はてなキーワード: 絶対的とは
「実際には、出生数および死亡数だけでなく、家族の絶対的大きさも、労賃の高さに、すなわち労働者のさまざまな分類が自由に処分できる生活諸手段の総量に、反比例する。資本主義社会のこの法則は、未開の人々のあいだでは、または文明化した植民地住民のあいだでさえ、不合理なものに聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱く、絶えず駆り立てられる動物種がたくさん子供を生むことを思い起こさせる。」マルクス
このマルクスが発見した(結構いろんな人が発見している)法則を、現在に適用する時に、
資本主義のピラミッドの底辺と思われる国々(東南アジア、アフリカ)では、人口は増えています。
ChatGPTの日本のネット史に関する知識については、いくつかの点を考慮する必要があります:
知識の範囲: ChatGPTは大量のデータで学習していますが、特定の地域や分野の詳細な歴史については限界がある可能性があります。
最新情報の制限: ChatGPTの知識には時間的な制限があり、最新の出来事や変化を反映していない可能性があります。
誤りの可能性: AIモデルは100%正確ではなく、誤った情報を生成する可能性があります。
言語による差異: 英語で学習したデータが多い可能性があり、日本語の情報や日本固有の文脈について十分な理解が及ばない場合があります。
比較の難しさ: ChatGPTの知識レベルを人間の専門家と直接比較するのは難しく、「明るくない」という評価は主観的である可能性があります。
したがって、ChatGPTが日本のネット史に「明るくない」という意見は、ある程度の根拠がある可能性はありますが、絶対的な評価ではありません。ChatGPTの回答の正確性は、質問の内容や具体性によって変わる可能性があります。重要な情報や専門的な内容については、常に信頼できる情報源で確認することが賢明です。
ゆざいちょがmixiに登場した2006年から、1年~2年ほどが過ぎた2007年~2008年頃
ゆざいちょのマイミク数は700人を越えていた。
中には、何度もマイミク申請のメッセージ(合丼来来(あいどんらいき)伝・2参照)を送られて
仕方なくマイミクになった人も居たという。
そんな中、ネットwatch板の「ゆざいちょ」をwatchするスレで、ある提案が為された。
その提案とは、ゆざいちょのマイミクに水面下でメッセージを送り、タイミングを合わせて
同時にゆざいちょとのマイミクを切ってもらうという作戦を行うという提案だった。
ネットwatch板はwatch対象へのお触りは原則禁止となっているので板のルールに反する話では有ったが
「ゆざいちょ」をwatchするスレを見ていた人達の中にもゆざいちょとマイミクになっている人は
存在していたため、メッセージを送られた人の6~7割が賛同の反応を示すという
面白い展開になっていた。
なお、この時賛同の意を示した人の中には、当時ゆざいちょとコミケの時などに一緒に行動する程度に
リアルに付き合いがある人物もいた。
この、当時ゆざいちょとリアルに付き合った人物がこの提案に乗った際に、
ゆざいちょ君とは、コミケの時などに一緒に行動しているのですが、
彼の「人の話を聞かない性格」「他者に対する見下し癖」には正直困っていました。
彼は他人と意見が衝突すると常に「自分の意見が絶対的に正しい」
「自分の意見に賛同しない者は敵だ」という様な行動を取る傾向が有り、
私達は彼と知り合ってまだ3~4年ほどなのですが、彼との今後の付き合いについて
付き合いを絶つ事も考えています。
彼に痛い目を見せて、少し行動などについて考え直してもらいたいので提案に乗らせて頂きます。
と返信してきていたそうだ。
しかし、3割ほどはそういう流れに反対する人もいた訳で、その3割の中から
「こういうことされてるよ」とゆざいちょに密告する人も居た様で、この提案を決行しようとしていた決行日の数日前に、
ゆざいちょは「ゆざいちょ」をwatchするスレに乗り込んでスレ住民達に文句を言い、スレ住民達から批判を浴び、
「もういい、俺がmixiから消えれば良いんだろ?」
と捨て台詞を残してスレを去り、mixiのアカウントを削除した。
こうしてmixiに一つの平和が訪れた…かに見えた。
しかし、mixiのアカウントを削除したゆざいちょは、その後活動の場をTwitterに移して
Twitterで同様にアフィリエイトブログの宣伝を行い始めた。
私が実際にゆざいちょについて関わったのはここまでで、ここから先は、この後に
ゆざいちょと関わった人から聞いた話を整理した話となる。
【続きは後日】
生成AIを使うのをやめる
・二次創作をやめる
軍事産業にはそれでも人の命を守る価値があるがAIが守れるものはなにもない。
純粋に殺すためだけのプロダクトを開発、研究する人間は殺人者と同じである。
・トレパク警察をやめる
絵柄や作風はクリエイターの絶対的で不可侵な権利でありいかなる侵害も許されない。
以上
定性的な評価において付与された数値はその序列だけが問題であって、値の大きさそのものには何ら意味がない。
的な話を聞いて、そうかもと思った。
思ったんだけど、じゃあ例えば4.0の点数をつけた映画は常に3.0の作品よりも絶対的な優位に置かれるんだろうか。
じゃんけんみたくAよりもBが好きだし、BよりもCが好きだけど、CよりはAの方が好き、という複雑な関係性だってあるかもしれない。果たして序列を単純化して表せるんだろうか。
それに、0.1刻みの50段階で評価出来たとして、じゃあその50段階をフルに使う人間ってのはどれくらいいるんだろうか。
せいぜい2.5辺りから4.8辺りまでしか使わない人も少なくはないんじゃなかろうか。序列をつけるにあたって、50本を観てその全てが別の段階に収まるという事もあまりなさそうに思える。
そもそもが自分次第でどうとでも設定出来る基準で曖昧な評価をつけているのだし、なんとな〜く同じくらいの好みの度合いかな〜と感じて同じ数値を与える事だってあると思う。
不快/つまらん/普通/面白い/神くらいの五段階になんとな〜く分類して、そこから朧気に浮かんできた数字を直感的に選んでみて、その点数が基準として相対的な位置づけを探ることもあるかもしれない。某漫才大会でも「基準点」って言葉はしょっちゅう出てくる。
50段階の内で正味30段階ほどしか使わないのなら、0.1から始めたっていいし2.0からでもいい。序列の全てを等間隔にしているとも限らない。
そこの数字の選び方にはやっぱり何らかの意図が反映されてるような気もする。
尺度の使い方も明確じゃなければ尺度そのものの妥当性だって分かりはしないような状態で数字を与える評価をするのはナンセンスではあるんだけども、序列だけの問題ではないのかもしれない。
まず、相手の意見を尊重し、前提条件を無視しているわけではないことを明確にします。以下に詳しく説明します。
1:「一理ある」という前提について:
確かに「一理ある」という前提で始められた主張を無視したわけではありません。しかし、「一理ある」と認めた上でも、その論理に誤りや不備があれば指摘するのは議論の一環です。春画が黒人奴隷制度の有無を示す「証拠」になるか、「補強材料」になるかの区別をしつつ、その有効性を論じています。
絶対的な証拠を求めているわけではありません。歴史的な議論では、証拠の質と量に基づいて推論を行うことが重要です。春画が黒人奴隷制度の有無を示す有力な証拠となるためには、春画が当時の社会全体をどの程度反映しているかを評価する必要があります。その評価がなされないまま、春画に黒人奴隷が描かれていないことをもって制度の存在を否定するのは早計です。
3:前提条件を無視しているとの指摘について:
前提条件を無視しているわけではなく、その前提に基づいて議論を進めています。相手の主張が「春画が黒人奴隷制度の有無を示す補強材料になる」というものであるならば、その補強材料としての妥当性を評価するのが目的です。その評価に基づいて、春画が黒人奴隷制度の存在を否定するには不十分であることを指摘しています。
私の主張も絶対的なものではなく、歴史的な証拠や文献に基づいた推論です。議論の目的は、双方の視点を持ち寄り、より正確な理解に達することです。そのためには、お互いの意見を尊重しつつ、論理的に妥当な反論を行うことが必要です。
「春画が黒人奴隷制度がなかった証拠になるという説は一理あるんだよ」と、
あなたは自分の正しさばかりを主張して、こちらの前提条件を無視しているということを流しています
歴史に限らず何でも(マジで何でも)そうなんだけど、「鎌倉幕府成立年」という絶対的な正解がどこかにあってそれを当てにいくとか勝ち取りに行くゲームじゃない。
「**をもって鎌倉幕府の成立と考える」の「**をもって」のところが重要なんだよ。何が起こっていたのかを理解するということだ。
それを無視して「鎌倉幕府成立年を当てに行く/勝ち取りに行くゲーム」だと思ってるとしたら、それは学問じゃなくて競技。
なら弱者男性の本音は「どうすれば僕たちを認めてくれるか教えて下さい」だったってコトォ?
「弱者男性は女のいないところで幸せになってください」が言われてたときにも思ったことだがな。
…
「弱者男性は女のいないところで幸せになってください」が言われてたときにも思ったことだがな。
人間は高度な社会性機能を備えた生き物であって、性感開発して自己フィードバックで幸福ホルモンを自由に分泌できるようになったとしても、それに憧れる人はいない。
独りよがりの幸福を達成にするには、自分の社会性をセルフで殺すことが必要不可欠だからだ。
マリオをクリアすれば友だちに自慢できるし、恋人と水族館デートすれば恋人が喜んでくれる、結婚につながれば周りも祝福してくれる。このような承認欲求こそが幸福と、ひいてはそのバーチャル・シミュレーションであるゲームのゲーム性の根幹なのだよ。マインクラフトで平原をすべて畑に変えれば誰かが「すごい」と驚いてくれる。ツリー元の文脈で言うと、真に面白いカードゲームとは、自慢できるカード、局面、戦略を備えたルールとカードセットのことであるといえよう。
朝食: コーヒー
昼食: スパイシーモス, ポテト, はちみつレモン入りジンジャエール
文庫サイズの聖書がほしいと思ったが、文語訳しかなかったのでしかたなくそれを購入
私の設定したなんちゃって安息日の日には、デジタルは使いたくはなかったが、今まで読んでいたKindle版の無料聖書を土曜日に読んだほうがよさそうだ
なぜ聖書に惹かれるのか、それは私が「相対主義」というものに対する疑念を持っていることにも関係する
善悪の問題が「どの倫理観が好きであるか」という好みの問題だけに帰着されることに対する懸念である
多神教は「それにまつわるものとしてあの神がおり、あれにまつわるものとしてその神がおる」といった都合のいい価値観を代弁しているように見える
「何を信じるかは人それぞれ」といっていろいろなものを偶像崇拝するのが本当に人間社会にとって有益なのかと疑問なのだ
聖書ではノアの法という絶対的倫理基準を採用しているが、これ自体は狂信的なものではない
世界で最も読まれている本が聖書だというのだから、単に教養としても良いだろう
読んで何かしら行動として実践することが重要だと思っているので、「信じる者は救われる」といった態度は取りたくはない
ビックバンセオリーのシェルドンが言うには、有名な学者の数々がユダヤ教徒であるために、キリスト教よりも魅力がある、という側面もあるが、非ユダヤ人であるシェルドンや私はノアの法さえ守っていればよいはずだ
というのも、箴言にはSNS時代に通ずる考えがズバリ書かれており、その道徳性に驚愕したからだ
その感覚でトーラーを見るとちょっとズレているかもしれないが、ラジエルの本にも「真の知恵はトーラーにしか存在しない」と書かれていた気がするので、より興味を持ったのである
知識が生み出したのは残念ながらICBMである、それに対し、知恵が生み出したものはタルムードとトーラーであると言えるのではないだろうか
BNA ビー・エヌ・エー
ゾンビランドサガ 1期
アニメーションのクセは思ったほどなくて、OPラストだけ苦手だったけどOPのほかの部分は大好き。
「少し泣く」ってこの漫画だったのか!と、いいシーンなのに笑ってしまってカナシス。
私は老人・師匠キャラの同窓会展開が好きなので、3人が会する場面が一番好きかも。ポセイドンも悪イメージずっと付かなかったね。まあずっと高校の質が下がってると繰り返し言われ続けてて同情票集まったし。デビル拾う器量が質の低下から来るものかもってのも物悲しい話です…。デビル、よかったよ。こっちも短期間でえらいことになってます。
アニメもキャラも話も面白かったけど、根本的にこの手のお話って苦手なんですよね。この作品ってもの凄い才能があるけどそこそこ卓球が上手いでとどまっていた二人(それも親友!)が本気で努力したら超短期間で最強になるってお話じゃないっすか。年一大会・高校生ってそういう短期間にしなきゃいけないんだけど、それでもやりすぎだよなぁと思っちゃってキャラ愛の障害になる。似た作品ですきなのがはねバド!。あれもピンポンみたいにほぼ急に主人公最強になるから、作品は好きだけど主人公はそんなに…みたいな玉に瑕な評価に落ち着いちゃうのだ。キャラならやはりドラゴンも捨てがたいがオババの息子が一番になるか?
あとOPのような高まった後の二人が喋ったり入場するシーン欲しかった。
今石と吉成曜のネームバリューだけで見ちゃう作品。しかも色彩がいいよね!
んー…。面白かったよ。
アニメーションはグリグリ動くよりはメリハリと嘘で躍動感重視な感じ。トリガーみてんなぁーって気分。ちゃんと見た作品ないけど。
人並の能力プラスアルファで獣の能力といった人の上位互換みたいな獣人が居て太古からひっそり共存してたけど人口の差か現代でもめっちゃ被差別側に追いやられている、なんか変な世界。
そんな獣人のユートピアといわれる特区が舞台なんだけど…、ユートピアの理由は「獣人しか居ないから」。
…うーん…。それ、ユートピアじゃなくて隔離なんじゃね?人と獣人がちゃんと共存してこそユートピアじゃね?文明の発達で生存圏が入り混じったけど、動物園は動物だけだよって。言葉を選んで自然保護区と言い換えてもいいけどそれユートピアかなぁ。
都市も獣人ならではの構造にはなってなくて、ほぼ普通の人間用都市。ビースターズやズートピアの後に見るとガッカリするよね。そもそも獣人の姿になるのは威嚇に等しいと、みんな普段は人の姿で過ごしているから最初の祭りのとき以外、「獣人の街」感は皆無。
ユートピアの負の面も描きたいからか、話は基本、街の暗部ばっかり。ギャングに貧民、窃盗、賭博に宗教。先述の要素もあり良いところがほとんど描かれないから、美点が人(がいないから)に差別されないしかない。(ネットも規制されてるし)
よって獣人にとって大切な街、守るべき街みたいな根本のスタンスを共有できなくて、価値を感じない。人界の差別…もそこそこひどいんだけど、今も相当数獣人も暮らしてるわけだし…そっちでみんなでガンバったほうがよくない?とポリコレが進んだ現代視点で見ると思っちゃう。結局、人が居ない舞台設定にしたいだけの雑な設定に感じられて、獣人アニメとしてはそうとうガッカリだった。(さらにいうとほぼ主人公の人間視点・異文化の来訪者視点が欲しかったからだけの両種が居る設定に感じられた。世界は獣人オンリーでいいよ別に。)
話は結構好きだったよ。男女探偵バディものっぽい雰囲気でよかったし、「俺は間違わない」のカウンターにグッときたし。そういえば終盤のラスボスへのセリフは「すべての獣人は俺が守る」って感じの初期セリフを被せてくれたら皮肉にもなってなおよかったなぁ。これならなおよかった点は主人公のラストもかな。あえて街に留まる選択をしたわけだけど、ラストにSNSの誕生日おめでとう投稿にいいねするとか(中盤迷って押さなかった)、人間界に存在を知らせる感じで終われば、なお選んでここで暮らす感が出たと思う。唐突に獣人化して引きこもって密航して…って背景があるから、どうしても失踪した人の家族や友人目線を考えるとね…。こっちにきた親友のナズナだけが人間界の繋がりじゃないんだからなぁ。(私の獣人街の価値が低すぎて描写が無い家族の方が大事に感じてしまう)
あとこれも微マイナスなんだけど、本編内容にED曲が絡むんだけど、こういうパターンて曲がハマらないと話にも減点しちゃうのよね。曲が好きになれたら加点だけど。二人のあのキャラであの披露場面であの曲調を好きだったり選ぶのは微妙、かな。曲単体で嫌いってほどでないし。毎回ED見てたし。
話のオススメは野球回です。ゲストキャラの声優の演技のおかげで一番好き。絵は繰り返し多めだけど、聞いてるだけで楽しい。
1話15分で脱落。
ごめん、自分はこのキャラデザの目と口から感情を読み取ることができなかった。ずっと人形が喋ってるみたいで驚くぐらい感情がノらなかった……。
どちゃくそ面白かった。いや萌えアニメっぽいし期待値ゼロで見たんだけど、まさかこんな作品だったとは。
OP時点で3Dに驚いた。そして作中でもクオリティそのままですごい、本当にすごい3Dアクションを見せられて、本当にテレビシリーズでこれ見ていいの!?と不安になったぐらい。大満足。こういうアニメーションが見たかったんだよ。日常パートは、最初の干支言えない天丼やまたアキバかよみたいなのをグッとガマンしてもらえれば。そういうのはすぐ消えて、ハイテンポで止まらないスピード感のたたみかけで脳をやられた(デスデスだけは最後までガマンしてくれ)。やっぱ1、2話はこういう強いつかみが大事だよなと痛感した。メタネタ好きですし。中盤は流石に多少落ち着いて進行したけど、総集編すら楽しく見れた構成はよかったし、どうみても捨てキャラに見えた犬猿(猪)に作中で言及したときはコイツぁ信頼できるぜと思いました。
減点なところもあるんすよ。男人間やソルラル設定とか形骸化してるなーとか、人間界に集まってる部分ほぼ要らないなーとかの単純な人間非介入ほんわか干支争奪バトル話でよくない?だとか、ドラたんは覚悟してたけどピヨたん回ほぼ蚊帳の外の将棋回じゃん!(泣)とか。
にゃ~たんの「記憶喪失によるキャラ探し」も最初だけで、ほぼチュウたんのための逆算だよな。とか。
でも2Dの会話劇と3Dのアクション両方で高得点だされたら満点超えるよね。
モ~たんもそんな好きなキャラじゃなかったのに終盤の短い尺でめちゃくちゃキャラが深まる話ぶっこんだりで大幅加点に転じました。
あとはにゃ~たんの記憶喪失がねぇ。元々、飄々かつ深謀遠慮っぽい性格みたいだったから、フジリューの太公望と伏義みたいな記憶喪失後のふざけたキャラ込みの二面性があればよかったよねぇ。せめて衣装チェンジが欲しかった。昔の巫女風な服みたいな。デタッチドスリーブだけでも追加してくれれば…!
音楽もOPのイントロ、ED大好き。ソルラルチャージバンクもよかったにゃす。(EDのようにちょっとでもいいから毎回変化があると心のゴローさんが喜ぶんだよね)
聞いてね。
半分?12話ぐらいで脱落。
いい点。女の子が可愛い。褐色ワンピ可愛い。魔法ハッカー少女ロジカルかわいい。突然現れるランドセル少女で視聴決定(しかし以後出ない)。敵のエロさは…私、エロはわりとどうでもいい。
悪い点。ロボが活躍しない。
序盤はよかったんですよ。合体バンクがケレン味あって満足度ド高いし(毎回ロケット飛ばすの!?)。説明無し専門用語のラッシュも嫌いじゃないし。しかしいかんせんメインロボが出ない…そもそも設定がかなり迂遠…。
…Uターンしたら成功!と地方の人口維持みたいな目標設定なの。謎。宇宙人が敵じゃねーのかよ(宇宙人だけど)。
で、初期は唐突に手順2から始まって人類は監視して迎撃するんだけど(ファーストコンタクトは主人公の父親のロケット特攻で撃退できる弱さ)、以後はなぜかチャージ装置と小型ロボットが一体になって、手順1を戦いながらチャージするようになる。なので地上で制限時間までに敵を倒せ!に変わる。
主人公も巨大ロボのコアの小型ロボで戦うからかなりスケールダウンするわね。しかもチャージできちゃったら地上で戦ってた主人公は宇宙に行くのに間に合わないから…。実質地上戦が運命の分かれ道。一応2号ロボとかでカバーな話にはなるんだけど…。
毎回ガオガイガーがガイガーで戦って時間がかかったらファイナルフュージョンもせず敗北。みたいな。それって見たいか?
それを敵が敵幹部の覚醒のためにまず5回繰り返すことが確定する。5回は多いて…。しかも一人一話かと思ってたら一話で収まらなかったりで…ギブアップです。
地球に来たら即敗北の敵に一応、世界各国で防衛網は敷いてるものの…
日本の
種子島の
アースエンジンは地球製なの!?動力源は主人公が偶然手に入れた銃でしょ!?主人公が撃つまで動力源無しの置物だったの!?ヒロインの銃は撃たなかったんでしょ!?なんでそんなもんつくってんだよ!?
しかも弱いしさぁ!ガンガン格闘するような機体でもないですって!?
…うん、ダイガードでも見るかぁ。
しかも序盤にいい年した男女の恋愛駆け引きのやりとりを敵・味方2組でやるという謎采配。脚本がなにを考えているのかまったくわからない。
主人公も「久しぶりにあった友人にブーメランみせたろ!」っちゅう、17歳の高2にしてはちょ~と幼すぎるキャラで、全員中学生設定でよかったよ。無知ヒロインも魔法少女も中学生が適正だって。エヴァと交換しよ?
ED曲はめちゃくちゃいいんで。聞いて。後半変わるらしいしここで切ったのは正解か。
またボンズかぁ……………………。
これも色使いが気になった作品。
完走したけど、正直、視聴赤点を0.001点上回った作品。毎回「打ち切るか…」と思いながら見てた。
魔法・妖怪・超能力・ロボなどなどなど、常人を上回る力をもったものを超人と総称した戦後昭和な世界で、今と数年後の未来の場面を平行しつつオムニバスで毎話いろんな超人の話をする。
ボンズ作品なので、OP最後のような主人公の活躍を期待してはいけない。
超人になったからには・超人の力でなにをなすか。そんなテーマと向き合った各話の出来は、正直、よい。けっこうよい。基本は思想のぶつかり合いなので真面目にみてないとかなりわからなかったりするけど、様々なジャンルの超人が活躍するエピソードは面白くできていると思う。だから、余裕で視聴できる。
そんな各話横の出来はいいのだが、それらを貫く縦の物語、「超人課」に関してはうーむ…。やや停滞感が強い。エピソードと変化が弱い。
主人公は超人保護の意識が高く、(一応)普通の人間ポジション。
なのだが、熱血漢はわかるものの、それにしても口調が強い。結構強硬派な言動に感じる。
それでいて超人保護の実績・活躍はというと、それほどは芳しくない。あんまり上手くいかない。
頭脳・知識にしても親や上司世代が勝っているし、駆るロボは同僚の未来人が作ってあげたもの。腕の謎の力は解放したら家族同然の人に封印してもらわなくちゃならず、それら抜きでも普段の行動からかなり人を頼り(使い)気味。
環境に無自覚に甘えていて態度は強気、みたいに写ってしまう部分が多少ある。なんと表現すればよいやら。
適切ではないかもしれないが「THE末っ子」みたいな?ちょっと高慢にも見える態度のでかさだけど彼の地盤ってほぼ志だけで頼りにできるキャラじゃあない。
結局、終始主人公を好きになれなかったという話さね。
主人公が超人課を抜ける未来についてもビジュアル変化が薄いからぼんやりしてるとどっちの話?と偶になったり。一応敵対してるけど各キャラそこそこ普通に喋ったりと絶対的決別じゃなさそうだったりでフックなりえなかった。分割2クール前提のせいか1期範囲でいい感じにまとまるわけでもなく、あぁ、飛び出したけど結局仲間集めで頼り先作ってんなと覚めた感じになっちゃった。
魔法少女やアースちゃん好き。ジャガーさん好き。笑美さんすき。全体を通してやりたいことも多分わかる。各超人のお話も面白い。なーのーに、赤点ギリギリ。超低空飛行。なんだろうかあえて言えば、「全体を通してやりたいことも多分わかる。しかし面白くはなさそう」かな。興味の部分への刺激が低い作品だった。
色彩についても特徴的ではあるが昭和モチーフのせいか薄暗い世界が続くので強い魅力にもならなかったみたい。
曲は…特に無し。EDだけ笑美さんの動きのためだけに毎話見た。
宮野真守だけでおつりが来る!!!!!!(宮野真守と三石琴乃の鳴き真似だけで満腹じゃい!!)
だからこんなパンチを1話から繰り出してくれると見ちゃうんだよね。
非常に面白かったです。
ゾンビ要素・アイドル要素、はぁ、特に加点もないけど、キャラとシナリオがよければよいのだ。
いや主人公のさくらちゃんよかったですね。方言よかったですね。初期のどやんす流されなんとか牽引する姿にグッときて好きになりましたね。最終回は思わず泣いちゃいましたね。受験に落ちた後の悟りさくらちゃんが一番好きです。
アイドルアニメは別に好きじゃないけど、彼女がもろもろ頑張るのを見るアニメとして視聴しました。もちろん主人公を活かす他のキャラの味付けも(ゆうぎりさん以外)よかったからです。(ゆうぎりさん以外)
…全体的によかったら特に書くこともなくなる。
たえちゃんもよかったね。会話中とかダンス中とか、絵が退屈・予想の範疇になりそうなときはたえちゃん見とけばとりあえず普通と違う動きが見れるので退屈しないですね。あれでいて練習もよく頑張ってたりほんわかしますね。
ヤンキーがリーダーになるのはびっくりしたけど、驚くほど邪魔にならずテンポを阻害せず進行したし、リリィは明るく不穏不満分子集団のいいアクセントだったしアイドル二人は普通にアイドルものしてたし。じゅんこのほうがやや好き。
曲。OP。SEが入るOPは問答無用で勝利なんすよ。「んみゃく」これ聞いて。さいつよ。しかもSE増えるとかたまんねぇ。それぞれのキャラが協調性なく好き勝手に歌ってる感じでよき。
作中のライブや曲は…マジメに見てないので特に無いかな。CMソングが一番好き。最初にライブで3Dになったときはそういうアイドルアニメをメタったネタかと笑ったんだけど、後からも普通にアイドルして3Dしててそこはごめんなさいしないといけない。
統計データや傾向調査の結果として、「Aの集団にはBという傾向があることがわかった」という報告があったとする。
これに対して、「私はAだけどBじゃないよ」とか「AだけどBじゃない人を知っているよ」といった意見を述べて、
まず、統計というのは個々の例外を探すためのものではなく、集団全体の傾向を把握するためのものだ。
例外が存在するのは当然のことで、それは統計の信頼性を損なうものではない。
統計の結果に「私は違うからそのデータは間違っている」という主張をするのは、
例えば、「喫煙者には肺がんのリスクが高い」という統計データに対して、
「喫煙者の友人がたくさんいるけど、誰も肺がんになっていない」といった反論をする人がいる。
しかし、これらの意見は個別の例外を引き合いに出して全体の傾向を否定しようとしているだけで、
また、統計データは多くのサンプルから導き出されるものであり、個々のケースをすべて網羅することはできない。
それにも関わらず、特定の例外を引き合いに出して全体の傾向を否定するのは、データの読み方として極めてナイーブだ。
自分がその例外であることを誇るのは勝手だが、それでデータの有効性を否定するのは誤りだ。
さらに、統計的な傾向はあくまで「傾向」であって、「絶対的な事実」ではない。
だからこそ、統計データは「全員がこうだ」と言っているわけではなく、「多くの人がこうだ」という話をしているに過ぎない。
自分や知り合いがその傾向に当てはまらないからといって、そのデータ自体を無意味にすることはできない。
統計や傾向を示すデータに対して無意味な個別例を持ち出して否定するのは、単なる自己満足に過ぎない。
バージョン1、主体性をもって週4でヒレステーキを出してくる妻
https://anond.hatelabo.jp/20240715162127
これだと対称性がイマイチな気がしたので、「主体性をもって週4ヒレステーキを却下する妻」バージョンを作ってみたお
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夫が食べたいと言うからだ
近所の肉屋で買ってきたちょっと良い肉でとても美味しいけど、段々嫌になってきた
決して飽きたというわけではない。しかし何かしらの違和感を感じるのだ。
今の日本の社会通念に照らし合わせても、何か普通ではないと感じる。
いや、社会通念とか「普通」とか、そんな定義が難しいもののことはどうでも良い。
ただ私がこれまで生きてきた中で培った価値観にそぐわないのだ。
私がこれまで日本で生きてきた中では、食事はバランスが大事との情報が大半であり、私はそれを内面化してきた。
また昨今では、科学的に証明された食事として地中海式が推奨されていて、そこでは赤身肉の摂取は少量が好ましいとされている。
ただこれも絶対的なものではない。昔のイヌイットは野菜を食べず、ほとんど生肉だけの食生活を送っていたらしい。なのでどのような食事が最適かは環境や条件に依存するものであり、絶対的なものではない。先の地中海式にしたって、アジア人に当てはめた場合は若干異なる可能性もある。この先地球の気候変動が更に進み、テクノロジーも今と異なり、私たちはまったく異なった住環境に生きているかもしれない。そうなった場合、地中海式ではない〇〇式が最適とされる世界になっているかもしれない。
そうなのだ。すべては相対的で、突き詰めれば突き詰めるほど、普通も絶対もないのだ。
またこの地中海式云々に関しても、健康に焦点をあてた場合の話であって、味やその他の事柄に価値を置いた場合、話は異なってくる。夫においては味やそのときの気分が優先されるのであろうし、腸内環境が昔のイヌイットと同じという可能性も排除できない。
一方私においては、味も健康も総合し「週4でヘレステーキは何かがおかしい」という感覚値が出力されているように思う。
ともあれ私は、私が感じる違和感、あるいは感覚値において、「週4でヘレステーキはありえない」と結論づけ、それを握りしめて夫と交渉にあたるしかないのである。
しかし夫の決めた献立に私が口を挟むと「もういい、もういい」という感じでまともに取り合ってくれずに怒る。
「もういい」の中身はまったくもって不明だ。「もういい」に具体性は1ミリもない。
私は先のように、「週4ヘレステーキ」への違和感という感覚的なものを、最大限言語化する努力をした。食事という夫婦の共同作業にあたって、夫側も同じ努力をするべきではなかろうか。
しかしここにおいても個人の自由がある。何に価値をおき、何を優先し、何を選択するかは自由である。「もういい、もういい」と言語化を放棄し感情的になる自由を(共に生活する身としては不快は拭えないが)、私は彼から奪わずにいようと思う。
そのかわり私にもふわふわした言葉で、匿名掲示板に週4ヘレステーキへの違和感の理由を明確に言語化することなく垂れ流す自由くらいはあるであろうし、それを読んだ誰かが不快になる自由もあるであろう。
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「何が真理であるかは人それぞれ」「何が真理であるかは社会が決める」といった思想。
この思想体系は相対主義や社会構築主義と呼ばれ、現代社会において特に顕著になっている。その主な理由は以下:
1. 情報化社会の進展:
さまざまな考え方や情報に容易にアクセスできる現代社会では、「絶対的な真理などない」という考えに陥りやすくなっている。多様な価値観や文化に触れることで、真理の相対性を感じやすくなっている。
2. 思考停止の誘因:
「人それぞれ」という考え方は、一見柔軟で視野の広い思考のように見えるが、実際には真理を追求する意欲を失わせ、思考停止に陥らせる。これにより、深く考えることを放棄し、安易に相対主義的な立場を取る傾向が強まっている。
多数決を重視する民主主義社会では、個々の価値観や信念が尊重される。しかし、これが行き過ぎると、絶対的な正しさを追求する姿勢が弱まり、相対主義的な考え方が広まりやすくなる。
近代の機械的な思考様式は、物事を単純化して捉える傾向がある。これにより、精神的・道徳的な価値の相対化が進み、真理の絶対性を疑問視する風潮が強まっている。
5. 娯楽文化の浸透:
現代社会では娯楽が生活の重要な一部となっている。これにより、単一の真理や価値観に縛られない多元的な生き方が受け入れられやすくなっている。
ヤスパースなどの哲学者が提唱した実存的真理の概念は、真理が個人の存在と不可分であるという考えを広めた。これにより、「私の真理」という個人主義的な真理観が強まっている]。
この相対主義的な考え方が堕落に繋がる具体的な例としては、以下のようなものが挙げられる:
「人それぞれだから」という考えが、深く考えることを放棄させ、適当な判断や行動を正当化してしまう。例えば、重要な社会問題に対して「考え方は人それぞれだから」と言って議論を避け、自分の責任を放棄してしまうケースがある。
民主主義社会では、多様な意見をぶつけ合って議論することが重要。しかし、「正しさは人それぞれ」という考えが強まると、建設的な議論が行われず、投票が単なる好き嫌いの表明になってしまう可能性がある。
「文化に善悪はない」という極端な文化相対主義は、人権侵害や差別的慣習を正当化する口実になりかねない。例えば、精神障害者の権利が制限されている社会で「それが文化だから」と言って批判を避けることは、弱者の立場を無視することにつながる。
「真理は相対的」という考えが極端になると、客観的な事実や科学的知見の重要性が軽視され、学問や科学の発展が妨げられる可能性がある。
5. 個人主義の行き過ぎ:
2位じゃだめなのか発言を批判している人達は未だに現実を直視できないでいるが、結論から言えば、それは1位でもだめだった。
今はAIが話題になっているが、その前段階のディープラーニングや、イーサのマイニングの時点でCPUは既に「オンボード」だった。
決められた箱の中で金だけ遣って1位を取っても意味がない。箱を突き破ってでも新しい世界を創造しようという気概がなければ、人を惹きつけることはできない。
先輩方は、自分達が若い頃は体罰に耐えた、パワハラに耐えた、これだけ我慢したのに報われないのは理不尽だ、最近の若者は甘やかされているとのたまうが、
それだけ頑張ったのに報われなかったのなら、やはりそれは何かが間違っていたんだと思う。例えば暴力を振るわれたのなら、なぜ殴り返さなかったんだ?
弱いからか?怖いからか?戦うことから逃げて敗者になったのに、なぜそれが努力したことになるんだ?なぜそれが報われると信じる?
日本人は未だゆりかごの中にいる。日本政府がその価値を保障してくれるという日本円は価値が下がり続けているが、政府の保障も何もないビットコインは上がり続けている。
国民年金があれば老後もなんとかなるだろうと皆が思っているが、支給開始年齢も金額も変幻自在のこの制度は、絶対に破綻しないことにより相当タチが悪くなっている。
国民皆保険は日本が世界に誇る素晴らしい制度だと皆は言うが、税負担は重くなる一方だ。
思い出してほしいが、日本は民主主義の国だ。すべての物事が民主的に決定されるのなら、優秀な政治家なんてものは必要がないはずだ。
もしそんなのが存在するのなら、それは独裁者であり、専制君主であり、絶対的権力者ということになる。
この国のかたちは、ほとんどの国民にとって理想的なものだ。夏休みの宿題は最終日にやればいい。そう思っているから世の中にしっかりと反映されている。
政治家が悪いとか、作戦が悪いとか、色々な言い訳が思い付くだろうが、結局は実力が一番大事だ。怠けた事への報いは、身を以って知るといい。
逆説的だけど、恵まれた環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。
恵まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あんな境遇からとても偉い」になる。
恵まれた人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。
全ては自分の意志次第、の自己責任マンは知らん。自分の思想を客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間を排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分も構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。
基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。
もっと辛い境遇の人がいるから相対的に幸福、が通るならもっと恵まれた人もいるから相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。
いやまあ客観的というか一般的な基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。
でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。
もっと言えば世間の基準や外野の感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。
でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。
そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲームの理屈は置いといて、道徳の話としては。
そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。
こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。
あとなんかジョジョでも幸福は絶対的なものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的なものだ、的な話があった。
環境の幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれる環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。
わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。
そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人の人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。
でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。
マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。
幸せになれない価値観なんか捨てて思考を矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。
新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。
いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママで子供じみてる。
これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。
おれは客観的に恵まれた環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。
内面化された「環境に感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人の感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。
その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。
自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンスを勝手に一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。
まあこんなのも恵まれた人間の思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。
・すげえ!歌手の人が目の前に来た!!
1メートル前に!仕切りとか無しおる!!
ラッキー!でもそこまで熱烈なファンって訳でも無いゆえに「えっえっ嘘嘘、あの憧れのアーティストが目の前に!?」という表情作るの頑張った
生で見るとスタイルええなあ〜
結構華奢な骨格しとるんやなあ
なんかお顔が宮野真守に似てるなあ〜
・「日時の都合が合いかつ2曲はSpotifyでお気に入り曲あり ただバラード系は普通」くらいかつツアー名的に「落ち着いた曲オンリーかな…?」と思ってたけどタイアップ後の激しい曲ラッシュで好きな曲も4フレーズ?位歌ってくれてありがてぇ〜にわかファンでもこんなに惹き込むプロの歌手ってすげえ〜
ってなった ほんま高いのびのびした歌声すご
・ほんまツアー名的に「舞台上にソファとかあって弾き語り半分トーク半分くらいの感じか…?」と思ったけど想像の50倍アクティブだったしソファはなかった
話を聞けば聞くほどオハイソだぞ!
うっかりLINE交換しちゃったけど会話の切り上げ時が判らず若干引かれてLINEスタンプ会話終了されたけどすまんな!悪気はないんや!
・クソ無知にわかファンなのでマダムからアーティストの来歴を教えてもらい曲紹介部分で赤ペン先生状態になった
・「会場のみんな家族」とかそんな感じの言葉が頻出し、清く正しいjrockアーティスト枠を絶対的に外れない安定感…!と思ったら最後の最後に「思想」出てきて少しビビった
みんないい意味で「いい人そうな普通の人」達って感じで逆に全員が「市政の普通の人々のフリをしたアサシンか何か?」と疑いたくなるレベルで普通の人々だった
年齢も20〜60代と広いし舞台上のアーティストに声掛けするのは男性ファンだけだし謎
・ギターの交換回数が…回数が多い…!
20年前の時点で。
だって、投票なんて絶対的に人数が多い年齢層が有利に決まってて、少子高齢化によって公平性なんて保てるだなんて思ってなかったから。
さらに言えば、選挙というシステム自体が旧態然としすぎてて、こんなものインターネットの普及によって簡単にハックされるに違いないという確信があった。
後者に関して言えば今回の都知事選なんてまさにそういった状況に陥ってたわけである意味ではあたってたのだけど、未だに一人一票の投票だなんて馬鹿げたシステムが残るとは本当に思ってなかった。
それよりも意外だったのは、当時、高齢者有利で不公平だと政治に対して不平不満を言っていた身近な人間たちが、今は政治の力を借りて自分たちの立場や業界を守ろうとしていることだった。
滑稽だよ。
あのときはマイノリティだった自分たち世代が、政治によって散々辛酸を嘗めさせられたのに、今度は自分たちを守るために政治に媚を売ってやがる。
未だに当時の政治家が幅を利かせているというのに、いきなり手のひらを返したかのように飼い犬に成り下がる姿はあまりにも残念だったし、政治というのはこうやって誰かの都合のために作られているんだなということを改めて思い知った。
若者に対して「世の中を変えるために選挙に行こう」と大人は言うけど、あれは嘘だよ。
政治家にそうした状況を突きつけて、今の投票というシステムを変えないと。
もしくは若い世代の中で、今の政治というシステムに頼らない互助システムを新たに作り出すくらいの気概がないと、いつまで経っても世代間の票の力でいいように飼い殺されるだけだなって改めて思った。
若い人頑張れ。