがやくしまるえつこ、9mm Parabellum Bullet、北乃きい)にはなれていないのに人気がジワ減り状態になっちゃって、今後表現業でうまくやっていけるのか?
一般人になるとして、表現の道に進んでかなりの時間を費やした人が引退した時に幸福な人生を送れるのか?
私が考えても仕方ないのだが、そういうことを考えると陰鬱な気持ちになる。
そしてファンの中でも、作品を楽しみつつうっすらとそのネガティブな空気が漂い、それが嫌になったのかまた一人いなくなり、TwitterのTL流速もまこと遅うなり申した。
将来の不安と閉塞感が凄すぎる。日本経済かよ。どんどん人気が上がってく人を見ていることで、実生活の閉塞感を一時でも忘れられてたのに、またこの息苦しさに苦しむのかよ。
そういう人を応援してこそファン!と思って公式がやってるプロモのハッシュタグで呟いたり有料コンテンツを見たりすると、自分含めよく見るアカウントの密度が高くなっており、内輪だけが無理矢理はやしたててるようで辛い。
ライブハウスで最前五列くらいまでは異様な熱量で拳を振り上げてるけど全体を見回せばスカスカな現場を見た時の「うわー……」感。
それが若手インディーズバンドだったらここからでっかくなるぜって気持ちにもなれるんだが、すでに一度は成功してしまったからわびしさが凄い。
つらつら書いたが、こういうのは多分色んなジャンルであるんだろう。
各ジャンルの芸能人はもちろんだし、旬のアニメや映画もだし、特にソシャゲなんてセルランやらギルドのイン率やら二次創作の数やらで栄枯盛衰を如実に感じ最後にはサ終するわけで、好きな物の衰退期における苦しみってのを味わったことのあるオタクは多いんだろう。
だが私は、これまで芸能人の濃いファンにはならず、ソシャゲは三カ月以上続けたことがなく、アニメなどのシリーズコンテンツもずっと続いてほしいと思うほどハマったことはない、という人生だったので、感情の処理方法がわからない。
これでアーティスト本人がまずいことをして人気が落ちたなら、はっきり嫌いになってもうどうでもいいわとなりやすいかもしれんけど(いや、現実ではそれでも愛憎半ばになる人が多いか)、私の場合本人は悪いことしてねえからよ……。
でもファンやっててネガティブな感情が溜まってるのは感じるし、下手したらアンチになるかもっていう不安は感じてる……。
スーパー野田PARTYが発売2日で三万本売り上げるスマッシュヒットを出したらしい。
三万本と言うと大したことがない数字に見えるが、実はプレイステーション5のソフトでこれ以上販売しているソフトがない。
原状でソフト販売数は6000本弱前後であり、これは少々異常な値だと思っている。
ただ、個人的には母数の違いこそあれ、ゲームの販売方法の環境の変化を強く感じた出来事だった。
スーパー野田PARTYは既存のプレイステーション中心の販売形式だったら売れるわけがないからだ。
その理由を書く。
プレイステーションの市場が歪んでしまった要因でもあるが、実はある時期までゲームメーカーはユーザーを向く必要がなかった。
いや、一応向いているのだが、本当にアピールしたいのはゲームソフトを販売しているバイヤーたちである。
業界再王手の雑誌であるファミ通はバイヤーのための本であり、ユーザーのための本ではない。
どのソフトを仕入れるかでゲームソフトの収益が決まってしまう。
一回流通させたら、あとは中古市場内でぐるぐるする。だから初回出荷でどれだけ押し込めるかが勝負のカギだ。
どんなに出来の良いあるいは悪いゲームでも大量に出回れば価格が破壊されてしまう。
中古を前提とした商売であるがゆえに、ゲームソフトが中古市場に出回ることを少しでも遅らせる必要がある。
なので薄味のエンドコンテンツがダラダラ続くゲームばかりになった。当然作るための膨大な人件費が頭をもたげることになる。
または特典をたくさんつける方向に変わった。これも十分な数がなければコストは下がらない。数を増やしすぎると希少性が下がり
どちらに転んでも地獄だった。
バイヤーはゲームの紹介ビデオと雑誌を見て仕入れ量を決めているから、映像に力を入れるのは当然だ。
出来が良いか悪いかは重要ではない。それは発売後に発覚することだから博打以外の何物でもない。
映像が良くてゲームの出来が悪ければ極端に価格が下がる。レフトアライブやアヴェンジャーズがその流れになってしまった。
ゲームの質の低下は買い控えを生み、対抗策だったはずのPSPlusのフリープレイはそのままソフトを買わない口実と化した。
それがアップルが見出したダウンロード販売だった。これまでダウンロード販売は、既存流通への配慮から価格破壊が
行われずにきたが、Steamのセールがこの状況に風穴を開けた。価格破壊があっても中古に回るよりはましだからだ。
また、Steamの出現によりPCゲームの普及を妨げていた違法コピー問題も激減した。
さらに任天堂は既存のゲーム報道機関をスルーしたニンテンドーダイレクトを仕掛けてきた。この方式はスティーブジョブズの
スピーチに近い手法で、直接的商品のコンセプトをユーザーにアピールするようになった。これにより、
今までは流通を担うバイヤーに向けて販促行為をおこなっていたのが、ユーザーに直接販促をかける商売へとシフトしたのだ。
スーパー野田PARTYはビデオを見て商品を選定する手法では絶対評価ができない。映像面では明らかに落第だ。
だが、直接ゲームを売り、その評判でゲームを拡販するスタイルになったとき、プレイステーション5のソフト販売を超える
この流れは新型コロナの影響もあり、かなり加速することになった。ソフト屋に行かないでテレビ配信とYoutubeでソフトを
選ぶ時代になった。中古を気にする必要がないからゲームソフトも小粒で構わない。一発ネタでも楽しめれば勝ちになる。
この流れに移行できないところは、みんなまとめて絶滅することになるだろうとも思っているがどうだろうか。
毎日外で仕事をして、書きたいことができたらブログを書いている。
特化型ブログのためそこそこ読まれており、狭い界隈だがいくつかスマッシュヒットした記事を持っている。
たまに私のブログをツイッターで紹介してくれる人もいてとても嬉しい。
祝日のため布団で寝転がりつつブログを書きながら、ふと自分の今の状態は「お金の心配をしなくていい芸術家」のようだと感じた。
芸術家というのはもちろん比喩だけど、自分の心のおもむくままに好きな文章を書き、受け取った人がそれを読んで喜んでくれる。気ままに書くから文章に忖度もしないし金の匂いもしない。純粋に自分と読者のために書いている。なんて幸せな状態なんだろうか。
問いには答えんが、もやもやしていたことをついでに書き連ねさせてもらう。
ああいう書き方してるってことは、もう「YOASOBIのヒットの理由が僕には分かりませんでした」って自白でしかないだろ。評論家としては自殺行為だと思ったよ。
King Gnu の「白日」がヒットした時に「あまりにも聞く側に技量を要求してやせんか」って思ったけど、シンプルかつ疾走感に溢れたYOASOBIのスマッシュヒットは、なんていうか「聞き疲れ」みたいなものが消費者側にあるんじゃないかと思ったよ。「白日」がすごいのは確かなんだが、その凄さが普通の人、素人には言語化できそうにないレベルなのでなぁ。すごいんだけど読み解けない曲に身を浸した後に、ちょっと疲れて耳に心地良い曲に流れていくのはそんなに不自然じゃないと思ったよ。
なんて比較して書く以前に、個人的にあの疾走感ある曲調はとても好きなんだよな。そして「原作小説つき楽曲」というあんまりないカテゴリの作品として、ああした「先走り過ぎることがない」作りは正解じゃないかなとも思うのだよ。
二期の告知がでてからアニオタ内で「あのラブライブの2期」みたいに騒がれだして、「なんかそんなんあった気するけど流行ってたの?」って思ったもんだよ。
円盤の売上とか知らねーし。一期放送時の2013年ってまだ「みんなご存じラブライブ」って感じじゃなかったような…リアタイだとたまこまーけっとのほうが話題になってた印象がある
で、まあ「それは僕たちの奇跡」がオリコントップ3とかになって驚いた。
一期でエモい青春群像劇みせてオタコミュニティ内で盛り上がりが過熱していたところに曲を投下したら見事にスマッシュヒットしたって流れが、Nizi Projectが終わってから「Make You Happy」でブームを世間に周知させたのとなんか重なる。
あのころローカルアイドルや地下アイドルのムーブメントを反映してアイドルを取り扱うドラマやアニメが散見されてたから、ラブライブもその一つとしか思ってなかった。
アイドルが飽和してどんどん奇抜な方向に流れていた時代にラブライブが流行ったのは、シンプルな成長ドラマとそのハイライトとして歌唱シーンを使用することで楽曲と物語の相互作用を図った点が見ていてわかりやすかったからだと思う。
アイドルブームも今は昔で当時勢いのあったグループが続々となくなる今、真っ当にかわいくて前向きであることを前面に出すNiziUの原点回帰的なコンセプトはなんかあのころに似ている気がする。
まあバックストーリーを売りにするのはかつてのモーニング娘。やAKB、ももクロもそうだったんだけど、「あどけない女子が一つのグループとなって活躍する」ってだけのシンプルなストーリーを1クールのテレビ番組としてパッケージングしちゃったってところで、これラブライブの感じに近いんじゃないかって思う。娘。やAKBは一筋縄じゃなかったし、ももクロの物語はあくまでメンバーの発言やファンの口コミでしか存在しなかった。
でも、そう考えると生身の人間の生き様をこんな風に消費しちゃっていいのかっていうリアリティショーへの疑問も当然感じるんだよね。
NiziUは古くはアクターズスクール、今でいえばTWICE等のK-popといった、ローティーン女子が主だった支持層になるタイプのグループだと思う。
ダンススクールや雑誌モデルに憧れる延長上にいるアイドルの系譜な。
そういった方面を意識し一時代を築いたE-girlsが2020年12月に解散。またNiziUと同じく韓国芸能事務所が協賛するオーディション番組発のIZ*ONEも今年4月で活動終了。
ファン層が被りそうなグループの終焉とデビューが重なったためにそれらのファンからの注目を集められたことがヒットを加速させたと思う。
そうはいってもNiziUは洗練されたK-popを歌い踊るのに、発展途上にある粗削りさや初々しさを売りとする極めて日本的なキャラクター像ももっている。
八頭身美女やいかついアイメイクのラッパーが一瞬の隙もないパフォーマンスやトークをするようなのがこれまで日本で話題になったK-popアイドルとすれば、それまでなかったような柔らかさをNiziUからは感じる。
その日韓エンタメのハイブリッド感が新しいし、それが日本の大衆にうけている一番の要因かもしれない。
個人的にはモーニング娘。とNiziUってそこまで被らないと思う。
今の娘。はベテランで洗練された9~11期メンバーとフォトジェニックな12期~14期、新人の15期という世代間でのカラーの違いがあって、それぞれのジェネレーションの交わりが垣間見える。
そして意外と今のハロプロには隙はない。研修生上がりとそんな連中に圧倒されない子で各グループが構成されているのでデビュー時からタレントとして完成されている。
もはやモーニング娘。は「あのポンコツがこんな立派に成長しました」というような見方をするものではない。それは道重さゆみの卒業で終わった。
つんくが癌で一線を退いたあたりから心なしかハロプロにおけるオーディションのあり方は変わった。それがいいとも悪いとも思わないが。
芸能経験に乏しい子がスターダムを駆け上がる成長ドラマの一面があるNiziUとは対照的である。インタビューでもはにかむばかりで月並みなことしか言わないNiziUの様な初々しさは娘。にはない。
NiziUがジャイアントキリングを目指す新興クラブならモーニング娘。は伝統あるスポーツ強豪校のような魅力じゃなかろうか。
毛色が違うので両者は共存する…というかハロプロ好きはかっこよさやかわいさを評価しているのではなく”ハロプロらしさ”を支持している奇特なオタク共なので、いくらNiziUが魅力的でもそうは簡単になびかないと思う。岡村靖幸のファンが久保田利伸にフリーライドしないのと同じだ、「縄跳びダンス」程度の奇天烈さで彼らは満足しない。