はてなキーワード: 幸福とは
リベラルやフェミニズムは個人の幸福や経済発展に寄与してるので
それを敵視する時点でお前は社会を破壊する全人類に害なす存在なんだがギバーの意味わかる?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB
直近ではてブで話題になってるけど、以前から自分が思ってること。
アメリカの中絶の違憲判決じゃないけど、裁判所を政治参加させたらダメでしょ。三権分立に喧嘩を売ってるとしか思えない。
性別変更要件のような、必須ではないのに不可逆且つ過大な負担がある場合の違憲判決は全然理解できる。
でも苗字はそうじゃないやん。制度としては男女どちらでも良く、離婚したら元に戻せるやん。
その程度(というと語弊があると思うが、飽くまで他の違憲判決に比べて)の負担で憲法の「幸福追求権」が侵害されたとは言えないと思う。
最近の国連の勧告も同様で、きっかけにはよいが理由にしてはならない。彼らは飽くまで外部の人間であり、その結果の責任を負うことは絶対に無いのだから。
夫婦別姓の制度を作るのであれば、選挙の結果による議員が主導して法律を変えるべきであり、夫婦別姓の違憲判決を理由に制度変更すべきだ論法には、自分は反対だ。
相手の知性を軽く見て、未来が読めない愚か者だと決め付けて上から目線で嘲笑するという時点で
氷河期世代の負け組の絶望がどれだけ深いかを全く分かっていない。
20年ほど前に赤木智宏って人が雑誌に載せた「希望は戦争」という文章に対して説教していた人達と同じだよ。
戦争で一番痛い目を見るのは自分達のような社会的弱者だと言われたところで、そんなのとっくに分かっているけれど
それでも平穏無事に幸福を享受している中間層にも少しでも痛い思いをしてほしいという、社会全体を巻き込んだ自殺願望でしょう。
国民民主党に入れている氷河期世代も多分同じような心情なんだろうと思う。
非正規の敵は正社員じゃなくて経営者や資本家だとか言われても、労働運動で自分達だけが利益や身分保障を享受し、非正規を踏みつけてきた時点で正社員労働者も十分に「敵」だよ。
当の赤木智宏はライターとしての職を得て成功したみたいだけど、そんな人ばかりじゃないんだよ
氷河期負け組の殆どは浮上する事などできず、非正規や無職の底辺のまま這いずり回り、
たまに正社員になれたとしても下の世代よりも低い賃金で貯蓄もできずに苦しんでるんだよ。
勿論結婚や子供なんて到底無理なので、自分達が死んだ先の事なんてますますどうでもよくなる。
それでもまあ、男の場合は若い女と結婚して子供を産ませてワンチャン、という夢も見れるけれど
女の場合はどう足掻いてももう完全に手遅れだならな。そんな氷河期負け組の女に対し、
この問いには、宗教とオカルトの区別が難しいとする疑問と、信仰の合理性や必要性への問いかけが含まれています。これを考えるには、宗教とオカルトの定義や役割の違いを整理しつつ、不合理であるものの意味を深掘りする必要があります。
宗教とオカルトは、どちらも非科学的な領域に含まれる場合が多いですが、いくつかの重要な相違点があります。宗教は一般に、特定の歴史や教義、道徳的価値観、信者間の共同体意識を伴い、社会的に長く受け入れられてきたものです。一方、オカルトは神秘的・超常的な現象への信仰や、個人の体験や啓示に基づく要素が強く、体系的な教義や道徳的基盤がない場合が多いです 。
宗教が「不合理」だという指摘は、科学的根拠の不足や、死後の世界など検証不可能な要素に根ざしています。しかし、人間の行動や価値観には、必ずしも合理性だけが求められるわけではありません。多くの宗教は、死後の救済や幸福感、人生の目的を提供し、精神的な安らぎや共同体の絆を築くための役割を果たしてきました。こうした側面は、必ずしも科学的根拠があるからこそ価値があるのではなく、非合理的であっても人々に意義をもたらすという側面が重要です 。
不合理の必要性について
宗教が象徴的に示すような「不合理」なものの存在は、人間の心の多様なニーズに対応するものです。例えば、日本の伝統行事や信仰も、社会的な絆や儀式性を高め、文化的アイデンティティを支える役割があります。合理性に重きを置く社会でも、不合理なものが心の拠り所や心の整理の手段として機能する場合があります 。
この問いにある「人間が死ぬと無になる」という断定も、科学的に完全には証明されていません。無論、魂の存在も立証されていないため、いずれの側にも「完全な合理性」がないと言えます。また「不合理なものは不要」という前提には、感情や文化的背景を軽視する面があるかもしれません。合理性を超えた価値が、特定の社会や文化において役立つ場合も多いことを認識する必要があります。
まとめ
宗教やオカルトの価値は、必ずしも合理的な根拠の有無だけでは測れません。不合理な信仰も、精神的な拠り所や社会的な絆の構築に寄与するものであり、人間にとって「不合理」が全く無意味だとは言い切れません。
世界は着実に良くなっているという話を聞いたことがあるかもしれない。
あるいは、世界の子どもの死亡率は19世紀初頭から10倍も減少している。
一人当たりの所得と平均寿命、そして、色と大きさが大陸を反映した泡で表現されたさまざまな国々がある。
ファクトフルネスという本で、そんなビジュアライゼーションもどきを見たことがあるかもしれない。
過去2世紀の間、どの国も寿命が延び、物を買うための収入が増えた。
しかし今日、ファクトフルネスはプロパガンダに利用されている、
既存の状況を正当化し、西洋資本主義を理想的な社会として称賛するためにである。
政治家も科学者もそうだ、ある事実を極端に強調する一方で、他の事実を完全に無視する。
例えば、グラフ中のアメリカを見てみよう。この小さな小さなバブルの中に、すべての住民が整然と詰め込まれている。
なぜこんなに小さいのか?
つまり、アメリカ国民の下半分の平均所得は年間16,200ドルであり、全米平均よりはるかに低い。
アメリカのこの半分の人々の所得は、40年間ほとんど変わっていない。
では、なぜ全米平均の所得が増えるのか?
それを理解するには、上位1%までの分布全体を見る必要がある。
そこで何が起ころうと、国民平均に大きな影響を与える。
この35年間で、上位1%の所得は3倍以上に増加した、
一方、人口の下位半分の貧しさは変わらない。
一方、下位1%に属するアメリカ人男性の平均寿命は73歳である。
このようなことが全国平均の下で起こっているのだ。
産業資本主義がより良い生活環境を無限に生み出すとは到底思えない。
例えば、イギリスとアメリカを見てみると、近年、平均寿命は実際に短くなっている。
いわゆる絶望死が増加しているのだ。
絶望とは、経済成長による健康への恩恵が宣伝されるたびに、ほとんど言及されないことだ。
資本主義の擁護者たちが、精神衛生について語るのを聞いたことがあるだろうか?
結局のところ、世界全体を見渡してみると、今日の不健康の主な原因は身体的な病気ではなく、うつ病なのだ。
そして全体として、いわゆる精神疾患は、世界中で障害の約3分の1を占めている。
では、なぜグローバル・ヘルスに関心のある人は、このような特殊な苦しみを無視したがるのだろうか?
その理由は、うつ病人口が最も多いのはヨーロッパ、オーストラリア、アメリカだからである。
アメリカ大陸、ヨーロッパ、オーストラリアでは不安障害が多い。
精神疾患の世界的分布について語る人が少ないのは、経済成長はすべての人間の問題を解決する万能薬であるという考え方には当てはまらないからだ。
また、世界はますます良くなっているという考え方にも当てはまらない。
この25年間、貧しい人も豊かな人も、実際にはますます苦しんでいる。
これを測る方法はいくつかあるが、医療記録を見るか、国民調査で症状について尋ねるかは問題ではない。
抗うつ薬の消費量を考えてみても、OECD加盟のいわゆる先進国では、わずか15年で倍増している。
だからといって、経済成長が必ずしも私たちを不幸にするとは限らない。
いや、生活に必要な物質が満たされれば、間違いなく幸福になる。
しかし、経済成長が一定のレベルに達すると、私たちの幸福に対するその効果は弱まる傾向にある。
例えば、1972年以降のアメリカの経済成長率を見ると、2倍以上になっている。
しかし、最も信頼性の高い調査によれば、アメリカ人の幸福度はほぼ横ばいである。
そしていくらか弱まってさえいる。
このことは、なぜ経済成長を際限なく追求しなければならないのかという疑問を投げかける。
さらに根本的なことを言えば、社会の良し悪しを評価する際に、健康がいかなる種類のものであれ関係するのだろうかという疑問も湧いてくる。
平均して貧しく、早死にするアメリカより、カタールに住む方がいいのだろうか?
中国を拡大してみると、1949年から1976年の間に平均寿命が目覚ましく伸びていることがわかる。
この間、中国は毛沢東という歴史上最悪の独裁者によって統治されていた。
これは何を物語っているのだろうか?
支配者であるエリートを批判する者が命の危険にさらされる権威主義的共産主義に生きるのは良いことだと言うのだろうか?
もしそうでないなら、資本主義の利点を示すときに、なぜこのような統計的なチェリーピッキングが受け入れられるのだろうか?
平均寿命やその他の健康指標は、私たちがどのような社会に住んでいるかを示す指標としては不十分なのかもしれない。
もしかしたら、私たちは社会の現状を見るだけでなく、その潜在的な可能性やありうる姿を考えるべきなのかもしれない。
どのように見るかは別として、世界はより良い場所になりつつあるだけではない。
多くの点で、私たちはその逆を見ている。
メンタルヘルスの問題を挙げたが、格差の拡大、住宅不足、労働市場のプレカリゼーションも注目に値する。
これらの問題があたかも存在しないかのように装うのは不誠実であり、社会科学のクソな点の顕著な例である。
世界が永久に改善されると宣言するだけでは、何の役にも立たない。
地球温暖化についても何か言うべきではないだろうか?
なぜか連続で食べると消耗する。
なので私は自炊が好き。
自炊にハードルがある人に、自炊の良さを伝えるとき障壁となる事象がある。
それは「見栄」
本当は鶏肉を適当にきったものをフライパンに適当にいれて、ザクザクにきった白菜をわーっといれた後料理酒か余ったお酒をいれ、蓋したご飯が美味しいと言いたいのに「ピェンロー」を勧めてしまうとか
本当はご飯にすし酢かけてスーパーふるさと納税で仕入れた魚のサクをひたすら刺し身にして丼に好きなだけ入れて、とびっこを満足するほどふりかけて大葉ときゅうりも適当にごちゃごちゃいれて、卵と納豆、わさびもたっぷりいれて思いっきり混ぜて(めんつゆとか白だしも欠かせない)ワシャワシャ食べる丼が好きなのに「親子丼」美味しいよね!と言ってしまうとか
外で丼を買うと「もう少し肉が欲しかった」「味が少し好きじゃなかった」「ご飯あと一口いらなかった」とか
調整ができないのがすごく嫌(無理矢理お腹が空いていないのに食べるのが嫌い)
そういうとき値引き半額セールで買った牛肉すじ肉をただフライパンに転がしてすき焼きっぽい味付けで煮込んで放置 しょうがとにんにくも一緒に煮込みながらしょうゆとみりんと、しょうがのいい匂いが漂う
肉が柔らかくなってきたらできあがり。それを御飯の上に乗せて、食べる
味付けは自分好みの甘じょっぱい系
この適当感を虚無メシはレシピにしてくれており、効率よく幸せになれる 一度作ってみて、そこから「水菜入れちゃおうか」とか体力によって展開できるのも良い。
最低限の基本の方というか
味噌汁も、レシピ本にすると応用技に見えちゃってハードルがあるように見える
ピタッとハマった牛すじ煮込みを飽きたるまで肉とご飯を堪能したあと、ちょっと野菜が食べたくなったらきゅうりの浅漬とかミニトマトとかをつまむ。結構レタスをただいためてスパイスの素をふりかけるだけでもジャクジャク食べれてみずみずしくて美味しい。
献立を一度に考えると言うより
本当に食べたいもの真剣に考えて、一瞬出てきた本当の身体から聞こえたリクエストにいかに答えていくかが楽しい。
出た答えが「熱々の噛んだらパキッというウィンナー」でも、そこからご飯かパンかどちらがいいか、もう少し寒いから味噌汁とかスープがほしいとか、最近野菜たべてないからインスタントトマトスープにするとか
展開する時間が悩ましくも楽しみ
この増田に対して多くの弱者男性が「嘘松」「女が書いた」「本当の弱者男性ではない」などと必死に創作性を疑っているのが気になった
いや、御託はいいから弱者男性くんはさっさとカウンセリング受けてみたり精神科行ったりしてみれば?って正直思っちゃうんだよな
弱者男性を自称してるくらいなんだし生きづらくてしょうがないんでしょ?
生きづらさが軽減された実例が一個提示されたんだから真偽を疑う前にこれを参考にしてみればいいんじゃないの?
っていうか精神の問題について精神科行って専門家の判断を仰ぐって極めて王道の考え方じゃないか
何をそんなにおそれているんだろう
やれ、いじめについて言及しなさすぎだの(いや恋愛観の話が主題なんだからそりゃ精神歪んだきっかけなんて省略するだろ)
やれ、オタクならもっと漫画やアニメの話を詳しく語るはずだの(いや恋愛観の話が主題なんだから以下略)
やれ、男は感情的な問題を主語にしないだの(いや精神科行って精神が歪んでたことに気づいたって話なんだから感情の問題を主語にするだろ)
普段の弱者男性様の聡明で冷静なご思考とは裏腹に、この増田に対しては半ば統合失調症ばりの推理ごっこによって必死に女認定をしようとしている人が結構多い
一体なにをそんなにおそれているんだろう…
自分が不幸なのは社会のせいではなく自分の考え方のせいって認識するのがそんなに大変なことなのだろうか
仏教における「私たち一人一人がなぜ生を受け、ここに存在するのか」という問いは、個人の存在や人生の意味を考える上で重要なテーマです。仏教の教えでは、この問いに対して「縁起」(えんぎ)や「輪廻転生」の考え方が大きな役割を果たしています。
1. 縁起の法
仏教では、すべてのものが「縁起」によって生まれ、存在していると教えます。「縁起」とは、「あらゆる現象が他の原因や条件に依存して生じる」という考えで、「私たちの存在も、無数の因縁が重なった結果として成り立っている」とされます。つまり、私たちがここに生まれ存在するのは、過去からのさまざまな因縁(行動や選択、人とのつながりなど)が影響しているからだというわけです。
仏教では、個人の存在や人生は「輪廻転生」によって説明されることが多く、過去の行い(カルマ)が今世の生に影響を与えていると考えます。カルマとは、行為とそれに伴う結果を指し、過去の行為が現在の境遇や性格、苦しみや幸福に関係しているとされます。過去世でのカルマが現在の生を生んでいるため、今私たちがここにいるのは、その行いの結果が現れているという考え方です。
仏教では、生を受ける理由として「苦しみの原因を知り、苦しみから解脱するため」とも説かれます。仏教における生の意味は、煩悩や執着を手放し、智慧を持って解脱に至ることにあります。つまり、現世の生は、自己の内面を磨き、苦しみを超えて真実を見つけるための機会と見なされています。
まとめ
仏教においては、私たちが生を受け存在する理由は、「因果の法則により存在が生じ、今生において苦しみから解脱するための機会が与えられている」と説明されます。したがって、自分自身がここにいる理由や人生の目的を考えることは、苦しみを乗り越えるための道でもあるのです。
第二次ベビーブームで人が多かった上に不況でいくらでも代わりがいる使い捨ての労働力扱いしてたから幸福度低いに決まっているし
自分達の世代がそういう扱い受けてきたのに、下の世代がバカでもチヤホヤされるのなんて面白くはないだろうから社畜おじさんが自己責任論で後輩の幸福度を奪っていくのはしばらく変わらないだろう。
そもそも平地面積の少ない島国に1億2000万人は多すぎる、極端な少子化は労働力バランスとしては問題だけど、日本は6000万人くらいでちょうどいいんじゃないかと思う。
どんどん産めよ増やせよで1.5億人とか2億人とかなってもどうにもならないだろ。
休みの日は、大抵家で過ごした。掃除をしたり洗濯をしたり、たまには料理を作ったり。あとは布団の上に寝転がってスマホに熱中する。熱中などと言ったら、好きでやっているようにも聞こえるかも知れない。しかし私の場合、スマホに触るのは、どうにもならない虚しさから逃れるためでしかない。何かをするよりも何もしないでいるほうが難しいのだ。不安という魔物に追われて逃げ惑う姿は、傍から見れば実に滑稽にちがいないが、誰かに咎められるわけでもない。安全な家の中で、私はひたすら自身の孤独と格闘する。
今も昔も、おにぎりを三角形に握るのは、私の唯一の特技と言って良いだろう。毎日、朝食に欠かさずおにぎりを食べたものだった。職場近くの公園のベンチに腰をかけながら。聞こえてくるのはスズメの声だけだ。砂場も遊具もあるから、昼になれば児童が興を添えるのであろうが、今は散歩する人さえ通らない。朝の光が木々の梢を透かしておにぎりを含む私の頬を照らしている。春や秋にかぎらず、夏は額に汗を滲ませながら、冬は寒さに身を縮めながら、私は1年中ここで朝食をしたためるのである。不思議なものだ。外に出るのも億劫がる子供だったはずが、大人になって公園が好きになるとは、いったい何の因果だろう。家と職場の中間の、誰にも煩わされない微妙な距離感の上に安住できるひとときは、私にとって最上の幸福だった。
いつからか、公園にひとりの女性の姿が見えるようになった。出入口のあたりの、植え込みを囲うコンクリートの上に腰を下ろし、足を組み、あたかも「考える人」みたいに頭をやや傾げながら、スマホを覗き込むように見ている。ベンチに座る私の位置からは、対角線上に進んで30メートルくらいは距離があるだろうか。顔は判然としないけれども、ショートカットで、すらっとしたきれいな身なりをしている。歳は私よりもいくらか上だろう。おにぎりを食べ終わった私は、職場へ向けて公園を後にするのであるが、その際、かならず女性の前を通ることになる。女性は相変わらずスマホを覗き込んだまま通行人の存在には無頓着である。私が家で熱中するのとはちがって、彼女のスマホへの接し方はどこかしら優雅で、気品があり、悠々とした感がある。当時シェイクスピアの作品を読んでいた私は、いつしか心の中で勝手に彼女を「ジュリエット」と呼ぶようになった。
ジュリエットは、来る日も来る日も同じ姿勢をしていた。服装も、もちろん日毎に異なるとはいえ、上品で垢抜けたところは、いつだって全然変らなかった。そして常に私には一瞥もくれなかった。おにぎりを食べながら、横目でちらと様子をうかがうと、昨日の光景と寸分も異ならない。前を通ろうとすると、心もち身体に力が入るものの、ジュリエットのほうは我関せずといった風で未だスマホを覗き込んでいる。私が春夏秋冬おにぎりを頬張るのと同じように、彼女も季節の別なく自らを貫くのである。ただひとつ異なるのは、私ひとりだけが、彼女に勝手に名前をつけ(まさか彼女は私を「ロミオ」と呼んではいまい)、家や職場からの逃げ場となっている公園に突然現れた女性を、妙な存在として気にせずにはいられなかった所だ。
幼い頃から、友達と遊ぶのも気が進まず、家庭の中にも居場所がないと感じがちな、さびしい少年だった。勉強はできないし、かけっこをしてもビリが定位置。学校に好きな女の子ができても、ばれないように取り繕うのに必死で、感情を表すのを恐れるばかり。そのまま体だけが大きくなり、大人と呼ばれるようになった。ひとりぼっちの自分が見つけた幸福の空間に、見知らぬ人が入り込んで来て、今、どうして嫌な気持がしないのだろう。ひとりで遊んでいるところに友達が来ただけで逃げてしまうような子供だったのに。私はやはり大人になったのだろうか? 考えれば考えるほど、むず痒い気がして、やりきれなくなる。この感情が一体何なのか、自分にもよく分からない。くだらないと思って何もかも打ち消そうとするけれど、朝日の下の残像が瞼のうらに貼り付いて離れない。しかも彼女は微動だにせずあそこに座っている。雨の日も晴れの日も、世の中がどのように移ろおうとも、ここだけは同じ時間が流れていた。ふたりの男女がそれぞれの世界に住みながら、公園という場所だけ共有している、夢の中のようなおぼろげな時間が。
私がその公園を最後に訪れたのは、退職した日であった。冬用のコートを着たジュリエットは、寒さも忘れてしまったみたいに、その日もいつもと変らずスマホに夢中になっているようだった。が、おにぎりを食べ終わり、いよいよ出勤しようと出口を抜ける間際、彼女の頭がほんのすこしだけ上がって、こちらを見たような気がした。馬鹿馬鹿しい。気のせいに決まっている。もう会うことはないと悟った私の感傷が起こした錯覚というものだろう。でも、当時の私には彼女の視線が重たく突き刺さるように感じられてならなかった。あの一瞬間が長い年月を経た今になってもよみがえる。私の生活はあれから少しも変っていない。休みの日は、掃除洗濯料理に、それから不安に苛まれながらスマホをいじるだけ。スズメの声と、朝の光と、おにぎりと、ジュリエットと。——遠く過去の記憶のなかへ去っていくあの日常が、時々私には恋しくてたまらなくなる。
当時ネットで話題になっていたのは知っていたものの読んだことはなかった。
しかし今現在ジャンププラスで全話無料で公開しているので読んでみたわけだ。
すみませんでした!!!当時ネットで話題になってたのは悪い意味でだとばかり思っていて、だから勝手につまらない作品だと思ってました!!!!
でも実際には大変すばらしい作品だったんで、ここにその感想を述べようと思う。
ネタバレ含むので、未読の方は読まない方が吉。
最初、というか一話目からいきなり首吊り描写という衝撃展開で、その後はまさかループものとは…。
というか、この時点でのループが実はキーで、後の伏線、実はまりなちゃんのためにタイムリープしていたとは…!というのは視点によって善悪は異なるものだよといったメッセージ性をより強調、分かり易いものにしていて非常に良い構成だった。
タコピーの”原罪”とは、”誰もが幸せになれる”と思い込んでいることである。
現代はSNSの台頭により、マイノリティの意見を今までのどの時代よりも拾いやすい状況だといえる。
私たちは多種多様な人々の意見を聞くことが出来、最適な社会を形成できるであろうと考えるかもしれない。
でもそれは無理なんだ。何故なら資源は有限であり、幸せもまた有限なのだから。
そして、この作品はそれを教えてくれる。
幸せは、有限だ。
でも私たちは、誰しもが幸福になれるであろうという夢を、無限の資源を夢見てしまう。
それは無理なんだよ。決して叶わない。
タコピーの原罪は、我々現代人にとっての原罪でもあるのだから。
そのことを、この作品は教えてくれた。
非常に素晴らしい作品なので、未読の方は読んでみても損はないと思う。